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青くて遠い、あの日の空へ
財閥の御曹司と付き合って四年になるが、彼は今も彼女を抱こうとしなかった。 桐谷時乃(きりたに ときの)は母親に電話をかけた。 「お母さん、前に言ってたパイロットの面接......お願いしてもいい?」 電話の向こうで、母は驚きの声を上げた。 「えっ、本当に?でもあなた、海栖市に残って結婚するって......あれだけ空を飛ぶのが好きだったのに、全部やめちゃったじゃない」 けれど、薄明かりの中で見たのは――別の女の子に夢中になり、不安に揺れながら想いをぶつける、彼の姿だった。 時乃は、つい苦笑いを漏らした。 瑞樹市に戻れば、私はまた空を飛べる。 そう、誰かの愛を乞いながら、不倫の泥沼でもがく女にはならない。 自由に空を翔けるパイロット・時乃に戻るのだ。
チャプター (1)
第1章
財閥の御曹司と付き合って四年になるが、彼は今も彼女を抱こうとしなかった。
桐谷時乃(きりたに ときの)は母親に電話をかけた。
「お母さん、前に言ってたパイロットの面接......お願いしてもいい?」
電話の向こうで、母は驚きの声を上げた。
「えっ、本当に?でもあなた、海栖市に残って結婚するって......あれだけ空を飛ぶのが好きだったのに、全部やめちゃったじゃない」
けれど、薄明かりの中で見たのは――別の女の子に夢中になり、不安に揺れながら想いをぶつける、彼の姿だった。
時乃は、つい苦笑いを漏らした。
瑞樹市に戻れば、私はまた空を飛べる。
そう、誰かの愛を乞いながら、不倫の泥沼でもがく女にはならない。
自由に空を翔けるパイロット・時乃に戻るのだ。
第1話
財閥の御曹司と付き合って四年になるが、彼は今も彼女を抱こうとしなかった。
桐谷時乃(きりたに ときの)は、母親に電話をかけた。「お母さん、前に言ってたパイロットの面接......お願いしてもいい?」
電話の向こうで、母は驚きの声を上げた。「えっ、本当に?でもあなた、海栖市に残って宗方隼人(むなかた はやと)と結婚するって......あれだけ空を飛ぶのが好きだったのに、全部やめちゃったじゃない」
彼女は四年前の自分の愚かさを思い出し、苦笑した。
そう、男のために夢を捨てたのだ。
しかし、それは叶わなかった。
「......全部、私の勘違いだったんだ」
彼の心を動かせると思ったのに。
結局は届かない恋だった。
母は軽く笑って言った。「バカな子ね、あなたが成功すれば、男なんていくらでも寄ってくるのよ。一人の男に執着しないで。隼人とは別れて、瑞樹市に戻りなさい」
「わかった。まずは住民票を戻すね」
そう言って電話を切った。
隣室からは、まだ肌を打つような音が響いていた。時乃がそっとドアに近づくと、くぐもった男の声が漏れてきた。
ドアの隙間から覗くと、薄暗い明かりの中で、書斎が散らかっているのが目に飛び込んできた。
隼人の腰には白いワンピースがかかっており、彼の手は激しく動いていた。
彼は低く呟いた。
「紗良」
白いワンピースには苺のブローチが付いている。
時乃はすぐにそれが隼人の養女――
宗方紗良(むなかた さら)のものだとわかった。
拳を強く握り締めた。爪が食い込む痛みより、胸の痛みの方が遥かに強かった。
このひと月の間に、もう十回以上、同じ光景を見てきた。
最初はショックで崩れ落ちた。
しかし今では、ただ吐き気がこみ上げるだけだった。
あの禁欲的で高慢な宗方家の御曹司も、結局は欲に抗えなかった。だが、その欲は、彼の養女に向けられ――私には一度も、向けられたことがなかった。
時乃は虚ろな表情のまま部屋に戻った。
壁にかかった二人の写真を見つめた。
思い出すのは四年前、隼人と出会った日のことだった。
海栖市に来て間もない頃、彼女は操縦大会に出場していた。その大会に隼人はスポンサーとして参加していた。
しかし大会中に事故が起き、時乃は機体の中に閉じ込められそうになった。
そのとき助けてくれたのが、隼人だった。
あの一瞬の出会いで、彼女は彼に惹かれてしまった。
友人に聞き回り、彼は宗方家の一人息子で、業界では女性に興味を示さない冷徹な社長で有名だと知った。
「彼が好き?もう諦めなよ。隼人は結婚もしないし、誰も愛さないって言ってるんだよ。私たちとは次元が違う人よ」
だが時乃は信じなかった。
あらゆるツテを使って、宗方グループに入った。
パイロットの夢も捨てた。
何ひとつ家事なんてしたことがなかったのに、彼のそばで、雑用ばかりこなすアシスタントになっていた。
彼女は料理を一年間習い、彼の心を掴もうと必死だった。
酔った勢いでメイド服を着て迫っても、彼に手足を縛られただけだった。
雨に濡れて可愛く見せようとしても、彼はただ家政婦に薬を持ってこさせて、外出を控えるよう促した。
一度は彼の机の下に潜り込み、彼が仕事をしている隙にそっと彼のふくらはぎを触ってみた。ところが、彼は無表情で警備員を呼び、彼女を外に連れ出させ、さらにはタオルを投げつけた。
そして見下すような目で彼女を見て言った。「そんなに床掃除が好きなら、一日中やればいい」
母は娘の行動を哀れみ、そっと言った。「彼が好きじゃないなら、自分を傷つけるだけよ」
時乃は諦めなかった。「努力すれば、きっと報われる」
四年間、彼の後を追い続けた。
海栖市中の誰もが、ただの彼女の片思いであることを知っていた。
どれだけ尽くしても、最後に残ったのは虚しさだけだった。
嘲笑され、迷い......
時には諦めかけた。
バレンタインの日、最後の覚悟を決めたそのとき、彼から一本の電話がかかってきた。
「時乃、付き合おう」
あの大雨の日のことを、今も彼女は鮮明に覚えている。
ずぶ濡れの彼が抱えていたのは、しおれたままの花束だった。
彼女は涙を流し、喜びに震えながら抱きついた。
あの花は大切に寝室に飾った。
今思えば、あの花は、どこにも行き場のなかった残り物だったのかもしれない。
それでも彼女は愛の幻想に浸り続けた。
付き合い始めて一年、時乃は彼の手すら握れなかった。
近づくとすぐに彼は眉をひそめて離れていき、何事もなかったかのように経済誌を読み続けた。
彼はただ不器用なだけで、女慣れしていないのだと、ずっとそう思い込んでいた。
我慢強く三年近く耐えた。
しかしある日、書斎で彼の秘密を見つけてしまった。
彼女が入ることを許されないその部屋で、彼は女の服を抱え、狂おしいほどの欲望をあらわにしていた。
そう、彼には求める相手が別にいたのだ。
それは彼が八年間育てた養女、紗良だった。
自分はただ世間の目をごまかすために、彼の恋人役を演じさせられていただけだった。
その瞬間、四年間にわたる彼女の愛は崩れ去った。
正気に戻ると、書斎の中の物音は次第に静かになった。
彼は紗良のワンピースを抱きしめ、その匂いを何度も嗅ぎ続けていた。
その姿は、普段の威厳ある彼とはまるで別人のようだった。
時乃は込み上げる吐き気を抑えきれず、ゴミ箱に吐き出してしまった。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
彼女は薬指から二人のペアリングを引き抜くと、力いっぱい外へ投げ捨てた。
もう二度と、隼人のために涙を流すことはない!
第2話
朝早く、時乃は海栖市のフライトセンターに足を運んでいた。
もともとこの街には、ただの操縦大会のために訪れただけだった。けれど、隼人に恋をしてしまったがために、操縦士の資格もここへと移してしまったのだ。
でももう一度、自分の原点に戻る時が来た。再び空への情熱を取り戻すために。
「証明書は三日後に発送されますので、その際にご署名ください」
受付で書類を受け取り、時乃は外へ出た。
目の前には、雲ひとつない青空が広がっている。その空の青さが、まるで重荷を下ろした心を映し出しているようだった。
もうすぐ、この街を去る。自分を苦しめ続けた場所を、五年という月日を無駄にしたあの人――隼人とも、ようやくさよならできる。
思えば、自分を過信してたのかもしれない。彼のために、大好きだった夢を手放して、彼のために、前を向いていた自分をやめて、ただ顔色をうかがって、機嫌を取って......そんな女になってた。
「......ここで終わりにしよう」
時乃は、手にした書類をそっとバッグにしまった。
家に戻ると、リビングには隼人が険しい顔でソファに座っていた。まるで動かぬ彫像のようだった。
昨夜、あんなにも欲に呑まれていた男と同じ人間とは思えなかった。
もし自分があの光景を目にしていなければ、信じられなかっただろう。
胸の奥に広がる嫌悪感が喉元までこみ上げ、吐き気が再び襲ってくる。
「どこに行ってた?」
隼人が低い声で問う。
「あなたがずっと行けって言ってたところよ」
かつて、彼は何度も時乃に資格を取って出て行けと言っていた。
そして今、自分はその通りにしたのだ。
彼は、喜ぶだろうか。
隼人は眉をひそめ、彼女の前に立った。「今夜、商談も兼ねた飲み会だ。準備しておけ」
――まただ。
彼の傍にいた四年間で、いちばん多かったのは、飲み会に付き添うことだった。
毎回、限界まで酔わされ、倒れそうになったこともある。
でももう、行きたくない。
「......体調が悪いの。行きたくない」
そう言うと、隼人は不機嫌そうに顔をしかめた。「また何を拗ねてる」
彼の思い通りにならないことがあれば、それはわがままにしか見えないのだ。
「決まりだ。お前は俺のアシスタントだろ。それが仕事だ」
それだけ言い捨てて、彼は時乃の返事も待たずに、そのまま部屋を出ていった。
結局、時乃は飲み会に出席した。ほかの社員たちみな、隼人のことを恐れていて、代わりに出ようとする者は一人もいなかった。
「こちらの方は?」
席に着くと、周囲は中年男性ばかり。時乃はきちんとしたオフィスウェアに身を包んでいたが、それでも彼女の整った容姿とスタイルは男たちの目を引いた。その視線はいやらしく、ねっとりと肌を這うようで、彼女は思わず背筋がぞくりとした。
隼人に目をやったが、彼は無表情のまま、視線すらよこさない。
「俺のアシスタントだ」
――ただそれだけ。その一言で、空気が微かにざわめいた。
男たちの視線は、より生々しいものに変わっていく。時乃は、無意識に膝の上で拳を握りしめていた。
そのとき、隼人の隣に座る男がひそひそと声を落とす。「恋人じゃなかったのか?そんなふうに紹介して、この連中が何するか分かってないのか?」
時乃は息をのんだ。彼の次の言葉で、自分の立場も身の安全も左右されると思った。
けれど、隼人の口から出たのは、あまりにも冷たい言葉だった。「平気だよ。あいつなら耐えられる」
――その一言が、時乃の築き上げられたプライドを一瞬で打ち砕いた。
耐えられるだって?
このテーブルの上には、度数の強いお酒ばかりが並んでいるのに。
彼は――自分を、ただの道具としてしか見ていないのだろうか。本当に自分の身の安全なんてどうでもよかったのだろうか。たとえ今日、この男たちに何をされようと、気にもしないつもりなのだろうか?
「......よく我慢できるな。お前の彼女だろ?彼女のことすら気にかけないで、いったい何を大事にするっていうんだ?」
そんな言葉が投げかけられたそのとき、突然、個室のドアが開かれた。
隼人のボディガードが、慌てて駆け込んできた。
「隼人様、大変です、お嬢様が......見知らぬ男と一緒に車に乗って出ていきました!」
第3話
その瞬間、隼人の顔色がさっと変わった。
手にしていたグラスを置く暇もなく、足早に部屋を出ていった。
ドアの外では、紗良が男性と腕を組み、笑いながら何かを話していた。
「何をしている!」
怒鳴り声とともに、隼人は紗良の身体を荒々しく引き離し、その手首を掴んで自分の胸元へと引き寄せた。
紗良は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに激しく抵抗し始めた。「私に触らないでよ!」
「俺はダメで、こいつはいいってのかよ?このクズに!」
隼人の目は血走り、まるで制御を失った獣のようだった。
隼人がそんな感情を見せるのは、この五年間で初めてだった。
「放っておいてよ。どうせ私なんて、もういらないんでしょ?だったら、私が誰といようと関係ないじゃない!」
「誰がそんなことを言った」
紗良は一歩も引かず、激しく食い下がる。「だったら、なんで私の誕生日にも帰ってこないの?バレンタインだって何もなかった!どうしてなのよ!前は全部ちゃんと祝ってくれたのに!」
その問いに、隼人は言葉を失った。
その背後で時乃はじっと二人のやりとりを見ていた。見た目はいつものように冷ややかで気位の高い男。だが、その身体はわずかに震えていた。
――怯えてる?
何に?
もしかして、自分の醜い本心を、紗良に知られるのを恐れているのだろうか。
自分の異常な思いを隠すために、私を恋人として傍に置いていた。裏で養女の服を盗み、密かにあんなことを――
時乃は皮肉げに笑った。
可笑しいじゃない。こんな状況でも、隼人は紗良を守ろうとしている。
彼女のために嫉妬し、彼女のために、あの完璧な御曹司がこんなにも動揺している。
それに比べて、自分は――彼の醜さを覆い隠すために利用されただけだった。
「全部......あの女、時乃のせいだわ。あの女と出会ってから、おじさん、あなたは変わってしまった。ずっと私を大切にするって、昔、約束したじゃない!どうして、他の女なんかに......!」
「さっきの飲み会の連中もロクなやつじゃないんでしょ?だったら、あの女を壊してしまえばいいじゃない。そうすれば、またあなたは私のもとに戻ってきてくれるんでしょ?」
言いながら、紗良はゆっくりと顔を上げ、まるで悪魔のような眼差しを時乃に向けた。
そして、彼女はすばやく個室のドアへと歩み寄り、勢いよく引き戸を閉めようとした。
嫌な予感がして、時乃はドアが閉まる前に逃げ出そうと手を伸ばしたが、届かず片手だけが外に出た。
紗良は狂った表情で、ドアをさらに力強く閉じていく。
時乃の指は強く挟まれ、赤く腫れあがり、焼けつくような痛みに思わず声を上げてしまった。
「私からおじさんを奪った報いよ――死ぬ覚悟でもしてな!」
狂ったように叫ぶ紗良が、さらに強く扉を引いた。
時乃は耐えられず手を引き抜いた。
バンッ!
鈍い音とともに、個室の中がざわついた。
「時乃ちゃん、隼人にも見捨てられた君は、俺たちと一緒に楽しむ方が幸せじゃないか?」
男たちがぞろぞろと近づいてくる。
鼻をつく酒とタバコの臭い。時乃は自分の腕を抱きしめるようにして、後ずさりながら叫んだ。「やめて!来ないで!」
バシッ!
誰かが先に平手を飛ばし、次の瞬間には顎をぐっと掴まれた。
「何を清純ぶってる?隼人と長年付き合ってた女だろ?どうせ飽きられて捨てられたんじゃねーの?調教も済んでるんじゃないか?だからこんな飲み会に連れてこられたんだろうしな。ハハハ!」
「そうそう、大人しく言うこと聞いてくれれば、少しは優しくしてやるかもな?」
次々と迫ってくる男たち。
時乃は震えながら辺りを見渡した――そして、開け放たれたバルコニーに目をやった。
......行くしかない。
迷う暇もなく、時乃はバルコニーへと走り出し――
ドサッ――!激しい衝撃が身体を襲い、瞬く間に全身に痛みが広がった。
脳がぐらぐらと揺れ、意識が遠のいていく。
「......た、すけて......」かすれた声を振り絞った最後の瞬間、うっすらと視界の端に、隼人の姿が見えたような気がした。
だが、意識はそこまでだった。時乃の身体はそのまま動かなくなり、暗闇へと落ちていった。
第4話
次に目を覚ましたとき、時乃は、自分の寝室にいた。
頭が割れるように痛く、全身の骨がバラバラになったかのような感覚に襲われていた。
薬を持って入ってきた家政婦が、彼女が目を覚ましたのを見て駆け寄ってきた。「時乃さん、ご気分はいかがですか?」
時乃はかすかに首を横に振った。喉がひりつき、かすれた声で問う。「......私、どうやって戻ってきたの?」
確か、自分はバルコニーから飛び降りたはずだ。
意識を失う直前、隼人の姿を見た気がする。
まさか、彼が連れ戻してくれたのだろうか?
「運転手さんが、道路脇で倒れているのを見つけて、急いでお連れしたんです」
家政婦は答えた。
一瞬、脳内が真っ白になった。隼人じゃなかったの?
では、あのとき見たのは幻だったのだろうか。
やっぱり、彼は今ごろ紗良のそばにいるのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていると、不意にスマホが震えだした。
画面を見ると、友人からのメッセージが届いていた。
【時乃、ちょっとは落ち着いた?早く見て!昨日の件、あたしがスカッとさせてあげたから!】
時乃は言われるまま、友人のSNSを開いた。
そこには、昨日の出来事について書かれた長文の投稿があった。
ざっくり言えば、紗良のやったことを問いただすような内容で、隼人との関係にも触れていた。
彼女の友人は海栖市でも名の知れた情報通で、地元の御曹司やお嬢様たちとのつながりも多い。
その投稿は瞬く間に拡散され、人々がコメントを残し始めていた。
【紗良って正気?時乃って、一応おばさんにあたる人でしょ??隼人は何してんの?】
【そりゃあ、隼人が甘やかしたからでしょ。あの距離感、マジでヤバいって】
【さすが隼人様、やることが違うわ~】
......
次々と更新されるコメントに、まだ目を通しきらないうちに――
バンッ!部屋のドアが激しく蹴り開けられた。
怒っている隼人が、何も言わずに部屋へ入ってきた。そして無言のまま、彼のスマホを力任せに彼女の顔へと放り投げた。
角張ったケースが目元すれすれに当たりそうになり、思わず顔を背けた。
「なぜ、こんなことをした?」
それは問いかけではなかった。責めるように吐き出されたその声には、一片の迷いもなかった。
最初の一言も、彼女の体調を気遣う言葉ではなかった。
それどころか、紗良に何かが起きたとたん、こうして駆けつけてくるのだ。
時乃はかすかに笑った。この数年間、どれほど彼のために尽くしてきただろう。それでも、今の自分に返ってくるのは、こんな仕打ちだけ。
「私じゃないわ」
その言葉を、静かに、しかしはっきりと返した。
だが隼人の目はまったく信じていなかった。冷ややかな笑みが口元に浮かんでいた。
「お前じゃなければ誰がやった?時乃、お前の手口なんて俺が一番よく知ってる。何かあるなら、俺に直接言え。なんで紗良を巻き込む?」
手口?
その言葉に、時乃は眉をひそめた。
手口とは何のことだろう。
それは彼を愛し、支え、病院送りになるほど酒を飲まされ、海栖市中の笑い者にされたその覚悟も手口と呼ぶの?
それとも――昨夜、使い捨ての道具のように扱われ、男たちに襲われかけたことを、手口と呼ぶの?
あの恐ろしい体験は、今でも胸に焼きついている。思い出すと全身が震え、恐怖がよみがえる。
時乃は拳を強く握り、低く呟いた。「どうしたの?あの投稿、図星だったの?だからそんなに怒ってるの?」
パァン!
彼女の言葉が言い終わらぬうちに、隼人の平手打ちが頬に飛んできた。
男の手が、容赦なく彼女の頬を打ちつけたのだ。紅く腫れた指の跡が、彼女の透き通るような頬にくっきりと浮かんだ。
その場にいた家政婦が、思わず声を上げた。「隼人様、時乃さんはようやく目を覚ましたばかりです!本当に彼女は何も知りません!」
だが隼人は冷ややかに彼女を睨みつけ、吐き捨てるように言った。「お前を信じられると思うか?連れ出せ」
「やめて!」
時乃が叫んだ。この家政婦は、母の元から付いてきた、十年以上も自分を支えてくれた存在。海栖市で数少ない身内のような存在だった。
彼女まで、追い出されるなんて――
時乃は唇をきつく噛み、赤く潤んだ瞳でまっすぐに男を見つめた。「紗良が私に何をしたか知ってる?あなたはそれを見て見ぬふり。そしてこの投稿が出ただけで私を責める。あなたの中で、私は本当に、何の価値もないの?」
彼女の震える声に、かすかに胸を刺されるような痛みを覚えた――だが、その感情はすぐに打ち消された。
「またお前の被害妄想か。いいか、あの投稿を今すぐ消せ。そうすれば、今回は見逃してやる」
見逃す?
なんて傲慢な物言いだろう。
時乃は笑った。自分の手にはまだ包帯が巻かれている。
昨夜、あのままバルコニーから飛び降りていなければ、今頃自分はどうなっていたか。
あの恐怖、あの痛み。彼には、ほんのひとかけらも届いていない。
「もし、私が消さなかったら?」
その瞬間、男の目が氷のように冷たくなった。「だったら、遠慮はしない」
第5話
結局、SNSの投稿は削除された。
海栖市で圧倒的な権力を誇る宗方家に対して、時乃の友達もやむなく引き下がったのだ。
代わりと言っては何だが、紗良に謝らせた。
「ごめんなさい、おばさん。わざとじゃなかったの」
目の前の少女が得意げに、挑むような笑みを見て、時乃は拳を強く握りしめた。
謝罪だけで、私が受けた傷が消えるとでも?
一体、私のことを何だと思っているの?
「受け入れない」
時乃は、はっきりと言い放った。
隼人が眉をひそめ、口を開こうとしたそのとき、紗良が横から割って入った。
少女は微笑みながら言った。
「大丈夫だよ、おばさん。怒るのは当然だよね。じゃあ、飲みましょ!お酒で仲直りって、昔から言うでしょ?」
そう言うと、勝手にお酒を飲み始めた。
紗良は酒に弱い。
隼人は側で気を遣いながら支え、少女が倒れないように見守っていた。
その光景に時乃は苛立ったが、何も言わずに席を立ち、トイレへ向かった。
目に見えなければ、気持ちも少しは楽になる。
家に戻ると、紗良はもうすっかり酔いつぶれていた。
「今夜は、紗良をここに泊める」
隼人はそう言い、キッチンに向かった。
二日酔いを解消するスープを作るためだ。
まるで専業主夫のように気遣いが行き届いていた。
時乃は自分が酔いつぶれて入院した時のことを思い出さずにはいられなかった。
あの時、隼人は一度も心配の電話さえくれなかった。
自分は紗良に比べ、彼の心の中でどれだけ価値が低いのだろう。
視線をそらし、階段を上がった。
ところが部屋のドアを開けてすぐ、自分のスマホがリビングに置きっぱなしになっていることに気づいた。
スマホを取りに降りた時、彼女は息が詰まる光景を目にした。
紗良が両手を隼人の首に回し、二人は向かい合って唇が触れそうなほど近づいている。
「おじさん、今日の口紅はあなたが買ってくれた物なの。味見してみて」
紗良が甘えるように近づくと、男は一瞬ためらった。
だがすぐに彼女を強く抱き寄せた。
激しく、狂おしいキスが交わされ、ふたりの身体はぴたりと重なった。
「紗良」
隼人の低い囁きとともに、彼は少女を押し倒した。
時乃はもう我慢できず、部屋へと逃げ込んだ。
扉が閉まる瞬間、彼女の強がりは音を立てて崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
この五年間に積もった苦しみが、一気に溢れ出した。
料理を覚えようとして指を切ったこと。
酔いつぶれて病院に運ばれ、吐血したこと。
すべてが彼女にとって、滑稽な思い出でしかなかった。
その夜、時乃は一睡もできなかった。
翌朝、彼女は荷物をまとめ始めた。
ドアを開けて外に出ると、紗良がドアのそばに寄りかかっていた。
「どこに行くつもり?」
時乃は冷たい目で彼女を一瞥した。「あなたには関係ない」
そう言って荷物を持って階段を降りようとしたところ、突然紗良が足を伸ばした。
避けきれずに転倒し、階段から落ちてしまった。
時乃は地面に這いつくばり、額からは血がにじんでいた。
紗良はゆっくりと階段を降り、時乃の前に立った。
彼女は一気に時乃の髪を掴んだ。「私にそんな口を利くなんてね?おじさんが私を甘やかしてるのよ。私があなたを殺したって、彼は私の味方だから」
そう言い放つと、紗良は時乃の怪我をした手を踏みつけた。
「飛ぶのが好きなんでしょ?なら、もう二度とあの機械を握らせてあげない」
バキッ。
時乃は自分の骨が折れる音を聞いた気がした。
必死に抵抗しても、紗良は足を離さなかった。
その時、玄関の方から男の怒鳴り声が響いた。「やめろ!」
時乃は意識を失った。
次に目を覚ました時、彼女は真っ白な病室にいた。
目を開けると、まずスマホを探し出し、母に電話をかけた。「お母さん、私の書類を送ってほしい!」
ここにはもういられなかった。
しかし、その時、病室の扉が開いた。
隼人が入ってきた。「何の書類だ?操縦士は諦めたんじゃなかったのか?」
第6話
隼人が病室に入ってきた瞬間、時乃はすぐにスマホをしまった。
「なんでもないわ。ただの証明書の更新よ」
彼女の答えに、隼人は眉をひそめた。「そうか?」
疑わしげな視線を向けてくる彼に、時乃はスマホを握りしめたまま、わざと軽い笑みを浮かべた。「どうしたの?こういうことにはいつも興味なかったんじゃなかった?今さら聞くなんて、早く私を操縦士にさせて、あなたから遠ざけたいってこと?」
その一言に、隼人は言葉を失った。
何も返せず、気まずそうに話題を変えた。「体の具合はどうだ。どこかまだ痛むか?」
「紗良のおかげで、快適とは言えないわね」
今も全身がひどく痛み、息をするのも辛いほどだ。
決して嘘ではない。
隼人は溜息をついた。「紗良のことは許してやってくれ。あいつは昔から甘やかされて育ってしまったんだ。わがままだけど、悪気はない」
その言葉に、時乃は思わず笑ってしまった。「悪気がない?じゃあ私が死んでも、うっかりだったって言うつもり?」
あの夜の紗良の態度を思い出す。彼女に悪気がないなんてありえない!
殺すつもりだったとしか思えない。
隼人は眉をひそめ、「何を言ってるんだ。時乃、お前は......」
「何を言ってるか、あなたが一番わかってるはずよ。――私、本当にあなたを好きになったことを後悔してる」
彼の顔色がさっと変わった。「もういい加減にしろ!」
昔なら、彼は時乃が身を引くことを当然と考えていた。彼女の想いなど、どうでもよかった。
だが、今のその言葉はなぜか彼の胸をざわつかせた。
「もう紗良には反省させてる。それで十分だろう」
彼のその言葉に、時乃は心底呆れた。命を落としかけた代償が反省だけ?
自分は一体何なのか。
「謝らせて」
はっきりと言った時乃に、隼人はすぐさま首を振った。「それは無理だ。紗良に約束したんだ。どんなことがあっても、彼女に辛い思いはさせないって」
初めてだった。時乃が、退くことなく、視線を真っ直ぐに向けて言った。「今回は彼女が悪い。謝るのは当然じゃない?」
「紗良はプライドが高い。そんなことをさせたら機嫌が悪くなる」
――紗良の機嫌のために、自分の命を天秤にかけられた。
どうして、そんな理不尽がまかり通るの?
「もし私がどうしても謝ってもらいたいと言ったら?」時乃の声は静かだったが、どこか決意に満ちていた。
隼人の瞳が冷たく光った。「時乃、いい加減にしろ。分をわきまえろ」
彼女に対してこうして説明すること自体が、彼にとっては珍しいことだった。いつもなら、何を言われても受け流して終わっていたはずなのに。
それなのに今、彼女は全然ひかない。いや、今日の彼女はどこか別人のようだった。
彼の言葉はまるで最終通告のようだった。
しかし、時乃はもう限界だった。冷ややかな目で彼を睨み、指で病室の扉を示した。「出て行って」
「何を子供みたいに――」
「出て行けって言ってるの!」
ベッドの上の枕を掴み、彼の胸に向かって思いきり投げつけた。
それでも隼人は立ち尽くしたままだったが、やがて何かを諦めたように呟いた。「ゆっくり休め。また後日、来る」
それだけ言い残し、彼はドアを閉めた。
時乃は、ベッドに倒れ込むように横たわった。
五年も想い続けた恋は、どこまでも惨めで、どこまでも報われなかった。命すら賭けたというのに。
涙が止まらない。両手で目元を覆い、声を押し殺して泣いた。
第7話
その数日間、隼人はまるで別人のように変わった。
病院に来る回数が増えただけでなく、毎回、時乃の好きな海鮮粥を持ってきた。
だが、時乃は一度も彼の顔を見なかった。病院の味気ないご飯のほうがまだましだと思っていた。それが、隼人の罪悪感に過ぎないことを知っていたからだ。
退院して家に戻ると、隼人はいなかった。
時乃は部屋の片付けを始め、かつて自分が丹念に選んだペアグッズや、隼人に贈ったプレゼントをすべて取り出した。
ペアグッズはまとめてゴミ箱に投げ込んだ。プレゼントは、家の執事に渡した。
「時乃さん、これらはどれも未開封のままで、さらに高価なものばかりです。いただくには勿体ない......」
執事は喜びながらも少し遠慮しているようだった。
時乃は、包みすら開けていない品々を見て、ふっと笑みを浮かべた。
どれもこれも、隼人のために期待を込めて選んだものばかり。
しかし、彼は一つも開けていなかった。それが、自分の彼の心の中での居場所を示していた。
あの頃は彼のことだけが頭の中にあって、深く考えなかった。
今思えば、時間も感情も無駄にしていた。
荷物を整理し終えた頃、隼人が帰宅し、紗良もやってきた。
時乃の姿を見ると、紗良は不満げに目を伏せた。「ごめんなさい、おばさん。あの日は私が悪かった。どうか許して」
時乃は驚いた。隼人が本当に紗良に謝らせるとは。
だが、決して喜べなかった。
この数日、目を閉じるたびに息苦しさが頭をよぎり、あの女のせいで死にかけたことを忘れられなかった。
たった一言の謝罪で、すべてを許せるわけがない。
時乃は鋭く紗良を見据え、一語一語はっきりと言った。「受け入れない」
「私と同じ痛みを味わい、ひざまずいて許しを乞うなら話は別。できないならもう私の前に現れないで」
そう言い残し、部屋へ戻った。
紗良の頬は瞬く間に赤く染まり、怒りをあらわにした。「ちょっと、おじさん、聞いた!?あの人、ひどすぎる!」
隼人も、時乃がそこまで言うとは思っていなかった。
彼は階段を上り、ドアを叩こうとした。しかし、ゴミ箱に目が止まった。
そして、顔色がサッと変わった。
中には彼女が自分に無理やり使わせていたペアグッズがぎっしり詰まっていた。
歯ブラシやカップの小物から、シーツや布団カバーまで。
時乃は一体何をしようとしているのか。
ドアを開けると、時乃は淡々と荷物を整理していた。彼は眉をひそめ、「紗良は謝った。まだ不満なのか?」と尋ねた。
しかし時乃は無言で片付けを続け、ベッド脇の二人の写真を取り外し、投げ捨てようとした。
隼人は慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。
ガラスが粉々に砕け散る音が響く。
時乃は二人の写真を手に取り、細かく破いてゴミ箱へ撒き散らしたのだ。
「時乃!一体何をするつもりだ!」
隼人が彼女に冷たさ以外の感情を見せたのは、これが初めてだった。
怒り、困惑――複雑な感情が、その瞳に揺れていた。
時乃は彼の深い瞳をまっすぐに見返し、言った。「何って、ゴミの処理よ」
紗良も上がってきて、隼人の傍で小さく震えながら言った。「おじさん、おばさんは私のことが本当に嫌いなの?だからあんなに怒るの?全部私が悪いの......もしおじさんも私を嫌いなら、私はもうここを出て行く」
涙をためた声が震える。
隼人は急いで彼女を抱きしめ、優しく慰めた。「そんなことないよ、紗良が大好きだ。おばさんはまだ気が動転してるだけだ。少し冷静になれば、また戻ってくるよ」
後半の言葉は、わざと時乃に聞こえるように言ったのだろう。
実際、彼女はそれを聞いてしまった。
時乃は心の中で冷たく笑った。昔、隼人の後ろをついて回り、必死に彼を追いかけていた自分。無理に愛想を振りまいていた自分。それが彼にこんな自信を与えてしまったのだ。
今は?
二人の姿を見るだけで、吐き気がする。
振り返ることなど絶対にありえない。
夕暮れ時、隼人が再び部屋のドアをノックした。時乃は無視しようとしたが、しつこく続くため、苛立ちながらドアを開けた。
隼人は一枚の招待状を差し出した。「今夜、海栖市で航空ショーがある。見に行かないか?」
「行かない」
「お前が一番好きなパイロットが来るんだぜ。今回はこの一回きりらしい。行かないのか?」
第8話
結局、時乃は隼人の誘いを受けることにした。
彼に対する憎しみは確かにある。だが、今回出演するパイロットは、ずっと憧れてきた人物だった。
会場に到着すると、席はすでに満席。
隼人と紗良も姿を見せていたが、時乃は二人の様子には一切関心を示さず、舞台の演出に集中していた。
ショーが終盤に差しかかり、時乃がそろそろ席を立とうとしたその時だった。
突然、頭上を飛ぶ機体が激しく揺れ、制御を失ったかのように観客席へ突っ込んできた。
その進路は、まさに時乃と紗良のいる方向だった。
「機体が制御不能だ!」
観客たちの悲鳴が飛び交い、人々は我先にと逃げ出す。
だが、時乃と紗良は動くことすらできなかった。
人波に囲まれ、足の踏み場さえない。
飛行機がどんどん近づいてくる。紗良は怯え、泣き叫んだ。「やだ......やだよ、私まだ死にたくない!」
時乃の手のひらは汗でびっしょりだった。彼女も恐怖に震えていたが、こういうときこそ冷静でいなければならない。
ようやく、周囲の人の流れが緩んできた。
時乃は素早く出口へ向かおうとしたが、機体はそのまま落下を続け――
ドンッ!
轟音とともに、二人は強い衝撃に吹き飛ばされた。
痛み――それは鋭く、全身を貫いた。
目を開けると、機体の破片が自分と紗良の脚に深く突き刺さっているのが見えた。
「紗良!」
かすかに、誰かの叫び声が耳に届いた。
朦朧とする意識の中、時乃は振り向いた。人混みをかき分けてこちらへと駆けてくる男――隼人だった。
彼の表情には、焦燥と不安、恐れが浮かんでいた。
いつも完璧だった髪も乱れ、彼にしては珍しく必死の姿だった。
彼が駆け寄ってきた瞬間――
「おじさん、痛いよ......助けて!」紗良が泣きじゃくりながら彼に手を伸ばす。
隼人は、一瞬の迷いもなく紗良を抱き上げた。
時乃を一瞥すらせず、その場から去ろうとした。
生きようとする本能が、時乃に叫ばせた。
「隼人!」
その声に彼は振り返った。血まみれの時乃の姿が目に入る。
だが、腕の中の紗良が泣き声を上げ続けている。
そして――「ここで待ってろ。すぐ救護が来るから」
それだけ言い残し、紗良を抱いたまま人波の中へ消えていった。
力を使い果たした時乃は、その場で静かに目を閉じた。
......
気がつくと、そこは病院だった。
白い天井、薬の匂い、そして......脚の感覚がまったくない。
見下ろすと、自分の両脚には分厚いギプスが巻かれていた。
「目が覚めたか。まずは安静にしていろ。紗良に骨髄を移植したばかりで、体が弱ってるからな」
時乃は一瞬、耳を疑った。
「......なに、今の......骨髄?」時乃の声は震えていた。
隼人は淡々と告げた。「紗良の足に刺さった破片が骨にまで達してて、移植が必要だったんだ。急だったから、お前のを使わせてもらった。でも心配するな、骨髄はまた再生するし、数年もすれば元通りになるって医者も言ってた」
まるで、何でもないことのように。
時乃の頭が真っ白になった。
「......あなた、まさか......脚の骨髄を......紗良に移植したの?」
「そうだ。でも安心しろ。ちゃんとお前には償う。お前、前から鍋料理を食べに行きたいって言ってたろ?紗良の手術が終わったら、俺がお前を連れてってやるよ。薬膳鍋が好きだったよな?」
それはまるで――施しだった。ご褒美かのように、彼は言った。何かが、時乃の中でぷつりと切れた。
彼女は震える手で隼人の頬を思い切り叩いた。
その音は、病室にいた助手までも思わず固まってしまうほど響き渡った。
隼人様に手を上げた人間を、助手である彼は見たことがなかった。
「勝手に私の体を使って――私だって怪我したのよ!どうして私のものを、紗良に渡すのよ......っ!」
取り乱した時乃の叫びに、隼人は珍しく何も言わず、そっと彼女を抱きしめた。
「触らないで!」
彼女は汚らわしいものに触れるかのように彼を突き飛ばした。
赤くなった目で彼を睨み、拳で何度も彼の胸を叩く。「返して......私の骨髄を返してよぉ......」
骨髄がなければ――もう飛べない。
もう、空を駆ける未来はない。
パイロットとしての道は絶たれたのだ。時乃は壊れたように泣き崩れた。
隼人はそんな彼女を見つめ、初めて......胸の奥に何かが刺さった。
彼女の笑顔が頭をよぎった――あの、太陽みたいな。
「時乃......」喉が詰まり、ようやく言葉を探し始めたそのとき――
病室のドアが勢いよく開き、医師が声をかけてきた。「隼人さん、紗良さんが目を覚まされました」
その言葉を聞いた瞬間、隼人は何の迷いもなく時乃の腕を放し、立ち上がった。
ドアを出る直前、彼は振り返りこう言った。「体を休めておけ。回復したら鍋、食べに行こう」
そして、部屋を出ていった。
残された時乃は、顔を布団に埋め、声を押し殺して泣き崩れた。
第9話
入院二日目の朝、時乃は母からメッセージを受け取った。
【資格証明書、予定より早く下りたわよ】
たった一言、「わかった」と返信を送った時乃は、すぐさま病院に連絡して退院の手続きを済ませた。
このところ、紗良はまだ術後の回復期で、隼人が自分の病室に顔を出すこともなかった。彼が次に来る頃には、もう自分はこの海栖市からいなくなっているかもしれない――
退院手続きを済ませると、雇っていた介護スタッフに車椅子を押してもらい、飛行センターへと向かった。
そこで証書の発行手続きを終えたあと、再び病院へ戻った。この時間、隼人は会社にいる。病室には、紗良ひとりだけだった。
彼女は快適そうにベッドに寝そべっていた。
ドアが開く音に気づき、彼女は顔を向けた。「何しに来たの?」
時乃はまっすぐ彼女を見つめた。「ちょっと伝えたいことがあって。あなた、隼人が自分に抱いてる感情が普通じゃないって気づいてるでしょ?どうしてだと思う?」
時乃は彼女が戸惑うかと思った。だが、紗良はふっと笑っただけだった。「そんなの、言われなくたって知ってるわよ。おじさんが私のこと、好きなんでしょ?」
時乃は目を見開いた。「......知ってたの?」
「当たり前でしょ。私、馬鹿じゃないもの。おばさん、私は気にしないわ。だっておじさんが私を好きなら、私は宗方家の奥様になれるんだもん。そうなったら、宗方家の財産の半分は私のものよ?」
女の目には、欲望の色が浮かんでいた。
時乃の唇がわずかに震えた。「じゃあ、今まで私にしてきたこと、全部わざとだったの? 私を追い出すために?」
「他に何があるの? あなたがいくら彼を愛してても、私が指一本動かせば、彼はあなたを捨てて戻ってくる。あなたが悪いのよ。愛すべき人を、間違えたの」
紗良は腕を組み、誇らしげに笑った。
――そういうことだったのか。
ずっと自分に敵意を向けてきた理由も、これですべて腑に落ちた。
時乃は握りしめていた拳をゆっくりとほどいた。来る前に録音していたが、紗良の冷たい嫌味を録れると思っていたのに、思いがけず紗良の本音が録れていた。
「そう......なら、安心していいわね」
紗良の表情に一瞬疑念が浮かぶ。「どういう意味?」
「私はもう行くわ。宗方家の奥様、その夢、早く叶うといいわね」
そう言い残し、彼女は部屋を後にした。
病院を出たあと、時乃はすぐに先ほどの音声データを定時送信設定にした。
三日後、隼人のスマホへ送られるように――その頃には、自分はきっと外国の空の下にいる。
彼に、紗良が無垢な少女なんかではなかったことを思い知らせてやる。
そして、信頼が壊れていくあの苦しさを、彼にも味わわせてやる。
すべての準備を終えた時乃は、介護スタッフと一緒に、海栖市でも有名な鍋料理の店へ向かった。
彼女の大好きな薬膳鍋を注文した。
スープが煮立つ頃、店の入口から隼人が入ってきたのが見えた。
彼は奥の個室に入っていった。
その直後、時乃のスマホが鳴った。
届いたのは、隼人の位置情報とひと言のメッセージだった。
【今、鍋料理の店にいる。君の好きな薬膳スープを注文した、もうすぐ病院に届ける】
時乃はその通知を一瞥し、何も返さずスマホをポケットにしまった。
食事を終えて、彼女は立ち上がった。
偶然にも、彼の個室の前を通った。
扉の隙間から漂ってきたのは、あの香り――薬膳鍋だけではない。紗良が好きだった寄せ鍋の匂いまで混じっていた。
やっぱり、まだ嘘をついてたんだ。
でももういい。
隼人、私はもう行く。
空港では、桐谷家のプライベートジェットがすでに待機していた。
「アイツ、お前をこんな姿にするなんて......マジでぶっ飛ばしてやろうか?」
兄の桐谷俊一(きりたに しゅんいち)は、かつて明るく元気だった大切な妹がこんなふうに変わってしまった姿を見て、怒りを抑えきれず、すぐにでも隼人を問い詰めに行こうとした。
時乃は兄の腕をそっと掴んで言った。
「もういいの、兄さん。私はあの人に、二度と会いたくない」
「......ああ。行こう。最高の医者を探して、治療してやるよ」
飛行機が離陸すると、海栖市の街並みがどんどん遠ざかっていく。
時乃は静かに、スマホのSIMカードをへし折った。同時に、彼に縛られた五年間の鎖も――完全に断ち切ったのだった。
さようなら、隼人。