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元カノ仕様の結婚式、花嫁は降ります
2000万円以上もの大金をかけて用意された華やかな式場で、いちばん場違いな笑いものになっていたのは、花嫁になるはずの私、浅木初音(あさき はつね)だった。 私は薔薇の花粉にひどいアレルギーがある。それなのに会場は、わざわざ空輸した真紅の薔薇が一面に敷き詰められていたのだ。 私に合わせて念入りに採寸したはずのドレスも、いざ本番前に試着すると、ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。 扉を開けて入ってきた広元亜佐子(ひろもと あさこ)は、中臣啓司(なかとみ けいじ)の元恋人であるはずなのに、まるでこの式場の女主人であるかのように振る舞っていた。 彼女は手近にあった薔薇の花束を無造作に抱えると、真紅の花に覆い尽くされた柱へとゆったりと背を預ける。 「この薔薇、たしかにいい香り。嗅いでいるだけで気分が良くなるもの」 啓司が笑って応じた。 「そりゃそうさ。花は全部、亜佐ちゃんの好みで選んだんだから」 棒立ちのままの私に気づき、彼が歩み寄ってくる。少し冷えた私の手が、彼の大きな掌にすっぽりと包み込まれた。 「このところ休みなく働きづめだっただろ。見ているこっちが辛くなるくらいでさ。ちょうど亜佐ちゃんの手が空いていたから、代わりに走り回ってもらっただけだよ。 取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」 そうか。胸を躍らせて準備してきたこの美しい式は、はじめから別の誰かのために誂えられた舞台だったのだ。 私の口から、苦い笑いがこぼれた。 だったら、この式は挙げない。 この婚約者も、もういらない。
チャプター (1)
第1話
2000万円以上もの大金をかけて用意された華やかな式場で、いちばん場違いな笑いものになっていたのは、花嫁になるはずの私、浅木初音(あさき はつね)だった。
私は薔薇の花粉にひどいアレルギーがある。それなのに会場は、わざわざ空輸した真紅の薔薇が一面に敷き詰められていたのだ。
私に合わせて念入りに採寸したはずのドレスも、いざ本番前に試着すると、ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。
扉を開けて入ってきた広元亜佐子(ひろもと あさこ)は、中臣啓司(なかとみ けいじ)の元恋人であるはずなのに、まるでこの式場の女主人であるかのように振る舞っていた。
彼女は手近にあった薔薇の花束を無造作に抱えると、真紅の花に覆い尽くされた柱へとゆったりと背を預ける。
「この薔薇、たしかにいい香り。嗅いでいるだけで気分が良くなるもの」
啓司が笑って応じた。
「そりゃそうさ。花は全部、亜佐ちゃんの好みで選んだんだから」
棒立ちのままの私に気づき、彼が歩み寄ってくる。少し冷えた私の手が、彼の大きな掌にすっぽりと包み込まれた。
「このところ休みなく働きづめだっただろ。見ているこっちが辛くなるくらいでさ。ちょうど亜佐ちゃんの手が空いていたから、代わりに走り回ってもらっただけだよ。
取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」
そうか。胸を躍らせて準備してきたこの美しい式は、はじめから別の誰かのために誂えられた舞台だったのだ。
私の口から、苦い笑いがこぼれた。
だったら、この式は挙げない。
この婚約者も、もういらない。
第1話
「取り越し苦労はやめてくれ。何もせず、用意された式で花嫁になればいい。それで何が不満なんだ?」
啓司の声は穏やかで、いつもどおりの余裕を含んでいた。
私は静かに俯いて、握り合った手を見つめた。
彼の掌はひどく熱いのに、私の指先は痺れるほどに冷たい。
「啓司さん、そんな言い方しないで」
亜佐子が手にしていた赤い薔薇をそっと置き、少しこちらへ近づいてくる。
「もともと、花材を勝手に変えたのは私なのよ。赤い薔薇のほうが結婚式らしい雰囲気になると思って」
そして、申し訳なさそうに私を見つめた。
「初音さん、怒ってないよね?」
襟元に付いた一枚の薔薇の花びらを見つめているうちに、喉の奥がじわじわとむず痒くなってきた。
「もし気に入らないなら、明日にでも別の色の花に替えさせるから」
啓司が小さくため息をつく。その声音には、気づかれないほどのかすかな疲れが混じっていた。
「数百万円もの空輸費が無駄になるのは、大した問題じゃない。ただ、亜佐ちゃんはこの2日、会場に張りついてろくに眠っていないんだ。
初音、自分の好みばかり優先するな。人の苦労もわかってやれ」
私は口を開きかけた。決して、赤い薔薇が嫌いなわけじゃないのだと言いたかった。
アレルギーなのだ。
それも、重度の花粉アレルギー。
3年前、付き合いはじめたばかりの頃、彼に連れられてあるパーティーに出たことがある。
会場の隅に、小さな百合のフラワーウォールが飾られていた。
ただそばを通り過ぎただけで、全身に赤い発疹が広がり、喘息の発作を起こしたのだ。
あの日、啓司は冷たい表情のまま、その場でパーティーを中断させた。
そして険しい顔つきで、主催者に百合をすべて、その夜のうちに撤去させたのだ。
そして病院のベッドの脇で、ひと晩中私に付き添っていてくれた。
強く手を握って、彼は言った。これから俺のいる場所では、花粉のある花は花びら一枚だって触らせない、と。
それなのに、今はどうだろう。
広い披露宴会場を埋め尽くしているのは、血のように赤い、ゆうに3万本の薔薇だ。
呼吸はどんどん苦しくなり、息をするたびに胸が痛んだ。
露出している首筋と腕には、すでに細かな赤い発疹が広がりはじめている。
ドレスの背中のファスナーは引っかかったまま、半月前に抜糸したばかりの腹部の傷口は、きついドレスに圧迫されていた。
彼の会社の窮地を救うため、接待で無理に酒を引き受け続け、胃穿孔を起こして手術した、その生々しい痕だった。
「ファスナー、引っかかってるの?」
亜佐子がふいに近づき、背中のファスナーへ無遠慮に手を伸ばして引いた。
「……っ!」
力任せに引かれたファスナーの、ざらついた金属の歯が、まだ脆い傷跡を直接こすった。
突き刺さるような鋭い痛みに、私は反射的にびくりと身を縮めた。
「どうしてそんなに大げさなんだ」
啓司が不快そうに眉を寄せる。
痛みで蒼白になった私の顔を見ようともせず、彼がとっさに支えたのは、勢い余って1歩後ろへよろけた亜佐子のほうだった。
「気をつけて。足をひねるよ」
亜佐子はそのまま彼の腕に甘えるようにもたれ、ぺろりと舌を出す。
「ごめんね、初音さん。まさかファスナーも上がらないなんて思わなくて。最近、太った?」
啓司が小さく笑い声をこぼした。
「こいつは普段から運動不足なんだ。結婚したら、ちゃんとジムに通わせないとな」
私はその場に立ったまま、ふたりが私など存在しないかのようにやりとりするのを、ただ見ていた。
喉の痒みは、とうとう抑えが利かなくなった。
口を押さえた瞬間、激しく咳き込んでしまい、息もできないほどだった。
啓司の眉間の皺が一段と深くなった。
「初音、いったい何を拗ねているんだ?
亜佐ちゃんが厚意でやってくれたことだろう。ありがたく思わないのは勝手だが、誰に向かって悲劇のヒロインを気取ってるんだ?」
咳のせいで涙が滲み、ぼやけた視界の向こうに彼を見た。
「拗ねてない。少し息苦しいだけ」
私は背を向け、傷口に引っかかっていたドレスのファスナーを、自分で少しずつ下ろしていった。
豪奢なオーダーメイドのドレスを脱ぎ捨て、自分の普段着に着替える。
「ごゆっくりどうぞ。私は先に失礼します」
啓司が一瞬、虚を突かれたように固まった。反射的に1歩踏み出してくる。
「どこへ行くんだ?会場の段取りがまだいくつか残ってる」
「詰めなくていい」
重いガラス扉を押し開けると、冷たく新鮮な空気が流れ込んできて、窒息しかけていた息苦しさがわずかに和らいだ。
「亜佐子さんの好みに合わせればいいでしょう」
振り返ることはせず、私はそのまま暗い夜の中へと歩き出した。
第2話
市立中央病院の救急外来には、鼻を刺すような消毒薬の匂いが満ちていた。
「どうしたらこうなるんですか?花粉アレルギーがこれだけ重いのに、花の山みたいな場所へ自分から飛び込むなんて」
首筋一面にびっしりと広がった赤い発疹を見た当直医の声は、厳しかった。
「あと30分遅かったら、喉頭浮腫で命を落としていましたよ」
私はじっと俯いたまま、看護師が冷たい綿棒で手の甲の血管を探すのに身を任せていた。
「すみません。油断していました」
「最近の若い人は、本当に自分の体を大事にしませんね」
医師は手早く処方箋を書き終えると、次の患者のほうへと行ってしまった。
私は背もたれに身を預け、スマホを取り出した。
画面には何の通知もなかった。不在着信もなければ、新しいメッセージもない。
あの会場を出てから、もう3時間が経っている。
啓司は、私を探そうとしなかった。
彼にしてみれば、これは私の稚拙な抗議の仕方でしかないのだろう。
外で冷たい風に当たって気が済めば、おとなしく戻ってきて謝るはずだ、と。
実際、この3年間、先に折れてきたのはいつだって私の方だった。
午前2時、ようやく長い点滴が終わった。
タクシーを拾い、啓司と暮らすはずの新居へと帰る。
半年前にふたりで買った、高層階にある広い部屋。内装にこだわるため、私はあちこちを走り回り、数えきれないほど徹夜して準備したのだ。
エレベーターの扉が開く。玄関の前に立ち、いつもの手つきで暗証番号を打ち込んだ。
「ピーッ。暗証番号が違います」
静まり返った深夜の廊下に、冷たい機械の女声がやけに耳障りに響いた。
私は一瞬、その場に固まった。
番号は出会った記念日のままで、これまで一度も変えたことがない。
息を大きく吸い込み、もう一度だけ丁寧に入力し直す。
「ピーッ。暗証番号が違います」
その場に立ったまま、赤く点滅するエラーランプを眺めていると、ふいに、なぜか滑稽に思えてきた。
そのとき、不意に扉が内側から開いた。
私を見た啓司の顔に、驚きが一瞬だけよぎる。
「帰ってたのか?インターホンを鳴らせばいいのに」
私は彼を見たまま何も言い返さず、その広い肩越しに、ただ玄関のたたきへと視線を落とした。
そこには、ピンク色の女性用スリッパが1足だけ増えていた。
サイズは明らかに、私のじゃない。
傍らの靴箱の上には、やはり私のものではないブランドバッグが無造作に置かれている。
「番号、どうして違うの?」
啓司は身体をずらして私を通しながら、事もなげに答えた。
「昼過ぎ、亜佐ちゃんが招待状を何枚か取りに来てくれたんだ。亜佐ちゃんは物覚えが悪くて、何度も打ち間違えてはシステムをロックさせてしまう。
面倒だから、亜佐ちゃんがいつも使っている番号に変えておいた。ついでに亜佐ちゃんの指紋も登録した」
水をひと口飲んで、彼は私を振り返る。
「お前も指紋を入れてあるんだから、番号が変わったところで困らないだろう」
靴を脱ぎかけた私の手が、ぴたりと止まった。
指紋認証システムには、管理者権限を3人分までしか登録できない。
私と彼でふたつ。
残るひとつが、いま、亜佐子のものになったのだ。
この広い家が、急に狭くなった気がした。
この部屋を買って越してきた日のことを、私はまだ鮮明に覚えている。
啓司はひと晩を徹して、玄関で工具の音を鳴らしながら、この靴箱を自分の手で組み上げてくれた。
棚板の1枚1枚に柔らかなベルベット地を丁寧に張って、ここがお前の好きなヒールでいっぱいになるんだと笑っていた。
あの頃、彼は私を抱き上げて靴箱の上に座らせ、そのまま口づけた。その目は、私たちの未来への期待だけで満ちていた。
ここに、お前以外の女のものが置かれることは絶対にない。そう、彼は確かに誓ってみせたのだ。
「なんで黙ってるんだ?」
啓司が正面に歩み寄り、私の頬へ手を伸ばそうとする。
さっと顔を背けて、その手を避けた。
行き場を失った手が宙で止まり、彼の眉がわずかに寄る。
「まだ昼間のことを怒ってるのか?
初音、もうすぐ結婚するんだぞ。少しは大人になれないのか?
亜佐ちゃんは帰国したばかりで、こっちに友達もろくにいない。兄貴分として面倒を見るのは当たり前だろう。
スリッパ1足にまで焼きもちを焼くつもりか?」
まったく悪びれもしない彼の顔を、私は静かに見上げた。
私がひとりで救急外来から帰ってきたことも、喉頭浮腫で窒息しかけたことも、この人は何ひとつ知らないのだ。
「いいえ。妬いてなんかいない」
彼の脇をすり抜けて寝室へ行き、クローゼットからスーツケースを出すと、自分の服を1枚ずつ淡々と詰めていく。
啓司が後ろからついてきて、ドア枠に寄りかかったまま私の作業を眺めている。
「何をしてるんだ?こんな夜中に家出ごっこか?」
その声に慌てた様子はなく、あるのはただ面倒くさいという苛立ちだけだった。
「初音、その手は前にも使っただろう。飽きないのか?」
私は一切答えず、黙々と荷物を詰め続けた。
「もういい」
彼が歩み寄り、私の手を押さえる。
「明日は結婚指輪を合わせに行くんだ。騒ぐのはやめろ。
約束する。明日は1日、亜佐ちゃんを呼ばない。お前だけに付き合う。それでいいだろう?」
私の手の甲を押さえる彼の指を、私はただじっと見つめた。
そして、そっと、少しずつ自分の手を引き抜いた。
「……いいわ」
第3話
翌朝、啓司は本当に亜佐子を連れてこなかった。
彼の運転する車で向かった先は、街の中心部でいちばん格式の高いオーダージュエリーのサロンだった。
「中臣様、浅木様。ご注文いただいておりました結婚指輪、仕上がっております」
箱が開かれると、ふたつの輝くダイヤの指輪が静かに並んで収まっていた。
啓司が女性ものを取り上げ、私の手を引き寄せる。
「はめてみろ。合わなければ直させる」
冷たい金属の輪が、薬指を通っていく。
けれど、第2関節のところでつかえてしまった。
押し込もうとしても、それ以上は入らない。
啓司が少し力を込めると、私の指が締めつけられて赤くなる。
「どういうことだ?」
不快そうに眉をひそめ、彼は店長へ目を向けた。
「サイズが違うんじゃないのか?」
店長は少しうろたえた様子で、手元のタブレットで注文記録をたどった。
「中臣様、こちらの指輪は9号でございます。先月、お電話でサイズ変更のご指示をいただいておりまして」
9号。
私のサイズは11号だ。
啓司がふと何かを思い出したように、その目の奥に、ひどく不自然な感情がよぎった。
「俺は……っ」
彼が口を開きかけたそのとき、店舗の扉のベルが鳴った。
亜佐子が扉を押して入ってきたのだ。その手には、テイクアウトのコーヒーを2つ持っていた。
「啓司さん、初音さん。こんなところにいたのね」
笑いながら歩み寄り、コーヒーをテーブルに置く。
「たまたま通りかかったら、外に啓司さんの車が停まっていたから、ご挨拶だけでもと思って」
啓司は彼女を見て、それから私の指に引っかかったままの指輪をじっと見た。
「亜佐ちゃん、こっちに来てこの指輪をはめてみてくれ」
私も店長も、一瞬言葉を失った。
亜佐子も少し驚いた顔をしたが、それでもおとなしく近づいてくる。
啓司は9号の指輪を、私の指から無造作に引き抜いた。
きつく食い込んでいたせいで、私の関節には赤い跡が残った。
彼はその手を見ようともせず、指輪を亜佐子の薬指へと通した。
ぴたりと収まった。
それはまるで、初めから彼女のために誂えられたかのように、ぴったりだった。
「はぁ……やっぱりか」
啓司は短く息をつき、私のほうを振り向いた。
「先月、亜佐ちゃんが気に入った指輪があってな。サイズを伝えに電話したとき、店側で取り違えたんだろう。お前の結婚指輪のサイズまで9号に変えてしまったんだ。
大丈夫だ。11号で作り直させればいい」
そう言って、店長へと向き直る。
「特急仕上げで頼む。追加料金は払う」
店長が安堵したように何度も頷いた。
亜佐子は自分の指に収まった指輪を、うっとりと眺めている。
「この指輪、すごく素敵。初音さん、センスがいいね。
私にぴったりなんだから、これ、私がもらっちゃダメかな?どうせ作り直すんでしょう?」
啓司は一瞬だけためらったが、それでも静かに頷いた。
「気に入ったなら持っていけ。帰国祝いということで」
誇らしげにダイヤを撫でる亜佐子を、私は静かに見ていた。
ただ面倒な事態を避けるためだけに、安易に折れた啓司を見ていた。
その瞬間、胸の奥でずっと張り詰めていた見えない糸が、ふっと緩んだ。
「……作り直さなくていいわ」
私は不意に口を開いた。
啓司が怪訝そうに振り返る。
「何だって?」
「作り直さなくていい、と言ったの」
私は、亜佐子が買ってきたコーヒーを少しだけ遠ざけた。
「もう式まで数日しかない。作り直しても間に合わないでしょう。これでいい」
啓司が私を見る。その目に、探るような色が走った。
私の反応があまりに淡々としていて、淡々としすぎていることが、かえって異様に映ったのだろう。
「初音、意地を張るな」
私はゆっくりと立ち上がり、スカートの裾を整えた。
「午後から取引先と会う約束があるの。先に失礼するね」
店を出た私は、そのままタクシーを拾って法律事務所へと向かった。
そして、婚前財産の分離手続きに関する委任状に、自分の名前を書き入れた。
「できるだけ早くお願いします」
第4話
式まで、あと3日。
式場側の手配で、式のリハーサルと、料理の試食会が行われることになった。
私は長テーブルの上座に着き、スタッフが差し出した最終版の席次表を受け取った。
視線は、最前列の親族席へ落ちた。
本来なら、私の両親と啓司の両親のために用意されていた席だった。
ところが、そこにあったはずの私の両親の名前は消え、代わりに亜佐子の両親の名前が記されている。
私の両親の席は、さらに会場の隅にある別のテーブルへ移されていた。
配膳スタッフが頻繁に行き来する通路のすぐそばで、披露宴会場の中でもっとも騒がしく、高砂もほとんど見えない、最悪と言っていい席だった。
「これはどういうこと?」
表を指さして、私はプランナーに尋ねた。
プランナーは気まずそうに、少し離れて立つ啓司のほうを窺った。
啓司が歩いてきて表に目を落とすと、事もなげに言う。
「俺が替えさせた」
私の隣に腰を下ろし、白湯を注いで差し出してくる。
「亜佐ちゃんのご両親は、式のためにわざわざ海外から飛んで帰ってきてくださるんだ。目上の方だし、世間体を気にする方でもある。後ろの席に座らせるわけにはいかないだろう」
「じゃあ、うちの両親は?」
私は彼を真っ直ぐに見た。
「初音のご両親は大らかな人だ。そういう形式には昔からこだわらない」
啓司はそれが当然のことであるかのように言う。
「それに、高砂から少し離れてるほうが静かでいいだろ。ゆっくりできるし。
初音、全体のことを考えてくれ。こんな些細なことで目くじらを立てるな」
全体のことを考えてくれ。
この言葉を、彼は最近、私に言う回数が増えた。
彼の言う「全体」には、亜佐子の顔を立てることも、亜佐子の両親の見栄も、そして何より、彼自身が周囲からどう見られるかということも含まれていた。
私の尊厳だけが、ぽっかりと抜け落ちているのだ。
私は席次表を手にしたまま、以前のように理を尽くして言い争うことはしなかった。
「わかった。啓司の言うとおりにするわ」
啓司は満足そうに笑い、手を伸ばして私の髪をくしゃりと撫でた。
「それでいい。お前はいつも物分かりがいい。俺がいちばん気に入っているところだ」
物分かりがいい。
私は口の端をわずかに引き上げただけで、何も言わなかった。
やがてリハーサルが始まった。
傷がまだ完全には治りきっていないせいで、長く立っていると腹部に鈍い痛みが走る。
指輪の交換の場面まで来たとき、不意に照明が暗くなった。
スポットライトの光が逸れて、高砂の中央をきちんと照らしていない。
「照明さん、どうしました?もう一度頭からお願いします!」
プランナーが高砂の下から声を張る。
啓司が眉を寄せ、蒼白になりかけた私の顔を見た。
「まだ傷が治ってないんだ。立っていなくていい。向こうで座っていろ」
気遣ってくれたのだと、私は一瞬だけ思った。
けれど次の瞬間、彼は高砂の下にいる亜佐子に向かって、手招きをしたのだ。
「亜佐ちゃん、上がってきて初音の代わりに立ち位置を確認してくれ。照明さんが追光を合わせられるように」
亜佐子はスカートの裾をつまみ、軽やかな足取りで高砂へ駆け上がる。
啓司と向かい合い、眩しいスポットライトの下でふたりは微笑み合った。
私は暗い影の中にひとり座り、ただそれを眺めていた。
私の婚約者が、別の女の手を取って、私の式の高砂で、幸せの予行演習をしているその光景を。
ちょうどそのとき、式場側の責任者が私のそばに来て、声をひそめて尋ねた。
「浅木様、このあと照明の微調整はいかがなさいますか」
ふと、2年前、南の島で彼がプロポーズをしてくれた夜のことを思い出した。
彼は内緒で浜辺をひとつ丸ごと貸し切って、一睡もせずに、何千という貝殻で自らの手で私の名前を並べた。
夜空いっぱいに打ち上がる花火の下、片膝をついてダイヤの指輪を差し出したとき、彼は緊張のあまり声まで震わせていたのだ。
指輪をはめ終えると、啓司は大切そうに私の指先に口づけた。
その目は深い情だけで満ちていて、目を赤くしながら、永遠にお前だけの主演男優でいると誓ってくれたはずだった。
私だけの主演男優だったはずの彼が今は、私の目の前で、まったく別の人間を私たちの式のスポットライトの下へ連れ上げている。
私はゆっくりと立ち上がり、両親の名前が差し替えられた席次表を、責任者の手へと静かに押し返した。
「調整はもう結構です。式は中止します。
申込金は返金不要です。今日の皆さんへの手間賃だと思ってください」
責任者が目を見開いて絶句する。私は自分の唇に指を当てて黙るよう示し、高砂で花のように笑い合うふたりを指さした。
「お好きなだけリハーサルを続けさせてあげてください。邪魔をしては気の毒ですから」
そう言い残し、私は誰にも気づかれないまま、宴会場の脇の扉から外へ出た。
外の夜風は冷たかった。私は通りかかったタクシーを1台停める。
「運転手さん、新幹線の駅まで」