第1話
私は久世紗和(くぜ さわ)。法律事務所のパートナー弁護士に昇格した日、5年前に別れた元婚約者・椎名慶悟(しいな けいご)が突然現れた。
慶悟が連れてきたのは、泣き崩れる相原莉奈(あいはら りな)だった。慶悟はこの事務所でいちばん腕の立つ弁護士に依頼したいと言った。
莉奈は、慶悟がかつて指導していたインターンだ。学生時代には、私が学費も生活費も援助していた。私たちが別れる原因になった女でもある。
5年前、法律扶助で引き受けた事件をきっかけに、私は莉奈と知り合った。
莉奈には頼れる人がおらず、生活も苦しかった。だから、大学を卒業するまで、学費も生活費もすべて私が負担した。卒業後は、法律事務所でインターンとして働けるよう手配した。
それなのに、私たちが婚約する直前、莉奈は慶悟と関係を持った。
慶悟は莉奈を背にかばった。
「莉奈はずっと苦労してきたんだ。悪いのは俺で、莉奈は何も悪くない。責めるなら俺を責めろ。殴りたいなら俺を殴れ」
慶悟は私に、身を引くよう迫った。
私は何も言わなかった。
そして今、私はかつて慶悟が座っていた席にいる。
「飲酒運転で人に重傷を負わせた以上、弟さんの刑を少しでも軽くするには、事故の状況が分かる証拠をそろえなければならない。被害者との示談も進める必要がある。『わざとじゃなかった』の一言で、裁判所の判断は変わらないわ」
慶悟は複雑な表情で私を見つめ、唇をかみ、ようやく答えた。
「全部、紗和の言うとおりにする」
別れ際、慶悟は私の腕をつかんだ。
「あのとき弁護士を辞めたのに、どうして戻ってきたんだ?」
私は小さく笑った。
「やっと気づいたの。終わった恋と、私を裏切った人には、弁護士としての信念も仕事も捨てるほどの価値なんてなかったって!」
第1話
「紗和さん、お願い!助けて!」
莉奈は慶悟の手を振りほどいた。よろめきながら駆け寄り、私の前にひざまずいた。
「弟はわざと事故を起こしたわけじゃないの。落ち込んで、つい飲みすぎただけなの。警察が捜査を始めて、弟はもう送検されてるの……
紗和さんはいちばん腕のいい弁護士でしょう?見捨てたりしないよね?」
泣きじゃくる莉奈の肩は震え、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。その姿は、5年前、なぜ私の婚約者と寝たのかと問い詰めたときの莉奈とは、まるで別人に見える。
「まず立って」
私は慶悟から渡された事故関係の資料に目を通した。
「裁判所は証拠に基づいて判断するの。誰かがひざまずいて泣いたからといって、裁判所の判断が変わるわけじゃない。さっき伝えたものを、一つ残らずそろえて持ってきて。私が見るのも証拠だけ。涙じゃない」
5年前のことを思えば、慶悟が私の返事に驚いたのも無理はない。
当時、敏腕弁護士だった慶悟は、莉奈のために私との婚約を破棄し、昇進まで断った。しかも、長く支えてきた婚約者の私まで、あっさり捨てた。
その騒動は法曹界に知れ渡った。私まで噂の的になり、2年間まともに依頼を受けられなかった。あれだけのことをされたのだから、二人を追い返しても誰にも責められない。
慶悟はしばらく呆然と立ち尽くし、ようやく口を開いた。
「紗和、ありがとう」
「弟さんの処分が少しでも軽くなるよう、できる限りのことはする。ただし、裁判で有利な結果を得られるかどうかは、事故の状況次第よ。刑が軽くなるかどうかは、被害者との示談が成立するかにもかかっている。
慶悟も弁護士だったんだから、飲酒運転で人に重傷を負わせれば、どうなるかは分かるでしょう。私にできるのは、必要な資料を整理して提出し、少しでも刑が軽くなるよう、弟さんに有利な事情を主張することだけよ」
私は今後の手続や考えられるリスクを、一つずつ説明した。
十分はっきり伝えたつもりだったし、二人も理解したと思っていた。
ところが莉奈は突然駆け寄り、勢いよく私を突き飛ばした。
「紗和さん、何をそんなに偉そうにしてるの?!
慶悟が私を選んで、あなたとは結婚しなかったから、恨んで仕返ししたいだけでしょう?!
私が頭を下げたのをいいことに、わざと困らせてるの?
慶悟が愛してるのは、初めからずっと私よ!これから先だって、あなたを愛することなんてない。いい加減、諦めて!」
言い終わらないうちに、莉奈の鋭い爪がまた私の首筋を引っかいた。
傷口から血が流れ出すと、慶悟が慌てて間に入った。
「いい加減にしろ。ここは法律事務所だ。わめき散らす場所じゃない。飲酒運転で事故を起こしたのはお前の弟だ。紗和はお前たちのために、今後の手続を説明してくれてるんだぞ。これ以上騒ぐなら、誰も助けてくれなくなる」
口では叱っていても、莉奈の涙を拭う手つきは優しい。
5年前、二人の関係を知って泣き崩れたときも、同じだった。
私は新居にそろえた物を、片っ端から床にたたきつけた。
傷つけられたのは私なのに、慶悟は最初から最後まで莉奈を抱きしめ、慰めながら涙を拭っていた。
婚約者だった私のことなど、目にも入っていなかった。
「莉奈が純粋で傷つきやすいのは、紗和も知ってるだろ。今はパートナー弁護士なんだ。これくらい、大目に見てやってくれ」
そう言って、慶悟は私に1枚のキャッシュカードを差し出した。
「この口座には200万円入ってる。莉奈の弟の件をうまく収めてくれたら、好きに使っていい」
私は目を上げ、差し出されたカードを見た。
あまりにばかばかしい。
あの頃は、司法試験に挑む慶悟を支えながら、狭いアパートの一室で3年暮らした。生理用品を買うお金にも困るほど貧しかった。
その後、慶悟は弁護士として成功した。それでも、私との将来のために用意したのは、二人で何十年もローンを返していく、70平米ほどのマンションだけだった。
それなのに莉奈のためなら、200万円をあっさり差し出した。
「事務所の規定では、パートナー弁護士は所内で割り当てられた案件を受けることになっている。
この件はすでに事務所が受任し、私の担当になった。正当な理由もなく断ることはできない。
だから、私まで私情で仕事を選ぶと思わないで」
第2話
その夜、私は徹夜した。
現場の防犯カメラ映像やドライブレコーダーの記録を、一つずつ整理した。血中アルコール濃度の検査結果と被害者の診断書も、順に確認した。
周囲は私が莉奈のために全力を尽くしていると思っているけれど、本当の理由を知っているのは私だけだ。
私はただ、証拠と法律に忠実でいるだけだ。
被害者の家族との示談交渉を終え、病室を出ると、慶悟が廊下のベンチに座っていた。
全身ずぶ濡れで、濡れた髪が頬に張りついている私を見ると、慶悟はとっさに上着を脱ぎ、足早に近づいてきた。
「これ、羽織れ」
私は横へ身を引いた。
慶悟が初めて担当した法律扶助事件で、一緒に動いたときのことを思い出した。
あのときの被害者の家族は、今回よりも激しく詰め寄ってきた。話を始めてすぐ、私にガソリンを浴びせ、ライターを手に弁護を降りるよう慶悟を脅した。
私は少しもひるまなかった。どうしていいか分からず立ち尽くす慶悟を、まっすぐ見た。
「たとえ火をつけられても、命がある限り、弁護士としての一線は守り抜く!慶悟、続けて!」
私は目の前の慶悟に、今回の示談交渉の結果を伝えた。
「被害者側は、治療費を全額支払い、後遺障害についても賠償するよう求めている。それから、莉奈と弟さんが直接謝罪に出向くことも、示談の条件だと言っている。示談が成立するかどうかは、私ではなく、あなたたち次第よ」
私は私情を一切交えず、事務的な口調で告げた。
「分かった。紗和、ありがとう。大変だったな。
でも、せめてこの上着を羽織ってくれないか?
昔から体が弱くて、少し冷えただけでも高熱を出してただろ。
きちんと仕事をするためにも、まずは自分の体を大事にしろよ」
その言葉に、私は小さく笑った。
「私に仕事の仕方を教えるつもり?今さら、そんなことをして何になるの?
5年前、莉奈のために私を周囲の非難にさらし、弁護士を続けられないところまで追い込んだ。それなのに5年たった今も、莉奈のために優しいふりをして私を気遣う。皮肉だと思わない?」
慶悟の動きが止まり、上着を握る指先に力がこもった。
「でも、俺は本当に紗和に負い目を感じてる。この5年、ずっと申し訳なく思ってた。いつか埋め合わせたいと思ってたんだ」
私はさらに冷たく笑った。
「そう。上着で償うつもり?」
「違う!」
慶悟は慌てて否定した。片手で上着を握ったまま、もう一方の手をポケットに入れ、先ほどのキャッシュカードをもう一度差し出した。
「この5年間、紗和がどれだけ苦労したかは分かってる。ここまで来るのも、簡単じゃなかっただろ。俺と莉奈からの償いだと思って、受け取ってくれないか?」
その言葉が、ひどく皮肉に聞こえた。
「200万円で、私を傷つけたことまで償えると思ってるの?私が莉奈に使ったお金だって、200万円どころじゃないでしょう?」
「それなら、どうしてほしい?」
慶悟が私を見た。
「お金はいらない。本当に返すつもりなら、あのマンションを私に譲って」
あのマンションの頭金は、私と慶悟が半分ずつ出した。
当時、慶悟は弁護士になったばかりで収入が少なく、生活を支える負担の大半は私にかかっていた。
夜通し案件をこなし、生活費を切り詰めて、自分の負担分をどうにか工面した。内装工事の手配から家具や家電まで、私が一人ですべてそろえた。
けれど、あの部屋に二人の関係を思わせる痕跡が残っていると知ってから、どうしても戻れなくなった。スーツケースを持ち、振り返らずに出ていった。
今思えば、二人のせいで自分まで損をする必要はなかった。
「何?手放したくないの?」
慶悟は鍵を指先でつまんだまま、何度も口を開きかけた。長く迷った末、ようやく私の前へ差し出した。
「あのときは、俺も莉奈も紗和にひどいことをした。
あのマンションは、もともと紗和のものだ。
これから何かあったら、いつでも俺を頼ってくれ」
愛情にあふれた言葉。胸を打つような約束。
けれど、人は失ってからようやく気づく。謝罪はいつだって、すべてが終わったあとに届く。
今さら、もう遅い。
病院から事務所へ戻った。
椅子に腰を下ろそうとした瞬間、ドアが大きな音を立てて蹴り開けられた。
莉奈が勢いよく駆け込み、私を指さして声を張り上げた。
「紗和さん、最低!私に仕返しするために、陰で被害者の家族に示談に応じないよう吹き込んだんでしょう!よくそんな恥知らずなことができるわね!」
第3話
莉奈の甲高い声が事務所中に響き、所員たちが何事かとこちらの様子をうかがった。
「慶悟が私を選んだだけでしょう?それなのに、奪ったみたいに責めないで。負けを認めたくないだけじゃない!」
莉奈の声に耳の奥が痛んだが、私は冷静に見返した。
「私はわざと話をこじらせたわけでも、被害者の家族に示談を断るよう吹き込んだわけでもない。そもそも、私にそんなことを決める権限はない。正式に手続を進める前に、条件は何度も説明したでしょう。被害者側が示談に応じる条件は、治療費を全額支払い、莉奈本人が直接謝罪に出向くことよ。
だから、示談が成立するかどうかは、私ではなく莉奈次第よ」
私は入り口に集まった所員たちを見回し、きっぱりと言い切った。
「難しい言葉は使っていないわ。莉奈にも理解できるでしょう?」
パシン!
言い終えるなり、顔から血の気が引いた莉奈は、私の頬を力いっぱい平手打ちした。
「何を考えてるかなんて、全部分かってる!5年前のことを根に持って、仕返ししてるだけでしょう!私が幸せになるのが許せないんでしょ。刑務所に入ればいいって思ってるんでしょう!紗和さんなんて、最低!」
そこへ、慶悟が入ってきた。
泣きじゃくり、髪を乱した莉奈を見ても、慶悟は真っ先に彼女を止めようとはしなかった。私へ目を向け、莉奈をかばうように低い声で言った。
「莉奈は弟のことでずっと不安で、まともに眠れてないんだ。精神的にもかなり参ってる。紗和は莉奈より経験があるんだから、少し言葉を選んで、これ以上刺激しないでくれ」
思わず耳を疑った。
「今、勝手な言いがかりをつけ、手まで上げたのは莉奈よ。それなのに、莉奈を止めるどころか、私のほうに我慢を求めるの?慶悟、5年たっても、どちらが悪いのかさえ分からないの?」
莉奈を見る目が冷え切った。スマホを取り出し、迷わず警察へ電話をかけた。
「それとこれとは別よ。人前で騒ぎを起こし、暴力まで振るった。見逃すつもりはない」
電話がつながった途端、莉奈が飛びかかってきた。スマホを奪って床にたたきつけ、そのまま力任せに踏みつける。
「私の将来をめちゃくちゃにして、慶悟まで奪おうとして、今度は警察に通報して、私を捕まえさせるつもり?紗和さんの思いどおりになんて、絶対させない!」
莉奈はスマホを踏みつけながら、怒鳴り続けた。
浮気相手、略奪女、男を横取りした女。そんな汚名が、様子をうかがっていた同僚たちの間に広がっていく。
慶悟が慌てて莉奈をつかんだ。
「変なことを言うな。俺と紗和の間には何もない」
莉奈は完全に我を失っていた。
「私、見たんだから!弟の事件を口実に、慶悟に近づいてるんでしょう!私から慶悟を奪うつもりなのよ!浮気相手は紗和さんのほうよ!紗和さんこそ、恥知らずな略奪女じゃない!」
莉奈はバッグから写真の束を取り出し、勢いよくばらまいた。
何枚もの写真が宙を舞った。
どの写真にも、私が体を冷やさないようにと、慶悟が何度も上着をかけようとする姿が写っていた。
私はあのとき、確かに身をかわしていた。けれど、写真はどれも、誤解を招く角度から撮られていた。まるで慶悟が身をかがめて私をかばい、私のほうからわざと近づいているように見える。
慶悟は眉をひそめ、小声で莉奈をたしなめた。
「もうやめろ。紗和はパートナー弁護士に昇格したばかりなんだ。こんな騒ぎを起こしたら、事務所のみんなの前で紗和が恥をかくだろ」
莉奈は慶悟の手を振り払い、嫉妬をあらわにした。
第4話
「私が騒いでるって?あの女は私たちの家まで奪ったのよ。今さら、人前で恥をかくことなんて気にすると思う?」
その言葉に、事務所内がざわついた。
莉奈はなおも食い下がった。
「紗和さんは、表向きは公正な弁護士を装ってるけど、本当は初めからこの事件を利用して、私に仕返しするつもりだったのよ。私のものを全部奪って、慶悟まで取り戻そうとしてる!
みんなの前で言い切れる?この事件を口実に慶悟とよりを戻そうとしてないって。慶悟に家を渡せと迫ってないって!」
莉奈は今にも食いつきそうな目で私をにらみ、鼻先に指を突きつけた。
騒ぎを聞きつけ、事務所の責任者たちも険しい顔で私の部屋へ入ってきた。
年配の所長が眉をひそめ、口を開いた。
「紗和、パートナー弁護士に就任したばかりだ。職務規程はきちんと守らなければならない。依頼人から事務所を通さずに個人的に財産や報酬を受け取る行為は認められない。
ここまで来るのは簡単じゃなかっただろう。感情に任せて、自分の将来を台なしにするな」
私が答えるより先に、莉奈は得意げに、床に散らばった写真を数枚拾い、所長へ差し出した。
「これが紗和さんの本性よ!弁護士の立場を利用して事件を盾に私を脅し、家まで巻き上げたの。そのうえ、恥知らずにも人の男に手を出した!
弁護士のくせに法律を破って、立場まで悪用してるのよ!事務所として、きちんと処分するべきよ。こんなやり方を許しちゃいけないわ!」
思わず慶悟へ目を向けた。
慶悟は唇を固く結んだまま長く黙り込み、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「久世先生にそんな意図があったとは気づきませんでした。ただ、家を渡したのは事実です。今回の件は刑事事件ですし、先生には何度も動いてもらいました。その分の報酬として家を渡しても、おかしくはないと思います」
おかしくはない……
胸の奥が一気に冷えた。その曖昧な言い方には、私への疑いを晴らす言葉が一つもなかった。一見中立に聞こえたが、みんなの疑いを裏づけたも同然だった。
これでは、私が事件を利用して家を要求し、わざと慶悟に近づいたようにしか見えない。
こうして私は、何の根拠もない疑いをかけられた。
「何か言うことはあるか?」
所長が冷たい目を向けてくる。
「依頼人から個人的に財産や報酬を受け取ったのなら、職務規程に反し、懲戒の対象になり得る。戒告や2年以内の業務停止で済むとは限らない。悪質なら、退会命令や除名もあり得る。
紗和なら、この意味が分かるはずだ」
莉奈は腕を組み、脚まで組んで、勝ち誇った顔をしている。
「こんな最低な人が、弁護士を続けていいわけないじゃない!法律まで破ってるのよ!
事務所の処分だけじゃ甘すぎる。記者を呼んで全部公表する。ネットで拡散して、法曹界の人たちにも、人の男を奪う女の本性を見せてやる!
二度と弁護士として働けないようにしてやる!」
「いいわ」
莉奈の言葉を遮り、冷たく見返した。
「記者を呼んで、全部公表すればいい。今まで黙っていたのは、弁護士として節度を守っていただけ。やましいことがあるわけじゃない。
都合よく切り取った写真と、私が残してある証拠。どちらに説得力があるか、確かめてみればいい!」
莉奈が目を見開くなか、私は迷いなく番号を押した。
ほんの数分で、大勢の記者が事務所へなだれ込んできた。