娘が十度目に母を拒んだ日

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娘が十度目に母を拒んだ日

GoodNovel 完結

娘の周防花奈(すおう かな)が十回目の「ママを替えたい」と口にしたとき。 私・周防霞(すおう かすみ)は怒らなかった。 ただ、妙に落ち着いた声で「じゃあ、誰にママになってほしいの」と聞いただけだった。 花奈は迷いもなく答えた。 「沙羅さん」 小田切沙羅(おだぎり さら)は、花奈の家庭教師だ。 そして、夫の周防颯真(すおう そうま)の初恋の相手でもある。 あの日の誕生日パーティーでも、花奈は皆の前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言っていた。 その幼い顔を見ているうちに、この子は私のことが好きじゃないのだとはっきり分かってしまった。 それから私は、前みたいに花奈と颯真の世話を焼くのをきっぱりやめた。 代わりに、国の極秘プロジェクトに参加する道を選んだ。 あの二人にこれ以上時間を使うくらいなら、国の役に立つ方がずっといい。

チャプター (1)

第1章

娘の周防花奈(すおう かな)が十回目の「ママを替えたい」と口にしたとき。 私・周防霞(すおう かすみ)は怒らなかった。 ただ、妙に落ち着いた声で「じゃあ、誰にママになってほしいの」と聞いただけだった。 花奈は迷いもなく答えた。 「沙羅さん」 小田切沙羅(おだぎり さら)は、花奈の家庭教師だ。 そして、夫の周防颯真(すおう そうま)の初恋の相手でもある。 あの日の誕生日パーティーでも、花奈は皆の前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言っていた。 その幼い顔を見ているうちに、この子は私のことが好きじゃないのだとはっきり分かってしまった。 それから私は、前みたいに花奈と颯真の世話を焼くのをきっぱりやめた。 代わりに、国の極秘プロジェクトに参加する道を選んだ。 あの二人にこれ以上時間を使うくらいなら、国の役に立つ方がずっといい。 第1話 娘の周防花奈(すおう かな)が「ママを替えたい」と言い出したのも、これで十回目だった。そのとき私・周防霞(すおう かすみ)は怒りもせず、静かに自分の部屋へ戻った。 クローゼットの奥に隠してあった極秘の契約書を取り出した。 私は政府の研究所で働く研究員で、真面目さと責任感には自信があり、能力もそれなりに評価されている。 だから、極秘プロジェクトの話が持ち上がったとき、真っ先に上層部から声をかけられ、この計画への参加を打診された。 けれど、花奈はまだ小さくて、夫の周防颯真(すおう そうま)も仕事で手一杯で、花奈の世話をする人がいなくなるのが怖かった。 それに、一度行ってしまえば十年以上は戻れない。花奈の成長を、ほとんど見届けられなくなる。 だから私は、その話をいったん断った。 でも、リーダーは何度も考え直すようにと言い、せめて目を通してほしいと、その契約書を私に持ち帰らせた。 まさか花奈が、私のことなんて少しも気にしていなかったなんて思いもしなかった。あの子の心の中には、家庭教師の小田切沙羅(おだぎり さら)しかいなかったのだ。 誕生日パーティーの席でさえ、花奈はみんなの前で堂々と沙羅にお礼を言い、「ママみたいにずっとそばにいてくれるの」と言い、ママを替えたいとまで口にした。 会場にいた全員の視線が、一斉に私へ突き刺さった。 それでも私は怒りを飲み込み、静かに花奈に、誰を新しいママにしたいのか尋ねた。 「沙羅さん」 花奈は、ためらいもなくそう答えた。 私はくるりと背を向け、その場を後にした。 その晩、私は颯真と激しく言い争った。彼は、子どもの何気ない一言なんていちいち気にするなと、私を理不尽だと言った。 私は淡々と彼を見つめ返した。 「じゃあ、私は何を気にしていればよかったの。あなたと小田切さんの関係?」 颯真は、私が彼のことを深く愛していると思っているのだろう。沙羅が、彼の初恋の相手だとしても、私は気にしないはずだと高をくくっている。 私と颯真は大学で出会い、恋人になり、そこから二人でここまで歩いてきた。 今では車も家も、それなりの貯金もある。 七年も一緒にいて、私たちは世界でいちばん幸せなものを手に入れたつもりでいた。 少なくとも、あの隠された写真を見つけるまでは。そこに写っていた沙羅は、まだ十代の少女で、ポニーテールを揺らして、場違いなほど無垢な笑顔を見せていた。 その写真を見たあとで、本当は颯真に問いただしたくてたまらなかった。けれど花奈の顔と、積み重ねてきた年月を思うと、結局私は何も言わず飲み込んだ。 きっと、もう過去のことなのだろう――そう自分に言い聞かせながら。 けれど今になってようやく、自分がどれほど見当違いだったのか思い知らされている。 私は小さくため息をつき、スマホを取り出して、親友の中谷雪乃(なかたに ゆきの)に電話をかけた。 「もしもし、雪乃。リーダーに伝えてくれる?今回のプロジェクト、私も参加するって」 そう告げると、私はペンのキャップを外し、書類に自分の名前を書き込んだ。 「え?参加しないって言ってなかった?」 雪乃と私は同じ研究所に所属し、毎日同じ実験室で顔を突き合わせている。 今回の実験計画のメンバーにも、彼女の名前は入っている。 メンバーリストが発表されたときも、真っ先に私のところへ来て、一緒に行くかどうか聞いてきた。 そのときの私は花奈のことを考えて、参加を断った。 なのに急に行くと言い出したものだから、雪乃はむしろ呆気にとられている。 私のことをよく知る人なら、私がどれほど家庭を大事にしてきたかぐらい分かっている。 私は毎日どんなに忙しくても、家族と過ごす時間だけは必ずつくってきた。 「うん、もう覚悟は決めたの」 そう言って電話を切った。 書類を封筒に戻した、その次の瞬間、理由もなくぽとりと涙が落ちて、封筒の上に丸いしみをつくった。 私は慌てて手の甲でそれを拭った。 それでも、涙は堰を切ったように止まらず、次々と頬を伝い落ちていった。 悲しくないはずがない。 花奈は、私が命がけで産んだ子だ。 妊娠初期、私は体質のせいで一日中つわりに苦しみ、何も口にできなかった。 ひどいときには気を失うことさえあった。 やっとの思いで十か月間身ごもってきたのに、いざ出産というときには逆子で、難産になった。 医師は、私の命が危ないと告げ、母体を助けるには赤ちゃんを諦めるしかないと言って、颯真に同意書を差し出した。 けれど私は、それを全部首を振って拒んだ。 幸い、最後には母子ともに無事だった。 第2話 それは、花奈がやっと授かった大切な子だからだ。 花奈は小さい頃から、私と颯真に目に入れても痛くないくらいに可愛がられてきた。 まさか、その幼かった子が、数年後には実の母親である私をここまであからさまにうとましく思うようになるなんて、想像もしなかった。 翌日になってようやく、颯真と花奈が沙羅と一緒に帰ってきた。 SNSの投稿で、三人が一緒に旅行に出かけていたことを私は知った。 いつの間にか、家庭教師の沙羅の方が、周防家の「奥さん」みたいな立場になっていた。 どうせ颯真も花奈も、私より沙羅の方が好きなんだろう。 でも、最初から私と花奈の関係がこんなにぎくしゃくしていたわけじゃない。 あの子は小さな手で私の手をぎゅっと握って、「ママ」と呼んでくれていた。 ほっぺに甘えるみたいなキスをして、そのまま私の腕の中で眠ってしまうこともよくあった。 それなのに、いつからあの子と私はこんなにも遠くなってしまったのだろう。 海外にいた沙羅が戻ってきて、颯真が家庭教師として家に呼び寄せた頃からだろうか。 それとも、私のしつけが厳しすぎて、花奈の中に反抗心が生まれたせいなのか。 その本当の理由は、私にも分からない。 思い返せば、沙羅という名前を初めて聞いたのは、花奈が宿題に向かっていたときだ。 いい加減な字で済ませようとしていたので、私は全部書き直すようにと言った。 するとそのことで一気に怒り出した花奈が、そこで初めて沙羅の名前を口にした。 「ママはどうして沙羅さんみたいにしてくれないの! 沙羅さんは、フライドチキンもコーラもいいよって言ってくれるし、パパに頼んで遊園地にも連れて行ってくれるの。それに沙羅さん、すっごく可愛いんだよ。ママも少しはオシャレしてみたら? ママは朝から晩まで私のことばっかり怒るし、パパが『ママって最近おばさんくさいよな』って言ってたのも当然だよ!」 花奈がそう言ったとき、小さな顔には、あからさまな嫌悪の色が広がっていた。 その瞬間、私は颯真の顔を思い浮かべた。結婚して何年もたつのに、最近の彼の目にも同じ色が宿っていたではないか。 でも付き合い始めた頃の颯真は、私が何をしても決して苛立ちを見せることはなかった。 結婚して、出産のあと、血で汚れた私の身体を見ても、彼は一度も嫌そうな顔をしなかった。 今は何不自由ない生活を手に入れた代わりに、仕事と子育てに追われて自分のことをかまわなくなった私の顔や体を、颯真はどこか冷めた目で見るようになった。 私はしばらくぼうっとしてしまった。 遊園地は、かつて颯真が一番よくデートに連れて行ってくれた場所だった。 今、その場所に沙羅を連れて行っている。 三人が笑いながらリビングに入ってくるのを見て、私は唇をきゅっと結び、胸の中のざらついた感情を押し込めて、朝食後の食器を洗い、食器乾燥機にしまった。 「ママ、今日の午後は宿題しないからね。沙羅さんが遊びに連れて行ってくれるんだって」 玄関のところで、花奈が腰に手を当ててそう言い放った。 私はちらりとあの子に目を向けた。 以前の私なら、まずやるべきことを終わらせてからにしなさいと、当たり前のように言い聞かせていただろう。 でもそのときは、急にすべてがどうでもよく思えた。 だから私は小さく返事をしただけで、花奈の横を通り過ぎ、カバンを取って研究室へ向かうつもりでいた。 するとその様子を見た花奈は、裸足のままドタドタと颯真のところへ駆け寄り、胸に飛び込んで半べそをかきながら言った。 「パパ、ママがまた怖い顔した」 颯真はスーツのジャケットを脱ぎ、腰をかがめて娘を抱き上げた。その腕に力がこもるたび、白いシャツ越しに筋肉の線がうっすらと浮かび上がる。 すべてを見ていたはずなのに、彼は冷たい顔のまま私の前まで来て、責めるような口調で言った。 「花奈はまだ子どもなんだぞ。宿題をやっていなかったくらいで、どうしてそんな怖い顔をして怒るんだ」 私は顔を上げて颯真を見たが、目の前の男が急に知らない人のように思えた。 付き合い始めてからもう七年。あのころ眩しいほど真っ直ぐだった少年の面影は、どこにも残っていなかった。 娘は父親の首にしがみついたまま、私が叱られるのを聞いて、得意げにあっかんべーをしてきた。 以前の私なら、颯真に言い返し、花奈の勉強のことでも一歩も引かずに言い合いになっていただろう。 けれどこのときの私は、不思議なほど落ち着いていた。ただ背を向け、ドアを開けて家を出た。 もうこの二人と言い争ったところで、何一つ変わらないと分かってしまったからだ。 背中の方から、沙羅と颯真の会話が聞こえてくる。 「颯真さん、霞さん怒ってたよね。絶対、私のせいだよ。もし私のこと嫌いなら、仕事辞めるから」 「あいつのことは放っておけよ。一日中あの仏頂面でさ、いったい誰に見せてるつもりなんだか……」 第3話 その日も、私は研究所にいた。 実験に没頭しているうちに、気がつけば夜の九時を過ぎていた。 同僚がまだいる私を見て、驚いたように声をかけてきた。 「霞、まだ帰ってないの?今日は娘さんと一緒じゃなくていいの?」 花奈と沙羅が一緒にいる光景が頭に浮かぶ。 私は首を横に振った。 「ううん、もういいの。これからは、わざわざ帰らなくていいから」 ここ二日、実験室で徹夜続きで、ようやく欲しかったデータを手に入れた。 胸の奥が満たされていくのを感じた。 大事な実験を途中で切り上げてまで、わざわざ時間だけは必ずつくって家に飛んで帰らなくてもいいのだと思うと、ふいにそのことがたまらなく気楽に感じられた。 外に出ると夕日が沈みかけていて、私は鼻歌まじりに家へ向かった。 だが、玄関のドアを開けた途端、そこには暗い顔をした颯真がいて、腕の中には花奈を抱えていた。 私の姿を見るなり、いきなり噛みついてきた。 「霞、お前いい加減にしろよ。ろくに家にも帰らないで、自分が妻で母親だって自覚まだあるのか? 俺が外で死ぬほど働いてるのは、お前に好き勝手させるためじゃないんだぞ!」 颯真の言葉は耳を疑うほどひどくて、私はすぐ言い返した。 「颯真、私だって仕事があるの。それに花奈の父親はあなただよ。面倒を見るのはあなただって同じでしょ? それに、小田切さんもいるじゃない」 私は思わず眉をひそめた。 「それに、あなたが死ぬほど働いて稼いだお金、私がどれだけ使ってるっていうの?私の給料だけで、自分のことくらいどうにでもなるから」 そのとき、背後で玄関のドアの開く音がした。 続いて、沙羅の柔らかい声が聞こえてくる。 「颯真さん、霞さんとケンカしないでって言ったのに。また怒ってるの?」 沙羅の姿を見るなり、花奈は待ちきれないとばかりに駆け寄って、その足にしがみつき、甘えた声を出した。 「沙羅さん、やっと来てくれたね。花奈、おなかペコペコなの。一緒にご飯食べに連れてってくれる?」 沙羅はその頭を優しく撫でながら、柔らかい声で言った。 「もちろん花奈のこと連れてってあげたいけどね。でも……」 そう言ってから、私の方を何度か見上げて、困ったように続ける。 「でも、ママが怒っちゃうでしょ。外でご飯食べるの、あんまり好きじゃないみたいだし」 その一言で花奈は怒りを爆発させ、私の方へ駆け寄ると腕を思いきり叩いてきた。 「意地悪! 花奈のこと、邪魔しないで!」 花奈に突然叩かれた腕のあたりが、じんと痛んだ。 あまりのことに、思わず乾いた笑いが漏れた。 私が花奈に外でああいうものを食べさせないのは、あの子が小さい頃から体が弱くて、お腹も丈夫じゃないからだ。 フライドチキンやハンバーガーみたいな油っこいものを食べれば、すぐお腹を壊してしまう。 だから私はあの子の体のことを考えて、医者にもらった食事のメニューどおりに気をつけながら、ずっと世話をしてきたのだ。 なのに、その思いはあっさり踏みにじられた。 急にすべてがばかばかしく思えて、私は一言だけ吐き捨てた。 「好きにすれば」 そう言って背を向け、自分の部屋へ戻った。 ほどなくして、部屋の外から花奈のはしゃいだ声が響いてきた。 「やったー!パパが花奈と沙羅さんを、ご飯に連れてってくれるんだって!」 私は部屋の中でじっとしたまま、外の騒ぎに耳を澄ませるだけだった。 前は、颯真の気持ちが変わってしまったことに、何度も傷ついてきた。 七年も一緒にいて、恋人だった人が変わってしまうなんて、簡単に受け入れられるはずがない。 それでも少しずつ、私は一つのことを悟っていった。 誰かに出ていかれるのを怖がっていると、その弱さを見透かしたみたいに、相手はどんどんつけ上がっていく。 だから、誰かを必死に愛するより、自分を大事にした方がいい。 その日の午後、私はソファに座って、花奈が育てている観葉植物に水をやっていると、颯真が突然帰ってきた。 彼はひどく焦った様子で、私の姿を見るなり、行き場のない苛立ちをぶつける相手をやっと見つけたような顔になった。 「霞、お前、花奈のことをどう見てたんだよ。風邪ひいてたのに、なんで気づかなかったんだ?出かける前に、どうしてひと言も言わなかったんだ。あの子が倒れるまで放っておく気だったのか?いいから、早く一緒に病院行くぞ」 第4話 私はジョウロを持ち上げた手を、空中で固まらせた。 私は一瞬何が何だか分からなかった。花奈の誕生日パーティー以来、あの子はずっと私を避けていた。そんな子が熱を出すなんて、どうして気づけるだろう。 それでも、母親としての本能が働いて、気づけば私は颯真の後を追っていた。 病院へ向かう道すがら、ようやく事情が見えてきた。花奈は朝ごはんの最中、急に身体が熱くなって、そのまま倒れたのだという。 「違う、颯真。それ、多分アレルギーだわ」 颯真の断片的な説明の中に、引っかかる言葉があった。朝のスープにピーナッツが入っていたという。花奈はピーナッツアレルギーだ。 「そうなのか?」 颯真が驚いたように私を見る。その肩を押しのけて、私は病院の方へ全力で駆けだした。 アレルギーは、花奈に対して私がいちばん後ろめたく思っていることだ。体質は私に似てしまった。この病気は、悪化すれば命を奪う。 「霞、待ってて。靴が……!」 颯真はすぐに追いついてきて、息を切らしながら、私の片方の靴を手に持っていた。 でもそんなものを気にしている余裕はなかった。花奈の身体には発疹が浮かび、全身真っ赤になって、か細い声でママを呼んでいた。 「花奈」 私は両腕を伸ばして抱きしめようとした。その瞬間、ほかのことは何もかもどうでもよくなった。 誰か別の人をママだと言おうが、本気で私を嫌っていようが、今は考えたくない。ただ、自分の子どもを抱きしめたかった。 ぱしん、と乾いた音がした。 意識が朦朧としているはずの花奈は、それでも私だと分かったらしい。憎しみを込めた目でじっと私を見上げ、伸ばした手を思いきり叩き落とした。 「あなたなんていらない」 かすれきったその声が胸の真ん中に突き刺さって、息が止まりそうになった。 「花奈、いい加減にしろ。ママだろ」 颯真の顔色はひどく悪かった。さっき、私がどうやってここまで走ってきたかを見ているから、私がどれだけ必死だったか分かっているはずだ。 沙羅もまた、裸足の私と、空気に混じるかすかな血の匂いに気づいていた。 「霞さん、足ケガしてるじゃないですか。傷、ちゃんと見てもらってください。ここは私がついてますから」 この二年、花奈のそばに一番いたのは沙羅だ。あの子をきつく叱ることなんてできず、気まずそうに話題をそらすしかない。 私は足元に視線を落とした。ここへ来る途中、床に散らばっていたガラスの破片を踏んでしまっていたらしい。 さっきまでは心配ばかりで気づかなかったが、そう言われて初めて、足の裏に鋭い痛みが走った。 「処置してもらった方がいい」 颯真の中に、ようやく罪悪感が顔を出したのが分かった。私は沙羅の隣に腰を下ろし、無表情のまま足裏に刺さったガラスを抜いた。 「いいから。先に花奈を診てもらって」 子どもが生まれてから、胸がえぐられるってこういうことなんだと初めて思い知った。代われるものなら、あのベッドに横になっているのが私だったらよかったのに、とさえ思った。 「本当に大丈夫?」 沙羅の顔には心配の色が浮かび、颯真もどこか遠慮がちだった。 「平気。ほら、先生来たから」 私は痛みをこらえて真っ先に医師のところへ駆け寄った。花奈の体質やアレルギーのことを一番よく分かっているのは、他でもない私だ。 一時間ほどして、点滴につながれた花奈の熱はすっかり下がり、私の方が少しふらついてきた。 靴の中まで血が染みこんでいて、一歩歩くたびに足の裏に刃物を押し当てられているみたいに痛んだ。 私の様子に気づいた颯真は、一緒に医者に診てもらおうと、ついて来ようとした。 けれど花奈はそれを嫌がり、颯真と沙羅の手をぎゅっと握ったまま、やつれた顔いっぱいに二人への甘えをにじませていた。 「いいから」 私は弱った手つきで花奈の布団の端をそっと直した。あの子は私に触られるのを嫌がるから、直接手を伸ばすことができない。せめてそれくらいでしか、近づくことができない。 「うそつき」 花奈はぷいと顔をそむけてしまい、私は寂しさを紛らわせるように自分の袖口を指先でなぞり、そのまま外科の方へ歩き出した。 ここに来てから、傷を抱えたまま一時間は動き回っている。足の裏はすっかり血で染まっていた。 医者は、よくここまで我慢したものだと感心しながらも、自分の身体をもっと大事にしなさいと半ば呆れ顔で言った。 私は額の汗を拭いながら、苦笑いを浮かべた。 「たいした傷じゃないですよ」 花奈に突き放されたあの感触に比べれば、本当に取るに足りない小さな傷だ。 第5話 医者は首を横に振いただけで、それ以上は何も言わなかった。私は黙って傷の処置が終わるのを待った。 明け方、ふらふらになりながら花奈の病室に戻ったときには、もうベッドは空になっていた。 若い看護師が気遣うように私の肩を軽く叩いて、「奥さん、さっきの男性から伝言がありました。お子さんがなかなか落ち着かなくて、先に帰られました」と教えてくれた。 「分かりました」 私は泣くよりみっともない笑顔を浮かべた。まさか傷の処置をしている間に、全員いなくなっているなんて思いもしなかった。 夜の風が強く吹きつける中、私は家へ向かう道を歩きながら、自分でもうまく言葉にできない気持ちを抱えていた。 若い頃、颯真はとにかく私を甘やかしていた。苦労させまい、つらい思いをさせまいとして、私がどこへ行っても迎えに来てくれた。 今では、隣にいるのはもう別の女で、命がけで産んだはずの子どもにさえ、私はたいして気にかけてもらえない。 ここまで来てしまうと、人生って本当に侘しいものだと思う。 スマホの通知音が「お電話です。お電話です」と繰り返し告げている。 車を走らせている途中で颯真から電話がかかってきた。向こうはやけに賑やかで、私は思わずスマホを耳に押し当て、眉間にしわを寄せた。 「霞、俺、花奈を連れてちょっと夜食食べに来てる。お前のほうが片付いたらこっちに来いよ。場所送るから」 すぐにスマホがピコンと鳴り、颯真から位置情報が届いた。病院のすぐそばの店だった。 どう見ても、しばらく食べてから、ふと思い出したように連絡してきたのだろう。 「いいよ。そっちで食べてて」 私は平然としたふりで電話を切ったが、その瞬間ぽろぽろと涙が落ちてきて、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。 「大丈夫」なんて言葉にするのは簡単だ。でも、自分に何度そう言い聞かせたって、本当のところ大丈夫なわけがない。 あの子は私の子で、あの人は私の夫なのに。 それでも、もうどうしようもない。私は行くしかなかった。 朝日が窓ガラスに差し込む頃、私は自分のスーツケースをまとめて、離婚協議書を枕元にそっと置いた。 颯真は帰ってこなかった。昨日の明け方に一通だけメッセージが来ていて、寒いし行き来が面倒だから、三人でホテルに泊まることにした、と書いてあった。 余計なことを考えられたくなかったのか、部屋を取るときには、わざわざ別々に二部屋取ったと分かる画面を、私に見せてきた。 そのメッセージも、昨夜のうちに見ていたけれど、私は何も返さなかった。 今日は私がここを去る日だ。あの三人が戻ってこない方が、かえって都合がいい。別れをめぐってごちゃごちゃするのは性に合わないし、なにより、娘のあの嫌がる顔をこれ以上見たくなかった。 「行こう」 迎えの担当者にスーツケースを渡したその瞬間、颯真が戻ってきた。片手には紙袋、もう一方の腕では花奈をしっかり抱きしめ、上機嫌の笑みを浮かべていた。 「どこへ行くつもりだ」 私がスーツケースを出しているのを見て、颯真は不機嫌そうに顔を上げ、花奈を沙羅の腕の中へと預けた。 「お前たちは先に中に入ってろ。俺、霞と少し話してくるから。花奈を怖がらせたくない」 彼が父親としては悪くないことは、私も分かっていた。私は大きく息を吐いてから颯真に微笑みかけ、「荷物はもうまとめてあるから、先に行くね。花奈のこと、お願い」と告げた。 私のその言い方がまるで遺言みたいに聞こえたのだろう、颯真は鼻で笑った。「霞、お前また何の茶番だよ。花奈はまだ熱があるんだぞ。母親のくせに放っておくだけでもどうかと思うのに、今度は家出か?いい歳して、いつまで子どもみたいなこと言ってるんだよ」 奥の部屋にいる花奈を怯えさせまいとして、颯真はわざと声を落としていた。 それでも、彼の身体からは怒りが伝わってくる。颯真は本気で怒っていた。 「颯真、私はただ……あなたたちの望みどおりにしただけだよ」 できるだけ落ち着いた声でそう言ったつもりだったが、颯真の目には、それが後ろめたさにしか映らなかったらしい。 「霞、出て行くなら……もう後戻りするなよ」 颯真は一度も振り返らずにドアを乱暴に閉め、その音だけがいつまでも廊下に響き渡り、私の方を見ようとすらしなかった。

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