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逃げた私を、兄たちは追いかけて
十歳の時、陸橋謹治に救われた私。 彼は「一生守る」と約束してくれた。 十五歳の時、深水望と出会った私。 彼もまた「一生守る」と誓ってくれた。 そして二十三歳。一生を誓ってくれた二人は、 自分たちの初恋の人のために、私を海に投げ込んだ。
チャプター (1)
第1章
十歳の時、陸橋謹治に救われた私。
彼は「一生守る」と約束してくれた。
十五歳の時、深水望と出会った私。
彼もまた「一生守る」と誓ってくれた。
そして二十三歳。一生を誓ってくれた二人は、
自分たちの初恋の人のために、私を海に投げ込んだ。
第1話
ドン!
私は荒々しく、底なしの海へと投げ込まれた。
クルーズ船のデッキから歓声が上がる。周りの人々は興奮して拍手喝采を送っている。
海に投げ込まれた人間が生きて岸に辿り着けるかどうかなど、誰一人として気にかけている様子もない。
必死に手足をバタつかせ、「助けて!」と叫ぼうとした瞬間、塩辛い海水が口の中に流れ込んできた。
「た、助けて......!
お願い......誰か......!」
私の必死の叫びは、彼らの興を添えるだけの余興でしかなかった。
むしろ、それを面白がってパンやワインまで投げ込んでくる者までいる。
甲板の上の人々は腹を抱えて笑っていた。まるで海の中にいるのは一人の人間ではなく、ただの見世物のように。
次第に腕も脚も動かなくなり、足がつり始める。徐々に沈んでいく体。
朦朧とする意識の中、甲板に立つ二人の男の姿が目に入った。
一人は、私に新しい人生をくれた人。今、その人は無表情なまま、海の中で必死にもがく私を見下ろしている。
もう一人は、一生大切にすると約束してくれた人。なのに今、その人は別の女性を優しく抱きしめ、周りの人々と同じような表情を浮かべていた。
嘲笑、愚弄、そして冷たい興味。
彼の目には、私はただの玩具としか映っていないのだろう。
疲れた。心も、体も限界だった。
少しだけ、休ませて——。揺れる波は、幼い頃に母が私を寝かしつけてくれた時の温もりのようだ。私はゆっくりと目を閉じ、微かな笑みを浮かべた。
母の腕の中で安らかに横たわっているような気分。周りの嘲笑も、彼らの偽りの優しさも、もう何も気にしなくていい。ただ、静かに眠りにつけばいい。
でも、この安らぎは束の間のものだった。
耳元で交わされる小声の会話に、私は目を覚ました。
まぶたが震え、ゆっくりと目を開けると、真っ白な天井が広がっていた。
頭の中が真っ白で、何も思い出せない。自分が誰なのかさえ、分からない。
その時、周りの声が慌ただしくなった。
「患者さんが目を覚ましました。すぐに陸橋様と深水様にお知らせを」
「もう一度検査をして、追加の治療を行いましょう」
私はベッドに横たわったまま、医療スタッフの処置を受け入れた。
誰かが水を飲ませてくれた。カラカラに渇いた喉が潤され、頭の中も少しずつ冴えてきた。
思い出した。私は陸橋謹治の同伴として、霧島晴のクルーザーでの誕生日パーティーに出席していた。
気分が高揚していた霧島晴は、パーティーの主役として、陸橋謹治と深水望に賭けを持ちかけた。
賭けの対象は、彼女と私。負けた方の女性同伴者を、安全措置なしで海に五分間投げ込むという、命懸けの賭けだった。
生死は運次第——。
霧島晴はスリルを求めていたが、私は彼女の狂気に付き合うつもりはなかった。まして命を賭けるなど御免だった。
けれど陸橋謹治も深水望も、彼女の歪んだ願望を叶えるため、私を強引に押さえつけ、狂気じみた賭けを始めた。
ルールは単純。カードの大小を競い、三回戦で二勝した方が勝者となる。
私は陸橋に懇願するような目を向けた。少しでも分別があることを願って。でも彼は目も合わせず、ただカードを見つめているだけ。
深水の方を見ても、彼の目には霧島晴の姿しかなかった。
彼は私を嘲るように一瞥し、軽く笑って言った。「杏ちゃん、怖がらなくても。もしかしたら最後は陸橋が勝つかもしれないよ?」
そう、すでに二回戦が終わり、結果は一勝一敗の互角。
私は陸橋に望みを託した。この先の人生の全ての幸運を、この勝負に賭けてもいいと思った。
だが結果は......陸橋がカードを伏せ、降参を告げた。
周囲からは信じられないという声が上がり、私も目を見開いた。
いつも勝負に執着する陸橋が、生まれて初めて「負けを認める」と言ったのだ。
「ごめんね、杏ちゃん。この勝負、僕の勝ちだよ」深水は嘲るように笑った。
私の目から光が消え、全身の血の気が引いていく。
霧島晴は手を叩きながら、狐のような目を細めた。
「残念でしたね、城井さん。今夜は貴女が海に潜ることになりましたよ。
みなさん、真ん中を開けてください。特等席で観賞させていただきますから」
私はボディーガードに両脇を抱えられ、陸橋の前を通り過ぎる時、彼の服の裾にすがりついた。目には最後の望みを宿して。
「お兄さん......謹治お兄さん、私、泳げないの。助けて......」
陸橋は無表情なまま私を見下ろし、私の手の甲に自分の手を重ねた。
「杏、兄さんが負けたんだ。賭けは賭けだ」
真夏だというのに、私の体は震えが止まらなかった。
枯れ木のように硬直した私の体は、力任せにクルーズ船から投げ落とされた。
海面への衝撃で頭がクラクラし、こめかみに鋭い痛みが走る。
そして、一生の支えになると約束した二人は、冷ややかな目で、いや、むしろ興味深そうに私を見つめていた。
その瞬間、私は今までに感じたことのない絶望を味わった。
第2話
今でも思い出すだけで、思わず体が震え、歯が鳴るほどだ。
病室の外から急ぎ足の音が聞こえ、陸橋と深水が続けざまに入ってきた。
霧島晴も一緒だった。
彼女はベッドの足元に立ち、目を赤くしていた。
「城井さん、本当にごめんなさい。私が軽率でした。医療費は全て私が持ちますので、どうか怒りを収めて、恨まないでください」
誠実な口調で、か弱げな表情を浮かべる彼女は、あのクルーズ船で賭けを持ちかけた時とは別人のようだった。
頭の中が蜂の巣をつついたように騒がしく、脳の芯が鋭く痛んだ。
私は目を閉じ、この痛みに耐えた。
しかしそれは陸橋と深水の目には、霧島晴への恨みの表れと映ったようだ。
陸橋は病床の傍らに立ち、上から私を見下ろしていた。相変わらず冷静そのもの。
私が目の前で死にかけても、彼の心は一片の波紋すら立てない。
でも、昔の彼は、こんな人ではなかったはずなのに。
私が十歳の時、父は私を歓楽街に連れて行った。
父は私に赤いバラを持たせ、優しく囁いた。「杏、よく覚えておきなさい。このバラを受け取った人について行くんだ。分かったか?」
なぜだろうと考える前に、初めて見る父の優しい態度に戸惑っていた。
私が頷かず、黙ったままでいると、父は焦り始め、私の痩せた体を腕を掴んで揺さぶった。
その瞬間、私は我に返った。いつもの父の姿を見た気がした。
そうだ、父が優しいはずがない。酒と賭博に溺れ、私と母を殴るだけの人だった。
母は父に殴り殺され、私は足手まといだからと、売り飛ばされようとしていた。
私と同じように赤いバラを持たされた子たちを見たことがある。バラを受け取る人について行かないと、歓楽街に売られてしまうのだ。
大勢の人が通り過ぎていったが、誰も私のバラを受け取ろうとはしなかった。
父は焦り、怒り出した。「役立たずめ!足手まとい!」
「お前なんか、最初から壁に射っとけば良かったんだ、この出来損ない!」
父に引きずられ、あの地獄の門のような入り口に近づいた時、一人の少年が私のバラを受け取った。
少年は無表情のまま、後ろのボディーガードに父との話を任せた。
父は分厚い札束を受け取ると、腰を低く曲げ、へいへいしながら私たちを見送った。
少年は私を大きな屋敷に連れて行き、人をつけて勉強や礼儀作法を教えてくれた。
でも、その日以来、彼の姿を見ることはなかった。
それから三年が過ぎ、私はひょろひょろした豆もやしから、すらりとした少女に成長した頃、やっと彼に再会できた。
相変わらず無表情な彼だったが、私を見た時、その目に一瞬だけ光が宿った。
その日、私は彼の名が陸橋謹治だと知り、「お兄さん」と呼ぶように言われた。
それから十年。
ずっと彼の後ろを歩いてきた。
陸橋は私を育てた者として、一生守り、誰にも私を傷つけさせないと約束してくれた。
でも今、その約束は忘れ去られ、彼の庇護は別の女に向けられていた。
私が死にかけていた時でさえ、他人の味方をして。
「杏、晴は少し酔っ払って、はしゃぎすぎただけだ。恨まないでやってくれ」
相変わらず冷淡な態度で、薄い唇を軽く結び、感情の読めない目で私を見つめている。
喉が渇いて、言葉が出てこなかった。
彼は眉をしかめ、不満げな様子で、諦めたような口調で私の名を呼んだ。
「杏」
「子供じみた意地を張るのはやめろ」
そうか。私の苦しみは、彼の目には単なる駄々と映るのか。
指先を強く摘んでみる。痛い。でも体のどこかが痛めば、心の痛みは和らぐ。
これも陸橋に教えてもらったことだ。
口を開いて、意地を張っているわけじゃない、怒ってもいない、ただ彼との関係に終止符を打ちたいだけだと言いたかった。
でも喉を開くと、刃物で切られるような痛みが走り、声さえ出なかった。
深水は苛立ち始め、最初にあった僅かな後ろめたさも、今では完全に消え失せていた。
「城井杏、芝居にも程があるだろう。晴だって謝ったんだ。『大丈夫です』の一言も言えないのか?
自分をそんなに大切だと思ってるのか?ちょっとした冗談も通じないってか?」
陸橋に十何年も養われて、ろくなことは学べなかったようだな。その代わり、わがままだけは立派に身についたみたいだ」
第3話
彼の言葉に含まれる軽蔑と、目に宿る嘲りは、まるで目に見えない平手打ちのように、かつての彼自身の面影を打ち砕いていった。
深水との初めての出会いは、陸橋の十八歳の誕生パーティーの時だった。
その日、陸橋は私を実家に連れて行き、家族に紹介してくれた。
「これからは杏も陸橋家の一員だ。俺が生きている限り、一生守り続ける」
ゲームに夢中だった深水は、その言葉を聞いて顔を上げ、私を品定めするような目で見つめた。
しばらくして、彼は口元を緩ませ笑った。「謹治がそう言うなら、杏ちゃんは僕の人でもあるってことだ。僕も守ってあげるよ」
その瞬間、好奇の目、軽蔑の目、羨望の目、様々な視線が一斉に私に注がれた。
私は戸惑いで落ち着かなくなった。
深水はスマホを置くと、大きな手を私の手の甲に重ねた。
「杏ちゃん、お兄さんと街でも回って、仲良くなろう」
私の意見も聞かずに車に押し込み、街中を一周した。陸橋から電話で催促がなければ、海まで連れて行くつもりだったらしい。
車から降りる時、彼は私の頬をつまみながら、少年らしい純粋な表情を浮かべた。
「杏ちゃん、謹治とばかり遊んでないで、僕のことも見てよ。僕だってお兄さんなんだから」
それから私は陸橋と一緒に暮らすようになり、深水も常連のように家に来るようになった。
彼はよく私を遊びに連れ出し、国内だけでなく、海外まで連れて行ってくれた。
大学卒業の日、深水と陸橋は私の卒業式に来てくれた。
まるで月を取り巻く星々のように、私は羨望の的となっていた。
その夜、深水は海辺で一晩中花火を打ち上げ、私に告白した。
一瞬、心が揺らいだ。何か言おうとした時、大きな手が私の口を塞いだ。
陸橋の気配が私を包み込み、目の前には笑顔を消した深水の顔があった。
「杏はまだ若すぎる。今は恋愛を考える時期じゃない。深水、彼女を惑わすな」
陸橋は低い声でそう言った。
深水は目を伏せ、傷ついた表情を見せた。私は心を痛めたが、陸橋は私を押さえ続けた。
あの夜の後、深水との関係が冷えてしまうと思った。
でも翌日も、彼はいつもと変わらず現れ、私を遊びに連れ出した。陸橋も止めようとはしなかった。
何も変わらなかったように見えた。
霧島晴が戻ってくるまでは。深水に会う機会は減り、陸橋も家に帰らなくなった。
あの家は、私一人の住処となった。
私は唇を舐め、乾いて割れた唇を潤した。
「怒ってなんかいません」
たった一言の短い言葉なのに、喉が引き裂かれるような痛みと共に、かすれた声が漏れた。
深水はため息をつき、表情が少し和らいだ。
「怒ってないならいい。良い子だな、杏ちゃん。退院したら、また遊びに連れて行ってやるよ」
私は薄く笑みを浮かべ、平静を装った。
実は、深水が私に告白してから、私の前では「お兄さん」を名乗らなくなった。私にも「お兄さん」と呼ばせなくなった。
彼は私に名前で呼んでほしがった。「望さん」と。
私がそう呼ぶ度に、特別な感覚が込み上げてくるのだと言っていた。まるで暖かい流れが体を包み込むような感覚だと。
でも霧島晴が戻ってきた日、カラオケの個室で私が彼の名前を呼んだ時、彼は表情を曇らせ、こう言った。「杏、『お兄さん』って呼ぶべきだろ」
だから、彼は私の前でまた「お兄さん」を名乗り始め、私にもそう呼ばせるようになった。
胸が締め付けられる。あの思い出は鮮やかで美しすぎて、今でも振り返ると、つい憧れを感じてしまう。
でも、いつも誰かが私を現実に引き戻し、自分の立場を思い知らせる。
陸橋は腕時計を確認すると、少し優しい口調で言った。
「もう誤解も解けたことだし、杏、ゆっくり休んで。何も考えずに、眠ればいい」
本当に、眠れば良くなるの?
眠れば、全てが無かったことになるの?
私は頷いたけれど、彼のその安易な解決法に同意できなかった。
陸橋が去り、深水も少しして会社に呼び出されて出て行った。
病室に残ったのは、私と霧島晴だけ。
少し意外だった。本来なら、私なんて見たくもないはずなのに。
霧島晴が戻って来た初日から、彼女は私に対する嫌悪を隠そうともしなかった。
今でも覚えている、あの時の表情を。
高慢で、軽蔑に満ちた目。まるで虫けらを見るような眼差し。
今も、変わらない。
私が目を逸らすと、霧島晴の声が影のように付きまとってきた。
「城井杏、命が強いのね。あれだけのことをされても死ねなかったなんて。
でも、生きていてくれて良かったわ。私を取って代わろうなんて考えが、どれだけ愚かなことか、あなたに目の当たりにさせてあげるから」
取って代わる?そんなこと、考えたこともない。
「誤解です。私、あなたの代わりになろうなんて思ったことは......」
霧島晴は嘲るように笑った。「そう?じゃあ、なぜ二人の傍から離れないの?恩返しだなんて言わないでよね」
「城井杏、まさか今でも、謹治があなたを買い取ったのは同情からだと思ってるの?
気付いてないの?あなた、私にそっくりだってこと」