眠らぬ花は雲に沈む

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眠らぬ花は雲に沈む

GoodNovel 完結

夫・伊織玲司(いおり れいじ)が亡くなって一年。 高坂遥香(こうさか はるか)は、二人の結婚式のビデオだけを支えに、生きてきた。 玲司の命日の夜。 不意に、その結婚式のビデオから音声が流れ出した。 見知らぬ男の声が、静まり返った部屋に響く。 「じゃあ、お前にとって、遥香は……」 「取るに足らない。というより……捨てても」 そう答えたのは、一年前に死んだはずの玲司だった。 「別に、惜しくもないな」 スクリーンの放つ白い光が、血の気を失った遥香の顔を冷たく照らし出す。 その瞬間、遥香はようやく悟った。 玲司が周到に計画した「死」――それこそが、この嘘にまみれた結婚における、唯一にして揺るぎない真実だったのだ。

チャプター (1)

第1章

夫・伊織玲司(いおり れいじ)が亡くなって一年。 高坂遥香(こうさか はるか)は、二人の結婚式のビデオだけを支えに、生きてきた。 玲司の命日の夜。 不意に、その結婚式のビデオから音声が流れ出した。 見知らぬ男の声が、静まり返った部屋に響く。 「じゃあ、お前にとって、遥香は……」 「取るに足らない。というより……捨てても」 そう答えたのは、一年前に死んだはずの玲司だった。 「別に、惜しくもないな」 スクリーンの放つ白い光が、血の気を失った遥香の顔を冷たく照らし出す。 その瞬間、遥香はようやく悟った。 玲司が周到に計画した「死」――それこそが、この嘘にまみれた結婚における、唯一にして揺るぎない真実だったのだ。 第1話 漆黒で冷え切ったリビングルームで、高坂遥香(こうさか はるか)はソファに身を縮めていた。 真正面のテレビ画面には、かつての結婚式の映像が流れている。 純白のウェディングドレスをまとい、背伸びをして新郎の伊織玲司(いおり れいじ)に口づける遥香。当時、彼女は二十四歳だった。 会場は賓客であふれ、祝福の声が途切れることはなかった。だが、目の前に立つその美青年は、終始、感情の波一つ見せなかった。 時が経つのは早い。気づけば、また二人の七周年の結婚記念日が巡ってきている。 遥香はふと視線をずらし、少し離れた場所にある仏壇を見やった。 壇上の灯明が放つほのかな光が、遺影の中の玲司の面差しをくっきりと照らし出している。 記憶の中と寸分違わぬその姿。 玲司は、いつもこうだった。結婚した時でさえ、感情らしい感情を表に出すことはなかった。 遥香は黙って三本目の煙草に火を点けた。しかし一口も吸わないまま、ぼんやりと灰皿の上でゆっくりと燃え尽き、消えていくのを見つめていた。 一年になる。玲司がこの世を去って、ちょうど一年。 かつて執着するほど大切に祝っていた結婚記念日は、今や玲司の命日に塗り替えられていた。 うつむいたまま、遥香は自嘲気味に笑う。テレビの中では、結婚式の映像も終盤に差しかかっていた。 遥香は手を伸ばしてリモコンを掴み、何度も繰り返し見たこの映像を消そうとする。 その瞬間、賑やかな音楽は突如としてざらついたノイズにかき消され、続いて、聞き慣れない、酒に酔った男の声が響いた。 「……お前が『死んだふり』をして姿をくらましてから、もうすぐ一年だな。どうだ? 本当に、後悔は一切ないのか?噂じゃ、高坂家の令嬢はいまだに引きこもって、お前のことを悼みながら暮らしているそうだが」 リモコンを握る遥香の手が、宙で凍りついた。 まるで時間そのものが、この瞬間に封じ込められたかのようだった。 遥香の瞳がわずかに動き、無意識のうちに画面右下の記録日時を追う。そして、この音声が一年前のものではなく、昨日のものだと悟った。 しばらく無音が続き、衣擦れの微かな音がしたあと、遥香にとってあまりにも馴染み深く、骨の髄にまで刻み込まれた男の声が、ついに流れ出した。 ただしそれは、記憶の中よりもずっと弛緩しており、隠す気もない倦怠を帯びていた。 「後悔?」 玲司は小さく笑い、嘲るように続けた。 「あの時、あの女の父親が恩を着せて、無理やり俺に『嫡出の娘』を押しつけなければ、七年も無駄にすることはなかった。あの女の父親、今はもう死んだんだろ。逃げなきゃ、マジであの女と一生芝居を続ける羽目になってたってわけだ」 言葉が途切れ、再び沈黙が落ちる。 やがて、グラス同士が軽く触れ合う音がした。 「じゃあ、お前にとって、遥香は……」 友人の言葉を、玲司は心底うんざりした様子で遮った。 「取るに足らない。というより……捨てても――」 一瞬、言葉を切り、より正確な表現を探すような間が空く。 「別に、惜しくもないな」 長い沈黙の末、そう吐き出したところで、録音は唐突に途切れ、画面は再び漆黒に沈んだ。 凄まじく冷たい月光が窓から差し込み、まるで雪が肩に積もるかのように、部屋の奥まで骨身に染みる寒さが広がった。 なるほど。玲司は、死んでなどいなかったのだ。 この瞬間、遥香は自分が安堵しているのか、それとも憎悪に震えているのか、判然としなかった。 玲司が「死んだ」この一年、遥香は果てしない苦痛の中で生きてきた。 生ける屍のように日々をやり過ごし、眠りに落ちるたび、せめて夢の中で彼に会えないかと願い続けていた。 だが、この録音は、そんな彼女を一気に深い迷いへと突き落とした。 七年間の感情は、なぜ偽物だったのか。 確かに、最初に近づいてきたのは玲司の方だったはずなのに、なぜ今さら、それがただの芝居だったと言えるのか。 玲司の言葉が、耳の奥でいつまでも反響している。 ぼんやりとした意識の中で、遥香は七年前、父の書斎で初めて玲司と会った日のことを思い出した。 玲司はどこか傷を負い、少しやつれた様子だったが、その顔立ちは神々しいほど整っていた。 突然現れたこの男を、遥香は知らなかった。 だが父は、玲司は彼女のために選ばれた婚約者だと告げた。 当時の遥香には、荒唐無稽な冗談にしか思えなかった。 反抗的な彼女が、見ず知らずの男との結婚に応じるはずがない。 そこで彼女は、玲司を困らせて諦めさせようと、わざと難癖をつけ始めた。 深夜三時に電話をかけ、「隣県の人気クレープ屋で一番売れているイチゴクレープを買ってきて」と命じ、朝一番で戻ってきた彼に、「今は食欲ないから、捨てていい」と告げたこともある。 気まぐれにコーヒーを淹れ、出来上がったカップに山盛りの塩を入れ、顔色一つ変えずに飲み干すよう強要したこともあった。 玲司の家に押しかけて勝手に荒らし、重要書類の上に熱いお茶をぶちまけ、データを台無しにしたことさえある。 それでも玲司は、一度として怒りを露わにせず、婚約破棄を口にすることもなかった。 その無感情さは、もはや異様ですらあり、遥香は、自分が彼の何か致命的な弱みを握っているのではないかと疑い始めるほどだった。 「私がこんなにあなたを困らせているのに、どうして一度も怒らないの?」 またしても彼をずぶ濡れにした後、遥香は堪えきれず問いかけた。 「何があっても君を大切にするよう、君の父親に頼まれたからです」 玲司は振り返ることなく、濡れた服を拭いながら答えた。声はかすれ、低く沈んでいた。 また父のため。 その事実に、遥香の胸には理由のない鬱陶しさが広がった。 遥香は、そんな彼が嫌いだった。どれほどエスカレートしても、感情のないロボットのように、微動だにしない眼差しで見つめ返す。その瞳は、まるで澱んだ湖のようだった。 あるチャリティー晩餐会でのこと。酒に酔った遥香は、わざとグラス一杯の赤ワインを玲司の頭から浴びせかけた。 深紅の液体が前髪を伝い落ち、瞬く間に白いワイシャツを染め上げる。 さすがに失礼すぎると、人々の非難の矛先が一斉に遥香へと向けられた。だが玲司は、人々をかき分けて彼女の前に立ち、手で顔を拭うと、静かに頭を下げた。 「ドレスを汚してしまい、申し訳ありませんでした」 その瞬間、会場は凍りついたように静まり返った。 そしてその瞬間、遥香ははっきりと感じた。 自分の心が、ほんのわずかに、動いたのだと。 第2話 遥香はすぐに私立探偵へ連絡を入れ、玲司の行方を追うよう依頼した。 相手の動きは早く、三十分も経たないうちに、遥香のもとへ一枚の写真が送られてきた。 写真に写る男は、見知らぬ大通りに立っている。ダークグレーのシャツを着崩し、襟元のボタンをいくつか外した姿。見慣れたその顔立ちは、今も変わらず端正だった。 玲司だ。 彼は、本当に生きていた。 ただ…… 遥香の瞳がかすかに揺れ、その瞬間、視線は否応なく玲司の隣に立つ女へと引き寄せられた。 一目見ただけで、胸が強く締めつけられる。 あれは、遥香と腹違いの妹。 父の隠し子、高坂雨音(こうさか あまね)だった。 遥香は息を呑んだ。 実のところ、両親が亡くなるまで、彼女は雨音の存在をまったく知らなかった。 告別式の日。雨音が臆面もなく喪服姿で現れ、傍若無人にも父の位牌の前へ進み出て、明るく柔らかな笑みを浮かべ、こう言うまでは。 「皆様、お忙しい中、父の告別式にご参列いただきありがとうございます。今回、父の財産を無事相続できましたのも、私の素敵なお姉様のおかげですわ」 その挑発的な表情は、今もなお遥香の脳裏に焼き付いている。 遥香と弟の高坂智哉(こうさか ともや)が、まだ深い悲しみから立ち直れずにいるうちに、雨音は先回りして弁護士を伴い、父の遺言書を読み上げさせたのだ。 「高坂家の全財産は、私の次女である高坂雨音に相続させる」 そして遥香と弟の智哉は、正妻の子でありながら、何ひとつ手にすることはなかった。 …… 二十四時間も経たないうちに、私立探偵は、判明した限りの正確な情報を遥香に伝えてきた。 F国P市在住。高坂雨音という女と同居し、「リスキー」という名の小型犬を飼っているという。 それは、かつて遥香が、玲司と一緒に飼いたいと願っていた子犬の名前だった。 遥香はその夜のうちに、P市行きの航空券を手配した。 荷物をまとめる暇さえなく、たった一人で、まったく見知らぬ国へ向かう飛行機に乗り込む。 玲司に会いに行かなければ。 直接、問いたださなければ。 あの頃の優しさは、すべて恩返しのつもりだったのか。 自分に対して、ほんの少しの愛もなかったのか。 もしなかったのなら、なぜ、あれほど手の込んだ嘘をついたのか。 遥香は、自分を執拗に縋りつく人間だとは思っていなかった。 玲司が自らの口で、すべてはその場限りの戯れだった、一度も愛したことはなかったと認めさえすれば、きっと諦められる。 だからこの旅は、玲司から説明を求めるため、そして何より、彼に捧げた青春に終止符を打つためのものだった。 飛行機はやがてP市の国際空港に着陸した。 だだっ広いロビーに呆然と立ち尽くしたとき、遥香はふと、今の自分がスマートフォンとパスポート以外、何も持っていないことに気づく。 空港内では人々がせわしなく行き交っている。 遥香は無意識にスマートフォンを取り出し、玲司の番号へ発信した。 出ない。 そうだった。 忘れかけていた。 彼は、もう「死んだ」ことになっている。 遥香は黙って通話を切った。するとその直後、私立探偵から新たなメッセージが届く。 そこには、玲司が頻繁に出入りしている場所が記されていた。 ある会社だ。 遥香は胸をなで下ろし、すぐにタクシーを捕まえて目的地へ向かった。 窓の外の景色が、次々と後方へ流れていく。 P市を訪れるのは初めてだったが、玲司がF国語を話せたことは覚えている。 まさか、それが彼がこの地を選んだ理由なのだろうか。 取り留めのない考えに沈んでいるうちに、車は目的地へ到着し、遥香ははっと我に返った。 ドアを開けた瞬間、見慣れた姿が不意に視界へ飛び込んでくる。 彼だ。 玲司だ。 足が、勝手に動き出した。 一歩、また一歩。男へ向かう足取りが、自然と速まる。 ようやく近づこうとした、その時。遥香はふと、彼の隣にもう一人、女が立っていることに気づいた。 雨音だ。 遥香の足が、ぴたりと止まる。 だが、向こうの二人はすでに遥香の存在に気づいていた。 玲司は、遥香から数メートルの距離で立ち尽くし、明らかに動揺した表情を浮かべる。 次の瞬間、彼は背を向け、その場を立ち去ろうとした。 遥香の胸に鋭い痛みが走り、気づけば声が漏れていた。 「玲司――!」 名を呼ばれ、男の足がわずかに止まる。 「玲司なの……?玲司……だよね?」 遥香の声は抑えきれず、嗚咽を帯びていた。 「どうして……私を騙したの?」 第3話 騒がしかった大通りは、一瞬にして静まり返った。 遥香は、目の前に立つ男をただじっと見つめていた。 彼は随分と痩せていたが、そのぶん顔立ちはかえって彫りが深くなったように見える。 たった一年ぶりの再会だというのに、遥香には、もう何世紀もの歳月が流れ去ったかのように感じられた。 「俺は……」 玲司は俯きがちに、掠れた声で口を開いた。 どう説明すべきか、まだ考えあぐねている様子だった。 だがその直後、彼の隣に立っていた雨音のスマートフォンが不意に鳴り響いた。 「玲司、取締役会で緊急会議よ。南区の土地にトラブルが起きたわ」 遥香の目には、玲司の顔色が一瞬で変わるのがはっきりと映った。 彼は雨音と共に立ち去ろうと、くるりと背を向ける。 しかし歩き出した瞬間、何かを思い出したかのように足を止め、再び遥香を振り返った。そして今日初めて、彼女に向けてきちんとした言葉を口にする。 「先に帰ってくれ。急用なんだ」 そう言い残すと、男は躊躇いもなく背を向け、その場を去っていった。 残されたのは、その場に立ち尽くす遥香ただ一人だった。 この七年間で初めて、彼に置き去りにされた。 以前の玲司は、いつも彼女を最優先にしていた。たとえ父親に重要な用件で呼び出されても、今のように彼女を置いて行くことなど一度もなかったのに。 遥香は無力感に目を閉じた。だが、立ち去り際に雨音が向けてきた、あの得意げな眼差しが、網膜に焼き付いて離れない。 胸の奥が、ちくりと痛んだ。 「遥香、あんたって本当に馬鹿……」 七年分の想い。六年間の、寄り添ってきた時間と、一年間の絶え間ない苦しみ。 玲司は本当に、一度も彼女を愛してはくれなかったのだろうか。 遥香は唇を固く噛み締め、全身の力で堪えようとしたが、結局、溢れ出す涙を止めることはできなかった。 P市の街を吹き抜ける風が、冷たく体を震わせる。 その時、不意にスマートフォンの着信音が鳴り響いた。 遥香は通話ボタンを押す。 次の瞬間、電話の向こうから聞き慣れた声がした。 「姉さん?どこにいるの?家に帰ったら姉さんがいなくて、結婚式の映像が流れっぱなしなんだけど」 「私……」 遥香は、行き交う見知らぬ人々を眺めながら、しばし言葉を失い、やがて口を開いた。 「P市にいるの」 「P市で何してるんだよ?」智哉の声には、驚きが隠しきれない。「もしかして、バッグでも欲しくなった?すぐにお金振り込むから――」 「……玲司が、生きてる」 「なんだって!?」 智哉は、立て続けに放たれた言葉に、再び度肝を抜かれたようだった。 「玲司、生きてたのか?P市にいるのか?姉さん、わざわざP市まで探しに行ったのか!?」 「うん」 遥香は、彼の一連の問いに、ただ一言だけ答えた。 智哉はさらに何かを尋ねようとしたが、すぐに遥香が遮る。 「聞きたいことがたくさんあるのはわかる。でも、すぐに戻るから。国に帰ったら、ちゃんと全部話す。それでいい?」 そう言いながらも、遥香の視線は、玲司が去っていった方向に注がれたままだった。 この機会を、逃すわけにはいかない。 しばらく沈黙した後、智哉は了承した。「……わかった。でも、安全のために位置情報を共有してほしい」 遥香は断らなかった。 すぐに位置情報を送信する。 電話を切る頃には、P市に夜の帳が下りていた。 気温も、急に下がり始める。 長い時間待ち続けたが、夜が明ける頃になっても、玲司と雨音が姿を現すことはなかった。 仕方なく、遥香は最寄りのホテルを見つけ、そこに泊まることにした。 幸いにも、ホテルの窓からは、玲司がいる会社の正面玄関が見えた。 ただ、玲司の姿は、いくら待っても現れなかった。 深夜三時。ホテルの部屋のドアが、コンコンと叩かれる。 机に突っ伏してうとうとしていた遥香は、はっと目を覚まし、心臓が大きく跳ねた。 急いで立ち上がり、ドアを開ける。 「玲司……」 言い終えるより早く、ドアの外に立つ雨音と、彼女の背後に控える二人の大柄な白人男性が視界に入った。 「お姉さん、久しぶり」 雨音は笑いながら手を振ると、ごく自然な仕草で遥香の脇をすり抜け、ずかずかと部屋に入り込んだ。 「どう?お姉さん。P市の風は冷たかった?あなたほど愚かな人、見たことないわ。玲司があなたから逃げるために、わざわざP市まで来たってこと、わからないの?よくもまあ、恥知らずに付いて来られたものね」 その口調は軽薄で、瞳の奥には、あからさまな挑発の色が宿っていた。 「何しに来たの?」遥香の表情が険しくなる。 だが、雨音は突然、声を上げて笑い出した。 「何しにって、決まってるじゃない。大好きなお姉さんに会いに来たのよ」 言い終えると、雨音はますます遠慮なく笑い続ける。 しかし次の瞬間、彼女はさっと表情を切り替え、ドアの外に立つ二人のボディガードへ、冷酷な英語で命じた。 「この女を捕まえて。パスポートも何もかも、全部取り上げなさい!」 第4話 反応する間もなく、遥香は部屋に飛び込んできた男たちに取り押さえられ、あっという間に床へとねじ伏せられた。 必死にもがいたものの、彼らを相手にして敵うはずもない。 雨音が自分のパスポートを取り上げていくのを、遥香はなすすべもなく見つめることしかできなかった。 「お姉さん、ねえ……不法入国っていう罪名、どうかしら?」 雨音はそう言って、パスポートを遥香の顔に叩きつけた。 「雨音!あんた、気でも狂っ――!?」 パシッ! 遥香の言葉が終わり切らないうちに、乾いた平手打ちの音が空気を裂いた。 「よくもまあ、P市まで来られたものね。玲司があなたから逃げるために『死んだふり』をしたって知ってるくせに、よくもそんな厚かましい顔で彼の前に姿を現せたものね!?」 雨音は遥香の首をぐっと掴み、意識を失いかけるほどまで締め上げてから、乱暴に手を放した。 遥香は床に崩れ落ち、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。 喉は針で刺されたかのように痛み、息を吸うたびに耐え難い苦痛が走った。 我に返る暇もなく、警官の一団が部屋に押し入り、彼女の体を乱暴に調べ始めた。 そして、強い訛りのある英語で叫ぶ。 「不法入国だ、連行しろ!」 …… 遥香は鉄格子のある留置スペースへと放り込まれた。 「私は不法入国なんかしてない!パスポートもビザもある!」 鉄格子を掴み、流暢な英語で必死に訴える。 だが通信機器はすべて没収され、パスポートは雨音の手にある。今の彼女には、ただ誰かが自分の英語を理解してくれることを祈るしかなかった。 「I have passport!I――」 「まさか、あの人たちがあなたの言うことを信じるなんて、思ってないでしょうね」 隠そうともしない笑みを浮かべた雨音が、留置場の外から姿を現した。 その周囲には、警官の制服を着た男たちが数人付き従っており、その異様な光景に遥香はわずかに目を見張る。 次の瞬間、雨音が彼らに何かを囁くと、男たちはすぐさま遥香の方へ歩み寄ってきた。 「I have――」 「黙れ!」 大柄な警官がF国語で怒鳴りつけ、遥香の言葉を遮る。 それから一時間以上、彼らはわざと遥香にはまったく理解できないF国語で、執拗に尋問を続けた。 「言ったでしょ!パスポートはあるの!これは不法な拘束よ!ここから出して!」 もがき続けるうち、遥香の声はすっかりかすれていた。 しかし警官たちは、彼女を非協力的で逃亡の恐れがあると判断し、ついには直接手錠をかけてしまう。 「雨音!あんた正気なの!?早くあの人たちに言って、私をここから出して!私が不法入国じゃないって、知ってるくせに……どうして私を陥れるの!?」 床に押さえつけられ、無様にもがく遥香。 そのとき、彼女を押さえていた警官が突然腕を振り上げ、怒鳴った。 「黙れ!」 「きゃあ――!」 乾いた平手打ちの音が留置場に響き渡った。 だが、想像していた痛みは、遥香の頬を打たなかった。 何が起きたのか確かめようと目を開けると、そこには見慣れた男の姿があった。 玲司だった。 視線が交わった瞬間、遥香は、彼が険しく眉を寄せているのを見た。その瞳の奥には、わずかな動揺の色が浮かんでいるようにも見える。 玲司は遥香に歩み寄ろうとしたが、雨音の呼び声に足を止めた。 「玲司……」 雨音は泣きじゃくりながら左頬を押さえ、玲司の胸に飛び込んだ。 玲司は目を伏せ、赤く腫れ上がったその頬に視線を落とす。 「どういうことだ?」 雨音は下唇を噛み、困ったように口を開いた。 「お姉さん、パスポートをなくして警察に捕まっちゃって……私が交渉しに来たんだけど、お姉さんが感情的になって……それで、間違って私を……」 目を赤くし、いかにも辛そうな声だった。 再び、遥香と玲司の視線が絡み合う。 だが今度は、玲司の瞳から先ほどの動揺は消え去り、そこに浮かんでいたのは、露骨な非難と嫌悪だけだった。 その眼差しを受け、遥香の心は静かに、しかし確実に沈んでいく。 玲司は、信じてくれない。 これまで冷淡ではあったが、こんな目で彼女を見たことは一度もなかった。 「玲司、私はやってない……」 「もういい!」 雨音の頬に残るはっきりとした平手打ちの跡に怒りを燃やしたのか、玲司は苦々しい表情で遥香の言葉を遮った。 「これ以上ふざけた真似をしてみろ。今日、ここから無事に帰れる保証はないぞ」 苛立ちを含んだ、明確な脅しだった。 遥香は口を開きかけたが、声は喉の奥で詰まり、何一つ言葉にならなかった。 自分が心から愛した男が、これまで一度も向けられなかった感情を、別の女に注ぐのを、ただ見ていることしかできない。 それも――間接的に、父を死に追いやった女に、だ。 第5話 遥香は玲司の手によって、無事に警察署から連れ出された。 連れて行かれた先は、狭いマンションの一室だった。 「とりあえず、ここで暮らせ。身元の証明ができ次第、航空券を手配して帰国すればいい」 玲司はそう言い捨てると、雨音を抱き寄せ、そのまま立ち去ろうとした。 だが、遥香は一歩踏み出し、二人の前に立ちはだかる。 「玲司、私がP市に来た目的、分かってるでしょ。ちゃんと説明して」 「姉さん!……玲司、お前、本当に生きてたのか。それに、雨音?なんでお前もここにいるんだ!?」 背後から智哉の声が飛んできた。遥香が振り返り、開け放たれたドアの向こうに目をやると、そこには信じがたいことに、弟の姿があった。 「智哉、どうしてここに……?」 「俺が来ちゃ悪いのかよ」 智哉は遥香を一瞥しただけで、その視線をすぐに玲司と雨音の、絡み合う手元へと落とした。 「玲司が死んでないって聞いてさ。記憶喪失か、植物人間にでもなってるのかと思ってた。まさか不倫してただなんてな。夢にも思わなかったぜ」 智哉は雨音を鋭く睨みつけた。まだ幼さの残るその顔には、隠しようのない嫌悪が色濃く浮かんでいる。 「俺と姉さんから全部奪っておいて、今度は姉さんの旦那まで奪うつもりかよ。恥知らずが!」 「智哉、私はお姉さんよ。それに、奪うだなんて……」 「お前が口を挟んでいい立場じゃねえんだよ。この泥棒女が!」 雨音が言い返そうと口を開いた瞬間、智哉は間髪入れずに言葉を遮った。 「遥香、弟の躾はどうなっている?」 玲司は目を細め、智哉を射抜くように見据えた。その声は氷のように冷たい。 智哉も一歩も引かず、真正面から睨み返す。少年めいた顔は、怒りで赤く染まっていた。 次の瞬間、彼は手近にあった花瓶を掴み、勢いのまま雨音に向かって投げつけた。 間一髪、玲司が身を翻し、雨音を庇ってその花瓶を背中で受け止めた。 ガシャーン! 高価そうなアンティークの花瓶が派手な音を立てて砕け散り、玲司の後頭部から黒ずんだ赤い血がじわりと滲み出した。 「玲司……玲司!?」 目の前の出来事に遥香が声を上げるより早く、冷徹な声が響いた。 「警察を呼べ」 「やめて……だめ!玲司、通報しないで!」 「罪を犯したなら、罰を受けるのが当然だ」 玲司は血の滲む傷口を押さえながら立ち上がり、鋭い眼差しを向ける。 「遥香。両親が亡くなってから、弟の躾すらできないというなら……俺が代わりに、徹底的に教えてやる」 「やめて……玲司!」 遥香はなりふり構わず懇願し、必死の形相で智哉を見逃してほしいと訴えた。 だが、次の瞬間、玲司はふっと鼻で笑った。 「やめてほしい、か。なら弟の代わりに、雨音に謝れ。彼女が許すなら、今回の件は不問にしてやる」 「姉さん、俺たちは悪くない!そんな女に謝るな!」 智哉が焦ったように叫ぶ。 遥香は、長い沈黙に落ちた。 やがて彼女は振り返り、雨音に向き合う。そして初めて、卑屈ともいえる声音で口を開いた。 「雨音……ごめんなさい。智哉はまだ子供で、何も分かっていないの。どうか……どうか許してあげて」 「許す、ですって?」 雨音はその言葉を聞いた瞬間、まるで悪趣味な冗談でも聞いたかのように、涙が滲むほど笑い出した。 「ふざけないで。玲司が庇ってくれなかったら、私、今ごろあんたの弟に殺されてたかもしれないのよ」 そう吐き捨てると、雨音の目元は赤く染まった。 玲司が冷ややかに告げる。 「謝罪に誠意がない。やはり通報する」 玲司がスマートフォンを手に取るのを見た瞬間、遥香の胸は張り裂けそうになった。 ドサッと鈍い音を立て、遥香は玲司と雨音の足元に膝をつく。 「玲司、雨音……お願いします。どうか広いお心で、智哉を許してください……お願いします。この子は……この子だけが、私がこの世界で生きていくための、唯一の支えなんです……」 声は涙に震え、溢れ出す感情を抑えきれない。 滲む視界の中で、遥香は一度だけ顔を上げた。そして、令嬢として長年抱いてきた誇りをすべて智哉のために捨て去り、床に深く額を擦り付ける。 「私には……もう、智哉しかいないんです」 第6話 父の会社に問題が起きてからというもの、遥香は母と弟にめったに会えなくなった。 あの突然の事故さえなければ、遥香が一夜にして、かけがえのない二人の家族を失うことなどなかったはずだ。 ましてや、父に隠し子がいたなど、知る由もなかった。 そして今、その隠し子は、彼女の父を、人生を、そのすべてを奪っただけでは飽き足らず、夫までも連れ去った。挙げ句の果てには、たった一人の弟にまで危害を加えようとしている。 だが、どれほど怒ったところで、何になるというのか。 遥香にできることは、ただ卑屈に雨音に懇願することだけだった。相手の慈悲にすがり、弟を見逃してもらえるよう祈るしかない。 自分は、世界で一番役立たずな姉だ。 両親を守れず、自分自身も守れず、今では、たった一人残された家族さえ守れない。 遥香は雨音に向かって、何度も何度も頭を地面に打ち付けた。 やがて視界が真っ赤に染まり、額が血にまみれた頃、ついに力尽き、玲司の足元へとばったり倒れ込んだ。 朦朧とする意識の中で、その男がわずかに眉をひそめるのが見えた。 「雨音……」 「お姉さん」雨音は玲司の言葉を遮るように口を開いた。「智哉を見逃してほしければ、一つ約束して」 「……何なりと」 「三日後、私と玲司の結婚式があるの。智哉と一緒に式に来て、私たちを祝福してくれたら……智哉のしたことは、水に流してあげる」 「……わかりました」 遥香は拳を固く握りしめ、痛みをこらえ、歯を食いしばって頷いた。 …… 雨音と玲司の盛大な結婚式は、P市で最も大きな教会にて、華々しく執り行われた。 多くの著名人が招待されていたが、メディア関係者は一切排除されていた。 遥香は地味なワンピースに身を包み、智哉を連れて、この幸福で壮大な式を、ただ静かに見守っていた。 雨音と玲司が牧師の前に立ち、神聖な誓いの言葉を交わすのを見ていた。 玲司が片膝をつき、雨音の指に指輪を通すのを見ていた。 二人が神の見守る中で口づけを交わす、その瞬間を見ていた。 ……本当に、よかった。 玲司は、ついに心から愛する人と結婚するのだ。 今回の結婚式で見せる彼の表情は、かつての無感動なものではなく―― 柔らかな笑みに満ちていた。 ふと、手の甲に温かいものが落ちてきた。 ポタッと。 涙だった。 録音の中の会話が脳裏をよぎり、遥香の心臓が、また一瞬、鋭く痛んだ。 賓客で埋め尽くされた教会の中で、誰もが新郎新婦に祝福の言葉を贈っている。 遥香はしばらく黙っていたが、やがて一歩、前へと進み出た。 「雨音……玲司。おめでとうございます。末永く、お幸せに……いつまでも」 「きゃあああーっ!」 甲高い悲鳴が、和やかな空気を一瞬にして切り裂いた。 耳をつんざく叫びに続き、教会の中に黒い煙が立ち上る。 式に参列していた人々は、目の前の異変に怯え、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 そして、遥香とずっと手を繋いでいた智哉も、混乱する人波の中で、一瞬にして引き離されてしまう。 「智哉!智哉!?」 遥香は必死に名を叫んだが、出口へとなだれ込む狂乱の波が、逆らう彼女を無情にも外へ押し流していく。 「智哉、とも……」 パン、パン、パンパンパンッ――! 突然、くぐもった銃声が教会内に響き渡った。 その瞬間、時が止まったかのように感じられた。 「……ねえ……さん」 智哉の体が、遥香の目の前で崩れ落ちた。その背後には、おろおろと狼狽える雨音の姿があった。 「全員、その場で遮蔽物を探して伏せろ!」 玲司の怒鳴り声が響いたが、遥香には、そんな指示に従う余裕などなかった。 ありえない…… どうして、智哉が撃たれなければならないの? どうして、智哉なの!? 遥香は虚ろな目で智哉のもとへ駆け寄った。 だが、すでに血に染まったその手では、彼の体に穿たれた、血が止めどなく溢れ出す穴を、どうしても塞ぐことができなかった。 周囲の喧騒は、いつの間にか遠のき、静まり返っていた。 はっと顔を上げた遥香の視界に、雨音をなだめる玲司の姿が飛び込んでくる。 「玲司!玲司――!」 遥香は、必死にその名を叫んだ。 「智哉を助けて!早く……人を呼んで、助けてあげてよ!!」 涙に覆われた視界の中で、彼女の目に映ったのは、無表情で立ち尽くす、冷え切った人影だけだった。 「お前は、俺と雨音の幸せを、その目で見ただろう」 玲司の声が、不意に遥香の頭上から降り注ぐ。 「俺と雨音は両想いだ。お前さえいなければ……七年前、とっくに雨音と結婚できていたんだ。 遥香、さっさと諦めて、弟を連れて国へ帰れ。俺と雨音の人生に、二度と関わるな……できるだけ遠くへ消えてくれ」 その瞬間、遥香の全身を血の気が引き、凍りついた。 それでも彼女は、気丈に顔を上げる。 「玲司、私は見たわ。雨音が智哉を引っ張って、自分の盾にしたのを! 智哉は重傷で、むやみに動かせないの。私のパスポートも雨音に奪われた。今、医者を呼べるのは……あなたしかいないのよ!」 遥香は、泣き崩れるように叫んだ。 「遥香……いつまで、俺を騙し続けるつもりだ?」 玲司の声には、隠そうともしない嫌悪が、はっきりと滲んでいた。 第7話 「……えっ?」 遥香の表情が、わずかに強張った。 「いつまで俺を騙し続けるつもりかって聞いてんだよ!」 玲司は冷えきった声音で続ける。 「雨音がお前のパスポートを奪ったなんて話、そんな事実は一度もない。それなのに、お前は最初から最後まで出鱈目ばかりだ。それとも……俺と少しでも長く一緒にいたいがために、今度は弟まで巻き込んで、俺を騙すつもりか?」 冷ややかな笑みを浮かべながら、玲司はそう言い放った。 「……玲司!」 遥香の目元は、完全に赤く染まっていた。 彼は、本気ですべてが自分の自作自演だと思っているのだろうか。 自分は、一人の男のためなら、血を分けた弟の命さえ平気で利用する女――彼の目には、そう映っているというのか。 「なんだ?両親が死んだ今、今度は実の弟まで見逃す気はないってことか?」 玲司は小さく鼻で笑った。 「時々、お前のことが本当に分からなくなる。どうして、よりにもよって俺なんだ?」 そうよ。 どうして、よりによってこの男を選んでしまったのだろう。 どうして、家族をめちゃくちゃにしたこの男を、心から愛してしまったのだろう。 遥香は、ふっと言葉を失った。 腕の中で、智哉の呼吸はみるみる弱くなっていく。 その体から流れ出る血は、遥香の手を濡らし、なおも量を増していた。 雨音は、いつの間にか姿を消していた。 気づけば、そばにいるのは後始末をしている玲司と、その部下たちだけ。 「……もしもし?ああ、何人か寄越してくれ。こっちで……怪我人が出た」 玲司の低い声が、静まり返った教会の廃墟に響いた。 だが、その声は遥香を完全に素通りし、彼女の存在など最初からなかったかのようだった。 …… 智哉は、亡くなった。 皮肉なことに、銃弾は急所を外れていた。 医師の説明では、病院への搬送が遅れたことによる失血死だという。 その日一日、遥香はまるで生ける屍のようだった。 何も考えられず、感情の起伏もなく、ただ時間だけが空虚に流れていった。 これで、本当に一人きりだ。 彼女には、もう身内は一人も残っていなかった。 「高坂智哉さんのご家族の方……高坂智哉さんのご家族の方はいらっしゃいますか?」 英語とF国語が交互に響き、不意に遥香の耳に届いた。 はっとして振り返った遥香に告げられたのは、全身の血が引くような現実だった。 「……なんですって?」 声が震える。 「智哉の遺体は……もう、火葬された、ですって?」 「はい、高坂さん。こちらは、ご依頼どおり火葬を終えた後のお骨になります」 差し出されたのは、小さな骨壷だった。 遥香は呆然と、それを受け取る。 驚くほど軽いその重さに、しばらく言葉を失ったまま、ただ見つめることしかできなかった。 「お姉さん?」不意に、笑いを含んだ女の声がした。 「智哉のこと、見逃してあげて通報しなかったでしょ?だから今、パスポートも返してあげる。私のお願い、ちゃんと聞いてくれるよね?弟を連れて、とっとと国に帰りなさいよ」 突然現れた雨音に、遥香の体はびくりと震え、ようやく現実に引き戻された。 目の前には、鮮やかな赤いドレスをまとった雨音が立っている。 「……勝手に智哉を火葬したの、あなたなの?」遥香は声を震わせた。「雨音、あなたに……そんなことをする権利が、どこにあるの……!」 「だって、お姉さんが言ったじゃない。私も、あの子のお姉さんだって」 雨音は肩をすくめ、涼しい顔で言った。 「……雨音、死ぬべきだったのは、あんたよ!智哉に、命で償いなさい!」 遥香の全身が、怒りで震え出した。智哉が引きずられ、盾にされた末に死んだのだと思うと、怒りが理性を焼き尽くしていく。 「あなたごときに、何ができるっていうの?」 不敵に笑うその女に、遥香が飛びかかろうとした、その瞬間だった。 雨音が、ふっと手を上げる。 次の瞬間、遥香の意識は急速に遠のき、そのまま、深い闇の中へと沈んでいった。 第8話 再び目を開けると、耳元で風がごうごうと唸っていた。 体はがんじがらめに縛られ、遥香は無理やり頭を振って、どうにか意識を繋ぎ止めようとするしかなかった。やがて、ぼんやりとした光が、ゆっくりと視界に差し込んでくる。 「目が覚めた?」 そこは私設飛行場だった。大小さまざまな飛行機や小型ヘリコプターが並んで駐機している。 遥香は眩しさに耐えながら視界を慣らし、数秒後、ようやく正面に立つ女の顔をはっきりと捉えた。 「どう、意識ははっきりした?はっきりしたなら、大人しく国へ帰りなさい。弟の遺骨を持って、永遠に私と玲司の前に現れないで。あの人、あんたを見ただけで吐き気がするんですって。もう二度と会いたくないそうよ」 その言葉は反響するように、ゆっくりと遥香の耳へ流れ込んできた。 遥香はしばし呆然とし、やがて、ぽつりと呟いた。 「……どうして、そこまで私を憎むの?」 「憎む、ですって?」 雨音は小さく首を振る。 「あんたを憎んだことなんて、一度もないわ。ただ……純粋に、あんたに嫌な思いをさせたかっただけ」 そう言うと、雨音は堪えきれないように笑い出し、やがて高らかな哄笑へと変わっていった。 「遥香、知ってる?あんたたち高坂家の人間って、本当に大馬鹿よ。実はね……あんたの弟と両親を殺したの、同じ連中なの」 雨音の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。 「そいつらは、玲司が昔F国にいた頃の敵よ。あの人、当時は人に言えないようなことを山ほどやってたから、敵がうじゃうじゃいたの。 そもそも、玲司があんたの父親と知り合えたのも、敵に追われて殺されかけていたところを、偶然助けられたから。 でもね、その頃、F国に留学していた私は、もう玲司と両想いだったの。あのクソ親父が横槍を入れなければ、私たちはとっくに結婚してた!それなのに、あんたのせいで七年も足止めされるなんて! 同じ高坂家の娘なのに、どうしてあんたは表舞台でちやほやされて、私は暗い場所に隠されて、ずっと日の当たらない人生を送らなきゃいけなかったの!?不公平よ!」 激昂した彼女は、血走った目で遥香を睨みつける。 「だから、あんたのものを全部奪ってやるの。だって、本来なら全部、私のものだったんだから! でもね……まさか父親が、ここまで愚かだとは思わなかった。私と母親を哀れに思ったからって、全財産をこの私生児である私に譲って、あんたと智哉には一銭も残さなかったんだから!」 その表情はますます凶暴さを帯び、笑いながら、遥香を食い入るように見つめる。 「でも、誰も想像しなかったでしょうね。あんたたちが結局、何ひとつ手に入れられなかっただけじゃなく……智哉まで、し・ん・だ・ん・だ・か・ら!」 ドスッ――! 遥香は怒りに燃える目で雨音を睨みつけると、思い切り額を彼女の鼻に叩きつけた。 「雨音……死ぬべきなのは、あんたの方よ!」 声は嗚咽でかすれていたが、涙は一滴も流れなかった。 「じゃあ、どっちが先に死ぬか……見ものね!」 雨音は血の滲む鼻先を乱暴に拭うと、遥香が抱えていた骨壷をひったくり、ガシャンと音を立てて地面に叩きつけた。 その瞬間、弟の遺骨が地面に散らばる。 遥香は、ただ呆然とそれを見つめることしかできなかった。 「いや――!」 喉が裂けるほどの悲鳴が、風に掻き消される。 「今すぐ、この女をプライベートジェットに担ぎ込みなさい!」 その頃。 玲司のオフィスでは、彼が繋がらないスマートフォンの画面を見つめ、落ち着かない様子で指先を机に打ち付けていた。 海外まで追いかけてきていたというのに、なぜ電話に出ない? ふと、脳裏に遥香の赤く腫れた目元がよぎる。 理由の分からない苛立ちが、胸の奥に広がった。 その苛立ちがどこから来るのかを突き止める前に、ドアをノックする音が響く。 「何だ」 玲司は苛立ちを隠さず、スマートフォンを机に放り投げ、デスクの椅子に腰掛けた。 「昨日の銃撃事件ですが、首謀者が判明しました。またしてもフェニックスです」 ボディガードが、分厚いファイルを差し出す。 「それから……事件の二日前、奥様がフェニックスの関係者と会っていたという目撃証言が」 玲司は冷笑した。「遥香か?……フン、やはりあいつの自作自演だな」 「いえ。遥香様ではありません。雨音様です」 その瞬間、玲司は虚を突かれたように、言葉を失った。

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