夕陽が落ち、暮色に沈む

プロモーションを読み込み中...

夕陽が落ち、暮色に沈む

GoodNovel 完結

白川静香(しらかわ しずか)はその名の通り、穏やかで上品、優しく愛らしい、雲原市で有名なお嬢様だった。 けれど、彼女の人生で最も破天荒な出来事――それは、父の友人と恋に落ちたことだった。 誰もが言った。静香は霍見颯真(かくけん そうま)にとって、何よりも大切にされる存在、宝物のような女性だと。 けれど、静香だけは知っていた。彼が自分に近づいたのは、同じ父を持つ異母妹のためだったということを――

チャプター (1)

第1章

白川静香(しらかわ しずか)はその名の通り、穏やかで上品、優しく愛らしい、雲原市で有名なお嬢様だった。 けれど、彼女の人生で最も破天荒な出来事――それは、父の友人と恋に落ちたことだった。 誰もが言った。静香は霍見颯真(かくけん そうま)にとって、何よりも大切にされる存在、宝物のような女性だと。 けれど、静香だけは知っていた。彼が自分に近づいたのは、同じ父を持つ異母妹のためだったということを―― 第1話 白川静香(しらかわ しずか)はその名の通り、穏やかで上品、優しく愛らしい、雲原市で有名なお嬢様だった。 けれど、彼女の人生で最も破天荒な出来事――それは、父の友人と恋に落ちたことだった。 霍見颯真(かくけん そうま)は父の親友で、彼女より十歳年上。 年齢だけでなく、何もかもが「大きかった」。 道端に停めてあった黒いファントムの車体は激しく揺れ、運転手は脇にしゃがみ込み、次々と吸い殻を地面に投げ捨てていた。 もう一本吸おうとしてポケットに手を入れたが、空っぽだった。すでに一箱吸い尽くしていた。 車内では、静香が颯真の膝の上に座り、両腕で彼の首にしがみついていた。頬はほんのり紅く染まり、目はとろんとしていた。 男の瞳がわずかに揺れ、彼女の眉尻と目元に優しくキスを落した。 「静香ちゃん……愛してる」 低く魅惑的な声が耳元に響き、どこか甘やかな魔力が宿っていた。 その言葉を聞いた瞬間、静香は一瞬呆然とした。 なぜ自分が、十歳も年上のこの男を愛してしまったのか、自分でも分からなかった。 おそらく、あまりにも長く「いい子」でい続けたのだろう。あまりにも長く、自分を縛りつけてきたのだ。一度でも快楽の味を知ってしまえば―― その甘美さに魅せられ、抜け出せなくなってしまった。 あるいは、母が亡くなって以来、誰にも愛されず、長い孤独の中にいたから。 颯真は、雲原市で絶対的な権力を握る男。冷酷非情、生まれつき感情に乏しく、他の女には一瞥すら与えないくせに、彼女にだけは惜しみなく愛情を注ぎ、まるでこの世で最も大切な宝物のように甘やかした。 彼女が「バラが好き」と言えば、毎日海外から一番新鮮な花を空輸してくれた。 「秋は乾燥していて嫌い」と言えば、隔日に人工降雨を手配してくれた。 生理痛でお腹が痛くなれば、彼は取締役会の重役たちを差し置いて、真っ先に彼女のもとへ駆けつけ、一晩中そばにいて優しく抱きしめ続けた。 誰もが言った。静香は颯真にとって、何よりも大切にされる存在、宝物のような女性だと。 けれど今日、颯真を訪ねた彼女は、思いもよらない真実を耳にすることになる―― 「霍見さん、明日白川威成(しらかわ いせい)が帰国するよ。彼の娘をさらっておいて、どう説明するつもり?」 颯真は長い指でグラスを持ち、ワインを一口含み、淡々と答えた。 「静香とは別れるつもりだ」 個室の入口に立っていた静香は、頭が真っ白になった。 室内は一瞬、驚きのざわめきに包まれた。 颯真の親友、黒瀬深也(くろせ しんや)が自信満々に言った。 「実はな、俺らの霍見さんが本当に好きなのは、白川家の次女なんだよ……」 それを聞いた静香は、まるで雷に打たれたかのように全身が震え、よろけて後ろへ少し下がった。 周囲の人々も、ようやくすべてを理解したかのように顔を見合わせた。 ある者が不思議そうに言った。 「霍見さんが気に入った女なら、強引に手に入れればいい話でしょう。まさか、妹を狙うのに、姉で練習していたんですか?」 颯真はグラスを置き、唇の端に冷ややかな笑みを浮かべた。 「明日、静乃が帰国する。俺は彼女よりずっと年上なんだから、彼女が受け入れてくれるか不安だった。だから静香と付き合って、接点を作ったのだ。それに……」 颯真はふと遠くを見るような目つきで続けた。 「静乃は二十歳になったばかり。純粋で経験がない。彼女を傷つけたくない。だから先に静香で『練習』しておこうと思って」 一言一句が鋭く静香の耳に突き刺さり、まるで細いナイフが体中を切り裂くようだった。 皆は、颯真が彼女を深く愛していると思っていた。 けれど誰も知らなかった。服を脱いだ後の颯真は、まるで飢えた狼のように激しく乱暴だった。 彼は彼女の肩や背中を容赦なく噛み、体に無数の痕を残した。 毎回、静香は意識を失うほど疲れさせられた。 だが事後になると、颯真はまた優しい仮面を被って現れる。一緒にお風呂に入り、マッサージをして、膝をついて謝る。 「静香、ごめん……君を愛しすぎて、どうしても我慢できないんだ……」 だが今になって分かった。颯真にとって彼女は、白川静乃(しらかわ しずの)に近づくための踏み台であり、ベッドでの実験台に過ぎなかったのだ。 個室の中ではまだ何か話が続いていたが、静香はそれ以上聞く勇気もなく、ふらつきながらその場を後にした。 夜。静かに雨が降り出した。 静香は傘も差さず、冷たい雨に身を任せた。やがて雨は本降りになり、彼女の全身はずぶ濡れに。冷たい風が肌に刺さるようだった。 スマホが何度も鳴った。颯真からの着信だった。 その後、メッセージが届いた。画面越しに、雨に滲んだメッセージが辛うじて読めた。 【静香ちゃん、雨が降ってるね。どこにいるの?傘は持ってる?】 【静香ちゃん、電話に出ないから、心配でたまらないんだ】 静香は唇を引きつらせながら笑った。絶望的で、狂気じみた笑みだった。 雨が喉に流れ込み、しょっぱくて苦い味がした。 彼女はスマホを排水口に放り込み、魂の抜けたような状態で、一晩中街をさまよい歩いた。 夜が明ける頃、気がつけば墓地にたどり着いた。 ようやく目を覚ましたかのように膝をつき、母の墓の前に座り込んだ。 墓石に刻まれた、自分によく似た顔を撫でながら、干からびたはずの涙が再び溢れ出した。 母が亡くなった翌日、彼女の父はすぐに継母を家に連れてきた。しかも、その女には自分より三歳年下の娘がいた。 静香は幼かったが、決して馬鹿ではなかった。母の病気は、あそこまで重くなかった。父の不倫に打ちひしがれて、生きる希望を失ってしまったのだと、子供ながらに悟っていた。 外祖父は彼女を引き取りたがったが、彼女は拒んだ。 彼女は心に誓った。いつか母のすべてを取り返してから、外祖父の元へ行こうと。 それから彼女は、ずっと「いい子」のふりをしてきた。 そしてついに、チャンスが来た。 五年前、静乃が留学することになり、父は娘を手放せず、国内の仕事を静香に任せ、自らは次女に付き添って海外へ渡った。 この五年間、静香は準備を重ねてきた。次の取締役会が終われば、会社は自分のものになる予定だった。 颯真のこと以外、すべてが順調に進んでいた。 だから、まだこの地に留まるべきか迷っていたが、今はもう、待つ理由すらなかった。 静香は涙を拭きながら母に語りかけた。 「お母さん、私、恋をしたよ。でも……まぁ、そんなもんだった。 心配しないで。母さんのすべてを取り返したら、私はおじいちゃんのところへ行く」 その後、彼女は墓地の管理事務所の公衆電話を使い、外祖父に電話をかけた。 「おじいちゃん、決めました。おじいちゃんの言う通りに、京州市に行って結婚するよ」 受話器の向こう、外祖父は驚いたようだった。 「本当にいいのか?……でも、君、彼氏のことが好きだっただろう?」 静香は鼻をすすり、声が詰まった。 「前は好きだった。でも、もう違う。心配しないで。二週間だけ、時間をください。きっちりケリをつけるから」 電話を切り、彼女は道路沿いを歩いて戻ろうとした。 すると突然、十数台の黒い高級車が彼女を取り囲んだ。 颯真が車を降りた。表情は恐ろしく険しく、目には殺気が宿っていた。 こんな颯真は、彼女も初めて見た。 男は無言で彼女を抱き寄せた。冷たい松のような香りが鼻をついた。 そして、しわがれた声で言った。 「静香ちゃん……どこ行ってたんだ。一晩中探してたんだぞ。心配で……たまらなかった……」 第2話 車内で、静香は颯真の上着を羽織りながら、窓の外を流れゆく景色を無言で眺めていた。 颯真は片膝をつき、彼女の足首の傷口に薬を塗った。動作は丁寧で、眼差しには愛情がこもっていた。 「静香ちゃん……もう二度と、こんなことしちゃダメだよ」 口調こそ咎めるようだったが、その声はどうしようもないほど優しかった。 彼女は、タクシーでお母さんに会いに来たけれど、うっかりスマホをなくしてしまったと話した。 「うん……」と答えた静香は、ふと颯真を見つめ、目に涙が浮かんだ。 その様子に、颯真は動揺し、長い腕を伸ばして彼女を抱きしめた。 普段は冷酷で決断力に満ちた男が、この時ばかりはうろたえ、まともに言葉も出せなかった。 「ごめん……言い方がきつかったかな。怒ってるわけじゃないんだ。ただ、すごく心配だったんだよ。 次にまたお母さんに会いに行きたいときは、ちゃんと俺に言ってね。付き添うから」 静香は彼の言葉を遮った。 「私は……怒ってない」 「分かってるよ」 颯真は彼女の肩を優しく抱きながら言った。 「君はお母さんが恋しかったんだね。大丈夫、俺がいるから。ずっと大切にするし、愛し続ける。いつか、君を霍見家の妻に迎えるよ」 それを聞いた静香は、強烈な皮肉を感じた。 本当に、彼の胸を切り開いて、その心がどんな形をしてるのか、見てやりたい気分だった。 昨日あんな酷い言葉を吐いた男が、翌日に「愛してる」「妻に迎える」なんてよくも言えたものだ。 颯真は話題を変えた。 「それとね、静香ちゃん……俺たちの関係、まだ君のお父さんには言わないでおこう。まだタイミングが分からなくて……」 彼女は分かってる。それは静乃を驚かせたくないということ。だがもし彼女と別れたら、彼は静乃に近づく口実を失う。 胸の奥に鋭い痛みが走り、それが手足の先まで広がっていった。静香の手のひらがじんわりと痺れた。 それでも彼女は、何も言わず、おとなしく頷いた。 夜、白川家の本邸。五人が食卓を囲んでいた。 威成は颯真に向かってグラスを掲げた。 「颯真、この数年、本当にありがとう。静香のこと、よく面倒を見てくれた」 颯真もグラスを持ち上げ、微笑んで返した。 「恐縮です、白川社長。当然のことをしたまでです」 静香はちらりと颯真の顔を見上げた。流れるような輪郭、整った顔立ち。それを見た彼女は、まるで心に蜂が刺さったような鋭い痛みが走った。 確かに、よく「面倒を見て」くれた。ベッドの中まで、しっかりと。 その考えが胸を締めつけ、虚しさが込み上げてきた。 隣に座る静乃が彼女の袖を引っ張った。「お姉ちゃん、海外にいたとき、ずっと会いたかったのに、なんで会いに来てくれなかったの?」 父が咳払いをした。 「君の姉さんは、君みたいに遊んでばかりじゃないよ。会社の経営で、毎日忙しいんだ」 静乃は不満げに口を尖らせた。 「パパはいつもお姉ちゃんばっかり!お姉ちゃんは会社を任せてもらえるのに、私はダメなんだもん!」 颯真は目を細め、笑みを含ませて言った。 「では、白川社長、静乃さんの願いを叶えてあげてはどうでしょう?」 その言葉に、静香は驚き、颯真を見た。 颯真は彼女の視線に気づき、茶化すように言った。 「静香さんは、まさか反対するの?」 本当は「反対したい」気持ちでいっぱいだった。 だが、今はまだ取締役会の前、父が最大株主である以上、波風を立てるわけにはいかない。 こうして、静乃が会社に入ることは、既成事実となった。 静香は皿の中の料理をつついていたが、まったく食欲がわかなかった。 「お姉ちゃん、これイタリアから空輸されたステーキよ!柔らかくて新鮮なの!」 そう言って静乃が彼女の皿に肉を取り分けたが、静香は「ありがとう」とだけ冷たく返した。 食後、静乃は静香の皿の上の残った牛肉を見て、気まずそうな顔をした。 その後、彼女はマンゴープリンを手に、静香の部屋へやって来た。 「お姉ちゃん、これ私が作ったの。食べてみて?」 目をキラキラさせ、期待に満ちた声だった。 静香は反射的に手で制止しようとし、引っ張り合いの末、プリンが床に落ちた。 「あっ、ごめん。わざとじゃないの。私、マンゴーにアレルギーがあるの」 静乃は泣き出した。まるで花が雨に濡れたように、悲しげに泣いた。 「お姉ちゃん、私とママのことを恨んでるのは知ってる……でも、私は本当に仲良くなりたいって思ってるの。お願い、そんなに冷たくしないでよ……」 静香は、なぜ彼女が急にそんなことを言うのか理解できなかったが、ドアのところに立っている颯真を見て、すべてが腑に落ちた。 颯真は怒りを抑えながら口を開いた。 「静香さん……君はいつも優しくて賢いのに、さっき料理を取ってもらったのに食べなかったよね?彼女、がっかりしてたじゃない?今だって、せっかく手作りのデザートを……わざと落としたなんて、ちょっと酷いんじゃないか?」 「……牛肉もマンゴーも、私がアレルギーだって、霍見さんは知ってたでしょ?」 颯真の声色が変わった。 「アレルギーっていっても、少し気分悪くなる程度だろ?死ぬわけじゃないし」 その一言に、静香はまるで心に深く刃を突き立てられたように、呆然と立ち尽くした。 彼女は颯真が追いかけてきたばかりの頃のことを思い出した。彼は彼女の好みや生活習慣をメモ帳に書き留め、いつも持ち歩いていた。彼女にアレルギーのある食べ物は決して口にさせなかった。 ある時、レストランで料理に牛肉が混入していて、彼女がじんましんを出したとき、颯真は激怒し、テーブルをひっくり返して店の全員を土下座させたほどだったのに。 それなのに今は、「死ぬわけじゃない」だと言うなんて…… 彼女の顔から血の気が引いていくのを見て、颯真はようやく自分の失言に気づいた。 「いや、そういう意味じゃない……君に傷ついてほしくなかったんだ。彼女は君と仲良くしたがってる。なのに君はあまりにも冷たい……」 笑ってしまうほどだった。 空港で出迎えて以来、彼の視線は静乃から一度たりとも外れたことがなかった。 怒りとも悲しみとも言えない感情が胸を塞ぎ、息が詰まりそうだった。 静香は深く息を吸い、静かに言った。 「……はい。霍見さんの言う通りにするよ」 その態度に颯真は驚いた。静香がこんなふうに彼に返事をしたのは、初めてだった。 だが、彼はそれ以上深く考えようとはしなかった。 第3話 夜、静香がカーテンを閉めようとしたとき、ふと下の庭に二つの影が見えた。 その手がぴたりと止まった。 それは他ではなく、颯真と静乃だった。 二人は笑い合いながら話しており、突然、静乃が頭を傾けたかと思うと、二人はそのまま、抱き合っていた。 静香はすぐにスマホを取り出し、その場面を写真に収めた。 そして颯真にその写真を送りつけ、こう書き添えた。 【霍見さん、ご自重ください。ここは白川家だよ】 実は二人がいた場所は邸宅の北側で、家中で北向きの部屋は彼女の部屋だけ。執事も使用人も全員南向きの部屋に住んでいるため、見えるのは静香だけだった。 下にいた颯真は、スマホを確認したあと、すぐに彼女の部屋の方向を見上げてきた。 視線が交わり、颯真の目には、ばつの悪さと怒りが浮かんでいた。 静香はすぐにカーテンを閉めた。 その後、スマホを開き、颯真に関するすべての記録――写真、トーク履歴、メモ帳までも、全部跡形もなく削除した。 そして部屋の中にある、颯真が贈ってくれたものをすべて焼いた。 火に包まれる二人の写真を見つめながら、心がふっと軽くなるのを感じた。彼女は、安堵の笑みを浮かべた。 深夜。静香は突然目を覚まされた。 逞しい男の身体が彼女の上に覆いかぶさり、片手は手首を掴み、もう片方の手で口を塞いでいる。 彼女は目を見開き、激しく抵抗した。 すぐ目の前に颯真の顔――彼は耳元に唇を寄せ、優しく囁いた。 「静香ちゃん、いい子にして。叫ばなければ、すぐに手を離すよ」 静香が抵抗をやめ、少し落ち着いたと見て、颯真は手を離した。 静香は怒りを込めて睨みつけた。 「頭おかしいの!?ここ私の家なのよ、お父さんはすぐ上の階にいるの!」 颯真は指先を彼女の頬に這わせ、首筋、鎖骨へと下ろしていった。 そして話を逸らすように聞いた。 「静香ちゃん、嫉妬してるの?」 静香は顔をそらした。 「してない」 颯真は笑いながら、彼女の顔をそっと手で戻した。 「枕の下にあった俺たちの写真、全部なくなったけど?それで嫉妬してないなんて、嘘でしょ? 妹さんに謝りに行っただけだよ。すべては君のためさ。職場で気まずくならないようにと思ったからね」 仕事の話になると、静香は思わず問い詰めた。 「なんで勝手に彼女を会社に入れたの?」 颯真の目にまだ笑みは残っていたが、その笑みは氷のように冷たかった。 次に発した言葉には、怒気が混じっていた。 「静香、いい加減にしろ。『ご自重ください』って?じゃあ、今夜はその『自重』ってやつ、しっかり見せてやる」 そう言い終えると、彼は激しく彼女の唇を奪った。狂おしく、貪るように、まるで彼女を食い尽くすような口づけだった。 静香は叫ぶこともできず、拳で彼の背中を叩き、足で蹴って抵抗した。 けれど、どれも意味を成さなかった。 心が引き裂かれるような屈辱だった。彼女は、まるで屠殺場に連れてこられた子羊のようだった。 そして、耐えきれずに涙が流れた。 呼吸ができなくなる寸前で、颯真はようやくその罰の意味を込めたキスを終わらせた。 その目が、濡れた彼女の瞳を見て、一瞬、悲しみに染まった。 「……ごめん、静香ちゃん、さっきは……俺、ちょっと我を忘れてた」 彼は慌てて彼女の涙を拭い、額にキスを落とした。 静香は力なく彼を押しのけ、かすれた声で言った。 「出て行って」 だが颯真は、逆に彼女を強く抱きしめてきた。 「嫌だ。君が望まないことはもうしないよ。ただ、こうして抱いているだけでいい。明日の朝一番で客室に戻るから」 その口調は一見優しいが、拒否を許さぬ圧があった。 そして彼はそっと補足した。 「大丈夫、誰にもバレないよ」 静香は、彼の性格を知っていた。これ以上拒めば、面倒なことになる。 彼女は黙り込んだ。 颯真は急に顔を上げ、辺りの匂いを嗅いだ。 「何の匂い?……もしかして、部屋で何か燃やした?」 「いらないものを、たくさん燃やしただけよ」 彼女は淡々と答えた。まるで何も感じていないように。 颯真は彼女の首に顔を埋め、熱い吐息を耳元に吹きかけながら言った。 「燃やしたならまた買えばいいさ、君に必要なものは全部、俺がまた揃えてやる」 ほどなくして、彼の呼吸は穏やかになり、眠りに落ちた。 だが静香は、眠れなかった。 やがて、彼が寝言を呟いた。 「……静乃、愛してるよ……」 その瞬間、静香は激しい衝撃を受けたかのように、目を見開いた。 涙が次から次へと、止めどなく溢れてきた。 泣かないって決めたのに。 もう分かっていたことじゃない? 泣くなんて、バカみたい。 そう自分に言い聞かせて、手で涙を拭おうとした。 しかし不思議なことに、拭っても拭っても、涙は止まらなかった。 第4話 翌日、威成は急用で海外へ発ち、二人の娘を颯真に託した。 出発前、静香は十日後の取締役会を忘れないよう彼に念を押した。 静乃は親しい友人が企画したヨットパーティーに参加し、静香にも一緒に行こうと誘った。 静香は断ろうとしたが、颯真が先に口を開いた。 「みんなで一緒に行こう」 そして彼は静香の耳元で囁いた。 「静香ちゃん、昨晩話しただろ?妹の顔を立ててやって。実の姉が来なかったら、彼女が笑われてしまうさ」 静香は冷笑した。 そう、静乃は笑われるかもしれない。 だが、自分はこれまでどれだけ笑われてきたことか、彼は知らなかった。 子供の頃、静乃は姉にいじめられたと告げ口し、父は事情も聞かずに静香を真っ暗な小部屋に閉じ込めた。 冷たく湿ったその部屋で、静香は隅っこで丸くなって三日三晩、食べもせず、飲みもせずに耐えた。 白川家では誰一人として彼女をまともに扱ってくれず、好き勝手に嘲笑い、皮肉を言い、誰もが彼女を踏みにじっていた。 挙げ句の果てには、使用人の息子に性的暴行をされたにもかかわらず、それさえも静乃によって「姉がわざと彼を誘惑した」と言いくるめられた。 父は静香の話を聞かず「恥さらしだ」と言い放ち、馬鞭で彼女を打った。弾力のある鞭は容赦なく背中を叩き、静香は地面を転げ回った。青あざと腫れがひどく、丸一ヶ月うつ伏せでしか眠れなかった。 それでも静香は反抗せず、常に「いい子」としてふるまってきた。 雲原市の誰もが知っていた。――静香は白川家の忠犬でしかない、と。 颯真が現れるまでは。 彼が静香の側にいることで、初めて人々は態度を改めた。 けれど今、かつて「一生愛して守る」と誓った男が、彼女に幼少期の地獄をもたらした張本人に頭を下げろと迫っている。 表には出さなかったが、渋々パーティーに参加した。 人々は静乃を中心に集まり、賛辞を送っていた。 その時、遠くで「ドンッ」と音がして、色よりどりの花火が夜空に打ち上がり、人々は歓声をあげた。 続いて、上空にはドローンの編隊が現れ、数分間旋回した後、ある形を描き出した。 「見て!ドローンで『白川静乃さん、おかえり』って書いてあるわ!」 女友達たちは静乃に羨望のまなざしを投げかけた。 「彼氏?すごいね!」 「ロマンチックだわ、私もそんな彼氏欲しいな!」 静乃は人々に囲まれ、幸せそうに笑っていた。 風が吹き、静香は薄いドレス一枚。身震いするほど寒かった。 以前なら、颯真はすぐにジャケットを脱いで肩にかけてくれたはずだ。 だが今、この男の視線は終始、静乃に――彼の大切な人に注がれていた。 まつげに影が落ち、表情は読めなかったが、上がった唇の端は、喜びを隠しきれていなかった。 その時、ドローンの一機がコントロールを失い、静乃へと突進してきた。 周囲は騒然となった。誰もが固まった。 咄嗟に、颯真は腕を伸ばして誰かを押した。 前に立っていた静香が突き飛ばされ、静乃は横に弾かれた。 「きゃあっ!」 ドローンは静香の腕をかすめ、長く深い傷を残した。鮮血が滴り落ちた。 彼女は痛みで顔が白くなり、唇を震わせていた。 「大丈夫か?」 駆け寄ってきた颯真は、彼女の前を素通りし、まっすぐ静乃のもとへ向かった。 彼は動揺した様子で、声も震えていた。 「静乃さん、どこか怪我してないか?」 そして彼女を抱き上げ、そのまま歩きながら命じた。 「秘書、静香さんの世話を頼む」 腕の傷口から鋭い痛みが走った。彼女の心臓はまるで一部を生きたままえぐり取られたようだった。 背を向けて離れていく二人の姿をしばらく見つめた後、滴る血を見下ろした。 体の痛みより、心の痛みの方がはるかに強かった。 颯真たちを病院へ送るため、秘書はヨットの準備で手いっぱいで、静香には目もくれなかった。 静香は必死に立ち上がり、傷を押さえながら布を探して止血しようとした。 そのとき、十歳前後の子供たちが近づいてきた。 血を見るや否や、彼らの目に好奇の光が走った。 彼らは彼女を囲み、柵の近くまで引っ張っていった。 すると突然、傷口に強烈な痛みが走り、思わず涙が浮かんだ。 先頭にいた少年が、ドローンで切られた傷口を乱暴に引き裂いたのだ。 その様子はあまりに凄惨で、血は泉のように湧き出て、海へと滴り落ちていった。 少年は優しい声で、しかし悪魔のような言葉を口にした。 「きれいなお姉さん、もうちょっと我慢してね。僕たち、サメって見たことないんだ。血を流せば来るって聞いたから、協力してくれない?」 静香は必死に助けを求めて叫んだ。 だが、誰もが静乃のまわりに集まっていて、彼女の声に耳を傾ける者はいなかった。 その叫び声は次第に弱くなりやがて、風の轟音にかき消されていった。 第5話 静香は目を開けた。腕には熱湯をかけられたかのような鋭い痛みが走っていた。 喉はカラカラに乾いていて、彼女はベッド脇の水を取ろうと手を伸ばした。だが、傷口が引っ張られて、「っ……」と声を漏らしてしまった。 「動かないで」 颯真がドアを開けて入ってきた。手に水を持ち、彼女の口元に差し出した。 「口を開けて。飲ませてあげるよ」 静香は自分で飲もうとしたが、今は意地を張っている場合じゃない。 颯真は彼女の傷口から滲み出た血を見て、眉をひそめた。心配そうな目をしていた。 「静香ちゃん、ごめん……お父さんから静乃を任されてる以上、放っておけないんだ」 静香は自分の手を握るその手をじっと見つめた。かつては誰よりも頼りにしていた、あの厚くて温かい手。 なのに今は、その手から、一片の温もりさえ感じ取ることができなかった。 彼女はそっと、少しずつ彼の手のひらから自分の手を引き抜き、静かに、ぽつりと一言を吐き出した。 「責めてないわ」 責めるどころか、もうあなた自体いらないと思ってるんだから、今さら何を責めるというの? 「安心して。あの子たちにはきっちり償わせるから」 颯真の言う「あの子たち」とは、例の子供たちのことだ。 おそらく翌日の雲原市のトップニュースに「正体不明の児童失踪事件、いずれも十歳前後の少年」という見出しになるだろう。 颯真のやり方はいつも残酷で、容赦がない。彼女はよく知っている。 以前なら、静香はきっと「やりすぎはよくない」と止めていただろう。 でも、今となっては、どうでもいいんだ。 彼がまだ何か言おうとした時、看護師が慌てた様子で入ってきた。 「霍見さん、白川さんの足がまた痛み始めました!」 颯真は一瞬、静香の様子をうかがった。 「行ってあげて」 静香は穏やかに微笑んだ。 「私は大丈夫、自分のことくらい自分でできるから」 「静香ちゃん、いい子だね。すぐ戻るからね、ほんの少しだけ」 静香は胸が締めつけられるような思いを抱きながら、小さな声で「うん」と答えた。 彼の「すぐ」は、一週間だった。 その七日間、颯真は一度も静香の病室に現れなかった。 最も辛かった夜、看護師たちが小声で話している噂話が耳に入ってきた。 「聞いた? 6階は全部霍見社長が借り切ったんだって。ただの捻挫なのに、外科の先生たち、みんな6階に集められて昼夜交代で待機してるんだって」 「ホント?霍見社長って、まさか白川さんのことを……」 それ以上は聞きたくなかった。心が、鋭く裂かれるようだった。 だからか、彼女の側にはまともな医師は一人もいなかった。 出入りするのは見習い看護師ばかり。針はうまく刺さらず、点滴の針跡で手はあざだらけになった。 彼女は思い出した。一年前、急性虫垂炎で入院した時のこと。颯真は、三日三晩飲まず食わずで、ずっと彼女のそばにいて、彼女が苦しむたびに、自分も辛そうに眉をひそめた。 術後に目を覚ました彼女の前には、目の下にクマができ、無精髭が伸びた彼がいた。 彼は震える声で言った。 「静香ちゃん、俺……俺が代われるものなら、代わってあげたかった」 でも、それからたった一年。あの時「命より愛してる」と言ってくれた男は、今や顔すら見せない。 退院の日、静香は遠くから見た。颯真は静乃と肩を並べて、笑いながら歩いていた。 彼は突然、指先で静乃の鼻をつついた。 静香の足が止まる。手からバッグが滑り落ちた。胸の奥が、ギュッと締め付けられた。 あれは、彼が「静香だけにする」と言っていたしぐさだった。 車は彼女の目の前を勢いよく走り去った。残されたのは、轟音と排気ガスの臭いだけ。 炎天下の中、彼女は長いこと一人でタクシーを待ち続けた。 帰宅後、颯真は何事もなかったように言った。 「どうして一人で帰ったの?連絡くれれば迎えに行ったのに」 静香は平然と答えた。 「大丈夫、自分で帰れたから」 颯真はどこか違和感を感じた。 目の前の彼女は、相変わらず優しくて従順なはずなのに……何かが違う。 第6話 怪我が治った後、颯真は二人を会社まで送っていった。 道中、静乃は嬉しそうに颯真の腕にしがみつき、窓の外を指差してはしゃいでいだ。 「颯真さん、見て見て!あそこ、私の高校だよ!」 「颯真さんってほんと優しいわ。もし私の彼氏になれたらいいのに」 颯真の顔には、隠しきれない喜びの色が広がっていた。 「静乃さん、冗談が上手だね。俺が歳を取ってるの、嫌じゃない?」 「なに言ってるの、全然老けてないよ。私はね、落ち着いた大人の男性が好きなの。颯真さんみたいに、仕事できて性格も安定してて、雲原市中の男女の憧れでしょ?」 そう言いながら、彼女はいたずらっぽく眉を上げて、茶化すように聞いた。 「ねえ、颯真さん、今まで彼女がいないって……もしかして、男の人が好きだったりして?」 颯真は堪えきれずに吹き出し、彼女の額を指で軽く弾いた。 「君ったら、余計なことは詮索するな!」 二人の軽口は車内に響き渡り、まるで他に誰も乗っていないかのようだった。 静香は静かにそれを見つめ、心の中には何の波も立たなかった。 彼女はそっとスマホを取り出し、2日後の京州行きの航空券を予約した。 ちょうどその時、颯真が彼女の方を見た。 彼からメッセージが届いた。 【静香ちゃん、何を買ったの?】 彼女は返信した。 【あなたへのプレゼント】 【楽しみだな】 彼はそう返信した。 会社に着くと、静乃は真っ先に静香のオフィスを占領した。 「お姉ちゃん、この部屋明るくてレイアウトも最高!私、気に入っちゃった!」 静香は無表情で、朝の車中の会話を思い出しながら、意味深に答えた。 「気に入ったなら、君に譲ってあげるよ」 午後、静香が会議中に、秘書が慌てて駆け込んできて、彼女の耳元で何かをささやいた。 彼女の表情が変わり、小走りで応接室に向かった。 息を整える暇もなく―― 「バシッ!」 静乃が営業部長の頬を思いきり平手打ちした。 「この裏切り者!白川家が食わせてやってるのに、恩をあだで返すつもり!?」 隣にいたクライアントは怒りで震えており、顔色が真っ青になっていた。 営業部長は静香が一から育て上げた人材。どんな人物か、彼女自身が一番よく知っている。 静香は額を押さえ、呆れ顔だった。 またか。静乃はどうして、ネットの「Z世代の職場改革」とか、そういうのばかり真似するのだろう。 クライアントは今にも帰ろうとしていた。 静香は必死で引き止め、最終的には利益を2パーセント譲歩して、ようやく取引継続にこぎつけた。 だが、静乃は憤慨していた。 「お姉ちゃん、なんで譲歩なんてするの!?そんな客、こっちから願い下げよ!」 静香は怒りを飲み込み、淡々と言った。 「彼らは白川グループ最大の取引先。正直、彼らを失ったら、私たちの会社は明日を迎えられない」 夕方、颯真が迎えに来た。 静香がドアを閉めた瞬間、後ろから「キャッ!」と声が上がった。 振り返ると、静乃が手をドアに挟まれたようで、指先が赤くなっていた。 颯真はすぐに彼女のもとに駆け寄り、その手を取って心配そうに見つめた。 静乃は唇を噛み、涙をこらえながら言った。 「お姉ちゃん……私が会社に入るのが嫌なら、そう言ってくれればいいのに……こんなやり方で私を排除しなくてもいいじゃない……」 颯真の瞳に怒りの色が浮かぶ。低く鋭い声で命じた。 「謝れ!」 静香は愕然とした。この男は、かつて誰よりも馬鹿を嫌っていたはずなのに、こんなわかりやすくて稚拙な芝居を、まさか信じるとは。 彼女の心は、氷のように冷えきっていた。だが、それでも彼女は頭を下げて謝った。 「ごめんね。わざとじゃなかったの……」 視線を颯真に移すと、彼は拳を握りしめており、手の甲の血管が浮き出ていた。 その後、颯真は静乃を病院へ連れて行った。 赤く腫れた彼女の指を見つめる颯真の瞳には、痛みと怒りが入り混じっていた。 第7話 その夜、静香は病院に向かおうと車に乗り込んだ瞬間、突然誰かに口と鼻を塞がれた。 視界が暗転し、そのまま意識を失った。 再び目を覚ました時、彼女はボロボロの廃倉庫の中にいた。 かつて味わった恐怖と絶望が、怒涛のように心を襲った。 だが彼女はすぐに冷静さを取り戻し、指にはめていた指輪を確かめた。よかった、まだある。 その指輪は颯真が贈ったもので、中には発信機と位置情報装置が仕込まれていた。ボタンを押せば、颯真にSOSの信号が送られ、彼が助けに来てくれるはず。 彼女はそのボタンを押そうと力を込めたが、ちょうどその時、聞き覚えのある声が耳に届いた。 誘拐犯がスピーカーをオンにし、電話の向こうから低く響く、よく知った男の声が流れてきた。 「拷問具を使え。静乃を傷つけた分、十倍にして償わせろ」 静香の心は、氷の海に沈んだように冷たくなった。 「力加減には気をつけろよ。彼女を壊しちゃダメだ、静乃が怖がるからな」 手から力が抜け、ボタンに置かれていた指もするりと滑り落ちた。 誘拐犯は彼女の髪を鷲掴みにし、十本の指を拷問具の丸い棒の間に押し込み、両側の縄を一気に引き締めた。 静香は叫び声を上げた。 この瞬間、彼女は本気で「死んでしまいたい」と願った。 だが、痛みは容赦なく神経の隅々まで広がっていった。骨が砕ける音が耳に届いた気がした。 顔面は青ざめ、唇には歯形が残り、汗で濡れた髪は額に貼り付き、全身は痛みで冷や汗に濡れていた。 視界がぐらつき、彼女はそのまま気を失った。 目を覚ました時、静香は痛みで意識を取り戻した。十本の指から走る激痛は、神経の奥底まで鋭く突き刺さるようだった。 その時、耳元で看護師たちの会話が聞こえてきた。 「あそこの患者さん、指にちょっとしたケガだけなのに、彼氏が一晩中付き添ってたんだって!」 「ほんと、彼女のことをすごく大事してるね」 「はぁ……」 最初に口を開いた若い看護師が溜息をついた。 「それに比べてこの患者さん……指が折れてるのに、誰も見舞いに来ないなんて……」 静香も人間だ。たとえもうあの男を捨てたと決めていても、身体は痛むし、心もまた、痛むのだ。 看護師たちが去った後、彼女はふらふらと起き上がった。病院で時間を無駄にしていられない。やるべきことが、まだたくさんある。 途中、静乃の病室の前を通りかかると、中から声が聞こえてきた。 「颯真さん、お姉ちゃんを責めないで……」 静乃の甘く柔らかい声が、耳にねっとり絡みついた。 颯真の怒声が返ってきた。 「こんな時まで、まだ彼女を庇うのか?」 「お姉ちゃん、颯真さんの彼女だから、私に敵意を持つのも無理ないよ。私が会社に入ったのも、あなたと一緒にいるのも、お姉ちゃんにとって辛いことでしょう……颯真さん、私はあなたたちの仲を壊したくないの」 颯真は驚いた様子だった。 静乃は無邪気な笑みを浮かべながら続けた。 「颯真さん、私が何も知らないと思ってるの?あんなにわかりやすいのに……パパとママみたいな鈍感な人たちには通じても、私には通じないよ?」 颯真は表情を変えず、沈黙を保っていた。 「でも安心して」 静乃は彼の肩をぽんと叩き、笑顔で言った。 「私、ちゃんと秘密は守るから。お姉ちゃんのこと、あまり責めないで。彼女、かわいそうな人なんだよ。お母さんを早くに亡くして、不安ばかり抱えて育ってきたの。 昔、うちの使用人の息子が私とばかり遊んでた時、お姉ちゃんはあの子が彼女に性的暴行を加えたって嘘をついて、あの子を追い出したの。 きっとあの時と同じで、今回も私を颯真さんのそばから追い出したいんだよ」 颯真は何かを考えるように、しばし沈黙した。やがて、彼は彼女の頭を撫で、優しい声で言った。 「本当に優しい子だな……うちの静乃は」 病室の外に立っていた静香は、口元に薄く笑みを浮かべていた。 そしてそのまま、何も言わずに背を向け、静かに立ち去った。 第8話 取締役会が始まる一分前、威成が会場に駆け込んできた。 しかし彼の予想に反し、新任会長の選出では、幹部たち全員が静香に票を投じた。 威成はその場で激昂し、テーブルをひっくり返して、静香の頬を激しく平手打ちした。 「お前のことを甘く見ていた。この何年も大人しくしていたのは、俺を裏切るための伏線だったんだな!」 静香の口元から血がにじみ、耳がジンジンと鳴った。 だが彼女は「ドンッ」と音を立てて膝をつき、必死に訴えた。 「お父さん、聞いてください!私、本当に、どうしてこうなったのかわからないんだ……」 威成は怒り心頭だった。 「よし、今夜書斎に来い。家訓でしっかりと懲らしめてやるぞ!」 その言葉に、静香の背筋は凍りついた。 「家訓」――それは彼女にとって、骨の髄まで染みついた恐怖だった。 彼の背中を見送りながら、静香の唇がゆっくりと笑みに変わった。白川威成、覚悟しておけ。 午後、静香は赤十字社を訪れ、手に入れたばかりの白川グループの全財産を、留守家庭の子供たち支援のために寄贈した。 生前、母は貧しい子どもたちの世話をしていた。今の彼女は、ただその意志を継いだだけだ。 すべてを終えた後、母の墓前に立った彼女の目に、突然涙があふれた。 「お母さん……やっとお母さんのために取り戻したよ。これで、本当にお別れだ」 その頃、取締役会の知らせを聞いた静乃は、怒りに任せて足を踏み鳴らしていた。 「パパ、あの女を会社に入れたのが間違いだったんだよ!あの女、ずっと猫をかぶってただけなんだって、私が何度も言ったじゃない!」 威成は彼女を睨みつけた。 「君があんなことをしなければ、俺が会社を彼女に渡すこともなかった!」 そのとき、テレビのニュースが流れた。 「重大ニュースです。本日午後、我が市の白川グループは、新任会長の手により赤十字社へ寄贈されました」 威成の手から握っていた馬鞭が震え落ち、一気に息が詰まった。 しばらくしてからようやく空中に向かって鞭を振り上げ、怒鳴った。 「バカな!あの女、ついに俺に牙を剥いたか!」 静乃はようやく事態の重大さに気づいた。 「パパ、あのクソ女、会社を寄贈するなんて、絶対この家に戻ってこないつもりだよ!」 慌てた威成はすぐさま電話をかけたが、静香のスマホはすでに電源が切られていた。 「早く探せ!」と使用人に命じた。 静乃は考えを巡らせ、すぐに颯真に電話をかけた。 「颯真さん……お姉ちゃんが会社を他人に譲ってしまったの!」 颯真は驚きを隠しきれなかった。あの温厚で従順な静香が、まさか自分の会社を寄贈するなんて…… 「でも、怒らないであげて……きっと何か事情があるはずさ」 彼女の泣き声を聞いた颯真の心は締めつけられた。 「泣かないで、俺にできることは?」 「……お姉ちゃん、どこかに隠れてるの。探しても見つからないの。お願い、颯真さん……」 「任せてくれ。たとえ雲原市の隅から隅まで探してでも、必ず彼女を見つけ出す!」 電話を切ると、颯真はすぐさまあの指輪のGPSを確認した。 その瞬間、瞳孔がぎゅっと縮まる――まさかの空港だった。 彼は秘書に電話した。 「人を連れて空港へ行け!静香を止めろ!今すぐ、急げ!」 だが彼が空港に到着した時、静香の姿はどこにもなかった。 ゴミ箱から取り出したあの指輪を握りしめ、彼の声は冷たく震えていた。 「静香……よくも俺を、騙したな」 一方、マイバッハの中に座っていた静香は、そっと首からネックレスを外した。 その小さなプレートには、細い文字が刻まれていた――「静香&颯真」 そは、颯真が一本一本丁寧に彫ってくれたものだった。彼はそのために半月も彫刻を学び、指先を血まみれにしながらも、歯を食いしばって完成させた。 喉がかすかに動き、車窓にかけていた手がそっと力を抜いた。ネックレスと航空券が、静かに路面に落ちた。 車窓の外の景色が流れていった。静香はゆっくりと目を閉じた。 かつてないほどの静けさと解放感が、心の中を満たしていった。 雲原市、さようなら。 霍見颯真、もう二度と会わない。

More GoodNovel Novels