愛していた、それだけ

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愛していた、それだけ

GoodNovel 完結

神崎庭志(かんざき ていじ)は桐谷煙月(きりたに けむつき)を二十年以上も大切に育ててきた。 煙月は当然のように、二人がこのまま結ばれ、結婚し、子どもを持ち、一生幸せになると信じていた。 だがある日、庭志が一人の女性を連れて帰り、彼女に告げた。 「煙月、紹介する。俺の彼女だ」

チャプター (1)

第1章

神崎庭志(かんざき ていじ)は桐谷煙月(きりたに けむつき)を二十年以上も大切に育ててきた。 煙月は当然のように、二人がこのまま結ばれ、結婚し、子どもを持ち、一生幸せになると信じていた。 だがある日、庭志が一人の女性を連れて帰り、彼女に告げた。 「煙月、紹介する。俺の彼女だ」 第1話 「兄さん、私の写真が国際的なフォトコンテストで金賞を取ったよ!」 桐谷煙月は嬉しくて神崎庭志の部屋へ飛び込むと、子供の頃から何度も甘えたように彼の胸に抱きついた。 しかし次の瞬間、彼女の頬に強烈な平手打ちが飛んできた。 お風呂からバスタオルを巻いて出てきた白石莉花(しらいし りか)が煙月を叩いたあと、強い力で彼女を突き放した。 「煙月、私という兄さんの恋人がいるのに、堂々と彼に抱きつくってどういうつもり?恥ずかしくないの?自分の兄まで誘惑する気なの?」 煙月の頬はひりひりと痛み、目には涙が滲んだが、決して泣きはしなかった。 そうだ、どうしてさっきは忘れてしまったんだろう? 神崎庭志にはもう恋人がいて、まもなく結婚する。 煙月は幼い頃から孤児で、神崎家に引き取られ、庭志にずっと甘やかされて育った。だからいつも彼に頼ってきた。 煙月は庭志を見つめ、目には期待と悔しさが入り混じっていた。 彼なら、どんなことがあっても自分がいじめられるのを見過ごさないはず。 しかし、庭志の目は冷たく、声はさらに冷たかった。「煙月、自分の立場をわきまえろ」 自分の立場? 煙月は自嘲的に笑った。「ごめんなさい、私が悪かったね」 そう言い残して部屋を飛び出した。 ドアが閉まる瞬間、莉花の声が聞こえた。「庭志、さっきはわざと叩いたわけじゃないの。ただ、あなたを愛しすぎて、つい嫉妬しちゃっただけなの」 庭志の淡々とした声が響く。「別に構わない。煙月もそろそろ分別をつけるべきだ」 分別をつけるべき……? 煙月は部屋に戻ると、すぐ電話をかけた。 「青山先生、決めました。ヨーロッパに行きます」 電話の向こうで青山先生は喜びに満ちていた。「やっと決心したか! 君の実力ならもっと早く来ていれば、今頃は世界的な写真家になっているよ。いつこっちに来るんだ?」 煙月は少し考えてから言った。「半月後くらいでしょうか」 ここにある全てに別れを告げるためには、少し時間が必要だった。 そもそも白石莉花は庭志の秘書だった。 当時、庭志は何人かの履歴書を煙月の前に置き、「煙月、この中から一人選んでくれ」と言った。 煙月は少し戸惑った。「私はよく分からないよ。専門の人事担当者に任せたら?」 だが庭志は言った。「俺の秘書は君と顔を合わせることも多い。君が気に入った人なら、きっとやりやすいだろう?」 莉花は煙月が自ら選んだ秘書だった。 だが彼女は予想しなかった。自分ではただ秘書を選んだつもりだったのに、結局自らの「義姉」を選んでしまったのだ。 翌日、莉花は前日のことを忘れたかのように、強引に煙月を連れてウェディングドレスの試着に出かけた。 「煙月、どれがいいと思う?このドレスどうかな? 庭志ったら本当に適当で、私がどれを着ても『似合うよ』ばっかり。一つも意見を言ってくれないのよ」 煙月はため息をついた。「あなたのウェディングドレスなんだから、自分が気に入ったのを選べばいいんじゃない?」 莉花は唇を尖らせて甘えた声を出した。「私って実家が貧しいから、センスがなくて庭志に恥をかかせるかもって心配なの。でも煙月は写真家だから、美的感覚が素敵でしょ?」 「私は写真を撮ることしかできないし、構図を見るのは得意だけど、ドレスのことは本当にわからないよ」 莉花は少し落ち込んだ様子で、どこか拗ねたような声で言った。「煙月、もしかしてまだ私のことを認めてない? 昨日のことは私が悪かったの。あんなに感情的になって、謝るから許してくれる?」 煙月は反論しようと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。 莉花を認めないわけじゃないし、強く怒っているわけでもなかった。 ただ、ずっと自分だけを可愛がってくれていた庭志が、なぜ突然他の女性を愛するようになったのかが理解できなかった。 莉花はそっと隣の庭志を見上げ、まるで思いやりに満ちた声で言った。「庭志、ねえ……煙月が機嫌を直してくれるまで、式を延期してもいいんじゃない?」 庭志は眉をひそめた。「煙月が不機嫌だからって、結婚式をやめるのか?」 莉花はしゅんとした顔で、「だって、煙月はあなたの妹でしょ? 私…彼女に祝福されたいの」と、つぶやくように言った。 庭志は少し黙ってから、煙月の方を見た。 冷たく言い放った。「煙月、もう少し大人になれ。莉花を困らせるな」 煙月は顔を背け、「困らせてない」と呟いた。 庭志の表情にわずかな非難の色が浮かんだのを見た瞬間、煙月の目元がじわりと赤くなった。 かつて庭志が彼女を甘やかしていた頃、彼の方がいつも彼女にべったりだった。 他人がいる場では少しでも距離を取ろうとすると、すぐに不満そうに彼女を引き寄せていた。 彼女が田舎に撮影に行けば、彼もついてきた。 アフリカに動物の移動を撮りに行ったときも、彼は一緒だった。 庭志は、いつだってこう言っていた——「いつどこにいても、君のすぐ後ろに俺はいる。振り返れば、必ずそこに俺がいるから」 煙月は深呼吸をして言った。「ごめんね、私が距離感を間違えたせいで、白石さんに誤解させちゃった。私が気をつければいいだけのこと。これからは注意するよ」 庭志は軽く頷いた。「分かってくれればいい」 煙月は静かに「うん」と返事をしてから言った。「じゃあ二人でゆっくりドレスを選んで。私はちょっと体調が悪いので、先に帰るから」 振り返って店を出る瞬間、こらえていた涙が静かにこぼれ落ちた。 煙月は手のひらで無理やり涙をぬぐい、スマホを取り出して航空券を予約した。 半月後、この便に乗って、ここを永遠に離れる。 神崎庭志のもとを、離れていく。 第2話 煙月は外で深夜まで過ごし、やっと家に戻った。 離れる決心は一瞬でつけられたが、二十年以上の感情はそう簡単に消えるものではない。本当に全てを手放せるほど強くもない。 後悔しないために、この半月間はなるべく庭志と会わないほうが良いと考えていた。 神崎邸に戻ると、家の中は真っ暗だった。 煙月は灯りをつけず、疲れきった体を引きずるようにして自分の部屋へ向かった。 その時、突然リビングから声がかかった。 「煙月」 振り返ると、ソファには誰かが座っていた。 「何か用?白石さん」 白石莉花は黒いレースのネグリジェ姿でソファの肘掛けにもたれかかり、微笑を浮かべた。「これ、庭志が買ってくれたの。どう?似合う?」 莉花が姿勢を正すと、胸元や腰の赤い痕がちらりと見えた。 黒いレースがそれをより艶かしく引き立てる。 彼女は首元の痕を指でなぞり、「んっ……」と痛そうに息を漏らしながら、ねっとりした声で言った。「庭志ってば、ウエディングドレス選びのセンスはないけど、こういうのを選ぶセンスは最高なの。これを着ると彼、抑えられないんだって」 煙月は階段の上から冷ややかな目でその芝居を見下ろし、皮肉げに口角を上げた。「白石さん、ちょっとその匂い抑えたら?」 「匂い?何の?」 「発情臭」 莉花はふふっと笑った。「でもさ、あなたのお兄さんってそういうのが好きなの。帰ったらすぐこれに着替えろって言われて、それから……」 「もういい、聞きたくない」 「聞きたくなくても事実は事実よ。庭志は私の体に夢中なの。二十年以上の情がなんだっていうの? 男なんて結局、ベッドで合う女を選ぶだけ」 煙月は呆れて背を向けて立ち去ろうとした。「勝手にやって。私はあなたの芝居を見るほど暇じゃないから」 しかし莉花は諦めず、裾を掴んで追いかけてきた。「そんなに遠くちゃ、あなたのお兄さんが私につけた痕がよく見えないでしょ?煙月、逃げないでちゃんと見てよ……」 莉花が追いつき、煙月の腕を掴んだ。 煙月は胃がむかついて、とっさに腕を振り払った。「触らないで!」 その時、庭志が寝室から出てきて声をかけた。「こんな夜中に何を騒いでる?」 煙月が何かを言おうとした瞬間、莉花は狡猾な笑みを見せた。 次の瞬間、急に怯えた表情に変わった。 「キャッ!」 莉花が階段から転げ落ちた。 「莉花!」 庭志は持っていた牛乳のグラスを置いてすぐに駆け寄り、莉花を抱き起こした。「大丈夫か?」 莉花は弱々しく庭志の胸に寄りかかり、か細い声で言った。「大丈夫よ。煙月を責めないで。わざとじゃないの……」 庭志は顔を上げ、煙月の方を見た。その視線には、はっきりと「失望」の二文字が浮かんでいた。 「煙月、いくら莉花が気に入らなくても、階段から突き落とすなんて危険すぎるだろ!」 そして莉花の方を振り返ると、その声は一転して優しげで、どこか甘やかすような響きに変わった。莉花には優しく抱き上げながら言った。 「部屋に戻ろう。怪我をしていないかよく見てやる」 莉花は顔を赤らめながら言った。「これから煙月の前ではあんまりイチャイチャしないほうがいいかもね。妹が兄に独占欲を持つのって、普通のことだと思うの。これまでずっと彼女一人を可愛がってきたんだから、急に私が現れて、すぐには受け入れられないよ。だから、煙月の気持ちを一番に考えて、少しずつ時間をあげよう?」 庭志は冷たく返した。「いずれ慣れるしかない」 庭志は莉花を抱えて寝室に戻った。莉花は彼の肩越しに振り返り、煙月に勝利のVサインを見せた。 煙月はその瞬間、この世界がまったく知らない世界になったように感じた。 莉花の出現は彼女の世界を粉々に破壊した。 庭志がなぜ白石莉花のような女性を好きになったのか、煙月には理解できなかった。 莉花が言ったように、「愛」と「欲」の狭間で揺れたとき、結局男性は「欲」を刺激する相手を選ぶのだろうか。 煙月には理解できなかった。 でも今は、理解したくもなかった。 翌朝、煙月は雑誌社に立ち寄った。 ここでコラムの専属フォトグラファーとして三年間働いてきた彼女は、同僚たちともとても仲が良い。 編集長は彼女から辞表を受け取り、少し驚いた様子だった。「給料の問題か? だったらちゃんと言ってくれればいい。社長と交渉するよ」 煙月は笑顔で首を振った。「ありがとうございます。でもお金の問題ではありません」 「じゃあ、なぜだ?」 「別の人生を選びたいんです」 編集長は察したように微笑んだ。「もしかして、神崎庭志さんと結婚するんだろう?神崎奥さんになる準備か。いや、いいことだよ。ここ数年、雨の日も風の日も毎日送り迎えしてたし、本当に君のことを大事にしてた。君が彼と結婚するなら、私も応援するよ」 煙月は前半を聞いたとき、説明しようと口を開きかけた。 神崎庭志は結婚する。だが、花嫁は自分ではない。 けれど、その後の編集長の言葉を聞いて、何も言う気がなくなった。 彼と自分、そして白荷との関係は、あまりにも複雑すぎて、簡単に説明できるものではない。 今はただ、早く退職手続きを済ませて、半月後にこの地を離れたい、その気持ちだけだった。 「ところで桐谷、式の日取りはもう決まってるの?ぜひ招待状を送ってよ。君たちの結婚式、ぜひ祝わせてほしいな」 煙月は気まずく微笑んだ。 その時、受付の田中が嬉しそうにドアをノックし、顔を覗かせた。「桐谷さん、また彼氏が迎えに来てるよ。今日は何かサプライズがあるみたいだよ!」 第3話 煙月が雑誌社を出ると、庭志が黒のクラシックなカリナンのそばで、何かを考えるように佇んでいるのが見えた。 近づいて初めて、田中さんの言った「サプライズ」が何なのかが分かった。 車の中は、助手席以外すべて真っ赤なバラの花で埋め尽くされていた。 後部座席も、トランクも、鮮やかなバラでいっぱいだ。 背後では、仲の良い同僚たちが会社の看板の後ろに隠れてこちらを覗き見しながら、ひそひそ話しながらクスクス笑っている。 以前は、庭志が彼女を迎えに来るたびに、煙月の好きなものをよく持ってきてくれた。 ケーキやミルクティー、それに、彼女の好物ばかりを詰め込んだいろんな種類のお菓子だった。 同僚たちは見慣れているはずなのに、毎回のようにくすくすと笑いながら冷やかしてくる。「煙月の彼氏が来ると、毎回おいしいものが社内にあふれるよね。完全に煙月のおかげだわ~」 煙月はそんな同僚のからかいをいつも軽く受け流し、庭志が持ってきたお菓子を皆で分けていた。 だから今日もきっと、車の中のバラを狙っているに違いない。 煙月は彼を呼んだ。「庭志」 庭志は顔を上げたが、表情は硬く冷たい。「これからは名前で呼ぶな。兄さんと呼べ」 煙月は戸惑いながら頷いた。 「分かった、兄さん」 「昨夜は言い過ぎた。あまり気にするな」 「うん」 「だが、君はもう子供じゃない。人を階段から突き落とすなんて危険なことは二度とするな」 煙月は信じられないという顔で、怒りと皮肉が混ざった笑いを浮かべた。「今日ここに来たのは、私を責めるため?」 庭志の表情がさらに険しくなった。「君はまだ自分の間違いが分かっていないのか?」 「神崎庭志、私を二十年以上知っているよね。仮に本当にあの人を傷つけたいと思ったとしても、自宅でそんな馬鹿なことをすると思う?」 煙月は声を荒げたが、すぐに後悔した。 どのみちここを去るのだ。 何を言っても無駄だろう。 「もういい、会社の邪魔をしないで帰って」 会社の入口に戻ると、さっきまで笑ってふざけていた同僚たちの顔つきが、一気に心配そうなものに変わった。 「桐谷さん、喧嘩したの?」 「あんなにバラを用意してくれたんだから、許してあげたら?」 「桐谷さん、本当に恵まれてるのにね。あんな彼氏、めったにいないよ」 煙月は無表情に言った。「ここに集まらないで、仕事に戻りなさい」 煙月は写真の実力もあって、社内では頼られる存在だった。 後輩の女の子たちも彼女の言うことなら素直に聞いて、しょんぼりと頭を垂れて会社に戻っていった。 一番なついてる田中が、こっそり袖を引っ張ってきた。「桐谷さん、私バラを一輪もらっていい?さっき見たけど、車の中に花がいっぱいで、花瓶を用意して待ってたんだ」 煙月は頭を抱えた。「私が別に買ってあげる。ちゃんと、君の花瓶も埋めてあげるから」 席に戻っても、心は落ち着かなかった。 過去に撮った写真を整理していると、スマホが鳴った。 【写真】【写真】【写真】 【どれが好き?(照///)】 莉花からのメッセージだった。送られてきたのは、数枚の写真。写っていたのは、いくつかのデザインのナイトウェアだ。 いや、ナイトウェアというより、ほとんどランジェリーだった。 見せるべきところは当然のように露わにされ、見せるべきでないところまでも、あえて強調されるようにデザインされていた。 そしてそのメッセージは、すぐにメッセージは撤回された。 【間違えちゃった、ごめんね】と送られてきた。 煙月はスマホを引き出しにしまい、電源を切った。 実のところ、二人とも分かっていた。 莉花は誤送信などしていない。あれは、わざと彼女に見せつけるために送ってきたのだ。 煙月は退勤するまでスマホを引き出しにしまったままにしていた。やっとの思いで電源を入れた。 不在着信、なし。 メッセージ、なし。 LINEの通知、なし。 何もなかった。 昔なら、三十分でも連絡が取れなければ、庭志は何度も電話やメッセージを送りつけてきた。時には、直接編集部に押しかけてきたことさえあった。 でも、今はもう、そういうことは起きない。 代わりに、「友だちがストーリーを更新しました」の通知が目に入った。 開いてみると、見覚えのある風景が目に飛び込んできた。 黒のクラシックなカリナンの車内は、真っ赤なバラで埋め尽くされていた。 その前に立っている莉花が、両手にバラを抱えて、満面の笑みを浮かべていた。 【ありがとう、あなた。最高の誕生日プレゼントだわ】 あ、そっか。 今日は白石莉花の誕生日だったのだ。 これから彼の車の中のものはもう、すべて彼女のためのものだ。 退勤後、煙月はどうしても家に帰る気になれなかった。 ちょうどそのとき、神崎おばさんから電話がかかってきた。少し心配そうな声だった。「煙月、最近ずっと残業続きだけど、大丈夫?女の子がこんな遅くまで外にいるのは危ないわ。庭志に迎えに行かせるわね」 煙月は、もう彼の車には乗りたくなかった。 たとえそれが助手席でも、車いっぱいのバラでも、もう全部、彼女のものじゃない。 「大丈夫です、おばさん。タクシーで帰ります」 「そう、気をつけて帰るのよ」 煙月はタクシーを呼び、家に着いた頃には、庭志と莉花がすでに戻っていた。 ちょうど彼女の部屋から、大きなスーツケースを引きながら莉花が出てきたところだった。「煙月、おかえりなさい」 煙月は激怒して叫んだ。「誰が勝手に私の部屋に入っていいと言ったの?」 第4話 庭志はそれを聞くと、手に持っていたグラスを強くテーブルに置いた。「俺が許可したが、それがどうした?」 「私の許可もなく、どうして勝手に部屋に入って物を動かすの?」 「煙月、ここは神崎家だ。莉花は俺の婚約者だ。神崎家では彼女がどの部屋に入ろうと自由だ」 煙月は冷水を浴びせられたように固まった。 莉花は優しく「注意」した。「庭志、そんな言い方はだめよ。煙月が悲しむじゃない」 そして煙月に向き直り、続けた。「煙月、家政婦さんから聞いたんだけど、庭志の服や靴、ずっとあなたの部屋に置いてあったのよね。女の子は服が多いし、彼が半分のクローゼットを占領してたから、あなたの服が入りきらなかったでしょ? だから私が頑張って、彼の服を全部私たちの寝室に移したの」 庭志は昔から煙月にべったりだった。 子供の頃から彼女が一通もラブレターをもらえなかったのも、すべて庭志のせいだった。 その後、彼は自分の服まですべて煙月の部屋に運び入れた。「毎朝、煙月が選んでくれたシャツとネクタイを着て出勤できる」と、もっともらしい理由までつけて。 彼の服やネクタイがどこにあるか、本人よりも煙月のほうがよく知っていた。 煙月は急いで自分の部屋へ駆け上がった。 部屋の中は、まるで泥棒でも入ったかのような惨状だった。 服も、靴も、化粧品も、すべてが床に散らばっていて、見るに堪えないほどだった。 煙月は怒りを抑えきれず、床一面の混乱を指差して莉花に詰め寄った。「服の片付けって、こんなやり方ある?」 莉花はすぐに目を潤ませた。「ごめんなさい煙月、本当にうっかりして……」 「うっかりで私の部屋をここまで散らかせるの?随分とすごい『うっかり』ね!」 庭志がそれを聞いて眉をひそめた。「煙月、言葉に気をつけろ!」 煙月は笑った。「結局、私は何もしてないのに、また私が悪いのね?」 「莉花はお前の未来の義姉だ。敬意を持て」 「神崎庭志、自分の目で確認したら?」 庭志はゆっくりと階段を上がり、部屋の散らかりを見て一瞬驚いた。 けれど、それもほんの一瞬のことだった。 すぐに莉花に甘い笑みを向けた。「次からは俺たちの寝室は使用人に頼もう」 「でも、自分の服を他人に触らせたくないの。特に……ネグリジェは」 「ネグリジェ」という言葉を、莉花はわざと強調しながら口にした。頬には瞬く間に赤みが差す。 庭志は仕方なさそうにうなずいた。「わかった。じゃあ、これからは俺が片づけるよ。君は座って休んでて、な?」 莉花は舌を出して甘えた。「庭志、私ちょっとドジかもね」 「いいよ。俺がいるから、少しくらいドジでも全然いいさ」 煙月は目を閉じた。 これほどまでに「退職の引き継ぎ期間」が憎らしいと感じたのは、人生で初めてだった。 こんな混乱した状況を味わうくらいなら、もうとっくに国外に飛んでいたかった。 「煙月、莉花が壊した服や機材の数を教えろ。全部弁償する」 煙月は呆れて笑った。 まさか庭志が、お金で人の口を塞ごうとするなんて。 しかも、その相手がよりにもよって自分だなんて。 莉花がそっと彼女の腕を触り、小声で言った。「煙月、遠慮しないでたくさん請求してね。私がいるからいくらでも払ってくれるわ」 庭志は甘えるように言った。「君はもう外の人間と組んで夫の財布を空にする気か?」 莉花は可愛らしく舌を出した。「これからは煙月の義姉だもの。私、絶対に煙月の味方よ」 煙月は冷たく笑った。 外の人間。 そうだ。今、一番親しいのはあの二人。 彼女、煙月は所詮ただの神崎家の養女であって、完全なる「外の人間」だ。 その時、煙月の電話が鳴った。 青山先生からだった。 気持ちを整えてから、煙月は通話を押した。 「青山先生?」 「煙月、君が以前撮った鳥の写真とても評判が良くて、こちらの雑誌の編集長がネガを見たいと言ってる。もう一回送ってくれるか?」 「はい、少しお待ちください」 煙月は自分の部屋に戻った。 彼女は昔からフィルムカメラを愛用していて、撮影したネガは鍵付きの小さな引き出しに保管していた。 いつものように鍵を探そうとしたその時に、引き出しの表面が、ぐっしょりと濡れていることに気づいた。 「煙月、ごめんね……さっきコーヒーこぼしちゃって、それで汚しちゃいけないと思って……引き出し、丸ごと水で洗っちゃったの……」 その言葉を聞けば聞くほど、煙月の胸の内はどんどん冷えていった。 もう莉花に何も言いたくなかった。急いで鍵を差し込み、引き出しを開けた。 そして、目にした光景に、心が完全に折れた。 整然と並べてあったフィルムたちは、今や水の中に沈んでいた。 すでにほどけてしまったもの、変色しているもの、絡まり合って判別もつかないもの……溶け出した染料で、水はすでに褐色に濁っていた。 三年以上かけて撮ってきた、すべての作品のネガだった。 すべて、台無しになったのだ。 煙月は震えて言葉が出なかった。 いつの間にか、庭志が部屋に入ってきていた。状況を目にしながらも、無関心な口調で言った。「これも金額を教えろ。莉花と一緒に弁償するから」 煙月はついに爆発した。「お金で済む問題じゃないのよ!彼女は何も知らなかったとしても、あなたまで知らないの?私にとってこのフィルムがどれだけ大切か、あなたには分からないの?」 庭志は眉をひそめた。「でももうダメになったものはどうしようもないだろう? 怒ったって現実は変わらない。莉花は好意で服を片付けようとしただけで、コーヒーをこぼしたのはただの事故なんだ」 「事故だったら全部許されるの? 車で人を轢いても、『ごめんなさい』の一言で済むってこと?」 「煙月!」庭志の声が鋭くなった。「いい加減にしろ。フィルムと人の命を一緒にするな。写真なんて、また撮ればいい話だろう!」 そのとき、電話の向こうから青山先生の心配そうな声が聞こえた。「煙月、どうした? 何かあったのか?」 煙月は重い息を吐いて答えた。「すみません先生……ネガが……今はちょっと渡せそうにありません。改めて、新しい写真を撮ってお送りします」 「わかった、急がなくていいよ。ビザも半月はかかるし」 「はい」 庭志が聞き逃さなかった。「ビザ?国外に行くのか?」 第5話 煙月は電話を切った。 彼女は落ち着きを取り戻し、静かに散らかった部屋を片付け始めた。「青山先生のビザが切れてて、年配だから往復が大変でしょう?だから代わりに手続きをしてあげるの」 庭志は疑い深く尋ねた。「青山先生の娘は国内にいるんだろ?なぜ娘に頼まない?」 煙月は苛立ちを隠さず答えた。「じゃあ、彼の娘さんに直接聞けば?」 「そんな暇はない」 「なら余計な詮索はやめて」 煙月は一晩かけてようやく部屋を片付け終えた。 莉花が汚した服や靴は、持っていく気になれずクローゼットの隅にまとめておいた。 フィルムはなんとかいくつか救い出せた。 一度水に浸かってしまったネガは、すでにひどく劣化していて、もう使い物にならなかった。 化粧品は液体が漏れて、粉類も濡れて全て台無しだった。 【莉花:今日はただの警告よ】 莉花からメッセージが届いた。 表示されてから2分経つ直前で撤回された。 煙月が確実に目を通せるように、けれど証拠は残さないように。そんな姑息なやり口。 だが、前回の一件で、煙月も学んだ。 今度は、メッセージを受け取った瞬間に、すぐスクリーンショットを撮っていたのだ。 彼女は冷たく笑い、その画像を莉花に送り返した。 今回はしばらく莉花から返信がなかった。 煙月は、心の底から笑いたくなった。 自分の姑息な策略が、何度も何度も通用するとでも?しかも、まったく警戒していないとでも? ……莉花は、彼女のことを、甘く見すぎている。 10分ほど経ってから莉花から返信が来た。 【莉花:どういう意味?】 【煙月:別に。ただの警告よ】 煙月はそのままスマホを切った。 撤回しようがどうしようが、庭志が見てどう感じようが、もう関係ない。 離れると決めた日から、庭志には何も期待しないと心に決めていた。 翌朝の食事中、神崎おばさんが煙月の顔色を心配した。「煙月、一晩寝てないの?顔色がひどいわよ」 煙月は「うん」と小さくうなずいた。「あまり眠れなかった。でも大丈夫、少し休めば元気になる」 神崎おばさんは頷いた。「そうよ、数日はゆっくり休みなさいね。庭志の結婚式で忙しくなるから」 煙月は顔を上げた。「式の日程が決まったの?」 「そうよ、来週の週末にするって。え、庭志から聞いてないの? この子ったら、昔はどんな小さなことでも真っ先にあんたに話してたのに、大事な結婚のことを言わないなんて…まったくもう」 来週末。 煙月はカレンダーを確認した。 それは彼女が出発する日だった。 その時、庭志と莉花が寝室から出てきた。 莉花は何事もなかったかのように煙月に笑顔で話しかけた。「煙月、庭志と決めたんだけど、結婚式のメインカメラマンはあなたよ。綺麗に撮ってね」 煙月は即座に断った。「その日は都合が悪くて行けない」 莉花は唇を尖らせた。「まだ昨日のことを怒ってるの?ごめんなさい、本当に謝るから……許してくれないなら私、跪いて謝るわ」 そう言って、莉花は身をかがめ、膝をつこうとした。 それを庭志がすぐに引き止めた。「彼女なんかのために、君が跪く必要はない」 神崎おばさんも慌てて場を和ませた。「莉花さん、そこまでしなくていいわ。煙月はフィルムがとても大切だったの、怒るのも無理はないけど……だからって跪くほどじゃないよ」 莉花はしょんぼり言った。「私って本当に何をやってもダメね。煙月、本当にごめんなさい」 庭志が慰めるように言った。「気をつければいい。さあ、食事にしよう。さっきまでお腹が空いたって言ってただろ?」 莉花はいたずらっぽく舌を出した。「それもあなたのせいよ?朝からあんなにするから……お腹も空くわ」 「はいはい、悪かったよ。ほら、まずは座ってご飯にしよう」 庭志は彼女のために椅子を引いてあげ、丁寧にエスコートする。莉花が座ると、自らナプキンを手に取り、彼女の膝の上にやさしく広げた。 彼女の身の回りを整えてから、ようやく自分もその隣に腰を下ろした。 パンにジャムを塗りながら煙月に言った。「煙月、来週末は俺たちの結婚式だ。どんな予定もキャンセルしてカメラマンをしてくれ。二十年以上兄妹として過ごしてきた、その締めくくりとしてさ」 その時、玄関のベルが鳴った。 使用人がドアを開けると、見知らぬ人が立っていた。 「すみません、どちら様ですか?」 「「こんにちは。桐谷煙月さんはいらっしゃいますか?私は慈善団体の者です。桐谷さんからご連絡をいただいて、貧困地域に衣類を寄付したいと伺っております。今日はその受け取りに参りました」 煙月は立ち上がった。「私です。準備してありますので少々お待ちください」 煙月は階段を上がり、自分の持っている服をすべて大きな袋に詰めて、女性に渡した。 「本当にありがとうございます。最近ぐっと冷え込んできて、山間部では女の子たちが十分な冬服もなくて困っているんです。こうして頂いたお洋服があれば、きっとたくさんの子たちが冬を乗り越えられます」 「気にしないで。早めに届けてあげてください」 「ちょっと待て」 突然、庭志が疑わしげな声をあげながら近づいてきた。足元に並ぶ六、七袋の衣類を見て、眉をひそめる。 「待て。自分の服を全部寄付するつもりか?」 第6話 神崎おばさんも驚いて言った。「煙月、寄付ならお金を出せばいいじゃない。全部の服を寄付してしまったら、この寒い中どうするの?」 煙月は庭志を見て、軽く笑った。「白石さんが弁償してくれるって言ったでしょう?あの服はもう古いから要らないよ。お金さえあれば新しい服を買えるし、問題ないでしょ?」 庭志は少し彼女を見つめてから頷いた。「いくら欲しいんだ?すぐに振り込む」 煙月は一本の指を立てた。 「一千万か?いいぞ」 「違う」 「一億?」 莉花は焦って声を上げた。「服数着で一億なんて高すぎるよ!」 煙月は冷笑を浮かべて莉花を見ると、庭志に言った。「一円でいい」 これらの服は、もともと庭志が強引に買ってくれたものだ。 彼女はもうここを去ることに決めた。彼のものを持ち去るつもりも、お金を受け取るつもりもない。 彼が言った通り、ここは神崎家であり、自分は外部の人間だ。 一円で清算。 二十年以上の感情もこれで完全に断ち切った。 庭志はやや苛立って尋ねた。「煙月、一体何が目的だ?」 「払うの?払うなら送金して、払わないならそれでもいい」 庭志はしばらく黙ってから、一円を送金した。 「約束は果たした。これで莉花への弁償は終わりだ。もうこの件で莉花に顔色を見せるな」 煙月は銀行口座に一円が入ったのを見て、静かに微笑んだ。「安心して。もう二度とないから」 「それから、俺たちの結婚式のカメラマンだが、莉花の願いだ。必ず来てくれ」 煙月は少し考えた。彼女のフライトは夜だ。 彼らの新婚初夜。 彼女は頷いた。「分かった」 それ以降、煙月はほとんど神崎家に戻らなかった。 田舎に行き、新たに鳥の写真を撮影し、青山先生に送った。 青山先生はその写真を見て感激し、すぐにビデオ通話で彼女を褒め称えた。「煙月、君の構図も色彩も以前よりずっと素晴らしいよ!こちらの雑誌社が君を取り合っている。来たらぜひ直接会って、一番いいところを選ぼう!」 人から認められることは煙月にとって嬉しかった。「ありがとうございます、青山先生」 「ところで、兄さんの許可は取れたのか?ヨーロッパ行きを認めてくれたの?」 煙月は笑った。「彼も私に行ってほしいと思っています」 「それなら安心だね。だか、こんなにスムーズに話が通るとは……正直、説得するの、もっと大変かと思ってたから、ちょっと意外だったな……」 煙月は青山先生から住所を聞き、まず自分の機材を送った。 青山先生が先に預かってくれ、彼女が現地に到着したら、自宅で受け渡す手はずになっていた。 庭志と莉花の結婚式当日、煙月は式場のカメラを借りて撮影した。 莉花は名家に嫁ぐという夢を叶え、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。 煙月が撮影するときは特に、勝者のように得意げだった。 庭志はゲストたちとの会話に忙しかったが、莉花はそれさえも気に入らず、無理やり彼を引き寄せて、写真撮影に付き合わせた。 神崎おばさんは煙月を気遣った。「莉花、もう十分撮ったでしょう?煙月を休ませてあげて」 莉花は言った。「煙月はプロだから、このくらい大丈夫よね?」 神崎おばさんはその様子を見て、少し不機嫌そうに口を開いた。「式場のカメラマンに頼もうよ。煙月はもう休ませてあげなさい」 「でもプロより煙月のほうが絶対に上手だもの。私たちの一生に一度の日よ?一番幸せな瞬間は煙月に撮ってもらわなきゃ」 煙月は黙って最後の一枚を撮影し、カメラを返した。 そして振り返らずに去った。 神崎おばさんが追いかけてきた。「煙月、どこへ行くの?」 煙月は微笑んだ。「今後、庭志には莉花さんがいるし。おばさんも体に気をつけてくださいね」 「煙月、あなたも私の娘よ。私はまだ、あんたがいてくれるじゃないの」 煙月は神崎おばさんの手を握った。「はい、私はずっとおばさんのことを大切にしています」 神崎おばさんは寂しそうに言った。「煙月、昔はあなたが庭志の妻になると思っていた。『お母さん』って呼んでくれる日が来るんだって、信じてたのよ。まさか庭志が、あんなふうに……」 「その話、もうやめましょう」 「そうね、そうね……やめましょう」 その時、青山先生から電話がかかってきた。 「煙月、空港に着いたか?到着はいつ?私たちが迎えに行くよ」 「これから向かいます」 「では、8時間後に会おう」 「はい」 電話を切って煙月は時間を確認し、空港へ向かった。 神崎邸には戻らず、タクシーで空港へ直行した。 搭乗待ちの列に並んでいる時、莉花からメッセージが届いた。 【莉花:今日は素敵な写真をありがとう。これからは「義姉」と呼んでね】 【莉花:夫の妹としてじゃなくて、家族として仲良くやっていけたら嬉しいな。( *´艸`)フフ】 煙月は冷笑し、そのスクリーンショットを庭志に送った。 【お兄さん、お幸せに。もう会うことはないでしょう】 彼女はそのメッセージを読み終えると、庭志と莉花を、それぞれSNSからブロックした。 これでもう二人は、煙月の世界から完全に消える。 乗務員が笑顔で声をかけた。「ご搭乗、ありがとうございます。どうぞ、良い旅を」 煙月もにこりと微笑み返した。「ありがとう。とっても気分がいいわ」 そう言って、彼女は一度も振り返ることなく、飛行機へと乗り込んだ。

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