寵を失いし宮女、後宮を去る

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寵を失いし宮女、後宮を去る

GoodNovel 完結

落ちぶれた皇子だった陸行舟(りく こうしゅう)が皇帝の座に上り詰めるまで、私は十年にわたり、ずっと彼に付き添ってきた。 それなのに、彼が即位したあと、私が真っ先にしたことは、宮仕えを辞す願いを出し、皇宮を去ることだった。 宮中のしきたりでは、女官は二十五歳になればお暇をいただくことが許される。今年で私は二十七歳。すでに二年も過ぎていた。いい加減、嫁ぎ先を探さねばならない年齢だった。 宮中の人事や財務、物資などを取り仕切る内務府で手続きを終えると、総管がひとこと言い添えた。半月のちに通行札を受け取りに来ればいい、それで晴れて宮を出られる、と。 その言葉を耳にした瞬間、胸のつかえがすとんと下りた気がした。 皇宮への帰途につき、自室のある殿の門までたどり着いたところで、ふいに目を奪われた。門前にずらりと膝をつく侍女や下働きたちの姿に。 誰もが泣きはらした目を真っ赤にし、小刻みに震えながら、まるで救い主でも見つけたように私を見上げる。 「明月(めいげつ)様!やっとお戻りになったのですね!」

チャプター (1)

第1章

落ちぶれた皇子だった陸行舟(りく こうしゅう)が皇帝の座に上り詰めるまで、私は十年にわたり、ずっと彼に付き添ってきた。 それなのに、彼が即位したあと、私が真っ先にしたことは、宮仕えを辞す願いを出し、皇宮を去ることだった。 宮中のしきたりでは、女官は二十五歳になればお暇をいただくことが許される。今年で私は二十七歳。すでに二年も過ぎていた。いい加減、嫁ぎ先を探さねばならない年齢だった。 宮中の人事や財務、物資などを取り仕切る内務府で手続きを終えると、総管がひとこと言い添えた。半月のちに通行札を受け取りに来ればいい、それで晴れて宮を出られる、と。 その言葉を耳にした瞬間、胸のつかえがすとんと下りた気がした。 皇宮への帰途につき、自室のある殿の門までたどり着いたところで、ふいに目を奪われた。門前にずらりと膝をつく侍女や下働きたちの姿に。 誰もが泣きはらした目を真っ赤にし、小刻みに震えながら、まるで救い主でも見つけたように私を見上げる。 「明月(めいげつ)様!やっとお戻りになったのですね!」 第1話 私は一瞬言葉を失い、だいたいの事情を察した。 視線だけで皆をなだめ、頭を下げて殿内へと足を踏み入れた。 部屋の中では、柳若吟(りゅう じゃくぎん)がくつろいだ様子で長椅子にだらりと身を預け、側仕えの侍女に脚を揉ませていた。 私はまず恭しく一礼し、それから口を開いた。 「柳様、この女官たちは何をしでかして、お気に障ったのでしょうか」 彼女は声に気づいて顔を上げると、見下すような笑みを浮かべた。 「別に何かしたわけじゃないわ。ただ気に食わないだけ。こうやってずらりと跪かせておくと、見ていて気分がいいのよ」 言い終えると、彼女は傲慢な仕草で傍らの場所を指し示し、侍女に炭火を入れた盆を新たに持ってこさせた。 「ちょうどいいところに来たわね。あなたの分もちゃんと用意しておいたわ。 跪きなさい。二時間が過ぎるまで立ち上がることは許さないわ」 盆の炭は勢いよく燃えている。この上に跪けば、たちまち膝は焼け爛れ、血まみれになるだろう。とても一刻ももつはずがない。 けれどわかっていた。私が望もうと望むまいと、彼女の命令に逆らうことなどできないのだと。 もし従わなければ、他の女官たちにまで累が及ぶかもしれない。 だから私は無言のまま、静かに膝をついた。 冬場で厚着をしていたにもかかわらず、瞬く間に膝は焼けつく炭火に炙られ、耐えがたい痛みに苛まれた。 宮中の刑罰には慣れていた。これが初めてというわけでもない。どれほど痛くとも、声を上げぬよう歯を食いしばって耐えるしかなかった。 苦しみながらもそれを押し殺す私の様子を見て、若吟はひどく満足そうに、得意げな笑い声を漏らした。 「陛下のおなり――!」 甲高い宦官の声が響き渡るや否や、若吟は瞬時に長椅子から身を起こし、しおらしく従順な表情に切り替えて、入ってきた人物に向けて恭しく礼をした。 行舟はすばやく歩み寄って彼女を助け起こすと、振り返り、ようやくその視線が私に留まった。 血の気の失せた顔と、額に浮かぶ汗を見て、彼の表情がわずかにこわばる。すぐに若吟へと顔を向け、何があったのかと尋ねた。 若吟は狼狽し、とっさに言い訳をひねり出した。 「この女官たちが粗相をしたのです。それを明月ったら庇うばかりか、私に逆らって、お湯までかけてきましたのよ。 あまりに腹立たしくて、ほんの少し、懲らしめてやっただけですわ。 陛下、まさか私をお責めになりませんよね?」 行舟は愛おしげに彼女の手を握り、優しく言った。 「そんなに怯えなくていい。前にも言っただろう、お前は何をしても構わないと」 その甘い言葉にすっかり有頂天になった若吟は、なおも尋ねた。 「本当に……何をしてもいいのですか?」 彼は微笑んで頷いた。 「もちろんだ。天子に戯言なし。 お前が望むなら、朕を罰しても構わない。ましてや、あのような下賤の者どもならなおさらだ」 皇帝のそんな告白めいた言葉を耳にして、彼女の可憐な顔はたちまち林檎のように真っ赤に染まった。二人は手を取り合い、屏風の向こうへと消えていく。もうその表情までは見て取れず、ただ交わす声だけが耳に届いた。 「陛下、これは私が作った点心ですの。どうぞ召し上がって。 初めて作ったもので……お口に合うかわかりませんけれど」 行舟はもとより感情を顔に出さない性分で、帝位に就いてからはなおのこと喜怒を表に出さぬ人だった。それなのに、このときばかりはその声にかすかな震えと、隠しきれない喜びが滲んでいるのが聞き取れた。 「お前が……自ら朕のために作ってくれたのか?」 若吟は恥じらうように頷いた。 「はい。陛下は私にあまりに優しくしてくださいますから。何もお返しできるものがなくて……せめてもと、こんな点心を作ってみましたの」 灯りの炎が揺らめき、寄り添う二人の姿を屏風に影絵のように映し出す。まるで一枚の見事な絵のようだった。 それを見つめているうちに、なぜだか目の奥が熱くなってきた。 きっと私は、気づいてしまったのだ。目の前にいる、この深く愛した男が、私からどんどん遠ざかっていくことに。 幼い頃の彼は、寵愛を受けることもない皇子に過ぎなかった。母は陥れられて命を落とし、彼はずっと冷宮で暮らしていた。 私の母は彼の母に仕える侍女で、数年彼の世話をしたのち、病でこの世を去った。 それからというもの、私たち二人だけが、寄り添うようにして生き延びてきた。 冷宮での暮らしは、腹も満たされず、着るものにも事欠くほどだった。饅頭ひとつと引き換えるために、私は女官たちの洗濯を請け負い、両手はしもやけだらけになった。その跡は今でも、冬になるたび疼く。 宦官たちに彼がいじめられれば、私は狂犬のように飛びかかり、拳を受けながらもがむしゃらに噛みつき、引っ掻いた。 そうやって、私は自分の身を削るようにして、彼を守り抜き、冷宮の中で生き延びさせたのだ。 なのに、若吟がしたことといえば、彼が跪いて罰を受けていたときに、一枚の上着を掛けてやっただけ。それだけのことを、彼はいつまでも忘れられず、狂おしいほど彼女に恋い焦がれている。 即位して彼が真っ先にしたのは、彼女を宮中に迎え入れ、掌中の珠のように大切にすることだった。 九人の皇子が皇位を争ったあの戦いに、彼は勝ち残った。父を殺し、兄を殺し、弟を殺し、友をも手にかけて。世間では、行舟は残忍極まりないと噂されている。 その噂を耳にした若吟は、初めのうち彼をひどく恐れ、皇后になることを拒み、来る日も来る日も後宮の片隅で泣き暮らしていた。 あれほど苛烈で、非情な決断を下す男が、彼女の涙を見て、初めてあれほど柔らかな顔を見せた。 彼は無理に皇后の位に就けようとはせず、少しずつ、時間をかけて彼女の心を解きほぐし、あらゆる手を尽くして機嫌を取り続けた。 歴代の帝王が後宮に数多の美人を侍らせるのに対し、彼の後宮には若吟、ただ一人しかいない。 彼女が後宮で不自由なく過ごせるようにと、彼はついには、長年そばに置いていた私までも彼女付きの女官として仕えさせ、その身の回りの世話をさせるようにした。 そんな日々が続くうちに、若吟もついに、行舟が自分に向ける想いの深さを悟り、次第に驕り高ぶるようになっていった。 我に返り、屏風の向こうで寄り添う二人の影を見つめながら、私は自嘲するように、悲しみの滲んだ笑みを浮かべた。 こんなに長い年月、こんなにも長く、私は彼のそばにいたというのに。 彼は覚えていない。嵐の夜、都の外まで薬を求めに走ったことも。 彼は覚えていない。彼の命乞いをして、あやうく片脚を折られかけたことも。 彼は覚えていない。互いの温もりを求め、幾夜も肌を重ねた、あの日々のことも。 ただ、若吟のあの一枚の上着だけを、彼は覚えている。 まあ、いい。忘れているなら、それでいい。 私も忘れることにしよう。だってもうすぐ、私はこの場所を離れるのだから。 第2話 二時間がようやく過ぎ、後ろに付き添っていた女官が歩み寄って私を助け起こしてくれた。 血にまみれ、皮膚が裂け、肉がむき出しになった膝を見下ろしても、なぜか痛みは感じない。 痛みも極限に達すると、感覚が麻痺してしまうようだ。かつて手首ほどの太さの棍棒で、力任せに脚を打ち据えられたときも、同じように何も感じなかった。 あのときも、気遣ってくれる行舟を安心させようと、私は無理をして彼の前で舞を披露しようとしたのだ。 「殿下、私は平気でございます。本当に、少しも痛くなど……」 行舟はたまらず私を抱き寄せると、血の涙を流さんばかりに目を赤くして誓った。 「明月、誓う。私が帝位に就くその日には、誰にもお前を傷つけさせはしない」 背後から響く、慈しむような行舟の声が回想を断ち切った。 「若吟、お前は天灯が好きだと聞いた。この世で一番美しい天灯を、朕が見せてやろう」 私は振り返らなかった。冷たい壁に手をつき、一歩ずつ、ゆっくりと前へ進む。 夜の帳が下りる中、幾千幾万もの天灯が灯り、静かに夜空へと昇っていく。息を呑むほどの美しさだった。 回廊にはひっきりなしに女官や宦官が行き交い、頭上を埋め尽くす灯りを見上げては、抑えきれない羨望の声を上げていた。 「陛下は柳様を、本当にご寵愛なさっているわね。この分では皇后の座もそう遠くはないでしょうね」 「ええ、もちろんよ。柳様が望みさえすれば、陛下は明日にでも皇后の冊立を進めるはずよ」 「では、寒霜殿の明月様は?実はね、内緒で教えてあげるわ。私が夜番をしていたとき、陛下が明月様の部屋にお忍びで通われるのを見たの。あの晩、喘ぎ声が一晩中途切れることはなかったわ。それに、自分のそばを決して離れるなと、陛下が仰るのまで聞いたのよ」 「まさか、あり得ないわ。陛下ともあろうお方が、一介の女官のもとへお忍びで通われて、あのようなお言葉をかけるなんて。私が思うに、あの明月は幼い頃から陛下にお仕えしていただけの、所詮はただの夜伽の相手に過ぎないわ」 「そうそう。でなければ、どうして陛下は明月を妃にお迎えにならないの?」 「あの出自では、女官の長になれただけでも十分すぎるくらいよ。まさか妃になろうだなんて、そんな身の程知らずな望みを抱いているとでも」 声はだんだん遠のいていき、やがて何を話しているのかも聞き取れなくなった。 私はその場に立ち尽くしたまま、苦笑するしかなかった。 最近、ずっと考えている。行舟と自分は、いったいどんな関係なのだろうかと。けれど、どう考えても答えは出なかった。 なるほど、女官たちの言う通りなのだろう。私はただの、夜伽の相手に過ぎない。 ただの夜伽の相手なら、それでもいい。けれど、それならばどうして行舟は、あんな言葉を私にかけたのだろう。 どうして、決して離れるなと言ったのだろう。どうして幾度となく脆い一面を見せ、そのたびに私を抱きしめて、お前しかいないのだと囁いたのだろう。 なぜなの、行舟。私にはわからない。 行舟の身分が尊いことは知っている。私が取るに足らない卑しい身であることも承知している。けれど、これほど長い年月、ずっと行舟のそばにいてきたというのに、私の身を弄んだ上に、心まで奪っていくなんて、許せるはずがない。 自室に戻ってから、私は簡単に薬を塗って床に就いた。 夜半、窓の方から物音がした。目を開けたときには、行舟がすでに私の傍らに横たわっていた。 行舟は横から身を寄せて私を抱き寄せ、掠れた声で囁いた。 「明月。朕はどうやら、毎晩お前を抱いて眠るのが習慣になってしまったらしい。夜、お前を抱いていないと、どうにも眠れないんだ。 ここ数年、あの血なまぐさい光景ばかりを思い出す。お前がそばにいてくれてこそ、朕はようやく安らげる」 昼間の出来事を思い出しながらも、私は平静を装い、そっと行舟を押し返した。 「陛下、これでは宮中のしきたりに反します。柳様のおそばにいらっしゃるべきです」 行舟は手を離そうとせず、声の調子を少しだけ和らげた。 「怒っているのか?今日、朕がお前を庇わなかったからか? 若吟は昔から甘やかされて育った子だ。朕はどうしても、若吟を厳しく叱れない。 これからは、お前が折れてやってくれ。一番良い薬を持ってこさせたから、これを塗れば傷もじきに治る」 なるほど。若吟は甘やかされて育ったから、寵愛を独り占めして当然で、私は生まれつき卑しい身だから、どれほど傷つけられても構わないというわけか。 私は苦笑いを浮かべながら、行舟を押しのける力を強めた。けれど行舟は、さらに強く私を抱きしめてくる。 「駄々をこねるな。 明月、今日の朕は本当に嬉しかった。 若吟は朕のために菓子まで作ってくれた上、自分から朕の胸に寄りかかってきたんだ。 この瞬間をどれほど待ち侘びたか、お前にわかるか。 いずれ時が経てば、若吟も朕の皇后になることを受け入れてくれると思わないか」 私は目を閉じ、そっとため息をついた。 しばらくして、私は答えた。 「……きっと、そうなりましょう。近いうちに、陛下の願いは叶いますわ」 行舟は想い人を手に入れ、私はここを去る。 これまで長年、私は行舟のために数え切れないほどの障害を取り除いてきた。そして最後に取り除く障害は、この私自身だ。 第3話 三日後は、若吟が入宮して初めて迎える誕生日だった。 そのために、行舟はこれ以上ないほど盛大な誕生日の宴を催した。 朝廷の百官とその親族がこぞって招かれ、若吟はまだ皇后の位にこそ就いていないものの、すでに皇后同然の扱いを受けていた。 若吟付きの女官の長である私は、当然ながら朝から晩まで奔走していた。少しでも手落ちがあれば若吟の機嫌を損ね、その怒りの矛先が宮中の下働きの者たちに向かいかねないからだ。 宴が始まる前、私は若吟を呼びに行こうとしたが、部屋の外で、若吟が両親と話しているのが聞こえてきた。 「若吟、聞くところによると、陛下がお前をそこまで寵愛なさるのは、かつて罰として跪かされていたとき、お前が一枚の外套を差し出したからだそうだな。 あの頃、陛下はまだ冷遇されていた一皇子に過ぎなかったというのに、お前はその時すでに、陛下が将来皇帝の座に上り詰めると見抜いていたのか」 若吟は声を潜めて答えた。 「父上、私を買い被りすぎでございます。あの時はそんなこと知る由もありませんでした。ただ、あの外套は皇女様とお酒をいただいていた際にうっかり汚してしまって、もう要らないと思って何気なく放り出しただけのこと。 たまたま陛下がそこに跪いておられたから、勘違いなさっただけですわ」 父は表情を強張らせ、すぐさま念を押した。 「そういうことなら、この話は決して陛下のお耳に入れてはならないぞ」 若吟は頷いた。 「ええ、もちろんですわ」 外でそれを聞いていた私は、思わず声を漏らして笑ってしまった。 自分自身を、そして行舟をも嘲るような、乾いた笑いだった。 なるほど、行舟が若吟に恋をした理由とは、まったくの勘違いだったというわけか。 中にいた人は物音を聞きつけ、「そこにいるのは誰!」と声を尖らせた。 私は答えることなく、身を翻してその場を離れた。 誕生日の宴は滞りなく始まった。だが途中、若吟が立ち上がって行舟に酒を勧めようとしたその瞬間、若吟は突然血を吐き、気を失って倒れた。 行舟はたちまち顔色を変え、大切なものを失うことを恐れるような表情を浮かべると、狂ったように若吟の元へ駆け寄った。 行舟があれほど取り乱すところを、私はこれまで一度も見たことがなかった。かつて九人の皇子が皇位を巡って争い、行舟自身の命さえ風前の灯だったときでさえ、行舟は常に冷静を保っていたというのに。 まるでこの世のすべてが、自分には何の関わりもないことだとでも言うように。 行舟はかつて言っていた。いずれ帝位に就く身であるからには、喜怒を顔に出してはならぬ、決して己の弱みを他人に見抜かれてはならぬのだと。 けれど今、百官の前で、その弱みはあまりにもあからさまに晒されていた。 宮中の医官がこぞって呼び集められ、若吟の寝台を取り囲んで診察にあたった。 行舟は寝台のそばを片時も離れなかった。 「若吟はいったいどうしたというのだ!」 医官たちは部屋中にひれ伏していた。 「陛下、柳様は毒を盛られております。この毒は、心臓から採った血を薬に用いなければ解毒はかないません」 それを聞いた行舟は、少しの躊躇いもなく自らの心臓から血を採ろうとした。医官や宦官たちは慌てて行舟を押し止め、なおも額を地に擦りつけて訴える。 「なりませぬ。陛下は何ものにも代えがたい尊い御身。玉体を軽々しく傷つけてはなりませぬ! それに、この毒は、毒を盛った者本人の心臓から採った血でなければ効き目がございません。 今すべきは、毒を盛った者を突き止めることでございます!」 なぜか胸の内に不安がこみ上げてきた。顔を上げると案の定、若吟が行舟の腕の中でぐったりと寄りかかりながら、青ざめた顔で、指をこちらへ突きつけていた。 「先ほど、私は明月が差し出したお茶しか飲んでおりません。その後すぐにめまいがして、腹が引き裂かれるように痛みだしましたの」 すべては私に向けられた罠だった。宴が始まってから、私は若吟に何も渡してなどいない。 きっと若吟は、先ほどの会話を立ち聞きしていたのが私だと見抜いたのだろう。だからこそ前もって医官と示し合わせ、口封じのために私を陥れようとしたに違いない。 けれど、そこまでする必要があっただろうか。私は最初から、あの会話のことを行舟に告げるつもりなど毛頭なかった。今の若吟が行舟の心の中でどれほど大きな存在になっているかを思えば、私が何を言おうと行舟が信じるはずもないのだから。 私はもう、誰の暮らしにも口を挟むつもりはなかった。じきに、ここを去るのだから。 けれど今となっては、その場に跪き、行舟に釈明するほかなかった。 「陛下、私は宴が始まってから、柳様に飲食物を差し上げたことは一度もございません。 女官たちを一人ずつお呼びになり、お尋ねくださいませ。それで真相は明らかになりましょう」 行舟は黙り込んだまま私を見つめ、何かを決めかねているようだった。 そのとき突然、若吟が再び激しく血を吐き、行舟の袖を赤く染めた。 行舟はその鮮やかで目に痛いほどの赤を見つめ、瞳の奥に冷たい光を宿すと、ついに決断した。 「彼女を押さえろ。血を採れ」 第4話 大勢の衛兵たちが私を取り囲み、抗う暇もなく地面に組み伏せられた。 鋭い刃が胸に突き立てられ、耳にはもう何の音も届かなくなる。 このとき、胸を引き裂くようなこの痛みが、傷そのものによるものなのか、それとも行舟のあまりの冷酷さによるものなのか、私にはもう分からなくなっていた。 意識を失った私は、悪夢を見た。 夢の中で、私と行舟は冷宮の石段に腰掛けていた。私はちょうど、皇女様の装飾品を盗んだと濡れ衣を着せられ、罰を受けたばかりだった。 行舟は痛ましげに、添え木を当てた私の手に薬を塗ってくれた。 「指や手の傷はひどく痛むものだ。さぞ辛かろう」 その優しい手つきを見つめながら、私は笑って彼を慰めた。 「痛くありません。殿下さえ私を信じてくださるなら、どんなに酷い傷を負おうと、痛みなど感じませんもの」 行舟は目を赤くして私を抱きしめた。 「もちろん信じている。これからもずっと、お前を信じ続ける」 目が覚めると、行舟が傍らに座っていた。私が瞼を開けたのを見て、行舟は優しく尋ねた。 「やっと目を覚ましたか。まだ痛むか」 その顔を見た瞬間、私は無意識のうちに自分の潔白を訴えていた。 「陛下、私ではございません。柳様に毒など盛っておりません!」 行舟はしばし黙って私を見つめると、やがてゆっくりと口を開いた。 「知っている」 信じられない思いで、私は行舟を見返した。 「陛下……ご存じだったのですか」 行舟は表情を変えないまま言った。 「若吟が毒を盛られてなどいないことも、お前が毒を盛っていないことも、心臓の血で解毒するなど根も葉もないでたらめだということも、すべて知っている。 だが、朕はああするしかなかった。若吟の気を済ませるにはな。 お前が若吟の気に障る何をしたのかは知らんが、辛抱してくれ」 目の前の人が、あまりにも平然と、まるで他人事のようにそう言い放つのを聞いて、私は愕然とした。 行舟は、私の知らない人になってしまった。いや、あるいは私は、最初から行舟のことを本当の意味で知ってなどいなかったのかもしれない。 私が愛したあの少年は、とうにあの薄暗く湿った冷宮の中に消え、血なまぐさい権力争いの中に消えてしまった。もう二度と、見つけることはできないのだろう。 行舟は私の様子を見に来ただけで、すぐにまた若吟の元へと急いで戻っていった。 彼は宝石や装飾品を大量に届けさせた。まるでそれで私の機嫌を取ろうとでもいうように。 けれど、そんなもので行舟が私に刻んだ傷跡が癒えるはずもない。 私はそれらをすべてしまい込み、宮を出る前に、他の女官たちに分け与えるつもりでいた。 若吟は、私をそう簡単には許してくれなかった。傷もまだ癒えぬうちに、使いの者を通して命令が届いた。若吟に仕えよというのだ。 女官の長という立場上、本来は雑用などする必要はない。だが若吟はわざと侍女に命じて、寒霜殿のあらゆる仕事を私に押し付けた。 宮中の冬は骨まで凍えるほど寒く、私は中庭にしゃがみ込んで、山のような洗濯物を、寒霜殿の分すべて洗い続けた。 以前、冷宮にいた頃に手を傷めたせいで、今は冷たい水に触れるたび、両手はしもやけで赤く腫れ上がった。 一方、部屋の中はぬくぬくと暖かかった。行舟は若吟が寒がりなのを知っていて、炭火をふんだんに焚かせ、まるで春の陽気のような暖かさにしていた。 行舟は足繁く若吟のもとへ通い、時には窓辺で肩を並べ、窓を開けて雪を眺めていた。 紅梅の上に降り積もる雪は清らかで、どこか物悲しい美しさをたたえていた。行舟は若吟をしっかりと抱き寄せ、自分の外套ですっぽりと包み込み、少しの寒気も感じさせまいとしていた。 壁一枚隔てた場所で、私は吹きすさぶ風雪に晒されながら洗濯を続け、部屋の中から漏れ聞こえる二人の笑い声を、ただ黙って聞いていた。 夜が更けきってようやく、傷ついた体を引きずるようにして、独りで自分の部屋へと戻った。 行舟は、それでも毎晩私の部屋へやってきた。若吟が宮に入る前と違い、ただ私を抱きしめるだけで、二度とそれ以上私に触れようとはしなかった。 行舟はいつも私を抱いたまま、昼間あった若吟との出来事を語って聞かせた。今日は若吟が手巾に刺繍をしてくれた、今日は若吟が笑いかけてくれた、今日は若吟が背伸びをして頬に口づけてくれたと。 私はただ静かに耳を傾け、一言も口を挟まなかった。 その日、宮を出る年齢になった女官が、宮を出るための手続きを尋ねに私のもとを訪れた。日取りや注意事項を伝え終えると、その女官がふと尋ねてきた。 「明月様は、宮を出たら何をなさるおつもりですか」 私は一瞬言葉に詰まり、しばらく考えてから、微笑んで答えた。 「まずは都を離れて、運が良ければ良い人に嫁いで、小さな商いでも始めて、平凡な暮らしを送りたいわね。 宮の外には、どこまでも自由な世界が広がっているわ。あなたも私も、もう自由の身よ」 そう言い終えた途端、部屋の扉が勢いよく蹴破られた。 行舟が、険しい顔でそこに立っていた。 「宮を出るだと?」 第5話 行舟の登場に、その女官は驚いて慌てて床に平伏した。私は彼女を助け起こして先に下がらせると、扉を閉めてから振り返り、行舟に答えた。 「ええ、宮の外へ買い出しに出たい、という話をしておりました」 私がそう言うと、行舟はそれ以上気にも留めなかった。 思うに、行舟の意識の奥底には、私がそばを離れるなどという可能性は、そもそも存在していないのだろう。 案の定、行舟が今回私を訪ねてきたのも、やはり若吟のためだった。 「若吟がお前の作った金木犀の菓子を食べたいと言っている。すぐに作って、一緒に持って来てくれ」 私は多くを言わず、そのまま寒霜殿の小さな厨房へと向かった。 一通り手間をかけてようやく金木犀の菓子を作り上げ、若吟の前へと運んだ。 若吟は窓の外の晴れ渡った空を見て、急に思い立ったように、城外の湖へ遊びに行きたいと言い出した。 若吟の望みとあれば、行舟はいつだって二つ返事で応じる。すぐさま衛兵に命じて車馬の支度をさせ、一同で宮を出ることになった。 若吟に仕えやすいようにと、私も二人と共に一台の馬車に同乗することになった。 馬車の中で、若吟は横目で私を値踏みするように眺め、明らかに気に入らない様子だった。 若吟がどんな手を使って私に嫌がらせをするつもりかと考えていると、若吟の方が先に口を開いた。 「明月、お茶が飲みたいわ。淹れてちょうだい」 私はすぐに立ち上がり、箱の中からあらかじめ用意しておいた茶葉と水差しを取り出すと、卓上の小炉にかけて湯を沸かし、茶碗に注いで若吟の前へと捧げた。 「柳様、どうぞお茶を」 若吟は片手で茶碗を受け取ったかと思うと、次の瞬間、いきなり茶を私の顔にぶちまけた。 「こんな熱い茶を渡してくるなんて、私を火傷させる気!?」 まるで平手打ちを喰らったかのように、頬がひりひりと痛んだ。私は顔を拭う間もなく、すぐさま新しい茶を淹れ直した。 それでも若吟は満足しなかった。 「今度はぬるすぎるじゃない。あなた、そもそもお茶の淹れ方を知っているの?」 三度、四度と繰り返しても、若吟は毎回不満げだった。 最後には、腹立たしげに私を睨みつけて言った。 「何よ、少し言われたくらいで、露骨に嫌な顔をするなんて。 陛下のお側に長くいる古参の女官だからって、私に向かってその態度、許されると思っているのかしら」 私は理不尽さに唇を噛みながら顔を上げ、若吟を見た。 「……そのような心づもりは、一切ございません」 私が言い返したことで、若吟はますます怒りを募らせ、涙目で行舟の方へ振り返った。 「陛下、御覧になりましたか。今日は陛下の御前でさえ、私にこれほど無礼を働くのです。普段どれほど図に乗っているか、お分かりでしょう」 私がどんな性分かは、行舟が一番よく知っているはずだった。ましてや、今しがた理不尽に振る舞ったのがどちらだったかなど、目の利く者なら誰にでも分かることだ。 けれど、私は知っていた。行舟が私を庇うことなど、決してないと。 若吟が現れて以来、若吟と私、そのどちらを選ぶかという場面で、行舟が私を選んだことは、ただの一度もなかった。 だから私は、自ら跪いて罰を請うた。 「私の不手際でございます。すぐに罰を受けに参ります」 行舟は眉をひそめ、その深い瞳の奥に複雑な色を浮かべながらも、ただ冷ややかに頷いただけだった。 馬車を降りた私は、二十回の鞭打ちの罰を受けた。背中一面が鞭の傷で血まみれになり、もう馬車に乗ることもできず、一行の後ろを歩いてついていくことになった。 湖のほとりに着くと、若吟と静かに過ごせるようにと、行舟は衛兵たちを馬車のそばに遠く控えさせ、私と数人の侍女だけを伴って歩いた。 湖畔には小さな花がたくさん咲いていた。若吟はふと思い立ったように花を摘んで花冠を作りたいと言い出し、結果、足を滑らせて湖に落ちてしまった。 侍女たちは慌てふためき、泣き叫んだ。 「誰か来て!助けて!柳様は泳げません!」 行舟も泳げないにもかかわらず、若吟が湖に落ちるのを見た瞬間、後先も考えずに自ら飛び込もうとした。 周りの侍女たちは、次々に跪いて行舟の両脚にすがりつき、泣きながら哀願した。 「なりません、陛下。陛下は天下を治める尊き御身にございます。どうか水にお入りにならないでください」 泣き叫ぶ声が響き渡る中、私は靴を脱ぎ捨て、湖へと飛び込んだ。 第6話 湖の水は骨まで染みるほど冷たく、血液まで凍りつきそうだった。私は必死に両腕をかいて、ようやく沈みかけていた若吟の体を掴まえた。 生きようとする本能がそうさせたのか、それとも若吟がわざと私を道連れにしようとしたのか。渾身の力で若吟の体を持ち上げ、息ができるようにしてやった途端、若吟は両手で私を強く押さえつけ、頭を水面に出させまいとした。 もとより私の傷は癒えておらず、しかも先ほど鞭打ち20回を受けたばかりだった。もがくうちに傷口がぱっくりと開き、鮮血が溢れ出した。 体はどんどん重くなっていき、両足は鉛のように重く、私を絶えず水底へと引きずり込もうとした。 私は歯を食いしばり、最後の力を振り絞って若吟を岸へと押し上げると、自分自身はそのまま、力尽きて沈んでいった。 幸い、そのとき対岸の衛兵たちがようやく騒ぎに気づいて駆けつけてくれた。彼らが差し伸べてくれた竿を掴んで、私はどうにか水の中から這い上がった。 岸に上がると、冷たい風に吹かれて、私は体を丸めて震えた。 視界の端に、行舟が自分の外套を脱いで若吟を包み込み、まるで壊れ物でも扱うかのように愛おしげに抱き上げる姿が映った。 行舟はしばらく歩いてから、ようやく私のことを思い出したように、振り返ってこちらを見た。 「明月、お前は無事か」 私は地面から立ち上がり、うやうやしく行舟に礼をした。 「私は何ともございません。陛下のお心遣い、痛み入ります。 陛下はお忘れでございますか。幼い頃、水に落ちられたときも、お救いしたのは、この私でございましたことを。 私は泳ぎには自信がございますゆえ、ご心配には及びません」 その言葉を聞いた瞬間、行舟はぴたりと動きを止め、こわばった目で私を見つめた。 行舟がきっと、自分が水に落ちたあの日のことを思い出したのだと、私には分かった。 あの頃、行舟はまだ十分な力も後ろ盾もなく、辱めを受けても耐え忍ぶしかなかった。それをいいことに他の皇子たちはさらにつけあがり、真冬に行舟を凍った湖へ蹴り落としたのだ。 周りの従者たちは誰も、助けに水へ飛び込む勇気などなかった。ただ私だけが、後先も考えずに飛び込んだ。 あのとき私はまだ十五になったばかりで、一人の少年の体を引き上げる——それは骨の折れることだった。私は唇を血が出るほど強く噛みしめて必死に自分を奮い立たせ、行舟を救い上げた。 一番苦しかった時期、行舟は自分がもう生きられないと思い込み、残されたわずかな力を使って私を宮の外へ逃がし、その後の暮らしまで整えようとしてくれた。 けれど私は、どうしても去るとは言わなかった。それどころか勇気を振り絞って、前もって縫っておいた花嫁衣装の赤い被り物を取り出し、行舟にこう告げた。 「殿下、この一生、私はあなたのおそばを、決して離れません。 もしあなたが死んでしまわれるなら、私も独りでは生きてまいりません」 行舟は私を見つめ、瞳に涙を光らせて、溢れんばかりの愛情を隠しもしなかった。 その夜、私たちは互いを抱きしめ合って眠った。二人とも、心の中ではあの夜を新婚初夜のように受け止めていた。 その後、行舟は何も口にせず、私もまた、何もなかったことにした。 そんな奇妙で、ぎこちない関係のまま、私たちは今日まで続いてきたのだった。 行舟は私をちらりと見てしばらく黙り込んでいたが、結局は何も言わずに、若吟を抱いたままその場を去っていった。 一行の後ろをついて歩いていると、道端に痩せ細った小さな犬が一匹、地面に伏せてくうんくうんと鳴いているのが遠目に見えた。 今にも凍え死にそうな様子だった。私はしゃがみ込んで、その頭をそっと撫でた。 「あなたも、置き去りにされたの? それなら、私と一緒に帰りましょう」 これから先、私はもう独りではない。私にも寄り添ってくれる存在ができたのだ。 宮に戻ってから、私はその子犬を自分の部屋で飼うことにした。時々、庭に出して遊ばせてやることもあった。 名前は「白」とつけた。何か美味しいものがあれば、いつも白の分も取り分けておいてやった。 食べるものに困らなくなった白は、みるみる元気を取り戻し、ほんの数日で見違えるようにふっくらとしていった。 白は本当に人の心が分かる子で、私が戻ってくるたびに、いつも扉の前でちょこんと座って迎えてくれた。 時には若い女官たちがふざけて私をいじめる真似をすると、白が歯をむき出しにして私をかばってくれることもあった。 白が来てから、日々に希望が持てるようになった気がした。 もう心は決めている。宮を出るときには、白も一緒に連れていくのだ。 第7話 療養しているこの数日の間にも、行舟が若吟を寵愛しているという知らせは次々と私の耳に届いていた。 若吟が水に落ちてひどく体調を崩して床に伏せったと聞けば、行舟は心配のあまり居ても立ってもいられず、太医院の貴重な滋養薬を惜しみなく送り届けさせただけでなく、人を辺境まで遣わして稀少な滋養品、天山雪蓮(てんざんせつれん)まで探し求めさせたという。 若吟が安らかに眠れるようにと、行舟は非常に高価な月光綢を取り寄せ、寝台の周りに掛けさせた。外の日差しがどれほど強くても、この絹地を通すと月光のように白く輝いて見えるため、そう呼ばれているのだそうだ。 私はそうした知らせを静かに聞き流しながら荷物をまとめ、ただひたすら宮を出るその日が来るのを待っていた。 夜、行舟がまた私の部屋に現れた。 行舟は傷薬を持ってきて、優しい口調で言った。 「これは朕が自ら太医院まで取りに行ったものだ。お前の傷にはこれが一番よく効く。 あの日、お前の傷が裂けているのに気づいたが、今はもう良くなったか。 このところ若吟のそばを離れられなくてな。今はあの者が眠っているから、ようやくお前の様子を見に来られた」 私は無言のまま筆を動かし、ただ字の練習を続けていた。 行舟は文机の前まで歩み寄り、紙を手に取って眺めると思わず小さく笑った。 「まったく、いつまで経っても字が汚いままだな。 ほら、朕が教えてやる」 昔もよく、行舟は私に字を教えてくれたものだった。ただ、教えているうちにいつも二人で絵を描き始めてしまい、最後にはふざけ合って終わるのが常だったから、私の字はいっこうに上達しなかった。 行舟は私の背後に回り、手を重ねて一画一画ゆっくりと筆を運んだ。 やがて紙の上に「柳若吟」という名が書き上がったとき、私の手がわずかに冷たくなった。それでようやく行舟も、自分が何を書いてしまったかに気づいたようだった。 行舟は幾分気まずそうに手を離し、何か言い訳をしようとした。だが私はそれより先に口を開いた。 「陛下のお心にあるのはいつも柳様のことなのですから、もっとあの方のおそばにいて差し上げるべきです。 この先、柳様もきっと陛下のお気持ちにお気づきになり、陛下のお望みも叶うことでございましょう」 行舟は私の前に立ち尽くしたまま、二の句が継げないようだった。 私が視線を上げて行舟の目を見ると、そこにはどこか私をいたわるような色が浮かんでいる気がした。 もしかすると、私が平然とした様子で行舟を祝福するのを見て、心中穏やかでなかったのかもしれない。行舟はしばらく黙り込んだあと、ふいに口を開いた。 「明月、何があろうと、朕はお前を追い出したりはしない」 私は唇の端をわずかに上げて微笑み、頷いた。 けれど今度は、私自身の意志で去るのだ。 宮を出る二日前になると、私の心は日ごとに晴れやかになっていった。 見違えるほどふっくらした白を、私は石段に腰掛けてからかっていた。 「白、あと二日でここを出るのよ。私たちの本当の家へ帰るの。 そうしたら、あなたのために小さな庭を作ってあげる。そこで自由に走り回れるわ。 いいでしょう?」 言葉は分からないはずなのに、白は応えるようにわんと二度鳴いた。 私は笑いながらその頭を撫で、そろそろ立ち上がろうとした、そのとき。中庭の扉が突然乱暴に蹴り開けられた。 大勢の侍女や下働きの者たちに取り囲まれながら、若吟がゆっくりと私の前に姿を現した。 「どこの野良犬かと思えば、あなたが飼っている薄汚い畜生だったのね。 やかましくて耳障りだわ。今すぐ引きずり出して打ち殺しておしまい!」 突然のことに、私はさっと血の気を失い、とっさに白を自分の背後へ引き寄せて庇った。 「柳様、この子はまだ生まれて数ヶ月の幼い命です。人に噛みついたことなど一度もございません。どうか慈悲をお示しいただき、この子をお許しくださいませ。 もう二度と、鳴き声一つ立てさせないようにいたしますから!」 若吟は一歩、また一歩と私に詰め寄りながら、その眼差しはますます冷酷さを増し、口から出る言葉はさらに悪意に満ちていった。 「私は打ち殺すと言っているのよ。あなたに何ができるというの? 知らないの?私、犬がこの世で一番嫌いなのよ。 あなたと同じ野良犬なんて、殺されて当然でしょう」 若吟にどれほど虐げられようと、私はひたすら耐え忍んできた。けれど今の私には、この白しかいない。 守りたいものも、もうこの白ただ一つしかなかった。 「おやめください!」 若吟は私の言葉になど耳を貸さず、顎でしゃくって下働きたちに合図した。 私は白を胸にしっかりと抱きかかえ、何を言われても決して離そうとしなかった。 大勢が私に押し寄せ、腕の中の犬を奪い取ろうとあらゆる手段を使ってきた。 何度平手打ちを食らい、何度拳で殴られたか、もはや分からなかった。ただ心の中には一つの思いしかなかった。白だけは、絶対に傷つけさせない。 そのとき、騒ぎを聞きつけた行舟が駆けつけてきた。 金糸で蟒の文様を刺繍した黒の衣をまとった行舟は、豪奢でありながら、近寄りがたい威厳を放っていた。 その姿を見た者たちは即座に手を止め、次々とその場にひれ伏した。 「陛下!」 まるで藁にもすがる思いで、私は白を抱いたまま泣きながら行舟の前に跪いた。 これまで、私はこれほどまでに取り乱したことは一度もなかった。どんな刑罰を受けようとも、私は歯を食いしばって耐え忍んできた。 けれど今回だけは、本当に心底うろたえていた。 「陛下、お願いいたします。私はただ、この一度だけお願い申し上げます。どうか白を傷つけないでくださいませ! もし柳様がこの子をお気に召さないと仰るなら、どこか遠くへやります。ただ、命だけはどうかお助けくださいませ! お願いでございます……」 行舟は何も言わず、思案しているようだった。 若吟が行舟のもとへ歩み寄り、唇を尖らせて甘えるように言った。 「陛下、この犬、さっきの鳴き声で本当に驚いてしまいましたの。私、この子が嫌いですわ。 打ち殺してしまってくださいな。でないと毎晩悪夢を見てしまいそうですもの」 行舟は視線を落とし、私を見た。逆光になって、その表情まではよく見えなかった。ただその声だけが、冷たく無情に響いた。 「その犬を引きずり出して、打ち殺せ」 第8話 その瞬間、私の目の前は真っ暗になった。 日が沈み、人々が散っていく中、私は全身血まみれの白を抱きしめ、悲しみに打ちのめされていた。 涙がその毛を濡らし、血と混ざり合っていっそう哀れな姿に見えた。 私はそっとその頭を撫でた。けれどその体はすでに冷たく硬直し、だらりと首を垂れるだけで、二度とあの嬉しそうに振ってくれた尻尾を見せてはくれない。 心が張り裂けそうなほど痛んで、私は力なく口を開いたけれど、言葉を紡ぐ力さえ残っていなかった。 私が至らなかったのだ。私が、この子を守ってやれなかったのだ。 私は中庭に穴を掘り、その中に白を埋めた。 夜半、見慣れた腕が背後から再び私の腰に回された。 行舟が私の体に寄り添いながら言った。 「たかが犬一匹死んだくらいで、そこまで悲しむな。また似たような子犬を探してきてやるから」 似ていたところで、何になるというのだろう。似ていても、それは私の白ではない。 それに、若吟があれほど犬を嫌っているのなら、この先行舟が新たに犬を見つけてきたとして、若吟がまた同じことを繰り返さないとどうして言えるだろう。 私は何も言わず、ただ体を横へずらした。 部屋の中が一瞬静まり返った後、行舟はまた自分から口を開いた。 「明日、朕は若吟を連れて行宮へ休養に行こうと思う。あそこの冷泉は傷の治りを早めるという。 お前も一緒に来い。ちょうどお前も傷を負っているのだから」 私はきっぱりと断った。 「参らずともよろしいでしょうか。私には片付けねばならない用がございます」 私が断るとは思っていなかったのか、行舟は問い詰めるように尋ねた。 「何の用だ」 私は感情を押し殺し、真剣に行舟に答えた。 「陛下、私はこれまで、あなたに何かをお願いしたことなど一度もございません。初めてお願いしたのは、私の飼っていた犬を助けてほしいということでしたが、あなたは聞き入れてはくださいませんでした。 二つ目のお願いは、どうか行宮へお供しないことをお許しいただきたいのです」 私のあまりに真剣な口ぶりに、行舟はいくらか驚いた様子を見せた。 しばらく沈黙したのち、おそらく私がまだ犬のことで怒っていて若吟に会いたくないだけだと思ったのだろう、行舟は再び口を開いた。 「若吟は少し我儘なだけで、根は悪い娘ではない。あまりあの者のことを気にするな」 気にする? 私に、柳様のことをとやかく言えるような立場など、いつあったというのだろう。私にいつ、柳様と張り合う余地があったというのだろう。 私は何も言わず、ただ自嘲気味に微笑むだけだった。 私の浮かない顔を見て、行舟はとうとう折れた。 「そこまで行きたくないというのなら、この宮で朕の帰りを待っているがいい」 私は目を閉じた。 いいえ、もう待たない。 陛下。明月は、もう二度とあなたの帰りを待つことはないわ。 翌朝早く、行舟は若吟を連れて行宮へ発つため、早くに起き出した。 出発の前、私は久しぶりに行舟を呼び止めた。 「陛下」 行舟が振り返り、私を見た。その眉目は変わらず昔と同じように秀麗で、浮世離れした美しさを保っていた。 けれど私は知っていた。行舟はもうとうに、昔の行舟とは違ってしまったのだと。 私はただ微笑んだ。 「此度の行宮へのお出まし、どうかご自愛くださいませ」 行舟は眉をひそめた。 「分かっている。お前もな」 私は答えなかった。ただ額を床につけ、深々と叩頭の礼をとった。 「陛下、柳様とどうか仲良く、末永くお幸せでありますよう」 行舟は私のその振る舞いに戸惑ったようだったが、若吟を待たせるのを恐れてか、それ以上は問わず急ぎ足で去っていった。 その後ろ姿を見送りながら、私は微笑んで、心の中で最後の別れを告げた。 縁は尽き、鏡は砕け、朝露のようにはかない日々も、もう過ぎ去った。ともに白髪になるまで添い遂げるはずだった願いも、今ではただ別れを惜しむだけのものだ。 どうか食事をきちんと取り、私のことは忘れて。流れる水が二度と元へ戻らないように、あなたとはこれで永遠のお別れ。 これから先、行舟と私が再び会うことは、もうない。 私はすでに準備しておいた荷物を持って、内務府へ宮を出るための通行札を受け取りに向かった。 署名を済ませると宮を出る女官たちの列に加わり、ゆっくりと宮門へと歩いていった。 道すがら、人々はまだ噂話に花を咲かせていた。行舟が若吟のためにわざわざ三日も政務を休み、皇族しか使えない冷泉へ直々に連れて行ったのだと。 この分では、若吟が皇后の座に就くのももはや時間の問題なのだろう。 私は俯いたまま、まるでその声が耳に入らないかのように、ただ少しずつ近づいてくる宮門だけを見つめていた。 列に並ぶ人はだんだんと少なくなり、ついに私の番が来た。 これまでの二十数年の光景が、走馬灯のように目の前を駆け巡った。今日という日を境に、これらすべてが私の人生から完全に切り離される。 私は手にした通行札を見張りの衛兵に差し出した。代わりに返却された自分の女官としての身分を示す証文を受け取ると、この手でそれを粉々に引き裂いた。 宮門が大きく開かれる。私は一切の未練を捨て、宮門の外へと迷いなく歩き出した。

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