プロモーションを読み込み中...
喋れない私を見捨てた幼馴染はもう要らない
幼馴染の想い人は、私が「声を出せないこと」をよく嘲笑っていた。 ある日、彼女は私のコップに激苦の薬草をすり潰して入れ、お腹を抱えて笑い転げた。 「声が出せない人って、どんなに苦くても悲鳴ひとつ上げられないんでしょ?私、それをどうしても見てみたくて」 彼女のエスカレートする嫌がらせは止まらず、今度は私に「舌を出せ」と強要した。 声を出せない人間の舌が、普通の人とどう違うのか。 それを皆の前で見世物にしようとしたのだ。 私は縋るように、傍らにいる幼馴染の森永樹(もりなが いつき)を見た。 「俺がいる限り、誰にもお前を苛めさせない」 かつて彼がくれた、その約束だけを信じて。 しかし、彼は冷ややかな目で私を一瞥しただけだった。 「ちょっと見せるくらい、別にいいだろ。大した事じゃないんだから」 その瞬間、私の中で何かが完全に冷え切った。 込み上げる涙をぐっと飲み込み、カバンの中にある『転校届』をそっと隠す。 ――ええ、そうね。私があなたの前から消えることも。 決して大した事じゃないから、わざわざ教える必要もないわよね。
チャプター (1)
第1章
幼馴染の想い人は、私が「声を出せないこと」をよく嘲笑っていた。
ある日、彼女は私のコップに激苦の薬草をすり潰して入れ、お腹を抱えて笑い転げた。
「声が出せない人って、どんなに苦くても悲鳴ひとつ上げられないんでしょ?私、それをどうしても見てみたくて」
彼女のエスカレートする嫌がらせは止まらず、今度は私に「舌を出せ」と強要した。
声を出せない人間の舌が、普通の人とどう違うのか。
それを皆の前で見世物にしようとしたのだ。
私は縋るように、傍らにいる幼馴染の森永樹(もりなが いつき)を見た。
「俺がいる限り、誰にもお前を苛めさせない」
かつて彼がくれた、その約束だけを信じて。
しかし、彼は冷ややかな目で私を一瞥しただけだった。
「ちょっと見せるくらい、別にいいだろ。大した事じゃないんだから」
その瞬間、私の中で何かが完全に冷え切った。
込み上げる涙をぐっと飲み込み、カバンの中にある『転校届』をそっと隠す。
――ええ、そうね。私があなたの前から消えることも。
決して大した事じゃないから、わざわざ教える必要もないわよね。
第1話
教室の中。
ざわめく生徒たちの声に混じって、ドンッ、と私の机に新しいマイボトルが置かれた。
「ほら、お前の母親が煎じた薬。熱いうちに飲めよ」
樹の顔には、酷く冷たい表情が張り付いていた。
私は少し戸惑いながらもそれを受け取り、ボトルの蓋を開けて中身を一気に飲み干した。
――だけど、今日の薬はいつもと違った。
舌を刺すような、異常な苦み。
顔がぐしゃりと歪み、生理的な涙がポロポロとこぼれ落ちるのにも気づかないほどだった。
それでも私は、いつもの癖で、無表情な樹に向かってふわりと微笑み、そっと両手を差し出した。
だって、これまで彼が薬を飲ませてくれる時は、必ず後に甘いドライフルーツや飴玉を準備してくれていたから。
けれど今回、彼から返ってきたのは、汚い物でも見るかのような嫌悪の眼差しだった。
「飴なんてねぇよ。
いい歳して、薬を飲むのにご褒美が必要なのか? ガキじゃあるまいし、みっともない」
その冷酷な言葉が落ちた瞬間。
私たちのすぐ隣で面白そうに見ていた夕奈が、突然お腹を抱えて吹き出した。
「あはははっ! 無理、お腹痛いっ。
ねぇ、本当に声が出せない人って、あんなに苦いものを飲まされても悲鳴ひとつ上げられないんだね!」
彼女はひとしきり笑い転げた後、ニヤニヤと悪意に満ちた笑みを浮かべたまま私を覗き込んだ。
「言葉ちゃんって、ほんと騙されやすいよねぇ。
樹くんの言うことなら、なんでも信じちゃうんだ?」
夕奈の唇が、三日月のように吊り上がる。
「そのボトルの中身、ただの薬じゃないよ。罰ゲーム用の激苦草(げきにがそう)のすり下ろし」
えっ……?
一瞬、頭が真っ白になった。
口内に残る酷い苦みよりも、胸の奥からじわじわと広がる苦しさに息が詰まりそうになる。
私は震える手で手話を紡ぎ、樹に問いかけた。
『彼女の言っていること、本当なの?』
樹はふいっと顔を逸らし、窓の外へ視線を投げた。
何も、答えない。
……彼が答えに窮した時、いつもこうやって沈黙して逃げることを、私は誰よりも知っていた。
それが『答え』だ。
私は手元のマイボトルを力強く握りしめ、ゴミ箱へ捨てようと立ち上がった。
しかし、夕奈がわざとらしく私の行く手を遮り、隣の樹の腕に甘ったるい声で擦り寄った。
「ねぇ樹くぅん。あんなに苦いのに、なんで彼女は声も出さないのかなぁ?
もしかして、本当は喋れるのに、ただ喋りたくないだけだったりして?」
樹は、私には見せたこともないような甘く優しい手つきで、夕奈の髪をぽんぽんと撫でた。
「さあね。そんなこと、俺にはどうでもいい」
――どうでもいい。
その冷たい響きに、心臓が大きく跳ね、そしてドクンと嫌な音を立てた。
胸の奥からせり上がってくる絶望感は、先ほどの薬草の何倍も、何十倍も苦くて、息をするのすら辛かった。
だが、夕奈はその答えでは満足できなかったらしい。
彼女はわざとらしく頬を膨らませ、床をドンッと足で叩いて拗ねてみせた。
「むー。本当は、幼馴染の言葉ちゃんが可哀想だなって思ってるんじゃないの?
実はこっそり、ただの苦くない薬にすり替えてたりして。……だめ、私がこの舌で確かめてみる!」
言うが早いか、彼女は私の手から強引にマイボトルを奪い取り、底に残っていた残骸を勢いよく口に含んだ。
しかし次の瞬間。
「――っ、ペッ! げほっ、にがっ!?」
彼女は顔をしかめ、あろうことか私の机のすぐ横に、口に含んだものを吐き出したのだ。
「自分から痛い目を見にいくとか、馬鹿だろ」
樹は呆れたようにため息をつくと、ポケットからティッシュを取り出し、彼女の口元を拭ってやろうとした。
「ティッシュじゃダメ」
夕奈はそれを避けるように首を振り、そのまま彼の手をぐいっと引いた。
そして、樹の胸元にすっぽりと収まるように身を寄せると、背伸びをして――
そのまま、彼の唇に自らの唇を重ねたのだ。
「ほんとに苦いんだから。樹くんも味わってみて?」
触れるだけの、甘いキス。
唇を離した夕奈は、ほんのりと頬を染めながら彼を見上げた。
「テスト合格。おめでとう、私の『彼氏』さん」
彼女は樹の小指に自分の小指を絡ませると、こちらを振り返り、これ以上ないほど勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ね、見ての通り。樹くんは今日から私の彼氏になったの。だからもう、彼に甘えてお菓子をねだるなんて図々しい真似、二度としないでよね。
この、口無し女!」
私を嘲笑う夕奈の声に重なるように、樹が、氷のように冷たい視線を私に向けて言い放った。
「いつまで突っ立ってんだよ。さっさと行け。
それとも、まだ俺たちのこと見足りないのか?」
私は弾かれたように背を向け、逃げるようにその場を後にした。
誰もいない階段の踊り場まで駆け抜け、ようやく目尻から溢れ落ちる涙を手の甲で拭う。
ああ、終わったんだ。
私の長くて、惨めな初恋は――今日、完全に終わった。
第2話
私と樹は、幼馴染として一緒に育った。
しかし、私たちの身分は天と地ほど離れていた。
私の父は森永家のお抱え運転手で、母は住み込みの家政婦だったからだ。
あれは、樹が十歳の時のこと。
彼は母親への誕生日サプライズを準備するため、こっそり家を抜け出した。
運転手である父が車を出し、樹の強い希望で、私もそれに同行することになった。
その日は、前が見えないほどの豪雨だった。
悪天候で車が立ち往生してしまったところを運悪く、森永家の財産を狙う拉致犯の集団に襲われたのだ。
父は私たち子供を必死に庇い、犯人たちに何度も鉄パイプで殴られ、両足を粉砕骨折した。
森永家は父の命を救った恩義から、莫大な費用を出して最高の医療を受けさせてくれた。
……それでも、父の足には生涯治らない重い障害が残ってしまった。
そして私も――その事件の凄惨なトラウマから、二度と声を出すことができなくなった。
事の発端となった樹はひどく自分を責め、私のそばを片時も離れようとしなかった。
「言葉が喋れるようになるまで、治療費はすべて森永家が負担するから」
彼はそう言い張り、そして私にひとつの約束をくれた。
「言葉が喋れなくたって、俺がいる限り、誰にもお前を苛めさせない。
お前がまた、自分から声を出してくれるまで……俺はずっと待ってるから」
その言葉に嘘はなかったと思う。
ここ数年、彼は本当に私を守ってくれていた。
私の声が出せないことをからかったり、少しでも悪意を向けたりする者がいれば、彼が必ず前に立って反撃してくれた。
でも、彼には「見えていないこと」がたくさんあった。
たとえば、私の治療費のこと。
表向きはすべて森永家が負担していることになっていたが、現実は違った。
樹の母親が毎月渡してくれるのは、最低限の診察代だけ。
高額な薬代や精密検査の費用といった負担の大きい出費は、結局すべて両親の細々とした給料から支払われていたのだ。
そしてもう一つ、彼が知らないこと。
最近になって、私の失声症に少しだけ回復の兆しが見え始めた。
両親は私をさらに設備の整った専門病院へ通わせたいと願ったが、雇われの身の微々たる収入では、到底そんな余裕はない。
悩みに悩んだ末、両親は今年の年末で森永家を退職し、地元である田舎の高校へ私を転校させる決断を下したのだ。
樹と離れ離れになることへの未練。
そして、声が出せないまま新しい環境に飛び込むことへの恐怖。
その二つが入り混じり、私は高校三年生の卒業まで、なんとかこの街に残りたいと両親を説得するつもりだった。
――でも、今は違う。
こんな場所、もう一秒でも早く逃げ出したかった。
……
放課後。約束通り、私は森永家の本邸へと向かった。
樹の母親である森永雅恵(もりなが まさえ)奥様は、応接室に入るなり単刀直入に切り出した。
「言葉ちゃん。小さい頃からずっと、樹はあなたを庇ってきたわよね。
あの子が昔、お父様に助けていただいた恩は……もう十分に返したと思わない?
ご両親も森永家を辞めることだし、あなたも一緒に実家へ戻るのが筋というものよ」
上品な笑みを浮かべてはいるが、その声音には有無を言わせぬ絶対的な圧力が孕んでいた。
私は表情を崩すことなく、あらかじめ用意しておいたスマートフォンの画面を雅恵奥様の目の前に差し出した。
メモ帳アプリには、こう打ち込んである。
【ご安心ください。すでに転校届は書いてあります。明日、学校からハンコをもらい、来学期には地元の学校へ移ります】
私がこれほどあっさりと引き下がるとは思っていなかったのだろう。
雅恵奥様は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに次の要求を突きつけてきた。
「言葉ちゃん、この転校の話……しばらくは樹には内緒にしておいてくれないかしら。
あの子は将来、須賀家のご令嬢である夕奈ちゃんと政略結婚することになっているの。
それに、今は三年生で受験も控えている大事な時期。あなたの転校を知れば、少なからずあの子の心境に悪影響が出るわ。
冬休みに入るまで待ってちょうだい。そうすれば、あなたのいない生活に慣れる時間も十分に取れるから。ね?」
私は小さく頷き、再びスマホの画面に文字を打ち込んだ。
【分かりました。彼には絶対に言いません】
話が終わり、私はうっすらと積もり始めた雪を踏みしめながら本邸を後にしようとした。
「言葉!」
突然、どこからともなく樹が現れ、私の前に立ち塞がった。
驚く間もなく、彼は抱えていた大きな高級菓子のギフトボックスを、私の腕の中に強引に押し付けてきた。
「今日のこと……その、ごめん」
ポンポン、と。彼はまるでペットをあやすように私の頭を撫でた。
「両親がずっと俺と夕奈を婚約させようとしててさ。俺は今までずっと断ってたんだけど」
彼はわざとらしく、酷く悩んでいるような顔で深々とため息をついた。
「実は最近、うちの会社で資金繰りが上手くいかなくて、須賀家の融資がどうしても必要なんだ。夕奈の奴、俺からアプローチして恋人になれば、父親に頼んで助けてやるって言い出して……
だから、今日の朝、お前のボトルに激苦草を入れたのも……本当に悪かったと思ってる」
第3話
言い訳ばかりが並ぶその言葉を、私はただ静かに聞き流し、手話で短く返した。
『次は、もうやめてね』
私の無表情な反応を見て、彼の中で「私がまだ機嫌を損ねている」と変換されたらしい。
背を向けようとした私の腕を、樹は慌ててガシッと掴んだ。
「俺が本当に好きなのはあいつじゃない! 今あいつと一緒にいるのは、会社を救うためのただの時間稼ぎなんだよ。
言葉、俺を待っててくれないか?」
私を見つめるその眼差しは、吐き気がするほど真摯で、甘ったるい期待に満ちていた。
あまりの寒さに、私は思わず小さく鼻をすすった。
すると彼は眉をひそめ、自分の首に巻いていたマフラーを外して、私の肩にふわりと掛けた。
その瞬間――
月明かりと雪の反射が、彼の首元をくっきりと照らし出した。
そこには、生々しく赤い、いくつもの痕が刻まれていた。
……キスマークだ。
私は声が出せないだけで、何も知らないわけじゃない。
それが、どういう行為の果てに付けられる痕跡なのかくらい、嫌でも分かった。
肌が粟立つような嫌悪感を覚え、私はサッと視線を逸らし、彼のアピールには一切応えずに首を横に振った。
「おい、ダンマリ」
樹が焦ったように私を追いかけてくる。
彼は余裕がなくなった時だけ、私のことをこうやって意地悪く呼ぶのだ。
「お前、首を横に振ったのはどういう意味だよ?
別に気にしてないってことか? それとも、俺を許さないって意味かよ?」
私が唇を強く噛み締め、黙って歩き続けると、彼はしつこく食い下がってきた。
「言葉、もしかして母さんに何か言われたのか? だから俺を無視してるのか?」
私は小さくため息をつき、彼に向けて素早く手話を切った。
『ううん。ただ寒いから、早く帰りたいだけ』
『苦い薬を飲むのにはもう慣れたから、お菓子は必要ないの』
私は、彼から押し付けられた高級菓子の箱を、その胸にドンッと押し返した。
『そのお菓子は、彼女にあげて』
それだけ伝えると、私はさらに足早に歩き出した。
箱を抱えたまま、樹が呆然と雪の中に立ち尽くしていることなど、振り返らなくても分かっていた。
やがて、私の背中に向かって彼が声を張り上げるのが聞こえた。
「言葉、信じてくれ! 須賀家の融資さえ引き出せたら、俺はすぐにまたお前のそばに戻って、お前を守るから! 絶対に待っててくれよな!」
雪に吸い込まれるような静寂の中、彼の叫び声は痛いほどはっきりと鼓膜を叩いた。
それでも、私の足が止まることは一度もなかった。
――樹、私はもう、あなたの言葉を何一つ信じない。
明日には、お父さんとお母さんが一度実家へ帰ってしまう。
今はただ、両親と一緒に過ごせる残り少ない時間を大切にしたかった。
……
森永家の敷地内にある、使用人用の離れ。
家に戻ると、母が弾んだ声で「いい貸店舗が見つかったのよ」と教えてくれた。
すでに雅恵奥様からは休暇の許可をもらっており、明日から一度地元に戻って、お店の開業手続きを進めるつもりらしい。
希望に満ちた両親の顔を見て、私は嬉しくなり手話で伝えた。
『お父さん、お母さん。お店が大繁盛しますように』
母は目を細め、私の茶碗に、私の大好物である豚の角煮をコロンと乗せた。
その顔には、どこか名残惜しそうな色が浮かんでいる。
「言葉……やっぱりお母さんたち、あなたをここに残していくのが心配だわ。
開業の準備が本格的に始まったら、もう頻繁にはこの街へは来られなくなるからねぇ。あなたは昔から食いしん坊だから、学食のメニューが口に合うかしら。
それにね、いくら寒くなったからといっても、体育の後は汗をかくでしょう? 上着を脱いだら、ちゃんとすぐに着ないと風邪を引くわよ」
……母の心配を帯びた小言は止まらない。
隣で黙って聞いていた父は、そっと私に一冊の通帳を差し出した。
「言葉。これは父さんと母さんが、何年かかけて貯めたお金だ。お店の開業資金を差し引いたら大して残っていないが……それでも、数年分の治療費くらいにはなるはずだ。
いいか。私たちが実家に戻っても、ちゃんと定期検診には通うんだぞ。最近やっと、簡単な音くらいは出せるようになってきたんだから。お金を惜しんで治療を辞めるようなことだけは、絶対にしてはいけないよ」」
両親の言葉が、一言一言、深く胸に突き刺さる。
ギリギリで堪えていた涙が、今にも決壊してしまいそうだった。
私は箸を強く握りしめ、必死に俯いたまま、ご飯を口に掻き込んだ。
「どうしたの、言葉?」
母が私の異変に気づいて、心配そうに顔を覗き込んできた。
私は首を横に振り、昨日準備しておいた『転校届』を取り出して、両親に向けて手話を切った。
『お父さん、お母さん。私も一緒に、実家へ帰る』
『……二人と、離れたくない』
その手話を見た母は驚きで目を丸くした後、パァッと顔を輝かせて何度も頷いた。
「お母さんたちもね、本当はあなたに一緒に来てほしかったの。言葉は声が出せないから、私たちがそばにいてやれないのは不安だったし。
それにあなた、昔から心配をかけまいと、辛いことを全部自分の中に溜め込んじゃう子だから……
もし誰かに苛められてても、私たちが気づいてやれないんじゃないかって……ずっと、心配で……」
そう言いながら、母の目からもポロポロと涙がこぼれ落ちた。
私は母の温かい胸に飛び込み、声を上げることもできず、ただただ肩を震わせて泣きじゃくった。
翌朝。
両親を見送るため外へ出たところで、間の悪いことに樹と鉢合わせた。
第4話
彼の肩にはうっすらと雪が積もっており、その手には大きな紙袋が握られていた。
「おじさん、おばさん。実家へ戻られると聞いたので、餞別を持ってきたんです」
両親は遠慮して断ろうとしたが、彼の強い押しに負けて結局それを受け取ることになった。
出発の直前、母は赤く腫れた目で樹に向かって頭を下げた。
「私たちがいない間、もし言葉に何か困ったことがあったら……少しでいいから、あの子の力になってやってくれないかしら」
樹は快く「もちろんです」と頷いた。
――しかし、振り返った彼の笑顔が、ピシリと凍りついた。
少し離れた場所から、夕奈がジッとこちらを睨んでいたのだ。
彼女はひどく不機嫌そうな顔をして、無言のまま踵を返して歩き去ってしまった。
その日一日中、私の胸の奥ではずっと嫌な予感が渦巻いていた。
なんとかやり過ごし、迎えた午後の体育の授業。
不運なことに、私は体育倉庫への用具の片付け当番に当たってしまった。
一人で重い用具を時間をかけて定位置に戻し、ようやく外に出ようとした――その瞬間。
バタンッ!
目の前で、勢いよく扉が閉められた。
ビクッと肩を揺らす私の耳に、扉の向こうから夕奈と樹の話し声が聞こえてきた。
「お姫様、今度は何がお気に召さないんですか? 昨日からずっと俺を無視してるじゃないか」
樹の口調は文句を言っているようだが、その声には彼女を甘やかすような笑みが滲んでいた。
「幼馴染のあの子とはもう線引きをするって言ってたのに。じゃあなんで今朝、一緒に登校してたのよ!」
夕奈が怒ったように床をドンッと踏み鳴らす音がする。
「今日あいつの両親が地元に帰るから、俺も見送りに行って、そのついでに車で一緒に学校へ乗せてきただけだろ」
樹は宥めるように説明した。「前にも言ったけど、あいつの親父さんは俺の命の恩人なんだ。どうしても関わりをゼロにすることはできないんだよ」
夕奈の機嫌が少し直ったのか、声がワントーン明るくなった。
「ふーん。まぁ、そういうことなら許してあげる。
でもさ、樹くんって今まで何人も女の子と付き合ってきた、有名なプレイボーイでしょ? なんで、あんな身近にいる幼馴染のことは彼女にしなかったの?
もしかして……本命すぎて、大事に大事に取っておきたいから?」
夕奈の意地悪な問いかけに、樹はすぐには答えなかった。
体育倉庫の周囲に、一瞬の沈黙が落ちる。
私は息を殺し、自分が少しでも物音を立ててしまわないよう、両手で口元を強く覆った。
少しの思考の間の後。
扉の向こうから、樹が鼻で笑うような、酷く冷淡な声が響いた。
「言っただろ、あいつとの間に恩義以上の感情なんてないって。
それに……恋人同士になったら、キスくらいするだろ?」
チュッ、と軽いリップ音が響く。
おそらく彼が夕奈の唇にキスを落としたのだろう。
「お前さ。声も出せないような気味の悪い女と、キスなんてできると思うか?」
その言葉に、夕奈が「ふふっ」と吹き出した。
「ふーん。まぁ、合格ってことにしてあげる」
すっかり機嫌を直したらしい夕奈を見て、樹も笑いながら言葉を続けた。
「だいたいさ、俺はあいつと一緒にいると、あいつが声を出せないって事実に直面して、昔俺が命を狙われた時のことを思い出すんだよ。正直、トラウマをえぐられるようで気味が悪い。
目の前が血まみれになってさ。そりゃ、あいつも恐怖で声が出なくなるわけだ。
……だから、俺があいつを好きになることなんて、絶対にありえない」
その酷薄な声とともに、二人が抱き合う気配がした。
「可哀想に。よしよし」と、夕奈が甘ったるい声で彼の背中をポンポンと叩く。
――私は、暗い倉庫の中で一人、石のように硬直していた。
爪が手のひらに深く食い込み、血が滲むほど強く握りしめていた。
目頭がカッと熱くなり、鼻の奥がツンと痛む。
おかしいな。
もう、この街を出て行くと決めたのに。
彼のことは、もう何も信じないと決めたのに。
どうしてまだ、こんなに胸が痛いんだろう。
……でも、大丈夫。
この『転校届』にハンコを押してもらえれば、もう二度と、あんな顔を見なくて済むんだから。
二人は長い間、扉の向こうで抱き合っていた。
ようやく立ち去ろうとした時、樹が夕奈に釘を刺す声が聞こえた。
「言葉のやつは、ただの世間知らずなガリ勉だ。だからお前も、あまりあいつをいじめるなよ。親父さんに泣きつかれたら、俺の立場が悪くなるからな」
「もー。じゃあ、これからの樹くんの態度次第かなっ!」
二人の楽しげな足音が遠ざかっていくのを確認し、私は冷たい床からゆっくりと立ち上がった。
痺れて感覚のなくなった足をさすりながら、静かに倉庫を出る。
そのまま職員室へ向かい、あらかじめ用意しておいた転校届を提出した。
担任の教師は少し驚いていたが、引き止めることもなく、あっさりと書類に承認のハンコを押してくれた。
これで、全部終わった。
全てから解放されたような安堵感とともに、新しい生活への希望を胸に抱いて職員室を出た。
――だから、気づかなかったのだ。
私のすぐ目の前に、いつの間にか彼が立っていたことに。
「……手に持ってるの、なんだ?
最近、お前ずっと俺に何か隠し事をしてるよな」
樹は眉をひそめ、私の行く手を塞ぐように立ち塞がった。
私は転校届を胸に押し当てるようにして、両手で強く握りしめた。
絶対に、彼には知られたくない。
私が頑なに口を閉ざしていると、彼は苛立ったように舌打ちをし、その長身を活かして上から覗き込み、紙を奪い取ろうと手を伸ばしてきた。
「おい、見せろよ。『……届』?」