第1話
私――桐生寧々(きりゅう ねね)は生まれつきの負けず嫌いで、勝負事となれば必ず一番を取らないと気が済まない。
だからクルーザーの上で、誰かが『決して振り返らないチャレンジ』をやろうと言い出した時も、周りは皆笑いながら「寧々の勝ちで決まりだな」とはやし立てた。
ルールは、その場にじっと立ったまま、何があっても後ろを振り返らないこと。振り返った時点で負けだ。
私の背後には彼氏の深沢研吾(ふかざわ けんご)と親友の浅井茉白(あさい ましろ)が立ち、兄の桐生豪(きりゅう ごう)が私をあの手この手で騙して振り返らせる役回りを引き受けた。
ゲームが始まって間もなく、豪が唐突に声を張り上げた。
「寧々、研吾が茉白の手を握ったぞ」
私が瞬き一つせず前を見据えているのを見て、豪はまた笑った。
「本当に振り返らなくていいのか?あいつら、抱き合ってるぞ」
私はそれでも微動だにしなかった。豪が、どこか引きつった声で口を開くまでは。
「寧々……あいつら、キスしてるぞ」
私を振り返らせるための茶番だと分かっていたはずなのに、私は振り返ってしまった。
だが、研吾は俯き、茉白は顔を仰がせて、二人は本当に唇を重ねていた。
頭が真っ白になり、私は足早に歩み寄って研吾の頬を思い切り平手打ちした。
茉白の瞳は一瞬で潤み、研吾も長いこと押し黙ったままだった。
長い沈黙を破り、ようやく口を開いたのは豪だった。
「寧々、二人ともほんの一時の気の迷いだって。
それに……お前は勝つためなら絶対振り返らないと思ってたからさ。まさか本当に振り返るなんて思わなかったんだよ」
茉白がそこでようやく、おずおずと口を開いた。
「寧々、もう隠したくないの。研吾は昔、4年間ずっと私を追いかけてくれていたの。私たちはただ、大学の4年間を後悔として残したくなかっただけで……」
研吾が大学時代、ある女性を4年間一途に追いかけていたことなら、私もずっと前から知っていた。
その4年間、彼がその女性のために泥酔する姿を見てきたし、一緒に「その女は見る目がない」と悪態をついたことだってあった。
けれど、まさかその女性が、私の親友である茉白だったなんて夢にも思わなかった。
周りの人間は全員、その事実を知っていたのだ。
ただ一人、私だけがピエロのようにずっと騙され続けていた。
第1話
甲板の上は、寄せては返す波の音しか聞こえないほど静まり返っていた。
私の冷たい視線を浴びても、研吾は黙りこくったままだ。先に口を開いたのは、やはり茉白のほうだった。
「寧々、ごめんなさい。私、昔……確かに研吾のことが好きだった時期があったの」
私は鼻で笑った。
「なら、どうして彼と付き合わなかったの?」
「釣り合わないからよ。深沢家がどんな家柄で、私の実家がどういう状況か、あなただって知っているでしょう?」
豪がかばい立てするように割って入った。
「茉白はその当時、自分が研吾に釣り合わないって思い詰めてたんだよ。だから研吾が4年間アプローチしても、最後まで首を縦に振らなかったんだ」
実の兄でありながら、豪はずっと茉白の存在を知っていたのだ。
研吾が一番必死に彼女を追いかけていた頃、豪は彼にプライベートジェットを用立ててやり、有名アーティストを招いて専用のシークレットライブまで開いてやった。
この大掛かりな口説き劇の蚊帳の外に置かれていたのは、私だけだった。
私は自分の兄、婚約者、そして親友をゆっくりと見渡した。
「面白かった?私が何も知らず、ピエロみたいに的外れな悪態をついていたのを、どんな顔で見てたの?」
私の放つ威圧感に、豪は口ごもったものの、それ以上何も言えなくなった。
私は研吾に向き直った。
「答えてよ。すごく面白かったんでしょう?」
研吾がようやく重い口を開いた。
「寧々、俺たちが付き合い始めてからは、俺と茉白の間には何もない。
それに、俺とあいつじゃ家柄が違いすぎて一緒になれるわけがないんだ。さっきのは、ほんの一時の気の迷いでキスしただけだ。
両家の顔に泥を塗って、これ以上事を荒立てる気か?」
豪も頷き、無意識のうちに研吾と茉白の隣に並んだ。
かつては仲の良い4人組だと思い込んでいたのに、今や彼ら3人が肩を並べて立ち、私1人だけがその対岸で冷ややかに孤立していた。
背後から足音が響き、私の両親と研吾の両親が2階のサロンから下りてきた。
このクルーザーは深沢家の所有物で、今回のクルージングには乗組員を除けば両家の人間しか乗っていない。
私の母は、研吾の頬にくっきりと残る平手打ちの痕を見るや否や、早足で駆け寄って私を背後にかばった。
「寧々、研吾に何か酷いことされたの?」
「こいつ、さっき茉白とキスしてたの」
母の表情がぴたりと凍りついた。私は母が怒り狂うのを待っていた。
しかし母は、振り返って父と視線を交わしただけだった。
「お母さん……?まさか、お母さんたちも知ってたの?」
私は弾かれたように、母に握られていた自分の手を引き抜いた。
「寧々、落ち着きなさい。実は大学時代、研吾がうちに来てね、女の子はどういうものを喜ぶのかって、私に何度か相談してきたことがあったのよ」
母は私のただならぬ顔色を見て、耳元の乱れた髪をそっと整えた。
「でもその後、あなたが茉白とあんなに親しくなったでしょう?蒸し返したら、かえって皆が気まずくなると思ったのよ。どうせ研吾は卒業後、あなたを選んで婚約したんだから。もう細かいことに目くじらを立てないでちょうだい」
父も威厳を込めて淡々と言い放った。
「桐生家と深沢家は長年の付き合いで、事業でも深く提携している。お前と研吾も幼馴染だろう。こんな些細な意地の張り合いで、大騒ぎするんじゃない」
私が黙り込んでいると、今度は研吾の母が歩み寄って私の手を握った。
「寧々、結婚というのは当人同士の恋愛ごっこではなく、家と家との結びつきなのよ」
研吾の父も重々しく眉をひそめ、言い聞かせるように口を開いた。
「寧々、男という生き物は、若い頃には火遊びのひとつやふたつするものだ。だが、いざ所帯を持てば必ず家庭に戻ってくる。お前たちのような家柄に生まれた以上、個人の好き嫌いだけで人生を決められないことなど、とうに承知のはずだろう」
私はそれ以上一言も発さず、背を向けて船室へと足早に戻った。
中に入ると内側から鍵をかけ、外からどれほど扉を叩かれても一切応じなかった。
だがしばらくすると、ノックの音すらあっけなく途絶えた。
30分後、ドアの外から豪の潜めた声が聞こえてきた。
「研吾、本当に寧々の様子を見に行かなくていいのか?」
続いて、研吾の冷めた声が返ってきた。
「放っておけ。あいつは昔からそうだ、何でも一番じゃないと気が済まない。今日はゲームで負けた上に、昔の話をいきなり知って、プライドが受け止めきれないだけだ」
第2話
私はスマホを手に取り、研吾とのトーク画面を開いた。
2年間ずっと一番上にピン留めされ、アイコンの右下にはピンのマークが付いていた。
じっと数秒見つめた後、私はピン留めを外した。
トーク履歴を遡ると、膨大なやり取りが画面を埋め尽くしていた。
【冷え込んできたから、上着を着ていけよ。風邪ひくな】
【寧々、胃の調子が悪いなら冷たいものは飲むな】
【会議が終わったら車で迎えに行く。ネイル付き合うから、な?】
そのトーク履歴を、すべて消去した。
今度は写真のアルバムを開いた。去年、40度近い高熱を出した時の写真が目に入った。
あの日の午前3時、熱で意識が朦朧とする私を、彼は必死に背負って病院へ担ぎ込んでくれた。
目を覚ました時、彼は病室のベッドの脇に突っ伏して眠っていた。
写真の中の研吾は寝息を立て、私の手首を今にも折れそうなほど強く握りしめている。
あの時、私はインスタに写真を投稿したのだった。
【私を一生守り抜くって誓ってくれた人がいる】
彼はその投稿に、すぐさまコメントをくれた。
【当たり前だ。絶対に約束は守る】
さらにアルバムをスクロールする。
私たちの初めての旅行、初めてのキス、そして生後間もない子犬のマメを二人で引き取った日の写真。
1枚ずつ写真を削除していくうちに、突然ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
もし、これらすべてが最初から偽りだったなら、ここまで胸を引き裂かれることはなかっただろう。
あの頃の研吾が心から私を大切にしてくれていたことを、私自身が一番よく知っているからだ。
けれど涙を流すうち、これまで何気なく見過ごしてきた数々の違和感が、鮮明に脳裏をよぎり始めた。
ある時期、研吾はしきりに求人サイトをチェックしていた。
「あなたの会社、いつからブランドマネジメントの中途採用を始めたの?」
「いや、知り合いに頼まれて少し探してるだけだよ」
その後、茉白は急成長中の有名企業に転職を果たした。
あろうことか、それ以来、研吾は定期的にその会社のある地域へ出張を繰り返すようになったのだ。
私は笑って彼をからかったことさえあった。
「深沢グループが、どうしてあんな業界の会社と業務提携なんてするの?」
今になってようやく合点がいった。そこに、茉白がいたからだ。
その後、彼女の社内での出世は異様なほど早く、誰もが血眼になって奪い合う大型案件をいくつも手中に収めていった。
茉白にしてもそうだ。彼女はやたらと私と研吾の馴れ初めや関係性を詮索したがっていた。
かつて、彼女はこんなことすら尋ねてきたことがあった。
「もし彼の中に、どうしても忘れられない女性がずっと残っていたら、寧々は気にする?」
あの時の私は、笑い飛ばしながらこう答えたのだ。
「そうね、もし浮気なんかしたら、即座に婚約破棄して二度と振り返らないわ」
スマホが手のひらからすり抜け、ベッドの上に落ちた。
その言葉が、今となってはたまらなく滑稽で、残酷な皮肉に思えた。
振り返らない。
けれど今日、私はあろうことか振り返ってしまった。そして、関わっていた全員が私を騙していたという地獄のような真実にぶち当たったのだ。
そして、兄の豪。
この2年間、彼らは事あるごとに「男同士の飲み会」と称して連れ立っていた。
「寧々、今夜は研吾を借りるぞ。野郎同士の込み入った話だから、ついてくるなよ」
私は一度として彼の行動を詮索したことなどなく、むしろ颯爽と手を振って送り出していた。
「さっさと連れて行って!私は気ままな一人の夜を満喫するから!」
だが、あの二人の集まりに、一体どれほど茉白が当たり前のように同席していたというのだろう。
そこまで考えると、全身に鳥肌が立ち、恐ろしくて思考を止めざるを得なかった。
部屋の空気が息苦しくてたまらず、眠れそうにもない私は、薄手の上着を羽織って外に出た。
だが、後部甲板に足を踏み入れた瞬間、茉白の潜めた声が耳に飛び込んできた。
「正直に答えて。本当に吹っ切れたの?」
夜の潮風が冷たく吹き抜ける中、私は物陰に潜んだまま息を殺した。
「……吹っ切れてない」
研吾のその一言が、私の胸を鋭い刃のように抉った。
「私もよ」
二人は手すりに寄りかかり、夜の暗い海を見つめていた。長い沈黙の後、ようやく研吾が口を開いた。
「茉白、お前は絶対に幸せにならなきゃいけない。あいつと籍を入れる前に、お前の将来の足場は俺が責任を持って固めてやる。
身元の確かな資産家を紹介してやるから、その後は不自由なく暮らせばいい」
私は手すりを軋むほど強く握りしめた。
茉白の声がさらに湿り気を帯びて低くなった。
「本当は最初から、私を寧々に紹介するべきじゃなかったのよ。私たちが知り合わなければ、今夜みたいなことにはならなかった」
だが、研吾は諭すように言った。
「あいつと知り合わなきゃ、どうやってお前がこの世界に入り込めるんだ?
寧々はお前を親友だと思い込んで、喜んで自分の人脈に引き入れてくれた。ただ、今夜あいつが振り返るなんてのは完全な誤算だったがな
でも安心しろ。寧々がいなくなっても俺がいる。これからの晩餐会もパーティーも、すべて俺がお前をエスコートしてやる。
お前がこの社交界で確固たる地位を築くまで、俺は手を引かない」
私はその場に立ち尽くしたまま、もはや涙すら出ず、ただ乾いた苦笑いが込み上げるだけだった。
茉白が私の親友になったのは、運命の巡り合わせなどでは断じてなかったのだ。
私が彼女に人脈を広げてやり、華やかなパーティーへ連れ出し、私の友人たちに紹介してきた。
研吾は私の純粋な好意と影響力を踏み台にして、一歩ずつ彼女を私たちの世界へと引き上げていたのだ。
これ以上、一秒たりとも彼らの声を聞いていられなかった。
部屋へ引き返すと、私は迷わず親友の鳴海薫(なるみ かおる)に電話をかけた。
彼女は近くの離島のリゾートで休暇を過ごしており、昨日も「こっちの島に来ない?」と誘ってくれていたのだ。
あの時の私は、こう返信していた。
【行けないの、研吾たちとクルージングに出るから】
コール音が数回鳴り、電話が繋がった。
「ちょっとお嬢様、こんな夜更けに何事よ!まだ寝てないわけ!?」
「薫、迎えに来てくれない?」
受話器の向こうで、数秒の静寂が落ちた。
「……研吾と一緒にいるんじゃなかったの?」
「別れることにしたの。だからもう、あいつらと一緒にいたくない」
再び数秒の沈黙の後、薫のきっぱりとした声が返ってきた。
「位置情報を送りなさい。明日一番で迎えに行くから、待ってて」
第3話
翌朝目を覚ました時、私の体温は39度まで上がっていた。
母が朝食に呼ぼうと部屋へ入ってきて、私の額に触れた途端、顔色をサッと変えた。
「どうしてこんなに熱いの!?」
クルーザーには専属の船医が同乗していたため、すぐに診察を受けた。
船医は体温を測り、喉を診て、解熱剤を処方してくれた。
「昨夜、潮風で冷えたのでしょう。安静にしていてください」
父が私に薬を飲むためのぬるま湯を一杯注いで手渡した。
「聞いたか?余計なことは考えず、おとなしく横になっていなさい」
私は小さく頷き、薬を飲んで再び眠りについた。
次に目を覚ました時、部屋の中はひどく息苦しく、喉はまるで刃物で切り裂かれたかのように痛んだ。
私はマスクをつけて、気分転換に外の空気を吸おうと部屋を出た。
廊下へ出た途端、豪が上層デッキからブランドもののギフトバッグを抱えて下りてくるのが見えた。
両親の足元には、綺麗にラッピングされた箱が二つ置かれている。
それどころか、研吾の両親までもが使用人に命じて、デッキへ次々とプレゼントを運ばせているところだった。
私は一瞬呆然とし、数秒経ってからようやく思い出した。
今日は茉白の誕生日だったのだ。
実は、私自身も彼女へのプレゼントをとっくに用意していた。
ヴィンテージの腕時計だ。
先月一緒にショッピングへ行った際、彼女がショーウィンドウ越しに熱心に見つめていた品だった。
彼女が欲しがっていたからこそ、私はそれを覚えていて、密かに買い求めていたのだ。
私は部屋へ引き返し、スーツケースを開けた。
その化粧箱は、畳んだ服の奥底に大切にしまってあった。
それを取り出し、長いこと見つめた末、私は再びケースの奥へと押し戻した。
もう、渡す気など失せていた。
スーツケースを閉めて再び部屋を出ようとした瞬間、廊下の向こうから研吾が歩いてくるのが見えた。
その手には、白桃の缶詰が一つ握られていた。
私の足が、その場にピタリと止まった。
このクルーザーには、何不自由なく高級品が揃っている。
輸入フルーツに極上のスイーツ、軽食から専属シェフに至るまで、両家がわざわざ手配した最高級のものばかりだ。
スーパーで売っているようなごくありふれた白桃の缶詰など、わざわざ船内に積み込む者などいるはずがなかった。
だからこそ一目見ただけで、それが乗船前に研吾が買い求めたものだと分かった。
子どもの頃、私は熱を出すと途端に食欲がなくなる体質だった。
お粥も喉を通らず、食事も一切受け付けないのに、冷やした白桃の缶詰だけは数口食べることができた。
幼い頃の研吾は、よく私をからかったものだ。
「みんな風邪の時はお粥なのに、お前は甘い桃缶じゃなきゃダメなんだからな」
それ以来、私が体調を崩すたび、言わなくても彼は必ず桃缶を買ってきてくれていた。
昨夜、氷のように冷え切ったはずの心が、その白桃の缶詰を目にした瞬間、情けなくもわずかに揺らぎ、温もりを求めてしまった。
出航する前から、彼は私が船上で体調を崩すことを心配してくれていたのだろうか、と。
研吾も私に気づいた。
「どうして出てきたんだ?医者から寝ていろと言われただろう」
「部屋が息苦しくて」
喉が痛くて、声はかすれていた。
「あまり外に長くいるなよ。薬はちゃんと時間通りに飲め」
そう言い残すと、彼は缶詰を手にしたまま階段を下りていった。
その白桃の缶詰を、私に差し出すことはなかった。
昼時になっても、私の喉の痛みは水一口すら飲み込めないほど悪化していた。
ベッドに横たわりながら、私は研吾とのトーク画面を見つめ続けた。
迷った末、桃缶をどこに置いたのかメッセージで聞こうとしたその時、階下から突如として陽気なバースデーソングが響き渡った。
「ハッピーバースデー・トゥー・ユー……」
部屋のドアを開けて階下を見下ろすと、サロンのテーブルには豪華な料理やケーキが所狭しと並べられていた。
主役の席に茉白が座り、全員が彼女を囲んでいる。
そして、私が先ほど自分のためのものだと思い込んでいたあの白桃の缶詰が、彼女の目の前にちょこんと置かれていたのだ。
茉白の瞳がじわりと潤んだ。
「研吾……どうして覚えていてくれたの?」
彼女の隣に腰掛けた研吾が、優しく微笑みかけた。
「大学の頃、話してくれただろう?実家の暮らしが苦しくて、子どもの頃は毎年の誕生日に、お母さんが桃の缶詰を一つだけ買ってくれたって。
大人になって何でも手に入るようになったら、かえって昔のあの味が恋しいって言ってたじゃないか」
今日のあの白桃の缶詰は、最初から私のためのものなどではなかったのだ。
続いて、誰もが競うようにプレゼントを渡し始めた。
豪は最新の一眼レフカメラを贈った。
研吾の母は上品な小箱を差し出し、微笑んだ。
「これからフォーマルな社交界に出る機会が増えるでしょうから、使ってちょうだい」
母も自分の選んだ贈り物を手渡した。
父も満足げに目を細めて言った。
「噂に聞いたよ、最近のプロジェクトを大成功させたそうじゃないか。若手なのに実に優秀だ!」
研吾の父も頷いた。
「この子は実家が一般家庭なのが惜しいくらいだ。環境さえ整えば、どこまで出世するか分からん器だよ」
茉白は全員の中心で温かい祝福を浴び、誰もが上機嫌で笑い合っていた。
マスクを着けたまま階段の踊り場に立ち尽くす私は、まるでその場に存在してはならない異物だった。
母が真っ先に私に気づき、咎めるように声を上げた。
「寧々、どうしてまた出てきたの?下りてきちゃダメよ。今日は茉白の誕生日なのよ。風邪をうつしたら大変でしょう」
私は何も言わず、踵を返して部屋に戻った。
ちょうどその時、薫からLINEの通知が届いた。
【もう出港したわ。あと1時間でそっちに着く】
あと1時間。あと1時間だけ耐えれば、私はこの悪夢から抜け出せる。
第4話
私はスーツケースを床に広げ、荷物を一つずつ詰め込んでいった。
この数年間に研吾から贈られたものは、すべて躊躇なくゴミ箱へと投げ捨てた。
本来なら茉白に手渡すはずだったあのヴィンテージの腕時計だけは、荷物の奥にしまったままだ。
あんな裏切り者にくれてやる義理など、微塵もない。
スーツケースを引いて部屋を出ると、サロンではまだ誕生会の宴が続いていた。
茉白の目の前にはプレゼントが山積みにされ、研吾が寄り添うようにケーキ入刀に付き合っていた。
私が荷物を引いて現れたのを見て、全員が動きを止めて呆然とした。
研吾が真っ先に眉をひそめた。
「寧々、何をしているんだ?」
「薫が迎えに来てくれたから。もうここにはいたくないの」
母が目を丸くした。
「薫ちゃんって、近くのリゾート島にいるんじゃなかったの?」
父も不快そうに眉を寄せた。
「高熱を出しているというのに、何を意地を張ってバタバタしているんだ」
「病気なら、向こうの島に行ってもちゃんと診てもらえるわ」
私は言い捨てて、そのまま歩みを進めた。
研吾が立ちはだかり、私の行く手を遮った。
「寧々、昨日のことならちゃんと説明しただろう」
私は乾いた笑みを浮かべた。
「じゃあ、どうして昨夜、まだ彼女に未練があるなんて言ったの?私と籍を入れる前に、責任を持って彼女の足場を固めてやるって言ってたわよね」
研吾の声に焦りが滲み出た。
「……俺たちの会話を盗み聞きしていたのか?」
「そうよ。それ以外にも、実にたくさんのことを聞かせてもらったわ」
私は視線を茉白へと向けた。
「例えば、どうしてあなたが私の『親友』になれたのか、とかね」
茉白の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「研吾は言っていたわ。私と知り合わなきゃ、あなたがこの社交界に入り込めるはずがないって。私があなたを友達だと思い込んでいたからこそ、喜んでパーティーへ連れて行き、自分の人脈を紹介してあげた。でも私がいなくなっても、研吾が代わりに晩餐会や夜会へエスコートし続けてくれるんですってね」
私はふっと自嘲するように笑った。
「私ってこの数年間、あなたたちの踏み台としてずいぶん重宝されたみたいね」
「寧々!」研吾がとうとう語気を荒らげた。「俺はただ、彼女を助けてやりたかっただけだ!」
豪も慌てて割って入ってきた。
「寧々、研吾だって昔のことをお前が知ったら嫌な思いをすると思って言えなかったんだよ。それに茉白は実力でここまで這い上がってきたんだ。研吾はほんの少し手を貸しただけに過ぎないだろ」
私は二人を冷たい目で見据えた。
「あんたも、ずいぶん手を貸してやったんじゃないの?」
豪は口を噤み、気まずそうに目を逸らした。
険悪になる一方の空気に耐えかねて、母が駆け寄って私の手を握った。
「もういいでしょう、寧々。言いたいことは全部吐き出せたんだから。熱もあるんだし、まずは部屋に戻って休みましょう」
私はその手を冷たく振り払った。
父の顔色が、次第に怒りで険しくなっていった。
「何をこれ以上騒ぎ立てる気だ!茉白は才能があるのに機会に恵まれなかった、だから皆で少し後押ししてやっただけじゃないか。お前は何一つ不自由なく育ってきたんだ、こんな下らないことにいつまでも目くじらを立てるんじゃない!」
研吾の母も重苦しくため息をついた。
「寧々、研吾が茉白を気にかけるのは、昔の淡い想いにきっちりケジメをつけるためでもあるのよ。
茉白がいずれどこかの名家へ嫁げば、あなたたちも自然と平穏な夫婦生活を送れるようになるわ」
私は静かに首を横に振った。
「私はもう、この人と家庭を築く気なんてありません」
私は研吾の目をまっすぐに見据えた。
「婚約は破棄よ。私たち、これで完全に終わり」
研吾の表情が、ついに恐怖と動揺で凍りついた。
「寧々、熱で頭がどうかしてるんだ。頭を冷やして、落ち着いてから話そう」
「私の頭は、これ以上ないほど冷静よ。私たち、もう終わりよ」
私はスーツケースを引いて、彼の脇をすり抜けた。
その時、船のクルーが慌てた様子で甲板へ駆け寄ってきた。
「研吾様、接近中のクルーザーから無線連絡が入りました。寧々様をお迎えに上がったとのことです」
その場の全員が、一斉に海原へと目を向けた。
少し離れた白波の向こうから、一隻のスタイリッシュなクルーザーがこちらへ向かって猛スピードで近づいてきていた。
10数分後、颯爽と乗り込んできたのは薫だった。
彼女は私の青ざめた顔を見るなり、額に手を当てた。
「ちょっと、信じられないくらい熱いじゃない!」
母が何か言い訳をしようと口を開きかけたが、薫はそれを遮るように私のスーツケースをひったくった。
「行くわよ、寧々。私の船に乗って」
研吾が背後から私の腕を掴もうとしたが、私はその手を力一杯振り払った。
薫に肩を支えられながら、私は彼女の船へと乗り移った。
背後から誰かが私の名を必死に呼ぶ声がしたが、一度として振り返ることはなかった。
次第に、深沢家のクルーザーは水平線の彼方へと遠ざかっていった。