別れは夢の如し

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別れは夢の如し

GoodNovel 完結

鷹司宗介(たかつかさ そうすけ)と婚約して四年、結城初音(ゆうき はつね)は未だに彼と結婚できずにいた。 鷹司家は三代続く帝央防衛局の重鎮であり、一族の者が結婚するには総長の許可が必要だったからだ。 しかし、毎年のように彼らの婚姻許可申請は却下され続けていた。 そして四年目、初音は宗介が自ら申請結果を書き換えるのをその目で見てしまった。 その時、彼女は初めて知ったのだ。宗介には、初めから自分を妻にする気など微塵もなかったということを。

チャプター (1)

第1章

鷹司宗介(たかつかさ そうすけ)と婚約して四年、結城初音(ゆうき はつね)は未だに彼と結婚できずにいた。 鷹司家は三代続く帝央防衛局の重鎮であり、一族の者が結婚するには総長の許可が必要だったからだ。 しかし、毎年のように彼らの婚姻許可申請は却下され続けていた。 そして四年目、初音は宗介が自ら申請結果を書き換えるのをその目で見てしまった。 その時、彼女は初めて知ったのだ。宗介には、初めから自分を妻にする気など微塵もなかったということを。 第1話 帝央防衛局の誰もが知っていた。鷹司宗介(たかつかさ そうすけ)が結城初音(ゆうき はつね)を妻に迎えるため、毎年過酷な懲戒を受けていることを。 鷹司家は代々局の要職に就いており、一族の結婚には総長の承認が必須であると明文化されていた。 だが、宗介が三年連続で提出した婚姻申請は、すべて不承認という結果に終わっていた。 一年目、彼は訓練場に三日三晩跪き続け、一滴の水も飲まず、ついには倒れて付属医療センターに運ばれた。 二年目、彼は局の厳格な規律による五十回の鞭打ちを受け、背中の皮が裂け肉が剥き出しになるほどの重傷を負った。 三年目、高熱を押して氷雪の中で跪き、両足を失いかけた。 それでも毎年、規律は絶対に曲げられないという理由で申請は退けられてきた。 そして四年目、初音は決意した。もし今年も申請が却下されたなら、自分も宗介と共に罰を受け、特例として結婚を認めてもらうよう懇願しようと。 彼女が急いで局の執務室に駆けつけると、宗介はちょうど総長からの決裁書を受け取ったところだった。 彼がその書類を開いた瞬間、扉の外にいた初音の目には【婚姻を許可】という文字がはっきりと見えた。 だが、彼女が喜びの声を上げるより早く、宗介はペンを手に取り、【しない】という文字を書いた。 続いて、彼は書類を側近に渡し、静まり返った部屋に、彼の低い声が響いた。 「表向きには、今年も申請は通らなかったと発表しろ」 …… 初音はその場に凍りつき、頭の中が真っ白になった。 宗介は……なぜ申請結果を書き換えたのだろうか。 側近は書類を受け取ると、複雑な表情で宗介を見つめた。 「鷹司隊長、以前は早く初音さんを妻に迎え、正式な伴侶にしたいとよく口にしておられましたよね。本当に結婚できるようになったのに、なぜ先延ばしにし続けるのですか。結果を書き換えるのはこれで四度目ですよ」 その一言一句がはっきりと初音の耳に刻み込まれ、彼女は立っていられないほどの衝撃を受けた。 四度目の書き換え…… 過去三年の申請も、本当はすべて許可されていたのだ。 宗介の声には少しばかりの無力感が滲んでいた。 「初音と結婚したいという気持ちは一度も変わっていない。だが、初音が湊翠市(そうすいし)で大学に通っていた四年間、俺の側にいてくれたのは杏奈だった。 杏奈は俺のために自分の夢を諦め、帝央市に残って同じ保安育成機関に入った。卒業後も局の一般隊員から始まり、甘んじて俺の専属補佐官という立場に就いてくれたんだ。 ある時、杏奈は酔って俺に抱きつき、俺が結婚する日が彼女の人生で最も暗い日になるだろうと泣きながら言った。彼女を愛してはいないが、俺にも情はある。八年も寄り添ってくれた彼女を、どうしても傷つける気にはなれない」 「では、初音さんはどうなるのですか。何度も承認を書き換えて結婚を遅らせて、彼女が傷つくとは思わないのですか」 側近は全く納得がいかない様子だった。 宗介は一瞬沈黙し、懲戒用の鞭を取り出して側近に渡した。 「だからこそ、初音には絶対にこのことを知られないようにする。毎年受ける懲戒は、俺から彼女への贖罪だ。今年は九十九回の鞭打ちだ」 やがて、部屋の中から男の押し殺したようなうめき声が響き始めた。 一方、扉の外にいる初音の視界はすでに涙で滲んでいた。 彼女は必死に口を覆い、嗚咽が漏れるのを堪えた。 なんと、宗介が四年連続で承認を書き換えていた理由は、橘杏奈(たちばな あんな)のためだったのだ。 あの、自分が今まで全く気に留めていなかった杏奈のために。 初音と宗介は幼馴染として共に育ち、幼い頃から宗介は彼女に対して強い独占欲を抱いていた。 幼稚園から高校までずっと同じクラスで、片時も離れることなく、誰もが認めるお似合いのカップルだった。 高校二年の時、クラスに転校生がやって来た。それが杏奈だった。 杏奈は転校初日、人前で堂々と宗介に告白し、一目惚れしたと伝えた。 宗介はためらうことなく冷たい声で拒絶し、隣にいた初音を抱き寄せて、自分にはすでに婚約者がいると宣言した。 それでも杏奈は諦めず、粘り強く彼にアプローチし続けた。 だがその度に、返ってくるのは宗介の冷ややかな態度だった。 初音も杏奈を恋のライバルだと思ったことは一度もなかった。宗介が愛しているのは自分だけだと確信していたからだ。 それは、初音が進学試験で実力を発揮できず、帝央大学の合格ラインに届かなかった時まで続いた。 熟慮の末、初音は両親の意見に従い、湊翠市にある大学へ進学することを決めた。 ただの一時的な遠距離恋愛に過ぎず、自分と宗介の絆が揺らぐことはないと思っていた。 しかし予想外だったのは、杏奈が宗介と同じ育成機関に出願していたことだった。 さらに思いもしなかったのは、卒業したらすぐに妻に迎えると言っていたあの男が、わずか四年の間に変わり、杏奈のために何度も自分との結婚を先延ばしにしていたことだ。 残酷な真実は鋭い刃のように、初音の心をズタズタに切り裂いた。 彼女は唇を強く噛み締め、押し寄せる痛みに飲み込まれないよう必死に耐えた。 その時、警備隊員が慌てて駆け寄ってきて、彼女に電話がかかっていると告げた。 初音は目頭に溜まった涙を必死に堪え、通信室へと向かった。 初音の母からの電話だった。 「初音、今年の婚姻申請の結果はどうだった?宗介さんと結婚できそうなの?」 受話器を握る初音の指の関節は白く浮き上がり、喉に綿が詰まったかのように声が出なかった。 初音の沈黙から、電話の向こうの母はすぐに答えを悟り、諭すように言った。 「四年も経っているのに、まだ結婚していないでしょう?それだけで、彼は本気であなたを妻にする気がないのは分かるわ。お母さんの言うことを聞いて、南黎市(なんれいし)の九条家に嫁ぎなさい。九条家はお母さんが厳選した立派なご家庭よ。あそこへ嫁げば絶対に辛い思いはしないわ。お母さんはただ、あなたに幸せになってほしいだけなの」 六年前、父が南黎市に転勤となり、結城家は一家を挙げてそこへ移住していた。 湊翠市で大学を卒業した後、初音は宗介とすぐに結婚できると思い込み、再び帝央市に戻ってきていた。 まさか、四年間も時間を無駄にすることになるとは思ってもみなかった。 初音の母も、初音がいつまでも結婚しない状況に以前から不満を抱いており、南黎市へ戻って結婚するよう何度も初音を説得していた。 それでも初音は、自分と宗介の結婚はただ少し時間がかかっているだけだと頑なに信じていた。 今思えば、足りなかったのは時間ではなかったのだ。 宗介が自分と結婚したいという意志そのものが欠けていたのだ。 初音の脳裏に、傷だらけの宗介の背中が浮かび上がり、胸の奥に無数の針で刺されるような痛みが走った。 「お母さん、私、九条家に嫁ぐわ」 第2話 「ええ!お母さんがすぐに手配するわ」 電話を切った後、懲戒の鞭打ちを終えた宗介が、側近に支えられながらちょうど通信室の前を通りかかった。 涙の跡がまだ乾いていない初音を見て、彼の瞳の奥に隠しきれない焦りがよぎった。 「初音、いつから来ていたんだ?」 初音は力強く涙を拭い、沸き上がる感情を無理やり押し殺した。 「あなたが鞭打ちを受けていた時からよ」 宗介は気付かれないほど小さく安堵の息を吐き、罪悪感に満ちた目で彼女の手を握り、悔しそうに言った。 「すまない、今年も結婚の承認が下りなかった。初音、もう一年だけ待ってくれないか。来年こそは必ず申請を通してみせるから」 来年? 来年、たとえ承認が下りたとしても、あなたはまた「結婚を許可しない」に書き換えるのだろう。 爪が手のひらに食い込んで血が滲むほど拳を握り締めながら、初音は喉まで出かかった問いを辛うじて飲み込んだ。 結局、彼女は何も言わなかった。 九十九回の鞭打ちはあまりにも過酷で、宗介の背中の傷からは血が流れ続けていたため、医療センターへ向かう必要があった。 車に乗り込むと、宗介は体の半分以上を初音に預け、いつものように甘える口調で言った。 「初音、背中がすごく痛いんだ。後で君に薬を塗ってもらえないか?」 幼い頃から、彼は怪我をするたびに彼女の元へすり寄り、他人には決して見せない脆い一面を見せて彼女に甘えていた。 そして彼女は毎回、心を痛めて涙をこぼしながら、慎重に彼に薬を塗ってあげていたのだ。 だが今、血まみれの背中を見つめる彼女の心にあるのは、深い皮肉だけだった。 運転席にいた側近がバックミラー越しにその様子を見て、冗談めかして口を開いた。 「鷹司隊長、早く初音さんと結婚できるよう頑張ってくださいよ。いつまでも待ってくれる人なんていませんからね。もし初音さんに愛想を尽かされたら、俺たちも祝い酒が飲めなくなってしまいますよ」 初音には分かっていた。側近は、幼馴染の二人が結ばれないのを不憫に思い、冗談に紛らせて彼を諭してくれているのだと。 しかし、宗介はその言葉に耳を貸さず、揺るぎない自信に満ちた声で答えた。 「あり得ないよ。初音は俺だけを愛している。結婚の承認が下りるその日まで、彼女は必ず待っていてくれるさ」 それを聞き、初音は微かに口角を引きつらせた。 いいえ、宗介。あなたは間違っている。 結城初音には、自分自身の誇りがある。 心に別の女がいる男を、愛し続けることはない。 不誠実な男と結婚することもない。 医療センターに到着し、医師の診察を受けた後、宗介の入院が決まった。 病室で、初音が彼に薬を塗り終えて立ち上がろうとした瞬間、手首を掴まれ、彼の腕の中に引き寄せられた。 「初音、傷の処置はもう終わった。少しだけキスしてもいいか?懲戒を受けている間、頭の中はずっと君のことでいっぱいだった。君がいれば、どんな痛みも感じない……」 そう言いながら、男の熱い吐息が次第に近づいてくる。 初音が口実を作って身をかわそうとした時、病室の扉がバンッと大きな音を立てて開け放たれた。 杏奈だった。 杏奈は宗介の背中を覆うガーゼを見るなり目を赤くし、初音を指差しながらヒステリックに叫んだ。 「もう四年連続で結婚申請が通らなかったんでしょ。それだけで、あなたと彼女が釣り合わない証拠じゃない!なぜ彼女と結婚するのを諦められないの?あなたが傷つくのを見るたびに、私の心がどれだけ痛むか分かってるの?」 瞳に涙を浮かべ、杏奈は懇願するように言った。 「別の人と付き合って。たとえそれが私じゃなくてもいい。ただ、これ以上あなたに傷ついてほしくないの」 だが宗介の顔色は即座に曇り、氷のように冷たい声で返した。 「杏奈、お前は今、ただの専属補佐官だ。俺の私生活に口出しする権限はない! それに、高校の頃から言っているはずだ。俺は初音しか愛していないし、一生彼女だけを妻にするつもりだとな。 四年だろうが、六年、十年だろうが、承認が下りない限り、俺は初音と結婚できるまで何度でも申請を出し続ける!」 杏奈は顔面を蒼白にさせ、よろめきながら数歩後ずさりし、震える声で言った。 「そう、あなたの怪我を心配するなんて、私のお節介だったわね!」 そう言い残し、彼女は目を真っ赤にして走り去った。 宗介は腕の中にいる初音を見下ろし、優しげな表情に変わった。 「初音、あいつの言葉なんて気にするな。俺は君だけを愛している。彼女が言うように、君との結婚を諦めることなんて絶対にない」 初音はその隙に彼の腕から抜け出した。 彼女はうつむき、自分の手首を見た。 そこにはくっきりと赤い痣が残っていた。 おそらく宗介自身も気付いていないのだろう。口では杏奈にあんな冷たい言葉を浴びせながらも、初音の手首を握る力が無意識に強まっていたことに。 以前の彼なら、初音をまるで宝物のように大切にしていて、傷ひとつつけたりはしなかった。 不意に目頭が熱くなり、彼女は声の震えを気付かれないよう努めた。 「橘杏奈があなたの補佐官になったのは、いつのこと?」 宗介は一瞬表情を強張らせたが、すぐにひどくうんざりしたような口調で答えた。 「先月だ。補佐官の選出には関わっていなかったから、まさか隊が彼女を選ぶとは思わなかった。だが、理由もなく彼女を異動させるわけにはいかない。そんなことをすれば、他の隊員たちが動揺してしまうからな」 その見え透いた嘘を聞き、初音は皮肉っぽく笑った。 宗介は昔から人選には厳しい。ましてや補佐官は、ほぼ二十四時間付き従う立場だ。 彼が首を縦に振らない限り、隊が勝手に人選を決めるはずがない。 彼女の沈黙に気付き、宗介は慌てて約束した。 「でも安心してくれ。あいつが何かミスをしたらすぐに異動させて、二度と俺の前に現れないようにするから。高校の頃から今まで、俺は本当にあいつにはうんざりしているんだ」 次から次へと吐かれる嘘を聞きながら、初音の心は氷水に浸されたように冷え切っていた。 なんて滑稽なのだろう。 口では自分だけを愛している、結婚したいと言いながら、何度も結婚の承認を書き換えている。 口では杏奈にうんざりしていると言いながら、あの手この手で彼女を彼の側に留めようとしているのだから。 第3話 病室内の空気が初音を息苦しくさせた。 「ここ数日は用事があるから、看護師さんに看病してもらって」 これ以上ここにいたら、呼吸ができなくなりそうだった。 そう言い残し、初音は宗介のあからさまな落胆を気に留めることもなく、逃げるように病室を後にした。 家に戻り、寝室のドアを閉めて、ようやく彼女は全身の力を抜き、その場に崩れ落ちた。 はらりと、鞄の中から一枚の写真がこぼれ落ちた。 高校の制服を着た彼女と宗介が、クスノキの下で見つめ合いながら微笑んでいる写真が目に飛び込んできた。 それは進学試験が終わったその日に撮った写真だった。 初音は今でも覚えている。十八歳の少年が彼女の手を引き、三日月のように細められた目には彼女の姿だけが映っていたことを。 「初音、俺たちは一生一緒だ。絶対に離れない!」 だが今、彼の心には別の女が住み着いている。 そして自分もまた、遠く離れた南黎市へと嫁ぎ、二度とここへは戻らない。 初音は立ち上がり、宗介に関するすべての思い出の品を片付け始めた。 三歳の時に贈られたぬいぐるみ、九歳の時に彼が手作りしてくれた人形、十六歳で正式に告白された時の初めてのラブレター、十八歳で交換したペアリング…… しかし、宗介は彼女が生まれてから今日までの人生のほとんどを占めており、二人の思い出はどう捨てても捨てきれないように思えた。 午後をいっぱい使って片付けても、まだかなりの量が残っていた。 初音は手を止め、家を出て不動産業者の元へ行き、家を売却する手続きを依頼した。 捨てきれないのなら、すべてをこの家に置き去りにしてしまえばいい。 それからの数日間、彼女は家の売却に必要な様々な手続きに追われていた。 宗介の姿は、彼女の脳裏から徐々に消え去っていくかのようだった。 熱愛中だった頃のように、一日中玄関に立って彼の帰りを待ちわびることもなくなった。 人づてに届く彼からの伝言にも、彼女はそっけない返事を返すだけだった。 その日、家の売却手続きをすべて終えた彼女の元に、宗介から電話がかかってきた。 「初音、どこにいる?今日退院したんだ。君にサプライズを用意しているんだよ」 初音は唇を噛み締め、家に来るように伝えた。 二十年以上に及ぶ関係にも、正式な終わりを告げるべき時が来ていた。 すぐに宗介が駆けつけてきた。 彼女の顔を見るなり、彼はサプライズ感を演出するためだと称して、彼女の目を布で覆い、車に乗せた。 目的地に着き布を外されると、そこは彼が十六歳の時に正式に告白してくれたレストランだった。 ロビーには【鷹司宗介&結城初音交際十周年記念日】と書かれた横断幕が掲げられていた。 初音はハッとし、壁に掛かったカレンダーを見て、今日が二人の交際記念日だったことをようやく思い出した。 彼女は目を伏せ、驚きも喜びも見せなかった。 これでいい。この感情が始まった場所で、終わりを迎えるのだ。 宗介は彼女の異変に気付かず、彼女の肩を抱き寄せて奥へと進んでいった。 「付き合い始めて最初の十周年だからな。盛大にお祝いしないと」 レストランは彼が貸し切っており、隅に置かれたレコードプレーヤーからは、彼が告白した日に歌ってくれたラブソングが流れていた。 しかし…… 初音は周囲を見渡した。 装飾に使われている花は、自分が昔から好きではなかった赤いバラだった。 写真用の壁に貼られたツーショット写真もバラバラで、中には床に落ちているものまであった。 二人で食事をするはずなのに、テーブルには一人分の食器しか用意されていない。 こんな手抜きなセッティングが、彼の言う「盛大なお祝い」なのだろうか。 明らかに、宗介もそれに気付いていた。 彼は冷ややかな声でレストランの支配人を呼びつけ、問い詰めた。 「なんだこの雑なセッティングは!」 支配人は額に冷や汗を浮かべ、恐る恐る答えた。 「鷹司隊長、これはすべて補佐官の方からの指示通りに準備したものです。私共もおかしいと思い、何度も確認したのですが、補佐官の方が言う通りにしろと仰ったものですから……」 それを聞き、彼の顔色は少し悪くなったが、怒りは静まったようだった。 宗介は初音のそばに寄り添い、なだめるように言った。 「罰として橘杏奈の報酬を三ヶ月分減給するから、怒らないでくれないか、初音。今日は俺たちの記念日なんだ。関係ないことのせいで気分を害することはない」 宗介は昔から記憶力が良く、ほんの数日前に「橘杏奈がミスをしたらすぐに異動させる」と言ったことを忘れるはずがなかった。 彼が先に別の罰則を提案したのは、杏奈の補佐官という地位を守り、側に置いておくためでしかない。 彼の魂胆など、初音にはお見通しだった。 彼女はそれを口にすることもなく、ただ静かに席に着いた。 どのみち今後、宗介が杏奈をどれだけ側に置こうが、自分にはもう関係のないことなのだから。 宗介は強張っていた体をほぐし、店員に注文していたケーキを運ばせた。 ケーキがテーブルに置かれた瞬間、初音は心の中でため息をついた。 なんとマロンケーキだった。どうやら杏奈は、絶対にこの記念日を邪魔するつもりらしい。 「私は栗アレルギーよ」 二十年以上も朝から晩まで一緒に過ごしてきた宗介が、それを知らないはずはなかった。 今度ばかりは、彼の怒りも抑えきれなかった。 「橘杏奈のところへ行ってくる。一体どういうつもりで手配したのか、問い詰めてやる!」 そう言うと、彼は怒りに満ちた足取りで席を立ち、外へ向かった。 彼の去りゆく背中を見つめ、初音は一瞬躊躇したが、やはり後を追うことにした。 第4話 階段の踊り場で、怒りが収まらない様子の宗介が杏奈の手首を引っ張っているのが見えた。 「橘杏奈、お前はわざと俺と初音の十周年記念日をぶち壊したのか?レストランの飾り付けについて何度も指示したし、初音が栗アレルギーだということまで念押ししたはずだ。それなのにお前は! 装飾をめちゃくちゃにしただけでなく、よりによってマロンケーキを注文するなんて。これだけのミスがあれば、今すぐお前をクビにすることだってできるんだぞ!」 杏奈は腕を引っ張られてよろめき、あわや転倒しそうになった。 彼女は力強く彼の手を振り払い、目を赤くして彼を見据えた。 「ええ!わざとよ!自分の愛する人が他の女と過ごす記念日を、自分の手で準備するなんて。たとえクビにされたって、私にはできないわ!」 彼女の瞳に溜まった涙を見ると、宗介の怒りは一気に鎮火したが、それでも低い声で叱責した。 「それが専属補佐官としての役目だろう!ましてやお前は、俺が愛しているのが初音だと知っている。俺たちの仲睦まじい姿を見せつけられることくらい、最初から分かっていたはずだ。すべてお前が自分で撒いた種だろう」 杏奈の声はひどく掠れていた。 「そうね、自業自得だわ。私が勝手にあなたを愛して、勝手に夢を諦めてあなたと同じ育成機関に入って、卒業後も諦めきれずにあなたの側に残ったんだから。 あなたが私を愛していないことも知ってる。でも、結城初音は自分の将来のためにあなたを捨てたのに、私はあなたのために自分の将来を捨てたのよ。私の方が彼女よりずっとあなたを愛しているのに、どうして彼女への愛を少しでも私に分けてくれないの。ほんの少しでいいのに……」 宗介の心に、かすかな揺らぎが生じた。 しかし次の瞬間、彼は顔を背けて彼女の視線を避けた。 「俺と初音は幼馴染として二十年以上も寄り添ってきた。俺は初音しか愛していない」 それが彼女への警告なのか、自分自身への戒めなのかは分からなかった。 杏奈は力なく微笑み、底知れぬ悲痛を込めた瞳で彼を見つめた。 「彼女が本当に羨ましい。あなたの愛を手に入れられるなんて。 でも私は、自分の誕生日に、あなたが彼女と十周年記念日を過ごすのをただ見ていることしかできない。こんなの、まるで生きたまま私の胸に刃を突き立てられているみたいなのよ!」 「今日がお前の誕生日だったのか?」 宗介はハッとした。 目の前で苦しむ女を見て、彼はぎこちなく口を開いた。 「……分かった。一つだけ願いを叶えてやろう。なんだかんだ言っても、お前は俺の部下だからな」 「キスしてほしい。……ダメ?」 杏奈の瞳に一瞬だけ生気が蘇り、彼女は唇を噛み締めながら、恐る恐る彼を見上げた。 宗介は沈黙に陥り、承諾することも拒絶することもなかった。 彼が何も答えないのを見て、杏奈はそっと背伸びをし、少しずつ彼の頬へと顔を近づけた。 宗介はビクッと体を震わせ、無意識に手を伸ばしたが、数秒後にはゆっくりと下ろした。 それを見て、杏奈は心からの笑みを浮かべ、彼の唇の端に軽く触れるようなキスを落とした。 彼女の唇が離れようとしたその瞬間、宗介の大きな手が彼女の後頭部を掴み、その赤い唇を強引に塞いだのだ! ドクン――心臓が大きく脈打った。 たとえ初音が、宗介との二十余年に及ぶ感情を捨てる決意をしていたとしても、目の前で繰り広げられるその残酷な光景は、重いハンマーのように彼女の心臓を激しく打ち据えた。 初音の顔からは血の気が引き、立っていることすらままならなくなった。 自分が深く愛した男が別の女と唇を重ねるのを目の当たりにするのが、これほどまでに苦痛なものだったとは。 初音は自虐的に、我を忘れたように口づけを交わす二人を見つめ続け、胸の痛みが全身へと広がっていくのに身を任せた。 十分に痛めつけられれば、これ以上傷つくことはなくなるはずだから。 第5話 宗介がレストランに戻ってきたのは三十分後だった。その後ろには杏奈が続いている。 彼は何もなかったかのように初音を抱き寄せ、機嫌を取るような優しい口調で言った。 「初音、さっきあいつをきつく叱ってやったよ。今、君に直接謝罪させるからな」 杏奈はあっさりと非を認めた。 「結城さん、申し訳ありませんでした。すべて私の手落ちです。鷹司隊長からしっかり『お仕置き』されましたので、どうかお許しください」 「お仕置き」という言葉を、彼女はわざと強調して言った。 宗介はわずかに表情を硬直させたが、すぐに顔を曇らせて怒鳴りつけた。 「謝り終わったらさっさと消えろ!ここに突っ立つな!」 杏奈の挑発的な視線が瞬時に凍りつき、恨めしそうに彼を横目で見た。 「はい。ミスを犯した私が、お二人の記念日を邪魔するわけにはいきませんものね」 そう言い残し、目を赤くして踵を返した。 宗介の視線は無意識に杏奈が去っていく方向を追っていたが、終始穏やかな顔で自分を見つめる初音の存在に気づき、無理やり視線を戻した。 彼は何事もなかったかのように振る舞い、言った。 「あいつには一人でしっかり反省させよう。これで誰も俺たちの記念日を邪魔しない。今日は一日中、君の側にいるからな」 初音は長い間、彼を見つめた。 目の前にいる男は、十年前、顔を真っ赤にして告白してきた少年と外見はさほど変わらない。ただ青さが抜け、少しだけ大人の落ち着きを身につけただけだ。 だが、同じ場所、同じ時間であっても、彼女はどうしてもその二つの姿を重ね合わせることができなかった。 十年前の彼は、心も視線も自分一人に注いでいた。 しかし今は、彼の心に別の誰かの影が入り込んでいる。 初音は目を閉じ、心を整理して、南黎市へ嫁ぐという決断を告げようとした。 その時、ドアの外から不意に女の泣き叫ぶ声が聞こえた。 杏奈の声だった。 宗介はガタッと立ち上がり、顔に浮かぶ焦りと慌てぶりを隠す余裕もなく、「初音、何があったか見てくる。すぐに戻るから」とだけ言い残した。 そして、慌てて飛び出していった。 あまりにも急いでいたため、初音の「私、結婚するの。相手はあなたじゃないわ」という言葉は、当然彼の耳には届かなかった。 その時、外から車のエンジン音が聞こえてきた。 杏奈は宗介の腕に寄りかかりながら初音の方に視線を向け、得意げな笑みを浮かべ、声を出さずに口を動かした。 「見て。宗介の心の中では、私の方があなたより大切なのよ」 窓越しに、見慣れた車が次第に見えなくなっていくのを眺めながら、初音は自嘲気味に笑った。 かつて宗介のすべての愛を受けたことがある初音だから、それに気付かないはずがない。 ただ、この感情を捨てることはとうに決めていた。 彼の心の中で一体誰が重要なのか、自分にはもうどうでもいいことなのだ。 第6話 初音は立ち上がって家に戻り、南黎市へ持っていく荷物をまとめ始めた。 「すぐに戻る」と言い残した宗介からは、午後になっても一切の連絡がなかった。 深夜になってようやくリビングの固定電話が鳴った。 宗介からの電話だと察した初音は、彼の嘘に付き合う気になれず、一瞥しただけで受話器を取らなかった。 翌朝早く、激しくドアを叩く音で目を覚ました。 ドアを開けると、焦った様子の宗介が立っていた。 「初音、昨日どうして電話に出てくれなかったんだ?」 彼の声には少しばかりの不満が混じっていた。 「荷造りで疲れて、そのまま寝てしまったの」 宗介は無意識に彼女の後ろへ視線をやり、リビングの中央にまとめられた荷物の山に気づいた。 理由のない焦りが彼の胸に湧き上がり、初音の腕を掴んで切羽詰まった声で尋ねた。 「荷造りって?どこかへ行くのか?」 初音は彼の手を振りほどき、淡々と答えた。 「南黎市へ行くの」 それを聞き、宗介は安堵の息を吐いた。 「なんだ、ご両親に会いに行くのか。いつ出発するんだ?俺も手土産を用意するから持っていってくれ。ご両親にもよろしく伝えておいてほしい」 「今夜の列車よ」 「分かった、駅まで送るよ。でも早く帰ってきてくれよ。寂しくなるからな」 その言葉には、どこか甘えるような響きがあった。 初音はかすかに微笑んだ。 一度ここを離れれば、もう二度と帝央市に戻ることはないのだから。 宗介は深く考えることもなく、彼女の代わりにドアを閉めた。 「ちょうど今日の昼、高校の同窓会があるんだ。一緒に行こう」 初音は断らなかった。 南黎市へ行けば、かつての同級生たちと再会する可能性は極めて低い。これが最後の別れのつもりだった。 しかし、車に乗り込もうとした時、杏奈も同乗していることに気がついた。 「私たち、一応元同級生なんだから。結城さん、まさか同級生の車に乗せてもらっちゃダメだなんて言わないわよね?」 杏奈はわざと唇の端の切れた傷跡を見せつけ、挑発的な視線を送ってきた。 宗介は表情を変え、初音の視線を遮るように釈明した。 「初音、変なふうに誤解しないでくれ。彼女は足がまだ完全に治っていないから、俺が隊長として……」 「分かってる。隊長として、彼女を乗せてあげるだけでしょ」 初音はその言葉をあっさりと遮り、助手席のドアを開けて乗り込んだ。 「車を出して」 宗介はその場に立ち尽くした。なぜだか分からないが、それは自分が言おうとしていた言い訳だったのに、初音に何の感情もこもっていない声で代弁されると、どうしようもない不安に襲われた。 車が走り出した後、初音は目を閉じて狸寝入りを決め込んだ。 助手席に座る初音を見て、杏奈の瞳に嫉妬の光がよぎった。 杏奈はわざとらしく咳払いをし、初音に向かって笑いかけた。 「私、この前イヤリングを助手席のグローブボックスに落としちゃったみたいなの。悪いけど、取って渡してくれない?」 その言葉を聞くや否や、ハンドルを握る宗介の手に無意識に力が入り、緊張した様子で横目で助手席を見た。 初音がグローブボックスを開けると、そこには三つのイヤリングが入っていた。 二つのパールのピアスは初音のもの。 もう一つのタッセルのイヤリングは、杏奈が今耳につけているものと全く同じデザインだった。 宗介が車の免許を取ったばかりの頃、彼は真剣な眼差しで初音に約束したのだ。 「初音、これから俺が運転する時、助手席は君だけの専用席だ」 だが今、明らかに彼の助手席には他の人が座っていた。 初音は無表情のまま、三つのイヤリングをすべて取り出した。 一つを杏奈に渡し、残りの二つは自分の鞄にしまった。車を降りたらゴミ箱に捨てるつもりだった。 宗介の胸の内に広がる不安はさらに強くなった。彼は何か言おうとしたが、初音が再び目を閉じ、もう何も話したくないという態度を示したため、諦めて口をつぐむしかなかった。 同窓会の貸し切り個室に着くと、初音と宗介はすぐに全員の注目の的となった。 「何年経っても、うちの美男美女カップルは相変わらず片時も離れないな。本当に昔から仲がいい」 「本当よね。もう結婚してるんでしょ?子供はできたの?」 当事者の二人が口を開く前に、皆から無視されていた杏奈が待ちきれないように反論した。 「適当なこと言わないでよ。宗介と結城さんは結婚してないわ。今の二人は何の関係もないんだから!」 第7話 賑やかだった個室は一瞬にして静まり返った。 最初に口を開いた二人は、気まずそうにその場に立ち尽くした。 「まさか……嘘だろ?」 初音は落ち着き払って答えた。 「ええ、確かに結婚はしていないわ」 これからも、宗介と結婚することはない。 宗介は顔を曇らせて杏奈を睨みつけ、すぐに初音の肩を抱き寄せて皆に向かって笑いかけた。 「みんな、安心してくれ。防衛局の規定で一時的に結婚できていないだけだ。俺と初音はこれだけ長い付き合いなんだから、絶対に結婚するよ。その時は必ず祝いに来てくれ」 皆は安堵の息をつき、再び場は活気を取り戻した。 「やっぱりな。お前らが別れたら、俺はもう愛なんて信じられなくなるぞ」 「頑張ってね。早く二人の結婚式に呼んでね」 その時、クラス委員がもったいぶって一つのガラス瓶を取り出した。 「さあ、みんな揃ったところで、卒業の年にタイムカプセルに入れた願い事が叶ったかどうか、確認してみようじゃないか」 その言葉に、場は一気に盛り上がった。 「おっ、いいね!一つずつ取り出して、クラス委員にみんなの前で読み上げてもらおうじゃないか。絶対面白くなるぞ!」 最初の手紙は宗介のものだった。 【大人になったら初音と婚姻届を出し、彼女を俺の妻にする】 二番目の手紙は初音のものだった。 【宗介と結婚して、早く可愛い赤ちゃんを産んで、幸せな三人家族になる】 最後の文字が読み上げられると、同級生たちは羨ましそうに囃し立てた。 「将来の計画が、お互いと結婚することしかないなんて。本当に美しい愛だなあ」 宗介は口角を上げ、愛情に満ちた眼差しで初音を見つめた。 「当然さ。初音は、俺が子供の頃からずっとお嫁さんにしたいと思っていた女性だからな」 しかし初音は全く笑えなかった。心臓に久しく忘れていた痛みが走った。 目の前にいる嘘にまみれた男のためではなく、十八歳のあの時の純粋な愛情のために。 その純粋な愛は、結局のところ時間の流れの中で変質してしまったのだ。 三番目の手紙は杏奈のものだった。 【永遠に宗介の側にいる】 「今、願いを叶えたのは私だけね。私はもう宗介の補佐官として、ずっと彼の側にいられるんだから」 杏奈は得意げな視線で全員を見回した。 途端に、皆は杏奈を軽蔑の眼差しで見た。 「本当に身の程知らずだな。何年経ってもまだ諦めきれないのかよ」 「ただの補佐官だろ。宗介にとってはただの部下に過ぎない。永遠に側にいられるなんて、よく言えたものだ。一生彼の側に寄り添う未来の妻は初音だけだろ」 初音だけは気付いていた。杏奈がその言葉を口にした瞬間、宗介の口角がわずかに上がったことを。 個室内に嘲りの声が響き渡る中、高校を中途退学した男が酔っ払った様子で杏奈に近づいていった。 「鷹司隊長が、お前みたいな女を相手にするわけないだろ。さっさと諦めるべきだったんだよ。 そうだ、いっそ俺の女になれよ。これからはいい暮らしさせてやるからよ!」 そう言って、男は酒臭い息を吐きながら杏奈に顔を近づけようとした。 常に杏奈の方を気にかけていた宗介が、ガタッと勢いよく立ち上がった。 彼は男を蹴り飛ばし、恐怖で目を赤くしている杏奈を強引に自分の腕の中に引き寄せ、床に倒れた男を見下ろして氷のように冷たい声で言い放った。 「俺が彼女を相手にしないと、誰が言った?彼女は今、俺の女だ。誰にも指一本触れさせない」 第8話 初音はその光景を見つめながら、ふと大学時代の出来事を思い出した。 ある同じ学部の男子学生が彼女に好意を寄せてきた時のことだ。 彼女が「きっぱりと断ったし、恋人がいることもちゃんと伝えた」と宗介に説明したにもかかわらず、宗介は処分を受けるリスクを冒してまで一番早い列車に飛び乗り、彼女の大学までやって来た。 そして、わざとらしく彼女と手を繋いでキャンパスを歩き回り、初音は自分の女だと誇示した。 今、その強い独占欲は別の女に向けられていた。 初音は息苦しさを覚え、皆に別れを告げて個室を後にした。 これが最後の対面だというのに、まさかこんな茶番で終わるとは思ってもみなかった。 レストランを出て、道端で迎えの車を待っていると、背後から宗介の極度に焦った声が聞こえてきた。 「初音、説明させてくれ! さっきの言葉は、橘杏奈を助けるためについた嘘だ。彼女は俺の部下なんだから、隊長としてセクハラされているのを黙って見過ごすわけにはいかない。分かってくれるだろう?」 彼は額に汗をにじませ、まるで一秒でも遅れれば目の前の女が消えてしまうと恐れるように、早口でまくし立てた。 初音は冷静に自分の腕を引き抜き、彼に向かって微笑んだ。 「説明しなくていいわ。全部痛いほど分かっているから」 それが、あなたの本心なのだということが。 望んでいた答えを得たはずなのに、宗介は少しも安心できなかった。胸の奥に再びあの焦燥感が湧き上がり、彼は彼女の手首を掴もうとした。 「初音、どうして君は……」 彼の言葉が終わらないうちに、杏奈が泣きそうな声で追いかけてきた。 「宗介、家まで送ってくれないかしら。またあの男に付きまとわれたら怖くて」 それを聞いて、宗介は一瞬だけ躊躇した。 ちょうどその時、初音を迎えに来た車が到着した。 初音はその二人を振り返ることなく、車に乗り込んでそのまま立ち去った。背後で自分の名を呼ぶ男の声を残して。 家に戻った初音は、すべての荷物を南黎市へ発送し、手元には小さなトランクを一つだけ残した。 その時、外から激しくドアを叩く音がした。 次の住人が来たのかと思い、彼女は立ち上がってドアを開けた。 だが扉を開けるなり、怒りに燃える宗介が彼女の手首を強く掴んだ。 「俺は必ず君と結婚すると何度も言ったはずだ。橘杏奈はただの補佐官なのに、なぜ君は彼女の家族を買収して、彼女を無理やり故郷に連れ戻して結婚させようとしたんだ!」 彼の背後には、涙で顔を濡らした杏奈が立っていた。 「私は結城さんから彼を奪おうとなんてしていないわ。ただ宗介の側にいて、彼を見つめていたいだけなのに、結城さんにはそれすら許せないの?私がどれだけ苦労してあの田舎から抜け出してきたか知ってる?田舎の独身男なんかに無理やり嫁がされたくないのよ!」 突然の理不尽な非難を浴びた初音だったが、彼女には何が起きているのか全く身に覚えがなかった。 「家族を買収したなんて、私は何も知らないわ!」 宗介は初音が言い逃れをしていると決めつけ、心の中の怒りの炎をさらに燃え上がらせて氷のように冷たく言い放った。 「まだ嘘をつくのか。彼女の家族が、結城と名乗る女から金を渡されて来たのだと直接白状したんだぞ。俺が彼女を家まで送って、たまたまその場に居合わせなかったら、彼女はとっくに家族に田舎まで連れ戻されていたんだ!」 そう言うと、彼は勢いよく手を離した。 バランスを崩した初音は床に倒れ込み、手のひらを擦りむいた。 だが彼女は痛みなど感じていないかのように、口元に自嘲の笑みを浮かべた。 「鷹司宗介、二十年以上も一緒にいたのに、あなたの心の中では私への信頼なんて少しもなかったのね」 宗介の両手は無意識に強く握り締められたが、杏奈の瞳に浮かぶ涙を見ると、彼の心は再び硬く冷たくなった。 「百聞は一見に如かずだ。どうやって君を信じろと言うんだ? どうやらここ数年、俺が君を甘やかしすぎたせいで、君はつけ上がり、俺の部下にまで手を出すようになったらしいな。今すぐ、俺の補佐官に謝れ」 初音は小さく吹き出し、彼の視線を真っ向から見据えて少しも怯まなかった。 「私は何も間違ったことはしていないわ。どうして謝らなきゃいけないの?」 彼女が全く反省の色を見せないため、宗介の顔色はさらに冷たさを増し、最後通牒を突きつけた。 「総長は、そんな悪辣な心を持った女が、俺の妻になることを決してお許しにはならないだろう。結城初音、よく考えるんだな」 そう言い残し、彼は杏奈の手を引いて一度も振り返ることなく立ち去った。 初音はよろめきながら立ち上がり、彼の去りゆく背中を見つめながら、極めて皮肉な笑みを浮かべた。 「私だって、もうあなたとは結婚したくないわ」 携帯の通知音が鳴った。母からのメッセージだった。 【初音、結婚式の準備はすべて整ったわ。招待状も発送済みよ。あなたはただ帰ってきて、美しくて幸せな花嫁になればいいのよ】 画面を消し、初音はトランクを引いて駅へと向かった。 これからの彼女は、自分の新しい幸せな人生を歩み始めるのだ。 そしてその幸せな人生の中に、もう宗介の姿はない。 一方その頃、宗介は杏奈を連れて医療センターへ行き、さっき彼女の家族ともみ合った際にできた擦り傷の手当てを受けさせていた。 彼の親友がちょうどこの医療センターの医師をしており、知らせを聞いて駆けつけてきた。 看護師が杏奈の傷を手当てしているのを見て、親友は宗介を廊下へ連れ出した。 「お前、一体どういうつもりなんだ?本当に愛しているのは初音さんなのか、それともこの女なのか?」 「当然、初音だ」 宗介は一切の躊躇なく答えた。 「ただ、何年もの間、俺はずっと初音の後を追いかけてきて、少し疲れてしまったんだ。でも杏奈は違う。こいつの目には俺しか映っていない。長く一緒にいるうちに、どうしても彼女に同情してしまって、離れたくない、守ってやりたいと思うようになったんだ」 親友はため息をついた。 「分かったよ。でも、もし初音さんが本気で怒ったらどうするんだ?どうやって機嫌を取るつもりだ?」 宗介は少し沈黙し、硬い声で言った。 「機嫌は取らない。今回はさすがに初音のやりすぎだ。ちょうど今夜から南黎市へ行くらしいから、向こうで数日頭を冷やさせればいい。 それに、立ち去る前に俺は婚姻申請のことを仄めかした。彼女の最大の願いは俺と結婚することだ。南黎市から戻ってきたら、必ず俺のところに謝りに来るはずだ。杏奈に頭を下げさえすれば、この件は水に流してやる」 親友は彼を説得できないと悟り、眉をひそめて話題を変えた。 「なあ、聞いたか?南黎市の九条家にいる、あの最年少の上級幹部が結婚するらしいぞ。俺のところにも招待状が届いたんだ。やれやれ、あいつは一生結婚しないと思っていたのにな。一体どんな女があいつを射止めたのか、見てやろうと思ってな……」 親友の言葉は途中で途切れ、彼は何か恐ろしいものでも見たかのように目を丸くした。 宗介はその異変に気付き、興味本位で招待状を手に取って開いた。 「誰なんだ?」 次の瞬間、新郎と新婦の名前が彼の瞳に鮮明に飛び込んできた。 新郎は九条蒼。 新婦は結城初音。

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