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義兄の子を選んだ妻へ、俺はもう帰らない
俺の名前は井上誠一(いのうえ せいいち)。 妻の井上香織(いのうえ かおり)の妊娠がわかったその日、俺たちは車で家へ向かっていた。 その途中、助手席に座っていた香織が、何の前触れもなく言った。 「実はね、お腹の子、雅人さんの子なの」 水野雅人(みずの まさと)は、香織の亡き姉の夫――俺の義兄だ。 一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな俺を見て、香織はバッグから出生前DNA鑑定の報告書を取り出した。 鑑定結果には、雅人が父親であると記されていた。 香織は少しも声を乱さず、淡々と続けた。 「あの日、あなた、高熱で後ろの席に寝てたでしょう。その間に、雅人さんとやってしまったの。 この車の中で。今、私が座ってる、この助手席で」 頭の中が真っ白になった。 何か言おうと口を開いたが、喉の奥が塞がったようで、声が出なかった。 香織は膨らみ始めた腹に目を落とし、そのまま言葉を継いだ。 「どうしても無理なら、堕ろしてもいい。でも先生には、この子を諦めたら、もう妊娠は難しいかもしれないって言われてるの。そうなったら、私たちの子どもを持つこともできなくなる。 産むかどうかは、あなたに決めてほしい」
チャプター (1)
第1章
俺の名前は井上誠一(いのうえ せいいち)。
妻の井上香織(いのうえ かおり)の妊娠がわかったその日、俺たちは車で家へ向かっていた。
その途中、助手席に座っていた香織が、何の前触れもなく言った。
「実はね、お腹の子、雅人さんの子なの」
水野雅人(みずの まさと)は、香織の亡き姉の夫――俺の義兄だ。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。そんな俺を見て、香織はバッグから出生前DNA鑑定の報告書を取り出した。
鑑定結果には、雅人が父親であると記されていた。
香織は少しも声を乱さず、淡々と続けた。
「あの日、あなた、高熱で後ろの席に寝てたでしょう。その間に、雅人さんとやってしまったの。
この車の中で。今、私が座ってる、この助手席で」
頭の中が真っ白になった。
何か言おうと口を開いたが、喉の奥が塞がったようで、声が出なかった。
香織は膨らみ始めた腹に目を落とし、そのまま言葉を継いだ。
「どうしても無理なら、堕ろしてもいい。でも先生には、この子を諦めたら、もう妊娠は難しいかもしれないって言われてるの。そうなったら、私たちの子どもを持つこともできなくなる。
産むかどうかは、あなたに決めてほしい」
第1話
車内に、重い沈黙が落ちた。
しばらくして、俺はかすれた声で尋ねた。
「どうしてだよ……どうして、そんなことができるんだ」
胸の奥がきつく締めつけられ、息の仕方さえわからなくなった。視界もぼやけ、気づけば涙が頬を伝っていた。
俺の様子を見た香織は、半ば強引に車を路肩へ停めさせ、頬を伝う涙を拭った。
「姉さんは子どもを残せなかったでしょう。雅人さんには、もう頼れる家族もいない。だから私が、あの人の子どもを産んであげたいと思ったの。
さっきも言ったけど、先生には、この子を堕ろしたら、もう妊娠できないかもしれないって言われてるの。そうなったら、あなたとの子どもだって、もう望めないわ。
この子を産むなら、あなたに父親になってもらってもいいと思ってる。
どうするかは、あなたが決めて」
何も言い返せないまま、全身から力が抜けていった。
ほんの数時間前まで、香織は俺に抱きつき、三人で暮らす未来を嬉しそうに語っていた。
研究所の所長を務める香織は、あのとき、喜びのあまり涙まで流していた。
「やっと私たちにも赤ちゃんができたんだね。これからはもっと頑張って働くから。二人で、この子を大切に育てていこうね」
それなのに、わずか数時間後、香織は、お腹の子が俺の子ではないと平然と告げた。
怒りに任せて拳を振り上げた。だが、どうしても振り下ろせなかった。
「そんなのってないだろ!」
香織は身じろぎひとつせず、言い返そうともしなかった。
「帰ろう。夕飯、私が作るから」
まるで今までの話などなかったかのようにそう言うと、香織は俺のシートベルトをそっと締めた。
その手が触れた途端、俺はぞっとして身を引いた。涙で視界が滲み、香織の顔がぼやけていった。
以前、香織が流産したとき、俺は自分を責め続け、重いうつ病を患った。
地元の病院では十分な治療が受けられず、香織は知人のつてを頼って、海外の専門医に診てもらえるよう手を尽くしてくれた。
それからも、何度も取り乱す俺に根気強く寄り添い、研究所の仕事まで家に持ち帰って、ずっとそばにいてくれた。
あの頃の香織を思い出すと、どうしても聞かずにはいられなかった。
「俺たちの子どもが欲しいって言ってたじゃないか。あれも嘘だったのか?」
俺がそう言うと、香織はとうとう苛立ちをあらわにした。
「この子を受け入れろなんて、無理強いしてないでしょ!」
「それじゃ、受け入れろって言ってるのと同じだろ!」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
香織は一瞬、息を呑んだ。そのとき、研究所の職員から彼女のスマホに電話がかかってきた。
「所長、水野さんが作業中に脚をけがして、救急車で病院に運ばれました。すぐ来ていただけますか?」
香織は顔色を変えると、俺を車外へ押し出し、そのまま運転席に乗り込んだ。
「歩いて帰って。少し頭を冷やしたほうがいいわ」
そう言い残すと、香織は俺に目もくれずアクセルを踏み込み、そのまま走り去った。
路肩に倒れ込んだ俺は、何度立ち上がろうとしても、脚に力が入らなかった。
どれほど時間が経ったのかもわからなかった。気づけば、俺はふらつく足で家まで戻っていた。
家に着いても、頭はぼんやりしたままだった。俺はスマホを手に取り、震える指で連絡先を開くと、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、井上誠一です。海外支援団体の長期派遣に応募します」
第2話
「井上さん、本当ですか?それは助かります!」
相手は喜びをあらわにしたが、すぐに声を落とした。
「ただ……参加していただいたら、長期的に海外滞在することになります。暮らしやすい場所ではありませんし、長期となれば、ご家族ともなかなか会えません。奥さんは……」
相手が言い終える前に、俺はきっぱり答えた。
「もう決めています」
「分かりました。では、3日後にこちらから迎えを出します」
電話を切ると、俺はすぐに荷造りを始めた。
結婚して8年。家の中にあるものは、どれも香織と二人で選び、少しずつ揃えてきたものだった。
香織が収入の大半を雅人のために使っていても、俺は何も言わず、家計を支えるために必死で働いてきた。
そうして守ってきたつもりの暮らしが、今はひどく空っぽに見えた。
そのとき、玄関が開き、香織が帰ってきた。
荷造りをしている俺を見るなり、また当てつけに家を出ようとしていると思ったらしい。
「またそんな子どもみたいな真似して。産んでほしくないなら、はっきりそう言えばいいでしょ。
雅人さんはあんな大けがをしてるのに、あなたに悪いからって、この子は諦めたほうがいいと言ったのよ。
あの人は一人で生きていくだけでも大変なの。少しくらい、あの人の立場も考えてあげられないの?」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「じゃあ、俺は?この8年、ずっと楽をしてきたとでも言うのか?」
「いい加減にして!」
ついに香織も声を荒らげた。
「雅人さんは奥さんを亡くして、頼れる人もいないのよ。でも、あなたには私がいるでしょう。それに、今まで不自由なく暮らせたのだって、私の立場のおかげじゃない」
あまりの理不尽さに、怒るより先に呆れてしまった。
香織は姉を亡くしてから、雅人に何かあるたび、まるで自分が妻であるかのように世話を焼いてきた。
俺が大けがをしたときも、支援先の山奥で足止めされ、3日間帰れなかったときも、父が病気で亡くなった日でさえ、香織はそばにいなかった。
それなのに、雅人が少しでも体調を崩せば、香織は何もかも放り出して駆けつけた。
香織にとっては、俺がこの8年耐えてきたことなど、苦労のうちにも入らないらしい。
目の奥が熱くなり、俺は自嘲するように口元を歪めた。
「研究所の所長まで務めてるくせに、義兄と不倫して子どもまで作って……よく平気な顔をしていられるな」
そのとき、雅人が足を引きずりながら、慌てた様子で部屋に入ってきた。
「誠一、そんな言い方はないだろ。俺はずっと、お前を実の弟のように思ってきたんだ」
雅人の目がみるみる赤くなった。
「責めるなら俺を責めてくれ。自分の子どもが欲しいなんて思った俺が悪かった。お前が望まないなら、この子は諦めてもらう。今すぐ病院に相談してくる!」
そう叫ぶと、雅人は足を引きずったまま外へ出ていこうとした。
香織は苛立たしげに舌打ちし、俺を突き飛ばして雅人のあとを追おうとした。
押された勢いで、古傷のある後頭部を後ろの壁に強く打ちつけた。激痛に息を詰まらせながら、俺はとっさに香織の腕をつかんだ。
「香織……頭が……痛い……」
香織は俺の手を乱暴に振り払った。
「家でおとなしく反省してて。雅人さんに何かあったら、絶対に許さないから!」
そう吐き捨てると、香織は外へ飛び出し、乱暴にドアを閉めた。
香織が出ていったあとになって、後頭部から流れた血が首筋を伝っていることに気づいた。
痛みで何度も意識が遠のきそうになった。俺は床を這うようにしてスマホをつかみ、ほとんど見えない画面を手探りで操作して、連絡先の一つに電話をかけた。
「頭を打って……血が止まらない。助けて……」
偶然つながった相手は、香織だった。
「何言ってるの?そんな大けがしてるわけないでしょ。くだらないことで電話してこないで!」
第3話
次に目を覚ましたとき、ぼんやりした視界の先に白い天井が見えた。頭には厚い包帯が巻かれていた。
看護師によると、あと少し発見が遅れていたら危なかったらしい。
包帯の上から後頭部に触れた瞬間、息が止まりそうな痛みが走った。
もう少しで、香織に殺されるところだった。
そう思うと、抑えていたものが込み上げ、涙が頬を伝った。
その涙を拭う間もなく、病室のドアが勢いよく開き、母の隣に住む女性が血相を変えて駆け込んできた。
「大変よ!香織さんが、お母さんの部屋を雅人さんに譲るって、荷物を勝手に運び出してるの!
お母さん、そのショックで倒れたの。早く来て!」
一瞬、頭が真っ白になった。
俺は頭に包帯を巻いたまま病院を飛び出し、ふらつく足で母のマンションへ急いだ。
マンションに着くと、香織は引っ越し業者に指示を出し、母の荷物を次々と玄関の外へ運び出させていた。そのすぐそばで、母が胸を押さえたまま力なく崩れ落ちた。
「何してるんだ!」
俺は母に駆け寄り、その体を抱きとめた。香織を睨みつけると、彼女は悪びれるどころか、迷惑そうに俺を見返した。
「お義母さんが近所中に、私のお腹の子は雅人さんの子だって言いふらしたのよ。おかげで、私たちがどれだけ噂されてると思ってるの!」
「だって、本当のことだろ」
「あなた……!」
香織の顔が引きつった。
「姉は仕事中の事故で亡くなって、雅人さんは一人きりになったの。今は、お義母さんより雅人さんに住んでもらったほうがいいでしょ。
それに、この部屋は私の貯金とボーナスで買ったの。誰に住んでもらうかは、私が決めるわ。
お義母さんは、前の家に戻ればいいじゃない」
母にもその言葉が聞こえていたのか、俺の腕の中でかすかに身じろぎした。
結婚したとき、香織は母の手を握り、これからは俺と一緒に母を大切にすると約束していた。
雨漏りのする古い借家から引っ越させ、いつか自分が家を買ったら、そこに住んでもらうとまで言っていた。
だが、あのときの約束など、香織はもう忘れてしまったらしい。
頭の激痛をこらえながら、俺は母を抱きかかえ、香織の前に立った。
「母さんにもしものことがあったら……お前とは離婚だ!」
香織は息を呑んだ。頭に包帯を巻いた俺と、腕の中の母を見比べ、何か言いかけたが、結局何も言えなかった。
そこへ、雅人が声を詰まらせながら口を挟んだ。
「香織さん、やっぱりその部屋には誠一のお母さんに住んでもらってくれないか。俺のことはいいから。俺のせいで二人が離婚することになったら、一生後悔する」
まるで、俺のほうがわがままを言っているようだった。
香織は、見損なったとでも言いたげに俺を見た。
「こんなときに離婚まで持ち出すなんて……雅人さんにそこまで言わせて、満足なの?
いいから、今すぐ謝って!」
香織が何を叫んでいるのか、もう耳に入らなかった。腕の中で、母の顔からみるみる血の気が引いていった。
そのとき、すぐそばに停めてあった香織の車が目に入った。母をすぐ病院へ連れていくには、あの車しかなかった。
「今はそんな話をしてる場合じゃない!香織、頼む。母さんを病院に連れていってくれ!」
すると雅人が突然、太ももを押さえて苦しそうにうめき、傷ついたように目を伏せた。
「誠一、悪かった。俺さえいなければ、こんなことにはならなかったんだよな。妻を亡くした俺が、子どもまで欲しがったのが間違いだった……」
雅人の苦しそうな様子を見るなり、香織は迷わず駆け寄り、肩を貸して車に乗せた。
俺は母を抱えたまま必死に後を追い、閉まりかけたドアに手をかけた。だが、香織はその手を強く払いのけた。
そのはずみで塞がりかけていた後頭部の傷が開き、激痛で目の前が大きく揺れた。
周囲には何人もの住人が集まっていたが、さっきの言い争いをただの家族げんかだと思ったのか、助けを求めても誰も動いてくれなかった。
俺は母を支えながら大通りまで出て、通りかかるタクシーに必死で手を上げた。なかなか空車がつかまらなかったが、ようやく一台が止まってくれた。
病院に着くなり、母を支えて救急外来の受付へ向かった。だが、事情を伝えると、受付のスタッフは申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ありません。今は空いている病床がなく、こちらでは受け入れられません」
第4話
「どうしてですか?妻の勤める研究所は、この病院と提携しているんですよね。家族なら特別室を使えるはずです。母も利用できるはずなのに、それでもだめなんですか?」
思わず顔が引きつった。
看護師は言いにくそうに目を伏せ、声を落とした。
「先ほど奥さまが水野さんの入院手続きをされたんです。特別室はもう、水野さんが使っていて……」
廊下の先に目をやると、半分開いた特別室のドアの向こうに雅人がいた。ベッドに横になり、リンゴを食べていた。
香織はそのそばにつきっきりで、水まで飲ませていた。その姿は、俺の妻というより、雅人の妻そのものだった。
俺に気づくと、香織は露骨に顔をしかめた。
「香織、母さんが……」
「なんでここまで来たの!」
香織は怒鳴り、俺の言葉を遮った。
「雅人さんは、あなたのせいでけがが悪化したのよ!あと少し処置が遅れていたら、両脚を切断することになってたかもしれないの!」
けれど雅人は、ベッドの上でのんびりリンゴを食べていた。少なくとも、両脚が危ないようには見えなかった。
香織は俺の肩をつかむと、病室の外へ押し出し、そのままドアに鍵をかけた。
廊下に締め出されると、全身の震えが止まらなくなった。それでも今は、母を受け入れてくれる病院を探すしかなかった。
だが、別の病院まで母を運ぶ費用すら、手元にはなかった。
少し離れたところに香織の秘書がいるのが見えた。俺は考えるより先に駆け寄り、その腕をつかんだ。
「香織のお金の管理は、ずっとあなたがやっていたよね……お願いだ、助けると思って力を貸してくれ!香織の今月分の給料、少し貸してもらえないか?あとで必ず香織に返すから」
秘書は言いにくそうに答えた。
「それが……今月分はもう、所長が全部受け取っています。水野さんの栄養食品や療養用品に使うとおっしゃっていて、もう残っていないんです」
俺は力なく手を放した。目の縁が熱くなり、視界が滲んだ。
母の呼吸はますます浅くなっていた。一刻も早く何とかしなければと、焦りばかりが募った。
ふと、首元に下げたペンダントに指が触れた。
香織が以前、地方へ現地調査に行ったとき、結婚記念に買ってきてくれた宝石のペンダントだった。
どれだけ生活が苦しくても、これだけは売らずにいた。
だが、今はもう迷っていられなかった。
俺はペンダントを外し、そばにいた医師に差し出した。
「これを売れば、転院の費用になるはずです。お願いします。母を別の病院へ移したいんです。どうか力を貸してください」
医師は戸惑った末、近くにいた職員にペンダントを見せた。宝飾品に詳しいというその人は、ひと目見るなり俺に返した。
「これ、本物だと聞いていたんですか?残念ですが、ほとんど値はつかないと思います」
全身の血の気が引いた。
そばにいた香織の秘書が、気まずそうに口を開いた。
「実は……所長は調査先で、本物の宝石のペンダントも買っていたんです。でも、それは帰ってすぐ水野さんに渡していて……今お持ちのものは、近くの土産物店で買ったものだそうです」
ペンダントが手から滑り落ち、床にぶつかって乾いた音を立てた。
全身から力が抜けた。
転院先が決まらないまま、母の容体はみるみる悪化し、俺にもたれたまま息を引き取った。
唇を噛みしめても、こみ上げる嗚咽を止められなかった。
その夜、葬儀社に母を引き取ってもらい、必要な手続きを終えた俺は、荷物を持って海外支援団体の迎えの車に乗り込んだ。
その頃、香織は雅人が眠るまで病室に付き添っていた。病室を出ると、そばにいた秘書にキャッシュカードを差し出した。
「これ、誠一に渡して。お義母さんには、何か食べやすくて栄養のあるものを買ってあげて。
それから、明日は私が脳神経外科に連れていくから、そう伝えて。頭の傷も、ちゃんと診てもらわないと」
秘書はカードを受け取らず、言いづらそうに口を開いた。
「所長……井上さんのお母さまは、先ほど亡くなられました」
「……え?」
香織は顔色を変え、そのまま病院を飛び出した。
自宅へ急ぐ途中、香織は反対車線を走る一台のタクシーとすれ違った。そこには、海外派遣先へ向かう俺が乗っていた。
だが、香織は気づかなかった。あの車に俺が乗っていることも、俺がもう二度と戻らないことも。