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愛想を尽かした妻は二度と振り返らない
息子が六歳の誕生日を迎えた日、綾瀬厚司(あやせ あつし)は私の引き留める声も聞かず、家を飛び出した。 義妹から足を捻挫したと電話があった。ただそれだけの理由で。 「行かないで」と懇願する私に、彼は冷たい目線を向けた。「お前には思いやりってものがないのか?」 息子でさえ、私を責めるような目で見てきた。「ママのわがままなのに、なんで僕まで巻き込むの?」 この父子二人の冷たさにまたしても深く傷つけられ、私はついに未練を断ち切った。 システムを呼び出し、この世界から去ることを決意した。
チャプター (1)
第1章
息子が六歳の誕生日を迎えた日、綾瀬厚司(あやせ あつし)は私の引き留める声も聞かず、家を飛び出した。
義妹から足を捻挫したと電話があった。ただそれだけの理由で。
「行かないで」と懇願する私に、彼は冷たい目線を向けた。「お前には思いやりってものがないのか?」
息子でさえ、私を責めるような目で見てきた。「ママのわがままなのに、なんで僕まで巻き込むの?」
この父子二人の冷たさにまたしても深く傷つけられ、私はついに未練を断ち切った。
システムを呼び出し、この世界から去ることを決意した。
第1話
息子の六歳の誕生日に、夫の綾瀬厚司(あやせ あつし)は弟の妻を一晩中看病し、帰ってこなかった。
その義妹から足を捻挫したという電話があった、ただそれだけの理由で。
私は厚司に何十回も電話をかけたが、すべて着信拒否された。
ふとSNSを開くと、義妹のSNSが目に飛び込んできた。
【お義兄さんってばマジ神!電話一本ですぐ飛んで来てくれたの】
添付された写真には、彼女の細い足首を握る厚司の手が写っていた。
私は絶望で胸が張り裂けそうになりながら、彼と綾瀬梨奈(あやせ りな)がこの一晩何をやっていたのかを問い詰めた。
だが、彼はただ冷ややかな目で私を一瞥しただけだった。「まともな考え方ができないのか?お前、俺にヒスる以外に脳がないのか?」
息子まで理解できないといった顔をした。「パパは叔母さんを一晩看病してあげただけじゃん。ママ、なんでそんな意地悪言うの?」
この父子二人の冷たさにまたしても深く傷つけられ、私はついに未練を断ち切った。
システムを呼び出し、この世界から去ることを決意した。
「宿主、承知いたしました。すぐに脱出ルートを準備します。ご家族にお別れを告げるための猶予は七日間です」
システムの穏やかな声を聞き、私は少し呆然とした。
しばらくして、無理に笑顔を作り、「ありがとう」と答えた。
家族との別れか。もし私が消えると知ったら、厚司と息子はきっと大喜びするんだろうな。
五年前、任務を達成した後、私はこの世界に残って厚司と共に余生を過ごすことを選んだ。あの時、システムは忠告してくれたのに、私は耳を貸さず、「彼は一生私を愛してくれる」と断言したのだ。
まさか、たった数年で私がシステムを呼び出し、元の世界に帰りたいとお願いするようになるとは思わなかった。
リビングでどれくらい座っていただろうか。ようやく厚司が帰ってきた。
彼は私に歩み寄り、申し訳なさそうな表情を作った。「梨奈の捻挫が思ったより酷くて、帰りが遅くなっちゃったよ。もし体調が悪いなら、明日にでも源人(みなと)の誕生祝いを延期しようか?」
そう言って、彼は私の肩に手を伸ばしてきた。
私はその手をそっと払い除け、首を横に振った。「大丈夫よ。ただ、あなたが帰ってきたのに気づかなかっただけ」
厚司は私の顔色をうかがいながら、探るように言った。「入ってきた時、何度も呼んだのに返事がないから、まだ怒ってるのかと思ったよ」
彼はいつもそうやって探ってくる。でも、私は彼が怒るかどうかなんてどうでもよかった。私が少しでも感情をぶつければ、彼は「聞き分けがない」と嫌がるのだから。
一緒にいて七年、私はいつまで経っても彼の本心が読めない。
昔は、何度もわざと私をからかい、私が甘えると嬉しそうに笑った。私を抱きしめて「その甘える姿が一番好きだ」と言ってくれたものだ。
でも、いつからだろう。彼は梨奈のことしか見えなくなっていた。
私は自分の耳を指差し、冗談めかして彼に告げた。「よく聞こえなかったの。たぶん、そのうち耳が聞こえなくなるわ」
実は、この症状はずっと前から現れていた。ただ最近になってどんどん悪化している。
かつて任務を達成した時、私は「この世界に残る」と選んだ。
システムは、攻略で得た感情は長続きしないと忠告した。
それでも私は、私と厚司だけは例外だと固く信じていた。
システムは私に言った。「もしターゲットのあなたへの愛が薄れれば、あなたの五感もそれに伴って一つずつ奪われていきます」
厚司は眉をひそめ、私の耳元に顔を近づけた。「帆波(ほなみ)、まだ怒ってるのか?分かってるだろ、梨奈だって本当に困っていなきゃ俺に頼ったりしないって。そんなにカリカリすることないだろ?」
彼の声が耳元で大きくなり、ようやくはっきりと聞き取れた。
私は彼を見つめ、静かに尋ねた。「困ってたって?家にお手伝いさんもいればお抱えの運転手だっているじゃない。誰に病院へ送ってもらっても同じでしょ?どうしても義理の兄であるあなたが行かなきゃならないの?」
厚司はがっかりしたような顔で私を見た。「帆波、お前昔はそんな女じゃなかっただろ?梨奈は俺たちの義妹だぞ。弟が死んで、俺が少し面倒を見てやって何が悪いんだ?そんなに大げさに騒ぎ立てるなよ」
第2話
言いたいことは山ほどあったが、口を開いても言葉が出なかった。
家族を助けるのは悪いことではない。でも、梨奈が「足を捻挫した」と大騒ぎして厚司を呼び出し、二人で仲良くハイブランドのショップで品物を買い漁っていたのも、「家族への助け合い」なのだろうか?
以前の私なら、家の中のものすべてを叩き壊し、なりふり構わず厚司を問い詰めていただろう。
今回は、ただ黙り込んでいた。
どうせあと七日で、私はここを去るのだから。
こんなどうでもいいことに、私のエネルギーを浪費したくない。
私が黙っていると、厚司はまるで手品でもするように、ポケットからキラキラ光るブレスレットを取り出した。「ほら、今日は源人の誕生日だけど、ママのお前にもプレゼントが必要だろ。これ、俺が厳選したものなんだ。気に入ったか?」
彼はそのブレスレットを私の手首に着けた。ピンクがかったホワイトダイヤモンドが眩しい光を放っている。
私は自嘲気味に口角を上げた。
厳選したもの?
今日、梨奈がSNSに投稿していた。
このブレスレットは、ハイブランドの店で2000万円以上買い物した客に配られるノベルティに過ぎない。
ただ、私を見る厚司の目は、相変わらず真摯で愛情に満ちているように見えた。
私はふと、今まで一度も彼の本性を見抜けていなかったのだと悟った。
厚司は私の手首を見つめ、薄笑いを浮かべた。「本当に綺麗だ。よく似合ってるよ、帆波。さあ、着替えておいで。お前と源人の一番お気に入りのレストランを予約してあるんだ。家族三人で源人の誕生日をお祝いしよう!」
私は頷くしかなかった。なんだかんだ言って、源人はお腹を痛めて産んだ私の血を分けた子供なのだ。
この世界を去る前に、私と子供の間に少しでも美しい思い出を残したかった。それが、私の最後の別れの儀式だ。
私たち家族三人は家を出た。源人は真っ先に助手席に乗り込み、可哀想な子犬のような目で私を見た。「ママ、僕が前に座ってもいい?」
彼がこんなに甘えた声で私を「ママ」と呼ぶのは久しぶりだった。
私の心は少し和らぎ、「シートベルトをちゃんと締めてね」と一言声をかけて、後部座席に乗り込んだ。
車がゆっくりと発進し、レストランへと向かう。
源人は窓の外を見ていたが、次第にその表情が曇っていった。
それに気づいた厚司が、どうしたのかと優しく尋ねた。
源人は口を尖らせ、目に涙を浮かべた。「叔母さんは僕のお誕生日、一緒にお祝いしてくれないの?ママを後ろに座らせて、叔母さんをここに座らせてあげたかったのに」
私の心臓は一瞬にして激しく痛み出し、体全体が小刻みに震えだした。
それを見た厚司は血相を変え、車を路肩に寄せると、厳しい声で言った。「源人、ママに謝りなさい」
源人も自分が失言したことに気づいたのか、渋々私の方を見た。「ママ、ごめんなさい」
私は無理やり口角を上げたが、「いいのよ」という言葉はどうしても出てこなかった。
おそらく源人の目には、梨奈の方が理想のママとして映っているのだろう。
厚司は再び車を走らせたが、道中、車内の空気は重く沈んでいた。
以前の私なら、自分から口を開いてこの気まずい空気を和らげていたはずだ。でも今回は、一言も発しなかった。
レストランに着くと、源人はすっかり落ち込んだ気分から抜け出し、足早に中へと走っていった。
厚司は私を引き寄せ、一歩遅れて歩き出した。
彼はそっと私の肩に手を置いた。「源人はまだ小さいからな。ただ梨奈のことが好きなだけだ。気にしないでくれ」
聞き取りづらかったが、彼が源人をかばおうとしているのは分かった。
私は厚司の腕を下ろし、軽く笑って答えた。「分かってるわ」
今日、このレストランは厚司が貸し切りにしていた。中に入ると店内は真っ暗だったが、かすかに懐かしい花の香りが漂っていた。
私の大好きな、薔薇の香りだ。
暗闇を怖がる源人は、その場に立ちすくみ、私に手を繋いでほしいと、手を伸ばしてきた。
私がその小さな手を握りしめた瞬間、店内の照明が一斉に点灯し、三段重ねの特大ケーキを載せたワゴンを押しながら、梨奈が姿を現し、優しい声で「ハッピーバースデー」の歌を歌い始めた。
第3話
源人の瞳が信じられないほどの輝きを放ち、私の手を乱暴に振り払うと、走って梨奈の胸に飛び込んだ。
梨奈はクスクス笑い、私に形だけ会釈した後、源人の手を取った。「今日の主役さん、まずはケーキを切ろうか」
そう言うと、彼女はナイフを取り、一番大きなケーキを切り分けてお皿にのせ、私の方へ歩いてきた。「お義姉さん、最初の一切れはどうぞ」
私は梨奈の目に宿った露骨な挑発を見逃さなかった。ケーキは受け取らず、彼女の足首に視線を落とした。「捻挫したんじゃなかったの?」
梨奈は唇を噛みしめながら、ゆっくりと目を伏せて恥じらうような仕草を見せた。「捻挫はしたんですよ。でも、お義兄さんが急いで病院までお姫様抱っこして運んでくれたおかげで……」
彼女はお姫様抱っこをわざと強調した。
私は薄く笑みを浮かべ、厚司を見た。「へえ、お姫様抱っこで行ったのね」
厚司はバツが悪そうに顔を引きつらせ、軽く咳払いをした。「梨奈、人がいっぱいいるんだ、変なこと言うな」
二人の視線が空中で絡み合い、ただならぬ甘い空気が漂っているのを、私は冷ややかに見つめていた。
心臓の痛みを我慢しながら、私は二人から目を逸らして源人の方へと向かった。
そして、しゃがみこんで源人を見つめた。「ママと一緒にケーキ切ろうか?」
多分、これが彼と一緒に過ごす最後の誕生日になる。少しでも喜ばせてあげたかった。
しかし源人はあからさまに嫌そうな顔をして言った。「やだ!ママが切るとぐちゃぐちゃになるから嫌だ。僕、叔母さんに切ってもらいたい!」
子供は残酷なまでに正直だ。その純粋な嫌悪は鋭い刃のように私の心臓を貫き、私は息もできないほどの痛みを感じた。
梨奈が割り込んできて、ニコニコと笑った。「お義姉さん、座って休んでてくださいよ。私が源人くんと一緒に切りますから!」
そう言い残して梨奈が源人の隣に行くと、厚司は幸せそうな笑みを浮かべながらカメラを構え、二人の写真を何枚も撮り始めた。
目の奥がツンと痛み、涙がこぼれ落ちる直前に、私はトイレに駆け込んだ。
冷たい水を何度も顔に浴びせ、次から次へと溢れる涙を洗い流した。
突然、トイレの入り口に人影がよぎったかと思うと、外から素早くドアを閉められ、手際よく鍵をかけられた。
顔を拭く暇もなく、私はドアに駆け寄り、厚司と源人の名前を枯れるほど叫びながらドアを叩き続けた。
しかし、外で鳴り響いたすさまじい轟音が私の声をかき消した。その後は、阿鼻叫喚の騒ぎだった。
「血が出てる!」「救急車を!」といった物騒な叫び声が耳に飛び込んできて、私は反射的に夫と息子のことが心配になった。
一体どうしたの?まさか、源人か厚司が怪我をしたんじゃ……
私はさらに力強くドアを叩いた。やがて源人の泣き声が響いてきた。「叔母さん、死んじゃダメだよー!パパ、早く叔母さんを病院に!早く助けて!」
子供の泣き声を聞いて、私はさらに焦り、声を張り上げて厚司の名前を呼び、ドアを開けてくれるよう頼んだ。
しかし、返ってきたのは厚司の怒りに満ちた怒声だった。「帆波!人の命がかかってるんだぞ、ギャーギャー騒ぐな!その辺のスタッフでも呼んで開けてもらえばいいだろ!」
私は呆然とし、完全に声を失った。
外が次第に静けさを取り戻した後も、私はドアを叩き続け、誰かが開けてくれるのを待った。
しかし誰も私を気にかけてはくれなかった。まるで、何が起きたのか分からないあの騒動に、皆が引き寄せられてしまったかのように、誰も私のことなど気に留めていないようだった。
私は次第に力尽き、壁伝いに床へ座り込んだ。思わず自嘲の笑いが漏れた。
この世界で、私に最も近い家族が私を気にもかけないのだ。ましてや、レストランにいる赤の他人が私を気にかけるはずがない。
静寂の中、私は次第に意識を失っていった。
夢の中で、初めてこの世界に来た時に戻った気がした。
第4話
あの頃、この世界のヒーローとヒロインは結ばれ、婚約を交わしていた。厚司にとっては人生で一番どん底の時期だった。
私はリンゴ味の棒付きキャンディを持って彼の前に現れ、それを差し出して優しく慰めた。「食べて。心の苦しさはどうにもできないけど、口の中くらいは甘くできるから」
彼がキャンディを受け取ってくれたのをきっかけに、私は当然のように彼に寄り添うようになった。
私に対する彼の態度が冷酷なものから親しげなものへと変わり、最後には薔薇の花束を持ってひざまずき、プロポーズしてくれたのを覚えている。
彼は目を細めて、手品のように一本の棒付きキャンディを取り出し、私に誓ったのだ。「これからは、お前の口の中も、心の中も甘くしてあげる。俺と一緒にいてくれないか?」
私は喜ぶべきだったのに、なぜか心の底から得体の知れない恐怖が湧き上がってきた。
ハッと目を開け、激しく息を乱した。
その時、スマホの着信音が鳴った。
通話ボタンを押した瞬間、厚司の怒涛の問い詰めが飛んできた。「帆波!梨奈が源人を庇って大怪我をしたんだぞ!俺たち今病院にいるのに、お前どこほっつき歩いてるんだ!」
「……レストランのトイレの中よ」
厚司の声が詰まり、珍しくどもった。「お前……誰も開けてくれなかったのか?」
そんな馬鹿な質問に答えたくなかったので、私は黙り込んだ。
彼は私の返事など待たず、声を和らげた。「わかった、今すぐ迎えに行く。梨奈が怪我をしたんだ、今回はちゃんとお礼を言わなきゃダメだぞ」
そう言って彼は電話を切った。
厚司はすぐに来た。三十分もしないうちに私の前に現れた。
私の下半身はすでに麻痺していた。厚司が手を伸ばして私を支えようとしたが、私は身をよじってそれを避けた。
彼は気まずそうに手を引っ込め、言い訳を始めた。「ごめんな、帆波。わざとじゃないんだ。あの時、クリスタルのシャンデリアが梨奈の頭上に落ちてきて、俺、気が動転してて……」
私は冷たい声でそれを遮った。「その辺のスタッフに開けてもらうように頼むことさえできなかったの?」
厚司は目を泳がせた。「そんなこと、思いつくわけないだろ?」
私は彼をじっと見つめ、ふっと笑った。
厚司はビジネスの世界でも抜け目がないことで有名な男だ。七年も一緒に暮らしてきたのだから、彼がどれほど細やかで隙のない人間か、私が一番よく知っている。
思いつかなかったということは、私を騙そうとしているか、あるいは本当に焦りきっていたかのどちらかだ。
でも、もう深く追及する気にはなれなかった。
私は「梨奈の怪我は酷かったの?」と静かに聞いた。
厚司の顔色が少し和らいだ。「命に別状はない。ただ肩に少し当たっただけだ」
私はもう何も言わず、彼と一緒に病院へ向かった。
病室に入る手前で、突然中から悲鳴が聞こえた。
厚司の顔色が青ざめ、病室に駆け込んだ。
私がその後に続いて入ると、梨奈が厚司の胸に飛び込み、彼の腰に死に物狂いでしがみついている光景が目に飛び込んできた。「お義兄さん!怖かったわ、グスッ……源人くんは無事だよね?」
厚司の手も微かに震えていた。彼は優しく梨奈の背中をポンポンと叩いた。「もう大丈夫だ、怖くないよ。源人もピンピンしてる」
私は入り口に立ち、胸が締め付けられるような思いだった。
今日一日、私はまるで主人公たちの生活から完全に切り離されたモブキャラのようだった。彼らの幸福なドラマを、私はただ冷めた目で傍観することしかできない。
梨奈は私に気づいても、厚司から離れようとする気配を微塵も見せなかった。
私は口元を歪め、心からのお礼を言った。「源人を助けてくれてありがとう」
こんな時でさえ、梨奈は私へのマウントを忘れなかった。「当然のことですよ。源人くんは私がずっと見てきた子だし、自分の子供となんら変わりませんから」
厚司と、目を赤くした源人はひどく感動した様子で、今すぐ梨奈を家に連れ帰って世話をすると決めてしまった。
私の意見など、誰も聞いてくれなかった。全く重要視されていなかったのだ。
厚司と源人は、梨奈を慎重に車へと支えて乗せた。
第5話
厚司は専属の運転手を呼び寄せていた。
運転手が運転席に、厚司が助手席に座り、源人と梨奈が後部座席に陣取った。
私の席はなかった。
梨奈はわざとらしくおどおどとしてみせた。「お、お義姉さん……やっぱりお義姉さんが乗ってください。私、タクシーで帰りますから……」
私が答える前に助手席に座る厚司が口を挟み、冷酷に言い放った。「帆波、お前がタクシーで帰れ。梨奈は怪我人なんだ、これ以上無理をさせるわけにはいかない」
そう言うと彼は窓を閉め、ためらいもなく運転手に車を出すよう指示した。
視界がふっとぼやけた。ギュッと目を閉じて再び開いたが、やはりぼやけたままだった。
視力も失われ始めた。
私は苦笑いし、タクシーを拾おうと手を挙げた。たっぷり二時間待って、ようやく一台のタクシーを捕まえることができた。
家に着き、窓越しに見えたのは、源人を挟んで左右に座る厚司と梨奈の姿だった。それはまるで、絵に描いたような仲睦まじい家族三人だった。
私は何も言わず、その温かく賑やかな光景を通り過ぎ、寝室へと戻った。
ここを去るまで、あと六日。
この六日間、私はほとんどベッドに横になり、五感がゆっくりと失われていくのを感じていた。
最終日になって、私はようやく外を歩いてみようという気になった。残されたわずかな視力で、長年暮らしたこの場所を目に焼き付けておきたかった。
厚司と梨奈は源人を連れて遊園地に行っていたので、私は誰に気兼ねすることもなく邸宅の中をぶらぶらと歩き回った。
最後にたどり着いたのは、一番馴染みのある庭だった。
かつて、ここには一本のサクランボの木があった。
私がサクランボ狩りを好きだったから、厚司が「毎年家でサクランボ狩りが楽しめるように」と植えてくれたものだ。
しかし今、そこにはまだ掘り起こされていない切り株だけが残されていた。
私はその木の残骸をそっと撫で、傍らに立つ執事に尋ねた。「この木はどうしたの?」
執事は心配な表情を浮かべ、躊躇しながらも口を開いた。「梨奈様が、『この木は日当たりを悪くする』と仰ったので、旦那様が切るように言われたのです」
一度では聞き取れず、執事はもう一度大きな声で繰り返してくれた。
私は微かに微笑んだ。「まあ、いいわ」
私がこの世界で愛したものは、すでに全て壊されてしまった。これで、もう未練は残らない。
私は切り株の上に座り、適当な理由をつけて執事を退かせると、かつてのように頬を撫でる風を感じた。
どれくらいの時間が経っただろうか。私の五感は完全に消失した。
音も聞こえず、光も見えず、触れる感覚さえない。
その時、システムの機械的な声が脳内に響いた。「宿主、お迎えに参りました。記憶を消去しますか?」
私は一切の迷いなく答えた。「消去して」
こんな苦痛に満ちた記憶を残しておいたところで、来る日も来る日も私を苦しめるだけだ。いっそ全て忘れて、新しい人生を歩み始めたほうがいい。
私の記憶が徐々に引き剥がされていく。すべてを忘れたような感覚だった。
意識が完全に引き抜かれるその一瞬、私は短時間だけ五感を取り戻した。
システムによると、これが死の直前の一時的な覚醒らしい。
厚司が源人と梨奈を連れて帰ってくる声が聞こえた。
笑い声と楽しげな会話が、和気あいあいとした空気が漂っていた。
彼らの幸福の絶頂の中、私は記憶を失い、一番好きだったサクランボの木の残骸の上で体をうずくまって、ゆっくりと目を閉じて、二度と目を覚ますことはなかった。