第1章
私、桜井瑞希(さくらい みずき)の恋人・相川慎一(あいかわ しんいち)は、今年もクリスマスイブを私と過ごさない。
私の親友・宮本沙耶(みやもと さや)と2人で出張することになったからだ。これで6度目になる。
沙耶はわざと責めるような目で慎一を見た。
「もう、慎一ってば。クリスマスイブまで出張だなんて、ほんと仕事ばっかりなんだから。瑞希、ごめんね。せっかくのイブなのに、慎一と一緒に過ごせなくなっちゃって」
慎一は表情を変えないまま言った。
「仕事が最優先だ」
昔から、慎一は何より仕事を優先してきた。私が高熱で意識を失ったときも、私たちを育ててくれた児童養護施設の施設長が亡くなったときも、「自分で何とかしろ」と言うだけだった。
それでも、慎一がそう考える理由はわかっていた。
私たちは2人とも孤児で、食べるものにさえ困るような生活をしてきた。安定した仕事があって初めて、安心して暮らせる。身をもってそれを知っていたからだ。
だから、私が立ち上げから携わってきたプロジェクトが、慎一のまとめた提携案件とちょうど噛み合うとわかったとき、私はすぐに上司へ掛け合った。
クリスマスの特別休暇を返上する代わりに、慎一の出張に同行させてほしいと申し出たのだ。
同行が認められたその夜は、うれしくてたまらず、ベッドの上を何度も転げ回った。
ところが今朝になって、突然プロジェクトから外され、別部署への異動を告げられた。
目を赤くした私に、慎一は淡々と言った。
「瑞希、仕事なんだから公私混同はするな。
……それに、クリスマスイブに女性と2人で出張なんて、周りの目もあるだろ」
そう言ったくせに、私の代わりにプロジェクトを引き継ぎ、クリスマスイブに慎一と出張することになったのは沙耶だった。
女性と2人で行くのはまずいはずなのに、沙耶なら構わないらしい。
沙耶の笑い声で、私は我に返った。
「瑞希って、慎一とは子どもの頃からずっと一緒なんでしょ?こんな仕事人間とずっと一緒で、飽きないの?
いっそ私に譲ってよ。うち、会社やってるし、倒れるまで働かせてあげる!」
顔を上げると、沙耶は慎一に身体を預けるように寄りかかっていた。
その表情は、半分冗談で、半分本気にも見えた。
それでも慎一は、彼女を振りほどこうともしなかった。
……言われてみれば、そうかも。
私も、少し慎一に飽きてきたのかもしれない。
第1話
「いいよ」
考えるより先に、その言葉が口をついて出た。
沙耶は目を丸くした。
「瑞希、もしかして怒った?冗談だってば」
慎一の顔がすっと険しくなった。
「瑞希、何をムキになってるんだ。沙耶は冗談で言っただけだろ。いくらなんでも、『いいよ』はないだろ」
冗談?
この6年、クリスマスイブになるたび、慎一は沙耶と2人で出張していた。
その一方で、恋人であるはずの私は、6年もの間、職場の新人たちにずっと独身だと思われてきた。
少なくとも私には、笑って流せるような話じゃなかった。
私は呆然と慎一を見つめた。
慎一は私が意地を張っているだけだと思ったらしく、沙耶のキャリーケースを引くと、振り返りもせず空港の中へ入っていった。
沙耶は申し訳なさそうに私を抱きしめた。
「瑞希、怒らないでね。慎一って昔からあんな感じでしょ。私たちがいない間も、ちゃんとご飯食べて、無理しないでね」
そう言うと、沙耶は慎一を追いかけていった。
そして慎一に追いつくなり、その腕に勢いよく飛びついた。
2人の後ろ姿を見ていると、遅れて鼻の奥がつんとした。
タクシーで会社に戻ると、私たちが付き合っていることを知る同僚たちが、そろって同情するような目を向けてきた。
ぼんやりしたまま仕事を終え、家に帰るとスマホが鳴った。
慎一は、出張中の予定はちゃんと連絡すると言っていた。
慎一からだと思い、よく見もせず通知を開いた。
けれど、表示されたのは沙耶のインスタの投稿だった。
【クリスマスだからって、みんなホテル取りすぎ!どこも満室で、出張中の社畜2人はダブルルームに泊まる羽目になりました!】
【変に誤解されたくないから、証拠写真も載せとく!】
写真では、ダブルベッドが真ん中に並べられたバラの花びらで2つに仕切られていた。
沙耶は両足を上げてベッドにうつ伏せになっていて、そのつま先は、花びらの境界の向こうに座る慎一の肩に触れそうなほど近かった。
コメント欄には、意味深なニヤニヤ顔の絵文字がいくつも並んでいた。
中には、「このまま慎一とくっついちゃえば?」なんてコメントまであった。
沙耶は何も返していなかった。
その投稿に真っ先に「いいね」をつけたのは慎一だった。けれど、私には何の説明もなかった。
私はしばらく、その画面を見つめていた。
慎一から来るはずだった連絡は、2人で同じベッドで寝るという沙耶の投稿に変わっていた。
スマホの画面を消し、私はデリバリーを頼んだ。
施設長は生前、よく「お腹いっぱい食べれば、少しは悲しくなくなるよ」と言っていた。
慎一も昔は、自分のおかずまで私にくれた。
「俺の分も食え。瑞希が悲しい顔しなきゃ、それでいい」
そんなことを思い出していると、スマホが鳴った。
慎一からのビデオ通話に出ると、画面いっぱいに映ったのは沙耶の顔だった。
「瑞希、私のインスタ見たでしょ?慎一と同じベッドで寝ることになっちゃったけど、ほんとに何もないからね」
私は答えず、沙耶の後ろへ目を向けた。
画面の向こうでは、慎一が沙耶のために、魚の骨を丁寧に取り除いていた。
「瑞希?」
その声で、慎一もようやく私に気づいた。
慎一の表情が一瞬で冷えた。
「なんで俺のスマホで瑞希に電話したんだ?」
次の瞬間、沙耶の目に涙がにじんだ。
すると慎一は、慌てて声を和らげた。
「責めてるわけじゃない。先に一言言ってほしかっただけだ」
画面越しにその様子を見ながら、胸が締めつけられるのに、なぜか笑いたくなった。
慎一って、こんなふうに人をなだめることもできるんだ。
何かあるたび、私には自分で何とかしろと突き放すだけの人だと思っていた。
あんなふうに冷たく突き放されるのは、私だけだったらしい。
2人はそのまま楽しそうに話し続けていた。
私はいつものように、その輪の外から笑い合う2人を眺めていた。
2人が出張先での出来事を楽しそうに話していても、私はただ聞いているしかなかった。
この6年、慎一と一緒に出張するはずだった仕事では、なぜか毎回、最後になると担当が私から沙耶に変わっていたからだ。
ふと、慎一の手首に目が留まった。
そこには今も、6年前のクリスマスに私が贈ったブレスレットがあった。
それを渡した日、慎一は、お返しに一度くらい休みを取って、一緒にクリスマスを過ごそうと言ってくれた。
私はうれしくてたまらず、それ以来、今年こそはと毎年クリスマスのデートプランを考えてきた。
けれど、その「お返し」は6年経った今もまだもらえていない。
画面がふっと揺れ、沙耶がスマホを手に取った。
「瑞希、私たち、これからこっちのクリスマスを楽しんでくるから、もう切るね」
「慎一、私は?」
思わず問いかけた。
第2話
慎一とクリスマスを過ごせる日を待ち続けて、もう6年になる。毎年デートプランを考えてきたけれど、6年も経てば、私の我慢も期待ももう残っていなかった。それでも、最後にちゃんと答えだけは聞きたかった。
通話が切れる直前、慎一は冷たく言った。
「自分のことは、自分で考えろ」
まただ。私のことはいつもこうして突き放すくせに、沙耶に何かあれば、慎一は必ずそばにいる。
子どもの頃からずっと一緒だったぶん、そう簡単には気持ちを切り替えられなかった。
胸が痛くてたまらないのに、それでもスマホを手放せず、沙耶のインスタが更新されるたび、また開いてしまった。
写真には、沙耶に指で口角を持ち上げられ、無理やり笑顔にされている慎一が映っていた。それを見たら、涙が出たのに、なぜか笑えてしまった。
慎一も、ちゃんとクリスマスを楽しめる人だったんだ。
慎一とクリスマスを過ごすことは、そこまでありがたがって待つようなものじゃなかった。私だけが、いつかはと期待して待ち続けていただけだった。
深夜、沙耶が「今年のクリスマスはこれでおしまい」と投稿したのを見て、私はスマホを伏せてパソコンを開いた。
3日前からメールに届いていた海外の研究所への申請書類を初めて開き、署名欄に自分の名前を書き込んだ。
沙耶の言う通り、何年も1人で過ごすクリスマスには、もううんざりだった。
慎一の出張は7日間だった。その間に私は少しずつ1人の生活に慣れていった。
ずっと慎一ばかり追いかけてきたけれど、足を止めてみてようやく、私の人生に慎一が絶対に必要なわけじゃないのかもしれないと思えた。
7日目、疲れ切って家のドアを開けた私は、その場に立ち尽くした。玄関から先は、目に入るところすべてがひどく散らかっていた。その奥の寝室からは、慎一の優しい声が聞こえてきた。
「ゆっくり食べろ。誰も取らないから」
寝室まで行くと、私のベッドに寝転がってポテトチップスを食べる沙耶と、その横で沙耶のアイスを持っている慎一がいた。冷えたカップについた水滴が、薄いピンクの掛け布団にぽたぽた落ちている。
一瞬、息が詰まり、耳鳴りまでしてきた。
私がひどい潔癖症なのを、慎一は知っていた。それなのに慎一は笑いながら沙耶にティッシュを渡し、服を汚すなよと言っただけだった。
沙耶がポテトチップスの食べかすを何気なく私のベッドに払い落としたのを見て、とうとう我慢できなくなった。
「何してるの?」
私が声をかけると、2人はびくっと振り返り、慌ててベッドから立ち上がった。
「瑞希!」
沙耶は私を見ると、笑顔で慎一の肩を軽く押した。
「ほら、私の勝ち!瑞希が帰ってくるまでに片づけ終わらないって言ったでしょ」
「お前がわざと片づけるの遅らせたんだろ」
慎一はむっとした顔をしていたが、その声は少しも怒っていなかった。むしろ、どこか優しかった。
私は胸元を押さえた。胸が締めつけられ、息がうまく吸えなくなっていく。
私の潔癖症をネタに、沙耶と賭けまでしていたんだ。
ドア枠にもたれながら、私はゆっくりその場にしゃがみ込んだ。
青ざめた私を見て、慎一もようやく様子がおかしいことに気づいた。慌てて駆け寄り、私を抱きしめた。
「瑞希、落ち着け。ゆっくり息を吸って、吐け」
そう言いながら、慎一は私の背中をそっとさすった。その慌てようを見ていると、私を助けるためなら何でもしそうに思えた。
「この前まではだいぶ良くなってただろ。先生も、少しずつ慣れて症状が落ち着いてきたって言ってたのに……なんでまた」
慎一の声は、今にも泣きそうに震えていた。
その声を聞いた瞬間、15歳だったあの夜を思い出した。
学校行事で施設に戻るのが遅くなり、細い路地の入口を通りかかったとき、ごみ置き場から何匹もの野犬が飛び出してきた。
私は全身血まみれになるまで噛まれ、慎一が駆けつけてくれなければ、あのとき死んでいたかもしれない。
噛み傷は治ったが、あのときの恐怖だけは消えず、それ以来、私はひどい潔癖症になった。汚れた場所を見ると、そこからまた野犬が飛び出してきて、私に噛みつくような気がしてしまう。
あの日、慎一は病院でもずっと私を抱きしめ、泣きそうな声で「先生、どうしてこんなことに……?」と何度も医師に尋ねていた。
それ以来、慎一はどんなに疲れて帰ってきても、床を磨いたりシーツを洗ったりして、私が少しでも安心して過ごせるようにしてくれた。
あんなに私を大切にしてくれていたのに、沙耶が関わるようになってから、慎一は少しずつ私より沙耶を優先するようになっていた。
カップが床に落ちて割れる音に、私ははっと顔を上げた。沙耶がベッドから降りようとして、コーヒーの入ったカップを落としたのだ。
こぼれたコーヒーが慎一の仕事用ノートパソコンに広がっていくのを見て、沙耶はすぐに目を潤ませた。
「慎一、ごめん。わざとじゃないの。瑞希が心配で慌てちゃって……これ、仕事に影響ないよね?」
私が何か言うより先に、慎一が答えた。
「お前が怪我してないなら、それでいい」
慎一は何も責めず、黙って片づけ始めた。その姿を見ていると、喉の奥が詰まって声が出なくなった。
私が仕事用のメモをうっかり元の順番に戻し忘れただけで、慎一は何日も口を利いてくれず、ちゃんと反省しろと言った。それなのに沙耶には、仕事用のパソコンを壊しかけても、怪我をしていなければそれでいいらしい。
沙耶はけろっとした顔で私の肩を抱いた。
「慎一って、こういうことで本当に怒らないよね。瑞希、それにしても潔癖症、まだそんなにひどいんだ。これから毎日来て、少しずつ慣らしていくの、私も手伝ってあげるよ!
私なら毎日来られるし、気にしないで。慎一とはこれからしばらく同じプロジェクトだし、それに今度から、私、隣の部屋に住むことになったの!」
沙耶は楽しそうに話し続けた。
私が断る間もなく、寝室の壁が突然崩れ落ちた。
第3話
壁の向こうには、ほの暗い部屋がぽっかりと広がっていた。まるで、何もかも呑み込もうとする怪物の口みたいだった。
慎一は私より先にリフォーム業者のところへ行き、何やら話し始めた。
沙耶は満面の笑みを浮かべた。
「瑞希、慎一と一緒に業者に頼んで、この部屋と隣をつなげてもらったの。これでいつでも遊びに来られるよ。嬉しいでしょ?」
思わず手が震えた。
ここは私の家で、私の寝室だ。それなのに2人は、私の知らないところで、寝室と隣の部屋を隔てる壁を勝手に壊していた。
次は何?
そのうち2人で婚姻届でも出すつもり?
「慎一、この壁、元に戻してもらって……」
言い終わらないうちに、慎一のスマホが鳴った。
慎一は人差し指を口元に当て、そのまま背を向けて電話に出た。
私は反射的に口をつぐんだ。何年も慎一の仕事を何より優先してきたせいで、こうして黙ることがもう癖になっていた。
その途端、沙耶はさっきまでの笑顔を消し、私の耳元で声を潜めた。
「瑞希、慎一が私のために買ってくれた部屋に、何があると思う?」
私の顔がこわばると、沙耶は小さく笑った。
「瑞希も慎一も身寄りがないでしょ。瑞希じゃ、慎一の望むものを全部叶えてあげられないよ。だから私に譲って。そうしたら、これからも3人で仲良くしていけるじゃない」
耳を疑った。
大学の頃、沙耶は、私には才能があるのに埋もれたままなのはもったいない、これからずっと支えていくと言ってくれた。親友の彼氏に手を出すようなことだけは絶対にしないとも言っていた。
それなのに今は、何のためらいもなく慎一を譲れと言っている。
問いただす間もなく、電話を終えた慎一が戻ってきた。
「瑞希はここに残って、工事の様子を見ててくれ。俺と沙耶は取引先のパーティーに行ってくる」
私が問い詰めるより早く、慎一はもう背を向けていた。
沙耶は慎一の腕に絡みついたまま、私に手を振った。
「瑞希、スマホ、テーブルで充電してるから、充電器から外しといてね」
2人が出ていくと、部屋から話し声が消えた。残ったのは、低い音を響かせる工事の機械と私だけだった。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、私は壊された壁を越えて隣の部屋へ入った。
窓から差し込む陽射しが、ベッド脇のテーブルを照らしていた。そこには、6年前のクリスマスに私が慎一へ贈ったブレスレットが置かれていた。
胸が締めつけられた。
何年も好きだった相手を、今日からもう好きじゃないと決めたところで、簡単に気持ちが消えるはずもない。
それでも、この痛みは膿んだ傷をえぐるような痛みに似ていた。苦しくても、悪いものを取り除かなければ傷は治らない。
さらに奥へ進むと、リビングの壁際に見覚えのあるものがいくつも並んでいた。どれも、慎一が捨てたと言っていたものだった。
本当は捨てたわけではなく、ここへ移していただけだった。私の家には置いておきたくなかったのだろう。
沙耶のスマホはリビングのテーブルに置かれていた。充電器から外そうと手に取ると画面が点き、慎一とのトーク画面が開いたままになっていた。
何気なく目を落とした私は、慎一からのメッセージに思わず目を止めた。
【沙耶がそうしたいなら、これからも毎年クリスマスは一緒に出張しよう。何とか予定は合わせるから】
そのメッセージを見て、ようやくわかった。
直前になって私をプロジェクトから外したのは、慎一だったのだ。
第4話
そのメッセージを見た瞬間、胸の奥がすっと冷えて、感覚までなくなっていくようだった。
この6年、クリスマスになるたび慎一が優先していたのは仕事じゃなかった。沙耶との約束だった。
毎年「今年こそは」と待ち続けていた自分が、急に馬鹿みたいに思えた。
その日の深夜、慎一はすっかり酔いつぶれた沙耶を抱えるようにして帰ってきた。
私は明かりもつけず、リビングのソファに座っていた。
慎一は沙耶をゲストルームに寝かせると、リビングの明かりをつけ、私の隣に腰を下ろして腕を回してきた。
私がここで待っているのが当たり前だとでも思っているような、あまりにも自然な仕草だった。
「もうすぐ届くぞ。お前の好きなラーメン、頼んどいた」
少し酔っているせいか、慎一は鼻にかかった声で、これから先、2人でどう過ごしていきたいかを珍しく楽しそうに話していた。
その時間だけは、今も変わらず私だけを愛してくれているような気がして、胸の奥がほんの少し揺れた。それでも私は、その気持ちを抑えて静かに切り出した。
「慎一、寝室の壁なんだけど……」
けれど私が言い終わる前に、慎一の顔つきが一気に冷たくなった。
「そんなこと気にしてる暇があるなら、もう少し仕事に集中しろ。そうしてれば、急に担当を外されることもなかっただろ」
私は慎一の目をじっと見た。その一言で、さっきの迷いもきれいに消えた。
そのとき、スマホの通知音が鳴った。
慎一は眉をひそめた。
「また仕事か?瑞希、何度言えば分かる。仕事は最優先だ。定時までに仕事を終わらせられず、毎日のように残業してたら、そのうち会社に見限られるぞ……」
私はそれ以上聞かず、パソコンを抱えて書斎に入り、内側から鍵をかけた。
さっきの通知は、海外の研究所から届いた面接の連絡だった。慎一はそれを知らない。
私にとっては、遠い国へ行き、慎一とはもう二度と会わない人生が始まる合図でもあった。
その夜、私は書斎でオンライン面接を受けた。面接をしている間も、リビングからは沙耶が慎一をなだめる声が聞こえていた。
それから数日、私は1人で渡航に必要な書類をそろえ、仕事の引き継ぎも進めた。
家にも帰らなかった。少しずつ慎一から離れ、自分の生活から彼を切り離したかった。
出発するまで、もう慎一と顔を合わせることもないと思っていた。
そんなある日、慎一が私の好きなラーメンを持って会社までやってきた。
「忙しくても、飯はちゃんと食え。仕事が回らないなら、俺に回せばいい」
思わず仕事の手が止まった。仕事が何より大事だと言い続けてきた慎一が、自分から私の仕事を引き受けるなんて思ってもみなかった。
私は生返事をして、ラーメンの容器のふたを開け、食べ始めた。
慎一は私が食べ終わるまでそばにいて、空いた容器やテーブルの上を丁寧に片づけ始めた。
「あのプロジェクトの報告書、沙耶の分も書いてやってくれ」
口の中に残っていたラーメンの味が、急に苦くなった気がした。
「……それは無理」
言い争う気にもなれず、私は淡々と答えた。
「あれはお前が最初からやってきたプロジェクトだろ。沙耶はまだ分からないことも多いんだ。親友なんだから、報告書くらい手伝ってやれよ」
「私が最初からやってきたプロジェクトだって、ちゃんと分かってたんだ。だったら、沙耶を入れるために私を外した時点で、私が手伝うわけないって分かってたでしょ」
目の奥が熱くなった。
慎一は、まるで私のほうがわがままを言っているような目をした。
「瑞希、この会社は沙耶の実家が経営してるんだ。俺が沙耶を手伝ってるのだって、これから先、お前とちゃんとやっていくためだ。
それに、親友を少し手伝うくらいいいだろ。クリスマスは一緒に過ごせなかったけど、プレゼントだって買ってきただろ?」
その言葉に、私も慎一も黙り込んだ。
慎一が言うプレゼントは、結局まだ私の手には渡っていなかった。本人が、渡すこと自体をすっかり忘れていたからだ。
重い沈黙を破るように、沙耶が空の器を持って入ってきた。
「慎一って、ほんとよく覚えてるよね。商店街のおばあちゃんの手打ちうどん、持ち帰りのときは7割くらい茹でたところで湯切りしてもらうんだったよね。会社に着く頃には、ちょうど食べ頃になるし」