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私の鼓動が止まるとき
私は灯里(ともり)、お母さんに連れられて、心理検査を受けに行った。 質問票に記入していて、私が「よく悲しい気持ちになる」にチェックを入れた途端、お母さんは手を伸ばし、すぐにチェックを消した。 「何を悲しむことがあるの?家で不自由なんてさせてないでしょう?」 私が「人と話すのが怖い」を選ぶと、お母さんはまた眉をひそめた。 「小さい頃はあんなに明るかったじゃない。適当なことを書かないで」 私は言い返さなかった。 お母さんが悲しくないと言うなら、私は「まったくない」に直した。 お母さんがよく眠れていると言うなら、私は「よく眠れない」を消した。 1枚の質問票を書き終える頃には、ほとんどすべての答えをお母さんの望むとおりに選び直していた。 お母さんはそれを二度見返し、満足そうにうなずいた。 「そう、それでいいの。適当なことを書いちゃ駄目でしょう?もし間違った結果が出て、病気でもないのに病気だと判定されたらどうするの?」 結局、検査結果は「正常範囲」だった。 お母さんはようやくほっとした。 帰り道、私はずっと袖口の下に隠れた傷痕をなぞっていた。 鼓動だけがやけにはっきり聞こえるのに、目の前の世界はぼやけ、遠ざかっていった。 最後には、ただ真っ白な空白だけが残った。音もなく、何もなかった。
チャプター (1)
第1章
私は灯里(ともり)、お母さんに連れられて、心理検査を受けに行った。
質問票に記入していて、私が「よく悲しい気持ちになる」にチェックを入れた途端、お母さんは手を伸ばし、すぐにチェックを消した。
「何を悲しむことがあるの?家で不自由なんてさせてないでしょう?」
私が「人と話すのが怖い」を選ぶと、お母さんはまた眉をひそめた。
「小さい頃はあんなに明るかったじゃない。適当なことを書かないで」
私は言い返さなかった。
お母さんが悲しくないと言うなら、私は「まったくない」に直した。
お母さんがよく眠れていると言うなら、私は「よく眠れない」を消した。
1枚の質問票を書き終える頃には、ほとんどすべての答えをお母さんの望むとおりに選び直していた。
お母さんはそれを二度見返し、満足そうにうなずいた。
「そう、それでいいの。適当なことを書いちゃ駄目でしょう?もし間違った結果が出て、病気でもないのに病気だと判定されたらどうするの?」
結局、検査結果は「正常範囲」だった。
お母さんはようやくほっとした。
帰り道、私はずっと袖口の下に隠れた傷痕をなぞっていた。
鼓動だけがやけにはっきり聞こえるのに、目の前の世界はぼやけ、遠ざかっていった。
最後には、ただ真っ白な空白だけが残った。音もなく、何もなかった。
第1話
「だから、何ともないって言ったでしょ。あんたのことは、医者よりお母さんのほうがよく分かってるわよ。まったく、無駄足だったわ」
帰りの車で、お母さんは検査結果を撮影し、親族のグループLINEに送った。
わざわざ【判定:正常範囲】という部分を丸で囲んでいた。
【今日、検査に連れていったけど、何ともなかったわ。灯里が勝手に思い込んでいただけみたい】
送信した途端、親戚たちから次々と返信が来た。
叔母さんからは【うつ病のはずがないって、前から言ってたでしょ。こんなに恵まれた家なのに、何がつらくてうつになるの?】と届いた。
叔父さんは【今の子はスマホばかり見て、覚えた言葉をすぐ自分に当てはめるんだ】と送ってきた。
最後に、お父さんから返信が来た。
【何ともなくてよかった。もう騒ぐな。お母さんがどれだけ大変な思いで世話をしているか、少しは考えなさい】
お母さんは満足そうにスマホを置いた。
「ほら、みんな何ともないって言ってるでしょ。あんたが少しぐずっただけなのに、お母さんは朝早く起きて付き添ったのよ。
うつだなんて。事情を知らない人が聞いたら、お母さんがあんたを虐待しているみたいじゃない」
私は画面を見つめたまま、うなずいた。
「うん。私は何ともない」
お母さんは少し驚いた。私がこんなに早く認めるとは思っていなかったのだろう。
私はうつむいた。
助けを求めるたび、お母さんはいつも私より先に取り乱した。
「お母さんだって、自分がうつだなんて言えないのよ。あんたよりずっとつらいんだから。あんたのために朝から晩まで勉強の世話をして、栄養を考えた食事をあれこれ作って、こんなに心を砕いてきたのに。それでも、お母さんの世話の仕方が悪かったっていうの?」
今回病院へ来たのも、お母さんが一晩中泣いて訴えた末、意地になって決めたことだった。
「分かった。病院に行きましょう。お母さんのせいで、あんたがどうなったのか見てやるわ」
今度は、もう言い返せなかった。
この日から、私はすっかり普通になった。
朝はお母さんに起こされなくても、6時30分ちょうどに起きた。
お母さんが作った朝食を、残さず食べた。
吐き気がしても、最後のひと口まで飲み込んだ。
学校へ行く前、お母さんは私のバッグとスマホを確認した。
私はそばに立って待ち、どうして私のものを勝手に調べるのかとは、もう聞かなかった。
メモアプリに書きためていた暗い言葉を消されても、私は止めなかった。
「こういうことは、書けば書くほど大げさになるの」
お母さんはスマホを返した。
「これからは、楽しいことをもっと書きなさい」
授業中、私はもう机に伏せなかった。
先生に当てられれば、立って答えた。
隣の席の子に最近はよくなったのかと聞かれ、私はお母さんの口調をまね、笑顔で答えた。
「もともと何ともなかったの。少し前は、考えすぎていただけ」
放課後に帰宅すると、自分からお母さんを手伝って野菜の下ごしらえをし、床を拭き、洗濯物を干した。
叔母さんと電話で話すお母さんの声は、すっかり明るくなっていた。
「一度検査を受けたかいがあったわ。この子もやっと分かったみたい。
前は毎日、暗い顔をして、家族みんなが自分に借りでもあるみたいだったけど、病気じゃないと分かったら元気になったの」
電話の向こうで、叔母さんが笑った。
「だから言ったでしょ。子どもにそんなに悩みがあるはずないって」
お母さんが振り返って私を見た。
私はしゃがみ込み、お母さんの足元にある汚れを拭いていた。
お母さんは満足そうに言った。
「やっぱり、逃げても何も解決しないって分からせないとね」
私はうつむいたまま、拭き続けた。
汚れはとっくに消えていた。
それでも、同じ場所を何度も拭き続けた。
夜10時、お母さんが私の部屋のドアを開けた。
私はもうベッドに横になっていた。制服はきちんと畳み、翌日提出する宿題は、バッグの一番上に入れてあった。
お母さんはようやく笑った。
「ほら、普通にしているほうがいいでしょう。
お母さんが前から口うるさくしてきたのも、あんたが道を踏み外さないようにするためよ。大人になれば、あんたのためだったと分かるわ」
私はお母さんを見た。
「ありがとう、お母さん」
お母さんは明かりを消した。ドアの外で、お父さんに音声メッセージを送った。
「安心して。本当にもう何ともないわ。今はとても言うことを聞くし、怖いことも言わなくなったから」
お父さんから「それなら、検査結果はどうして取っておくんだ?」と返ってきた。
「もちろん取っておくわ。また騒ぎだしたときのためよ」
足音が少しずつ遠ざかっていった。
私は目を開けたまま、机を見た。
デスクライトの下には、心理検査の結果のコピーが置かれていた。
【判定:正常範囲。抑うつ傾向は認められません。良好な家族間コミュニケーションを心がけてください】
私は長い間それを見つめてから、新しい日記帳を取り出した。
最初のページに、こう書いた。
【今日は時間どおりに起き、朝食を残さず食べた。授業中はぼんやりせず、放課後はお母さんを手伝って家事をした。
私は元気に過ごしている】
第2話
日記を書き始めて7日目、月例テストの最中に吐いた。
テスト用紙が配られると、教室中の音が、ふっと遠のいた。
試験監督の足音も、答案用紙をめくる音も、窓の外から流れる校内放送も、すべてが混じり合ってひとつの雑音になった。
鼓動だけがどんどん速くなり、胸を打つたびに痛んだ。
担任が私を支えて廊下へ連れ出し、お母さんに電話をかけた。
30分後、お母さんが学校へ駆けつけた。
担任が言った。
「顔色がよくありません。今日はもう帰宅させましょう」
「その必要はありません」
お母さんはバッグから、あの心理検査の結果を取り出した。
最近はいつも持ち歩いていて、折り目の縁はもう毛羽立っていた。
「数日前に検査を受けて、何の問題もなかったんです。それなのに月例テストのときに限って吐くなんて、こんな偶然がありますか?」
廊下には、ちょうど教室を出ていたクラスメートが何人かいて、検査結果と私を交互に見ていた。
担任が声を落とした。
「強いストレスが原因かもしれません」
お母さんの目がたちまち赤くなった。
「ストレスがあるのは、この子だけですか?私はこの子の世話で自分のこともできないんです。
心の病気だと言うから、すぐ検査に連れていきました。
結果には、はっきり病気ではないと出ています。それなのに、またこんな騒ぎを起こして。私はいったい、どうすればいいんですか?」
私はその場に立ち尽くした。クラスメートたちの視線が、針のように突き刺さった。
前のときも、テスト中だった。苦しくなって試験会場から飛び出した。
駆けつけたお母さんは、みんなの前でいきなり私の頬を叩いた。
「ほかの子はみんな平気なのに、どうしてあんただけ問題ばかり起こすの?」
具合が悪いと言えば、大げさだと言われた。動悸が激しくておかしいと言えば、テストから逃げたいだけだと言われた。
だから今回は、お母さんがこちらを向いて私に尋ねた。
「まだテストを受けられる?」
私はうなずいた。
「受けられる」
お母さんはようやくほっとした。
「ほら、この子も自分で受けられると言っています」
私は試験会場へ戻された。
最後列のそばを通ったとき、誰かが小声で言った。
「あの子、うつ病なんじゃなかったの?」
別の誰かが笑った。
「うつ病?なんちゃってうつでしょ。お母さんが検査結果まで持ってきたんだから、演技だよ」
何人かが口元を押さえて笑った。
私は席に戻り、ペンを手に取った。
テスト用紙の文字がひとかたまりに見え、私はそれを1文字ずつ書き写した。
それでも、最後までは耐えられなかった。
午後、担任に呼ばれて職員室へ入った。
お母さんはすでにそこに座っていた。
お母さんの前にはテスト用紙が広げられ、後半の大部分は空欄だった。
お母さんは私を見ず、先生の手を握ったまま、涙を次々とこぼした。
「先生には、私がどれほど大変か分からないんです。
この子が心に問題があると言うから、すぐ予約を取って検査に連れていきました。結果が出たのに、それでもこの有様です。
この子を満足させるには、私はどうすればいいのか、本当に分かりません」
職員室にいた先生たちが、みんなこちらを見た。
誰かがお母さんにティッシュを差し出した。
担任がため息をついた。
「親御さんも本当に大変ですね」
担任は私に顔を向けた。
「お母さんがこんなにあなたのことを考えているんだから、少しはお母さんの気持ちを分かってあげないと」
私はうなずいた。
「ごめんなさい、お母さん。私が悪かった」
帰宅すると、お母さんは途中までしか書けなかったテスト用紙を撮影し、親族のグループLINEに送った。
【今日も月例テストの途中で吐いて、答案も途中まで。試験になると、またぐずり出すのよ】
叔母さんからすぐに返信が来た。
【それはダメなの。まだ厳しくしないと】
叔父さんからは、こう届いた。
【打たれ弱すぎる。その点は姉ちゃんに似なかったんだな。姉ちゃんは昔から自立心が強かったのに、どうしてこんな意気地なしの子が生まれたんだろう】
最後に、お父さんから返信が来た。
【きっと一人でいるから、また余計なことを考えるんだ。これからは部屋のドアを閉めさせず、なるべく一人にしないほうがいい】
その晩、お父さんは工具を持って私の部屋に入ってきた。
ねじが1本ずつ床に落ちていった。
私はベッドのそばに立ち、ドアが取り外されるのを見ていた。
お母さんは腕を組み、部屋の外に立っていた。
「あんたは一人でいる時間が長いから、余計なことばかり考えるの。
前にまた大げさなことを言い始めたとき、ドアを外そうとしたら、あんたはどうしても嫌だと言った。でも、またこんなことをしたんだから、もう甘やかさないわ」
私は震えながら、必死にドアノブをつかんだ。
それは、私の心に残った最後の砦のようだった。
お願いしたかった。けれど、お母さんがどんなひどいことを言い、私のためだと泣きながら訴えるのか、そればかりが頭に浮かんだ。
そう思うと、何も言えなくなった。
その日から、私はもう部屋のドアを閉められなくなった。
着替えるときは、布団にもぐり込むしかなかった。
夜、眠れなくても、寝返りさえ打てなかった。
お母さんは何度も部屋の前を通っては、私が隠れて泣いていないか確かめた。
その日の深夜、お母さんはその夜四度目となる見回りに来た。
お母さんがお父さんに言うのが聞こえた。
「ほら、今はこんなに静かでしょう。
もっと早くこうすればよかったのよ。今までは甘やかしすぎていたの」
第3話
部屋のドアが外されてから3日目、学校で保護者会が開かれた。
お母さんは30分早く教室に着いた。
担任が生徒の心の健康について話すと、お母さんはすぐに手を挙げた。
「先生、ちょうどそのことをお話ししたかったんです」
お母さんはバッグから、心理検査の結果を取り出した。
「娘も少し前に自分はうつ病だと言い出したので、お金を払って検査に連れていきました。でも、何の病気でもなかったんです」
教室は保護者で埋め尽くされていた。
お母さんは話すほどに興奮していった。
「今はネットのせいで、子どもはすぐ自分にレッテルを貼るんです。成績が悪ければ不安のせい、学校に行きたくなければうつ病、親が少し注意すれば家庭環境のせいで傷ついたと言う。
私たち親がきちんとしつけなければ、子どもはだめになってしまいます」
何人かの保護者が、つられるようにうなずいた。
誰かが尋ねた。
「娘さんは今、どうなんですか?」
お母さんは笑顔で、教室の後ろに立っていた私を見た。
「もうよくなりました。ほら、あんたから皆さんに話しなさい」
全員が振り返って私を見た。
私は教壇の前へ歩いていった。
お母さんが検査結果を私の手に押し込んだ。
「さあ、話して」
握り締めた紙に新しい折り目がついた。私は無理やり笑顔を作った。
「以前は私が考えすぎて、お母さんや先生にご迷惑をおかけしました。今はもう大丈夫です。もう騒ぎません」
教室に拍手が響いた。
一人の保護者がお母さんを褒めた。
「しつけがお上手なんですね。やっぱり、子どもは甘やかしたらだめですね」
お母さんは目を細めて笑った。
「すべて、この子のためです」
翌日、教室に入ると、後ろの席にいた男子生徒たちが私の口調をまねた。
「私は病気じゃありません。考えすぎていただけです」
黒板には、誰かが【判定:正常範囲】と書いていた。
その横には泣き顔が描かれ、下にはこう書かれていた。
メンヘラちゃん。
クラス中が笑っていた。
午後の体育の授業で、先生から800メートル走るように言われた。
2周目に入ると、また動悸が激しくなった。
胸の中に濡れた綿を詰め込まれたようで、息を吸うたびに痛んだ。
後ろから誰かが叫んだ。
「メンヘラちゃん、また始まったぞ」
別の誰かが笑いながら続けた。
「でたらめ言うなよ。あの子には検査結果があるんだから、正常なんだって」
私は止まらなかった。
ゴールに着いたとき、私は地面に倒れた。膝をすりむき、血がすねを伝って流れた。
先生に、脇で休むように言われた。
グラウンドの端に座ると、鼓動が急に遅くなった。
よくなり始めたのだと思った。
放課後、お母さんが私の膝の傷に気づいた。
「どうしたの?」
「走っていて転んだ」
「先生は、あんたが気を失いかけたと言っていたわ」
「気を失ってない」
「また余計なことを考えていたんじゃないの?」
「違う」
私はお母さんを見た。
「朝ごはんを食べなかっただけ」
お母さんの表情が和らいだ。
「ほら、やっぱりそういうことじゃない。
体調が悪いなら、まず体の原因を考えなさい。何でも心の問題に結びつけないで」
家に帰ると、お母さんは茶碗いっぱいにご飯を盛った。
「全部食べなさい。明日また先生に、お母さんがご飯を食べさせていないと思われたら困るから」
私はひと口ずつ飲み込んだ。
食べ終わる頃には、胃がむかつき始めた。
その晩、私は布団に吐いてしまった。
声を出す勇気はなかった。
部屋にはドアがなく、お母さんはいつ通りかかるか分からなかった。
汚れた布団カバーを丸めて机の下に押し込み、その上に制服をかぶせた。
居間では、お母さんが叔母さんと電話で話していた。
お母さんは楽しそうに笑っていた。
「この子、前から大げさだったのよ。私はずっと分かってたわ。
一度検査を受けさせて、部屋のドアも外したら、今はこんなに言うことを聞くようになったわ。
今度あんたの子もうつだと騒ぎだしたら、私のところへ連れてきなさい」
お母さんは少し間を置いた。声には得意げな響きが満ちていた。
「今じゃ、子どもの大げさな訴えを治す名人になれそう」
私は口を押さえ、喉までこみ上げてきた胃液を無理やり飲み込んだ。
第4話
翌日、お母さんはリビングにスマホを立てた。
椅子を2脚運んできて、私を隣に座らせた。
「笑って。そんな暗い顔をしないで」
私は無理に口角を上げた。
「これでいい?」
「もっと自然に」
お母さんは録画を始め、慣れた様子でカメラに笑いかけた。
「最近、子どもがすぐにうつだと言い出すけれど、どうすればいいのかと、たくさんの保護者から聞かれます。
でも、そんなに病気の子がいるわけではありません。スマホを見すぎて、考えすぎて、誰もきちんと注意しないだけなんです」
お母さんは心理検査の結果をカメラの前に掲げた。
「うちの娘も少し前に騒いだことがあります。病院で検査を受けさせたら、何の問題もありませんでした」
カメラが私に向けられた。
お母さんがテーブルの下で私の脚を軽くつついた。
「自分でみなさんに話して。もう大丈夫よね?」
私はスマホに映る青白い顔を見つめた。
「もう大丈夫」
「どうして前は自分が病気だと思ったの?」
「私が大げさに騒いだだけ」
「お母さんに虐待されたことはある?」
「ない」
「お母さんが厳しくするのは、あんたのためよね?」
私はうなずいた。
「うん」
お母さんは録画を止め、何度も見返した。
「今度は上手に言えたわね」
お母さんは動画を保護者のグループLINEに投稿し、ひと言添えた。
【子どもの問題に甘い顔をしてはいけません。甘やかすほど悪化します】
30分もしないうちに、コメント欄はお母さんを褒める言葉で埋まった。
しつけが上手だと言う人がいた。
どうすれば子どもが言うことを聞くようになるのかと尋ねる人もいた。
動画を学校のグループLINEに転送する人までいた。
午後、担任からお母さんに電話がかかってきた。
「動画が広まって、クラスの一部の生徒が話題にしています」
お母さんは笑った。
「見せておけばいいんです。何でもないのに病気のふりをしないよう、あの子たちにも教えられますから」
電話を切ると、お母さんは私にも動画を見せた。
動画の中の私は、ずっと笑っていた。
コメント欄にはこう書かれていた。
【こんなに元気そうなのに、どこが病気なの?】
別の人はこう書いた。
【厳しくしつけられていなかっただけでしょう。ほら、もう治ったじゃない】
お母さんは私の目の前にスマホを置いた。
「誰が見ても、あんたは病気じゃないって分かるわ」
私はうなずき、かすかに笑った。
夜、お母さんはわざわざ、以前、私が一番好きだった唐揚げを作った。
「今日はうれしい日だから、たくさん食べて」
お母さんは私の皿に次々と唐揚げを入れた。
私は一つ残さず飲み込んだ。
お母さんはスマホを持ち上げ、食事をする私の写真を撮った。
「こんなに食べられるのに、うつだなんて言って。
みんなにも、今のあんたがどれだけ元気か見せてあげよう」
私はカメラに向かってニコッと笑った。
2杯目を食べている途中で、胃の中のものがこみ上げてきた。
私は必死に飲み込んだ。
お母さんはまだ、動画についた新しいコメントを見ていた。
「私なら講座を開けるって言ってる人がいるわ。
これからは、大げさに騒ぐ子どもをどう直せばいいか、保護者に教えようかしら」
お父さんも笑った。
「本当にこの子を治したんだな」
夜になると、結局、胃の中のものを吐いてしまった。
私はトイレにひざまずき、口を押さえて声を出さないようにした。
血が手首を伝い、まだ流せずにいた吐いたものの中へ落ちていった。
新しい傷で古い傷跡が開き、治っていた皮膚がまた裂けていた。
赤と白が入り交じっていた。
リビングでは、お母さんの動画がまだ繰り返し再生されていた。
ドア越しに、自分の落ち着いた声が聞こえた。
「私はもう大丈夫」
お母さんの言ったことは間違っていなかった。
私は今日、時間どおりに起き、ご飯をちゃんと食べ、みんなに向かって笑った。
泣かなかったし、もうつらいとも言わなかった。
鼓動が遅くなり始めた。
ひとつ、またひとつ。
間隔がだんだん長くなっていった。
私は胸に手を当て、静かに待った。
今度はもう、鼓動は必死に助けを求めてはいなかった。
……
夜が明けかけたころ、お母さんはトイレの明かりがまだついていることに気づいた。
お母さんはドアを開け、床に倒れている私を見ると、一瞬固まり、そのあと悲鳴を上げた。
お父さんが駆けつけ、救急車を呼んだ。
お母さんは血と吐いたもののそばにひざまずき、何度も私の名前を呼んだ。
けれど、その声はあまりにも遠く、どうしても聞き取れなかった。