第1話
私、糸賀一花(いとが いちか)と静間理玖(しずま りく)は、物心ついた頃からずっと一緒に育った。
両家の親も、大学を卒業したら私たちは自然に付き合うものだと思っていた。
理玖も人前でためらうことなく、いつもこう言っていた。
「一花は怖がりだから、俺がいないとダメなんだよ」
私は、その言葉を十年以上ずっと信じていた。
大学に入って最初の学科の食事会。
同じ学科で美人だと評判の久留宮茉白(くるみや ましろ)が、飲み物を手に理玖の隣へ座り、笑いながら聞いた。
「幼なじみがいるって聞いたけど、恋人なの?」
周りに冷やかされ、私は頬が熱くなるのを感じながら、理玖がうなずくのを待った。
けれど、理玖は一瞬だけ間を置いた。
「違うよ。小さい頃から近所に住んでて、妹みたいなもんだ」
誰かが茉白を肘でつついた。
「ってことは、まだチャンスあるじゃん」
茉白は目を細めて笑った。
「じゃあ、これからよろしくね」
理玖は避ける様子もなく、笑って答えた。
「うん」
その瞬間、高校の体育祭の練習で日焼けしないようにと、理玖が夜遅くまで開いている店を探して日焼け止めを買ってきてくれたことを思い出した。
進路を決めたときには、私の手を握って「大学に行っても、ずっと一緒だから」と言ってくれたことも。
それでも、茉白が笑えば、私との十数年は「妹みたいなもの」のひと言で片づいてしまうらしい。
帰り道、追いかけてきた理玖は言い訳した。
「茉白って、思ったことをそのまま口にするタイプだろ。あそこで否定して、恥をかかせたくなかっただけ」
「じゃあ、私が恥をかくのはいいの?」
理玖は眉をひそめた。
「一花、いつからそんなこと気にするようになったんだよ」
私は、それ以上何も言わなかった。
その夜、SNSに載せていた理玖との写真を、すべて非公開にした。
その日から、私もただの近所の人になることにした。
第1話
「一花、SNSの投稿、俺だけ見られないようにした?」
学生寮の前に立っていた理玖は、片手にホットミルクを持っていた。
「うん」
「なんで?」
「そうしたかったから」
理玖がホットミルクを差し出してくる。
「まだ怒ってんの?朝飯抜くと、また胃が痛くなるだろ」
私は受け取らなかった。
「なんで朝ごはん食べてないって知ってるの?」
理玖が一瞬、言葉に詰まる。
「同室の子に聞いた」
私は差し出されたホットミルクを見て、ふっと笑った。
「じゃあ聞かなかった?私、牛乳飲むとお腹壊すんだけど」
理玖は少し間を置いた。
「でも、温かいやつだし。これなら平気だろ」
「茉白は牛乳、飲めるの?」
理玖が顔を上げる。
「一花、なんでも茉白に結びつけるのやめろよ」
「聞いただけ」
「今朝、茉白が低血糖だっていうから、ついでに朝飯を買ってやっただけ。このホットミルクは、お前のために特別に買ったんだよ」
「砂糖、入ってる?」
「ああ」
「私、甘いホットミルク飲まないよ」
理玖は少し黙った。
「一花、いちいちケチつけるなよ」
私は両手をポケットに入れた。
「持って帰って」
理玖が眉をひそめる。
「昨日の飲み会で言ったこと、あれはそういう意味じゃないからな」
「どういう意味?」
「お前のこと、昔からの幼なじみで、妹みたいなもんだって言ったのは、みんなに冷やかされたくなかったから。俺たちのこと、わざわざ大っぴらにする必要ないだろ」
「じゃあ、茉白に『恋人なの?』って聞かれて『違う』って答えたのも、大っぴらにしたくなかったから?」
理玖は眉間を揉んだ。
「俺たちがどういう関係か、一花だって分かってるだろ。言い方ひとつでいちいち突っかかるなよ」
私は黙って理玖を見つめた。
初めて思った。
理玖って、本当に自分に都合よく解釈するんだ。
「理玖!」
後ろから声が飛んできた。
教材を抱えた茉白が、小走りでこちらへやってくる。
私に気づいた途端、顔に浮かんでいた笑みが少しずつ消えた。
「もしかして、邪魔しちゃった?」
「いや」
理玖はいつもと変わらない顔で答えた。
茉白は私に目を向ける。
「2人、ケンカしてるの?昨日のことだったら……一花ちゃん、勘違いしないでね。私、本当に2人がそんなに仲いいって知らなくて」
そんなに仲がいい。
茉白から見れば、私と理玖はただ仲がいいだけらしい。
私はホットミルクをゴミ箱のふたの上に置いた。
「別に、勘違いしてないよ」
理玖はすぐにカップを手に取った。
「一花。朝からわざわざ持ってきたのに、そんな扱いする?」
「飲めないから」
「あ……もしかして、私のせい?」
茉白が慌てて口を挟んだ。
「じゃあ、別の飲み物買ってこようか?」
「茉白は関係ない」
理玖の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「一花は昔からこうなんだ。ちょっとなだめれば、すぐ機嫌直すから」
目の奥が熱くなった。
私は理玖を見た。
「理玖、私、もう子どもじゃないよ」
理玖が一瞬、黙る。
「分かってる」
「だったら、もう機嫌なんて取ってくれなくていい」
カップを持つ理玖の指に力が入った。
「分かった。じゃあ、少し一人で頭冷やせよ」
茉白が小さな声で言った。
「一花ちゃん、そんなに理玖に怒らないであげて。昨日も、一花ちゃんって昔から怖がりで、1人じゃ夜道も歩けないって。そこが変わらなくて笑えるって言ってたよ」
「茉白」
理玖が低い声で遮った。
暗い道が怖いことまで、理玖にとっては人に笑って話せることだったんだ。
1限の開始時刻が迫っていた。
理玖はバッグを反対の肩に掛け直す。
「行くぞ。遅れる」
「2人で先に行って」
私はそう答えた。
「パン、買ってくる」
第2話
理玖は眉をひそめた。
「このまま講義棟まで行ったら、パン買えるところないだろ。だからって、当てつけみたいに何も食わないのやめろよ」
私はバッグを肩に掛け直した。
「そこまでしてないけど」
すると茉白がバッグを探り、ピーナッツクリームを挟んだビスケットを取り出した。
「じゃあ、これ食べる?」
理玖はそれを受け取ると、そのまま私のほうへ差し出した。
「ほら。もういいから、食べとけ」
パッケージの原材料表示に目が止まった。
小学生の頃、遠足で友達にもらったピーナッツバターを食べて、発疹が出たことがある。
あのとき理玖は、私を背負って保健室まで走ってくれた。
保健室に着くまで、理玖はずっと泣きそうな顔をしていた。
それなのに、今はもう覚えていない。
私は手を伸ばさず、静かに言った。
「いい。私、ピーナッツアレルギーだから」
理玖の顔色が変わった。
茉白もはっと目を見開く。
「ごめん。一花ちゃん、私、知らなくて……」
理玖は何か言いかけ、少し遅れて口を開いた。
「忘れてた」
「うん。分かってる」
「一花……」
「もう授業始まるよ」
2人の横を通り抜け、そのまま講義棟へ向かった。
後ろから、茉白の声が小さく聞こえた。
「一花ちゃん、私のこと嫌いなのかな」
「違うって。ただ妬いてるだけ」
理玖はそう答えた。
その日の夕方、新歓の実行委員を決める集まりがあった。
出かける準備をしていると、同室の羽倉彩葉(はぐら いろは)が不思議そうにこちらを見る。
「一花、ほんとに行くの?こういうの苦手じゃなかった?」
私は理玖にもらったペンケースを、机の引き出しの奥へしまった。
「ずっと避けてるわけにもいかないし」
そのとき、スマホが光った。
理玖からメッセージが届いている。
『夜、一緒に講義室行こう』
『席、取っとくから。勝手に変なとこ座るなよ』
返したのはひと言だけだった。
『大丈夫。1人で行く』
すぐに着信が来た。
画面に理玖の名前が浮かんだけれど、そのまま出なかった。
講義室に着いた頃には、前のほうはほとんど埋まっていた。
理玖の隣だけが空いている。
反対側には茉白が座っていて、私を見つけると手を振った。
「一花ちゃん、こっち!」
そちらには行かず、一番後ろの席に座った。
ほどなくして、スマホが震える。
『なんでそんな後ろなんだよ』
『ここでも聞こえるから』
『こっち来い』
『行かない』
間を置かず、もう1件。
『一花。迎えに行かせんなよ』
いかにも理玖らしい文面だった。
しばらくすると、本当に席を立ってこちらまで来る。
そのまま当然のように隣へ座った。
すると前のほうから、からかうような声が飛んできた。
「理玖、そこ空けてたの茉白のためじゃなかったの?」
理玖は相手にせず、私にだけ聞こえる声で言った。
「いつまでそうやって怒ってるつもり?」
「怒ってないよ」
「じゃあ、なんでこっち来ないんだよ。前に席取っただろ。目悪いくせに、後ろじゃ見えないじゃん」
私はノートを開いた。
「メガネあるから」
「かけるの嫌いなくせに」
「今は平気」
理玖は黙った。
やがて、立候補した学生が順番に前へ出て話し始めた。
最初は茉白だった。
話し終えると、講義室に大きな拍手が広がる。
理玖は前に立つ茉白を見ながら、指先で机を軽く叩いていた。
そのうちスマホまで取り出して、写真を撮り始める。
前は、あそこにいるのが私だった。
人前で話すとき、理玖はいつも一番前に座っていた。
私が話し終われば、真っ先に拍手してくれた。
でも今日は、スマホの向こうにいるのも、理玖が見ているのも、私じゃない。
やがて私の番が来た。
前へ出て話し終え、席に戻ろうとすると、進行役の学生が笑いながら声をかけてきた。
「一花と理玖って、昔から一緒なんだろ?理玖もひとこと応援してやれば?」
私が答えるより先に、理玖が口を挟んだ。
「一花、こういうの仕切るの得意じゃないから。無理させなくていいって」
周りから笑い声が上がった。
「相変わらず一花には甘いな」
「妹みたいなもんだもんな」
私は理玖を見つめた。
「できるよ」
理玖がきょとんとする。
「何が?」
「こういうことだって、ちゃんとできる」
投票の結果、私も茉白も新歓実行委員に選ばれた。
茉白がすぐに駆け寄ってくる。
「一花ちゃん、これから一緒だね」
「うん」
彼女は理玖のほうを向いた。
「理玖、新歓イベントの写真、撮るの手伝ってくれない?広報に使う写真を出さなきゃいけなくて」
理玖がこちらを見た。
私はノートを閉じる。
「行けば?」
「まだ行くって言ってないだろ」
「でも、行くでしょ」
茉白は服の裾を指先でつまんだ。
「やっぱりいいよ。無理に頼むことでもないし」
理玖はスマホをポケットにしまった。
「行くよ。茉白も実行委員になったばっかで、まだ分かんないこと多いだろ。写真くらい手伝う」
「うん」
少しして、今度は私の様子をうかがうように聞いてきた。
「まだ気にしてるなら、夜なんか食いに行く?」
私は首を横に振った。
「今日中に出す集計表、まとめないといけないから」
理玖がため息をつく。
「前は、こういう面倒なの嫌がってたじゃん」
ペンにキャップをした。
「前は、やってくれる人がいたから」
理玖が私を見る。
「別に、手伝わないなんて言ってないだろ」
「先に茉白を手伝ってあげれば?」
寮へ戻る途中、スマホが震えた。
理玖からだった。
『あんまり遅くまでやるなよ。あとで夜食持ってく』
『ありがとう』
返すと、すぐにまた届いた。
『そうやって素直にしてればいいんだよ』
隣を歩いていた彩葉が、ちらりとこちらを見る。
「誰?」
私はスマホの画面を消した。
「ただの幼なじみ」
第3話
強い雨が階段に打ちつけていた。
図書館の入口で雨宿りをしていたけれど、吹き込んでくる雨で靴のつま先はもうすっかり濡れている。
電話越しに聞いた。
「傘、茉白に貸したの?」
数秒、返事がなかった。
『熱あるんだよ。あのまま濡らすわけにいかないだろ』
「じゃあ、私は?」
『待っててって言ったじゃん』
「10分って言ったよね」
『道が混んでるんだよ』
スマホの画面を見る。
理玖から『今行く』と連絡が来てから、もう42分経っていた。
「理玖、図書館もう閉まるよ」
電話の向こうで、疲れきった声が返ってくる。
『一花、そういう言い方やめて。今日ずっとあちこち動き回ってて、俺も疲れてるんだよ。とりあえず雨に当たらないところで待ってて。もうすぐ着くから』
小さく息を吐いた。
「もう来なくていい」
『今度は何?』
「自分で帰る」
『この雨の中、どうやって?』
「走る」
すぐに声色が変わった。
『一花、やめろ。絶対走るなよ』
そのまま電話を切った。
図書館から寮までは、それほど遠くない。
走れば10分もかからない。
前は、こんなふうに雨の中を走って帰る必要なんてなかった。
理玖はいつもバッグに折りたたみ傘を入れていた。
雨に濡れると頭が痛くなるだろ、と言って。
なのに今日は、茉白には熱があるから濡らせないらしい。
シャワーを浴びて部屋へ戻ると、スマホには10件以上の着信が残っていた。
その直後、理玖からボイスメッセージが届く。
『開けて』
ドアを開けると、理玖が立っていた。
片手には風邪薬と、持ち帰りの卵雑炊。
髪は雨に濡れていた。
理玖は上着を脱ぐと、そのまま私の肩に掛ける。
「待ってろって言っただろ」
タオルで髪を拭きながら答えた。
「来なかったじゃん」
「来ただろ」
「遅かったよ」
理玖は何か言いかけたけれど、結局何も返さなかった。
テーブルに雑炊を置く。
「とりあえず食えよ」
「いらない」
「夜、パン1個しか食べてないだろ」
思わず顔を上げた。
「それは覚えてるんだ」
「当たり前だろ」
「じゃあ、私が三つ葉嫌いなのは?」
理玖が容器のふたを開ける。
湯気の向こうに、細かく刻まれた三つ葉が浮いていた。
それを見て、眉間に皺が寄る。
「店で入れたんだろ。そこまで見てなかった」
「別にいいよ」
スプーンを取り、三つ葉だけを少しずつふたの上へよけていく。
しばらくして、理玖が声を落とした。
「そんなふうにされたら、俺がずっと一花を雑に扱ってるみたいじゃん」
手が止まった。
「してないと思ってるの?」
理玖はテーブルに手をついた。
「最近、一花のこと後回しにしてたのは分かってる。茉白も実行委員になったばかりで、分かんないことが多いから、少し手伝ってるだけだよ。でも一花は違うだろ」
「何が違うの?」
理玖が私を見る。
「俺たち、子どもの頃からずっと一緒じゃん。俺がどういうやつか、一花なら分かってるだろ。ほかのやつにはちゃんと説明しなきゃ伝わらなくても、一花にはそんなのいらないと思ってた」
思わず笑った。
「そっか」
「何?」
「だから私は、傘もいらないし、温かいごはんもいらないし、ちゃんと言葉にしてもらう必要もないんだ」
理玖の表情が変わる。
「一花」
私はスプーンを置いた。
「もう帰って」
「薬を飲むのを見届けたら帰る」
そう言って薬を開けると、袋の中からみかん味の飴を1つ取り出した。
子どもの頃、薬が苦手だった私のために、理玖はいつも錠剤を小さく割ってくれた。飲み終わると、必ず飴をくれた。
差し出されたそれを見ても、手は伸びなかった。
「もう、その味好きじゃない」
理玖の手が止まる。
「一番好きだったじゃん」
「昔はね」
しばらく私を見ていた理玖が、眉を寄せた。
「なんでいちいち、そんな言い方するんだよ」
「別に。ほんとのこと言ってるだけ」
「じゃあ俺も言うけど」
理玖は飴をテーブルに置いた。
「今の一花、好きじゃない」
部屋の中が静かになった。
少しして、理玖がさっきより低い声で続ける。
「妬くのも、怒るのも別にいいよ。そういうのなら、いくらでも付き合うし、機嫌だって取る。でも、わざと俺から離れようとすんなよ」
「わざとじゃなかったら?」
理玖が言葉を止めた。
私はまっすぐ目を見る。
「本当に、離れたいって思ってるんだとしたら?」
数秒たって、理玖が小さく笑った。
「一花が?俺から離れられるわけないだろ」
何度も聞いた言葉だった。
前なら、それを聞くだけで安心できた。
今は、逃げたくなる。
私は薬を手に取った。
「飲むから、もう帰って」
理玖は動かない。
「明日の朝、迎えに来る」
「いい」
「来るから」
「理玖、もう来なくていいよ」
しばらく私を見つめたあと、理玖はいつものように頭を撫でた。
「寝たら少し落ち着くって」
そのまま振り返ったところで、スマホの画面が明るくなる。
茉白からだった。
『理玖、またちょっと熱上がってきたかも。帰りに体温計買ってきてもらえる?』
理玖は画面を見て、すぐに返した。
『待ってて』
……
国際交流センターで、留学担当の職員がパソコンから顔を上げた。
「一花さん、繰り上げになった留学プログラムの参加手続き、もう出したんですね?」
私はうなずいた。
「はい」
「ずいぶん急ですね。大丈夫ですか?」
もう一度うなずく。
「急に繰り上げの連絡が来て、今日中に最終書類を出す必要があったので」
第4話
留学担当の職員が、念を押すように聞いた。
「ご家族には、もう話してありますか?」
「はい」
昨夜、母から電話があった。
『一花が行きたいなら、行っておいで。いつまでも誰かに決めてもらうのを待ってちゃだめ。もう大人なんだから、1度くらい自分の足で歩いてみなさい』
スマホを握ったまま、しばらく何も言えなかった。
電話を切ったあと、机の引き出しからパスポートを取り出すと、そのそばに古い乗車券が1枚挟まっていた。
高校3年のとき、志望校の実技試験を受けに行った日のものだった。
あの日、理玖は私の身分証も受験票も、自分の上着の内ポケットにしまっていた。
「一花は俺についてくればいい。絶対、迷子にさせないから」
ずっと理玖について歩いてきた。
そのせいで、自分だって地図くらい読めることを、いつの間にか忘れかけていた。
職員が書類をこちらへ返した。
「成績も語学要件も問題ありません。ただ、先方の受け入れ日程の関係で、遅くとも明後日には出発してもらうことになります」
「大丈夫です」
寮へ戻る途中、理玖から電話がかかってきた。
『今どこ?』
「大学」
『俺、寮の前にいる。なんで俺があげたタンブラー捨てたの?』
昨夜、荷物を片づけていたとき、底にひびが入っているのを見つけた。
大学に入ったばかりの頃、講義の合間に温かいものを飲めるようにと、理玖がくれたものだった。
「壊れてるなら、もう捨てたら」と彩葉に言われて、そのまま処分した。
「壊れてたから」
すぐに不機嫌な声が返ってくる。
『壊れたなら言えばいいだろ。新しいの買ってやったのに』
「もういいよ」
少し間があった。
次に聞こえた声は、かすかに掠れていた。
『一花、お前、あと何を捨てたら気が済むんだよ』
何も返さなかった。
しばらく黙ったまま、そのまま電話を切った。
寮の前まで戻ると、理玖がこちらへ歩いてきた。
「今日は茉白のところ行ってない。練習付き合ってって言われたけど断った」
私の前で足を止める。
「鍋焼きうどん食いに行こう。好きだろ」
「夜、やることあるから」
「飯より大事なこと?」
「資料まとめないと」
「また実行委員のやつ?」
理玖はため息をついた。
「前はああいう面倒なの、一番嫌がってたじゃん。今さら誰にいいとこ見せたいんだよ」
そう言って、紙袋を差し出してくる。
「これ。好きだろ」
中には、まだほんのり温かい焼き芋が入っていた。
冬になると、理玖はよく焼き芋を買ってくれた。
熱いから触るなと言って、指先を赤くしながら半分に割って渡してくれたものだ。
紙袋を受け取ったものの、口にはつけなかった。
「ありがとう」
それを聞いて、理玖の肩から少し力が抜けた。
「じゃあ夜、一緒に飯行こう」
「ほんとに予定あるから」
「なら、資料まとめるの手伝う」
「いいよ」
理玖が眉をひそめる。
「最近、そればっかだな」
「何が?」
「『いい』『いらない』『来なくていい』って。俺にはもう、それしか言わないじゃん」
私は顔を上げた。
「理玖」
「何?」
「私たち、これからはただの幼なじみに戻ろう」
理玖の表情が固まった。
「……もう1回言って」
「ただの幼なじみ」
数秒、黙って私を見つめたあと、理玖が小さく笑った。
「茉白のせい?」
「疲れたから」
「一花、そんなこと言って俺を脅すなよ。どうせ離れられないだろ」
「人は変わるよ」
「俺は信じない」
そのとき、横から声がした。
「理玖」
茉白が衣装を抱えて立っていた。
目元を軽くこすりながら、こちらへ近づいてくる。
「先生に、本番用の衣装で写真を撮って、今日中に出してって言われちゃって。荷物も多いし、1人じゃちょっと持ちきれなくて……」
理玖が茉白を見る。
「ほかの人は?」
「みんなまだ練習中なの」
茉白は私をちらりと見た。
「でも、一花ちゃんといるなら大丈夫。私、自分でなんとかするから」
理玖は紙袋の端をつまんだまま、少し黙った。
それから私に言う。
「先に部屋戻って、資料やってて。終わったら行くから」
私は理玖を見た。
「行ってあげれば?」
「またそうやって嫌味言うなよ」
「普通に言ってるだけ」
理玖はしばらく私を見つめてから、焼き芋の入った紙袋を私の腕に押しつけた。
「ちゃんと食えよ。捨てんなよ」
「うん」
部屋に戻ると、焼き芋は彩葉にあげた。
「一花、食べないの?」
「もう冷めたから」
彩葉は紙袋を手にしたまま、閉じたスーツケースへ目を向けた。
声を落とす。
「ほんとに行くんだ」
「うん」
「理玖は知ってるの?」
「知らない」
キャリーケースを引いて寮を出ると、呼んでいたタクシーが路肩に止まっていた。
乗り込む前に、スマホが震える。
理玖からだった。
『明日、1限遅れるなよ。席取っとくから』
画面を少し見つめてから返した。
『うん』
飛行機が離陸する前に、スマホの電源を切った。
翌日。
理玖はいつも通り講義室へ行った。
けれど、私がいつも座っていた席は空いたままだった。
メッセージを送っても届かない。
授業が終わると、理玖は担当の先生を呼び止めた。
「先生、一花って今日休みですか?」
先生は名簿を確認した。
「糸賀さん?長期留学の繰り上げが決まって、昨日もう出発しましたよ」
そう答えたあと、先生は不思議そうに理玖を見る。
「2人って、子どもの頃からの幼なじみなんでしょう?知らなかったんですか?」