社長夫人はずっと離婚を考えていた

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社長夫人はずっと離婚を考えていた

GoodNovel 完結

結婚して七年。藤田智昭(ふじた ともあき)の冷たい態度に、青木玲奈(あおき れな)はずっと笑顔で向き合ってきた。 彼を深く愛していたから。 いつか彼の心を温めることができると信じていたから。 でも、待っていたのは、別の女性への一目惚れと優しい気遣い。 それでも必死に守り続けた結婚生活。 誕生日に海外まで会いに行った日、彼は娘を連れてあの女と過ごし、彼女は一人部屋で待ちぼうけ。 ようやく心が折れた。 自分が育てた娘が他の女性をママと呼ぼうとしても、もう胸は痛まない。 離婚協議書を用意し、親権を放棄。すっぱりと去って、父娘のことは知らないふり。離婚証明書を待つだけ。 家庭を捨て、仕事に没頭した彼女は、かつて誰もが見下していた身でありながら、軽々と何兆円の資産を築き上げた。 でも待てど暮らせど離婚証明書は来ないどころか、以前は家に帰りたがらなかった夫の帰宅が増え、彼女への執着も強まる一方。 離婚の話を聞いた途端、いつもの高慢で冷たい男が彼女を壁際に追い詰めた。 「離婚?そんなことは絶対にありえない!」

チャプター (1)

第1章

結婚して七年。藤田智昭(ふじた ともあき)の冷たい態度に、青木玲奈(あおき れな)はずっと笑顔で向き合ってきた。 彼を深く愛していたから。 いつか彼の心を温めることができると信じていたから。 でも、待っていたのは、別の女性への一目惚れと優しい気遣い。 それでも必死に守り続けた結婚生活。 誕生日に海外まで会いに行った日、彼は娘を連れてあの女と過ごし、彼女は一人部屋で待ちぼうけ。 ようやく心が折れた。 自分が育てた娘が他の女性をママと呼ぼうとしても、もう胸は痛まない。 離婚協議書を用意し、親権を放棄。すっぱりと去って、父娘のことは知らないふり。離婚証明書を待つだけ。 家庭を捨て、仕事に没頭した彼女は、かつて誰もが見下していた身でありながら、軽々と何兆円の資産を築き上げた。 でも待てど暮らせど離婚証明書は来ないどころか、以前は家に帰りたがらなかった夫の帰宅が増え、彼女への執着も強まる一方。 離婚の話を聞いた途端、いつもの高慢で冷たい男が彼女を壁際に追い詰めた。 「離婚?そんなことは絶対にありえない!」 第1話 青木玲奈(あおき れな)がA国の空港に着いたのは、すでに夜の九時を過ぎていた。 今日は彼女の誕生日だ。 携帯の電源を入れると、たくさんの誕生日メッセージが届いていた。 同僚や友人からのものばかり。 藤田智昭(ふじた ともあき)からは何の連絡もない。 玲奈の笑顔が消えかけた。 別荘に着いたのは、夜の十時を回っていた。 田代(たしろ)さんは彼女を見て、驚いた様子で「奥様、まさか……いらっしゃるなんて」 「智昭と茜(あかね)ちゃんは?」 「旦那様はまだお帰りになってません。お嬢様はお部屋で遊んでいます」 玲奈は荷物を預けて二階へ向かうと、娘はパジャマ姿で小さなテーブルの前に座り、何かに夢中になっていた。とても真剣で、誰かが部屋に入ってきたことにも気付かない様子。 「茜ちゃん」 茜は声を聞くと、振り向いて嬉しそうに「ママ!」と叫んだ。 そしてすぐに、また手元の作業に戻った。 玲奈は娘を抱きしめ、頬にキスをしたが、すぐに押しのけられた。「ママ、今忙しいの」 玲奈は二ヶ月も娘に会えていなかった。とても恋しくて、何度もキスをしたくなるし、たくさん話もしたかった。 でも、娘があまりにも真剣な様子なので、邪魔はしたくなかった。「茜ちゃん、貝殻のネックレスを作ってるの?」 「うん!」その話題になると、茜は急に生き生きになった。「もうすぐ優里おばさんの誕生日なの。これはパパと私からの誕生日プレゼント!この貝殻は全部パパと私が道具で丁寧に磨いたの。きれいでしょう?」 玲奈の喉が詰まった。何も言えないうちに、娘は背を向けたまま嬉しそうに続けた。「パパは優里おばさんに他のプレゼントも用意してるの。明日……」 玲奈の胸が締め付けられ、我慢できなくなった。「茜ちゃん……ママの誕生日は覚えてる?」 「え?何?」茜は一瞬顔を上げたが、すぐにまたビーズを見つめ直し、不満そうに「ママ、話しかけないで。ビーズの順番が狂っちゃう……」 玲奈は娘を抱く手を放し、黙り込んだ。 長い間立ち尽くしていたが、娘は一度も顔を上げなかった。玲奈は唇を噛み、最後は無言のまま部屋を出た。 田代さんが「奥様、先ほど旦那様にお電話しました。今夜は用事があるので、先に休んでくださいとのことです」 「分かりました」 玲奈は返事をし、娘の言葉を思い出してちょっと躊躇した後、智昭に電話をかけた。 しばらくして電話が繋がったが、彼の声は冷たかった。「今用事がある。明日にでも……」 「智昭、こんな遅くに誰?」 大森優里(おおもり ゆり)の声だった。 玲奈は携帯を強く握りしめた。 「何でもない」 玲奈が何か言う前に、智昭は電話を切った。 夫婦は二、三ヶ月も会っていない。せっかくA国まで来たのに、彼は家に帰って会おうともせず、電話一本でさえ、最後まで話を聞く気もなかった…… 結婚してこれだけの年月が経っても、彼は彼女にずっとこうだった。冷淡で、よそよそしく、いつも面倒くさそうに。 彼女は実はもう慣れていた。 以前なら、きっともう一度電話をかけ直して、どこにいるのか、帰ってこれないのかを優しく尋ねていただろう。 今日は疲れているせいか、そうする気が突然失せていた。 翌朝目が覚めて、少し考えてから、やはり智昭に電話をかけた。 A国は本国と十七、八時間の時差がある。A国では今日が彼女の誕生日だった。 今回A国に来たのは、娘と智昭に会いたかったのはもちろん、この特別な日に三人で揃って食事がしたいと思ったから。 それが今年の誕生日の願いだった。 智昭は電話に出なかった。 しばらくして、やっとメッセージが届いた。 「用件は?」 玲奈:「お昼時間ある?茜ちゃんも連れて、三人で食事しない?」 「分かった。場所が決まったら教えて」 玲奈:「うん」 その後、智昭からは一切連絡がなかった。 彼は彼女の誕生日のことなど、すっかり忘れているようだった。 玲奈は覚悟していたつもりだったが、それでも胸の奥が痛んだ。 身支度を整え、階下に降りようとした時、娘と田代さんの声が聞こえてきた。 「お母様がいらっしゃったのに、お嬢様は嬉しくないのですか?」 「私とパパは明日、優里おばさんと海に行く約束してるの。ママが一緒に来たら、気まずくなっちゃうでしょう」 「それにママは意地悪よ。いつも優里おばさんに意地悪するもの……」 「お嬢様、玲奈様はあなたのお母様です。そんなことを言ってはいけません。お母様の心が傷つきますよ」 「分かってるけど、私もパパも優里おばさんの方が好きなの。優里おばさんを私のママにできないの?」 「……」 田代さんが何か言ったが、もう玲奈には聞こえなかった。 娘は自分が一手に育て上げた子。ここ二年、父娘の時間が増えてから、娘は智昭に懐くようになり、去年智昭がA国で市場開拓に来た時も、どうしても付いて行きたがった。 手放したくなかった。できれば側に置いておきたかった。 でも娘を悲しませたくなくて、結局認めた。 まさか…… 玲奈はその場に凍りついたように立ち尽くし、血の気が引いた顔で、しばらく動けなかった。 今回仕事を後回しにしてA国に来たのも、娘との時間を少しでも多く持ちたかったから。 今となっては、その必要もないようだ。 玲奈は部屋に戻り、本国から持ってきたプレゼントを、スーツケースに戻した。 しばらくして田代さんから電話があり、子供を連れて出かけると言われ、何かあったら連絡してほしいとのことだった。 玲奈はベッドに座ったまま、心の中が空っぽになったような気がした。 仕事を後回しにしてまで駆けつけたのに、誰も彼女を必要としていない。 彼女が来たことは、まるで笑い話のようだった。 しばらくして、彼女は外に出た。 この見知らぬ、それでいて懐かしい国を、あてもなく歩き回った。 お昼近くになって、やっと智昭との昼食の約束を思い出した。 朝聞いた会話を思い出し、娘を迎えに帰るか迷っていた時、智昭からメッセージが届いた。 「昼は用事が入った。キャンセルする」 玲奈は見ても、少しも驚かなかった。 もう慣れていたから。 智昭にとって仕事でも、友人との約束でも……何もかもが妻である彼女より大切なのだ。 彼女との約束は、いつだって気まぐれにキャンセルされる。 彼女の気持ちなど、一度も考えたことがない。 落ち込むだろうか? 以前なら、たぶん。 今はもう麻痺して、何も感じない。 玲奈の心は更に霧の中にいるようだった。 はずんだ気持ちで来たのに、夫からも娘からも、冷たい仕打ちばかり。 気がつくと、以前智昭とよく来ていたレストランの前に車を停めていた。 中に入ろうとした時、智昭と優里、そして茜の三人が店の中にいるのが見えた。 優里は娘と仲睦まじく並んで座っていた。 智昭と話しながら、娘をあやしている。 娘は嬉しそうに足をぶらぶらさせ、優里とじゃれ合い、優里が食べかけたケーキに口をつけていた。 智昭は二人に料理を取り分けながら、優里から視線を離そうとしない。まるで彼女しか目に入っていないかのように。 これが智昭の言う『用事』。 これが、彼女が命を賭けて十月十日の苦しみを耐え、産み落とした娘。 玲奈は笑った。 その場に立ち尽くして、眺めていた。 しばらくして、視線を外し、踵を返した。 別荘に戻った玲奈は、離婚協議書を用意した。 彼は少女時代からの憧れだった。でも彼は一度も彼女を見つめてはくれなかった。 あの夜の出来事と、お爺様の圧力がなければ、彼は決して彼女と結婚などしなかっただろう。 以前の彼女は、頑張りさえすれば、いつか必ず彼に振り向いてもらえると信じていた。 現実は彼女の頬を、容赦なく叩いた。 もう七年近く。 目を覚まさなければ。 離婚協議書を封筒に入れ、智昭に渡すよう田代さんに頼み、玲奈はスーツケースを引いて車に乗り込んだ。 「空港へ」運転手に告げた。 第2話 夜の九時過ぎ、智昭親子が帰ってきた。 茜は智昭の服の裾を握り締め、車から降りる動作はゆっくりとしていた。 ママがいるから、今夜は本当は帰りたくなかった。 でも優里おばさんが、ママは特別に茜とパパに会いに来たんだから、帰らないとママが悲しむって言った。 パパも今夜帰らなかったら、明日ママが絶対に一緒に海に遊びに来ちゃうって言った。 仕方なく帰ることに同意した。 でも、まだ少し心配で、沈んだ声で言った。「パパ、もしママが明日一緒に出かけようとしてきたらどうしよう」 「そんなことはない」智昭は確信的な口調で言った。 結婚してからずっと、玲奈は何かと彼と過ごす機会を作ろうとしてきた。 でも、分別はあった。彼が態度を示せば、彼を怒らせることはしなかった。 茜の記憶の中で、玲奈はいつも智昭の言うことを聞いていた。 彼がないと言うなら、きっとそうだ。 茜はようやく安心した。 気分も良くなり、先ほどの憂鬱さが消え、跳ねるように家に入り、田代さんにお風呂に入りたいと伝えた。 「はいはい」田代さんは何度も返事をし、玲奈からの言付けを思い出して、封筒を智昭に渡した。「旦那様、奥様からお預かりしたものです」 智昭は受け取りながら、何気なく尋ねた。「彼女はどこだ」 「あの……奥様は昼頃に荷物をまとめて国に戻られましたが、ご存知なかったのですか」 階段を上がっていた智昭の動きが一瞬止まり、振り返った。「帰ったのか」 「はい」 玲奈がなぜ突然A国に来たのか、智昭は玲奈に説明する機会すら与えなかった。 関心もなかった。 彼女が帰ったと知っても、気にかけることはなかった。 茜も少し意外だった。 聞いた時、少し寂しい気持ちになった。 もしママが明日パパと海に行かないなら、夜はママと一緒にいられて、実は良かったのに。 それに、貝殻を磨くと手が痛くなりやすいから、ママに手伝ってもらおうと思っていたのに。 智昭と玲奈は数ヶ月会っておらず、せっかく玲奈が来たのに、智昭の姿さえ見られずに帰ることになり、玲奈が帰る時の表情があまり良くなかったことを思い出した田代さんは、思わず言った。「旦那様、奥様は帰られる時、表情があまり良くなく、怒っているようでした」 田代さんは最初、玲奈は急用があって慌てて帰国したのだと思っていた。 今、智昭が玲奈の帰国を全く知らなかったと知り、やっと何かおかしいと気付いた。 怒っている? 玲奈は彼の前では、いつも良い性格で包容力があるように見えた。 彼女も怒ることがあるのか? これは珍しい。 智昭は気にも留めず軽く笑い、適当に田代さんに返事をして二階に上がった。 部屋に戻り、玲奈からの手紙を開けようとした時、優里から電話がかかってきた。智昭は電話に出て、封筒を適当に投げ、部屋を出た。 しばらくして、封筒はベッドの端から床に落ちた。 その夜、智昭は帰って来なかった。 翌日、田代さんが掃除に来た時、床に落ちている封筒を見つけ、昨日玲奈から智昭に渡すように頼まれたものだと分かった。 智昭が読んだと思い、そのまま近くの棚に入れた。 …… 玲奈は飛行機を降り、家に着くとすぐに二階に上がって荷物をまとめ始めた。 六年も経っているから、家には彼女の物がかなりあった。 でも持って行ったのは、数着の服と二組の日用品、それと専門書だけだった。 結婚後、智昭は毎月彼女と娘に生活費を渡していた。 二枚のカードに分けて振り込まれていた。 一枚は彼女の、もう一枚は娘のものだった。 でも玲奈は普段自分のカードで支払うのが習慣だった。 娘のカードは最初から一度も使ったことがなかった。 それに、彼女は智昭を愛していて、買い物に行くたびに、彼に似合う服や靴、カフスボタン、ネクタイなどを見つけると、つい買ってしまっていた。 彼女自身については、仕事の関係で日常の出費は少なく、夫と娘のことで頭がいっぱいで、二人には最高のものを与えたいと思っていたため、智昭からもらう生活費のほとんどを父娘のために使っていた。 このような状況なら、今カードには大した金額は残っていないはずだった。 しかし、この一年余りの間、娘はほとんど智昭とA国で暮らしていたため、二人に何かを買う機会が減っていた。 今カードには6億円以上残っていた。 この金額は智昭にとっては目に入らないだろうが、彼女にとっては小さな額ではなかった。 元々自分のお金なのだから、玲奈も遠慮せずに、お金を移した。 二枚のカードを置いて、彼女はスーツケースを引いて、振り返ることなく家を出た。 会社から近いところに一軒の家を持っていた。 大きくはない、百数十平米ほどの家だ。 四年前、家出した友人の業績のために買ったもので、それまで一度も住んだことがなかった。 今になって役に立つことになった。 家は定期的に掃除を頼んでいたので、汚くはなく、簡単に掃除すれば住めた。 一日中疲れて、夜十時過ぎ、玲奈は身支度を済ませて部屋で休むことにした。 「ピンポンピンポンピンポン——」 耳障りな目覚まし時計の音が鳴り響き、玲奈は夢から目を覚ました。 突然起こされ、玲奈の頭は一瞬真っ白になった。 頭が冴えてきて、やっと思い出した。今は午前一時、A国の智昭と娘がいる場所では朝の七時過ぎだった。 智昭と娘はだいたいこの時間に朝食を取っていた。 娘が智昭についてA国に行ってから、彼女はいつもこの時間に娘に電話をかけていた。 ただ、普段は仕事で疲れて早く寝る習慣があり、娘との電話を逃さないように、このアラームをセットしていた。 娘が智昭についてA国に行った当初は慣れず、彼女のことを恋しがり、いつも電話をかけたがっていた。 でもA国での滞在が長くなるにつれ、電話での娘の態度は、最初の依存や恋しさから、面倒くさがりや不機嫌に変わっていった。 このアラーム、実はもう設定する必要はなかった。 ただ彼女が諦められなかっただけだ。 そう思うと、玲奈は苦笑いを浮かべた。 少し迷った後、玲奈はアラームを消して、電源を切って寝ることにした。 一方。 智昭と茜は朝食をほぼ済ませていた。 智昭は玲奈がほぼ毎日この時間に娘に電話をかけることを知っていたが、毎日家にいるわけではなく、このことにそれほど関心を持っていなかった。 玲奈が今日電話をかけてこないことに気付いたが、気にも留めず、朝食を済ませると、着替えに二階に上がった。 茜は玲奈がますます煩わしくなってきたと感じ、電話で話すのが嫌になっていた。 玲奈が今日こんなに遅くなっても電話してこないのを見て、何か用事があったのかもしれないと思った。 黒い瞳をくるくると回し、かばんを持って外に走り出した。 田代さんが見かけて、慌てて追いかけた。「お嬢様、まだ時間が早いです。もう少し後で出発しても間に合いますよ」 茜は聞かず、嬉しそうに車に向かって走った。 冗談じゃない、せっかくママが今日用事があって時間通りに電話してこないんだ。 今出発しないと、あとでママが電話してきたら、また話さなきゃいけなくなる。そんなの嫌だ。 …… 結婚後、玲奈は藤田グループに入社した。 当初藤田グループに入ったのは智昭のためだった。 今は離婚することになったのだから、藤田グループに残る理由もなくなった。 翌朝、会社に着くと、玲奈は辞表を畠山慎也(はたけやま しんや)に渡した。 第3話 慎也は智昭の側近秘書の一人だった。 彼女の退職願を見て、とても驚いた。 彼は会社で玲奈と智昭の関係を知る数少ない人物の一人だった。 智昭を知る者なら誰でも分かっていた。彼の心は玲奈にはないということを。 結婚後、彼は玲奈に冷たく、めったに家に帰らなかった。 智昭に近づき、心を掴むため、玲奈は藤田グループに入社することを選んだ。 最初の目標は智昭の側近秘書になることだった。 しかし智昭は同意しなかった。 会長が出てきても、智昭の同意を得ることはできなかった。 結局、玲奈は妥協して秘書課に残り、智昭の多くの一般秘書の一人となった。 最初、慎也は玲奈が秘書課に入って混乱を引き起こすのではないかと心配していた。 しかし結果は予想外だった。 玲奈は確かに職務上の便宜を利用して智昭に近づこうとしたが、時と場所を弁えており、度を越すことはなかった。 それどころか、おそらく智昭に認められたいがために、玲奈は仕事に真摯に取り組み、優れた能力を見せ、妊娠出産やその他の時も、会社の規定に従い、特別扱いを求めることは一切なかった。 数年の間に、玲奈は秘書課のリーダーとなった。 玲奈の智昭への想いを、彼はずっと見てきた。 正直に言えば、慎也は玲奈が退職するとは考えもしなかった。 玲奈が自ら進んで辞めるとは信じられなかった。 今の玲奈の退職は、おそらく彼の知らない何かが智昭との間で起こり、智昭が辞めるよう命じたのだろう。 玲奈は仕事の能力が高く、残念ではあったが、慎也は公平に対応した。「退職願は受け取りました。早急に後任の手配をさせていただきます」 「はい」 玲奈は頷き、自分の席に戻った。 慎也は少し仕事をした後、オンラインで智昭に業務報告をした。 ほぼ話し終わった頃、ふと玲奈の退職のことを思い出した。「そういえば、藤田社長……」 玲奈には早急に後任を手配すると言ったものの、具体的にいつ玲奈を辞めさせるかは智昭の意向を探りたかった。 もし智昭が明日から玲奈に出社させたくないのなら、すぐに手配するつもりだった。 しかし言いかけて、玲奈が入社した時、智昭が言ったことを思い出した。玲奈の会社での全ての事項は会社の規定通りに処理し、特別に報告する必要はない。 彼は関与しないと。 事実、そうだった。 この数年間、会社で智昭は一度も自から玲奈のことを尋ねることはなかった。 普段会社で玲奈を見かけても、完全に他人を見るような態度だった。 この数年、玲奈は優れた実績を上げ、二年前に昇進させようとした時も、智昭の玲奈への不快感を考慮して、特別に智昭の前で言及した。 もし気に入らないなら、この件は取り止めにするという意味で。 その時智昭は眉をひそめ、いらだたしげに再度強調した。彼は干渉しない、規定通りに進めろと。 今後玲奈の会社での件について、彼に尋ねるなとも。 慎也がなかなか言い出さないのを見て、智昭は眉をひそめた。「何か用か」 慎也は我に返り、急いで言った。「いいえ、なんでもありません」 玲奈の退職を智昭が既に知っているのに、自から言い出さないということは、この件は智昭にとってまったく重要ではないということだ。 彼の方は今まで通り、会社の規定に従って処理すれば良いのだ。 そう思い、慎也はそれ以上何も言わなかった。 智昭はビデオ通話を切った。 …… 「何を考えているの」 昼頃、同僚が突然玲奈の肩を叩いた。 玲奈は我に返り、笑って首を振った。「なんでもないわ」 「今日は娘さんに電話しないの」 「ええ、もういいの」 彼女は普段一日に二回娘に電話をしていた。 一回は午前一時、もう一回は正午頃。 このことはオフィスの同僚たちも知っていた。 ただし、彼らの知らないことは、彼女の娘の父親が会社の大物ボスだということだった。 夜、退社後、玲奈は市場で少し野菜と観葉植物を買って帰った。 食事の後、玲奈はネットで科学技術展示会の情報を確認した。 確認後、電話をかけた。「来月の科学技術展示会のチケットを一枚取っておいて」 「本当に」向こうは冷たく言った。「前の二回もチケットを取っておいてと言ったけど、一度も来なかったじゃないか。どれだけの人が切望しているチケットを、あなたは無駄にした」 国内の年に一度の科学技術展示会は科学技術業界の一大イベントで、チケットは誰もが手に入れられるわけではなかった。 彼らの会社も何枚かの出展枠を得ており、傘下の多くのエリートたちが参加を希望していた。 彼らにとって、一枚一枚の枠が非常に貴重だった。 「今回も出席しなかったら、もう二度とあなたにお願いしないわ」 向こうは何も言わず、電話を切った。 玲奈は分かっていた。これは同意したという意味だと。 玲奈は少し笑った。 実は、言わなかったが、彼女は会社に戻りたいと考えていた。 会社のパートナーとして、会社が立ち上がったばかりの時に結婚、出産を選び、会社から離れ、家庭に専念したことで、会社の発展計画を完全に狂わせ、多くの機会を逃してしまった。 みんな彼女に対して怒りと苛立ちを感じていた。 この数年、彼らとはほとんど連絡を取っていなかった。 確かに会社に戻りたいと思っているが、結婚後は家庭中心の生活を送ってきた。 既に長すぎる間、その世界から離れていた。 何の準備もせずに会社に戻っても、彼らのペースについていけないのではないかと心配だった。 だから、しばらく時間をかけて業界の現状を深く理解してから、具体的な計画を立てようと考えていた。 その後数日間、玲奈は仕事中はしっかり仕事をし、退社後は自分のことに取り組んだ。 娘や智昭に積極的に連絡を取ることはなかった。 もちろん、彼らからも連絡はなかった。 これについて、彼女は意外に思わなかった。 なぜなら半年以上前から、連絡を取るのは彼女の一方的な行動になっていた。 彼らはただ受け身で応じているだけだった。 …… A国。 茜は今、毎朝起きたら優里に電話をかける習慣がついていた。 この日も、目が覚めると普段通り、まず優里に電話をかけた。 でも優里とあまり話さないうちに、「うわーん」と泣き出した。 優里から悲報を告げられたからだ。 「優里おばさんが国に帰っちゃうの!」 茜は悲しみに暮れ、優里との通話が終わるとすぐに智昭に電話をかけた。「パパ、このこと知ってたの」 オフィスで、智昭は書類に目を通しながら「知ってた」 「いつ知ったの」 「しばらく前だ」 「パパ、ひどい……」茜はピンクのブタのぬいぐるみを抱きしめて泣き続けた。「どうして教えてくれなかったの。優里おばさんがいなくなるのイヤ。優里おばさんがいないならここで学校に行きたくない。国に帰る、うわーん」 智昭は淡々とした口調で「既に手配している」 茜は理解できなかった。「な、なにが」 「来週、私達も国に帰る」 第4話 茜はベッドから飛び上がった。「本当」 「ああ」 「でも優里おばさんはさっきなんで教えてくれなかったの」 「つい決まったばかりで、まだ彼女には言っていない」 茜は興奮して「パパ、優里おばさんには内緒にしておいて。国に帰ってから、サプライズにしない」 「ああ」 「パパ大好き!」 電話を切った後も、茜は嬉しくてベッドの上で歌って踊っていた。 しばらくして、ふと玲奈のことを思い出した。 この数日間、ママから電話がなかったおかげで、とても気分が良かった。 実は、ママと電話で話したくなくて、この前の数日間は、わざと早く家を出たり、帰宅後も携帯を遠くに置いたり、電源を切ったりしていた。 二日後、ママが知ったら怒るかもしれないと心配になって、もうそうしなくなった。 でも意外なことに、その後もママからずっと電話がかかってこなかった。 最初は、自分が意図的に電話に出なかったことをママが知ったのかと思った。 でも考え直してみると、今までの経験からすれば、もし自分が何か悪いことをしたと分かったら、ママは必ず即座に直すように言うはずで、怒って電話をかけてこないなんてことはしないはず。 結局、ママの心の中で自分が一番大切で、ママは自分のことが大好きなんだから、怒ったからって電話をかけてこないなんてありえないもの! そう思うと、茜は急に玲奈が恋しくなった。 これは何日もぶりに初めて玲奈のことを思い出した。 思わず玲奈に電話をかけた。 でも電話をかけた直後、ふと思い出した。確かに国に帰れば優里おばさんにすぐに会えるけど、ママの性格からすれば、きっと何が何でも邪魔をして、優里おばさんに会わせてくれないはず。 もうここにいた時みたいに、好きな時に優里おばさんに会えなくなる。 そう考えると、茜の気分は急に悪くなった。 国内はまだ深夜だった。 玲奈はもう寝ていた。 茜からの電話で目を覚ました。 目が覚めて茜からの着信を見て、出ようとした時、茜は怒って電話を切った。 玲奈は智昭との離婚協議書で茜の親権を放棄すると書いたが、茜は結局自分の娘だ。 彼女には一定の責任がある。 茜から電話がかかってきて、突然切られたのを見て、何か問題があったのではと心配になり、すぐに折り返した。 茜は着信を見て、顔を横に向け、出なかった。 玲奈はさらに心配になり、すぐに別荘の固定電話にかけた。 田代さんはすぐに電話に出て、玲奈の話を聞いた後、急いで言った。「お嬢様は大丈夫だと思います。昨夜遅くまで起きていて、今朝は寝坊して、さっき私が二階に上がった時はまだ起きていませんでした。もう一度見てきますので、後ほどお電話させていただきます」 田代さんの話を聞いて、玲奈はやっと安心した。「お願いします」 田代さんが二階に上がった時、茜は既に浴室で身支度をしていた。 田代さんが状況を説明すると、茜は歯を磨きながら、うつむいて嘘をついた。「間違えて押しちゃった」 田代さんは疑うことなく、彼女が歯を磨いているのを見て、階下に降りて玲奈に報告に行った。 茜はそれを見て、ふんと言って、やっと少し気分が良くなった。 玲奈は田代さんの話を聞いて、安心した。 ただ、突然起こされて、なかなか寝付けず、翌日出勤時は体調があまり良くなかった。 玲奈が智昭に渡した離婚協議書の入った封筒は、あの日優里から電話があってから、もう一度も思い出されることはなかった。 帰国当日、智昭は最後の書類をカバンに入れ、何も忘れていないことを確認してから、階下に降りた。 「よし、出発だ」 リムジンはすぐに別荘を出発し、空港へと向かった。 …… 智昭たちが帰国することを、玲奈は知らなかった。 誰も彼女に言わなかった。 別荘から引っ越してから、もう半月が経っていた。 この半月の間に、彼女は徐々に一人暮らしの静かでゆったりとした生活に慣れ、好きになっていった。 今日は週末で、少し寝坊をした。 起きて身支度を済ませた後、カーテンを開けると、外は日差しが心地よく、彼女は伸びをして、植物に水をやった後、簡単な朝食を作ろうとしたところで、ドアベルが鳴った。 向かいに住む山田(やまだ)さんだった。 「玲奈さん、お邪魔じゃなかった」 玲奈は優しい声で「いいえ、もう起きていました」 「よかった」山田さんは親しげに「今朝焼きたての饅頭と餃子です。味見していただけませんか」 「ありがとうございます。こんなに……お気遣いいただいて」 「当然です。この前うちの優芽(ゆめ)ちゃんを救っていただかなかったら、あの狂犬にどんなひどい目に遭わされていたか。この数日ずっとちゃんとお礼を言いたかったんですが、夫婦とも仕事が忙しくて、時間が取れなくて、申し訳なく思っていまして……」 「お気になさらないでください。ほんの些細なことです」 しばらく世間話をした後、山田さんは帰っていった。 玲奈は部屋に戻り、朝食を食べながら、最近研究しているAIのアルゴリズムの仕組みを見ていた。 午後、T大学百周年記念に関するニュースがスマートフォンにポップアップした。 玲奈は一瞬止まり、日付を確認して、今日が確かにT大の記念日だと思い出した。 ネットを見てみると、#T大百周年記念#に関する話題が何個もトレンドに入っていた。 今回のT大記念式典の注目度が高いのは、T大が国内トップの大学で、一挙手一投足が注目されているだけでなく、今回が初めての百周年記念式典だったため、母校に招かれて式典に参加する名誉卒業生も特に多かったからだ。 これらの名誉卒業生は、みな各界各分野で注目を集める大物だった。 玲奈は何度も見つめた。 カメラに映る何人もの見覚えのある顔を見た時、スマートフォンを持つ手が震えた。 在学中の思い出が一気に脳裏に押し寄せてきた。 心が、突然乱れた。 もし学部を卒業したらすぐに結婚していなければ、今日母校に招かれて式典に参加する名誉卒業生の中に、自分も入っていたかもしれない。 玲奈はパソコンを閉じ、しばらく迷った後、車でT大に向かった。 この時、既に午後になっていた。 招かれて式典に参加した多くの大物たちは既に帰っていた。 でもキャンパス内の人の流れはまだ多かった。 玲奈は一人でキャンパス内をあてもなく歩いていた。見慣れた実験棟の下に来た時、見覚えのある声に呼び止められた。 「玲奈」 20分後、T大の外のティーハウスで。 湊礼二(みなと れいじ)は玲奈にお茶を注いだ。「最近はどう」 玲奈はティーカップを抱え、目を伏せて淡く笑った。「まあまあです。ただ……離婚することになりました」 礼二はこんな答えが返ってくるとは思わず、一瞬止まった。「すまない」 「大丈夫です」 「これからどうするつもり。会社に戻ってこないか」 「考えてはいるんですが……」 礼二は彼女の躊躇いの理由が分からなかったが、真剣に彼女に言った。「玲奈、会社は君を必要としている。会社は君の持ち分もあるんだ。君に戻ってきて采配を振るってほしい」 「私、私は……」 礼二の真剣な様子を見て、玲奈は言いたくても言えなかった。 したくないわけではない。 でもAI分野は今、発展が速すぎる。 彼女は業界を六年も離れている。 今戻ったとしても、時代の発展についていけないだろう。まして昔のように、みんなを引っ張って業界の最先端を行くなんて、もはや望むべくもない。 第5話 礼二と玲奈はここ数年ほとんど会っていなかった。 しかし数回の対面だけでも、礼二には今の彼女が、かつての意気揚々とした姿とは大きく異なることが分かった。 かつての玲奈を思い出すと、自信喪失という言葉が玲奈に当てはまる日が来るとは、夢にも思わなかった。 玲奈と智昭の結婚生活について、礼二はあまり知らなかった。 でも多少は知っていた。 彼は心の中で推測したが、それを口には出さず、ただ真剣に彼女に言った。「一時的な遅れは問題ない。君の能力と才能は、普通の天才とは比べものにならない。玲奈、この道を歩む気持ちがあるなら、今からでも遅くはない」 「忘れるな、君は先生が教えた中で、最も自慢の生徒だったんだ」 玲奈は聞きながら笑った。「先生がそれを聞いたら、きっと鼻で笑って、背の低い中から高い者を選ばされただけだと言うでしょうね」 昔の儒雅で毒舌な先生を思い出し、玲奈の笑みは少し薄くなった。「さっきニュースで先生も式典に来られたのを見ましたが、お元気でしょうか」 「元気だよ。ただ、僕たちみたいな、いつも恥をかかせる学生が時々顔を出すので、とても迷惑そうだけどね」 玲奈は笑い出し、心の中で恩師の下で毎日論文を書かされていた日々を懐かしく思った。 礼二「戻ってきてくれないか、玲奈」 玲奈は茶碗を握る手に力が入り、深く息を吸ってから頷いた。「はい」 彼女は幼い頃から人工知能を研究してきた。 この分野を本当に愛していた。 智昭を愛するあまり、自分の理想を六、七年も捨ててきた。 六、七年も離れていて、追いつくには相当な時間がかかるかもしれない。 でも努力すれば、まだ間に合うと信じていた。 礼二は更に尋ねた。「いつ頃戻れそうかな」 「今の仕事の引き継ぎがあるので、もう少し時間がかかりそうです」 「急いでないよ、焦ることはない」 彼女が戻ってくるなら、もう少し待つ位なんてことはない。 二人はしばらく話をして、礼二は時間を確認してから言った。「部下がアルゴリズムの天才を紹介してくれてね。この前帰国したばかりらしいんだ。これから会う約束をしているんだけど、せっかくだから一緒に会ってみない」 玲奈は首を振った。「あなたの部下のことも分からないし、また今度にします」 「そうだね」 礼二が行ってすぐ、玲奈は智昭の姉の藤田麗美(ふじた れみ)が歩いてくるのを見た。 玲奈はニュースで彼女の姿も見ていた。 でもここでばったり会うとは思わなかった。 彼女は挨拶をした。「麗美お姉さん」 麗美は応えず、眉をひそめて彼女を見た。「なぜここにいるの」 「今日はT大の記念日なので、見に来ました」 玲奈が言わなければ、麗美は彼女もT大の卒業生だということを忘れるところだった。 でも在校生と教職員以外で、今日学校に戻ってきたのは基本的に学校に招待された名誉卒業生ばかりだ。 彼女玲奈という無名の人間が何の用があってここに来たというの。 まあいい。 外で変なことを言って、藤田家の恥にならなければいいけど。 そう思って、麗美は用件を切り出した。「和樹(かずみ)が君の料理が食べたいって言ってるの。後で誰かに送らせるわ、智昭のところに」 和樹は麗美の息子で、茜より一、二歳年上だった。 麗美夫妻は仲が悪く、麗美は数年前まで仕事が忙しくて子供の面倒をほとんど見ておらず、この二年ほどは子供がますます反抗的になり、今になって管理しようとしても、もう手に負えなくなっていた。 息子が彼女の料理を好きだと知って、麗美はここ二年、時間があれば息子を彼女と智昭のところに送っていた。 藤田家の人々は、藤田おばあさん以外、誰も彼女を真剣に扱っていなかった。 半人前の子供は人の真似をするもの。 麗美の息子は彼女の料理は好きだが、心の底では叔母である彼女を軽蔑していて、来ても彼女をほとんどメイドのように扱っていた。 以前は智昭のために、玲奈は麗美の子供に心を尽くし、子供の無礼も気にしていなかった。 でも今は智昭と離婚することになったのだから、もう智昭のために我慢する必要はない。 だから、玲奈は直接断った。「申し訳ありません、麗美お姉さん。明日は予定があります」 専門分野に戻るからには、これからは時間を本当に大切なことに使うつもりだ。 智昭でも麗美でも、離婚したら彼らとは無関係になる。 もう彼らのために時間を無駄にはしない。 麗美は玲奈が断るとは思っていなかった。 結局、以前の玲奈は智昭のために、彼らの藤田家の人々に取り入ろうとして、随分と身を低くしていたのだから。 でも、麗美はあまり深く考えなかった。 玲奈は今まで一度も彼女を断ったことがなく、今玲奈が用事があると言うなら、きっと本当に用事があるのだろう。でなければ、玲奈が彼女に取り入る機会を逃すはずがない。 それでも彼女は不機嫌だった。「智昭も茜ちゃんも今そばにいないのに、どんな用事があるっていうの」 玲奈はそれを聞いて、心の中で苦笑せずにはいられなかった。 この数年間、自分を捨てて、生活の中心を智昭と娘に置き、ずっと彼らの周りを回っていた。 今麗美にこんな評価をされるのも、当然だった。 でももう、そうはしない。 そう思って玲奈が話そうとした時、ちょうど数人が彼らの方に歩いてきた。 「麗美さん!」 彼らは明らかに麗美を探しに来たのだった。 玲奈を見て、値踏みするように見てから尋ねた。「麗美さん、この方は」 麗美は玲奈が義理の妹だとは言わず、冷淡な口調で「友人よ」と言った。 「ああ、お友達ね……」 彼らも麗美と同じく、T大の式典に参加するために戻ってきた人々で、皆地位の高い人たちだった。 麗美が知人に会ったので、何か重要な人物かと思った。 今、麗美の玲奈に対する態度を見て、玲奈の美しさと長い脚に目を奪われた人以外は、もう彼女に視線を向けなかった。 彼らは麗美を取り囲んで、すぐに立ち去った。 麗美が義理の妹としての身分を認めたがらないことに、以前なら玲奈は傷つき悲しんだかもしれない。 でも今の玲奈はもう気にしていなかった。 麗美が去った後、彼女もバッグを取って、その場を離れた。 その日の夜十時過ぎ、智昭と茜の乗った飛行機は定刻通り空港に着いた。 家に着いた時は、もう真夜中近くだった。 茜は家に着く前に眠ってしまっていた。 智昭は茜を抱いて二階に上がり、主寝室の前を通った時、ドアが開いていたが、中は真っ暗だった。 茜を部屋に運び、主寝室に戻った智昭は薄暗い明かりをつけ、ベッドを一瞥したが、空っぽだった。 玲奈はいなかった。 ちょうどその時、執事が彼の荷物を二階に運んできて、智昭はネクタイを緩めながら尋ねた。「玲奈は?」 執事は急いで答えた。「奥様は出張に行かれました」 半月前、玲奈が荷物をまとめて出かけた時、彼はたまたまいなかった。 別荘の他の使用人の話では、玲奈はスーツケースを持って出て行ったので、おそらく出張だろうとのことだった。 不思議なことに、以前の玲奈はめったに出張しなかったし、出張しても二、三日程度だった。 今回は半月も経っているのに、まだ戻っていない。 智昭は「ん」と言っただけで、それ以上何も聞かなかった。 第6話 翌日。 智昭が会社に着いた時、玲奈とばったり出会った。 玲奈は智昭と茜が既に帰国していたことを知らなかった。 突然会社で智昭に出会い、玲奈の足は急に止まった。 玲奈を見て、智昭の目にも少し驚きが見えたが、玲奈がちょうど出張から戻ってきただけだと思い、深く考えなかった。 彼は無表情で、他人のように冷たく彼女を通り過ぎ、会社に入っていった。 以前なら、彼が突然帰国したと知って、玲奈はとても喜んだはずだ。 このような状況で、たとえ抱きつくことはできなくても、興奮して嬉しそうに、目を輝かせて彼を見つめ、彼が冷たくても、笑顔でおはようございますと声をかけたはずだ。 でも今は、玲奈は彼の美しい顔を一瞥しただけで目を伏せ、以前のような興奮も喜びも見せなかった。 しかし智昭がそれに気付く前に、既に立ち去っていた。 男の落ち着いた凛とした後ろ姿を見て、玲奈は彼がいつ帰ってきたのか分からなかったが、帰国したからには、離婚の件もすぐに進められるだろうと思った。 離婚を決意した以上、玲奈は智昭のことをこれ以上考えず、席に戻るとすぐに仕事モードに入った。 30分後、慎也から電話があった。「コーヒーを二杯入れて、社長室まで持ってきてください」 最初、智昭に好かれたくて、彼がコーヒー好きだと知り、玲奈は多くの時間を費やして研究した。 努力は報われた。 彼女の入れたコーヒーを飲んでから、家でも会社でも、智昭は彼女の入れたコーヒーを指定するようになった。 当時、智昭が本当に彼女の入れるコーヒーを気に入ってくれたと知って、長い間興奮していた。これが成功への第一歩だと思っていた。 実際、彼女は智昭の彼女に対する嫌悪と警戒を過小評価していた。 確かに彼は彼女の入れるコーヒーは好きだった。 でもそれはただコーヒーが好きなだけだった。 彼女に対して、彼の態度は依然として冷たく、よそよそしかった。 だから、彼が彼女の入れたコーヒーが飲みたい時は、普通慎也に連絡させ、コーヒーを入れ終わったら、慎也たちが取りに来ていた。 彼は彼女が近づく機会を一切与えなかった。 慎也たちが忙しい時だけ、彼女が直接彼のオフィスにコーヒーを持っていく機会があった。 そして今回、電話での慎也の言い方からすると、入れたら直接智昭に持っていくように言われているようだった。 玲奈はコーヒーを入れ、トレイに載せて智昭のところへ持って行った。 智昭のオフィスのドアは開いていた。 オフィスの入り口に着き、礼儀正しくノックしようとした時、優里が智昭の膝の上に座り、二人がキスをしているところを見てしまった。 玲奈の足は止まり、顔から血の気が引いた。 彼女を見て、優里は慌てて智昭の膝から降りた。 智昭は非常に不機嫌な顔をして、冷たい声で言った。「誰が来いと言った」 玲奈はトレイをきつく握りしめた。「コーヒーをお持ちしに——」 「もういい、青木秘書」智昭のもう一人の側近秘書の高木和真(たかぎ かずま)がちょうどそこに来た。 彼は玲奈と智昭の関係を知っていた。 彼は言った。「君のやり方はあまり面白くないね」 和真は直接は言わなかったが、玲奈は突然彼の言外の意味を理解した。 彼は、優里が会社に来ていることを玲奈が知っていて、智昭と優里の二人の時間を邪魔するために、コーヒーを持ってくる口実でここに現れたと思っているのだ…… 智昭の表情を見ると、彼も同じように考えているようだった。 以前なら、彼女は本当にそうしていたかもしれない。 でも今は、もう離婚することになっているのに、どうしてそんなことをするだろうか。 しかし彼らは彼女に説明の機会を与えなかった。 和真は冷たい声で言った。「すぐに出て行ってください」 玲奈は目に涙を浮かべ、トレイを持つ手が少し震え、カップの中のコーヒーが溢れ出て、指を火傷した。玲奈は痛みを感じたが、声も出さずに立ち去った。 しかし数歩歩いただけで、智昭の声がオフィスから聞こえてきた。「次にこんなことがあれば、もう会社に来なくていい」 彼女は既に辞職している。 この件がなくても、彼女の仕事の後任が見つかれば、すぐに会社を去るつもりだった。 でも彼女のことを気にかける人は、ここには誰もいないことを知っていた。 言っても意味がない。 玲奈は黙ったまま、トレイを持って立ち去った。 去る前に、優里が優しく智昭をなだめる声が聞こえてきた。「もういいじゃない、智昭。彼女はわざとじゃないと思うわ。そんなに怒らないで……」 玲奈はコーヒーを捨て、火傷した指を蛇口の下で冷やし、それから慣れた様子でバッグから軟膏を取り出して塗った。 今では料理も上手で、コーヒーも美味しく入れられる彼女だが。 実際、智昭と結婚する前は、家事もできず、料理も作れず、コーヒーさえ飲んだことがなかった。 でも結婚後、智昭のため、子供のために、すべてを学んだ。 これらを学ぶために、膨大な時間を費やし、最初の見るに耐えない状態から今の完璧な状態になるまで。 その苦労は、自分だけが知っている。 バッグの中の軟膏については——子育てをする母親なら、常備薬を持ち歩くのは当然のことだ。 ただ、茜が智昭とA国に行ってからは、これらの薬を使う機会はめっきり減っていた。 幸い、まだ使用期限は切れていなかった。 傷の手当てを終え、玲奈は胸に突き刺すような痛みを押し殺して、席に戻って仕事を続けた。 手元の書類を整理し終えたところで、突然誰かが話すのが聞こえてきた—— 「藤田社長の彼女が会社に来たって」 「彼女?藤田社長に彼女がいるの?誰なの?どんな人?きれい」 「どんな人かは分からないけど、一階の受付によると、お金持ちの家の出身で、すごくきれいで、雰囲気もすごく良いらしいわ」 その二人の同僚は話していたが、玲奈が立ち上がるのを見て、彼女と一緒に階下の会議に行かなければならないことを思い出し、急いで口を閉じ、気まずそうに近づいてきた。「仕事優先、噂話は後にしましょう」 玲奈は彼らが言う「藤田社長の彼女」が実は優里のことを指していると知っていた。 でも彼女は表情を変えることなく、オフィスを出て、二人の同僚と一緒にエレベーターに乗った。 エレベーターを降り、会議室に向かおうとした時、優里と会社の四人の幹部が向かいから歩いてきた。 四人の幹部は優里を取り囲み、おずおずとした表情で、へつらうように取り入っていた。 優里が笑って言うのが聞こえた。「部長の皆様に会社を案内していただいて、本当にありがとうございます」 優里は高級ブランドに身を包み、一挙手一投足に名家のお嬢様の雰囲気が漂っていた。 彼女の言葉は丁寧だったが、既に社長夫人という立場であるかのように、丁寧さの中に距離感があり、まるで部長たちを部下のように扱っていた。 部長たちはへいへいと笑いながら「優里さんと藤田社長のご関係からすれば、当然のことです。優里さん、お気遣いなく」 「そうですそうです」 彼らはそう言いながら、玲奈たちがエレベーターから出てくるのを見て、既に二手に分かれて道を開けているにもかかわらず、部長たちは彼女たちを見て、すぐに眉をひそめた。 「どこを歩いているんだ。優里さんにぶつかったらどうする。礼儀知らずもいいところだ」 第7話 玲奈の周りの二人の同僚は優里を盗み見ながら、急いで二歩下がって壁に寄り添った。 優里も玲奈を見かけた。 でもすぐに冷たく視線を逸らし、明らかに彼女を眼中に入れていない様子で、すぐに数人の部長たちに囲まれてエレベーターに乗った。 エレベーターのドアが閉まった後、玲奈の二人の同僚は急いでため息をつき、すぐに興奮して噂話を始めた。 「さっきの人が藤田社長の彼女なんでしょう。すごく綺麗だったわ。身につけているものは全部ブランド物よ、きっとすごく高いんでしょうね。さすが良家のお嬢様ね、自信に満ちていて落ち着いていて、普通の人とは違う雰囲気があるわ」 「そうそう」 二人は話しながら、小声で玲奈に尋ねた。「玲奈はどう思う」 玲奈は目を伏せ、淡々と言った。「そうですね」 優里は実は彼女の父の私生児だった。 私生児というのは少し正確ではないかもしれない。 結局、彼女が八歳の時、父は優里と母親が肩身の狭い思いをしないよう、彼女の母との離婚を決意し、優里の母と結婚した。 両親の離婚後、彼女は精神を病んだ母と共に祖母と叔父と暮らすことになった。 この数年、叔父の商売は日に日に悪化していったが、大森家の商売は順調に伸びていった。 優里の幼少期の辛い思いを埋め合わせるため、父は何もかも最高のものを与え、莫大な金をかけて彼女を育てたと聞いている。 そして優里も、期待に応えて、とても優秀だと聞いている。 だから、かつての私生児の優里は、今や正当な令嬢となっていた。 十数年のお嬢様生活を経て、今や優里の身にまとう令嬢としての雰囲気は、かつての正統な令嬢だった彼女よりも完璧なものとなっていた。 幼少期の後は、もう優里とは関わることはないだろうと思っていた。 でも天は特に優里に味方するかのようだった。 彼女は智昭と幼なじみだったが、どんなに努力しても、智昭の目には彼女は映らず、でも優里を一目見た瞬間から、完全に心を奪われてしまった—— 「玲奈、大丈夫」 玲奈の顔色が少し青ざめているのを見て、二人の同僚が心配そうに尋ねた。 玲奈は我に返った。「大丈夫です」 彼女はすぐに智昭と離婚することになる。智昭が誰を愛そうと、もう彼女には関係のないことだ。 その日、玲奈は智昭と優里のことをそれ以上気にすることはなかった。 彼女は九時頃まで残業し、仕事がほぼ終わった時、携帯が鳴った。親友の白川凜音(しらかわ リオン)からの電話だった。 玲奈が電話に出ると、凜音が酔っ払って、レストランまで迎えに来てほしいと言われた。 玲奈は急いで手元の書類を片付け、車のキーを持って会社を出た。 20分後、玲奈は目的地に到着した。 車を降り、入り口に向かおうとした時、反対側の駐車場から小さな女の子が出てきた。 その少女の鮮明な横顔を見て、玲奈の足が止まった。 茜ちゃん? A国で学校に通っているはずでは……まさか智昭と一緒に帰国したの? 彼女の地位では、会社の機密書類には触れられないが、智昭のA国での開拓事業がまだしばらくは完了しないことは知っていた。 智昭は今回一時的に帰国して用事を済ませるだけだと思っていた。 娘も一緒に帰ってくるとは思っていなかった…… 彼らがいつ具体的に帰国したのかは分からなかったが、今朝既に智昭を見かけたことから判断すると、少なくとも一日は経っているはずだ。 でも娘は一度も電話をかけてこなかった。帰国したことを知らせることもなかった。 そう思うと、玲奈はバッグを強く握りしめ、前で跳ねるように歩く小さな姿を見つめながら、こっそりと後をつけた。 ロビーの角を曲がった時、優里と智昭の友人たちが廊下の突き当たりに現れた。 玲奈は即座に身を隠し、そして娘が「優里おばさん!」と嬉しそうに叫び、前方に駆け寄って優里の腕に飛び込むのを聞いた。 玲奈は近くのソファに背を向けて座り、観葉植物とソファの背もたれで身を隠した。 「茜ちゃん、あなたも帰国したの」 「優里おばさんが帰国したから、私とパパは寂しくなって、パパが早めに仕事を終わらせて、私を連れて帰ってきたの。しかも優里おばさんの誕生日の前日に帰国したの。こうすれば誕生日に間に合うでしょ」 「これは私とパパが手作りしたネックレス。優里おばさん、お誕生日おめでとう」 「わぁ、茜ちゃんとパパの手作り?これを作るのは大変だったでしょう。茜ちゃん、すごいわ。おばさん、とても気に入ったわ。ありがとう茜ちゃん」 「優里おばさんが気に入ってくれて良かった~」 茜は優里に甘えるように抱きついた。「一週間も会えなかったわ、優里おばさん。私、すっごく寂しかった。毎日電話できなかったら、この何日かA国にいられなかったと思う……」 「私も茜ちゃんに会いたかったわ」 その時、横から足音が聞こえてきた。 玲奈は一瞬止まった。 智昭だ。 たとえ姿が見えなくても、足音だけで分かった。 そしてそれが分かるのは、結婚後のこの六、七年間、彼女は毎日彼を待っていたからだ。 智昭の足音は彼自身のように、ゆったりとして落ち着いていて、安定していた。 藤田家の親しい人々に対してさえ、彼は落ち着いていて、まるで何気ないように、天が落ちてきても表情一つ変えないような人だった。 彼女はこの世界に彼の心を乱すものは何もないと思っていた。 でもそこに優里が現れた。 突然、例外が生まれた—— 過去を思い出していた玲奈がまだ考えを巡らせる間もなく、すぐに娘が「パパ」と呼ぶ声が聞こえた。 智昭の友人たちも次々と彼に挨拶した。 智昭は一言返し、それから優里に言った。「お誕生日おめでとう」 優里は笑った。「うん」 「パパ、優里おばさんにほかのプレゼントも用意してたでしょ?早く優里おばさんにあげてよ」 そこで突然静かになり、それから智昭の友人の一人が吹き出して笑い、身を屈めて茜の頬をつまんだ。「それはパパが優里おばさんに個人的に用意したプレゼントだから、きっと後で二人きりの時にあげるんだよ。僕たちは邪魔しない方がいいね、ハハハ」 他の人たちも意味ありげに笑い出した。 その時、智昭が言った。「もう渡してある」 「え?いつ」茜は言いながら、また言った。「パパ、また黙って優里おばさんに会いに行ったの。私を連れて行かないなんて、もう!」 智昭の友人たちは大笑いした。 玲奈は今朝の優里が藤田グループに来ていたことを思い出した。 おそらくその時に渡したのだろう。 優里は照れたように笑い、口を開いた。「ここに立っていないで、早く上に行きましょう」 足音が遠ざかっていった。 玲奈の頭は真っ白になった。 胸が細かく刺すように痛み、しばらくしてようやく我に返り、黙ってエレベーターに乗り、友人を迎えに上階へ向かった。 凜音と優里たちの個室は実は同じ階にあった。 玲奈が凜音を支えてエレベーターに向かう時、智昭の親友の村田清司(むらだ せいじ)の足が一瞬止まった。 第8話 彼の隣にいた人が尋ねた。「どうしたの」 「知り合いを見かけたような気がして」 彼らは智昭と幼なじみで、玲奈が智昭のことを好きだということも知っていた。 正直なところ、玲奈は美しかったが、静かで、美しいだけで特徴がなく、智昭の好みのタイプではなかった。 智昭が彼女を遠ざけていたように、彼らも玲奈をあまり良く思っていなかった。 彼らが玲奈に会う機会は多くなく、会っても挨拶する気にもならなかった。 正直、玲奈の姿は彼の中でもう少し曖昧になっていて、見間違えたのかもしれないとも思った。 でも、たとえ本当に玲奈だったとしても、気にはしていなかった。 彼は何も言わず、個室に戻った。 …… 玲奈は清司に気付かなかった。 ホテルを出て、凜音の家まで送り、その夜は凜音の世話をするため彼女の家に泊まった。 凜音は目を覚まし、玲奈がいるのを見て、感謝して彼女を抱きしめた。「昨夜はありがとう。今度ご飯でも奢るわ」 玲奈は既に朝食を作っていて、彼女の頭を軽くたたいた。「起きて身支度して。朝ご飯が冷めちゃうわ」 凜音は彼女にしがみついて、顔を彼女の腰に埋めたまま離れようとしなかった。「玲奈は柔らかくて良い香りがするわ。抱きしめていると気持ちいい~」 玲奈「……」 凜音は身支度を済ませ、テーブルの上に玲奈が用意した香ばしい朝食を見て、幸せいっぱいで、本当に玲奈と結婚できる人は宝物を手に入れるようなものだと思った。 でも玲奈と智昭の結婚のことを思い出し、玲奈を傷つけたくなくて、その言葉は口にしなかった。 彼女は座って、朝食を食べながらスマートフォンを見ていた。 しばらくすると、彼女の表情が変わり、思わず玲奈に尋ねた。「智昭が帰国したの」 玲奈「うん」 凜音はスマートフォンを玲奈に渡した。 玲奈は一目見て、それが智昭の親友の清司のSNSだと分かった。 彼は昨夜の集まりの写真を何枚も投稿していた。 写真のキャプションには「お誕生日おめでとう~」と書かれていた。 優里の誕生日を祝うものだったが、九枚の写真のうち四、五枚は智昭と優里の二人きりの写真だった。 特にケーキを切る時は、智昭と優里が同じクリスタルナイフを握って一緒に切っていた。 娘の茜は最初から最後まで一度も写っていなかった——おそらく藤田家の本家の人々に知られるのを避けたのだろう。結局、藤田おばあさんと彼女の祖母は親友で、彼女の母と優里の母との間にあった出来事のせいで、老夫人は優里を良く思っていなかった。 もし老夫人が智昭が茜を優里に近づけていることを知ったら、きっと激怒するだろう。 写真だけを見ると、知らない人は智昭と優里が本当のカップルだと思うかもしれない。 でもこの誕生日パーティーが智昭が優里のために特別に用意したものだということは明らかだった。 半月前の自分の誕生日での冷遇を思い出し、玲奈は視線を逸らした。 凜音は心配そうに彼女を見つめた。「玲奈——」 「大丈夫よ。もう彼らのことは私には関係ないわ」玲奈はスマートフォンを返した。「私から智昭に離婚を切り出したの」 「えっ」 凜音は非常に驚いた。「あ、あなたから離婚を」 「うん」 実は凜音は以前、智昭のことを嫌っていたわけではなかった。 むしろ、以前は彼のことを尊敬していて、一時期は恋心を抱いたこともあった。 特に理由はなく、ただ智昭があまりにも優れた人物だったからだ。 玲奈は三学年を飛び級し、18歳にも満たないうちに国内トップの大学を卒業し、すぐに自分の技術会社を立ち上げ、いくつかの特許を取得した。これは凜音からすれば十分すごいことだった。 でも智昭は13歳で大学を卒業したと言われていた。 智昭は大学卒業後すぐに留学した。 海外から戻った時には、既に複数の自社を設立し、全て上場させていたという。 そしてその時、智昭はまだ20歳にも満たなかった! 智昭の会社は技術、医薬品、エンターテインメント、観光など多岐にわたっていた。 その後数年間で、自分の会社を立ち上げながら、藤田グループも引き継いだ。 ここ数年で、彼は余裕で藤田グループをさらなる高みへと導いた。 業界で智昭の名前が出れば、誰もが賞賛の声を上げないだろうか。 しかも智昭の容姿も非常に優れていた。 だから、玲奈という天才が智昭という天才に落ちたことは、凜音にとって不思議なことではなかった。 しかし、智昭は自分の好きでない人に対して、確かに十分に冷酷だった。 これらの年月、智昭が常に玲奈を誤解し、玲奈の真心を踏みにじっていたことを思うと、彼女は完全に智昭への幻想を失った。 玲奈が智昭をどれほど愛していたか、凜音はずっと見てきた。 この数年間、彼女は玲奈に離婚を勧めたことがなかったわけではない。 でも玲奈はいつも黙って首を振るだけだった。 だから、玲奈が自ら離婚を切り出すとは本当に思っていなかった。 もう朝食も喉を通らず、心配そうに玲奈を見つめた。「何があったの」 ずっと固く智昭を愛していた玲奈が自ら離婚を切り出すなんて、きっと彼女の知らない何かがあったに違いない。 玲奈は少し考えて、言った。「実は大したことじゃないの。たぶん失望が積み重なって、急に疲れを感じて、離婚したいと思っただけ」 玲奈の性格を凜音は理解していた。一度決めたことは、たとえ今はまだ智昭のことを完全に手放せないかもしれなくても、簡単には変えないだろうと。 彼女は本気だった。 凜音は玲奈を抱きしめた。「大丈夫よ。離婚した方がいいわ」 玲奈「うん」 朝食を済ませ、玲奈は凜音の家を出て、出勤した。 まだ引っ越す前は、同じ会社に通っていても、いつも別々に出勤していて、一緒に出勤したことは一度もなかった。 それに彼は彼女を警戒していたので、普段会社では、時には一ヶ月に一度も会わないこともあった。 今は引っ越してきたというのに、二日連続でばったり会ってしまった。 今日の智昭も昔と同じように凛々しく美しく、威厳があり、そして昔と同じように、彼女を見るたびに、表情は一層冷たくなった。 昨日と同じように、智昭は彼女を一瞥しただけで、視線を逸らした。 玲奈は目を伏せ、昨日と同じように、小さな声で「藤田社長」と呼び、智昭が遠ざかってから、会社に入った。 彼女は優里が今日会社に来ているかどうか知らなかったし、気にもしなかった。黙々と自分の仕事に集中した。 お昼になって、祖母から電話がかかってきた。 「玲奈、x市から羊が一頭送られてきたの。寒くなってきたから、今夜帰ってきて食事をしましょう。おばあちゃんが羊の丸焼きを作らせるわ」 老婦人の優しい声を聞いて、玲奈の心が温かくなった。「はい、仕事が終わったら帰ります」 朝以外、玲奈はその日智昭に会うことはなかった。 その日、荷物をまとめて定時で帰ろうとしていた時、和真が書類を持ってきて、急ぎの処理を頼んできた。 玲奈は一瞬止まった。 急ぎと言われたが、内容を一瞥すると、実はこの書類はそれほど急を要するものではないことが分かった。 以前なら、笑顔で引き受け、できるだけ早く完成させると約束していただろう。 特別扱いを求めたくなかったから。 でも今日は、完璧を求める気はなかった——特に智昭に関することは。 それに疲れていた。 今の彼女はただ早く帰って祖母と過ごしたかった。残業はしたくなかった。 以前は智昭の側近秘書たちと良好な関係を築きたいと思っていた。 でももう必要なかった。 それに、和真は昨日物事の善し悪しも分からずに彼女を非難した。そんなことを何もなかったかのように振る舞えるほど大きな心はなかった。 彼女は和真を見て、冷淡に言った。「この仕事は今はしません。帰るところです」 第9話 和真は冷たい表情を浮かべ、玲奈が立場を利用していると感じた。「青木秘書、仕事への態度を改めてください。ここはあなたの家ではありませんよ」 玲奈はバッグを手に取り、態度を変えなかった。「不満があるなら、今すぐ解雇すればいいでしょう」 「おまえ……」 以前、智昭とA国へ行っていた時、玲奈が既に辞表を提出していたことは知っていた。 智昭からの信頼は厚かったが、会社は彼の一存で決められるものではなく、玲奈を追い出すほどの権限はなかった。 それに、玲奈は藤田おばあさんに可愛がられている。もし玲奈が訴えでもしたら、智昭が彼を庇うとわかっていても、ただでは済まないおだろう。 玲奈は彼を無視して、その場を立ち去った。 和真は顔を青くして、秘書課を後にした。 慎也は彼の様子がおかしいのを見て尋ねた。「何かあったの?」 和真は一部始終を話した。 慎也は非常に意外そうだった。 普段から玲奈と接する機会が多いのは彼の方だった。 玲奈の性格もある程度理解していた。 思わず口を開いた。「玲奈らしくない行動だね。何か誤解があるんじゃない?」 「誤解なんてない。事実はこの通りだ。玲奈は自分の立場を利用しているんだよ。お前が普段言うほど良い人じゃないってことさ」 慎也は一瞬考え込んだ。「辞めることになったから、投げやりになってるのかな」 でも最近の玲奈の仕事ぶりは相変わらず積極的で、以前と変わらないはずなのに…… その時、智昭が近づいてきた。「何があった?」 「青木秘書のことです。仕事も終わってないのに帰ってしまって……」 「不満があるなら、手続きを踏んで解雇すればいい」 智昭がこの件に全く関心を示さないのは明らかだった。 慎也と和真は言葉を失った。 智昭の玲奈に対する冷たい態度に驚いたわけではない。 むしろ、智昭の言葉から察するに、玲奈が辞表を出したことを知らないようだった。 玲奈の退職は智昭の意向ではなかったのか? もしかして、彼らの認識が間違っていたのか? 二人が話そうとした時、智昭の携帯が鳴った。 優里からの着信だった。 智昭は二人を無視して、エレベーターに向かいながら電話に出た。「今、帰る途中。すぐ着くから……」 慎也と和真は顔を見合わせた。 慎也が言った。「藤田社長が忘れてるのかな」 「そうかもしれないな」 確かに、智昭は玲奈に関することにはいつも無関心だった。 …… 一方その頃。 茜は青木おばあさんとはとても親しい関係だった。 以前は茜が家にいる時、玲奈が青木家に戻る際は、基本的に娘も一緒に連れて行っていた。 しかし今は、茜が帰国しているにも関わらず、これだけ日が経っているのに一度も電話をかけてこない。その代わり、毎日優里に電話をかけ、数日会えないだけで優里に会いたがっている。 そうであるなら、無理に誘う必要もないだろう。 それに今、茜と優里の仲が親密なことを老夫人が知ったら、どれほど怒るかわからない。 だから今回青木家に戻る時も、茜が帰国しているにも関わらず、智昭の家に茜を迎えに行くことはせず、一人で青木家に向かった。 道が少し混んでいて、玲奈が青木家に着いた時には、既に午後6時を回っていた。 青木おばあさんは玲奈を見るなり、笑顔が一瞬止まり、心配そうに彼女の頰に触れた。「痩せたわね」 玲奈のまつげが僅かに揺れ、答えた。「最近、仕事が忙しくて」 老夫人はため息をついた。「忙しくても、ちゃんと食事を取らないと」 「はい、おばさん。気をつけます」 玲奈は老夫人の隣に座り、彼女の肩に顔を寄せ、その温もりに少しの慰めを求めた。 老夫人は羊肉の煮込みが丁度良い具合になったのを見て、使用人に玲奈の分をお椀によそわせ、まずは体を温めさせようとした。 玲奈は老夫人の優しい言葉を聞きながら、この間に起きた出来事を思い出し、目に涙が浮かんだ。 しかし、老夫人が心配するのを恐れ、すぐに感情を抑え込んで尋ねた。「おばさんたち、旅行からまだ戻られていないんですか?」 「ええ、すっかり楽しんでしまって、一週間延長すると言ってるわ」 「おじさんは?今夜も接待があるんですか?」 「あなたが来ると聞いて、接待を断ったの。私たちと一緒に夕食を食べると言ってたわ。もうすぐ戻るはずよ」 「そうですか」 二人の会話が終わるか終わらないかのうちに、青木裕司(あおき ゆうじ)が帰ってきた。 玲奈を見て、笑顔で「玲奈、帰ってきたのか」と言った。 そう言いながら、すぐに眉をしかめた。「どうして痩せたんだ?ちゃんと食事してないのか?」 玲奈は笑顔で答えた。「前は忙しくて……今夜はたくさん食べます」 裕司は「はぁ」とため息をつき、使用人が夕食を運んでくると、次々と玲奈の皿に肉を取り分けた。 裕司は玲奈が痩せたと言ったが、実は玲奈も彼が憔悴しているのに気付いていた。 彼女は青木グループで働いてはいないものの、青木グループが今苦境に立たされていることを知っていた。裕司は毎日会社の問題で頭を悩ませているが、今のところ会社を立て直すことができないでいた。 ここ数年、いくつかのプロジェクトで、もし智昭が援助の手を差し伸べていれば、青木グループはこんな状況には陥っていなかっただろう。 しかし藤田おばあさんが厳命を下した二度を除いて、智昭は一度も彼女を助けたことはなかった。 彼女は思った。もし藤田おばあさんがいなければ、智昭の彼女に対する誤解から、智昭は彼女を助けるどころか、逆に青木グループを潰しにかかっていたかもしれない。 そう考えると、玲奈は苦笑し、口の中の美味しいはずの羊肉が途端に味気なくなった。 彼女の立場を理解している裕司は、必要があっても、一度も智昭に助けを求めるよう頼んだことはなかった。 食事の後、老夫人が居眠りをしている間に、玲奈は裕司に一枚のカードを渡した。中には14億が入っていた。 「玲奈、叔父さんは……」 「私が持っていても使い道がないんです」玲奈はカードを押し返した。「他には何もお手伝いできません。これくらいしかできないんです」 確かに彼女は幼い頃から勉強はできた。研究開発なら任せられるが、ビジネスには向いていないようだった。 幸い、数年前に人工知能の特許をいくつか取得し、当時、礼二たちと一緒に立ち上げた技術会社からも毎年配当金が入ってくる。一年を通して合計すると、何もしなくても数億円の収入があった。 裕司は恥ずかしそうに言った。「お前には何度もお金をもらっているのに、会社は……」 相変わらず半死半生の状態だった。 「叔父さんの力不足だ」 「事業の転換期は投資が多くなるのは当然です。おじさん、あまり気負わないでください」 そう言いながら、先日礼二と会った時、別れ際に彼が言った言葉を思い出した。「今はAI分野の発展が非常に速い。当時のお前の開発能力と俺の運営能力があれば、もしお前が結婚しに行かなければ、今頃うちの会社は時価総額数兆円になっていただろうし、この分野の国内トップ企業になることも夢じゃなかった。幸いAIにはまだまだ発展の余地がある。まだチャンスはある。早く戻ってきてほしい」 もし彼女に当時の能力がまだあるなら、会社に戻って、会社をもっと発展させれば、その時はおじさんにもっと多くの資金援助ができるはずだ。 …… 智昭が家に着いた時には、既に夜の10時を回っていた。 茜は目をこすりながら「お父さん、おかえり」と言った。 「ああ」彼は素っ気なく答えた。「眠いなら寝なさい」 「はーい、お父さんおやすみ」 「ああ」 茜が二階に上がって寝に行くと、智昭は管理人が注いでくれた水を受け取り、飲み干してから、自分も階段を上がった。 寝室は相変わらず真っ暗だった。 誰もいないようだった。 智昭は一瞬立ち止まり、明かりをつけた。 やはり誰もいなかった。 第10話 しかしそこまで深く考えず、玲奈は青木家に戻ったのだろうと思った。 風呂に入ろうとした時、ふと思い出した。これまで玲奈が青木家に帰る時は、いつも茜を連れて行っていたことを。 今日は珍しく娘を連れていかなかった。 もしかして青木家には戻っていないのか? いや、青木家で何かあったのかもしれない。 午後、和真が言っていた言葉が頭をよぎり、そうに違いないと確信した。 足を止めたが、関わるつもりはなかった。 翌朝、智昭は朝食を取りながら茜に言った。「入学手続きは済んだから、明日の朝、学校に行くように」 「わかったよ」茜は小さな鼻を皺めた。「じゃあ、明日パパが学校まで送ってくれる?」 「時間がないかもしれない」 「そっか」茜は目を輝かせた。「じゃあ優里おばさんに電話して、送ってもらおうかな」 智昭が何か言おうとした時、携帯が鳴った。 本家からだった。 電話に出ると、藤田おばあさんの声が聞こえてきた。 「帰国したって聞いたけど?」 「ええ」 「茜ちゃんも一緒?」 「ええ」 「久しぶりに会いたいわ。今晩、玲奈と一緒に茜ちゃんを連れて食事に来なさい」 「わかりました」 老夫人は続けた。「玲奈は?ちょっと話をさせて」 「いません」 「こんな時間にいないって、どういうこと?」 「青木家に戻ったんじゃないでしょうか」 「じゃないでしょうか?あなた、妻がどこにいるのか全然把握してないの?」 智昭は黙った。 「あなた……」 老夫人はため息をついて、黙り込んだ。 ここで初めて智昭の声が柔らかくなった。ただし、話題を変えた。「食事は?」 「もう腹が立って食べる気もないわ!」 智昭は笑みを浮かべた。 相変わらず落ち着いて朝食を続けている。 老夫人は知っていた。この孫は幼い頃から自分の考えを持っていた。 今の玲奈との結婚生活は、智昭にとって既に大きな譲歩だった。 智昭の性格上、たとえ彼のためを思ってのことでも、あまり強く押し付けてはいけない。 そう思うと、ため息をついた。「もういい。おばあちゃんはあなたに何も言うことはないわ。もう!」 「ええ、夜に」 「あなたったら……もう!」 老夫人は怒って電話を切った。 茜は最初あまり聞いていなかったが、後半になって少し気になった。「パパ、誰?」 「ひいおばあちゃんだ」智昭は玲奈に電話をかけながら言った。「今夜、食事に行くように言われた」 老夫人は茜にとても優しく、茜も老夫人が大好きだった。「うん、いいよ!私も久しぶりにひいおばあちゃんに会いたかった」 智昭は携帯を見ながら「うん」と返事した。 その頃、玲奈も青木家で朝食を取っていた。 智昭からの着信を見て、少し躊躇した。 もう彼からの電話に喜びや嬉しさを感じることはなかった。 二秒ほど迷ってから電話に出た。「はい」 「おばあさんが今夜、食事に来るように言ってる」 玲奈は「……わかりました」と答えた。 「夜、子供を迎えに来てくれ」 玲奈は彼の家に戻りたくなかった。それに、たとえ自分が娘を迎えに行っても、娘は喜ばないだろう。 無駄な努力をする必要はない。 「運転手に送らせましょう。私は仕事が終わってから直接車で行きます」 ちょうど退社時間は渋滞のピーク時。 確かにそうするのが一番効率的だ。 でも、これまで茜のことに関しては、玲奈はいつも自分でやりたがり、面倒とも思わなかった。 今の玲奈の言葉に、智昭は少し驚いた。 ただ、これは些細なことだ。深く考える必要はない。 「わかった」 そう言って、電話を切った。 今度は茜も智昭の電話の相手が誰だかわかっていた。 「ママ?」 「ああ」 「じゃあ、ママも一緒にひいおばあちゃんのところに行くの?」 「ああ」 茜は反射的に眉をひそめた。 ママに会いたくないわけではない。 ママが嫌いなわけでもない。 実際、ママにはずっと会っていないし、ママからも今までにないほど長く連絡がなかった。 今、ママのことを考えると、少し寂しい気持ちもあった。 でも、ママが今夜みんなと一緒に本家に行けるということは、今日出張から戻ってくるということ……帰国して次の朝目が覚めた時、ママが出張に行っていたことを知った。 ママが家にいないと知って、とても嬉しかった。 ママが出張している間に、優里おばさんともっと一緒にいられると思った。 だって、ママが出張から戻ってきたら、もう優里おばさんとはあまり会えなくなるから。 だから、ずっとママが遅く帰ってくることを願っていた。 まさか二日でママが戻ってくるなんて。 ママが戻ってきたら、きっと明日優里おばさんに学校まで付き添ってもらうことを許してくれない。 明日の夜の優里おばさんのレース観戦も、ママが知ったら絶対に行かせてくれないだろう。 そう思うと、途端に気分が悪くなった。 しかも、さっき優里おばさんに明日の朝の送迎を頼んで、もう承諾ももらっていた。 どうしよう…… 茜は元気をなくした。「パパ……」 智昭は彼女を見た。「何?」 パパに頼んでママを説得してもらうこともできるけど、そうしたらママは怒って、パパと喧嘩になるかもしれない…… もう嫌になっちゃう! 茜は朝食の食欲を失った。 でも、明日の学校のことは譲歩してもいい。ママに送ってもらってもいい。 でも明日の夜の優里おばさんのレースは、絶対に見に行きたい。 そう思って、智昭に甘えるように言った。「ね、明日の夜、優里おばさんのレースを見に行く約束してくれたでしょ?でもママが知ったら絶対に行かせてくれないから、ママには内緒にして。明日ママが聞いてきても、パパが適当にごまかしてくれる?」 「わかった」 智昭の約束を得て、茜の気分は少し良くなった。 しばらくして、智昭は朝食を済ませ、出かけた。 …… 玲奈は今日、会社で智昭と会うことはなかった。 昼頃、青木おばあさんから電話があり、『さくら亭』で一緒に昼食を取ろうと言われた。 『さくら亭』は藤田グループの近くにあり、玲奈は徒歩で数分のところだった。 玲奈が会社を出て、『さくら亭』の入り口の角に差し掛かった時、誰かの声が聞こえてきた。「智昭、さっきは助けてくれてありがとう。君の協力がなければ、いくら苦労しても、このような契約は取れなかっただろう。本当に感謝している」 この聞き覚えのある声…… 玲奈は立ち止まった。 覗き込むと、実の父親である大森正雄(おおもり まさお)の横顔が目に入った。 その時、智昭が答えた。「おじさん、そんな」 玲奈はゆっくりと拳を握った。 智昭の声は普段より柔らかい。 このような態度で接せられるのは、普通、彼が重要視する人だけだ。 でも、智昭が正雄を重視しているのは、彼女のためではないはずだ。 智昭が正雄を助けるのも、彼女のためではありえない。 結局のところ、正雄が母と離婚して以来、彼女と正雄はほとんど会っていない。 正雄が今、娘として認めているのは優里だけだ。 彼女と正雄の間には、もう父娘の情など存在しない。 案の定、正雄は続けた。「優里が一人でここにいるのを、私も妻も心配している。これからも彼女のことを頼むよ」

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