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見間違えられた双子
私、藤宮澪(ふじみや みお)は、恋人の篠崎颯真(しのざき そうま)とウェディングフォトの前撮りをする約束をしていた。ところが当日、朝から待っても颯真は迎えに来ない。 昼を過ぎ、さすがに連絡しようとスマホを手にしたとき、先に目に入ったのはSNSの新着通知だった。 投稿したのは颯真。開いた先には、ウェディングフォトが何枚も並んでいた。 サテンのウェディングドレスをまとい、私と同じ顔で微笑んでいたのは、双子の姉・藤宮玲奈(ふじみや れな)。 そして写真には、ひと言。 【やっと、あなたの「好きな人」として、みんなに知ってもらえた】と添えられていた。
チャプター (1)
第1章
私、藤宮澪(ふじみや みお)は、恋人の篠崎颯真(しのざき そうま)とウェディングフォトの前撮りをする約束をしていた。ところが当日、朝から待っても颯真は迎えに来ない。
昼を過ぎ、さすがに連絡しようとスマホを手にしたとき、先に目に入ったのはSNSの新着通知だった。
投稿したのは颯真。開いた先には、ウェディングフォトが何枚も並んでいた。
サテンのウェディングドレスをまとい、私と同じ顔で微笑んでいたのは、双子の姉・藤宮玲奈(ふじみや れな)。
そして写真には、ひと言。
【やっと、あなたの「好きな人」として、みんなに知ってもらえた】と添えられていた。
第1話
澪が画面の一文を見つめたまま動けずにいると、颯真から電話がかかってきた。
「悪い、澪。玲奈をお前だと思って、そのまま連れてきちゃった」
受話口から聞こえるのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。
「もうスタジオに入っちゃってるし、カメラマンにも急かされてる。今から迎えに戻る時間はないんだ。お前たち、顔はそっくりなんだから、黙ってれば誰にも分からないよ」
澪は何も返せず、スマホを握りしめた。指の関節が白く浮く。
――また、この言葉。
もう20年以上、聞かされ続けてきた。
幼い頃、賞を取ったのは澪だったのに、両親は玲奈だと思い込み、旅行へ連れていったのも姉だけだった。中学では玲奈の無断欠席が澪のものとして処理され、処分まで澪の記録に残った。
高校では寝る間も惜しんで勉強し、難関大学のサマープログラムへの参加枠を勝ち取った。それでも両親が連れていったのは玲奈で、帰ってきてからも悪びれもせず言った。
「間違えたのよ。玲奈を澪だと思ってたの」
その夜、澪は階段の踊り場にうずくまり、息ができなくなるほど泣いた。
見つけてくれたのは颯真だった。まだ少年だった彼は澪を抱き寄せ、頭に顎をのせるようにして、迷いなく言った。
「澪。俺だけは絶対、お前を誰かと間違えたりしない」
その言葉どおり、颯真はどんな人混みの中でも真っ先に澪を見つけた。玲奈を澪と呼ぶことも、一度もなかった。
――ある学校行事の日までは。
澪と玲奈がたまたま同じ白いワンピースを着ていたその日、颯真は初めて玲奈に向かって「澪」と呼びかけた。
それを境に、人違いは少しずつ増えていった。初めのうちは、そのたびに真剣に謝っていた颯真も、いつしか「ごめん」のひと言で済ませるようになり――今日に至っては、前撮りの相手を姉と間違えても、「顔は同じなんだから、黙っていれば分からない」と言うだけだった。
澪が何も言えずにいると、受話口の向こうから玲奈の声がする。
「颯真、ちょっと来て」
「うん、今行く」
玲奈に返した声だけが、ひどくやさしい。けれど澪に話を戻したときには、もう何事もなかったような調子だった。
「じゃあ澪、もうすぐ終わるから。終わったら帰る。玲奈はお前の代わりに1日付き合ってくれたんだ。今夜はちゃんと飯を作って、礼くらい言えよ」
そこで通話は切れた。
暗くなった画面に、澪の顔だけが残る。
颯真が玲奈を自分と間違えるようになってから、澪は姉と似た服を避けてきた。服は地味に、言葉も少なく。少しでも玲奈とは違う自分でいようとした。
そうすれば、もう間違えられずに済むと思ったから。
けれど、何も変わらなかった。
澪はそっと目を閉じ、ふっと笑う。
――私とお姉ちゃんって、そんなに同じに見えるのかな。
それなのに、どうして褒められるときはいつも玲奈で、責められるときだけ私の名前になるんだろう。
スマホの電源を落とし、澪は家を出た。
髪をプラチナブロンドに染め、ワインレッドのワンピースを選ぶ。鏡の中には、これまでとはまるで違う自分がいる。
不思議と、鏡の中の自分を初めて素直にいいと思えた。
――悪くない。
家へ戻ると、リビングは賑やかだった。
父の藤宮和臣(ふじみや かずおみ)と母の藤宮美沙子(ふじみや みさこ)は、玲奈を囲んで前撮りの写真を眺めている。
「本当にきれいね。玲奈は写真映えするわ。澪だったら、こんな雰囲気は出せなかったでしょうね」
嬉しそうに笑う美沙子に、和臣も当然のように頷いた。
「同じ顔でも、華が違うからな。澪は昔から、どうにもぱっとしない」
澪は表情を変えず、リビングへ足を踏み入れた。
物音に気づいた颯真が振り返る。
「澪、どこ行ってたんだ?玲奈は今日、お前の代わりにずっと撮影して、まだ何も食べて――」
澪の姿を目にした瞬間、その先が途切れた。
「お前……髪、染めたのか?」
美沙子も顔を上げるなり、眉をひそめる。
「澪、その髪どうしたの?またそんなことにお金を使って。昔から本当に手がかかるんだから。少しは玲奈を見習いなさい」
澪は、呆れを押し込めるように唇の端をわずかに上げた。
玲奈は毎月、少なくない額の小遣いを当然のように使っている。それを咎められたことなど一度もない。一方の澪は、大学4年間ずっとアルバイトを続け、家にお金を頼らずに過ごしてきた。
そんな自分が、自分で稼いだお金で髪を染めた。それだけで「無駄遣い」らしい。
足を止めないまま、澪は淡々と返す。
「どうせ私が何をしたって、お姉ちゃんのほうがいいって言うんでしょう?
だったら、せめて無駄遣いばかりする娘らしくしておかないと。言われ損じゃない?」
そう言って、染めたばかりの髪を指先で軽く払った。
「それに、いつも私とお姉ちゃんの見分けがつかないって言ってたけど、これならもう間違えないよね?さすがに髪の色まで見間違わないでしょ」
美沙子の顔が険しくなる。
「澪!お母さんに向かって、何て口の利き方なの!」
玲奈はすぐに立ち上がり、美沙子の腕に手を添えた。
「澪、お母さんにそんな言い方しちゃだめよ」
「私、何か間違ったこと言った?」
和臣は顔を真っ赤にして立ち上がると、勢いよく手を振り上げた。
「親に向かって、何だその口の利き方は!」
澪には避ける間もなかった。けれど、その手が頬へ届くより先に、颯真が前へ出て和臣の手首をつかむ。
「おじさん、落ち着いてください」
父を制してから、颯真は澪へ向き直った。
「澪、今日のことで怒ってるんだろ。悪かった。明日、2人で撮り直そう。だからって、家族にまで当たるなよ」
そう言いながら、テーブルに置かれていたタブレットを取り、澪の前へ差し出す。
「結婚式の装花も決めてきた。お前の好きなものにしてある。ほら、見てみろよ」
少し前までの澪なら、颯真が結婚式の話を持ち出すだけで胸が弾んだ。今日のことだって、きっと「仕方ない」と飲み込んでしまっただろう。
けれど今は、画面をひと目見ただけで、静かにタブレットを押し返した。
「私、紫は好きじゃないよ」
颯真を見上げ、ひと呼吸置く。
「それに、アイリスはアレルギーで無理なの」
アイリスが好きなのは玲奈。そんなことは、この家の誰もが知っているはずだった。
颯真の表情が、わずかに強張る。
澪は彼の脇を抜け、階段へ向かった。
「それ、お姉ちゃんの好きな飾りつけでしょ。だったら式も、お姉ちゃんと挙げれば?」
階段に足をかけたところで、颯真が追いつき、澪の前へ回り込む。
「澪。怒ってるのは分かる。でも、そんな冗談はやめろ。俺が結婚するのは、お前だけだ」
澪は足を止め、しばらく彼を見つめたあと、ほんの少し笑った。
「だったら、颯真もお姉ちゃんにあげるよ」
第2話
颯真の顔が、目に見えて険しくなった。眉間に皺を寄せ、そのまま澪の手首をつかむ。
「澪、どうしたんだよ。前はこんなことで意地張ったりしなかっただろ」
澪は答えず、手首をつかむその手へ目を落とした。
節の整った、長い指。
街を歩けば何度もこの手に引かれ、泣いた夜には涙を拭ってもらった。どれほど人がいても、颯真だけは真っ先に澪を見つけてくれた。
かつては、触れられるだけで安心できた手だった。
「意地になってるわけじゃないよ」
静かに返すと、颯真は澪の顔をしばらく見つめ、やがて手を放した。声も少しだけやわらぐ。
「……分かった。今日は気が立ってるんだろ。先に休めよ。勢いで決めないで、話は明日にしよう」
澪は何も言わず、その脇を抜けて階段を上がった。
あれは、腹立ちまぎれに口にした言葉ではない。
自分を大切にしない家族も、もう自分を見ようとしなくなった恋人も――これ以上、手放せずにいる理由がなくなっただけだ。
翌朝、澪は市役所の人事委員会事務局へ向かった。
市職員の採用試験では、筆記も面接も1位。すでに最終合格し、採用候補者名簿の上位に載っている。あとは正式な採用連絡を待つだけのはずだった。
実家の会社へ入れば、働き口そのものには困らない。けれど、そこへ戻れば玲奈の尻拭いを押しつけられ、結局は家族の都合から逃れられない。
だからこそ澪は、ずっと前から市職員の採用試験に向けて準備を続けてきた。
ここだけは、自分の力でつかんだ居場所。
今度こそ、玲奈には奪われない――そう思っていた。
窓口で名前を告げると、担当の職員は手元の書類と画面を何度も見比べた。やがて眉間に深い皺を刻み、小さく息をつく。
「藤宮澪さんですね?」
「はい」
「……少し、こちらを確認していただけますか」
机の上へ差し出されたのは、採用手続きの保留を知らせる文書だった。
【藤宮澪氏について、飲酒運転による交通事故および事故後の立ち去りに関して捜査を受けていることが確認されたため、事実関係が明らかになるまで採用手続きを保留する。採用予定日までに確認が取れない場合は、採用を見送ることがある】
末尾には、市の公印が押されている。
澪は文字を追ったまま、しばらく顔を上げられなかった。
「……私、飲酒運転なんてしていません。最近は車にも乗っていません」
自分でも分かるほど、声が震える。
職員は困ったように表情を曇らせた。
「こちらでも断定しているわけではありません。ただ、現在の記録上はあなたが事故の当事者として扱われています。異議がある場合は、警察で事実関係を確認したうえで、その資料を提出してください。
採用予定日までに確認が取れれば再検討できます。ただ……日程そのものを延ばすことはできません」
澪は文書を受け取った。
紙を持つ指先だけが、ひどく冷たかった。
どうやって建物を出たのか、ほとんど覚えていない。
人の行き交う正面階段の前で立ち尽くしていると、目の前へ黒い車が滑り込んできた。
窓が下がり、颯真が顔をのぞかせる。澪を見つけた途端、その目元がふっと緩んだ。
車を降りてきた颯真は、何のためらいもなく澪の手を取る。
「家に迎えに行ったらいなかったから、ここだと思った。そんなに急がなくてもいいだろ。時間ができたら一緒に来るって言ったのに」
澪はその手を抜き取り、持っていた文書を差し出した。
「これ、どういうこと?」
颯真は紙へ目を落とし、一瞬だけ目を見開く。けれど、すぐに思い当たったような顔になった。
「ああ……それか」
あまりにも軽い反応に、澪は息を止めた。
「数日前、玲奈が酒を飲んだあと、俺の車で人にぶつけてさ。怖くなって、そのまま走り去ったらしい」
そして何でもないことのように続ける。
「車のナンバーから俺に連絡が来て。確認したらお前だと思って、そのまま対応した」
第3話
颯真の言葉はあまりにも軽く、その軽さがかえって澪の胸に重く沈んだ。
澪は奥歯を噛みしめる。
「でもあの日、私は大学の図書館にいるって、ちゃんと話したよね?」
問いかける澪の頬を、颯真は宥めるように折った指の背でそっと撫でた。
「急だったんだよ。お前かもしれないと思ったら焦って、そこまで頭が回らなかった。あとで玲奈だって分かったけど、今さら言い直すのも気が引けたし。ほら、実の姉だろ?もう必要なことは俺が済ませたんだから、どっちだっていいじゃないか」
わずかに間を置き、さらに声を和らげる。
「心配するな。お前に影響が出るようなことにはしてないから」
澪は思わず笑いそうになった。
この採用のためにどれだけ時間と労力を費やしたかも、それが澪にとってどれほど大切なものかも、颯真は知っている。それでも彼は、玲奈をかばうことを選んだ。
表情の変化に気づいた颯真は、今度は澪の肩を抱き寄せる。
「もういいだろ。こんなことで大騒ぎするなよ。仕事が1つ駄目になったくらいで、俺がお前を養えないとでも思ってるのか?」
澪はひとつ深く息を吐くと、その手を肩から静かに払った。颯真を見ないまま、踵を返す。
「澪――」
呼び止める声を背に、歩みは緩めなかった。ポケットのスマホが何度か震えても、そのままにする。
2つ先の通りへ出る頃には、胸の奥で荒れていたものも、ようやく少しだけ静まっていた。そこでタクシーを拾い、法律事務所へ向かう。
必要な委任手続きを済ませ、不服申立てに必要な証拠の整理と提出は弁護士に任せた。結果が出るまでには時間がかかる。今回の採用に間に合わないことは、もう分かっていた。
それでも、玲奈が起こした事故の責任まで、自分の名前に残すわけにはいかない。
事務所を出てスマホを開く。颯真から届いていた何通ものメッセージには触れず、連絡先から1つの番号を選んだ。
呼び出し音が2度鳴り、受話口から聞こえてきたのは、落ち着いた年配の女性の声だった。
「当ててみましょうか。やっと気が変わって、こちらへ来る気になったのね?」
声の主は、以前から澪を自分の学生にと声をかけていた久我由紀子(くが ゆきこ)教授だった。
喉がかすかに詰まる。
「先生。以前お声をかけていただいた件……まだ、間に合いますか?」
電話の向こうで、由紀子が笑った。
「もちろん。前は、恋人のために国内に残るから、進学はしないって言っていたでしょう?」
澪は目を伏せた。
「もう、恋人はいません」
受話口の向こうが一拍だけ静まり、やがて穏やかな声が戻ってくる。
「手放したほうがいい縁なら、早く手放しなさい。そうすれば、もっと先へ進めるわ。必要な書類の一覧を送るから、すぐに準備して」
通話を終えると、澪は大学へ戻った。成績証明書、推薦状、志望理由書を1つずつ確認しながら、必要な書類を揃えていく。
それから2、3日は準備に追われ、すべてを提出し終えてようやくひと息ついた頃、同級生から集まりへの誘いが届いた。
卒業を控えた時期だけに、こうした誘いは珍しくない。普段の澪なら、賑やかな席は好きではないと断っていただろう。
けれど今回は、少し考えた末に短く返信した。
【場所、送って】
玲奈と見間違えられたことで、また何かを背負わされるのはもう御免だった。
だから髪も服も、姉とははっきり違うものにした。できるだけ多くの人の前に出て、自分が「藤宮澪」だと覚えてもらう。その必要が、今の澪にはあった。
午後8時。個室の扉を開けた途端、笑い声と音楽が一気に押し寄せる。
真っ先に気づいた同級生が、目を輝かせた。
「澪?その髪、すごく似合ってる!」
「こうして見ると、玲奈より澪のほうがきれいかも。前はずっと地味な格好だったから、もったいなかったよね」
澪は微笑んで返そうとした。
けれど、その前に視線がソファの一角で止まる。
颯真がいた。
第4話
颯真はソファに深く身を預け、すっかりくつろいでいた。その隣には、玲奈がいる。
澪の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど何も見なかったように窓際の席へ向かい、近くの同級生と何気ない言葉を交わす。
ほどなくして、今度は颯真がやってきた。迷う様子もなく澪の隣へ腰を下ろし、少し顔を覗き込む。
「澪、この2日、メッセージ送ってもほとんど返さないけど、何してたんだ?」
澪が黙っていても、颯真は気に留めた様子もない。
「お前も、こういう集まりにはもう少し顔を出したほうがいい。玲奈は誰とでもすぐ仲良くなれるだろ。少し見習ったら?」
澪は目を伏せ、こみ上げた皮肉を飲み込むように、唇の端だけをかすかに上げた。
「そうだね」
食事も半ばを過ぎたころ、誰かが場を盛り上げようと、二択の質問に即答するゲームを始めようと言い出した。
何人かが順番に答え、笑い声が重なっていく。やがて次の回答者に颯真が選ばれると、玲奈が楽しそうに身を乗り出した。
「じゃあ颯真。猫と犬なら?」
「犬」
「鍋とお寿司?」
「寿司」
「夏と冬?」
「冬」
どの問いにも、颯真はほとんど考える間を置かない。
そのうち、近くで見ていた誰かが不思議そうに首を傾げた。
「あれ?澪って猫派じゃなかった?」
「うん。生ものが苦手で、お寿司もあまり食べないって言ってたよね。好きなの、玲奈じゃなかった?」
「冬が好きなのも玲奈だった気がする」
声を潜めたやり取りが、聞くつもりのない澪の耳にも届く。
澪はグラスに添えた指を動かすこともなく、表情にも何も出さなかった。
玲奈だけが、楽しげな笑みを崩さない。
「じゃあ最後。澪と玲奈なら?」
「玲奈」
あまりにも自然に、その名前がこぼれた。
さっきまで笑い声に満ちていた個室が、ほんの一瞬だけ静まる。
颯真自身も口にしてから気づいたらしい。すぐに笑って片手を振った。
「今のなし。名前を続けて聞かれて、つられただけ。もちろん澪だよ。俺の彼女なんだから」
それで場の空気もほどけ、周囲からまた笑い声が上がった。
「篠崎、こういうの弱いな」
「危なかったね。彼女の前でそれはまずいでしょ」
誰も本気には受け取っていない。
隣に座っていた友人だけが、そっと澪へ顔を寄せた。
「澪、大丈夫?」
澪は小さく笑い、何でもないと首を振る。
けれど、自分だけは分かっていた。
さっきの答えは、考えるより先に颯真の口からこぼれたものだ。
澪はグラスから指を離し、そのまま席を立った。
気づいた颯真が眉を寄せる。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと飲みすぎた。洗面所」
個室を出ると、背後で扉が閉まり、笑い声が一気に遠のいた。
静かな廊下を歩くうち、ふいに昔の颯真が脳裏に浮かぶ。
澪の家では、何をするにも玲奈が先だった。
玲奈なら少し熱を出しただけですぐ病院へ連れていってもらえるのに、澪はよほどの高熱やけがでもない限り、「そのくらい大丈夫」と片づけられる。
そんな扱いにも慣れていたから、中学生の頃から手首に力が入りにくいことがあっても、誰にも言わなかった。
話したところで、気に留めてもらえないと思っていたのだ。
けれど、颯真だけは気づいた。
半ば強引に澪を病院へ連れていき、受付から検査まで、午後いっぱい付き添ってくれた。
医師の説明では、先天的に手首が弱く、力が入りにくくなることがあるものの、日常生活に大きな支障はない。ただ、改善には時間をかけてリハビリを続ける必要があるという。
「困ってないから、大丈夫」
そう言った澪に、颯真は迷わず首を横に振った。
「大丈夫じゃないだろ。少しでもつらいなら、ちゃんと治そう」
それからは毎日のように手首を温め、マッサージをし、リハビリを忘れないよう声までかけてくれた。
家ではいつも「そのくらい」で済まされてきた澪にとって、ささやかな不調まで見逃さず、真剣に向き合ってくれたのは颯真だけだった。
だからこそ、その後どれほど人違いをされようと、澪はそのたびに彼を許した。
かつて、こんなにも自分を大切にしてくれた人だったから。
あの頃の優しさは、この先もずっと変わらない――そう信じていた。
第5話
酒のせいなのか、それとも、さっきまで思い返していたことのせいなのか。澪の胃の奥が、急に大きく波打った。
洗面台の縁に手をつき、身を屈めて何度かえずく。それでも何も出てこない。蛇口をひねり、冷たい水を頬へ当てて、ようやく込み上げる吐き気を鎮めた。
そのとき、背後から靴音が近づいてきた。
顔を上げると、鏡の中に玲奈がいた。
扉の枠にもたれ、腕を組んでいる。その顔に浮かんでいたのは、澪がこれまで見たことのない表情だった。いつもの穏やかで上品な微笑みではない。隠す気さえない、得意げな笑み。
「吐いたの?」
玲奈は軽く口元を歪めた。
「このくらいで参っちゃった?」
澪は答えず、ペーパータオルを1枚取り、濡れた手を拭った。
「まだ分からないの?颯真は、私たちを見分けられないんじゃない。見分けようとしてないだけよ」
玲奈は2歩ほど距離を詰め、声を落とす。
「彼が覚えてる好みは、全部私のもの。咄嗟に選ぶのだって、いつも私」
手を拭いていた澪の指が、ほんの一瞬止まった。
それを見逃さなかった玲奈の笑みが、さらに深くなる。
「ついでに教えてあげる。前撮りだって、私が一度ウェディングドレスで写真を撮ってみたいって言ったから、颯真が連れていってくれたの」
そこで言葉を切ることもなく、玲奈は続けた。
「市役所の採用を潰したのも私よ。あなたに責任がいくように、わざと問題を起こしたの」
そして、澪を見つめたまま言い切る。
「澪。あなたはずっと、私の引き立て役なのよ」
澪は小さく息を吐き、使い終えたペーパータオルをゴミ箱へ落とした。
それからゆっくり振り返り、洗面台に軽く背を預ける。
「玲奈。誰かを踏み台にしないと、自分のほうが上だと思えないなら――ずいぶん惨めだね」
声には、怒りさえ滲まなかった。
「颯真が欲しいなら、持っていけばいいよ」
ほんの少し間を置いて、静かに続ける。
「ちょうど私、もういらないから」
玲奈の笑みが、一瞬だけ固まった。
澪はそれ以上何も言わない。玲奈の肩を押し退けて洗面所を出ると、個室へは戻らず、そのまま階下へ向かった。
店の外へ出た途端、夜風が火照った頬を撫でる。ようやく胃のむかつきも少し和らいだ。
澪は歩道をゆっくり進み、角を曲がった。
その瞬間、脇の路地から人影が飛び出してきた。
何が起きたのか理解するより早く、肩を強く引かれ、身体ごと壁へ叩きつけられる。後頭部に硬い衝撃が走り、耳の奥で鈍い音が響いた。視界が大きく揺らぐ。
「……お前だな」
男は澪の顔を見るなり、喉の奥から絞り出すように言った。
「お前が、あの事故を起こした女だろ!」
声はかすれ、怒りと悲しみで震えている。
「金があるからって、何をしても許されると思ってるのか!金を払えば、人が死んでもそれで済むと思ってるのか!」
言葉が終わるより早く、拳が澪の身体へ容赦なく降りかかった。
とっさに腕で頭をかばう。それでも勢いを受けきれず、背中を激しく地面に叩きつけられた。
「母さんは死んだんだ!お前がはねたせいで!」
もう一度腕を上げようとしても、衝撃で痺れ、思うように力が入らない。
――違う。事故を起こしたのは、私じゃない。
そう伝えたくても、男は口を開く隙さえ与えなかった。
痛みの向こうで、光が少しずつ遠のいていく。身体を縮めたまま、澪の意識はゆっくりと闇へ沈んだ。
……
次に目を開けたとき、視界いっぱいに白い天井が広がっていた。
ぼんやりと滲んでいた輪郭が、時間をかけて少しずつ形を取り戻していく。全身が軋むように痛み、顔を横へ向けるだけでも力が要った。
それでも、どうにか視線を動かす。
ベッド脇の椅子に、颯真がいた。
俯いたまま、点滴の落ちる様子をじっと見つめている。その横顔を目にした途端、澪の意識はふいに遠い記憶へ引き戻された。
以前、熱を出して入院した夜も、颯真はこうして一晩中そばにいてくれた。
夜中に澪が目を覚ませば、彼もすぐに身を起こし、「まだしんどい?」と顔を覗き込んでは、慌てたように温かい水を用意してくれた。
あの頃は、この人に大切にされている自分は、きっと世界でいちばん幸せなのだと思っていた。
小さな物音に気づき、颯真が顔を上げる。
けれど、澪が目を覚ましているのを見ても、その表情に安堵は浮かばなかった。
そして、最初に口にしたのは――
「澪。どうして玲奈を突き飛ばしたんだ?」
第6話
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
澪は乾いた喉を鳴らし、かすれた声を絞り出す。
「……何?」
「お手洗いの前だよ」
颯真は眉を寄せたまま、澪を見ていた。
「お前が玲奈を突き飛ばして、あいつは転んで足をくじいた。それでも、お前の様子が気になって追いかけたんだ。そしたら下で、お前が誰かと揉めてた」
そこでいったん言葉を切り、声を低くする。
「玲奈はお前をかばってけがをした。今もまだ意識が戻ってない。そこまでして守ってくれた姉に、どうしてあんなことしたんだ?
ゲームで俺が玲奈を選んだからか?あれはただの遊びだろ。澪、お前、いつからそんなふうになったんだよ」
そして最後には、何の疑いもなく言った。
「玲奈が目を覚ましたら、ちゃんと謝れ」
澪はしばらく声が出なかった。
何を言われたのか理解するにつれて、胸の奥にあった怒りが、かえって静かに冷えていく。気づけば、口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。
「私を襲った人が、誰か知ってる?」
颯真は答えない。
「玲奈の事故で、お母さんを亡くした人の息子だよ」
澪はひとつずつ、言葉を置くように続けた。
「玲奈が飲酒運転をして逃げたのに、あなたは私だって言った。そのせいで、採用手続きまで止められた。
恨まれて殴られたのは私。今ここに寝てるのも私。それでも、私が玲奈に謝るの?」
澪は颯真をまっすぐ見た。
「謝るなら、玲奈のほうじゃないの?」
颯真の表情が険しくなる。
「澪。玲奈はけがをして、まだ目も覚ましてないんだぞ。こんなときに、よくそんなこと言えるな」
澪は口元だけで笑い、布団を胸元まで引き上げた。
「自業自得でしょ」
颯真は言葉を失い、顎を強く噛みしめたまま立ち尽くしていた。
やがて椅子から立ち上がる。
「澪。お前がこんな人間だったとは思わなかった」
声には、もう温度がなかった。
「おじさんとおばさんが玲奈ばかり可愛がるのも、分かる気がする」
それだけ言い残し、颯真は病室を出ていった。
扉が閉まり、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。
澪はゆっくり布団へ顔を埋めた。目の奥が、じわりと熱くなる。
いちばん近くにいた人ほど、どんな言葉なら深く傷つけられるのかを知っている。
それから数日、澪は病院で傷を癒やしながら過ごした。
看護師が処置に訪れるたび、ときおり廊下から話し声が漏れてくる。
「301号室の藤宮玲奈さん、今日もお見舞いの人が多いわね。ご両親もずっといるし、恋人も付きっきりみたい」
「302号室の藤宮澪さんって、双子の妹さんでしょう?顔はそっくりなのに、ご家族はこっちには全然来ないのね」
「妹さんが問題を起こして、お姉さんまで巻き込まれたって聞いたけど……」
扉越しに聞こえてきても、澪は何も言わなかった。
弁護士とは不服申立てに必要な証拠を確認し、大学院から届いていた合格通知もスマホで確かめた。
航空券は、すでに取ってある。
退院する日が、この国を離れる日だった。
その日の午前。荷物をまとめていると、病室の扉が開いた。
顔を上げると、颯真が1通の書類を手に立っていた。
澪は一瞬だけ手を止めたものの、すぐに視線を戻して荷造りを続ける。
「迎えはいらないよ。1人で帰れるから」
颯真は答えず、ベッド脇まで来ると、持っていた書類を差し出した。
「お前を襲ったことは許されない。でも、向こうだって母親を亡くしてる。事情はあるだろ」
少し間を置いて、書類を澪の前へ差し出す。
「これ以上、向こうの家族ともめないためにも、厳しい処罰は望まないっていう書面にサインしてくれ」
澪は紙へ目を落とした。
本当に、自分のためなのか。
それとも、玲奈にまで矛先が向かないようにしたいのか。
もう、確かめる気力も残っていなかった。
差し出されたペンを受け取り、ひと言も発さず名前を書く。
迷いのない筆先を見て、颯真の眉がわずかに寄った。
何かがおかしい。そう感じたのだろう。それでも、その違和感の正体には気づかないまま、声だけを少し和らげる。
「何日か休んだら、ちゃんと結婚しよう。今度こそ、絶対に間違えないから」
澪は薄く笑っただけで、何も答えなかった。
もう、その機会はない。
颯真が去ったあと、澪は自分で退院手続きを済ませ、病院を出た。
タクシーを止めて後部座席へ乗り込み、運転手に告げる。
「空港までお願いします」
車がゆっくり走り出す。
窓から差し込む光を頬に受けながら、澪はシートへ身体を預け、静かに目を閉じた。
自分を選ばなかった家族も、捧げる相手を間違えた恋も。
もう、どちらもいらない。