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元カノを選んだ冷酷な夫が、今さら私に執着する理由
私・瀬戸唯(せと ゆい)は桐原司(きりはら つかさ)と結婚した。 家同士の政略結婚だったけれど、それでも私は、ずっと好きだった彼と結ばれたことで胸がいっぱいになるほど嬉しかったのだ。 だが結婚当夜、私を見つめる彼の瞳に浮かんでいたのは、なぜか冷ややかな嫌悪だけだった。 理由が分かったのは、一年後に彼が忘れられない初恋の相手が帰国した時だった。 一年前から、二人は別れてなどいなかった。 すべてを諦めて離婚届を差し出した私に、なぜか彼は執着し、決して手放そうとしない。
チャプター (1)
第1章
私・瀬戸唯(せと ゆい)は桐原司(きりはら つかさ)と結婚した。
家同士の政略結婚だったけれど、それでも私は、ずっと好きだった彼と結ばれたことで胸がいっぱいになるほど嬉しかったのだ。
だが結婚当夜、私を見つめる彼の瞳に浮かんでいたのは、なぜか冷ややかな嫌悪だけだった。
理由が分かったのは、一年後に彼が忘れられない初恋の相手が帰国した時だった。
一年前から、二人は別れてなどいなかった。
すべてを諦めて離婚届を差し出した私に、なぜか彼は執着し、決して手放そうとしない。
第1話
知らぬ間に、私は二人の仲を引き裂いた「邪魔者」に仕立て上げられていた。
親友から、空港で司が見知らぬ女性と一緒にいるところを見かけたと連絡をもらったことで、すべてを知った。
その相手こそ、彼が大学時代から付き合っていた白石笙子(しらいし しょうこ)だった。
画面に映し出された写真の中の二人は、片時も離れまいとするかのように抱き合い、互いへの情愛を隠そうともしていなかった。
一年前、義母の桐原容子(きりはら ようこ)からこう聞かされていた。
「二人はもう別れた。あの女は息子を捨てて海外へ逃げた」
この言葉が理由で、私はこの政略結婚を受け入れたのだ。
だが、現実は違っていた。
笙子が海外へ渡ったのは彼を捨てたからではなく、私との結婚話が進んだことで、義母に無理やり追い出されたからだったのだ。
司はこの一年ずっと私に冷たかった。理由が分からず、失恋の傷が癒えていないせいだと思い込んでいたが、他でもない私の存在そのものが原因だったのだと、ようやく思い知らされた。
夜、スーツ姿の司が帰宅すると、玄関先で冷徹な視線を私に向けてきた。
そのまま横を通り過ぎようとした背中に、私は思わず声をかける。
「司、信じてもらえないかもしれないけれど……笙子さんのことは、何も知らなかったの」
司の足が止まり、冷ややかに振り返った。
私は胸の内に渦巻く思いを、勇気を振り絞って吐き出す。
「私と結婚した時、まさか二人が……」
「何を知らなかったって?」
司は鋭い眼差しで遮った。
「俺と笙子が別れていなかったことか? それとも、お前のせいで彼女が追い出されたことか?」
息が詰まる。
「瀬戸唯、お前は形だけの桐原家の妻でいればいい」
司はそれ以上何も言わず、階段を上がっていった。
その言葉の意味は痛いほど分かっていた。私に与えられるのは「妻」という名ばかりの肩書きだけ。
私がこの肩書きを手に入れられたのも、義母が笙子を認めようとしないからに過ぎない。彼女が認めさえすれば、私なんてすぐに追い出されるのだ。
けれど、そんな空虚な肩書きに何の意味があるのだろう。
笙子と付き合う前――大学時代から今日までの七年間、ずっと彼だけを一途に想い続けてきたのに。
こんなことになるのなら……最初から嫁いでなんかこなかった。
やがて司が階段を降りてきた。その手には綺麗に包まれたプレゼントの箱が握られている。
目をやると、そこには笙子の名前が記されていた。
見覚えのある箱だった。一ヶ月前、部屋を掃除していた際にうっかり触ってしまい、彼に酷く怒鳴られたのだ。
あの時は何度も頭を下げて「二度とあなたの私物には触らない」と謝り続けた。
ただ埃がたまっていたから、払おうとして少し場所をずらしただけだったのに。
この一年、司がこの家に帰ってきた回数は片手で数えるほどしかない。
今夜戻ってきたのも、あの時渡しそびれたプレゼントを取るためだった。
深く息を吸い込み、喉の奥から絞り出すように告げた。
「司、もう離婚しましょう」
「離婚?」
司は喜ぶどころか、むしろ険しい表情を浮かべた。
「唯、この結婚はお前の都合で勝手に始めたり終わらせたりできるものじゃない」
これは彼の復讐なのだと悟った。彼と笙子の時間を一年間も奪った私に対する、彼なりの制裁。
「……もう終わりにしたいの。お互いに、もう解放されましょう」
縋りつくような懇願だった。心底、疲れ果てていた。
しかし、司は冷たく鼻で笑っただけだった。
「寝言は寝て言え」
そう言い捨てると、一度も振り返ることなく大股で家を出ていった。
笙子のもとへ向かうのだと分かっていた。
桐原の妻という檻に私を閉じ込め、苦しめ続けることが彼の望みなのだ。
胸を重い石で押し潰されたように、息が苦しくてたまらない。
ただ彼を好きだっただけなのに、私は何も悪いことをしていないはずなのに。
彼も悪いわけではない。ただ、すべての原因を私に押しつけているだけだ。それでも、私にとってはあまりにも不公平だった。
一年前、両親から「桐原グループとの縁談が持ち上がっている、相手が司だ」と聞かされた時、私は真っ先に司と彼女との関係を尋ねた。
第2話
わざわざ家まで出向いてきた義母がこのように答えた。
「あの女は司と三ヶ月前に別れた。司を捨てて海外へ行ってしまったのよ」
彼女が断言したからこそ、私はこの縁談を承諾したのだ。
弁護士に頼んで離婚協議書を作成してもらった。
この後署名を済ませ、司に突きつけるつもりだった。
形ばかりの政略結婚など、もう終わりにしなければならなかった。
親友の葉月葵(はづき あおい)のマンションへ身を寄せ、しばらく司の顔を見ることもないだろうと思っていた矢先、翌日には早くも彼から連絡が入った。
「唯、母さんが、俺たちに本家へ来いと言っている」
低く、苛立ちを隠そうともしない声だった。
義母から「必ず妻を連れて来い」と命じられたのだろう。この一年間、冠婚葬祭のたびにそうやって呼び出されてきた。
「分かったわ」
義母には良くしてもらった恩があるため、断ることはできなかった。
司自ら車で迎えに現れ、私は助手席に乗り込んだ。
「なぜ家を出た」
それが彼の最初の言葉だった。義母に私の不在を感づかれ、笙子が帰国したことを知られるのを恐れているのだとすぐに分かった。
「離婚協議書はもう準備してあるわ。サインしたら送るから」
これ以上関係を長引かせるつもりはなかった。このまま留まれば、私はただの笑い者になってしまう。
司は眉をひそめ、不快感を露わにした。
「離婚の話は後だ。母さんが笙子を認めるまでは、お前は桐原の妻として振る舞え」
私は窓を開け、冷たい風を頬に受けた。そうしていれば、胸の痛みが少しは和らぐような気がした。
とっくに心は死んだと思っていたのに、彼の言葉は今でも鋭く突き刺さる。
……
本家に足を踏み入れると、中では司の祖母の誕生日を祝う宴が開かれていた。
司の祖母はいち早く私に気づき、顔を綻ばせる。
「唯、おいで」
慌てて歩み寄る。いつも温かく迎えてくれる彼女の誕生日を、司のことで頭が一杯で失念していた。
「おばあ様、遅くなって申し訳ありません」
「いいんだよ。司も唯も忙しいのは分かっているからね」
司の祖母は私の手を握り、穏やかな声で尋ねてきた。
「ところで、ひ孫の顔はいつ見せてもらえるのかねぇ?」
私は言葉に詰まり、そっと俯いた。
周囲には照れているように見えただろうが、実際は胸が張り裂けそうだった。
結婚して一年の間、帰宅することすら稀だった司との間に、子供ができるはずなどないのだ。
思考が混乱する中、不意に幼い声が響いた。
「パパ!」
弾かれたように顔を上げると、二歳くらいの男の子が、司の胸へ飛び込んでいった。
私だけでなく、祖母も義母もその場に凍りついた。
あの子は今、司のことを「パパ」と呼んだのか?
ということは、二人は一年前の時点で既に子供をもうけていたということだ……
頻繁に海外出張へ出かけていたのも、帰宅しては着替えだけを済ませて形式的に家族と顔を合わせていたのも、すべて辻褄が合う。
手の震えが止まらなくなった。
取り乱す私を見て、司の祖母が咄嗟に庇うように声をかける。
「唯、きっと何かの間違いだよ」
いいえ、間違いであるはずがない。
私はずっと、司が怒っているのは、私が二人を引き裂いたからだと思っていた。
だが違った。二人は離れてなどいなかったのだ。
彼が私を憎んでいるのは、私が妻の座に居座っている限り、笙子が帰国できないからだ。
笙子の姿を間近で見るのはこれが初めてだった。大学時代には噂を耳にした程度だったのだ。
小柄な笙子が、怯えたように駆け込んできて、司はすぐさま抱き寄せるようにして庇った。
その仕草は信じられないほど優しさに満ちていた。
私には常に冷淡な仮面を崩さず、一度として笑顔を見せたことがなかった男が、彼女が現れた瞬間から柔らかく目を細めている。
誕生日の祝いの席は、この異様な事態によって重苦しい空気に包まれた。
司を除き、桐原家の全員が重苦しい表情を浮かべていた。
腕の中の子供はとても愛らしかったが、その顔立ちは笙子と司と似ていない。司は片腕で子供を抱き上げ、もう片方の手で笙子の手を固く握りしめている。
「司、これはどういうことなの!」
義母の鋭い視線が笙子を射抜く。笙子は怯えたように司の背中へと身を寄せた。
第3話
息を呑むような修羅場の中、私は司の返答をじっと待っていた。
「母さん、俺の子供だ」
義母は怒りとやるせなさに声を震わせた。
「司!あなたには妻がいるのよ!不倫をして子供まで作ったというの?」
司は何も弁解せず、ただ笙子を庇い続けた。
「送っていく」
そう優しく囁くと、振り返ることもなく出口へと歩き出す。
背後から義母の怒声が飛んだ。
「司!ここを出ていくなら、二度とこの家に帰らないで!」
二人の激しい衝突を見つめながら、かつて笙子が海外へ追いやられた理由を察した。
だが、義母はなぜそこまで笙子を嫌い、子供まで拒絶するのだろうか。
司は母親の制止を振り切って立ち去り、義母はその場で怒りに震えていた。
「唯、あの子が愚かな真似をして本当にすまないね。でも安心しておくれ、桐原家の嫁は唯だけだからね」
その言葉に、かえって胸が締めつけられた。
「お義母様……私たち、離婚することにしました」
「唯、こればかりは桐原家の落ち度よ。必ず私が責任を持って話をつける。唯にも、瀬戸家にも必ずけじめをつけてみせる」
義母の口調には、有無を言わせぬ強さがあった。
「……お義母様、なぜそこまで笙子さんを拒むのですか?彼女の子どもまで否定される理由は一体何なのですか」
「四年前、司が大きな交通事故に遭っただろう。あの時、司を病院へ運んだのがあの女でね。その礼として、私に400万円を要求してきたんだよ」
雷に打たれたような衝撃が走った。
「……司は、自分を救ったのが彼女だと思い込んでいるのですか?」
義母には、私が口にしたこの言葉の真意など理解できないだろう。私がこの問いを投げかけたのは、誰も知らない真実を知っているからだ。
四年前、司が事故に遭った時、大破した車から助け出したのは私だった。
その時の怪我で、私も病院へ運ばれることになった。
当時、大学の登山行事で森に迷い込んで孤立し、ようやく車道へ出た頃には、他の仲間は全員先に帰っていた。
一人で山道を下る途中で見つけたのが、大破した司の車だったのだ。
無我夢中で石を窓ガラスに叩きつけて割り、必死の思いで彼を引きずり出したものの、割れたガラスで背中に深い傷を負い、腰に後遺症が残ってしまった。
葵には「背中に一生消えない傷が残っちゃうじゃない?!」と泣きながら言われたものだ。
入院中、何とか司の様子を見に行こうとした時には既に転院しており、再び姿を見かけた頃には、彼の隣にはもう笙子が寄り添っていた。
重い足取りで本家を後にすると、門の前に見覚えのある車が停まっていた。
司だった。なぜここにいるのだろう。
「乗れ。送る」
司は淡々と言った。
「彼女たちを送っていったのでは?」
私のために待っていたはずがないと思い、確認するように尋ねる。
「祖母から電話があった」
司は短く答えられ、私は静かに助手席へ乗り込んだ。
司が急に身を乗り出して近づいてきたため、息が止まりそうになる。
「シートベルトだ」
そう言って自ら金具を留めてくれたが、直後に冷たい言葉が続いた。
「家にあるお前の荷物はすべて送る。あの家には笙子と子供を住まわせる」
息が詰まるほどの苦痛が胸を襲う。それでも、掠れた声で忠告せずにはいられなかった。
「……お義母様、ひどく怒っていらしたわ」
義母が笙子を認めない限り、彼が離婚協議書に署名することはないと分かっていたからだ。
司の表情が険しく強張る。
「分かっている」
それきり、車内には重苦しい沈黙が流れた。
葵のマンションの前まで送られると、司はすぐに走り去っていった。
ちょうど仕事帰りだった葵がその車に気づき、血相を変えて駆け寄ってきた。
「唯、どうして司と一緒にいるの?」
「今日はおばあ様の誕生日だったのよ」
葵はそれ以上追及せず、バッグから痛み止めを取り出して、私に手渡してくれた。
「腰が痛むって言ってたでしょ?よく効く薬を買ってきたから、毎日ちゃんと飲んでね」
礼を言って受け取る。事故以来の後遺症で、秋口になると腰の痛みが酷くなるのだ。
第4話
葵は真剣な眼差しで続けた。
「離婚協議書はもう揃ってるわ。唯が署名したら、私が責任を持ってあいつに突きつけてやるから」
部屋へ上がると、葵から協議書を受け取った。迷うことなく署名を済ませ、葵に手渡し、極度の疲労から吸い込まれるように眠りについた。
翌朝、目を覚ますと同時に司から着信が入った。
【唯、祖母が本家で一緒に食事をしようと言っている】
隣で葵が怪訝そうに眉を寄せた。
「司から?」
頷きながら身支度を始める。
「おばあ様が食事に呼んでくださっているの。いつも優しくしてくださるから、断れなくて」
葵は再び痛み止めを手渡してきた。
「一日一錠、忘れずに飲みなさいよ。冷え込んできたから、外に出るとまた腰が痛むわ」
小さく笑って薬を水で流し込み、部屋を出た。
タクシーを拾うつもりで通りへ出ると、短いクラクションが鳴り響いた。外で司の車が停まっている。
司が無表情に窓を開けた。
「乗れ」
助手席に収まり、昨日と同じ疑問を口にする。
「どうして迎えに?」
これまでの司なら、私がどうやって本家へ向かおうが気にも留めず、迎えに来るどころか連絡一本寄越さなかったはずだ。
司は前方を見据えたまま、淡々と言った。
「祖母は高齢で、あまり刺激に耐えられない。昨夜、急に体調を崩して、危うく入院するところだった」
「急に体調を崩したの……知らなかったわ」
「俺も昨夜遅くに知らされた」
祖母の前で円満な夫婦を演じさせるために迎えに来たのだと合点がいったが、そんな取り繕いなど遅かれ早かれ露呈するに決まっている。
「司、あなたに協力するのは、これが最後よ」
冷酷な彼のためではなく、体調を崩した祖母を思っての譲歩だった。
「……余計なことはいい。食事に行くぞ」
司は不快そうに眉根を寄せたが、一言だけ言って車を発進させた。
本家での食事の席で、祖母は甲斐甲斐しく料理を取り分けてくれた。
「唯、お前のために、栄養たっぷりの料理を作ったよ。温かいうちにおあがり」
桐原家で唯一、私に温かく接してくれた人だった。しかし、私には孫嫁としてこの家に残る縁はない。
「おばあ様、どうかお体を大切にしてくださいね。最近仕事が忙しくて、しばらく顔を出せないかもしれませんから」
祖母は優しく私の手の甲を叩いた。
「仕事に励むのは良いことだよ。たまに顔を見せてくれれば、それで十分さ」
目頭が熱くなり、溢れそうになる涙を隠すように料理を食べた。
昨日の騒動などなかったかのように、周囲も笙子の話題を口にすることはなかった。
本家を出ると、司は見るからに不機嫌だった。
「唯、いつから仕事なんて始めたんだ」
「私が働いて何か不都合でもあるの?」
「祖母の体調が優れないと分かっていて、わざわざあんなことを言って不安にさせる必要があったのか?」
棘のある言葉が容赦なく突き刺さる。
胸を刃物で抉られるような痛みに耐えながら、たまらず顔を背けた。
「司、私にはあなたのために嘘をつき続ける義務なんてないわ。どうせ私たちは離婚するのよ?」
司は乱暴にアクセルを踏み込み、冷え切った瞳で睨みつけてきた。
「俺がいつ、離婚に応じると言った」
信じられない思いで目を見張った。子供を作り、最愛の女性を呼び戻しておきながら、まだ私を縛りつけるつもりなのだろうか。
不貞を働いたのは彼の方で、私はただ笙子が不在だった一年の間、妻の席に座らされていただけなのに。
「私と籍が入ったままじゃ、笙子さんは一生『日陰の身』よ。それでいいの?」
司は前方を凝視したまま、吐き捨てるように言った。
「笙子をいつまでも不倫相手のままにするつもりはない」
その言葉が、私の心にとどめを刺した。
そうだ、彼女が日陰の身になるはずがない――罪人として扱われるのは、いつだって二人の間に入り込んでしまった私の方なのだから。
これ以上言い争う気力もなく、静かに瞳を閉じた。
葵のマンションに着くとすぐに車を降りた。背後から司が呼び止める。
「唯、これを持って行け」
差し出されたのは、小さなオルゴールだった。
一年前、嫁いだばかりの頃に私が買ったものだった。
当時、笙子が渡航したばかりで司は毎晩のように酒に溺れていた。
少しでも気が休まるようにと、私は彼の部屋にこのオルゴールを置き、泥酔して帰ってきた夜には静かな曲を聴かせ、彼のそばに寄り添っていた。
第5話
「笙子が嫌がっている。家に置いてほしくないそうだ」
司の手で無理やり手渡されたオルゴールを見つめる。両足が鉛のように重く沈み込んでいくようだった。
笙子たちを邸宅に住まわせるとは聞いていたが、もう私の私物を整理し始めているのだろうか。
彼がいらないと言うのなら、私が未練を持つ理由などどこにもない。迷うことなくオルゴールを近くのゴミ箱へ投げ捨てた。
その様子を見ていた葵が駆け寄り、そっと抱きしめてくれる。
「唯、あいつのしたことは立派な不貞行為よ。協議書の内容、もっと有利に書き直そうか?」
私のために怒ってくれているのは痛いほど伝わってきたが、もう彼と関わりを持つこと自体が苦痛だった。
「いいの。財産分与も慰謝料も、すべて放棄するから、一刻も早く関係を断ち切りたいの」
「でも、唯はあいつの命の恩人じゃない?本当のことを話せば、すぐに離婚協議書に署名するはずよ!」
「……話したところで無駄よ。司は笙子さんが助けてくれたと思い込んでいるの。それに、二人にはもう二歳になる子供までいるのよ」
いまさら真実を明かしたところで、信じてもらえれば離婚に応じなくなるだけだし、信じてもらえなければ笑いものにされるだけだ。
葵は小さく息を呑み、悔しそうに頷いた。
「……分かったわ。この離婚協議書、今すぐあいつに突きつけてやる!
あの嘘つき女と勝手に一生添い遂げればいいのよ」
だが、その二日後、司が突然マンションへ押しかけてきた。
葵が仕事で留守にしていたところ、激しく鳴り響くインターホンに扉を開けると、そこには昨日葵が届けたはずの離婚協議書を握りしめた司が立っていた。
「唯、どういうつもりだ」
冷ややかに視線を据える。
「何の説明が必要だと言うの?」
司は書類を床へ叩きつけた。
「言ったはずだ。こんなものに署名する気はない。母さんが笙子を認めるまでは、お前には桐原家の妻でいてもらう」
怒りで視界が眩む。
「司、どうして私があなたたちの愛のために犠牲にならなきゃいけないの?
この一年間、あなたが海外で笙子さんと何をしていたか、一々言わせるつもり?
平然と不倫をしておきながら、なぜ私だけが貴重な時間を無駄にしなきゃいけないのよ!」
この男に捧げてきた時間は、彼が想像しているより遥かに長い――七年、実に七年もの歳月だ。
彼の命を救った代償として、秋が訪れるたびに眠れなくなるほどの腰の激痛を抱えているというのに、司の目には私が二人の仲を引き裂いた悪者としか映っていない。
「すべてはお前の自業自得だ。一年前、俺に嫁ぐと決めた時点で、分かっていたはずだろう。
母さんの前でおとなしく妻の役を演じろ。母さんが首を縦に振ればすぐに離婚してやる。それが嫌なら、瀬戸家がどうなっても知らないぞ」
容赦のない脅迫に、胸が張り裂けそうだった。
あの頃、桐原グループの資金繰りが悪化したからこそ持ち上がった政略結婚だったはずだ。
それなのに、私へ復讐するためだけに実家の会社まで標的にするというの?人としての最低限の道理まで踏みにじるつもりなの?
「……出会ったこと、心の底から後悔しているわ」
この七年間、私がどれほどの思いで過ごしてきたのか、彼には何一つ分かっていない。
それどころか「これはお前の責任でしょ」と言い放つ。
何を背負えと言うのだろう。騙したのは彼の家族なのに、なぜ私だけが罪人の汚名を着せられなければならないのか。
息が荒くなり、腰の奥が激しく疼き出す。
怒りと絶望で頭に血が上り、急激に視界が歪んでいく。
意識が途切れて倒れ込む瞬間、焦燥に駆られた司が慌てて抱き止めてくれたように見えた。
……きっと、都合のいい幻を見ているに違いない。