誠実な愛には嘘は許せない

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誠実な愛には嘘は許せない

GoodNovel 完結

藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。 記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。 医者は治る見込みがあると言った。 それで、私は彼の治療に付き添ってきた。 三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。 京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。 酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。 「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。 でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」 信夫は嘲笑った。 「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。 あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」 私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。 記憶喪失なんて、嘘だった。 全部、演技だったんだ。 まあ、これでいい。 これからは、彼は自由だ。 私も自由だ。

チャプター (1)

第1章

藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。 記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。 医者は治る見込みがあると言った。 それで、私は彼の治療に付き添ってきた。 三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。 京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。 酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。 「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。 でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」 信夫は嘲笑った。 「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。 あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」 私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。 記憶喪失なんて、嘘だった。 全部、演技だったんだ。 まあ、これでいい。 これからは、彼は自由だ。 私も自由だ。 第1話 藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。 記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。 医者は治る見込みがあると言った。 それで、私は彼の治療に付き添ってきた。 三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。 京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。 酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。 「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。 でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」 信夫は嘲笑った。 「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。 あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」 私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。 記憶喪失なんて、嘘だった。 全部、演技だったんだ。 まあ、これでいい。 これからは、彼は自由だ。 私も自由だ。 個室には、私と信夫だけが残った。 彼は次から次へと煙草を吸い、床には吸い殻が散らばっている。 「もう聞いちまったんだろう?なら隠す必要もないな。 俺は橙子と一緒になるために記憶喪失のふりをしてたんだ。でも、お前との付き合いも長いし、俺も……」 彼は顔をこちらに向け、赤くなった私の目を見つめる。 信夫の表情が一瞬で柔らいだ。 「もういい、こんな話はやめよう。 このことはなかったことにして、前みたいにやっていこう、な?」 彼の手を避け、私は冷たく告げる。 「別れよう」 信夫の笑みは瞬時にして凍り付いた。 彼は私の手を離し、煙草に火をつけて、少し疲れたように言う。 「俺は別れない」 「じゃあ、彼女と縁を切って」 信夫はじっと私を見つめ、長い沈黙のあとで口を開く。 「詩織、正直に話すよ。 俺が橙子と結婚しようと思ったのは、ただ意地みたいなものだ。 五年前、あの女は金のことで俺を捨てた。それが三年前、また金目当てで戻ってきた。 だから、あいつと結婚して、彼女が俺を愛するようになった時に、今度は俺が捨ててやろうと思ってな。あの時の俺の痛みを、思い知らせたかっただけだ」 彼は顔を上げ、私の表情を探るように見つめる。 「詩織、彼女への復讐が終わるまで待ってくれないか?」 復讐? 私を騙して、記憶喪失のふりをした。 名も立場もないまま、私は三年間も彼の世話をしてきた。 それなのに今度は、別の女と結婚するって? それがただの復讐だと言うの? 胃酸が逆流するような不快感に襲われ、洗面所に駆け込み、こみ上げる吐気を押さえようとした。 「そんなに大げさに反応することないだろう」 信夫が後を追ってきて、そっと私の背中を撫でた。 「さっきも言った通り、あの女との結婚は一時しのぎに過ぎないんだよ。 俺が本当に愛してるのは、ずっとお前だけだ」 私は振り向いて彼を見る。 その目には心配の色がたたえている。 何年も愛し続けてきた、あのいつもの彼の姿。 なのに今では、胸がむかむかするほどの嫌悪しか湧いてこない。 「愛してる?本気でそう言うの? 愛してるっていうのに、記憶喪失のふりをして、この名もなき私に三年も尽くさせておいて!愛してるっていうのに、この都合のいい女を浮気相手にしようってこと?」 信夫は眉をひそめ、少し苛立ったように言う。 「そんな言い方するなよ。浮気なんて、ありえないだろ?橙子とのあれは全部芝居だ。本当に好きなのはお前だけなんだ。 確かにお前を騙した。でもな、お前がそれを気に食わないと思ったからだ。 本当に悪かった。だから、そんなに拗ねるなよ」 そう言って、彼は私の髪に触れようとした。 「触らないで!」 私は勢いよく彼の手を払った。 彼の手はそのまま宙に浮いて、動かなくなった。 この三年間、私は名分も立場もなく、彼に付き添い、世話をし、治療を支えてきた。 それでも、愛があれば乗り越えられると信じていた。 でも、今になってやっと気がついた。 これは、愚かな私のただの一人相撲だったのだ。 第2話 信夫はこめかみを押さえ、我慢の限界といった様子で言う。 「もういい、今夜は一旦落ち着こう。 詩織、ちょっと考えてみてくれ。こんな些細なことで、俺たちが積み上げてきた時間も、思い描いてきた未来も、それにお前の両親の期待にまで背くっていうのか?本当にここで終わらせていいのか?」 ドン、と扉が閉まる音が響いた。 私は抑えきれずにえずいた。 背中は弓のように反り返っているのに、何も吐き出せない。 涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざり、見るも無惨な顔だ。 泣き終えたあと、ようやく迷いが吹っ切れた。 タクシーを拾って帰り、荷物をまとめる。 かつては期待に胸をふくらませて引っ越してきたこの家を、今は惨めな姿で去っていく。 思わず、自嘲気味に笑った。 ちょうどその時、スマホの通知音が突然鳴り響いた。 夏目橙子(なつめ とうこ)がSNSに投稿したものだった。 キャプションにはこう書かれている。 【独身で迎える最後の年越し】 写真の背景は海辺だ。信夫が片膝をつき、橙子にプロポーズしている。 胸の奥が、鋭く痛んだ。 画面を消すと、そこに映ったのは血の気の引いた自分の顔。 その後、荷物をまとめる手さえ震えていた。 もういい、これで終わりにしよう。 実は滑稽な話だけど、京西市で信夫の治療に付き添ったこの三年間、私は仕事を捨て、交友関係も断ち、唯一頻繁に連絡を取っていたのは記憶喪失の治療をしてくれる医師だけだ。 私の世界は、信夫を中心に回っていた。 彼が別の女性に夢中になっていた時でさえ、私は彼を庇う理由を探していた。 私はいつも自分に言い聞かせていた。彼は病気なんだ、ただ覚えていないだけ。きっと思い出して、元通りになると。 けれど、すべては演技だった。 突然、電話が鳴る。 父からだ。 「詩織、信夫さんのほうから聞いたんだが……ちょっと揉めたのか?」 「……うん」 喉が詰まった。 ちょっともめたなんかじゃない。父に伝えたかった。 彼と別れるつもりなのだと。 「お父さん、私……」 けれど、口の中が綿で塞がれたように、言葉が出てこない。 どう言えばいい? 信夫がずっと記憶喪失のふりをしていたなんて? すべては別の女と結婚するための芝居だったなんて? 「詩織、本当は言うつもりなんてなかったんだ……でも、言わなくちゃいけない」 私がまだ言葉を探しているうちに、父が話し続いた。 「お母さん……もう、そう長くはないんだ」 突然、喉元まで込み上げてきた苦しさと抗議の言葉が、一瞬にして凍りついた。 「お父さん……今……なんて言ったの?」 「末期の肺がんで、もう治る見込みはないんだ。お前に余計な心配をかけたくなくて、黙ってたんだよ。 今日電話したのはな、信夫さんの記憶障害の具合が気になってさ……それと、お前たち、いったいいつ結婚する気なんだ?お母さんはな、今は気力だけで持ちこたえてる。お前が幸せそうな花嫁姿を見るのが、唯一の願いなんだ……」 その後も、父は何かを話していた。 けれど、私の耳にはもう何ひとつ届かなかった。 ただ、耳の奥で低く唸るような音だけが響いていた。 電話が切れた。 母の最後の願いは、私が信夫と結婚すること。 けれど、彼は―― 私は自嘲気味に笑った。 一人でスーツケースを引きずりながら、あてもなく大通りを歩きだした。 いつの間にか雨が降り出していた。 細かい霧雨が、やがて豪雨へと変わっていく…… 私は街角に立ち尽くし、全身がずぶ濡れになっていた。 そのとき、不意に頭上に傘が差し出された。 顔を上げると、そこにいたのは信夫だ。 彼は記憶を失う前と同じように、私を強く抱きしめた。 彼の腕の震えが、はっきりと伝わってくる。 「一緒に帰ろう…… 詩織、もう決めたんだ。橙子とは結婚しない」 信夫は私のスーツケースを奪い取るように持ち、私を助手席へ押し込んだ。 そして約束するように言う。 「心配するな。ちゃんとけじめをつけるから。橙子とは、きれいに別れる。 それに、詩織、お前のお母さんのこと……おじさんから話は聞いてるよ……」 第3話 「すぐに結婚しよう」 私は何も言わず、ただ呆然と彼を見つめる。 彼の身体から漂う見知らぬ香水の匂い、襟元についた見覚えのない口紅の色―― それは、別の女の痕跡だ。 目を閉じると、ただ虚無感だけが胸に沈んでいく。 それでも信夫は、私に盛大な結婚式を挙げ、母に私の幸せな花嫁姿を見せようと繰り返し口にしている。 私は頭を傾けて車窓にもたれ、返事をする気力さえもなかった。 その後の半月、私は感情を殺したまま結婚式の準備を進め、母の看病を口実に病院に泊まり込み、信夫との接触を極力避けた。 彼は怒ることもなく、完璧に約束を果たした。 橙子と別れて、私のために、最も華やかな結婚式を準備しようとしていた。 彼は仕事まで断って、病院で私と一緒に夜を明かした。まるで理想的な婿のように振る舞っていた。 母の顔色も少し良くなり、私の手を握りながら彼に言う。 「信夫さん、詩織のことをよろしくお願いします。これで安心できますわ」 信夫はその言葉に応えるように私の手を取り、指をしっかりと絡めて、真摯な眼差しで言う。 「お義母さん、俺は一生、詩織を大切にします」 母の真剣な眼差しを見て、私は目を伏せ、小さくうなずいた。 けれど胸の奥は、水をたっぷり吸い込んだ海綿のように重く沈んでいた。 すべては、何も変わらぬ日常のはずだった。 異変が起きたのは、ある午後のこと。 信夫が急用で会社に呼び出され、私はひとりで病室へ向かった。 扉を押し開けると、母の世話をしていた介護士が別の人に替わっていた。 その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。夢の中でさえ忘れられない顔だ。 信夫の初恋、橙子。 彼女はちょうど母と話していた。 「……彼氏とは本気で愛し合っているんです。でも、別の女性が過去の恩を盾に、結婚を要求してきて……もう……」 母はそれを聞きながら、顔に同情の色を浮かべた。 私は扉のところで立ち尽くした。全身の血が一瞬で凍りつくかのようだ。 「詩織、来たの?」 母が私に気づき、微笑んだ。 「夏目さん、本当に気の毒ね……でもあの子もね、好きでもないのに、無理やり二人の間に割り込むなんて。どうしてああいうことができるのかしらね」 私は引きつった笑みを浮かべ、母の言葉を遮る。 「お母さん、お粥を持ってきたの。さあ、ちょっと食べてみて」 それから橙子のほうを振り向き、静かに言う。 「少し、外で話せる?聞きたいことがあるの」 廊下の突き当たり。 私は橙子を見つめて言う。 「さっきの話、わざと母に聞かせたの?」 橙子の顔から穏やかさが消え、唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。 「自分のことを話しただけよ、何か問題でも?」 「私たちの問題に両親を巻き込まないで」 私は声を抑え、できるだけ理性的に言葉を選ぶ。 「私たち二人とも被害者なんだ。話せばきっと――」 「被害者って?」 彼女は鼻で笑い、私の言葉を遮った。 「いい?そんな芝居、私には通用しないわ。 信夫が本当に好きなのは私。結婚したいと思っているのも私よ。 横から割り込んだのはあんたの方でしょ。彼に無理やり結婚させて、あの余命僅かのあんたの母親を喜ばせたかっただけじゃないの」 私は拳を固く握りしめ、反論したい、ぶん殴りたい衝動に駆られた。 だが、必死にこらえた。 ここは病院だ。騒ぎを起こしたくないし、何より、母を刺激するわけにはいかないのだ。 「私のことは何と言われても構わない。でも、母を侮辱するな」 彼女は一歩詰め寄り、低く渋い声で、魂を抉るような言葉を投げつけた。 「言ったらどうなの?余命いくばくもないクズが……」 頭の中で張りつめていた糸が、プツンと音を立てて切れた。 気がつくと、掌がひりひりと痺れた。 彼女の頬を、思いきり打っていたんだ。 橙子が悲鳴を上げ、よろめきながら顔を押さえる。 「何してんだぁ!?」 信夫の鋭い声が響く。 彼は素早く駆け寄り、橙子を庇うように背中に隠すと、私の手首を握った。力は強く、逃れられない。 「詩織!どうして人を叩くんだ!」 橙子はすぐに彼の背に身を寄せ、涙をこぼしながら、震える声で口を開いた。 第4話 「信夫……私はただ、おばさまが一人で寂しそうだったから、少しお手伝いして、お話し相手になってあげようと思っただけなの…… どうして佐藤さんがそんなに怒っているのかわからないわ。いきなり私を叩くなんて……」 彼女はすすり泣きながら、周囲の同情を引いた。 先程まで私に吐き捨てるように話していた時の、あの刺々しい態度とはまるで別人のようだ。 「先ほど、彼女が何を言ったのか、聞いてよ!」 私は怒りに震え、信夫の手を振り払おうとした。 信夫は眉間に深い皺を寄せ、橙子の腫れた頬を見つめる。 そして興奮している私に視線を移し、その瞳には失望と苛立ちが浮かんでいた。 「橙子は好意でお義母さんを見舞いに来ただけだ。何か問題があるっていうのか? たとえ何か言われたとしても、手をあげるなんて絶対に許せることではない! 詩織、お前、いつからそんなに理不尽な人間になった?少し気に入らないことがあると、すぐ暴力をふるうのか?」 「私が……理不尽だって?」 思わず笑い出しそうになった。涙が自然と込み上げてきた。 「信夫、理不尽なのはあなただわ!二股をかけなければ、私があの女と揉めることなんてあると思う?」 「もういい!」 信夫は眉間を押さえ、うんざりしたように言う。 「詩織、俺はちゃんと約束しただろう。結婚するって。それなのに、まだ騒ぐのか?そんなことして楽しいのか?」 その言葉を聞いた瞬間、力が抜けていくのを感じた。 楽しい? 楽しくなんてないよ。 顔を上げ、涙を無理やり押し戻す。 「……いいわ。式にはちゃんと出席してね」 かつて、私は信夫と結婚できることを心から願っていた。 けれど今は、これがただの形で、むしろ幸運だと思う。 芝居が終われば、幕が閉まるだけだ。 結婚式の日、まぶしいほどの陽射しが降り注いだ。母は無理を承知で、私の式に立ち会ってくれた。 「詩織、こうして自分の目であなたの花嫁姿を見られて、もう本当に心残りはないわ」 涙をこらえながら、私は母を支えて席に案内した。 「お母さん、そんな縁起でもないこと言わないで。絶対に長生きしてよ」 母は微笑みながらうなずいた。 そして、私と信夫の手をそっと重ね合わせた。 司会者がステージで祝辞を述べた。 信夫も私の手をしっかりと握り返してくれた。 こうしてすべてが順調に進んでいた。 指輪を交換するその瞬間までは。 宴会場の扉が勢いよく開いた。 信夫の友人が血相を変えて駆け込んできて叫んだ。 「信夫!大変だ!橙子が手首を切って、病院に運ばれた!今、生死の境をさまよっている。どうしても最後に、お前だけに会いたいって!」 ゴンという衝撃が頭を走り、頭の中は一瞬で真っ白になった。信夫は考える暇もなく、くるりと背を向けて駆け出そうとする。 「信夫!」 私は必死に彼の腕を掴んで、懇願する。 「行かないで……お願い、せめて式だけは済ませて。 ……十分、いや、五分でいいから。それから夏目さんに会いに行けばいいじゃない…… 指輪を交換したら、式は終わる……お願い、母が見てるんだ……」 私は視線をステージ下に向ける。 母はそこに座り、微笑みがこわばり、目には驚きと戸惑いの色が入り混じっている。 だが信夫は眉をひそめ、私を非難する口調で言い出した。 「詩織、今がどういう時だと思ってるんだ。まだ式なんて続ける場合か?いつからそんなに冷たくなった?これは命がかかってるんだぞ! 橙子に万一のことがあれば、お前はその責任が取れるのか?」 次の瞬間、彼は勢いよく私の手を振り払った。 あまりの力に、私はそのまま床に倒れ込んでしまった。 「信夫!」 彼がステージから駆け下りようとしたその瞬間、私は全身の力を振り絞って叫んだ。 「今、この扉を出て行ったら――私たちはもう終わりだ」 信夫の足が一瞬止まった。 そして、振り返ることもなく、扉の外へと駆け出していった。 会場は水を打ったように静まり返った。 誰もが気まずそうにその場に立ち尽くしている。 私は膝の力が抜け、冷たい床に崩れ落ちた。 その時、ドンと鈍い音が響いた。 振り向くと―― 「お母さん!」

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