第1話
結婚式の当日。祭壇の前に立つ私、茂木愛奈(もてき あいな)を置き去りにして、婚約者は迷いもなく姉の茂木奈穂美(もてき なおみ)のもとへ歩いていった。
参列者たちは、こぞって私を嘲笑った。
「やっぱりね。奈穂美の魅力に抗える男なんて、この世にいないもの。愛奈の彼氏が奈穂美に告白するの、これで5人目でしょ」
奈穂美は困ったような顔を作ってみせた。
「ごめんね、愛奈。あなたの婚約者がどれだけ一途か、試してあげたかっただけなの……また、あなたの結婚式を台無しにしちゃったね」
恥辱にまみれ、立ち尽くす私の前に、ひとりの男が静かに歩み出た。
春本和真(はるもと かずま)。国内有数の財閥、春本グループの社長だ。
彼は私の手をそっと取り、神父へと目を向けた。そうして、私は彼の花嫁になった。
それからというもの、奈穂美は幾度となく和真に色目を使った。けれどそのたびに、彼は皆の前で容赦なく彼女を切り捨てた。
「奈穂美、身の程を知れ。俺に纏わりつくな」
凍りつくような冷酷な声で、ただそれだけを告げた。
3年間、和真は惜しみない愛情を私に注いでくれた。守られている、大切にされている。そう感じるたび、自分がこの世で一番幸せな女なのだと心から思えた。
ある日、予定より早く出張から帰宅した私は、彼を驚かせようと書斎へ向かった。
扉の向こうから、部下の声が漏れ聞こえてきたのはその時だった。
「社長。奥様のお姉様が、あなたのお子を身籠っておられます。もし奥様に知られでもしたら……」
続く和真の声は低く、平坦だった。
「奈穂美とのことは、ただの過ちだ。それだけだ。愛奈には決して悟らせるな。埋め合わせは、いずれ俺がする」
明かされた真実に、頭の中が真っ白になった。彼のついた嘘の重みが、胸の奥を締めつける。
それでも私は、扉を開けて彼を問い詰めはしなかった。
ただ静かに踵を返し、寝室へと戻った。
結婚するとき、誠実さだけは守ると誓ってくれたはずだった。
なのに、彼は嘘をついた。
だから私は、彼のもとを去る。
二度と、振り返らずに。
第1話
寝室に戻るなり、私はスマホを取り出し、顧問弁護士に電話をかけた。
「離婚届を用意してください。今すぐに」
電話の向こうで、息を呑むような沈黙が流れる。
「離婚届……ですか?春本社長はご存じなのですか?」
「知ってます」
嘘のせいで喉の奥が焼けるようだった。それでも構わず、言葉を無理やり絞り出す。
「とにかく、書類だけお願いします」
30分後、私は小さなコンソールテーブルの前に立っていた。プリンターはまだ温かい。
離婚届に署名を済ませ、書類を束ごと公共料金の請求書の下に滑り込ませる。
平常心を装ったその時、和真が部屋に入ってきた。彼の視線が私を捉えた瞬間、端整な顔に驚きの色が浮かんだ。
「愛奈?出張は金曜までだと思っていたが」
私は微笑みを作った。
「驚かせたくて、早く終わったの」
彼は大股で部屋を横切ると、両手で私の頬を包み込んだ。
かつてはその掌の温もりが、世界で一番好きなものだった。今はただ、肌が粟立つばかりだった。
「……やっと帰ってきたか。ずっと会いたかった」
彼の親指が私の頬をそっと撫でた。
その愛おしげな言葉に、先ほど耳にした会話が、すべて自分の妄想だったのではないかとさえ思えてくる。
崩れ落ちそうになる前に、私はコンソールの上の書類を掴み、差し出した。
「せっかくだから、これにサインしてもらえる?家の請求書なの。片付けておきたくて」
「ああ、いいよ」
彼は何の疑いもなく束を受け取り、上着からペンを抜くと、付箋の貼られた箇所に次々とサインしていく。
1枚、また1枚と、流麗で堂々とした署名が連なっていく。疑うことすら知らないかのように。
私はそのペン先を見つめていた。一番下に紛れ込ませた離婚届の上を、ペンが滑っていく。彼は書類の見出しにすら目を通さなかった。それほどまでに、私を信じ切っていた。あるいは、私がこんなことをするなど、想像すらしていなかったのだろう。
書き終えた彼は、軽い笑みとともに書類を返してきた。
「これで終わりだ。他には?そろそろ、妻にただいまのキスをしてもいいか?」
答える間もなく、彼の力強い腕が私を胸に引き寄せる。唇が近づいてきた瞬間、私はうろたえ、ぎりぎりで顔を背けた。
彼の口づけは、ぎこちなく唇の端を掠めた。
和真が身を引く。瞳に戸惑いの色が浮かんだ。
「……どうした?」
私はうつむき、髪で表情を隠した。
「ううん、なんでもない。ただ……出張の疲れが出ただけ。移動だけで疲れちゃって」
彼の眉間から、すっと力が抜けた。案じるような声で言う。「それなら早く言えばいいのに。ほら、座って」
彼は私をソファへと導いた。親指がうなじの付け根に当たり、ゆっくりと円を描くようにほぐしていく。やがて指先はこめかみへと上がっていった。
「頑張りすぎなんだよ、お前は」
彼は優しく囁く。
「何度も言ってるだろ。仕事が辛いなら辞めればいい。俺が養う」
以前の私なら、こんな言葉ひとつで舞い上がるほど喜び、自分から振り向いて口づけをしていただろう。けれど今は、一言一言が胸を押し潰すだけだった。
私はただ頷き、小さく呟いた。「……そうかもね。考えてみる」
彼は私の頭のてっぺんに口づけを落とした。
「いい子だ。シャワーを浴びてくる。すぐ戻るから、そこで待ってろ」
浴室の扉が閉まり、水音が響き始めた瞬間、私は表情を崩した。クッションに深く沈み込む。目の奥が焼けるように熱いのに、涙だけは頑なに出てこなかった。
鋭いバイブ音が部屋の空気を切り裂いた。ナイトテーブルの上で、彼のスマホが光っている。
急ぎの用件かもしれない。そう思い、彼に渡そうと歩み寄った私は、画面に浮かぶ名前を見て息を呑んだ。
奈穂美。
血の気が引く感覚。
さらに二度震え、やがて静かになった。私はその場に固まったまま、手の中の端末の重みを感じていた。
戻そうとしたその時、ロック画面に新しいメッセージのプレビューが浮かび上がる。
【早くこれ見せたい】
考えるより先に、指先が動いていた。自分の誕生日を打ち込む。ロックはあっさりと解除された。
奈穂美とのトーク画面を開く。最新のメッセージには、画像が1枚添えられていた。
エコー写真だった。
開いてみると、粗い白黒の画像の中に、小さく丸まった赤ん坊の輪郭が写っていた。すでに頭の丸みまで、はっきりと見て取れる。
それは、姉の子供だった。そして、その父親は私の夫だ。
声が漏れないよう、拳を口元に押し当てた。
この1年半、私は和真との子を望み、ずっと授からずにいた。春本家の親族たちは、跡継ぎを望む声を、日に日に強めていった。
それでも和真は、いつも私を庇うように盾となってくれていた。
「時間はある」と、額に口づけながら彼は言った。
「子供なんて要らない。俺にはお前さえいればいい。ふたりだけの世界を作ればいいんだ」
なのに、私に叶えられなかったものを、奈穂美が与えていた。私が壁紙のように背景へ霞んでいく一方で、両親の愛を一身に受け、いつも私の欲しいものを先に手にしてきた姉。
そして今度は、それまで手に入れたのだ。
鈍く、深い痛みだった。心臓を抉り込まれたような。
私は画像を閉じ、端末をロックした。それから何事もなかったかのように、ベッドに座り直し、枕にもたれて自分のスマホをぼんやりといじった。
数分後、浴室から和真が出てきた。腰に緩くタオルを巻き、逞しい胸には、まだ水滴が光っていた。
彼はスマホに目をやった。その瞬間、顎に走る微かな緊張。こちらへ一瞬だけ向けられ、すぐに逸らされた視線。私はそれを見逃さなかった。
私は何気ない素振りを装って顔を上げた。
「何かあった?」
彼はスマホを裏返しにナイトテーブルへ置いた。
「仕事だ。南エリアの系列会社が、うちの物流倉庫のひとつに手を出そうとしてる。明日片付ける」
心が沈んでいくのを感じた。また、嘘をついている。
彼はベッドに滑り込み、私に身を寄せてくる。私は無理に体の力を抜き、あと数日だけ、何も知らない妻を演じ続けようと決めた。
翌朝、鏡の前でネクタイを結びながら、和真が実家の集まりの話を切り出した。
「明後日、お前の実家でだ。無理に来なくていい。ああいう場が、お前にとってどれだけ辛いか知ってるから」
私は彼を見た。
「どうしてそう思うの?」
彼は鏡越しに私と目を合わせた。
「奈穂美が部屋にいると、お前の両親はろくにお前を見もしないだろう。それを見せられるのが、俺は嫌なんだ」
一言一言、すべて真実だった。以前の私なら、その気遣いに心から感謝していただろう。
けれど今の私には、本当の理由が見えていた。彼は、私に来てほしくないのだ。奈穂美がそこにいるから。デザイナーズドレスの下で、もううっすらと膨らみ始めたお腹を隠して。
込み上げる苦さを、私は呑み込んだ。
「行くわ。家族の集まりだもの。みんな来るのに、私だけ欠席したら変でしょう」
彼の瞳の奥で、何かが揺れた。罪悪感か、あるいは居心地の悪さか。だがすぐに、それを塗り込めるように表情を戻す。
「わかった。お前がそう言うなら」
私はその集まりに行き、私を隅に置いたまま、奈穂美ばかりを溺愛してきた両親を、この目で見届けるつもりだった。私から何もかも奪っていった姉の姿も。
そして永遠に、彼らの世界から去るのだ。
第2話
土曜日、私たちは実家の集まりへと向かった。
ダイニングに足を踏み入れた瞬間、真っ先に目に入ったのは、母が奈穂美に駆け寄る姿だった。
「まあ、奈穂美!私の自慢の娘」
母は奈穂美の頬を両手で包み、愛おしそうに何度も撫でる。傍らでは父が、目を細めてそれを見守っていた。
私は戸口に立ち尽くしたまま、和真の手を背中に感じながら、誰かが私の到着に気づくのを待った。けれど両親の視線が、こちらへ向けられることはなかった。和真が、小さく咳払いをした。
「和真、愛奈」
ようやく父が、気のない調子で声をかけてきた。
「来たのか」
夕食の時間になり、皆が席についた。並ぶ料理は、どれも奈穂美の好物ばかり。トリュフのリゾット、帆立のソテー、繊細なアスパラガスのタルト、そしてチョコレートスフレ。
私はテーブルを見渡し、自分の好きなものをひとつでも探そうとしたが、何ひとつ見つからなかった。
前菜が下げられるより早く、母が話を切り出した。
「早く伝えたくてたまらなかったの。奈穂美のジュエリーコレクションがガレリア賞を受賞したのよ。信じられる?もう、誇らしいわ」
奈穂美は殊勝な顔で俯いてみせた。
「お母さん、恥ずかしいからやめて」
「何言ってるの。これは快挙よ」
父がグラスを奈穂美に向けて掲げた。その瞳には、私がどれだけ努力しても手に入れられなかった光が滲んでいた。
「我が娘に。受賞デザイナーに乾杯」
母の視線が、ようやく私に向いた。
「それであなたは?まだあのちっぽけなアトリエで、細々とやってるの?」
「あれはちっぽけなものなんかじゃない」私は静かに言った。「私の事業よ」
「2年も利益が出ていない事業でしょう」
母は手を払うように振った。
「奈穂美にはちゃんとしたクライアントがいる。ちゃんとした賞もね。少しはお姉さんに教わったら?」
私が言葉を返す前に、和真が静かに、けれどはっきりとフォークを置いた。
「愛奈の仕事には、市場のほうがまだ追いついていないほどの独創性があります。彼女のデザインには、確かなビジョンがある。あれほどの才能が、いつまでも埋もれたままでいるはずはありません」
父は鼻で笑うと、スマホを取り出した。
「ビジョンといえば、奈穂美の受賞作、見たか?見せてやろう」
写真をスワイプし、画面を和真へ突きつける。
「見てくれ。素晴らしいだろう」
私も何気なく目をやり、心臓が跳ねた。
画面に映っていたのは、一対の指輪。3か月前、私が和真に贈ろうと描いたデザインだった。
指先の感覚が消えていく。あのスケッチは、一度もアトリエの外に出したことがない。
誰にも見せたことのないデザインだった。
「見事だな」
和真がそう言った瞬間、殴られたかのように体が竦んだ。
「おめでとう、奈穂美」
「ありがとう、和真」
奈穂美の声は、甘く弾んでいた。
私は口を開いた。言葉が喉元まで上がってくる。
――それ、私のデザインよ。どうやって手に入れたの。
次の瞬間、奈穂美が椅子から立ち上がった。
手に持ったグラスをそっと置くと、澄んだ音が響き、全員の視線が集まった。
「みんなに報告があるの」
頬を紅潮させ、彼女は言った。
「素敵な報告よ」
母が胸の前で両手を組んだ。
「あら、何?教えてちょうだい」
奈穂美の視線が、私を捉えた。ゆっくりと、意図的に。そして唇を緩めると、彼女は言った。
「私、妊娠したの」
ダイニングが沸き立った。母は椅子から崩れるように立ち上がり、震える腕で奈穂美を抱きしめた。父は声を上げて笑った。
「お相手は誰なの?」母が問い詰める。「私たちの知ってる人?」
奈穂美はお腹を庇うように手を添えた。
「お相手のことは……ちょっと複雑なの。この子は、私ひとりで育てるつもり」
その言葉を口にしている間も、彼女の視線は私から離れなかった。
母の表情が一瞬揺らいだものの、すぐに笑顔を取り戻す。
「それがあなたの望みなら、私たちは全力で支えるわ。この子は、たっぷり愛されて育つはずよ」
その先は、耳に入らなかった。激しい耳鳴りが響き、祝福の言葉も歓声も、すべてを呑み込んでいく。指から力が抜け、ワイングラスが手から滑り落ちた。
グラスは皿の縁に当たって砕け散った。白いテーブルクロスの上に、破片が飛び散る。
全員の視線が、一斉に私へと向いた。
「愛奈!」
母の声が苛立ちに尖る。
「もう少し気をつけられないの?せっかくの雰囲気を台無しにして」
私は手を伸ばし、破片を掌に集め始めた。
鋭い痛みが、霞んだ意識を切り裂く。見下ろすと、人差し指に一筋の赤い線が滲んでいた。血が玉のように膨らみ、破片の上へと滴り落ちる。
「愛奈、やめろ」
和真は一瞬で私の傍らに来ていた。両手が私の手首を掴む。
「離すんだ。家政婦に任せればいい。血が出てる」
彼は胸ポケットからハンカチを抜き取り、私の指にしっかりと押し当てた。
「割れたガラスには絶対に触るな。二度とするな。わかったか」
まもなく家政婦がちり取りと濡れ布巾を手に現れ、割れたガラスは片付けられていった。
「……ごめんなさい」私は消え入りそうな声で言った。「少しお手洗いに」
客用の洗面所は静まり返っていた。私はハンカチを外し、傷ついた指を冷たい水にさらした。
外に出ると、奈穂美が待っていた。
壁に寄りかかり、腕を組んだその姿は、まるで勝利を誇示するかのようだった。
「おめでとう」私は平坦な声で言った。「さぞ嬉しいでしょうね」
「ええ」
奈穂美は首を傾げ、私を観察するように見つめた。幼い頃、私のお気に入りの人形を奪った時と同じ目だった。
「顔色が悪いわよ、愛奈。具合でも悪いの?」
「あの指輪」
抑えきれず、私の言葉が零れ落ちた。
「あれ、私のデザインよ。どうやって手に入れたの?」
奈穂美は微笑んだ。
「何のことかしら。あれは私自身のデザインよ。特別な人が、着想をくれたの。あの作品の線の一本一本が、彼のものなの」
足元が崩れるような感覚に襲われた。彼女は告げていたのだ。私が魂を注いだあのデザインを和真が渡し、自分はそれを自らの手柄として世に出した、と。
私の胸が張り裂けそうだった。
奈穂美は、私が物心つく前から、両親の愛情を独り占めしていた。高校時代に家へ連れてきた彼氏はみんな、1か月もしないうちに奈穂美へ電話をかけるようになった。
そして今、誰にも見せたことのないデザインを奪い、私が結婚した男までも奪った。彼女は、私から何もかもを奪い取っていった。
「あなたはいつも、私の持っているものが欲しかったのね」私は呟いた。「満たされたことなんて、一度もないの?」
奈穂美は壁から体を離し、私の横を通り過ぎていった。
「ないわ。一度も」
そのまま、彼女は姿を消した。私は廊下に立ち尽くし、和真のハンカチを巻き直した手の疼きを覚えながら、自分の中に残っていた最後の希望の灯が、静かに消えていくのを感じていた。
私は食卓に戻らなかった。玄関を見つけ、外の冷たい夜気の中へと足を踏み出す。数分後、和真が追ってきた。
「具合が悪いと伝えておいた」
彼は私を車へと導きながら言った。
「帰ろう」
長い間、私たちは無言のまま車を走らせた。私は額を冷たい窓ガラスに押し付け、呼吸を整えようとした。
和真の声が、沈黙を破った。
「愛奈。辛かっただろう。お前の両親は……いつもああだ。それに、奈穂美のあの報告。あんな場に付き合わせて、悪かった」
私は彼の横顔を見つめた。力強い顎の輪郭。あまりにも誠実そうに聞こえる。それなのに実際には、私を裏切っているのだ。
「大丈夫」私は嘘をついた。「ちょっと色々あって疲れただけ」
彼はしばらく黙っていた。それから手を伸ばし、私の指に自分の指を絡めた。
「いい考えがある。少しここを離れよう。ふたりきりで」
「離れるって、どこに?」
私は眉をひそめた。
「祖父が残してくれた小さな島があるんだ。海沿いに家がある。そこから見る朝日は、俺がこれまで見た中で一番美しい」
彼は手を握りしめた。
「ふたりで朝日を見ながら、しばらく他の連中のことは全部忘れよう。どうだ?」
断りたかった。けれど心のどこかで、愚かしいほど頑なな部分が、彼ともう一度、朝日を見たいと願っていた。
「うん」私は言った。「朝日、見に行こう」
あともう一度だけ。それが最後の朝日になる。
そうしたら、私は彼の世界から、永遠に消える。
第3話
翌日、私は島へ持っていく荷物をまとめ始めた。
サンドレスをバッグにしまい込み、サイドポケットには署名済みの離婚届と並べてパスポートを入れる。まるで、献身的な夫とロマンチックな休暇に出かける、ただの妻であるかのように振る舞った。
午後も遅くなった頃、私たちは彼のヨットで波を切って進んでいた。海岸線が、みるみる背後に遠ざかっていく。
和真は舵輪に手をかけ、操縦席に立っていた。風が黒髪を乱す。時折、あの独特の薄い笑みを浮かべて振り返る。
「これが、俺たちの逃避行の始まりだ。ふたりきりで。仕事もなし、家族もなし、邪魔者もなし」
私は頷いた。心から幸せなふりをして。
やがて、水平線に島が姿を現した。ヨットが桟橋へと滑り込んでいく途中、砂浜で何かが揺らめいているのが見えた。何十もの小さな灯りが、半円を描くように並び、その中心にはふたり分のテーブルが設えられている。
和真がエンジンを切り、私を桟橋へと導いた。彼の手は温かく、しっかりと私を支えていた。
「サプライズだ」
彼は囁くと、砂浜へと私を連れていく。
テーブルには白いリネンがかけられ、並ぶ料理はすべて、私の好物ばかりだった。
彼が椅子を引いてくれる。瞳に蝋燭の灯を映しながら、彼は言った。
「大変だっただろう」
それは低く、真剣な声だった。
「お前の両親のことも、親族からの圧力も、全部。でも、これだけは知っていてほしい、愛奈。たとえお前の家族がお前の価値を見ていなくても、俺は見てる。俺はずっとお前の味方だ」
私は彼を見つめた。しっかりとした顎、真摯な瞳、誠実さを滲ませたその口元。紡がれる言葉のひとつひとつが、誓いのように響く。けれど、そのひとつひとつが実は嘘なのだ。
「ありがとう」
私は言った。言葉が苦かった。
「その言葉が、私には何より嬉しいわ」
彼はほっとしたように笑い、グラスを掲げた。
「俺たちに。二度目のハネムーンに」
「私たちに」私も同じ言葉を返し、口をつけた。
彼がグラスを置き、私に注ぎ足そうとワインボトルに手を伸ばしたその時、テーブルクロスの上でスマホが震えた。
鋭く、無遠慮な音だった。和真は画面に目をやると、親指で操作し、着信を切った。
再び、震えが響く。彼は再びそれを切り、微かに顎を強張らせた。
「まったく、言っておいたはずだろ――」
3度目の振動は、しつこく、無視できない類のものだった。
彼の表情に、迷いがよぎるのを私は見ていた。
「出た方がいいんじゃない?」私は完璧なまでに平静な声で言った。「部下かもしれないでしょう。何かあったのかも」
誰からの電話か、私にはもうわかっていた。彼は部下たちに、今日は邪魔をするなと言い渡していたはず。だとすれば、可能性はひとつしかない。奈穂美。
和真は首を振った。
「お前に約束したんだ。今日は俺たちの日だ。仕事の話はなしだ」
不意に振動が止んだ。そして画面に通知が灯る。彼はスマホを手に取り、メッセージを読むと、眉根を寄せた。
「やっぱり何かあったの?」私はわざと尋ねた。
彼はすでに椅子から立ち上がっていた。
「トラブルだ。うちの事業のひとつで。まずいことになってる、愛奈。俺が直接出向かないと」
彼はテーブルを回り込み、両手で私の頬を包んだ。親指が頬を撫でる。
「日の出までには戻る。約束する。一緒に朝日を見よう」
私は彼の瞳を見上げた。
「本当に、行かなきゃダメ?せめて夕食だけでも」
彼の表情に、何かがよぎった。罪悪感、あるいは後悔。
「必ず埋め合わせる。約束だ」
彼は私に口づけると、砂浜を歩き、桟橋へと大股で向かっていった。
ヨットのエンジンが唸りを上げた。船影はみるみる小さくなり、やがて点となり、そして見えなくなった。
私はテーブルへと向き直った。蝋燭の火はまだ揺れている。何もかもが元のままなのに、私だけが、ただひとり取り残されていた。
食事には手をつけなかった。ワイングラスを手に波打ち際まで下り、冷たい砂の上に腰を下ろす。膝を抱え、風が髪を顔に激しく打ちつけるのに任せた。
私はずっと待っていた。
真夜中が過ぎ去った。テーブルの蝋燭は、ひとつ、またひとつと燃え尽きていく。それでも、水平線は空っぽのままだった。
私はスマホを取り出し、インスタを開く。
奈穂美の最新の投稿は、45分前のものだった。男の手が、女のお腹にそっと添えられている写真。その袖口には、蔓草が複雑に絡み合う意匠の、銀のカフスボタンが光っていた。
あのカフスボタンは、私が自分でデザインしたものだ。2年前、和真の誕生日に。
彼がどこへ行くときも、私の一部を身につけていてほしかった。
キャプションにはこうあった。
【体調が悪いと伝えた瞬間に駆けつけてくれた、大切な人へ。言葉にできないほどの安心感を、私と、私たちの赤ちゃんにくれた。あなたがいてくれて、本当に幸せ】
文字が滲むまで、私は画面を見つめ続けた。夫が本当に姉のもとにいるのだと確信した瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。
親指が、和真の連絡先の上で止まる。電話をかけた。
1度目は、鳴り続けた末に留守番電話へと切り替わった。切って、もう一度かける。結果は同じだった。3度目、もう諦めかけたその時、誰かが電話を取った。
「もしもし、愛奈」
奈穂美の声は甘く、明らかに満足げだった。
「和真に代わって」私は冷たく言った。
「今ちょっと手が離せないの。私たちの子のことで、少し心配なことがあって。彼、本当に献身的なのよ。何もかも放り出して、すぐに飛んできてくれるんだから、あなたも驚くと思うわ」
一拍の間。枕にゆったりともたれ直すような、柔らかな衣擦れの音が聞こえた気がした。
「ねえ、愛奈、前から言ってるでしょう。この世に、欲しいと思って手に入らない男なんていないの。和真も例外じゃない。それに今、私は彼の子を身籠ってるんだもの……」
彼女は、意味深に言葉を途切れさせた。
私は何も言わなかった。
「ひとつ忠告してあげる」奈穂美は続けた。「いい加減、現実を見なさい。離婚届を出して、残ったわずかな誇りだけ持って去りなさいよ。あなたの負けなの、愛奈」
「和真が欲しいの?」
私の声は平坦だった。
「いいわ。あげる」
驚いたような沈黙が流れた。奈穂美は、私が泣くか、あるいは怒りをぶちまけるのを期待していたのだろう。
「私はずっと我慢してきた」
声色は変わらないままに、私は続けた。
「これまでの人生でずっと、あなたが欲しがるものを取らせて、自分は身を引いてきた。両親の愛情も。恋人たちも。夫も。あなたはそれを全部、自分のものにしてきた。
私がそれを許してきたのは、心のどこかで、いつか自分が十分に良い人間になれば、何かひとつくらい自分のものが持てると信じていたから」
「愛奈……」
「でも、我慢するのはもう終わり」
私はそれだけ言うと、冷たく彼を見つめた。もう気持ちは決まっていた。
「もう二度と、私を踏みにじって、ただで済むと思わないで」
「どういう意味よ、それ」
奈穂美の声から、甘さが消え、鋭さが滲んだ。
答える代わりに、私は電話を切った。
眠らずに、ただ空を見つめていた。
朝の5時17分、太陽が水平線の向こうから姿を現した。
雲がピンクとコーラルと琥珀色に染まっていく。1時間前まで深い闇に沈んでいた空が、今はまるで光に満ちた聖堂のようだった。
けれど、私はまだ独りだった。和真の姿はどこにもなかった。
2時間後、ようやく和真が島に戻ってきた。桟橋の板を踏む彼は、疲れ果て、シャツは皺だらけで、顎には無精髭が影を落としていた。
病院への往復が、彼を心底疲弊させていた。奈穂美は泣いたり無理を言ったりし続け、医師がふたりに、赤ちゃんは無事だと告げる頃には、夜明けが迫っていた。彼はここへ戻るまで、制限速度などお構いなしだった。
砂浜には誰もいなかった。昨夜のテーブルはそのまま砂の上に残り、手つかずの料理は傷んでいた。
部下が、砂浜の端で待っていた。表情は張り詰めている。
「愛奈は?」和真は砂浜を見渡しながら尋ねた。「屋敷の中か?」
部下が歩み出て、封筒を差し出した。
「社長、奥様はいなくなりました」
和真の眉間に皺が寄る。
「いなくなったって、どこへだ。散歩か?」
「1時間ほど前、モーターボートで出て行かれました。これが別荘に残されていて」
和真は封筒を受け取り、開いた。
中には離婚届が入っていた。署名も日付も、すでに記入済みだった。1枚目にクリップで留められていたのは、小さなベルベットの袋。紐を緩め、掌に中身を落とす。
春本家の奥様の証である指輪が、掌へと滑り落ちた。