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花火が散り、夢は泡になった
結婚して五年、新谷元子(しんたに もとこ)はいまだに処女のままだった。 夫の栗原修一(くりはら しゅういち)が「昔、傷を負っていて、夫婦の営みには興味がない」と言っていたからだ。 出張から戻ったある日、元子はいつも冷淡な夫が、別の女を抱きしめるのを目撃した。 その瞬間、彼女は悟った。夫は不能なのではなく、その女のために貞操を守っていたのだと。 その時、元子は完全に諦めることにした。五年間続いた一人芝居を終わらせると決めた。
チャプター (1)
第1章
結婚して五年、新谷元子(しんたに もとこ)はいまだに処女のままだった。
夫の栗原修一(くりはら しゅういち)が「昔、傷を負っていて、夫婦の営みには興味がない」と言っていたからだ。
出張から戻ったある日、元子はいつも冷淡な夫が、別の女を抱きしめるのを目撃した。
その瞬間、彼女は悟った。夫は不能なのではなく、その女のために貞操を守っていたのだと。
その時、元子は完全に諦めることにした。五年間続いた一人芝居を終わらせると決めた。
第1話
結婚して五年、新谷元子(しんたに もとこ)はいまだに処女のままだ。
それは、夫の栗原修一(くりはら しゅういち)が五年間の結婚契約書に三つの条件を書き込んだからだ。
第一、婚姻期間中、元子は決められた日以外に修一と同じ寝室を共にしてはならない。
第二、同じ空間にいるときは、元子は必ず消毒液で全身を洗浄すること。
第三、毎週病院で検査を受け、自分が清らかな処女であることを証明し続けること。
愛に盲目になった元子は、何も考えずに契約書に署名してしまった。
その後の五年間、彼女は契約書を厳格に守り続けた。
だが年越しの夜、最後の一筋の花火が夜空に散り、深夜便で帰宅した元子はこわばった脚を引きずりながらようやく別荘の中へ入った。そして二階の主寝室で目にしたのは——
いつもは情欲に染まらぬはずの夫がベッドの前で片膝をつき、片手でスラックス越しの隆起を押さえ、もう一方の手でベッドに横たわる女の頬に抑えきれぬほど優しく触れながら、曖昧に囁く姿だった。
「千秋……」
元子の頭の中で雷が鳴り響いた。
千秋、浅野千秋(あさの ちあき)。
修一の、すでに海外で結婚している初恋。かつて「栗原夫人」になりかけたあの初恋の人だった!
部屋の中で、修一は低くうめき声を漏らすと同時に、曖昧な目つきで千秋の額にそっと口づけを落とした。立ち上がろうとした瞬間、彼は動きを止めた。
「……どうして戻ってきた?」
数歩でドアを出て、元子の視線を遮るように立ちはだかる。瞳の奥にあった優しさは跡形もなく、あるのは邪魔された苛立ちと冷淡さだけだ。
その一瞬で、修一に抱いていたすべての印象も、必死に守ってきた幻想も、音を立てて崩れ去った。
元子はいまでも覚えている。五年前、修一と初めて出会った日のことを。
修一は元子より十歳年上で、元子の父の友人だった。
初めて会ったとき、彼女はただ「この人は冷たい」と思った。
内面から外見まで、近寄りがたいほど冷えきっていた。
あの頃の元子は誰よりも気位が高く、周りが修一を「高嶺の花」と讃えれば讃えるほど、彼女は逆に、どうしても自分がそれを手中に収めてみせると決意した。
そして、狂ったように彼を追いかけた。
偶然を装って接近し、酒席では彼の杯を代わりに引き受け、栗原グループと新谷グループの提携の橋渡しまでした。
彼女がどんなに工夫を凝らしても、彼の目にはいつも子供のように映っていた。
長年の想いも一度の振り向きさえ得られず、元子はついに諦める決心をした。
酔いつぶれて意識が朦朧とする中、修一が現れ、結婚を申し出てきた。しかも五年契約の書類付きで。
元子はようやく努力が報われたと思い、迷いなく頷いた。
だがこの五年間、どんなに元子が誘惑しても、たとえ裸で彼の前に立っても、修一の言葉はただ一つ──「俺は傷を負っている。この手のことには興味がない」
元子はその言葉を信じ、彼は生まれつき冷たい人間なのだと思い込んでいた。
修一のプライドを守るため、外には自分が子どもを産めないのだとまで言っていた。
だが今日になってようやく気づいたのだ。
生まれつき冷淡?興味がない?──そんなものは全部嘘。彼はただ、別の誰かに忠実でいたかっただけなのだ。
彼女は震える声を押さえ、目頭が熱くなった。「前に言ってたよね。今年は誰かと一緒に年を越したいって。だから……」
新年の鐘が鳴る前に彼のもとへ帰ろうと、三か月分の仕事を一か月に詰め込み、雷雨の危険を冒しても、彼女は決然と飛行機に乗った。
しかし、彼女を待ち受けていたのは、まさにこの光景だった。
喉まで込み上げた問いを飲み込む間もなく、千秋の眠たげな不満の声が響く。
「修一、誰と話してるの?うるさいわ」
女が扉を押し開けて現れると、寝起きの甘ったるい声が部屋に響いた。
修一は眉をひそめた。「そんな薄着で出てくるな。また風邪ひいたら泣いても知らないぞ」
彼は素早く動き、部屋に戻って毛布を掴み、彼女の肩にそっと掛けた。
千秋はようやく元子に気づいたように、修一の腕の中で身を預けながら、好奇心に満ちた目で彼女を上から下まで眺めた。
「あなたが修一の奥さん?」
その声は親しげで、ごく自然だった。
元子の返事がなかなか返ってこないのを見て、修一は眉をひそめる。
「元子、聞かれたら答えるのが最低限のマナーだろう」
元子は目の前でぴったりと寄り添う二人を見つめ、目尻を赤くしながら笑った。
「じゃあ、妻の目の前で他の女といちゃつくのも、あなたの言う『マナー』なの?」
その言葉が放たれた瞬間、空気が一気に張り詰めた。
元子が、彼がせめて何か弁解してくれると思ったその時、修一は彼女を完全に無視し、千秋を連れて階下へ降りていった。
元子の感情はその瞬間、ついに爆発した。
「私はあなたの妻よ!どうしてこの女がうちにいるのか、しかも私の服を着てる理由を説明してくれないの?」
返ってきたのは、息が詰まるような沈黙だけだった。
しばらくして、元子は千秋のくすりと笑う声を聞いた。彼女はオランダ語で聞いた。
「この人があなたの選んだ栗原夫人?まるで子どもみたいに大声を上げて、あなたには全然釣り合わないわね」
修一は表情ひとつ変えず、同じくオランダ語で答えた。
「釣り合うかどうかなんてどうでもいい。大事なのは、外では手がかからず、面倒ごとをうまく片づけてくれることだ」
二人はまるで周囲に誰もいないかのように会話を続けた。
彼らは知らない。修一を深く愛していた元子は、すでにオランダ語を覚えていたということを。
千秋の嘲りも、修一の冷淡さも、はっきりと聞き取れた。
その瞬間、彼女の中の栗原夫人としての誇りはすべて崩れ落ちた。
暫くしてから、千秋があくびをしながら階段を上がっていくのを見送り、元子は目を赤くしながら、去ろうとする修一を呼び止めた。
「本当に、私に話すこと、何もないの?」
修一はようやく足を止め、穏やかな表情のまま、まるで何でもないことを話すように言った。
「千秋が病気なんだ。もうあまり時間がない。だから、最後までそばにいてやりたい」
その言葉を聞いた瞬間、暖房で赤らんでいた元子の頬が、再び青ざめた。
何か言おうと口を開いたそのとき、階上から五、六歳ほどの小さな男の子が駆け下りてきた。
彼は修一の胸に飛び込み、澄んだ声で叫んだ。
「パパ!」
第2話
元子はハッと小さな男の子を見た。その眉も目も、まるで修一をそのまま小さくしたようだ。
道理で彼が一度も私に触れようとせず、子供を作ることをあんなに拒んだわけだ。
そうか、彼はもうとっくに初恋との間に、こんなに大きな息子がいたのか。
皮肉なことに、私はこの五年間を「勇敢に愛を追い求めたつもり」でいたが、実のところ、自ら進んで相手の「出来合いの継母」になろうとしていただけだった。
元子は拳をぎゅっと握りしめ、怒りとも屈辱ともつかぬ表情を浮かべた。
修一はそんな彼女に慰めの言葉も、釈明の気配も見せず、身を屈めて男の子を抱き上げ、優しく言った。
「寝るってパパと約束したよね?」
男の子は甘えるように修一の首筋に頬をすり寄せ、不思議そうに尋ねた。
「パパ、このお姉さんだれ?なんでうちにいるの?」
修一は辛抱強く答えた。
「彼女は新谷さんでね、パパの……」
眉間に皺を寄せ、長いあいだ言葉を探したが、「妻」という言葉だけはどうしても出てこなかった。
その様子を見て、元子が先に口を開いた。
「私、あなたのパパの妻なのよ。本来なら、あなたは私のことを――」
「元子」修一が彼女の言葉を遮った。その目に宿っていたのは、紛れもない警告の色だった。
彼は男の子を慌てて駆けつけたメイドに預け、小声で言った。
「君は名目上の妻でしかない。夫婦としての実態はない。契約期間中は、線を越えるな」
その言葉に、元子の指先が掌に食い込み、痛みで声が震える。
「線を越えるなって?修一、たとえ契約結婚でも、私たちは正式な夫婦よ。あなたが初恋を家に入れて、しかも隠し子まで連れてくるなんて――それはあなたの方がひどいんじゃないの?」
「隠し子」という言葉を聞いた瞬間、修一の顔色が一気に暗くなった。
「言葉を選べ。武文(たけふみ)は俺の実の息子だ。そして、これからも唯一の息子だ」
冷たい視線を元子に向ける。「まだ栗原家の妻でいたいなら、余計なことは一言も口にするな」
そう言い放つと、彼は踵を返して階段を上がり、元子に一瞥もくれなかった。
修一の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、元子の目からとうとう涙が溢れ落ちた。
五年間で、彼が彼女にこんなに厳しい口調で、こんなに冷たい態度を取るのは初めてだった。
元子は思い出した。出張前、修一が自ら口にした言葉を――「戻ったら契約を破棄して、これからは本気で生きよう。夫婦として」
彼女は静かにカバンの中から、丁重にラミネート加工された契約書を取り出した。そこには、自動終了日として「1月15日」と記されていた。
自嘲気味に微笑みながら、まさか五年の結婚生活が今日で終わるとは思いもしなかった自分を笑った。
元子はスマホを取り出し、自分のために半月後の航空券を予約した。
新谷家の娘として、彼女の心にほんの少しの瑕もあってはならなかった。ましてや、夫と元恋人の子どもを引き取る「継母」など、絶対にありえない。
その夜、彼女はゲストルームに泊まった。
翌朝早く、元子は階下から聞こえる話し声に起こされた。
二階の手すりまで歩いていくと、リビングには修一の友人たちがずらりと座っていた。
「覚えてる?あの時、修一が千秋さんにプロポーズするために、1億円でウィンストンのブルーダイヤを買おうとして、七日間ぶっ通しで競り上げて、結局は家業を継ぐのをやめて駆け落ちしようとしたこと!」
「それだけじゃないんだよ!あの時さ、千秋さんと修一が別れた後、修一は酒の飲みすぎで胃を壊しちゃって。それなのに、千秋さんがケベックで結婚するって聞いたら、ほんとに全便運休なのに、吹雪を突っ切ってまでも自家用機を飛ばして奪い戻しに行こうとしたんだ!必死だったなぁ……」
元子は黙ってその話を聞いていた。指先がかすかに震える。
修一にそんな一面があったなんて、彼女は一度も知らなかった。
五年来、修一は元子の前ではずっとよそよそしかった。雪山の溶けない雪みたいに、冷たかった。
元子には想像もできなかった。彼が酒を飲みすぎて胃出血を起こす姿も、飛行機を駆ってケベックまで結婚式を妨害しに行く姿も。
彼女はそっと目を閉じ、胸の奥に込み上げる痛みを押し込めようとした。
その時、背後から千秋の声が響いた。
「実はあの時、修一が私の結婚式に現れたとき、本気で彼と一緒に逃げようかと思ったの。
あなた、彼が理性を失った姿を見たことないでしょう?目は真っ赤で、服はぐしゃぐしゃ。警備員と取っ組み合いになってでも私の前に突っ込んできて、あのプロポーズの指輪を差し出したのよ」
彼女は元子のそばまで歩み寄り、勝ち誇ったように微笑んだ。
「あのね、彼がどうして毎年大晦日の夜に青い花火を上げるのか、知ってる?たとえあなたと結婚してからでも、それをやめなかった理由、なんだと思う?」
元子はそれが千秋の挑発であり、見せつけだと分かっていた。
それでも、思わず口を開いてしまった。
「どうして?」
千秋はふっと微笑んだ。「だって、私と修一の初めてのキスは、あの青い花火の下だったからよ」
一瞬で、元子の顔は真っ白になり、今にも崩れ落ちそうだった。
ようやく彼女は理解した。なぜ青い花火の製造工程があれほど複雑なのに、修一があの生産ラインを頑なに残していたのか。
なぜ作り続けながらも外には一切販売せず、毎年の年越しの夜にだけ盛大に打ち上げていたのか。
それは修一の奇癖などではなかった。商業的演出などではなく、むしろ、彼が千秋だけのために、ただひたすらに守り続けてきた揺るぎないロマンスにこそあった。
千秋の声はまだ続いていた。まるで悪魔の囁きのように。
「修一があなたに情けをかけていないのは知っているわ。でも、あなたたちはもう五年も夫婦なのよ。それに、いまだに栗原夫人の座に居座っている。契約がどうであれ、私は黙っていられない。だから……」
彼女はそっと、元子の冷たい手を握りしめた。
「私、修一にあなたのことを心底嫌わせて見せるから」
そう言い終えると、千秋は勢いよく元子の手を振りほどき、目を閉じて、そのまま真っ直ぐ後ろへと倒れ込んだ。
第3話
千秋の悲鳴が、皆の再会の語らいを遮った。
リビングで積み木をしていた武文が真っ先に駆け寄り、勢いのまま元子の足に頭から突っ込んだ。
「悪い女!ママを突き飛ばして、パパを奪った!大嫌い!」
不意を襲われた元子は、よろめいて傍らの骨董棚へと倒れ込んだ。青磁の花瓶が砕け散り、鮮血が飛び散った。
修一は元子に一瞥もくれず、気を失った千秋を横抱きにして、そのまま冷たい表情で言い放った。
「もし千秋に何かあったら、絶対に君を許さない」
血が目に流れ込み、元子は口を開いたが、言葉は一つも出てこなかった。
そうか、自分は修一の世界では本当に大した存在じゃなかったんだ。
彼女は苦笑いを浮かべながら、血にまみれた手をゆっくりと上げ、自分で救急車を呼んだ。
だが、病院で傷の洗浄が半分ほど進んだところで、修一のボディーガードが手術室に飛び込んできた。
元子は千秋の病室へと連れて行かれた。
修一は彼女の慌ただしく包帯を巻かれた傷を見つめ、わずかに眉をひそめた。
しかし、彼の口から出た最初の言葉は、気遣いではなかった。
「千秋が救急車の中で急性腎不全を起こした。君に、彼女へ腎臓を一つ提供してほしい」
その言葉に、元子は顔を上げ、皮肉っぽく言った。
「それも契約に書いてあったの?断れば、今度は何を要求するつもり?」
修一は眉を寄せ、できるだけ穏やかな声で言った。
「元子、医者が言っていた……千秋には、もう本当に時間がないんだ」
一瞬、間を置いて、彼は何かを決意したように息をのんだ。
「君はずっと子供が欲しいって言ってたよな。もし腎臓を提供してくれるなら約束する。代わりに俺たちの子供を作ろう。そしてこれから先、栗原夫人の座を誰にも奪わせない」
元子はそれがたまらなく皮肉に思えた。
修一がこんなに優しい口調で話しかけてくるなんて、今まで一度もなかった。
もっと皮肉なのは、昨日までの彼女なら、この言葉に飛び上がって喜んだだろうということだ。五年間の思いがようやく実ると信じて、迷わず頷いたに違いない。
だが今の彼女は、修一に答えを求める。
「修一、あなたの目には、私の愛も、結婚も、そしてこの身体さえも、すべて値札のついた取引の道具にしか見えないの?」
修一は元子の視線に射抜かれたように、言葉を失った。
元子は彼の左手の薬指に目をやった。そこにあったはずの結婚指輪は、少し古びたシンプルな指輪に替わっていた。
しかもその同じデザインを、彼女は千秋の手にも見たことがある。
そんなに待ちきれなかったのか?
元子は苦笑した。二年前の交通事故のことを思い出す。あのとき修一は危険も顧みず、自分の前に立ちはだかってくれた。
命の恩返しだと思えばいい。彼女はゆっくりとうなずいた。
「いいわ、提供するよ」
修一は元子があまりにあっさりと承諾したことに驚き、複雑な光を瞳に宿した。
「他に望むことがあるなら、何でも言ってくれ」
視線がぶつかる。元子はもう期待などしていなかった。ただ口をついて出た。
「じゃあ、手術の前まではずっとそばにいて。私が許すまで、一歩も離れないで」
修一は眉をひそめ、少し困ったような顔をした。
「俺……」
それを見て、元子は口元をわずかに歪め、話を遮った。
「冗談よ。ひとつだけお願いがあるの。あなたが外した結婚指輪を返してほしいの。それは、母が遺してくれた形見だから」
修一は思わず左手の素朴な指輪に視線を落としたが、何も説明しなかった。
「わかった」
元子は静かに彼を見つめた。自分の「簡単な」お願いに、彼がほっとしたように息をついた。
彼は永遠に知るよしもないのだが、あの結婚指輪は新谷家に代々伝わるものだ。
今それを取り戻すということは、もう彼とは完全に終わりにするという意味だった。
検査で適合が確認された後、元子は千秋の隣のVIP病室に入った。
意外なことに、翌朝早く、修一が保温ポットを手に病室のドアを押し開けて入ってきたのだ。
「医者が言うには、手術は一週間後に予定されているそうだ。その間、ちゃんと栄養のある食事を取らないといけない」
元子は驚いた。修一がどうしたというのだろう?まさか自分のために料理を?
次の瞬間、修一は保温ポットの蓋を開けた。中には刻んだネギが散らされた鯛とエビの潮汁が入っている。
「腎臓を提供してくれるって聞いて、千秋がとても感謝してる。
まだベッドから起きられないから、代わりに俺が様子を見に来たんだ」
元子の視線がその潮汁をかすめた。修一が彼女を見に来た理由が結局千秋のためだったことと、結婚して五年も経つのに、彼が彼女に海鮮アレルギーがあることを覚えていなかったこと、どちらを笑えばいいのか、一瞬分からなくなった。
そのとき、医者が看護師を連れて回診にやって来た。
潮汁を見た瞬間、医者はわずかに眉をひそめた。「栗原さん、新谷さんは海鮮に重度のアレルギーがあります。特に手術前は、合併症を引き起こす可能性のあるものは避けてください」
その言葉が終わると同時に、病室の空気がぴたりと静まり返った。
修一は保温ポットを見つめ、初めて呆然としたような表情を浮かべた。
少し思い返したあと、ようやく視線を元子の蒼白な顔に向けた。
だが元子はその視線を避けた。
彼女は修一が自分の好き嫌いをすべて覚えているなど、最初から期待していなかった。
結婚一周年の家族の食事会で、彼女は蟹味噌入りの菓子を誤って口にし、アナフィラキシーショックを起こしてそのままICUに運ばれた。
そのとき修一は冷淡ではあったが、法的には夫として無菌服を着て一晩中そばにいてくれた。
あの時の彼女は、それだけで嬉しかった。死にかけた代わりに、彼のそばにいられたのなら、それだけで報われたと思ったのだ。
でも今は――
修一は元子を見つめ、その声にはどこか後ろめたさと謝意が滲んでいた。
「悪かった。これからはちゃんと覚えておく」
元子は何も言わず、ただ静かに手を伸ばして、保温ポットをそっと脇へ押しやった。
修一、私たちに「これから」なんて、もうない。
修一が去る前に、指輪の箱をひとつ残した。中には男物の指輪が一つ。
元子は左手の指輪を外し、それと並べて置くと、何の表示もない国際電話番号へと電話をかけた。
「一週間以内で栗原修一との離婚を成立させて。報酬は腎臓一つです」
第4話
電話の向こうで数秒の沈黙が流れ、やがて低い声で言葉が返ってきた。
「取引成立だ」
その言葉を聞くと、元子はすぐに電話を切った。
先ほど医者から、手術前にいくつか検査が必要だと言われたばかりだ。彼女は指輪の箱をバッグにしまい、立ち上がって検査室へ向かった。
千秋の病室の前を通りかかったとき、半開きの扉の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
元子は思わず足を止めた。
扉の隙間から見えたのは、武文を抱いて満面の笑みを浮かべる修一の母・栗原智美(くりはら ともみ)の姿だ。
「見てごらん、この鼻も口も、まるで修一の写しみたいじゃないの」
智美は窓辺に立つ修一の方へ顔を向けると、口調を改めて厳しくした。
「修一、今は千秋が武文を連れて戻ってきたのよ。そろそろ元子とは離婚しなさい。うちは九代続く一人息子の家系よ。あの産めない女のせいで血筋が途切れるなんて、絶対に許せない」
修一はドアに背を向けて立っており、元子には彼の表情が見えなかった。ただ、低く落ち着いた声だけが耳に届いた。
「母さん、俺は元子と離婚するつもりはない」
智美はたちまち声を荒げた。
「何を言ってるの!武文はあんたの実の子でしょ?千秋の体も弱いっていうのに、いつまで外で素性を隠したままにさせるつもり?絶対に栗原家に戻して、正式に認めなきゃ!」
修一はしばらく沈黙し、静かに、しかし確固たる口調で言った。
「約束したんだ。元子との間にも子供を作ると」
言葉が少し強すぎたと気づいたのか、彼は顔色を失った千秋に視線を向け、静かに言葉を添えた。
「千秋、安心してくれ。俺と元子の間にどれだけ子どもが生まれようと、武文は俺が唯一、正式に認める後継ぎだ」
その言葉を聞いた瞬間、元子は凍りついた。
修一の計算は本当に見事だ。
自分が千秋のために腎臓を差し出すだけでは足りず、自分の子供まで彼らの息子のために身を引かねばならないとは。
彼女は身を翻したが、うっかりトレイを持った看護師にぶつかってしまった。
「新谷さん、大丈夫ですか?」
その声が修一の注意を引いた。彼は眉をひそめ、すぐに病室のドアを開けた。
だが病室の外には、荷物を片付けている看護師以外、誰の姿もなかった。
そのころ、元子はすでに病院の庭まで走り出していた。
彼女はベンチに座り、今の自分がどんな心境なのか、うまく言葉にできない。
ある意味では予想通りだったが、だが、張り裂けそうなほどに胸が痛んだ。
母は彼女に、人をどう愛するかだけを教えた。けれど、その愛からどうすれば早く抜け出せるのかは、教えてくれなかった。
どれほど時が経っただろうか、ふと影が差した。
顔を上げると、修一が目の前に立っていた。
「どうしてひとりでここにいる?」彼の声はいつも通り落ち着いていた。
「医者が言ってた。手術前に風邪をひいたらいけないって」
元子は答えず、ただ静かに修一を見つめた。
彼女は声をひそめて尋ねた。「もし私が腎臓を提供することを承諾しなかったら、あなたはどうするつもりだったの?」
修一はわずかに眉をひそめ、複雑な目をした。
低い声で答える。「新谷グループの新しいプロジェクトが資金繰りに困っていて、君の父親が俺のところに助けを求めてきた。もし君が同意しなかったら、俺は手を貸さなかっただろう」
元子の心は、完全に沈み込んだ。
なるほど、彼は最初から対策まで計算していたのだ。新谷家を盾に、彼女を脅すつもりで。
声がわずかに震えた。
「そんなに浅野さんを愛してるの?どんな犠牲を払ってでも、私の家族を脅してでも。それに……
私と子供を作ってでも厭わないのか」
彼女は嘲笑うように言った。「私に触れるのも嫌がるくせに、今さら私との子供が欲しいなんて……気持ち悪くない?」
修一の顔色が一瞬で険しくなった。
「そんな言い方はやめろ」
以前の元子なら、修一がこんな表情を見せるだけで怯えていた。
けれど今は、もう怖くはない。
彼女は立ち上がり、涙に赤く染まった目で修一をまっすぐ見つめ返す。
「じゃあ、どう言えばいいの?初恋を救うために、自分の結婚も身体も犠牲にした救世主?それとも、私が運が良くて、ようやく腎臓ひとつと引き換えに、あなたと一夜をともにすることを手に入れたって?」
修一は冷たく言い放った。「元子、言葉を選べ」
「言葉を選べって?」元子は笑った。けれど、涙が勝手にあふれ出した。
「この五年間、私はずっと言葉にも行動にも気を配ってきた。あなたの機嫌を損ねないように。でも、もうやめる。これからは気にしない」
そう言い終えると、彼女は丁寧に封印された結婚契約書を取り出すと、修一の目の前で、少しずつ破り捨てた。
「修一」元子の声は淀んだ水のように、静かで冷たかった。
「契約は無効よ。私たち……これで終わりにしましょう」
第5話
元子は手を振り上げ、破り捨てた契約書の紙片を修一の顔めがけて投げつけた。
修一はその場に立ち尽くし、ほんの一瞬、いつもの冷静さと距離を置いた態度が崩れそうになった。
彼はゆっくりと口を開き、先ほどよりも低く、押し殺したような冷たい声で言った。
「君はあの時、必死になって栗原夫人になろうとしたくせに、今さら誰にそんな我がままを見せているんだ?」
修一の言葉に、元子はまるで頬を打たれたような衝撃を覚えた。
彼女の「退路を断つ覚悟」も、「きっぱり切り捨てる決意」も、彼の目にはただの「駄々っ子のわがまま」にしか映らないのか。
元子は口元を引きつらせ、笑うように見えたが、その笑みには一片の温かさもなかった。
「栗原さん、今の私は五年前にあなたを追いかけていた頃よりもよっぽど本気よ。本当に……あなたをもういらないと決めたんだ」
元子の悲しげで、それでいて揺るぎない声は、まるで鋭い棘のように修一の胸に刺さった。彼はふと得体の知れない苛立ちを覚えた。
落ち着かせるように片手を上げ、その仕草はまるで聞き分けのない子どもをあやすようだった。
「落ち着け。腎臓の提供の件は、もし嫌なら話し合えばいい。子どものことも、俺は……」
言い終える前に、修一のスマホが突然鳴り響いた。
彼は着信表示の【千秋】の名を一瞬見て、次に顔面蒼白の元子へ目をやった。
ほんの一瞬ためらったのち、体を少し横に向けて電話に出た。
電話の向こうから、千秋の泣き声がはっきりと聞こえてきた。
「修一、たくさんの記者が急に押しかけてきて、武文が隠し子かどうかって詰め寄ってくるの……怖いの……」
その言葉を聞いた瞬間、修一の顔色が一変した。
彼は鋭く元子を見据え、目に疑念と探るような光を浮かべた。
「こんな騒ぎを起こしたのは、俺を足止めして、記者を使って千秋を傷つけるためか?」
修一が深く失望したように言い放った。「元子、お前は本当に残酷だな」
「残酷」という言葉が胸に刺さり、反応する間もなく、次の瞬間、修一が彼女の手首を乱暴に掴んだ。
彼は彼女の傷口などまるで気にせず、骨が軋むほどの力で握りしめた。
元子は真っ白な包帯にじわりとにじむ血を見つめ、ついに堪えきれず修一の手を振り払った。
「私はあなたみたいに卑しくない」
一拍置いて、彼女の表情が氷のように冷たくなった。
「触らないで。あなたを見るだけで吐き気がする。自分で行くから」言い終えると、元子は一度も振り返らず、大股で千秋の病室へと向かった。
ちょうどドアの前に着いた瞬間、千秋はもがくようにベッドから転げ落ち、よろめきながら元子の前にひざまずいた。
「新谷さん、私が武文を連れて帰ってきたのは間違いだったってわかってる。でも武文は何も悪くないの。彼はただ、お父さんを恋しがってる子供なのよ。お願い、彼を傷つけないで。あなたの腎臓なんてもういらない。今すぐ死んだっていいから……」
その言葉を聞いた修一は、顔を真っ青にして千秋を支え起こし、元子を見つめるその目には氷のような冷たさが宿っている。
「彼女に頼む必要なんてない。あいつが奪っているのは、本来君の場所なんだ」
その言葉を聞いた瞬間、元子は思わず一歩後ずさり、胸の奥底がえぐり取られるような激痛に襲われた。
彼女は修一を見つめ、まるで初めて会った人のように感じた。
修一は慎重に千秋を病室のベッド脇まで支え、再び元子に向き直ると、その声は氷のように冷たかった。
「明日は武文の誕生日パーティーだ。君も一緒に来い。みんなの前で、武文は俺たちの子だとはっきりさせろ」
一拍置いて、彼は冷たい口調で言い続けた。
「もし拒むなら、新谷家を倒産させるだけじゃない。俺は自ら君のお父さんを刑務所に送ってやる。
わかってるだろ、俺にはそれができる」
その瞬間、元子は心の中の何かが完全に砕け散るのを感じた。
目の前のこの冷たく脅してくる男は、五年前のあの清らかで気高かった修一とはまるで別人のようだ。
静寂の中、彼女の耳に届いたのは、自分のかすれた声だけだった。「わかった。明日……必ず時間通りに出席するわ」
そう言い終えると、元子はもう修一と千秋に一瞥もくれず、抜け殻のように病室を後にした。
その夜、彼女は一睡もできなかった。
翌日、ブルガリホテルの最上階。名士たちが集まり、フラッシュが眩しく瞬く。
元子は修一が用意したオートクチュールのドレスを纏い、精巧に飾り立てられた操り人形さながら、修一の腕に手を添えて宴会場のステージ中央へと姿を現した。
彼と彼女は左右に立ち、華やかに着飾った武文を囲む。その姿はまるで本物の家族のようだ。
だが、元子だけが知っている。それは違うのだ。
修一の世界では、彼女は最初から最後まで余計な部外者にすぎない。
そのとき、修一がゆっくりと口を開いた。
「こちらは私と元子の息子、栗原武文。そして栗原グループ唯一の後継者です」
その言葉が発せられた途端、会場は一瞬のざわめきに包まれた。
招待客たちがひそひそと囁き合う中、智美が千秋の手を引いて姿を現した。
彼女は元子を軽く一瞥し、声を張り上げることなく、それでも前列の客にははっきりと届くような調子で言った。
「皆さん、浅野千秋こそが、私たち栗原家が正式に認めた嫁です。彼女は栗原家の長男をご出産になり、この家に大いに貢献してくれました。それに引き換え、何年もおいておきながらお子様ひとりお授かりにならない方もいらっしゃるなんて……本当にお恥ずかしいことですわね」
その言葉が響いた瞬間、元子は会場中の視線が一斉に自分へ注がれるのを感じた。嘲り、同情、そして軽蔑――
彼女はそっと拳を握りしめ、何かを決意したようにマイクの前へと歩み出た。
「本日、もうひとつお知らせがあります。それは――」
元子は修一を一瞥し、決意を込めた声で言った。
「私と栗原修一との婚姻関係は、本日をもって解消することをお知らせします」
彼女は続けて智美を見やり、皮肉を込めて言葉を放った。
「それから、一つはっきりさせておきます。この五年間、私に産める力がなかったわけじゃありません。問題は修一さん側にありましたのよ。彼、男として機能していなかったんですから!」
第6話
その発言が火種となって、会場はたちまちざわめきに包まれた。
元子はざわめきを無視し、表情を崩さずに壇上を降りた。
だが、怒りに我を忘れた智美が勢いよく突進してきた。彼女は腕を高く振り上げ、元子の頬めがけて叩きつけた。
パシッという鋭い音が響き、宴会場は一瞬で静まり返った。
修一はとっさに元子の前に割って入り、その平手打ちは彼の首筋に当たって、赤い爪痕をいくつも残した。
目の前の大きな背中を見つめながら、元子の心臓は抑えきれずに強く締めつけられる。
だがすぐに、彼女は心の中で自分を激しく罵った。こんな状況になってまで、修一の庇い方に心を動かされるなんて。
修一は振り返らず、声には一片の温もりもなかった。
「元子、いい加減にしろ!まだ恥の上塗りがしたいのか?」
恥の上塗りだって?一体、誰が誰に恥をかかせたっていうのよ?
元子は両手をぎゅっと握りしめた。言葉を発する前に、修一の冷たい声が響いた。
「妻は過去の頭部負傷の後遺症により、現在、一時的な精神混乱状態にあります。彼女の発言を真に受けず、無関係な方々を巻き込まないでください。そうでない場合は法的措置を取らせていただきます」
言い終えると、彼はボディーガードに視線を向け、冷ややかに命じた。
「奥様を病院へ戻せ。当分の間、勝手な行動はさせるな」
「かしこまりました」背の高い二人のボディーガードが無表情のままで元子に近づき、彼女の両腕をがっちりと押さえ込んだ。
抵抗しながら、元子は目の前で修一が真っ青な千秋に歩み寄り、低い声でなだめるのを捉えていた。
「もう大丈夫だ。ここを出よう」
千秋は軽くうなずき、元子のそばを通り過ぎるとき、ほのかな得意の色を浮かべた視線を投げた。
智美は武文の手を引き、その後に続いた。
その直後、会場にいた記者たちは栗原グループのボディーガードによって静かに連れ出された。
あっという間に、広々とした宴会場に残されたのは、「狂女」として残された「栗原夫人」、元子ただ一人だった。
彼女はボディーガードに腕をねじられながら車へと押し込まれ、そのまま病室に閉じ込められた。
静寂の中、元子の携帯が鳴った。画面には【お父さん】の表示。
救いの電話かと思いきや、受話器の向こうから響いたのは怒声だけだ。
「お前はなんて融通が利かんのだ!今どき、大会社の社長なんて隠し子が一人や二人いるのは当たり前だ。修一はただその子をお前の籍に入れただけだろう?栗原夫人の座はそのままだ。なぜ我慢できんのだ!」
元子はスマホをぎゅっと握りしめたまま、言葉が一つも出てこなかった。
彼女の沈黙に気づいた父・新谷健太(しんたに けんた)は、自分の口調がきつすぎたと悟ったのか、少し声を和らげて言った。
「元子、父さんだってお前のことを心配していないわけじゃない……でもな、うちの状況は昔とは違うんだ。栗原グループに資金のことで追い詰められている。お前は父さんのことだけじゃなく、会社で働いているみんなのことも考えてくれなくちゃ……な?」
元子は深く息を吸い込み、しばらくしてからようやく答えた。
「……わかった」
健太はほっとしたように息をつき、「じゃあ、修一さんにちゃんと謝っておけ。父さんはいい知らせを待ってるぞ」と言った。
通話を切った元子は、隣の病室へと歩いていった。
新谷グループには母の半生の心血が注がれている――そう思うと、母のためにも力を貸そうと決めた。せめてもの母への恩返しに、新谷グループがこの難局を乗り越えられる手助けをしたい。
しかし病室の前に来たとたん、中で低く抑えた口論が耳に入った。
千秋の声は鋭く、泣き出しそうに震えている。
「修一、あの女を好きになったんじゃないの?じゃなきゃ、どうして彼女をかばってあの平手打ちを受けたの?」
元子のドアノブを握る手が止まった。
修一の声が続いた。少し疲れをにじませながらも、はっきりとした口調だった。
「千秋、落ち着いてくれ。俺は全部君のためにやったんだ。君には彼女の腎臓が必要だし、俺はこの人生で愛したのは君だけだ」
「信じられない!」千秋はさらに詰め寄った。
「あなたの心を占めているのは私だけだって、証明して!」
短い沈黙の後、修一の低い声が再び響いた。
「いいよ、どうやって証明すればいい?」
「キスして」千秋の声は、退路を断つような決意に満ちていた。「今、ここで。はっきり彼女に言って。あなたは最初から最後まで、この千秋だけのものだって!」
その言葉が響いた瞬間、修一ははっと扉の方へ目をやった。そこには、顔面蒼白の元子が立ち尽くしていた。
次の瞬間、千秋は彼に唇を重ねた。
その短い口付けが終わると、修一は石のように硬直した元子に歩み寄り、静かな口調で言った。
「もう十分見たか?」
一拍置いて、彼の瞳に一瞬だけためらいがよぎった。だが、口から出た言葉はあまりにも残酷だ。
「元子、余計な気持ちは捨てろ。俺が愛しているのは、最初からずっと千秋だけだ。過去も、今も、そしてこれからも、俺たちの間には契約以外、何もない。
昔もなかったし、今もない。これから先も……絶対にありえない」
その言葉に、元子はぎこちなくうなずいた。顔には一片の表情も浮かばなかった。
「わかったわ、修一。あなたと千秋が末永く幸せでありますように。どうか……もう他の人を傷つけないで」
そう言い残し、彼女は二人を一瞥もせずに背を向けた。
最初は歩いていたが、次第に走りだした。
元子はどんどん速度を上げ、まるで修一と過ぎ去った五年間を完全に振り切ろうとするかのようだった。
息が切れて転びそうになったそのとき、彼女はスマホを取り出し、例の国際番号を押した。
「金子さん、計画を前倒しにします。今日中に、ここを離れたいです」
第7話
「わかった」電話の向こうから、金子輝夫(かねこ てるお)の低く、渋く沈んだ声が響いた。
すぐに彼は続けた。「空港でのすべては既に手配済んでいる。君が希望した……医療チームも含めて」
元子は静かに「うん」とだけ返し、その声には微塵も感情の揺らぎがなかった。
「ありがとう。空港で会いましょう」
通話を切ると、彼女は最後にもう一度だけ病院を振り返った。
だが、林立する高層ビル群に遮られ、何ひとつ見えなかった。
まるで私と修一の五年間の結婚生活は、鏡の中の花、水に映る月のように、すべてが虚しく、結局は自分自身を騙していた笑い話だった。
彼女は自嘲気味に笑うと、振り返らずにタクシーを止め、一路空港へ向かった。
車窓の外では、街の景色が勢いよく後ろへ流れていく。
元子は再びスマホを取り出し、修一とのチャット画面を開いた。最後のメッセージは、彼女が出張先に到着したと知らせたまま止まっていた。だが、修一からの返信はなかった。
スクロールを遡ってみると、この五年間の記録はほとんど同じだった。
いつだって彼女が一方的に話し、気を配り、必死に彼の世界に入り込もうとしていたのだ。
そして彼は、いつだって沈黙し、曖昧に流し、拒み続けていた。
元子は深く息を吸い込み、オランダ語で修一に音声メッセージを送った。
【修一、あなたが毎年青い花火を上げる理由、もう知っている。あなたと千秋がキッチンで交わした会話も聞いた。もしあなたが早く、心に千秋が住みついていると教えてくれていたら……この五年間を、無駄にすることはなかったのに。
離婚判決書は郵送するよ。これで私たちは終わり。二度と会うことはないわ】
送信してから、彼女は修一のすべての連絡先を削除し、スマホに残っていた彼に関する写真も一枚残らず消した。
最後に、彼女はスマホからSIMカードを取り出し、両手で強く握った。カチリと小さな音を立てて、五年間の屈辱的な思いが込められた小さなプラスチック片は、簡単に折れてしまった。
迷いのない、潔い動作だった。まるで、五年間体に巣くっていた病を、一刀のもとに断ち切ったようだ。
同じ頃、病室の中。
修一のスマホの画面が一瞬だけ光り、「元子」からの音声メッセージの通知が表示された。
しかしその時、彼は温かい薬膳スープを慎重に冷ましながら、顔色の悪い千秋に一口ずつ優しく食べさせていた。
「修一……何かメッセージが来てるみたい」と千秋が柔らかく声をかける。
修一はちらりと画面を見やり、元子の名を認めると、ほんのわずかに眉をひそめ、すぐに通知を指で消した。
「取るに足らない人間のことなど、気にする必要はない」彼は淡々とした口調で言い、手元の作業に再び集中した。
「今の君の任務は、しっかり休んで体を整えることだ。医者も言っていた、手術前の状態が何より大事だと」
修一は、あの音声を聞く気などさらさらなかった。
また元子がすねて、引っ込み作戦を装って彼の気を引こうとしているだけだと、彼は分かっていた。
手術が終わったら、また何かで埋め合わせをしてやるつもりだ。新谷家の件にせよ、子供のことにせよ、とにかく彼女を納得させる方法はあるだろうと。
三日後、千秋と元子の腎臓移植手術の日がやって来た。
手術室の外で、修一は苛立ちを隠せず、何度も足を往復させていた。
彼は繰り返し元子の電話番号を押したが、返ってくるのはいつも冷たい機械音――「おかけになった電話は電源が入っていません」だけだ。
言いようのない不安が、じわじわと彼の心臓を締めつけていった。
「元子はどこにいるの!?腎臓を提供すると約束したでしょう?どうしてこんな肝心な時に姿を消すのよ!」智美は焦りを隠せず、そう責め立てた。
修一の顔は暗く沈み、ボディーガードに元子を「連れて来い」と命じようとしたその瞬間、特別補佐が血の気の引いた顔で慌ただしく駆け寄ってきた。手には一通の封筒を握っている。
「社長!エディンバラから法的書類が届きました……!」
「何の書類だ?」修一の胸が一瞬強く跳ね、鋭い声が出た。
特別補佐は唾を飲み込み、震える手でエディンバラ裁判所の消印が押された封筒を差し出す。
なぜだろう、修一の胸の奥に得体の知れぬ不安が広がっていく。
眉をひそめて封を切ると、そこに記されていたタイトルは――「絶対離婚判決令」だった。
最初の一行に記されていた英語はこうだった――【エディンバラの法律および権威に基づき、原告・新谷元子と被告・栗原修一との婚姻を解消し、双方を婚姻上の義務から解放することを命じ、これを裁定する……】
修一の胸の奥が、ずしりと沈んだ。彼はすぐさま元子とのチャット画面を開いたが、いくつかの音声メッセージはまだ未読のままだった。
考えるより先に、彼は元子にメッセージを送った。
【どこにいる?】
そのメッセージは送信したが、ずっと未読のままだった。
その時、特別補佐が声を震わせて再び報告した。「社長……三日前、奥様が国際空港の救急医療センターで、ご自身の片方の腎臓を……金子輝夫氏にご提供なさったことが確認されました!」
「金子輝夫……?」修一は雷に打たれたように全身を強張らせ、思わず一歩後ずさりして冷たい壁に背をぶつけた。
あの、長年にわたって彼と覇権を争い、何かにつけて対立してきた栗原グループ最大の宿敵――金子輝夫なのか?
もう耐えきれず、修一は震える指先で元子の最後の音声メッセージを再生した。息をのむような静寂に包まれた廊下に、元子の声が淡々と、そして冷ややかに流れ出た。
【修一、あなたは五年も私を騙し続けてきた。だから今度は私が一度だけあなたを騙した。これでおあいこ。もう二度と会うことはないわ】