再会しても、もう涙は流さない

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再会しても、もう涙は流さない

GoodNovel 完結

「詩織、茉優はもう賢人と婚約したんだ。これ以上邪魔をするのはやめなさい。 父さんはもう航空券は買ってある。数年は海外で過ごして、茉優の結婚式が終わってから帰ってきなさい」 両親の顔に浮かぶ、あの「あなたのためを思って」という表情を見て、水瀬詩織(みなせ しおり)はようやく、自分が過去に生まれ変わったのだと気づいた。 両親に海外行きを強要され、西園寺賢人(さいおんじ けんと)を完全に諦めることになった、あの日だ。

チャプター (1)

第1章

「詩織、茉優はもう賢人と婚約したんだ。これ以上邪魔をするのはやめなさい。 父さんはもう航空券は買ってある。数年は海外で過ごして、茉優の結婚式が終わってから帰ってきなさい」 両親の顔に浮かぶ、あの「あなたのためを思って」という表情を見て、水瀬詩織(みなせ しおり)はようやく、自分が過去に生まれ変わったのだと気づいた。 両親に海外行きを強要され、西園寺賢人(さいおんじ けんと)を完全に諦めることになった、あの日だ。 第1話 「詩織、茉優はもう賢人と婚約したんだ。これ以上邪魔をするのはやめなさい。 父さんはもう航空券は買ってある。数年は海外で過ごして、茉優の結婚式が終わってから帰ってきなさい」 両親の顔に浮かぶ、あの「あなたのためを思って」という表情を見て、水瀬詩織(みなせ しおり)はようやく、自分が過去に生まれ変わったのだと気づいた。 両親に海外行きを強要され、西園寺賢人(さいおんじ けんと)を完全に諦めることになった、あの日だ。 …… 前の人生でも、詩織はこうして両親に説得され、一度はここを去った。 けれど諦めきれず、何度も賢人に「あなたが好きなのは私のはずだ」と訴え、両親に「真実を話してほしい、姉さんに私の身代わりをさせないで」と懇願し続けた。 しかし、その結果手に入れたのは、賢人からのさらに深い嫌悪だけだった。 交通事故に遭い、死に瀕していた彼女に対し、電話越しの彼は看護師に冷酷にこう言い放ったのだ。 「また何の芝居だ?彼女に伝えてくれ、俺と茉優の結婚式を邪魔するな」と。 そして詩織は手術台の上で息絶えた。 薄れゆく意識の中、病室のテレビには、世界中継される盛大な結婚式が映し出されていた。 西園寺賢人が優しく水瀬茉優(みなせ まゆ)に指輪を嵌め、二人が万雷の祝福を受ける姿を、ただ見つめながら…… 神様がもう一度人生をやり直す機会をくれたのなら、この人生では、もう二度とあんな惨めな真似はしない。 …… 「分かった。行くわ」彼女は航空券を手に取り、驚くほど平坦な声で答えた。 あまりにあっさりと承諾したため、水瀬隆史(みなせ たかし)と水瀬涼子(みなせ りょうここ)は驚きを隠せなかった。 「詩織、本当に行くんだな?また何か企んで、茉優の邪魔をするつもりじゃないだろうな!?」 邪魔?笑わせないでほしい。賢人はもともと、詩織のものだったのだ。 それを両親が無理やり奪い取り、姉に与えただけではないか。 二十数年前、姉の茉優に白血病が見つかった時、両親は迷わず「もう一人子供を作る」ことを選んだ。そうして生まれたのが詩織だ。 彼女の臍帯血が姉の命を救ったが、それ以来、彼女はずっと姉の影として生きることになった。 茉優は体が弱かったため、両親の愛情はすべて彼女に注がれた。 小さい頃から、詩織は何でも譲ってきた。部屋も、友達も、コンクールの決勝枠も…… ただ一つ、どうしても譲りたくなかったのが、一目惚れした少年――西園寺家の御曹司、西園寺賢人だった。 かつて雲の上の存在だった彼は、誕生パーティーの後に交通事故に遭い、両目の視力を失った。そして家族に見捨てられ、郊外の別荘に追いやられた。 詩織は家族に内緒で鍵を盗み出し、毎日放課後になると塀を乗り越えて彼のもとへ通った。 「毎日来るよ」 暗闇の中、少女の清らかな声は、賢人にとって唯一の救いとなった。彼女は決して本名を名乗らず、彼の手のひらに一画ずつ指で書いた。 【ナナって呼んで】 彼は手探りで彼女の髪を梳き、彼女のためにピアノを弾き、雷雨の夜には彼女の冷たい手を自分の胸に当てて温めてくれた。 手術の前夜、少年は彼女の指先にキスをして誓った。 「目が治ったら、一番に君を見たい。そうしたら、付き合おう」 手術は十二時間にも及んだ。 けれど、賢人が目覚めて最初に見たのは、茉優だった。 茉優も賢人を好きだと知った隆史と涼子が、こっそり詩織の水に睡眠薬を混ぜ、丸一日眠らせたからだ。 そして、「長年彼に寄り添っていたのは茉優だ」と嘘の証言をし、茉優を詩織の身代わりに仕立て上げたのだ。 賢人は疑うこともなく、茉優と恋に落ち、婚約し、深く愛し合うようになった。 この三年間、詩織は数え切れないほど彼に説明した。「そばにいたのは私だ」「あなたが愛すべきなのは私だ」と。 けれど、彼は決して信じなかった。彼女が死ぬ、その瞬間まで。 …… 詩織は目の前の実の両親を見て、滑稽でたまらなかった。 「散々出て行けと言っておきながら、いざ承諾したら信じないのか?自分たちが矛盾してると思わないの?」 「そういう意味じゃないわ。行ってくれるならそれが一番だ。 出発は半月後、ヨーロッパ行きだ。それまでに荷物をまとめて、身辺整理をしておきなさい」 隆史と涼子は彼女の気が変わるのを恐れ、念を押すように言いつけると、喜色満面で去っていった。 彼女も背を向け、部屋に戻った。 ドアを閉めた直後、スマホが震えた。 賢人からのメッセージだ。 【今夜8時、ホテル・グランヴィア、1808号室に来て】 詩織はその画面を見つめ、指先をわずかに強張らせた。 前の人生でこのメッセージを受け取った時、彼女は狂喜乱舞した。やっと話を聞いてくれるのだと思ったのだ。 けれど行ってみて分かったのは、彼がわざと自分と茉優の情事を見せつけ、彼女を絶望させようとしたということだけだった。 あの時、彼女は泣き崩れた。しかし彼は冷ややかに言ったのだ。 「よく見えたか?俺が好きなのは茉優だけだ」 今思うと、本当に馬鹿げていた。 彼女は深く息を吸い、返信した。 【分った】 …… 夜8時、彼女は時間通りにホテルへ到着した。 1808号室のドアは開いていた。 中では賢人が茉優を抱き、二人は裸で絡み合っていた。 周囲には使用済みの避妊具が散らばり、部屋中には情事の熱気が充満している。 外に立つ詩織に気づき、茉優は短く悲鳴を上げた。 賢人は頭を下げ、茉優の鎖骨に細かくキスを落としながら、低く優しい声で言った。 「怖がることはない。わざと呼んだんだ。俺が愛しているのは君だと分からせるためにね。 そうすれば、彼女も俺に対して分不相応な想いを抱かなくなるだろう。ただの『義兄さん』だと認識するはずだ」 人生をやり直し、二度目にこの光景を見ても、心はやはり鋭利な刃物で刺されたように痛み、血が滴るようだった。 でも、慣れなければならない。 これからの彼、西園寺賢人は、ただの「義兄さん」なのだから。 どれくらい時間が経っただろうか。爪が食い込むほど握りしめていた手を解くと、服を着た賢人が彼女の前に歩いてきた。 「よく見えたか?俺が好きなのは茉優だけだ。 自分の立場をわきまえろ。俺は君の『義兄』だ。二度とあんな恥知らずな真似はするな」 詩織の顔からは、すでに何の表情も消えていた。 「よく見えたし、よく分かったわ」 賢人は一瞬呆気にとられた。彼女がこれほど落ち着いているとは予想していなかったようだ。 少しして、彼はベッドサイドから招待状を取り出し、彼女に渡した。 「来月、俺と茉優の結婚式がある。出席してほしい」 詩織は招待状を受け取った。 「時間通りに参加するわ。末永くお幸せに」 賢人は彼女の顔をじっと見つめ、眉をひそめた。 なぜか今日の詩織は、気味が悪いほど素直だ。 だが彼はそれ以上何も聞かず、茉優の手を引いてホテルを出て行った。詩織も重い足取りでその後に続いた。 うつむき、呆然と歩いていたその時、横から悲鳴が聞こえた。 次の瞬間、頭上の巨大な電飾看板が真っ直ぐに落下してきた。 賢人は本能的に茉優を抱きかかえて後ろへ飛び退き、完璧に難を逃れた。 その場に取り残されたのは、詩織だけだった。 彼女は看板の下敷きになり、全身血まみれで地面に崩れ落ちた。 潮のように押し寄せる激痛が神経を引き裂き、血の海の中で彼女の体は震え続けた。 大粒の涙が溢れ出し、視界を滲ませる。 彼女は、茉優を守る彼の姿を見つめ、静かに瞳を閉じた。 私だけを想ってくれたあの少年は、もう二度と戻ってこない。 これでやっと、完全に手放すことができる。 第2話 再び目を開けると、詩織は病院にいた。 看護師が包帯を交換しているところだった。彼女が目を覚ましたのに気づき、ほっとしたように息を吐く。 「二日間も昏睡状態だったんですよ。やっと目が覚めましたね。気分はどうですか? お姉さんがショックで倒れてしまって、ご両親も義理のお兄さんも、隣の病室でつきっきりなんです。呼んできましょうか?」 それを聞いて、詩織の睫毛がわずかに震えた。彼女は静かに首を横に振った。 「いいえ。あの人たちは私になんて会いたくないだろうし、私も会いたくないから」 看護師の目に同情の色が浮かんだ。彼女は背を向け、病室を出て行った。 「ああ、実の姉妹なのに……妹は大出血でICUにまで入ったっていうのに、家族は容体を聞こうともしない。ショックを受けただけのお姉さんにかかりきりで、この二日間一度も顔を出さないなんて」 「義理のお兄さんは西園寺グループの社長だっけ?お姉さんは玉の輿に乗るわけだし、妹が蔑ろにされるのもある意味普通なのかもね。 それにしても、あのお兄さんの献身ぶりは凄いわ。ずっとお姉さんに付き添って、薬もお粥も自分で食べさせてあげて、引退した心理カウンセラーまで呼んで心のケアをさせてるし、プレゼントも山のように病室に運び込まれてるわよ……」 二人の看護師の小声の会話は、はっきりと詩織の耳に届いていた。 けれど、彼女は最初から最後まで無表情のままだった。こんな状況には、とっくに慣れっこだったからだ。 …… 午後、ちょうど医師から再検査に呼ばれた。付き添ってくれる人は誰もおらず、彼女は虚弱な体に鞭打って、一人でベッドを降りた。 隣の病室の前を通りかかった時、詩織は両親と賢人が茉優を囲み、甲斐甲斐しく世話を焼いている姿を目にした。 隆史が布団を掛け直し、涼子が皮をむいたブドウを口に運んでやっている。 茉優は甘ったるい笑顔を浮かべ、猫なで声で言った。 「お父さん、お母さん、ここ数日ずっと私の世話ばかりで、詩織のところに行ってないじゃない。 ちょうど私もお腹いっぱいになったから、この残った魚のスープ、詩織に持って行ってあげて、あんなに大怪我したんだから、栄養つけなきゃ」 「ああ、あいつのことは気にするな。あいつはどこだって生きていける。 このスープは母さんが一晩かけて煮込んだんだぞ。あいつにやるなんてもったいない」 隆史は即座に拒否し、涼子も同意するように頷いた。 賢人は茉優の前髪を優しく整え、瞳から慈愛が溢れ出しそうなほどだった。 「茉優、医者も言っただろう。君が倒れたのは心配のしすぎだって。 詩織は冷酷で薄情な人間だ。姉妹の情なんて考えちゃいない。義兄である俺のことまで狙うような奴だぞ。気にかける必要なんてない」 彼からの氷のような評価を聞いて、詩織は自嘲気味に、悲しげに笑った。 彼女は生まれつき重度の海鮮アレルギーで、水産物は一切食べられない。けれど茉優は魚やカニが大好物で、食卓には毎食のように海鮮が並んだ。 詩織はどれも食べられず、青菜と白米だけを食べては、両親に「偏食だ」と叱責されたものだ。 茉優は人前では妹思いを演じているが、二人きりになれば冷ややかな皮肉を浴びせ、時には暴力を振るってきた。 そしてあろうことか、殴った後に泣きながら「妹にいじめられた」と告げ口し、黒を白と言いくるめるのだ。 隆史と涼子は事情を聞こうともせず、詩織を雨の中で一晩中ひざまずかせた。 それ以来、彼女はこの姉を避けるようになり、茉優が欲しがるものは何でも譲ってきた。 前の人生で、賢人だけは唯一、譲りたくなくて争った。けれど、その結果があの末路だ。 この人生では、ただ自分の人生を生きたい。争わず、奪い合わず、そして愛さず。 …… 詩織は一人で検査を終え、処方箋を持って薬を受け取りに向かった。 薬局は裏の棟にあり、中庭の花園を抜ける必要がある。 噴水池のそばを通りかかった時、誰かに立ちふさがれた。顔を上げると、そこには茉優がいた。 「あら、もうベッドから出られるの?大した怪我じゃなかったみたいね。 言っておくけど、お父さんもお母さんも私の味方よ。あんたが今さら賢人に『あの時そばにいたのは私だ』とか『本当に好きなのは私だ』なんて言っても無駄だから。 無駄な努力はやめなさいね!」 彼女の挑発に対し、詩織の反応は淡々としていた。 「安心して。これからはもう、賢人のことなんて好きにならないから。 あなたが欲しいものは全部譲るわ」 茉優は彼女の従順な態度に見慣れている様子で、さらに得意げな目をした。 「譲る?私があんたに譲ってもらう必要があるとでも? 私は昔から欲しいものは何でも手に入るの。あんたは私が要らなくなったゴミを拾うのがお似合いよ! 一生、私には勝てないんだから!」 第3話 詩織は茉優の挑発に取り合わず、体をかわして立ち去ろうとした。 逃げる気だと見て取った茉優は眉をひそめ、さらに罵声を浴びせようとしたが、回廊に馴染みのある姿が現れたのを見て、考えを変えた。 彼女は詩織の手を掴み、そのまま一緒に噴水池へと飛び込んだ。 二人とも泳げず、水の中で必死にもがきながら助けを求めた。 詩織の傷口が開き、鮮血が池を赤く染める。 冷たい水が鼻に逆流し、激しく咳き込んだ。 痛みに抗う力もなく、体は沈んでいく。 窒息しそうになった時、賢人が駆け寄って飛び込んでくるのが見えた。 彼は彼女の横を通り過ぎ、一瞥もせず、手を差し伸べることもなく、茉優だけを抱えて岸に上がった。 茉優は目を赤くして彼の胸に飛び込み、まだ水の中にいる詩織を見て、わざと焦ったふりをした。 「詩織はうっかり私を突き落としちゃっただけなの。賢人、私には妹一人しかいないって知ってるでしょ?お願い、あの子を助けてあげて」 彼女の言葉を聞き、池の中の詩織を見て、賢人の表情は霜のように冷え切った。 「茉優、もうあいつを庇うな。あいつは君を殺そうとしたんだ。その上、自分も飛び込んで苦肉の策を使うとはな。 その性根が治らないなら、水の中で頭を冷やさせておけばいい!」 一言一句が詩織の耳に届き、心を深く突き刺した。 顔は酸欠で紫色になり、耳鳴りがし、全身の力が尽きた。 意識が遠のき、視界がぼやけていく。 賢人が茉優を抱きかかえて去っていくのをただ見つめながら、彼女は意識を失った…… …… どれくらい経っただろうか。詩織は寒風に晒され、凍えるような寒さで目を覚ました。 震えながら目を開けると、目の前に隆史と涼子が鬼のような形相で立っていた。 「気でも狂ったか?よくも茉優を水に突き落とせたものだ!姉を殺して後釜に座り、賢人と一緒になろうとでも思ったのか?」 「言っておくが、私達が生きている限り、絶対にそんなことはさせないわ! あんたは爪の先ほども姉さんに及ばないんだ。賢人とは釣り合わない。現実を見ろ、身の程知らずな妄想はやめなさい!」 彼らの怒号を聞いて、詩織は全身が冷え切り、瞳が徐々に絶望に染まっていった。 長年押し殺してきた苦しみが、ついに爆発した。 「私が釣り合わないなら、あの子は釣り合うの? あんたたちが偽証して騙さなければ、賢人があの子に見向きするわけないじゃない!私のものを奪ってあの子に与えて、恥ずかしいと思わないの?」 口答えする詩織を見て、涼子は顔を真っ赤にし、隆史は手を振り上げて彼女の頬を張った。 「この親不孝者が!俺たちは実の親だぞ。お前の命も持っているものも全て俺たちが与えたんだ。取り上げるのも姉にやるのも俺たちの勝手だ。文句を言う権利があると思っているのか! これ以上、真実を口にしてみろ。ただじゃおかないぞ……」 言葉が終わらぬうちに、病室のドアが乱暴に開かれた。 賢人が眉をひそめて入ってきた。 「真実?何の真実だ?」 彼が突然入ってきたのを見て、隆史と涼子は飛び上がり、しどろもどろになった。 「い、いや、この親不孝者に説教をしていたんだ。なぜ茉優を突き落としたのか、その『真相』を吐かせようとしてな」 「そ、そうよ。死んでも認めないから、お父さんも私も腹が立って。どう罰すればいいか……」 二人は顔を見合わせ、阿吽の呼吸で話題をすり替えた。 賢人は深く考えず、氷のように冷たい視線を詩織に向けた。 「まだ過ちを認めないというなら、死体安置所に放り込んでおけ。反省するまで出すな」 隆史と涼子はそれを名案だと言わんばかりに、すぐにボディーガードを呼んで彼女を閉じ込めさせた。 詩織は赤く腫れ上がった頬を押さえ、瞳の奥は空虚だった。 抵抗すればさらに悲惨な目に遭うだけだと知っている。だから暴れることもなく、引きずられていくに任せた。 死体安置所の陰湿で不気味な冷気に包まれ、彼女はガタガタと震える体を抱きしめるしかなかった。 ふと、以前の西園寺家の本宅での日々を思い出した。 雷鳴が轟く嵐の夜、賢人と寄り添って暖め合った日々を。 あの頃、彼は上着を脱いで彼女にかけてくれた。手をしっかりと握り、胸に抱き寄せてくれた。「俺がいる。怖くない」と、何度も言ってくれた。 甘い記憶と冷酷な現実が交錯し、彼女の神経を苛んだ。 一分一秒が過ぎていく。寒さと飢えで意識が朦朧としてきた頃、ドアが開いた。 賢人が冷たい顔で入ってきた。その眼差しは鋭い。 「丸一日閉じ込められて、反省したか?」 「……私が間違ってたわ。何もかも、大間違いだった」 詩織は体を縮こまらせ、喉から絞り出すような掠れた声で答えた。 彼の顔に満足げな色が浮かぶのを見て、彼女はよろめきながら立ち上がり、部屋を出て行った。 心の中で、静かに呟く。 あの約束を信じたことが間違いだった。 彼を好きになったことが、間違いだったのだ。 第4話 退院後、詩織は家に戻ると、賢人に関するすべての物を片付け始めた。 少女時代に書いた日記やラブレター、こっそり集めた彼の写真、渡したかったプレゼント、彼のために用意していたサプライズ…… これらは本来、彼と結ばれた後に、自分の秘めた恋心を一つ一つ話して聞かせるつもりだったものだ。 けれど今、彼との未来は永遠にあり得ないと知った。これらの物が日の目を見ることも、もうない。 彼女はそれらをすべてゴミ箱に捨てた。 振り返ると、ちょうど茉優を送ってきた賢人と鉢合わせした。 彼はゴミ箱を一瞥したが、視線が詩織に戻っても、その瞳は相変わらず冷ややかだった。 茉優もそれらのゴミに気づき、わざと彼の腕に抱きついて甘えた声を出した。 「賢人、詩織も今回は本当に反省したみたいね。これからはもう、あなたに付きまとうこともないはずよ。 これでも私の実の妹なんだから、そんなに冷たい目で見ないであげて」 賢人は淡々と詩織を見下ろした。 「好きでもない人間に、愛想を振りまく趣味はない。いい顔なんてできなくて当然だろう」 詩織は黙って聞いていた。何も言い返さなかった。 彼女は軽く息を吸い込み、言葉にできない感情を飲み込んで、自分の部屋へと戻った。 …… 翌日は、茉優の誕生日パーティーだ。 広間には多くの招待客が集まり、あちこちで噂話に花を咲かせている。 「西園寺さんが婚約者のために開いたパーティー、本当に豪華絢爛ですね。聞きました?この花は今朝ヨーロッパから空輸されたもので、あとで三日三晩花火を打ち上げるそうですよ。 水瀬のお嬢様が身につけているあのジュエリーセット、数億円は下らないとか。西園寺さんが自らサザビーズで競り落としたそうです!」 「恋人を喜ばせるために、西園寺さんも随分と気合が入っていますね!西園寺家に嫁げるなんて、水瀬のお嬢様は本当に果報者だ。水瀬家もこれで安泰でしょう。 惜しむらくは、家にあの『時限爆弾』のような次女がいることですね。毎日義理の兄を狙っているなんて、恥知らずにも程がある!」 「ええ、本当に。同じ姉妹だというのに、どうして詩織さんはああも出来が悪いんでしょうね?容姿も性格も劣るのは仕方ないとしても、西園寺さんにしつこく付きまとうなんて、品性まで歪んでいるとは。 私の娘があんなふうに家の名を汚すような真似をしたら、即刻勘当しますよ。水瀬のご夫婦は心が広いですね」 そんな心無い噂話を耳にしても、詩織の心は死んだように静まり返り、さざ波一つ立たなかった。 彼女は透明人間のように部屋の隅に座り、誰の注意も引かないようにしていた。 少し離れた場所では、隆史と涼子、そして賢人が、まるで星々が月を囲むように茉優のそばにいた。 彼らは彼女のドレスの裾を直し、勧められる酒を代わりに断り、バースデーケーキのキャンドルに火を灯し、笑顔で歌を歌った。 その和気藹々とした光景を見ながら、詩織は自分の誕生日のことを思い出していた。 昔から、茉優はいつも理由をつけて両親を連れ出し、詩織は一人家に取り残されて、自分でロウソクを吹き消していた。 賢人と一緒にいたあの数年だけは、彼がそばでケーキを食べ、プレゼントをくれた。 これからはもう孤独ではないと、そう思っていたのに。 かつて束の間だけ手に入れた、あの気遣いも温もりも、今やすべて奪い尽くされた。 もう、未練はない。 賑やかで祝いのムードに満ちた中、茉優は目を閉じて願い事をし、皆が次々とプレゼントを渡した。 彼女は一つ一つ包みを開けた。ブランド物のバッグから精巧なアクセサリーまで、あらゆる贅沢品が揃っており、彼女の顔から笑みが消えることはなかった。 最後に、隆史と涼子、そして賢人からのプレゼントが発表されると、会場は騒然となった。 「私と妻で熟考した結果、茉優を水瀬グループの次期後継者とし、水瀬家の全資産を継がせることに決めました!」 「私から茉優への贈り物は、西園寺グループの株式50パーセントと、西園寺家に代々伝わる結婚指輪です。 祖母が言っていました。この指輪をつけた夫婦は、必ず共に白髪が生えるまで添い遂げられると。 茉優、君は私が生涯で唯一娶りたいと願う女性です。私との結婚を承諾してくれてありがとう」 衆人環視の中、賢人は自ら茉優の指に指輪を嵌め、彼女を抱き寄せてキスをした。 ホール全体が沸き立ち、拍手と歓声、祝福の声が鳴り響いた。 詩織は遠くからそれを眺めていた。胸が押し潰されそうだった。 掌に爪を立て、立ち去ろうとしたその時、茉優に呼び止められた。 「詩織、あなたのプレゼントは?いつ渡してくれるの?」 一瞬にして、全員の視線が詩織に集中した。 彼女は足を止め、バッグから用意していたプレゼントを取り出し、渡しに行った。 茉優は満面の笑みで包みを開け、嫌味の一つでも言おうと口を開きかけた。 だがその時。 隣にいた賢人の視線が凍りついた。彼は、詩織が上げたその手を、食い入るように凝視していた。 「……なぜ、君がそのブレスレットを持っている?」 詩織は声に反応して顔を上げ、信じられないものを見るような彼の視線とぶつかった。無意識に自分のブレスレットに触れる。 賢人が失明していた時期、彼には見えないと分かっていても、彼女は精一杯おしゃれをして彼に会いに行っていた。 当時、彼女はよくこのブレスレットをつけていた。 彼が彼女の手を握るたび、指先がそれに触れた。「どんな宝石がついているの?」と、彼が尋ねたこともあった。 彼女が黙っていると、賢人は突然彼女の手首を強く掴んだ。その口調は切迫していた。 「答えろ!なぜこのブレスレットがお前の手にある? お前は、一体誰なんだ!?」 第5話 詩織は思いもしなかった。賢人が、彼女自身のことは思い出せないのに、このブレスレットだけは覚えているなんて。 心の中に複雑な感情が渦巻いた。口を開こうとしたその時、茉優がそれを遮った。 「詩織、私の許可もなく、どうしてそのブレスレットを持ち出したの?」 言い終わるや否や、茉優はブレスレットを奪い取ろうと掴みかかってきた。鋭い爪が詩織の手の甲を掠め、数本の血筋が走った。 詩織が痛みに呻き、反射的に手を引くと、茉優はその勢いを利用してわざと後ろへ倒れ込んだ。 その光景を見て、賢人の顔色が一変した。彼は本能的に茉優を抱き留め、詩織を陰湿な眼差しで睨みつけた。 「なるほど、そういうことか。俺はてっきり…… 茉優のブレスレットを盗み、バレて逆上して手を上げるとはな。詩織、お前には心底反吐が出る!」 弁解の余地すら与えず、茉優の言葉を鵜呑みにした彼を見て、詩織の背筋に冷たいものが走った。 彼女は血の流れる手を上げ、隠しきれない絶望と痛みを込めて訴えた。 「このブレスレットを覚えているなら、目が治ってから一度だって、茉優がこれを着けているのを見たことがある? ないはずよ。だってあの子は、これの存在すら知らなかったんだから。あの子は、あなたが思っているような……」 血を吐くような詩織の訴えは、隆史の平手打ちによって中断された。 目の前が真っ暗になり、体は制御を失ってシャンパンタワーへと倒れ込んだ。 ガシャン!という凄まじい音と共に、数百個のグラスが彼女の上に降り注ぎ、全身が酒でずぶ濡れになった。 彼女は床に叩きつけられ、破片で体中あざと傷だらけになり、あまりの痛みに涙が溢れ出した。 涼子が冷たい顔で歩み寄り、手に持っていた赤ワインを詩織の顔に浴びせかけた。その声は鋭く厳しい。 「茉優が着けていなかったのは、壊れて修理に出していたからよ。今日、執事が持ち帰ってきたばかりなのに、私たちがいない隙を見て盗み出し、自分の物にしようとしたのね? 普段家で騒ぐのは百歩譲って許しても、今日は茉優の誕生日なのよ。大勢の前でこんな恥を晒して、水瀬家の顔に泥を塗るつもり!? これはおばあさまが生前一番大切にしていた宝石で、最愛の孫である茉優に残した形見よ。あんたの物になるわけないじゃないわ!」 隆史も涼子に話を合わせ、賢人に「それが真実だ」と思い込ませた。 賢人は、泣きじゃくって過呼吸になりそうな茉優をなだめ、顔の涙を拭ってやった。 そして詩織のそばにしゃがみ込み、傷だらけの彼女の手首を掴み上げた。 彼はブレスレットを外し、ハンカチで血を拭き取ると、それを愛おしそうに茉優の腕につけた。 「茉優、このブレスレットにはお祖母様の君への愛と、俺たちの五年間の思い出が詰まっている。誰にも汚させはしない」 きっぱりと言い放つと、彼は氷のような声で隆史に言った。 「水瀬おじさん。家財の窃盗に、品行方正さを欠く振る舞い。水瀬家では家法を適用すべきでは?」 隆史は何度も頷き、すぐに従者に鞭を持ってこさせ、自らそれを手にした。 「家憲に従い、詩織の犯した罪には鞭打ち五十回の刑を与えます!私の教育が行き届かず、皆様の興を削いでしまい申し訳ございません。今日、ここでこの親不孝者を成敗し、家風を正します!」 言うが早いか、彼は鞭を振り上げ、力任せに振り下ろした。 ヒュッ! 乾いた音と共に、詩織の背中の皮膚が裂け、彼女の体は激しく痙攣した。 凄惨な悲鳴がホールに響き渡る。血がどくどくと流れ出し、またたく間に彼女の全身を赤く染めていった。 意識が朦朧とする中、喉の奥から砕け散ったような苦痛の呻きが漏れる。 「……盗んでない……あれは……元々……私の……おばあちゃんが、私にくれたのよ……!」 血の海でもがく彼女の惨状を見ても、賢人の目に慈悲はなかった。彼は茉優の目を手で覆い、彼女を連れてその場を立ち去った。 遠ざかっていく二人の背中を見つめ、詩織は血走った目を閉じた。 血と涙に塗れた唇を死ぬ気で噛み締め、これ以上声を漏らすまいと痛みに耐えた。 刑が終わると、隆史と涼子は彼女を一瞥もせず、さっさと立ち去った。 ホールの招待客やウェイターたちも、嘲笑を浮かべながら次々と会場を後にし、誰一人として彼女を気にかける者はいなかった。 傷だらけの体で冷たい床に横たわっていると、やがて照明が落とされた。 残されたのは無辺の暗闇だけ。 それが、彼女を完全に飲み込んだ。 第6話 翌日の未明になってようやく、詩織は動く力を取り戻し、一人で病院へ向かって傷の処置を受けた。 その見るも無惨な傷痕を見て、医師は息を呑んだ。洗浄と包帯の処置だけで、たっぷり三時間はかかった。 激痛に冷や汗が流れ続け、爪も数本折れていたが、彼女はどうにか耐え抜いた。 病院で二日間療養し、傷はようやくかさぶたになり始めた。 その間、茉優からは毎日、挑発的なメッセージが送られてきた。 【お父さんとお母さんが、あんたの部屋をベビールームに改装することに同意してくれたの。将来、私と賢人の子供ができたらそこに住まわせるわ。いつになったら、あんたのそのゴミを運び出してくれるの?】 【今日、賢人がウェディングドレス選びに付き合ってくれたの。どれも素敵だったから、彼が全部買ってくれたわ。 靴の試着をしすぎて足が痛くなっちゃったけど、彼ったらすごく心配して、足をマッサージしてくれたのよ】 写真の中で、賢人が深海のように深い愛情を込めて茉優を見つめている。それを見ても、詩織の目には麻痺したような感情しか浮かばなかった。 彼女は一件も返信しなかった。 傷が癒えて帰宅すると、すぐに荷造りを始めた。 必要最低限の身分証などを除き、他の物は全て捨てた。一つも残さなかった。 それを見た執事が、恐る恐る声をかけてきた。 「詩織お嬢様、茉優お嬢様は地下室に移るようにとおっしゃっています。あそこは日当たりは悪いですが、広さは十分です。何もこれらを捨ててしまうことは……」 詩織は空っぽになった部屋を見渡し、淡々と言った。 「いいえ、必要ないわ。もう使わないから、全部捨ててください。 まもなく出国するし、二度と戻ってくるつもりもないので」 執事は呆気にとられ、その目に驚きの色が走った。 「戻らない……のですか?」 言葉が終わらないうちに、賢人がホールのドアを開けて入ってきた。 「誰が戻らないって?」 執事が答えようとしたその時、茉優が寝室から出てきた。 「もう、来るのが早いのよ!まだメイクが終わってないんだから!」 賢人は執事にも詩織にも構わず、真っ直ぐ茉優のそばへ行くと、その鼻先を軽くつついた。 「大丈夫だ。ゆっくりでいい、待ってるよ」 「眉毛がうまく描けないの。賢人は器用なんだから、描いてよ」 二人は談笑しながら部屋に戻り、ドアを閉めた。 詩織も視線を外し、黙って荷造りを終えたスーツケースのチャックを閉めた。 …… その後の丸一日、賢人と茉優は片時も離れず、極めて親密に過ごした。 彼は自らキッチンに立って朝食を作り、彼女を膝に抱いて、一口ずつ食べさせた。 一緒に映画を見て、隠された伏線の解説をしてやった。 ベランダで抱き合ってキスをし、彼の襟元に彼女の口紅がつくのも構わず、その目尻はとろけるような優しさで満ちていた…… それを目撃した使用人たちは、陰でこっそりと噂し合っていた。 「茉優お嬢様と西園寺さんは本当に仲がよろしいですね。まだ入籍前だというのに、まるで新婚のご夫婦のようだわ。いつもべったりで、一時も離れられないご様子」 「茉優お嬢様は小さい頃から甘やかされて育ったから、ワガママなところがあるでしょう。西園寺さんにあれだけ一途に愛されたら、もっとやりたい放題になっちゃうかもね。本当に運がいいわ!」 「ああ、可哀想なのは詩織お嬢様よ。小さい頃から家族に無視されてきただけじゃなく、やっと好きな人ができたと思ったら、それがよりによって義理のお兄さんだなんて。同じ姉妹なのに、どうしてあんなについてないのかしらね」 ドア越しに彼らの嘆きを聞きながら、詩織は目を伏せた。 かつては彼女も、何度も神様に問いかけた。なぜ自分にだけこんな仕打ちをするのかと。 けれど一度死んで、彼女はある真理を悟った。 奪い合わなければ手に入らないものは、そもそも自分のものではないのだと。 家族の情も、愛も、同じことだ。 だから、もう執着しない。 ただここから抜け出し、二度とこの泥沼に足を踏み入れたくない。 第7話 夕食の時間、使用人から隆史と涼子が帝都ホテルで個室を取ったと知らされ、外食することになった。 詩織は適当な理由をつけて断ろうとしたが、茉優に無理やり車の後部座席に押し込まれた。 道中、茉優が何を言っても、賢人はすぐに言葉を返した。 「ねえ賢人、結婚したら、ハネムーンはヨーロッパがいいな。オーロラも見たいし、ファッションショーにも行きたい。 その時は私の写真をたくさん撮ってね。賢人のスマホもパソコンもタブレットも、全部私の自撮りを待ち受けにするんだから!同じ写真は禁止よ」 「ああ、その時のためにプロのカメラマンに撮影技術を習っておくよ。君の最高に綺麗な瞬間を撮って、現像してオフィスや書斎いっぱいに飾ろう。そうすれば、会いたい時は顔を上げるだけで君に会える」 「言ったからには絶対よ。将来赤ちゃんができたら、一緒にアルバムを見返して思い出話をするの。 そうだ、赤ちゃんは何人欲しい?男の子なら賢人に似て背が高くてハンサムがいいけど、女の子なら私に似たほうがいいかな……」 二人は詩織の存在など忘れたかのように、会話を弾ませていた。 詩織は窓の外の景色をじっと見つめ、一言も発しなかった。 賢人が視力回復の手術を受けたあの日、彼女は睡眠薬で眠らされ、ある夢を見た。 夢の中で、彼が目覚めて最初に見るのは彼女だった。その後、彼は他の誰にも目移りしなかった。 彼は片時も離れずそばにいて、たくさんのサプライズを用意し、デートに連れ出し、この素晴らしい世界を見せてくれた。 彼は片膝をついて厳かにプロポーズし、手を取って結婚式のヴァージンロードを歩き、彼女と子供と一緒に家族写真を撮った。 夢の中で、彼女は本当に愛してくれる人を手に入れ、自分だけの小さな家庭を築いたのだ。 けれど夢から覚めると、すべては泡となって消えていた。 彼女は死に物狂いで抗ったが、最後は惨めな死を遂げただけだった。 呆然としていたその時、急ブレーキの摩擦音が詩織を現実に引き戻した。 音に反応して顔を上げると、ブレーキが故障したと思われるスポーツカーが、真っ直ぐこちらに向かって突っ込んでくるのが見えた。 ドカンッ! 凄まじい衝撃音と共に、車は橋脚に激突した。 詩織の体はバラバラになりそうなほどの衝撃を受け、額からも腕からも足からも血が流れていた。 激痛が襲いかかり、体が引き裂かれるような痛みで息もできない。 血に染まった目を開けると、賢人が恐怖で震える茉優を抱きかかえ、車から降りるところだった。 左右のドアはひどく変形し、トランクからは火の手が上がっている。 詩織は唇を噛み破り、無理やり意識を覚醒させると、傷だらけの体を引きずって助手席の方へと這っていった。 一歩動くたびに、鮮血がポタポタと滴り落ち、シートや地面を赤く染める。 どうにか車から這い出し、数歩離れた瞬間、背後で爆発音が轟いた。 天を衝くような炎が上がり、その衝撃波で彼女は地面に吹き飛ばされた。 爆発したばかりの車を見つめ、詩織の全身の血液が凍りついた。 あと数秒遅れていたら、あるいは気絶していたら、またしても交通事故で死んでいたのだろうか。 危険が発生してから自力で脱出するまでの五分間、賢人は最初から最後まで、一度も彼女を見なかった。 茉優が無事だと分かっても、振り返って彼女を助けようとはしなかった。 茉優を抱きしめて優しく慰める彼の姿を見て、詩織は疲れ切った、苦い笑みを浮かべた。 体力を使い果たし、まぶたが鉛のように重く垂れ下がってくる。 意識が遠のく中、救急車のサイレンと、看護師の焦った声が聞こえてきた。 「詩織様の方が重傷です!大出血で意識を失っています。西園寺様、先に彼女を手術室へ運ぶべきです。そうしないと命に関わります!」 「詩織のことなんてどうでもいい!俺は茉優が無事ならそれでいいんだ。茉優も怪我をしてるんだぞ、先に彼女を助けろ!」 聞き慣れたその声に、詩織はどうにか目を開け、賢人の焦燥しきった顔を見た。 隆史と涼子も駆けつけ、茉優を取り囲んで涙を拭っていた。 「先に茉優を助けてくれ!俺たちが目に入れても痛くないほど大事に育ててきたんだ。もしこの子に何かあったら、俺と妻はどうやって生きていけばいいんだ!」 「そうだ、私たちは家族だ。もし詩織に万が一のことがあっても、病院の責任は問わないわ!詩織のことなんか構わないで、茉優の安否が最優先だ!」 彼らが例外なく茉優を選んだのを聞いて、詩織の心の底に残っていた最後の希望も、未練も、すべて無に帰した。 果てしない闇が押し寄せ、彼女を深淵へと引きずり込んでいく。 前の人生で死ぬ直前に感じた、あの馴染み深い無力感と恐怖が、再び彼女を包み込んだ…… 第8話 詩織は、自分がまだ生きているとは思わなかった。 消毒液の匂いに包まれ、長い間呆然としていたが、やがて意識がはっきりとしてきた。 医師が彼女の体を診察しながら、安堵の混じった声で言った。 「十数時間に及ぶ蘇生措置の末、ようやく鬼籍から引き戻せました。目が覚めて本当によかった」 その言葉を聞き、詩織の瞳がわずかに動いた。枯れた声で答える。 「……命を救ってくれて、ありがとう」 医師は頷き、彼女を見つめ、言いにくそうに口を開いた。 「あの日、あなたを搬送してきたのは、実のご両親ですか?」 詩織の唇が微かに震え、沈黙に沈んだ。 その表情を見て、医師もそれ以上聞くことはできず、ため息をついて去っていった。 その後二日間、彼女は一人で入院していたが、見舞いに来る者は誰一人いなかった。 退院の日になってようやく、隆史と涼子が姿を見せた。だが、彼女の体を気遣うためではない。念を押すためだ。 「明日は茉優の結婚式だ。約束通り、式の前にここを発ちなさい」 その当然のような口ぶりを聞いて、詩織は小さく頷いた。 彼女が従順なのを見て、二人の顔色が少し和らいだ。 「茉優の幸せのために、席を譲るんだ。二人の仲が安定して、子供ができたら、お前を呼び戻して一家団欒といこう。 金はカードに振り込んでおいた。海外でも元気でな」 用件だけ伝えると、二人は茉優の世話をするために慌ただしく去っていった。 詩織は彼らの背中を見送り、ポケットからイギリス行きの航空券を取り出すと、粉々に破り捨てた。 そしてスマホを取り出し、オーストラリア行きのチケットを予約した。 彼らの望み通り、全員の願いを叶えてあげるわ。 ただし、私の世界から彼らを消し去り、彼らが二度と私を見つけられない方法で。 …… 病院を出た後、詩織は弁護士を訪ねて作成した「親子関係断絶誓約書」を取り出した。 彼女はその書類に厳粛に署名し、一つの箱に入れた。 一緒に収めたのは、かつて別荘で賢人に付き添っていた頃、こっそり録音していたカセットテープだ。彼が彼女に物語を読み聞かせてくれた声が記録されている。 彼女はこのテープを持って、何度も彼を訪ねた。けれど、彼は一分の時間さえくれず、聞こうともしなかった。 もう去ると決めた以上、これらも処分するつもりだった。 彼がこれを聞こうが聞くまいが、もう彼女には何の関係もない。 どうせ彼女は完全に消え去り、誰にも見つけられない場所へ行くのだから。 …… その夜、階下では結婚式の準備で騒がしく、詩織はよく眠れなかった。 早朝に目を覚まし、朝食を済ませると、スーツケースを車のトランクに積み込んだ。 出発しようとしたその時、花婿の車列が到着した。 タキシードに身を包み、堂々とした佇まいの賢人を見て、彼女は軽く会釈をした。 そして初めて、彼をこう呼んだ。 「お義兄さん」 それが、最後の一回だった。 賢人も少し驚いた様子で、彼女の後ろにある車を見て眉をひそめた。 「今日の式には出なくていい。家でおとなしくしていろ」 詩織は分かっていた。彼らは、彼女が会場に来て式をぶち壊すのを恐れているのだ。 彼女は首を横に振り、丁寧に用意したあの箱を彼に差し出した。声は凪のように静かだった。 「式には出ないわ。二人の幸せな生活を邪魔するつもりもない。 新婚おめでとう。さようなら」 言い終わると、彼女は背を向け、車に乗り込んでドアを閉めた。 賢人はエンジンがかかる車を見て、心臓が激しく脈打つのを感じた。 無意識に彼女を呼び止め、今日一体どこへ行くつもりなのか聞こうとした。 だが、口を開くより先に、純白のウェディングドレスをまとった茉優が彼を呼んだ。 「賢人、抱っこして!」 バックミラー越しに、詩織は見た。 彼が手にした箱を無造作にアシスタントへ放り投げ、笑顔で振り返り、茉優をお姫様抱っこする姿を。 車がゆっくりと別荘地を離れていく。 彼女は窓を開け、スマホを窓の外へ放り投げた。 これより先、過去の詩織は死んだ。 新しい詩織は、誰にも縛られない、新しい未来を手に入れるのだ。

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