あなたが愛を誓うその日に、私は海の底に眠っていた

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あなたが愛を誓うその日に、私は海の底に眠っていた

GoodNovel 完結

小林みゆき(こばやし みゆき)は朝倉研人(あさくら けんと)が好きだ。 それは、絶対に言ってはいけない秘密。 なぜなら、彼は彼女の「家族」だから。 彼女は彼が丁寧に育てたバラで、彼は彼女の誰にも言えない最愛だった。

チャプター (1)

第1章

小林みゆき(こばやし みゆき)は朝倉研人(あさくら けんと)が好きだ。 それは、絶対に言ってはいけない秘密。 なぜなら、彼は彼女の「家族」だから。 彼女は彼が丁寧に育てたバラで、彼は彼女の誰にも言えない最愛だった。 第1話 「先生、人体冷凍保存の実験に参加したいです。申し込みをお願いします」 小林みゆき(こばやし みゆき)は淡々とそう言った。 電話越しに、長谷川(はせがわ)教授の声が返ってくる。 「小林さん、本当にいいのか?がんのことは確かに辛かっただろう。でも、まだ完治の可能性も……」 「でもあれはリンパがんです。しかも末期。もう治りません」 みゆきはそう返すと、長谷川教授は深いため息をついた。 「だが、あの冷凍保存技術はまだ未完成だ。生きている人間が凍結された前例はまだないんだぞ。下手をすれば、冷凍の瞬間に命を落とす可能性もある。やはり考え直したほうが……」 「先生、もう決めたんです」 微笑みながらそう言うと、みゆきは通話を切った。 彼女のスマホには、数分前に届いたネットニュースの速報が表示されたままだった。 写真には、葉月かれん(はづき かれん)と朝倉研人(あさくら けんと)が手を繋いで写っていた。 かれんの薬指には、ブルーダイヤの婚約指輪が光っている。 画面越しにでもまぶしいその輝きが、みゆきの目を突き刺した。 彼女は唇を強く噛みしめても、気持ちをこらえきれず、涙が溢れてくる。 今日は、みゆきの最愛の人、研人の誕生日だった。しかし彼は、みゆきがデザインした指輪を別の女に贈っていた。 研人さん、どうしてこんなことをするの? ここまで私を憎んでいるの? 食卓にはまだ湯気の立つ料理が並んでいたが、みゆきの心と同じように、少しずつ冷えていった。 深夜二時半。ようやく玄関の扉が開いた。外の冷えた空気とともに研人が入ってくる。 「まだ起きてたのか?」 彼はみゆきを見るなり、さらに険しい表情になった。 「今夜はかれんと過ごすって言っただろ。遅くなるって、ちゃんと伝えたよな?」 みゆきはうつむき、長い沈黙の後でぽつりと呟く。 「……お誕生日、おめでとう」 日付は変わり、彼の誕生日ももう終わっていたけれど。 「みゆき……お前、何がしたいんだ?」 研人の声には苛立ちが滲んでいた。 「かれんは俺の恋人だ。彼女が俺の誕生日を祝うのは当然だろう?お前は何様のつもりだ?俺はお前のおじさんなんだぞ!いい加減自分の立場をわきまえろ!俺らは付き合えないって言ってただろ?そんな気色悪い妄想、本当吐き気がする!」 彼はそう言い捨てると、ドアを勢いよく閉めて出て行った。 たぶん、またかれんの元へ行ったのだろう。かれんこそ自分の彼女だって言ったのだから。 みゆきはうつむいたまま、足元を見つめていた。そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。 「ごめんなさい、研人さん……もう二度と迷惑かけないよ。これが、あなたと過ごす最後の誕生日だから」 部屋は驚くほど寒かった。彼女はふと考えた——冷凍庫とこの空っぽの部屋、どっちが寒いんだろう? 幼い頃、寒がりのみゆきは、冬になると裸足のままうさぎのぬいぐるみを抱えて研人の部屋を訪ねた。 あの頃の彼はみゆきを可愛がっていた。優しく笑って彼女をベッドに抱き上げ、寝かしつけの昔話を読み聞かせてくれた。 SNSでは、かれんが研人との手つなぎ写真を投稿していた。 彼女はみゆきがデザインした「人魚の心」を薬指につけ、堂々と自分たちの婚約を報告した。 【私たち、婚約しました!】 その頃、みゆきのもとには、人体冷凍研究所から同意書の電子版が届いた。 だが彼女はすぐにはサインをせず、研人に電話をかけた。 一回目は切られた。 二回目も。三回目、四回目……五回目で、ようやく繋がった。 「今度は何だよ」 研人の声は、明らかにイラついていた。 みゆきは唇を引き結び、小声で答える。 「……おめでとう、って言いたかっただけ」 「ふん」 短く鼻で笑う声が聞こえた。 「本当にそう思ってるならいいけどな」 しばらくの沈黙の後、みゆきはぽつりと訊ねた。 「……式はいつ?」 「12月12日だ」 その声は、真冬の北風のように冷たかった。 短い一言なのに、みゆきの心を抉るには十分だった。 12月12日。それは、みゆきの誕生日だった。 第2話 みゆきの両親は、彼女がまだ幼い頃に亡くなっていた。 当時の古い新聞にはこう記されている。 【財閥夫人、精神錯乱の末に夫を百回以上も刺して殺害、自らも首を吊って死亡。残されたのはわずか五歳の娘】 その娘が、みゆきだった。 真冬の夜、みゆきはパジャマ姿のまま、クローゼットの中に身を隠していた。体は凍えて動かなくなりかけていたが、それでも外に出る勇気はなかった。 そんな彼女を見つけて抱き上げてくれたのが、研人だった。 「みゆき、もう大丈夫。怖くないよ。俺が来たからには、誰にもお前を傷つけさせない」 その腕の中で、みゆきはほんの少しだけ、世界が優しいと感じた。 研人は彼女を自宅へ連れて帰った。彼女の境遇を不憫に思ったからか、彼はみゆきを本当に大切にしてくれた。みゆきが欲しがるものは、星でさえ手に入れてやる、そんな勢いだった。 いや、実際に手に入れてくれたのだ。 両親の死は、みゆきに深刻な心の傷を残していた。研人の家に引き取られた当初、彼女は極端なほどに精神不安定で、片時も彼のそばを離れようとしなかった。研人の姿が見えなくなるだけで、パニックになるほどだった。 ある夜、研人はみゆきを抱いて家の屋根にのぼり、夜空を指差してこう言った。 「みゆき、あの星が見えるか?あれはもう、お前のものだ」 そう言って彼は、本物の星命名証明書を彼女に渡し、彼女の鼻先を優しくつついた。 「この星が、俺の代わりにお前を見守ってくれる」 みゆきはカーテンをそっと開けて、もう一度その星を探した。 けれど外は厚い雲に覆われていて、星の姿は見えなかった。 翌朝、人体冷凍研究所の責任者から連絡があった。身体検査のため、研究所に来てほしいとのことだ。 「今さら検査なんて、必要なんですか?」みゆきは虚ろな笑みを浮かべた。 どうせ死ぬのだ。何度検査しても、体内のがん細胞が消えるはずもない。 「小林さん、適切な冷凍法やタイミングを決めるには、正確な健康状態の把握が不可欠なのです。少しでも生存率を上げるために、ご協力をお願いします」 彼女は断る理由もなく、言われるがまま車を出して研究所へ向かった。 丸一日かけての検査がようやく終わると、研究員から分厚い資料が手渡された。 「氷の棺のデザインや、将来的にどこへ保管されるかも自由に選べます。こちらに候補をまとめましたので、目を通してみてください」 みゆきはうなずき、小さく礼を言って、資料を抱えて家に戻った。 玄関を開けると、リビングの灯りがついていた。 もしかして研人さんが戻ってきたの? みゆきの胸が高鳴る。 あんな仕打ちを受けた後でも、彼女はまだ、彼に会いたいと願っていた。 馬鹿だと自分を笑いながらも、足早にリビングへ向かう。 そこで彼女が見たのは、シルクのキャミソール姿でくつろぐかれんだった。 「みゆきちゃん、帰ってたの?夕飯食べた?研人さんがキッチンでいろいろ作ってくれてるの。食べたいものがあったら言ってね、頼んであげる」 女主人のような振る舞いに、みゆきの胸がずきりと痛んだ。 お腹が空いてないと首を横に振ろうとしたその時、研人が出来立ての料理を持ってキッチンから出てきた。 「帰ったのか?ちょうどいい、伝えたいことがある」 研人が淡々と続ける。 「俺はもうかれんと婚約した。今日から彼女がこの家の女主人だ。家のことは全部、彼女の指示に従ってくれ」 みゆきは俯いて、小さな声で「わかりました」と答えた。 まさかこんなにもあっさりと受け入れるとは思わなかったのだろう。研人の黒い瞳に、一瞬だけ動揺が走った。 「そんな怖い顔をしないでよ。みゆきちゃんが怯えてるじゃない。みゆき、夕飯にしよ?」 かれんが甘い声でそういうと、みゆきの手を取って、ダイニングへ引っ張っていく。 その拍子に、みゆきが抱えていた資料が床にばらばらと散らばった。 研人が眉をひそめ、一枚の紙を拾い上げた。それは氷棺のデザイン図だった。 「……これはなんだ?」 冷え切った声で問い詰める研人に、みゆきは緊張しながらも、表情を変えずに答えた。 「氷の棺の設計図。休み中の課題で、製品デザインを自由に考えてって言われたから。私は遺体を腐らせない棺をテーマにしたので、参考にそれを印刷したの」 彼女は今、デザイン専攻の大学一年生。この言い訳は一応、筋が通っている。 しかし研人の顔にはなおも暗い影が差していた。 「みゆき、お前、頭おかしいんじゃないのか?」 第3話 みゆきの両親を埋葬したのも研人だった。 葬儀の日、みゆきは再びクローゼットの中に閉じこもった。 研人は彼女を見つけたが、無理やり引きずり出したりはせず、ただ扉を開け、自分も中に入り込んで、隣に座ってあげた。 「研人さん……棺の中も、こんなふうに暗くて、寒いの?」 目を真っ赤にしながら、みゆきは彼に問いかけた。 「ママが夢に出てきてね、棺の中は寒くて怖いから一緒にいてほしいって……」 「それはただの夢だよ」研人は優しく答えた。 「大丈夫だ、どこにも行かせない。誰にも、お前を俺のそばから連れていかせない」 彼女はその言葉を信じて、彼の首に腕を回し、耳元で囁いた。 「研人さんが一緒なら、棺の中だって……怖くない」 …… きっと、研人はあの出来事を覚えていたのだろう。 だから誤解した。みゆきが氷の棺を調べていたのは、自分への告白だと、そう思ったのだ。 「研人さんが嫌なら……テーマを変えるよ。あくまで課題なので、そんなに怒らないで」 みゆきはおずおずと言った。 研人は険しい表情のまま、何も答えなかったが、代わりにかれんが間を取り持つように笑いながら口を開いた。 「うんうん、変えた方がいいよ。棺なんて縁起でもないし、若い女の子がそんなこと考えるの、ちょっと暗いよ?もっと明るくいこうよ、みゆきちゃん」 みゆきは床に散らばった資料をすべて拾い集め、その場でゴミ箱へ静かに投げ入れた。 それを見て、ようやく研人の表情から僅かに険しさが消えた。 深夜。家の灯りがすべて消えた頃、みゆきは静かにベッドから起き上がり、そっとリビングへ向かった。 ゴミ箱をあさり、捨てられていた資料を拾い上げる。 部屋へ戻ろうと歩いていると、研人の部屋のドアが開き、キャミソール姿のかれんが出てきた。 彼女の肩や背中には、いくつもの赤い痕が浮かんでいる。 何があったか、考えるまでもなかった。 みゆきは必死に視線を逸らした。そして何度も何度も心の中で自分に言い聞かせる――見るな、考えるな。彼女は研人の婚約者、二人が何をしていたとしても、至極当然のことだ。 研人はかれんを愛している、彼女は研人を幸せにしてくれる。それで十分だ。 「みゆきちゃん、どうして目をそらすの?」 かれんが立ち止まり、挑発的な笑みを浮かべた。数時間前の優しげな様子はもうどこにもない。 「もしかしてまだ受け入れてないの?彼が愛してるのは私であって、あなたじゃないってこと」 みゆきは目を伏せて、ぽつりと答えた。 「ううん、もう受け入れてるから」 「ふん、演技が下手だね」かれんは鼻で笑いながら言った。 「あなた、研人さんを見る目がおかしいもん」 「彼とは血が繋がってないとはいえ、実際育ててもらったんだから、養父なんでしょ?そんな人に恋をするとか……変態じゃないの?」 みゆきは唇を噛みしめ、じっと黙っていた。 自分は……本当に変態なの? 研人が好きという気持ちは、世間では歪んだ感情としか思われてないから、研人さんにも嫌われるようになったのかな。 「そういえばさ、あなたが孤児になったのって、あなたのママが精神を病んでパパをめった刺しにして殺したからだよね?夜中に百回以上って、よっぽど狂ってたんじゃないの?」 かれんはさらに一歩近づき、みゆきを挑発した。 「だからあなたも変態なのね?だって母親はそうなんだから。血は争えないって言うじゃん?」 自分への悪意は耐えられても、両親を侮辱されることだけは、どうしても我慢できなかった。 「黙って!」 みゆきは叫びながら、かれんに飛びかかり、彼女の首を掴んだ。 「あなたには何も分かってない!あの夜に何があったかなんて知らないくせにどうしてこんな……」 彼女の怒りが燃え上がったその瞬間、背後から冷たい声が響いた。 「みゆき、何をしてる!」 振り返ると、寝室のドアの前に研人が立っていて、彼は怒りに満ちた目でみゆきを見つめていた。 第4話 かれんはその場に立っていられないふりをして、ふらりと研人の胸元に身を委ねた。 目にはうっすらと涙を浮かべ、喉を詰まらせながら、か細い声でつぶやく。 「研人さん……みゆきちゃんを責めないで、悪いのは私なの。こんな格好で水を取りに出てきた私がいけなかったの」 「こんな時間だし、みゆきちゃんはもう寝てると思って、上着を羽織らずに部屋を出ちゃったの。まさかドアを開けた途端、みゆきちゃんにばったり会っちゃって…… 彼女、私の体にある痕を見て、いきなり罵り出したの。こんなはしたない私が、研人さんの相手にふさわしくないって」 その語り口は巧妙だった。 少ない言葉で、みゆきを深夜に養父の部屋の前に潜み、養父の婚約者に嫉妬して暴力をふるう変態に仕立て上げた。 「そんなの嘘だよ、私そんなこと言ってない」 みゆきは目尻を赤くしながら反論した。 「彼女が私の両親を侮辱したの……母さんが狂っているって!」 小学生の頃、みゆきは母親が理由でいじめに遭っていた。 クラスメイトに囲まれて「狂った女が産んだ娘」と罵られ、ゴミを投げつけられた。 あの時、庇ってくれたのは研人だった。 だから、研人なら自分の気持ちを理解してくれるとみゆきは信じていた。あの時のいじめはみゆきにとって、今でも棘のように心に刺さっているから。 「……え?みゆきちゃん、何を言ってるの?」かれんがきょとんとした顔で言った。 「あなたのご両親がどうなさったの?あなたが小さい頃に亡くなられたって聞いたけど、それ以上のことは私、何も知らないよ?」 研人はそんなかれんを優しく慰め、肩を抱くようにしながらそっと囁いたあと、みゆきのほうへ鋭い視線を向けた。 「みゆき、かれんに罪を着せるために、こんなことまで言うとは思わなかった」 その声には、失望が濃く滲んでいた。 「俺は一度だって、お前の過去をかれんに話したことはない」 「そんなことくらい、調べたら出てくるよ!ネットで少し検索すれば……」 「黙れ!」研人の怒声がみゆきの言葉を遮った。 「誰も彼もお前みたいにうがった見方で人を疑うわけじゃない。いい加減言いがかりをやめろ!」 その言葉に、みゆきの心は凍りついた。 うがった見方で人を疑う?言いがかり?自分はそんなふうに思われていたのか? もう、どんな言葉を重ねても意味がないとみゆきが悟った。 「今すぐかれんに謝れ」研人は冷ややかに命じた。 みゆきは唇を噛みしめ、うつむいたまま黙り込んだ。 だって謝る理由なんてひとつもない。謝るべきは、かれんなのだから。 「俺が甘やかしすぎたな」研人の声は冷えきっていた。 「今回ばかりは許さない。今日から、お前は部屋から一歩も出るな。自分の行動を反省しろ。謝る気になったら、外に出してやる」 みゆきは、ずっと研人に甘やかされてきた。 けれど今日、彼は他の女を庇った。 みゆきは部屋に閉じ込められ、ベッドの上で膝を抱え、体を丸める。 それでも、どうしようもなく寒かった。 そんなとき、スマホが小さく震えた。冷凍研究所の責任者からのメッセージだった。 【小林さん、健康診断の結果が出ました。当研究チームの検討により、冷凍に最適な日程は来月7日から21日までとなります。ご希望の日を選び、お知らせください】 来月は12月だ。 みゆきの心臓が、またきゅっと締めつけられた。 来月…… 彼女は暗い部屋の中で、長いこと動かなかった。 やがて、指を震わせながら、日付を打ち込む。 【12月12日】 12月12日はみゆきの誕生日。 そして、研人とかれんの結婚式の日。 研人はもう自分の顔なんて見たくないだろうし、行ってもただ迷惑だと思い、みゆきは結婚式の出席をやめようと思った。 その日は、誰の邪魔もせず、一人で旅立とう。 第5話 もうすぐ来月だ。みゆきに残された時間はわずかしかない。 彼女にはまだやるべきことがたくさんあった。貴重な時間を、部屋に閉じ込められたまま終えるなんて、そんなことはできない。 だから、みゆきはとうとう頭を下げる決意をした。 プライドを捨てて、研人の前に立つと、みゆきは唇をぎゅっと噛みしめて、小さな声で言う。 「研人さん……ごめんなさい。私が間違ってた。反省してる……本当にごめんなさい」 けれど研人の表情は、冷たいままだった。 かつてあれほどまでに注いでくれた優しさも、慈しみも、もう彼の瞳のどこにも見つからない。 「謝る相手を間違えてる。俺ではなく、かれんに謝るんだ」 唇に食い込むほど噛んだみゆきの口から、鉄のような血の味が滲む。 ――ああ、そうか。彼の愛も、優しさも、もうすっかり別の人のものになっていたんだね。 「わかった、謝るよ」 感情がこらえきれず、声が震える。 「……ごめんなさい、かれんおばさん」 「かれんおばさん」という一言で、研人の体がわずかに固まった。 黒い瞳が微かに揺れ、彼は一瞬、自分の耳を疑った。 「……これでいいんでしょ?研人さん」 みゆきは痛々しいほどの笑みを浮かべた。笑いながら、目には涙が滲んでいた。 「……もう満足してくれた?」 自分が望んだ結果なのに、研人の胸の奥がひどくざわついた。 丁寧に育ててきたバラのような彼女が震える声で謝る姿に、彼女の口から聞こえた「かれんおばさん」という響きに、彼はたまらなく、苦しかった。 研人はそっと視線を逸らし、みゆきを見ないようにしながら冷たく告げた。 「今日から、お前は下の階に移ってくれ」 みゆきは最初きょとんとしたが、すぐにその意味に気づいた。 ――彼はかれんの言葉を信じたのだ。 研人さん、あなたは本当に私のことを、他人の寝室の前で聞き耳を立てるような気持ち悪い女だと思ったの? あなたまで、そんな目で私を見てるの? また、あの寒さが戻ってきた。胸がぎゅっと締め付けられ、足元がふらつく。 目の前がぐらりと揺れたが、みゆきは壁に手をつき、歯を食いしばった。 「……わかった」 研人さんがそう言うなら、従うしかない。どうせあと何日も生きられないのだから。 その夕方、みゆきは再び冷凍研究所へ向かった。凍結後、自分の棺をどこに保管するかを決めるためだった。 「海底にも保管室があるって資料で読んだんですけど、本当ですか?」 「はい、もちろんです」責任者はうなずいた。 「実は、我々の保管室の大半は海底にあります。陸地で氷の棺を超低温で保つには膨大な電力が必要ですが、海底なら自然の低温でそれを補えるので、安定した保存が可能なんです」 「なるほど、ならよかったです」みゆきはほっとしたように微笑んだ。 「私の棺も、海底に置いてください」 「理由を伺っても?」 みゆきは微笑みを崩さぬまま、ぽつりと答えた。 「そこなら、星に見つからずに済むから」 星は研人さんがくれたものだった。どこにいても、あの星は彼女を見守ってくれる――そう言って、彼は星を贈ってくれた。 でも、彼はもうみゆきを嫌っていた。 好きでもない遺体を見守らせるのは、あまりに惨めだ。だから、せめて星の光が届かない場所で静かに眠りたい。もう、星に迷惑をかけたくないから。 あっという間に夜になった。かれんと顔を合わせたくなくて、みゆきはできるだけ時間を遅らせて帰宅したが、家の灯りは煌々とついていた。 リビングには、研人が険しい顔でソファに座っていた。 「研人さん、どうしたの?」みゆきは首をかしげた。 自分はずっと留守だったから、研人の機嫌を損ねるようなことはしていないはずだ。 研人は無言のまま、一束の書類を彼女の前に投げ出した。怒りを抑えた低い声が、静かに炸裂する。 「みゆき、これはなんだ!」 みゆきが視線を落とすと、床に散らばった書類の中に、自分のがんの診断書を見つけた。 第6話 「どうして勝手に私のものを見るの?」 研人が投げつけた診断書を前に、みゆきは咄嗟に視線を逸らし、別の話題でごまかそうとした。 「私、もう十八歳なんだよ。勝手に部屋に入って、私物を漁るなんて……そんなのやめてよ!」 「話を逸らすな!」怒りのあまり、研人は目の前の灰皿を掴むと、思いっきり床に叩きつけた。 ガンッという鈍い音に、みゆきはびくりと身を震わせる。 その緊張を和らげるように、かれんがすかさず間に入った。 「みゆきちゃん、誤解しないで」 彼女の声には作り物の優しさが滲んでいた。 「研人さんはあなたの部屋に入ってないの。悪いのは私……昨日、研人さんに着てた服を……」 彼女はそこで一度言葉を切った。頬を赤らめ、わざと恥ずかしいふりをして、数秒後に話を続けた。 「私、着替えを持ってこなかったから、仕方なくみゆきちゃんの部屋に入って、古い服を借りに行ったの。そしたら、机の上にあの診断書が置いてあって……」 それは真っ赤な嘘だ。 みゆきは、診断書を受け取ったその日に鍵付きの引き出しにしまったはずだ。 それなのに、まるで自分がそれをわざと机の上に置き、発見されるのを期待していたかのように、かれんは語った。 「みゆきちゃんはまだ若いのよ?がんだなんて、そんなわけないでしょ?」 かれんは胸元に手を当てて、物憂げで美しい表情を作る。 「正直に教えて、この診断書って本物?それとも……ただの悪ふざけ?」 みゆきは何も言わずに研人に振り向いた。そして、ようやく気づく。 研人の瞳には、心配よりも怒りが勝っていた。 彼女が帰宅する前に、かれんがよほどの言葉を研人に吹き込んだのだろう。だから研人は彼女が病気を装って、注目を引こうとしたと思い、怒っていた。 それならそれでいいと、みゆきは思った。秘密がバレずに済むのだから。 「……冗談だったの」彼女は小さく答える。 「友達とふざけて作っただけ。まさか、見つかるとは思ってなくて……」 しかし、言い終わる前に、ずっと黙っていた研人が立ち上がった。 「今から病院に行こう、検査してもらうんだ」 悪ふざけなのかどうか、病院にいけばわかる。 「研人さん……」 みゆきは一歩下がり、必死に抵抗を試みる。 だがその瞬間、彼の冷たい視線が突き刺さった。 それだけで、みゆきはもう何も言えなかった。 研人の性格を彼女は知っている。だから、今日のこの検査は避けられないと彼女は悟ったのだ。 病院に着いたのは、深夜十二時を回った頃だった。本来なら、救急以外の科はもう受付をしていない時間帯だ。 けれど、研人は事前に院長へ連絡を入れていた。病院側は彼に逆らえず、特別に医師を呼び出し、みゆきに最も詳しい検査を施した。 がんの検査には、最低でも二時間はかかる。みゆきにとってその二時間は、永遠にも感じられるほど長かった。 彼女はどうしても考えてしまう。もし自分が余命わずかだと知ったら、研人は少し、悲しんでくれるのだろうか? それとも、今の自分は彼にとってただの足手まといで、わがままで嫉妬深い厄介な存在だから、一刻も早く切り捨てたいと思っているのか。 どれだけ時間が経っただろうか。ようやく医師が診察室から出てきて、診断結果を手にして口を開いた。 「朝倉さん、検査の結果が出ました。小林さんの体にはまったく異常は見られません。がんではありませんでした」 まさかの結果だった。長い長い苦しみの末に辿り着いた先が、こんな嘘のような結末だなんて。 みゆきは思わずかれんを睨んだ。 彼女の仕業に違いない。こんなことができるのは、他にいない。 「よかった……」かれんが長く息を吐いた。 安堵の色を浮かべながら、彼女は言う。 「ただの冗談だったのね。みゆきちゃんが無事で本当によかったわ。研人さんも安心したでしょう?」 研人は何も言わずに、ただじっとみゆきを見つめた。 その瞬間、彼は気づいた。 みゆきの顔は恐ろしいほどに青ざめていた。 ――まるで、今まで大切に育ててきたバラが、ひとしずくずつ命を失っていくように。 第7話 「がんではありませんでしたが、検査結果によれば、小林さんの体はかなり衰弱しています。すでに深刻な栄養失調の状態です」 医師は研人の疑念を読み取ったのか、静かに補足した。 「最近、ダイエットをされていたとか……?」 「女性が美を意識するのは分かりますが、食事制限はおすすめできません。特に小林さんのように健康にまで支障が出ているケースではね。これだけ顔色が悪ければ、がんだと誤解されてしまうのも無理はありません」 その一言で、研人の顔がぐっと険しくなった。 たしかに、みゆきは最近ろくに食事をとっていなかった。 病気のせいもあるし、研人の冷たい態度、そして彼に疎まれることに耐えるだけで精一杯だったから、食べ物を喉に通す余裕なんてなかった。 けれど、そんな事実は研人の目にはまったく違うように映っていた。 「俺を騙すために、わざと身体を壊したっていうのか?」 彼の眼差しは氷のように冷たく、真夏の太陽すら凍らせるほどだった。 「同情でも引きたかったか?哀れに見せれば、俺が心を動かすとでも思った?……みゆき、もう少し現実を見ろ!」 「違う、そんなつもりじゃ……」 涙はとめどなく頬を伝い落ちていく。研人は信じてくれないだろうと思いながらも、みゆきは絞り出すような声で否定した。 「本当に違うんだから……」 しかしどれだけ否定しても、検査結果を覆すことはできない。 研人はがっかりしたようにみゆきを一瞥した。「お前を、こんなふうに育てた覚えはない」 その一言はみゆきの心を鋭く貫いた。 研人はみゆきを病院に置き去りにしたまま、かれんの肩を抱いて去っていった。 それからの一週間、研人はみゆきに一言も口をきかなかった。 みゆきは何度も彼に話しかけようとしたが、そのすべては冷たい沈黙にかき消されてしまった。 そして、結婚式前日の夜がやってきた。 「明日、研人さんは結婚するよね……それでも、一言も話してくれないの?」 みゆきはそっと視線を落とした。長い睫毛が影を落とし、その顔には深い哀しみが刻まれていた。 研人の目は相変わらず冷たいままだった。 「……もう俺を諦めたか?」 「うん、諦めた」みゆきは目に涙を溜めたまま、静かに頷く。 「今度こそ、本当に嘘じゃない……私はもう、嘘をつかないよ」 それは確かな本音だった。もうすぐ死ぬのだから、これ以上嘘をつくことができない。 研人は赤くなったみゆきの両目を見て、彼女の言葉を完全に信用していなかった。 それでも――彼の心は、ほんのわずかに軟らいだ。 長年丁寧に育ててきたバラのような存在に、永遠に背を向けることはできなかった。 「……明日、俺とかれんの結婚式に出席しろ。心から俺たちを祝福してくれるなら、今回のことは水に流してやる」 研人は冷たい声で告げた。 「いいか?余計なことはするな。俺はかれんを選んだ。お前がどれだけ騒いでも、その事実は変わらない」 みゆきは視線を落としたまま、小さく答える。 「……騒いだりしないよ」 その素直で静かな態度が、かえって研人の胸を痛めつけた。 理由のわからない焦燥感が心を蝕み、彼は目を逸らして、もう彼女の顔を見られなくなった。 みゆきは、その瞬間にぽつりと呟いた。 「研人さん、結婚式には出席する。でも、一つだけお願いがあるの。式が終わったあと、一緒に食事してくれない?」 研人とかれんの式は教会式で、昼前には挙式が終わる。 「明日は……私の誕生日なの。今まで、誕生日はずっと研人さんが一緒にいてくれた。だから最後に一度だけ、一緒にいてほしいの。 無理なお願いだってことはわかってる、でも式の邪魔はしないよ。午後四時はどう?その時式もきっと終わってるから。私とケーキを一口だけ食べて、『お誕生日おめでとう』って言ってくれたら……それだけで、私は満足なの」 あまりにも些細なお願いを、研人は断ることができず、ぎごちなく「わかった」と返した。 その夜、みゆきは一睡もできなかった。 目を開いたまま夜を越え、夜明けと同時に起き上がり、身支度を整えて研人の結婚式へと向かった。 第8話 結婚式は華やかだった。有名人たちが顔を揃え、メディアも多く詰めかける盛大なセレモニー。かれんはふんわりと膨らんだ白いウェディングドレスに身を包み、幸せそうに研人の腕に寄り添っていた。 研人もまた、漆黒のタキシードを身にまとっていた。 研人さんはやっぱり素敵だなと、みゆきはしみじみ思った。 魅力的で、気品もあって。歳月に特別に扱われているかのように、歳を重ねても、衰える気配はまったくなかった。 十三年前、クローゼットの中に隠れていたみゆきを抱き上げてくれたあの日から、彼はずっと変わらず、すごくかっこよかった。 みゆきは視線を離したくなく、長い時間彼を見つめてから、そっと歩み寄り、用意したプレゼントを両手で差し出す。 「研人さん、ご結婚おめでとうございます」 それはみゆきの心からの言葉だった。どうか、どうか幸せになってほしいと、彼女はそう願った。 研人は無言でプレゼントを受け取った。そして、静かに、深く、みゆきを見つめた。 その瞳の奥には、決して悟られてはいけない何かが渦巻いていた。 けれど、みゆきには見えなかった。 プレゼントを渡したあと、誰にも気づかれないように、みゆきは式場を離れた。 どうか自分の弱さ許してほしい。 研人の結婚を祝福できても、目の前で彼がかれんと誓いを交わす姿を見る勇気はなかった。そして、かれんを認めることも。 式場を出たあと、みゆきは霊園へと向かった。両親の眠る場所に最後の花束を供えるために。 「母さん、少しわかった気がするよ。どうしてあなたが自分の命を絶ったのか。 ……生きるって、本当に苦しいね。 どうして私を一緒に連れて行ってくれなかったの?父さんのこと、あんなに憎んでたのに、結局一緒に連れて行った。 私のことは、いちばん愛してるって言ってたのに、どうして……私だけを、この世界に置いていったの?」 空はどこまでも広いのに、みゆきにはただただ、孤独に感じられた。 この世界で、迷わず自分を選び、最後まで愛してくれた人なんて一人もいなかった。たとえ自分の母親さえも…… 「まあ、母さんですらそうだったんだから、研人さんが私を選ばなかったって、仕方ないよね。 むしろ……養父としては、十分すぎるくらい、よくしてくれた。 ……お願い、私のことはいいから、これからは研人さんのことを見守ってあげて」 そう言って、みゆきは両親の墓碑にそっと唇を重ね、霊園を去った。 彼女は一人でレストランへと向かい、研人が来るのを待った。 遠くの空に白昼の花火が上がる。 離れているはずなのに、「朝倉研人さんと葉月かれんさん、ご結婚おめでとうございます!」という文字がはっきりと見えた。 ……白昼に花火なんて、なんて贅沢なんだろう。 贅沢で、ロマンチックだ。 研人は、愛する人をこんなにも幸せにできる人だ。 ただ、彼の愛する人が、最初からみゆきではなかった。 時間はゆっくりと流れていく。式場からの喧騒はレストランにまで届いていた。周囲の席でも、誰もが今日の話題で盛り上がっていた。 かれんのウェディングドレスは十億以上するとか、ドレスに付いてるダイヤは全部本物だとか、研人はかれんのために、彼女の好きな人気歌手を呼んで、歌ってもらったとか…… 世界はこんなにも賑やかで眩しいのに、自分だけが、まるで音のない場所に取り残されたみたいだと、みゆきは思った。 ようやく時計の針が三時を指した。もうすぐで来てくれるはずだ。 四時。約束の時間だ。けれど、彼は現れなかった。 何かあったのかな。少し遅れてるだけかも…… 五時。結婚式はとうに終わっているし、結婚式を議論する声も聞こえなくなった。なのに、研人は一向に現れなかった。 そのとき、みゆきのスマホが震えた。 かれんが何かを投稿したようだ。 【結婚式が終わって、新婚旅行へ!まずはプロヴァンス。今から出発です】 投稿された写真には二枚の航空券が重なって写っている。 一枚はかれんの名前、下の一枚は、当然研人のものだろう。 出発時刻は午後の五時半。 それを見て、研人はもう来ないとみゆきは悟った。 テーブルに置いてあるケーキのクリームが崩れかけている。みゆきはまるで魂のない人形のように、それを無言で口に運んだ。 あれ……こんなにしょっぱいの?おかしいな、全然美味しくない…… なんとかケーキを食べ終えたみゆきは、会計を済ませ、席を立つ。 悲しい誕生日を過ごせて、おめでとう。 死んだあと、この悲しさも綺麗さっぱりに消えるように。 これはみゆきが自分へ贈る祝福の言葉だった。 車で冷凍研究所へと向かう。すでにスタッフたちは準備を整え、彼女の到着を待っていた。 誕生日は誰かに祝ってもらえなかったが、せめてこの世を去るその瞬間だけは、誰かが見届けてくれる。 それが、赤の他人だとしても。 みゆきは少し躊躇したが、バッグから遺書を取り出し、責任者に手渡した。 「もし誰かが私を探しに来たら、これを渡してください。来なければ……捨てて構いません」 大事なことなんて特に書いてないから。 「わかりました、責任もって保管します」 みゆきは頷くと、ゆっくりとあの透明な棺へ歩み寄り、中に入った。 まるで幼い頃に両親が喧嘩を始めたとき、クローゼットに逃げ込んだように。閉ざされた空間が、いつも彼女を安心させる。 この世界は広すぎて、複雑すぎて、生きていくのは難しすぎるから、彼女は「クローゼット」に戻ることにしたんだ。 「準備完了。冷却開始!」 その声と同時に、氷のような冷気が、みゆきを包み込んだ。 意識が、遠のいていく。 ――さようなら、研人さん。どうか、幸せになってね。

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