金目当てとされた妻、7年遅れで悔やむ夫

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金目当てとされた妻、7年遅れで悔やむ夫

GoodNovel new 完結

灰原朔也(はいばら さくや)が起業に失敗したとき、私・立花郁実(たちばな いくみ)は自分から別れを切り出した。 彼の母親に、「朔也の前から消えてくれたら、あの子を家に戻して、跡を継がせるわ」と言われたからだ。 私は朔也の前から姿を消した。その後、自分が妊娠していることに気づいた。誰にも頼らず、一人で子どもを産んだ。 5年後、朔也は灰原グループの社長として名を馳せていた。 そんなある日、彼は突然私の前に現れた。そして、私と息子・灰原海人(はいばら かいと)をそのまま灰原家へ連れ帰り、その日のうちに私と結婚した。 けれど新婚初夜、朔也は私のあごを乱暴につかみ、嫌悪に満ちた目で私を見つめる。 「金がなくなった途端に俺を捨てたくせに、今度はどこの馬の骨ともわからないガキまで連れてきたのか。俺を騙して、金をせびるつもりか?」 DNA鑑定を3回繰り返し、ようやく海人が自分の息子だと認めた。 それでも朔也は、私が海人を産んだのは、彼が再起する日を待つためだったと思い込んでいた。 グラスを揺らしながら、冷たい笑みを浮かべる。 「今日から、俺の金に手を出すな。1円たりとも使わせない」 そう言って、私に雑巾を投げつける。 「金が欲しいなら、働け」 それからの私は、灰原家の家事をすべて一人で引き受けた。その代わりに与えられるのは、月10万円の生活費だけだった。 一方、朔也の周りには次から次へと新しい女が現れ、彼はその女たちに惜しげもなく大金を使っていた。 それなのに、私だけは海人の薬を買うのすら、朔也に許可を取らなければならなかった。 海人が急に倒れた夜、病院から手術費の支払いを催促された。 朔也に何度も電話をかけたが、最後まで出ることはなかった。 その夜、朔也は今をときめく若手女優・結城明紗(ゆうき めいさ)とレッドカーペットを歩き、彼女のために2億円ほどのダイヤモンドのブレスレットを競り落としていた。 午前3時、海人は息を引き取った。 夜が明け、ようやく朔也が病院に駆けつけた。 私は結婚指輪を外し、離婚協議書と一緒に、朔也の前へ静かに置く。 朔也は誰もいなくなったベッドを一瞥しただけで、面倒くさそうに眉をひそめた。 「郁実、もういい加減にしろ。また金を騙し取って逃げるつもりか? 金目当てのお前が、灰原家の財産や地位を手放せるわけがないだろ」 朔也をまっすぐ見つめ、ふっと笑った。 「すぐに分かるわ。 私は海人と一緒に、あんたが二度と手の届かない場所へ行くの」

チャプター (1)

第1話

灰原朔也(はいばら さくや)が起業に失敗したとき、私・立花郁実(たちばな いくみ)は自分から別れを切り出した。 彼の母親に、「朔也の前から消えてくれたら、あの子を家に戻して、跡を継がせるわ」と言われたからだ。 私は朔也の前から姿を消した。その後、自分が妊娠していることに気づいた。誰にも頼らず、一人で子どもを産んだ。 5年後、朔也は灰原グループの社長として名を馳せていた。 そんなある日、彼は突然私の前に現れた。そして、私と息子・灰原海人(はいばら かいと)をそのまま灰原家へ連れ帰り、その日のうちに私と結婚した。 けれど新婚初夜、朔也は私のあごを乱暴につかみ、嫌悪に満ちた目で私を見つめる。 「金がなくなった途端に俺を捨てたくせに、今度はどこの馬の骨ともわからないガキまで連れてきたのか。俺を騙して、金をせびるつもりか?」 DNA鑑定を3回繰り返し、ようやく海人が自分の息子だと認めた。 それでも朔也は、私が海人を産んだのは、彼が再起する日を待つためだったと思い込んでいた。 グラスを揺らしながら、冷たい笑みを浮かべる。 「今日から、俺の金に手を出すな。1円たりとも使わせない」 そう言って、私に雑巾を投げつける。 「金が欲しいなら、働け」 それからの私は、灰原家の家事をすべて一人で引き受けた。その代わりに与えられるのは、月10万円の生活費だけだった。 一方、朔也の周りには次から次へと新しい女が現れ、彼はその女たちに惜しげもなく大金を使っていた。 それなのに、私だけは海人の薬を買うのすら、朔也に許可を取らなければならなかった。 海人が急に倒れた夜、病院から手術費の支払いを催促された。 朔也に何度も電話をかけたが、最後まで出ることはなかった。 その夜、朔也は今をときめく若手女優・結城明紗(ゆうき めいさ)とレッドカーペットを歩き、彼女のために2億円ほどのダイヤモンドのブレスレットを競り落としていた。 午前3時、海人は息を引き取った。 夜が明け、ようやく朔也が病院に駆けつけた。 私は結婚指輪を外し、離婚協議書と一緒に、朔也の前へ静かに置く。 朔也は誰もいなくなったベッドを一瞥しただけで、面倒くさそうに眉をひそめた。 「郁実、もういい加減にしろ。また金を騙し取って逃げるつもりか? 金目当てのお前が、灰原家の財産や地位を手放せるわけがないだろ」 朔也をまっすぐ見つめ、ふっと笑った。 「すぐに分かるわ。 私は海人と一緒に、あんたが二度と手の届かない場所へ行くの」 第1話 病院から支払いの請求書を渡されたとき、海人の体はすでに冷たくなっていた。 1000万円。 救命措置や手術、それまでの治療で滞納していた費用を合わせた金額だ。 「至急お支払いを済ませてください。遺体の搬送にもご家族の署名が必要になります」と、看護師が声を落として告げる。 私は請求書をじっと見つめていた。そこに印字された数字が次第にぼやけていき、そこでようやく、自分がまた泣いていることに気づく。 朔也に電話をかけたが、すでに着信拒否されていた。 代わりに秘書から電話がかかってくる。その口調は、いつもと変わらず丁寧だ。 「奥様、社長は今、取り込み中です」 「1000万円だけでいいから……」 声はかすれている。 「海人が……亡くなったって伝えて。これから葬儀の手配をしなきゃいけないの」 電話の向こうが、しばらく沈黙する。 「奥様、社長は、もう騙されないとおっしゃっています」 スマホを強く握りしめる。 2年前、確かに私は朔也を騙した。 あのとき、海人は初めての心臓手術を終えたばかりだった。 私は1か月、つきっきりで世話をしていた。それなのに、朔也は一度も病院に顔を出さなかった。 灰原家に閉じ込められた生活にも、海人が何度も「どうしてパパは僕のことが嫌いなの?」と尋ねてくることにも、もう耐えられなかった。 だから私は朔也に、海人を連れて病院へ検査に行くと嘘をついた。 本当は、その時点ですでに南の街へ向かう切符を2枚用意していた。私たちのことを誰も知らない遠くの街で、人生をやり直したかった。 しかし、発車の10分前、朔也が部下を連れて駅のホームに現れた。 彼は海人の目の前で切符を引き裂き、私を無理やり灰原家へ連れ戻した。 それから私は、1か月もの間、監禁された。 スマホも、パスポートも、キャッシュカードも、すべて取り上げられた。 朔也は部屋の外に立ち、冷たい声で言った。 「また海人を連れて逃げようとしたら、一生この家から出られると思うな」 あのとき、私は確かに嘘をついた。 だから今、私が何を言おうと、朔也は信じない。 「それに、坊ちゃんの死を口実にして騙そうとするなら、本気で怒るともおっしゃっています」 秘書の声に、現実へ引き戻される。 白い布がかけられた小さなベッドを見た。 海人は静かに横たわっている。 手首には、入院中につけていたリストバンドがまだつけられている。 海人は寒がりだった。 今は私の上着をかけてやっても、もう私の胸に潜り込んでくることはない。 「嘘じゃない。海人は本当に病院にいるの」 秘書がため息をつく。 「奥様、2年前も同じことをおっしゃいました。社長は、奥様が坊ちゃんを目の前に連れてこない限り、1円も出さないと……」 私はそれ以上、何も言わなかった。 看護師が遺体搬送に必要な書類を持ってきて、親族の情報を記入するよう促す。 父親の欄を前に、長いことペンを止めていた。それでも最後には、朔也の名前を書き込んだ。 海人は最期まで、父親が自分のもとへ来てくれることを願っていた。 勝手に、海人から父親の存在を奪うことはできない。 しかし、署名を終えて銀行口座の残高を確認すると、キャッシュカードがすでに利用停止になっていることに気づいた。 画面に表示された利用可能残高は、ゼロだ。 朔也は、毎月10万円の生活費すら止めたのだ。 病院の廊下は静まり返っている。 壁に手をついて立ち上がると、目の前が急に真っ暗になる。 看護師が慌てて私の体を支えた。 「まだ熱があるんです。先に点滴を受けましょう」 「いいえ……」 「このままでは体がもちません」 私は、ベッドに横たわる海人を見つめる。 「この子をここに置いていけない。先に連れて帰らないと」 再びスマホを手に取り、朔也の秘書に尋ねる。 「朔也は今どこにいるの?」 「撮影スタジオです」 秘書は少し言いよどんでから、付け加える。 「社長は今、結城さんの撮影に付き添っています。それから、奥様と坊ちゃんのことで、自分の邪魔をするなと指示されています」 静かに電話を切り、海人にかけた上着をそっと整える。 「待っててね。今度は、ママも一緒に行くから」 第2話 撮影スタジオに着いたとき、雨は激しく降っている。 警備員は私の顔を知っているはずなのに、入り口の前に立ちはだかり、中へ入れようとしない。 「社長から、奥様は中へ入れるなと指示されています」 「急用があるの」 「社長は、どんな用件であっても会わないとおっしゃっています」 雨の中に立ち尽くし、フェンス越しに明かりのついた撮影現場を見つめる。 一番大きな差し入れのケータリングカーには、明紗の名前が大きく掲げられている。 朔也は彼女のためならスタジオを丸ごと貸し切るというのに、私には1000万円すら出そうとしない。 私は騒ぎ立てることなく、ただ入り口で待ち続けた。 3時間後、明紗のマネージャーが傘をさして出てきた。 「明紗さんがお呼びです。中へどうぞ」 マネージャーの後について控え室へと向かう。 ドアが閉まった途端、二人のボディガードが出口を塞いだ。 明紗はドレッサーの前に座っている。身にまとっているのはオートクチュールのドレスだ。 鏡越しに私を値踏みするように見つめ、その視線が長いこと私の顔に留まる。 「あんたが、立花郁実なのね」 明紗は立ち上がり、ゆっくりと私の前まで歩いてくる。 「朔也からは、欲深くて卑しい女だと聞いていたわ。どんな女かと思えば、なかなかきれいじゃない」 明紗の敵意を無視して、口を開く。 「朔也はどこ?」 「探してどうするの?」 「1000万円、必要なの。お金さえもらえれば、すぐに灰原家から出ていく」 私が出ていくと聞いて、明紗の目がわずかに輝く。けれど次の瞬間、彼女は冷ややかな笑みを浮かべた。 「本当に出ていくつもり? 朔也の子を産んだのは、いつか子どもを頼りに灰原家から甘い汁を吸うためじゃないの」 そう言いながら、明紗は腕を上げる。手首には、見覚えのあるダイヤモンドのブレスレットが輝いている。 ニュースで見たことがある。落札価格は1億6000万円だ。 朔也が彼女のクランクアップを祝って贈ったプレゼントだ。 「朔也はあんたのことなんか、愛してない。 あんたを連れ戻したのだって、朔也の子を産んだからにすぎないわ」 私は明紗を見つめる。 「言いたいことはそれだけ?」 明紗の顔から笑みが消える。 「どういう意味よ」 「男を取り合いに来たわけじゃない。欲しいのはお金だけよ」 明紗は私をじっと見つめ、その言葉が嘘か本当かを見極めようとしているようだ。 しばらくして、彼女は突然腕を振り上げ、私の頬を力いっぱい平手打ちした。 「何、澄ました顔してるのよ」 耳の奥でキーンと音がして、よろめいてドレッサーにぶつかる。 明紗は私の髪をつかみ、無理やり顔を上げさせる。 「本当に朔也に未練がないなら、どうしてまだ離婚しないのよ! 朔也が一番愛してるのは私だって、みんな知ってるわ。なのに、あんたが離婚しないせいで、私はいつまでも愛人呼ばわりされるのよ!」 髪を引っ張られ、頭皮がずきずき痛むが、抵抗はしなかった。 「だったら、私を追い出せばいい」 明紗が一瞬、虚を突かれたように動きを止める。 私は手を差し出す。 「1000万円をくれたら、すぐに息子を連れて灰原家から出ていく。 これからはもう二度と、あんたたちの前には現れない」 明紗は私の手を見つめ、その目に宿っていた嫉妬が、次第に冷ややかな軽蔑へと変わっていく。 「やっぱり、お金目当てなのね」 明紗は私の髪から手を放し、スマホを取り出す。 ほどなくして、振込入金のお知らせメールが届いた。画面に表示された金額を見つめる。200万円だ。 「あと800万円、足りない」 「もうないわ」 明紗はスマホを乱暴にテーブルに放り投げる。 「1000万円なんて出さない。200万円あげるから、それを持って灰原家から出ていきなさい」 彼女は送金画面を見ながら、蔑むように笑った。 「だって、朔也にとってあんたたちの価値なんて、その程度のものよ。 さっさとそのクソガキを連れて消えて」 「クソガキ」という言葉を聞いて、私はようやく顔を上げる。 「クソガキなんかじゃない。ちゃんと名前がある」 明紗は再び手を振り上げ、私の頬を打った。 「男をつなぎ止めるために産んだ道具のくせに、私の前で名前なんて口にするんじゃないわ」 唇の端が切れ、血が顎を伝って落ちる。それでも、私は手を出さない。 200万円はすでに振り込まれている。まだ800万円足りない。 海人を連れて逃げられるのなら、この程度の痛みはどうってことはない。 「朔也はいつ戻ってくるの?」 私はもう一度尋ねる。 「残りの分は彼からもらう」 明紗の顔から、得意げな笑みが一瞬で消える。 「200万もあげたのに、まだ朔也につきまとうつもり?」 明紗はマネージャーが持っていたコーヒーを奪い取ると、私めがけてぶちまける。 淹れたてのコーヒーが服に染み込み、熱さに全身がビクッと震える。 「この女を押さえつけなさい」 そばで控えていたボディガードが即座に私の肩をつかみ、床に押さえつける。 明紗はヒールで容赦なく私の手を踏みにじる。 「金さえもらえば出ていくと言ったんだから、大人しく引き下がりなさいよ。 これ以上朔也の前に現れたら、あんたとそのクソガキ、まとめてこの世から消してあげるわ」 痛みに耐えながら、明紗を見上げる。 「今日、どうしても彼に会わなきゃいけない」 明紗が手を振り上げ、私の顔めがけて勢いよく振り下ろす。 一度。 二度。 三度目の平手打ちが落ちる寸前、控え室のドアが突然開いた。 そこには、朔也が立っている。 彼の視線は明紗を通り越し、赤く腫れ上がった私の頬と、ヒールで踏みつけられた手に落ちる。 第3話 控え室が、一瞬だけ静まり返る。 明紗はすぐに私の手を踏んでいた足を引っ込め、目を潤ませながら朔也の胸に飛び込む。 「朔也、郁実さんを責めないで。 彼女はただ、私と朔也の関係を誤解して、嫌がらせをするために来ただけなの」 朔也は明紗を支え、その赤く腫れた手のひらに目を落とす。 「手、どうした?」 明紗は私が叱られるのを恐れているかのように、慌てて手を背中に隠す。 「なんでもないの。 郁実さんが今すぐお金が必要だって言うから、200万円振り込んだんだけど…… 少ないって怒って、あと800万出せって……」 明紗はかわいそうな被害者を装って、唇を噛む。 「今、そんなにお金はないって言ったら、夫を奪った泥棒猫だって罵られて……私に手を出そうとしたの」 たった数言で、明紗はすべての事実をねじ曲げた。 お金を受け取ってもまだ足りないと騒ぎ、嫉妬に狂って撮影現場まで乗り込んできた女に仕立て上げられてしまったのだ。 朔也が冷たい視線を私に向ける。 頬は赤く腫れ上がり、切れた唇の端からは血が流れている。 手はヒールで踏みつけられ、血にまみれている。 朔也にはこのすべてが見えているはずなのに、心配する言葉一つかけてはくれない。 それどころか、自分が着ていたジャケットを脱ぎ、明紗の肩に優しくかける。 「誰でも中へ入れるなと、言ったはずだ」 そばに立つボディガードに向けた言葉だ。 最初から最後まで、朔也が気にかけていたのは、明紗が怖い思いをしていないか、それだけだ。 明紗は朔也の胸に寄りかかり、彼をなだめる。 「もういいよ、あの200万は郁実さんにあげたことにするから。一人で子どもを育てるのも、大変だし」 彼女はわざと、海人の話題を持ち出した。 朔也の表情が冷たくなる。 「何が大変だ?灰原家の屋敷に住んで、灰原家の奥様という肩書きを笠に着て、毎月10万円の生活費をただでもらっている。 それなのに、今度は息子の死をでっち上げて、俺から1000万円を騙し取ろうとしているんだぞ」 彼は私を睨みつけ、鼻で笑った。 「郁実、ずいぶんと欲深くなったな」 私にはもう、怒る気力すら残っていない。 「そのお金は、私が使うためじゃない。病院への支払いがまだ済んでないの。 海人は……本当に死んだわ」 朔也がいきなり私の前に詰め寄り、あごを強くつかむ。 「黙れ!金をせびるために、自分の息子まで死んだことにするのか?それでも母親か?」 つかまれた唇の傷が裂け、流れた血が朔也の指先を赤く染める。 明紗が朔也の袖を引いた。 「朔也、怒らないで。きっとお金に困りすぎて、つい魔が差しただけなのよ」 朔也が明紗を見下ろすと、その眼差しはすぐに柔らかくなる。 「魔が差したんじゃない。こいつは最初から最後まで、金目当てだ」 彼は振り返り、ボディガードに冷酷に命じた。 「こいつに振り込んだ200万を取り返せ。今後、1円たりとも渡すな」 彼の袖を必死につかんでいる私を見下ろし、朔也の顔に、さらに嫌悪の色が浮かぶ。 「郁実、その強欲な顔を見るだけで吐き気がする。つまみ出せ」 ボディガードに腕をつかまれ、私はそのまま出入り口へ引きずられていく。 石段の角に膝を強く打ちつけ、たちまち血がズボンに滲んだ。 そのとき、スマホが鳴る。 明紗から振り込まれた200万円が、すでに返金されていた。 雨の中に倒れ込み、再びゼロになった残高を見つめる。 もはや、涙すら出てこない。 第4話 買取専門店に連絡をとる。 結婚指輪は、240万円で売れた。 残りは、昔の友人たちに一人ずつ電話をかけて頼み込む。 無言で電話を切る人もいれば、「また金を騙し取って逃げるつもり?」と問い詰めてくる人もいた。 ただ一人、大学時代の親友だけは何も聞かず、自分の貯金をすべて振り込んでくれた。 深夜になって、ようやく1000万円をかき集め、病院への支払いを済ませた。 看護師は、私がまだ高熱があるから気をつけるよう告げる。 「お子さんの父親に連絡しましょうか?」 「……いいえ、結構です」 俯いて、海人を見つめる。 「この子に、父親はいません」 病院を出る前、海人の荷物から1枚の絵を取り出す。 そこには太陽と海、そして手をつなぐ3人の姿が描かれている。 「病気が治ったら、パパとママと一緒に海を見に行きたい」そう言っていた。 絵を丁寧に折りたたみ、ポケットにしまう。 「ごめんね。パパは忙しくて、来られないの。 ママが連れていくから」 …… タクシーが海辺に到着したとき、空はまだ暗かった。 道中、運転手はバックミラー越しに、何度もこちらを見ていた。 「お客さん、こんな朝早くに一人で海へ?」 「ええ、海を……見たくて」 運転手はそれ以上何も聞かなかった。 車を降りる前、運転手は私に傘を差し出してくれたが、私は受け取らなかった。 「ありがとうございます。でも、もう必要ないので」 潮風が冷たい。 私は海人が大好きだったクジラのぬいぐるみを抱きしめ、一歩ずつ波打ち際へ向かった。 昨夜、葬儀社に連絡し、遺体搬送を依頼したあと、一度だけ灰原家に戻った。 結婚生活の末に、持ち出したのは小さなリュック一つだけだ。 中には海人のカルテ、クジラのぬいぐるみ、そしてあの未完成の家族の絵が入っている。 私の荷物は、もともと少なかった。 朔也は、私に彼のお金を使わせなかった。 服は安売りで買ったもの、スキンケア用品も一番安いものだ。スマホだって、7年前に買った古い機種のままだ。 そんなものを、わざわざ持っていく必要などない。 リビングのテーブルに、署名済みの離婚協議書と家の鍵を置いた。 灰原家のものは、何一ついらない。 手持ちのお金はすべて使い切った。結婚指輪も売った。 これでようやく、私を縛るものは何一つなくなったのだ。 風をしのげる岩場を見つけ、そこで腰を下ろす。 水平線の向こうが、少しずつ白み始める。 顔を伏せ、クジラのぬいぐるみにそっと頬を当てる。 「海人、海だよ。 見えてる?」 ふっと笑い、ポケットからあの絵を取り出す。 強い潮風にあおられ、紙がパタパタと震えている。 絵の中の3人は、しっかりと手をつないでいる。 けれど現実には、結局、私と海人の2人だけだ。 …… 郁実を監視しているボディガードが、ほどなくして異変に気づく。 近づくことはせず、その場の様子を動画に撮って朔也の秘書へ送る。 秘書は送られてきた動画を見て、すぐに朔也へ電話をかける。 その頃、朔也は明紗の撮影に付き添い、日の出のシーンを撮り直している。 監督がスタッフを現場から下がらせたあと、朔也は自らモニターの前に座っている。 着信音が何度も鳴り、ようやく朔也は面倒くさそうに電話に出る。 「何だ?」 秘書は慌てて答える。 「社長、奥様は今、坊ちゃんのぬいぐるみを抱えていて、一人で海辺にいらっしゃいます。 海に飛び込もうとしているようです!」 第5話 朔也は鼻で笑った。 「よくやるな」 ボディガードから送られてきた動画を見ながら、秘書はますます不安になる。 「誰かに奥様を止めさせたほうがよろしいでしょうか?」 朔也がわずかに沈黙した、そのときだった。ちょうどワンカットを撮り終え、毛布を肩にかけた明紗がこちらへ歩いてくる。 「どうしたの?」 「郁実がまた騒いでる」 明紗は髪を拭きながら、気のない様子で言う。 「朔也が私と一緒にいるって知って、わざとこんなことをしてるんじゃない? 今彼女のもとへ駆けつけたりしたら、これからも何かあるたびに同じ手を使うと思うよ」 朔也の表情から迷いが消える。 2年前も、郁実は海人を抱き、病院の検査を口実に逃げようとしたことがある。 朔也はずっと、隙を与えれば郁実はまた逃げると思っている。 今回も同じように、郁実が自分を騙そうとしているのだと信じて疑わない。 「社長」秘書がもう一度尋ねる。「本当にこれでよろしいのですか?」 朔也は、風に乱れた明紗の髪を、手を伸ばして優しく耳にかけてやる。 「また金をせびるつもりだ。 芝居が好きなら、勝手にやらせておけ。放っておけ」 電話が切れたとき、水平線の向こうからようやく朝の光が差し込む。 秘書はスマホを握ったまま、その場に立ち尽くす。 もう一度かけ直そうかと考えたが、朔也の命令に逆らうことはできなかった。 海辺にいたボディガードにも、引き上げるよう連絡が入る。 最後に一度だけ郁実を見て、彼はその場を離れる。 郁実は、彼らがそこにいたことも知らない。 朔也が自分を止める最後の機会を手放したことも、郁実は知る由もない。 …… 私は腕の中のぬいぐるみを強く抱きしめ、幼い海人を寝かしつけたときと同じように、ぬいぐるみの背中を優しくトントンと叩く。 「怖くないよ。ママがいるから」 海人は幼い頃から、私にべったりだった。 病気でどれだけ苦しくても、泣くことはなかった。 「パパはお仕事が忙しいから、迷惑をかけちゃダメだもん」といつも言っていた。 今年の誕生日、海人はたった一つだけ願い事をした。 一度でいいから、パパと一緒に海を見たい。 しかし、最後までその願いが叶うことはなかった。 「海人、怖くないよ。 ママが一人で向こうへ行かせたりしないから」 冷たい海水が胸元まで迫る。 背後から、誰かが駆けてくる気配はない。 「もう、パパを待つのはやめよう」 大きな波が押し寄せても、私は抵抗しない。 ただ残された力を振り絞り、ぬいぐるみを強く胸に抱きしめる。 …… 午前9時、明紗の撮影が無事にクランクアップした。 朔也は大きなバラの花束を用意し、さらに人前で海の見える別荘を明紗にプレゼントした。 現場はたちまち歓声に包まれる。 明紗は笑いながら朔也の胸に飛び込む。 誰かが「奥様に怒られませんか?」と冗談めかして尋ねる。 朔也は鼻で笑った。 「あいつに怒る資格なんてない」 昼になり、秘書は郁実が一晩帰っていないことを朔也に報告する。 朔也は、明紗の打ち上げパーティーに着ていくドレスを選んでいる最中で、顔を上げようともしなかった。 「どうせ金がなくなったら、戻ってくるさ」 そのとき、二人の警察官が入ってくる。 警察官は身元を確認すると、透明な証拠品袋を朔也の前に置いた。 中に入っていたのは、海人のカルテ、郁実の運転免許証、それから海水でボロボロになったあの家族の絵だった。 「灰原さん。本日午前、沖合で女性の遺体が発見されました」

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