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私の誕生日に、恋人は別の女へプロポーズした
私は川島柚希(かわしま ゆずき)。兄の川島遼介(かわしま りょうすけ)の幼なじみ、高瀬悠人(たかせ ゆうと)と、周囲に隠れて5年間付き合っていた。 私が23歳の誕生日を迎えたその日、遼介が突然、こんなことを言い出した。 「悠人がレストランを貸し切って、5年間付き合ってきた彼女にプロポーズするらしいぞ。お前も彼氏を連れてこいよ。みんなであいつのプロポーズを盛り上げてやろうぜ!」 悠人は以前、私が23歳になる日に、付き合っていることをみんなに明かしてプロポーズすると約束してくれていた。 念入りに身支度を整え、期待に胸を膨らませてレストランへ向かった。けれど、そこで私が目にしたのは、悠人が別の女性の前で片膝をつき、その女性の薬指に婚約指輪をはめる姿だった。 周囲に囃し立てられ、2人は今にも唇を重ねようとしていた。 そのとき、私に気づいた悠人は動揺を隠せず、慌てて私から目をそらした。 「なんで、ここに……?」
チャプター (1)
第1章
私は川島柚希(かわしま ゆずき)。兄の川島遼介(かわしま りょうすけ)の幼なじみ、高瀬悠人(たかせ ゆうと)と、周囲に隠れて5年間付き合っていた。
私が23歳の誕生日を迎えたその日、遼介が突然、こんなことを言い出した。
「悠人がレストランを貸し切って、5年間付き合ってきた彼女にプロポーズするらしいぞ。お前も彼氏を連れてこいよ。みんなであいつのプロポーズを盛り上げてやろうぜ!」
悠人は以前、私が23歳になる日に、付き合っていることをみんなに明かしてプロポーズすると約束してくれていた。
念入りに身支度を整え、期待に胸を膨らませてレストランへ向かった。けれど、そこで私が目にしたのは、悠人が別の女性の前で片膝をつき、その女性の薬指に婚約指輪をはめる姿だった。
周囲に囃し立てられ、2人は今にも唇を重ねようとしていた。
そのとき、私に気づいた悠人は動揺を隠せず、慌てて私から目をそらした。
「なんで、ここに……?」
第1話
悠人は明らかに動揺していた。慌てた拍子にそばのシャンパンタワーへ腕が当たり、タワーは派手な音を立てて崩れた。シャンパンが床一面に広がった。
面白がって見ていた人たちも、突然の騒ぎにしらけたようで、一斉に私を見た。
悠人は一瞬うろたえたものの、すぐに何事もなかったような顔に戻り、他人行儀な口調で私を紹介した。
「こちらは、幼なじみの遼介の妹さんで、柚希さんです」
悠人が私との関係を隠したがっていることは、嫌というほど伝わってきた。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
悠人にとって、私はそんなに人に知られたくない相手だったのだろうか。
5年も付き合ってきたのに、悠人の口にかかれば、私はただの「幼なじみの妹」でしかなかった。
思わず苦笑した。それならと、私も話を合わせた。
「悠人さん、お久しぶりです」
遼介もすぐに話を合わせてくれたので、周りもようやく納得したようだった。
悠人は、私の顔が青ざめていたことにも気づかず、安心したように息をついた。そしてステージの上で、隣にいた女性と再び肩を寄せ合った。その姿を見た周囲から、また歓声が上がった。
私は、その女性を知っていた。
水原美咲(みずはら みさき)。悠人が以前付き合っていた女性だった。
鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになった。
美咲とはもう関わらないと、悠人は確かに約束したはずだった。
それなのに、よりによって私の誕生日に、私に隠れて美咲にプロポーズしていた。
結局、私は美咲には勝てなかったんだ……
そのとき、美咲と目が合った。美咲は私を見て、楽しそうに目を細めた。
「柚希ちゃん、今日はずいぶんおしゃれしてきたのね。メイクもきれいだし、このパーティーを楽しみにしてたのが伝わってくるわ。
今まで私の代わりに悠人を支えてくれて、ありがとう。せっかくだし、乾杯しない?」
そう言って、美咲はシャンパンの入ったグラスを私に差し出した。
その言葉に、周りがざわついた。
「すごい気合い入ってない?主役より目立ちたいのかな」
「ほんと。何も知らなかったら、あの子がプロポーズされる側だと思うよね」
悠人は、私がお酒を飲めないと知っていた。それなのに、ひと言も口を挟まず、黙って見ているだけだった。
そんな悠人を見て、もう十分だと思った。
5年間続いた関係も、これで終わりにしよう。
私は美咲が差し出したグラスを受け取ると、ためらわずに飲み干した。
美咲は満足そうに笑った。
悠人は何か言いかけたが、結局何も言わなかった。
そのあとの食事では、私はうつむいたまま、ひたすら料理を口に運んだ。
悠人と美咲が抱き合っていても、指を絡めて手をつないでいても、何でもないように笑ってみせた。
遼介は私の様子がおかしいことに気づき、そっと声をかけてきた。
「どうしたんだ?家を出る前は、あんなに楽しそうだったのに」
私はそっけなく答えた。
「別に。さっき、彼氏と別れただけ」
遼介はそれ以上聞いてこなかった。ただ黙って、私の好きな料理を取り皿に取り分けてくれた。
どれも大好物のはずなのに、何を食べても味がしなかった。
私はずっと、23歳の誕生日を心待ちにしていた。その日になれば、悠人がプロポーズして、みんなの前で私を恋人だと紹介してくれると信じていた。
今朝、家を出る前に、悠人がテーブルの上の婚約指輪を持っていくのを見た。そのあと遼介から、悠人がプロポーズするらしいと聞き、てっきり私に内緒でプロポーズの準備をしてくれていたのだと思い込んだ。嬉しくて仕方がなかった。
けれど、悠人がその指輪を贈った相手は、私ではなく美咲だった。
とんだ勘違いだった。
勝手に期待して、舞い上がっていたのは私だけ。
2人が一緒になりたいのなら、もう邪魔はしない。
こんな嘘だらけの恋なんて、もういらない。
食事の途中、急に下腹部が痛みだしたので、私は先に席を立って家へ帰ることにした。
第2話
会場を出ると、悠人もすぐに追ってきて、私の腕をつかんだまま更衣室へ引っ張り込んだ。
私が何か言うより先に、悠人は私を壁際に追い込み、顎に手を添えて私の顔を自分のほうへ向けた。
さっきまでの冷たい態度が嘘のように、悠人は優しい目をしていた。
「なんだ、柚希。やきもち焼いてるのか?」
笑いながら私をからかう姿は、以前と何も変わらなかった。それなのに、目の前の悠人がひどく遠い人に思えた。
私が何も言わずにいると、悠人はただ拗ねているだけだと思ったらしく、なだめるように言った。
「柚希、勘違いするなよ。美咲は、結婚前に妊娠したことを家族に言えなくて困ってたんだ。だから俺が婚約者のふりをしただけだ。
親御さんを安心させたかったし、美咲が周りから変な目で見られないようにしたかった。それだけだよ」
悠人は、聞いてもいないことまで次々と話した。後ろめたいことがあると急に口数が増えるのは、昔から変わらなかった。今の説明も、信じられるはずがなかった。
そもそも、悠人が美咲のためにここまでする理由などない。本当に形だけの婚約者が必要だったのなら、ほかに頼める人はいたはずだ。私と付き合っている悠人を、わざわざ選ぶ必要はなかった。
悠人が気にしていたのは、美咲の立場だけだった。私がどう思うかも、周りからどう見られるかも、少しも考えてくれなかった。
悠人が私とのことを隠し続けたせいで、近所のおばさんたちには、ずっと彼氏もいないと思われていた。顔を合わせるたびに、いい人はいないのかと冷やかされていた。
私は悠人をしばらく見つめた。けれど、そんな言い訳を問い詰める気力もなく、目をそらした。
「ちょっと具合が悪いから、もう帰るね。
悠人も戻ったほうがいいよ。婚約者を置いて私を追いかけてきたなんて、周りに知られたらまずいでしょ」
悠人は眉間にしわを寄せ、低い声で言った。
「わざわざ追いかけてきて、ちゃんと話してるだろ。何がそんなに気に入らないんだよ。
美咲だって、好きで俺に頼んだわけじゃない。女同士なんだから、少しくらいわかってやれよ。このままじゃ、美咲が周りから何を言われるかわからないんだぞ。
柚希がここまで人の気持ちを考えられないとは思わなかった。正直、がっかりしたよ」
あまりに勝手な言い分に、笑いさえこみ上げた。もう黙ってはいられなかった。
「それで、私が悪いっていうの?
あの人は、悠人に恋人がいるって知ってた。それでも婚約者役を頼んだんでしょ。そんな頼みを引き受けた悠人に、私を責める資格があるの?」
返す言葉がなかったのか、悠人は奥歯を噛みしめた。
「もういい。お前とは話にならない」
悠人はそれだけ言うと、私に背を向けて更衣室を出ていき、ドアを強く閉めた。
ドアが閉まった途端、全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。息をするのも苦しいほど胸が痛み、涙が止まらなくなった。
以前の悠人なら、私にあんな言い方はしなかった。いつも穏やかで、私の気持ちを何より大事にしてくれた。
あるとき、私がスイカの種が苦手だと何気なく言うと、悠人はつまようじで1粒ずつ取り、ひと口大に切って食べさせてくれた。
髪を洗ったあと、乾かすのが面倒でそのままにしていると、悠人は呆れたように笑いながらドライヤーを手に取り、最後まで乾かしてくれた。
あれほど優しかった悠人が、美咲のことで私を怒鳴りつけた。
結局、悠人はずっと美咲を忘れられなかったのだ。
今になって思えば、私との関係を隠し続けたのも、美咲が戻ってくるのを待っていたからかもしれない。
そんな悠人を信じて5年も待っていた自分が、心底情けなかった。
泣き疲れた頃、涙を拭い、下腹部にそっと手を当てた。まだ足に力が入らなかったが、どうにか立ち上がって更衣室を出た。
本当は今日、悠人に妊娠したことを伝えるつもりだった。
私は妊娠3か月だった。
悠人と結婚して、幸せな家庭を作れると信じていた。けれど、悠人は私を裏切った。
それなら、この子を堕ろして、悠人との関係も終わらせよう。
タクシーで病院へ向かい、入口に着くと、タキシード姿の悠人とウェディングドレス姿の美咲がいた。
美咲は苦しそうにお腹を押さえ、悠人は青ざめた顔でそばに付き添っていた。
「先生、妻が階段から落ちたんです!どうか、俺たちの子どもを助けてください!」
頭の中が真っ白になり、その場に立ち尽くした。
第3話
悠人は、たしかに「俺たちの子ども」と言った。美咲との婚約も、芝居ではなかったのかもしれない。
それだけではない。悠人は医師に、美咲を自分の妻だと伝えていた。それが何よりもつらかった。
5年も付き合っていたのに、悠人は私を一度も人前で恋人として紹介してくれなかった。
私たちの関係を周りに話してほしいと頼んだこともあった。けれど悠人は、結婚が決まってからでいい、焦ることはないと言って笑った。
私はその言葉を信じ、それ以上何も言わずに待っていた。
けれど、悠人が結婚を考えていた相手は、最初から私ではなかった。
私が立ち尽くしていると、医師が困ったように息をついた。
「高瀬さん、奥さんはまだ妊娠4か月です。今は赤ちゃんの状態もよくありません。こちらもできる限りの処置をしますが、助かるかどうかは何とも言えません」
美咲は、私より1か月早く妊娠していた。
そういえば、私が妊娠する少し前、悠人は1か月ほど出張で家を空けていた。
出張から帰ってきた悠人は、妙に優しい日もあれば、私を避けるような日もあった。夜中に目を覚ますと、私に背を向け、美咲と撮った写真を見ていることもあった。
ベッドの中でも、それまでとは違っていた。夢中になると、避妊しないまま私を求めてくることが何度かあった。
それまでは、きちんと順序を守りたいと言って、毎回必ず避妊していた。
私は、結婚を考えてくれるようになったのだと都合よく受け取り、ひそかに喜んでいた。
けれど今思えば、悠人は私に美咲を重ねていたのかもしれない。
あの出張も、美咲に会うための口実だったのだろう。
悠人が家を空けていたあの1か月、2人の間で何があったのか。もう考えるまでもなかった。
息が詰まり、その場で何度か深呼吸した。やがて呼吸が落ち着くと、もう何もかもどうでもいいと思えた。
もう悠人とは別れると決めた。悠人と美咲がどうなろうと、私には関係ない。
そのとき、看護師が待合室まで来て、私の前で足を止めた。
「川島柚希さん、中絶手術の準備ができました。こちらへどうぞ」
私の名前を聞いた悠人は、すぐにこちらを振り向いた。
そのとき、美咲が小さくうめいた。すると悠人は美咲へ視線を戻し、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「柚希のはずがない。同姓同名だろ」
あと少しこちらへ近づけば、手術を受けるのが私だとわかったはずだ。
それでも悠人は動かなかった。私より、美咲のそばにいることを選んだ。
私は振り返らずに手術室へ入り、冷たい手術台の上に横になった。
麻酔が効いてくると、痛みはほとんど感じなかった。意識がぼんやりして、そのまま眠りに落ちた。
目を覚ましたときには、すべて終わっていた。
もう、お腹に子どもはいない。その事実を受け止めようとしても、気持ちが追いつかなかった。
しばらく休んで体調が落ち着いてから、会計を済ませ、薬を受け取ってタクシーで家に帰った。
家に着いても、悠人は戻っていなかった。まだ美咲に付き添っているのだろう。
けれど、もうそれほどつらくはなかった。私はそのまま荷造りに取りかかった。
悠人と撮ったプリクラも、ペアで買ったものも、迷わずゴミ袋へ入れた。
どれも以前は大切だったはずなのに、今では目に入るだけで惨めな気持ちになった。
5年もここで暮らしたのに、小さなスーツケースは私の荷物で半分も埋まらなかった。
悠人が私にくれたのは、結局、甘い言葉だけだった。
そんな言葉を、私は今まですべて信じていた。
でも、もう二度と騙されない。
荷造りを終える頃には、腰も背中も痛んでいた。少し休もうとソファに横になり、スマホを見ると、美咲の新しい投稿が目に入った。
美咲が載せていたのは、箱いっぱいに詰まった、数キロはありそうなさくらんぼだった。
投稿には、悠人が美咲の口元へさくらんぼを運ぶ写真や、ずれた掛け布団をかけ直す写真も並んでいた。どの写真でも、悠人は優しく笑っていた。
第4話
投稿には、こんな文章が添えられていた。
【さくらんぼが食べたいって言ったら、すぐに箱ごと買ってきてくれた。私だけじゃなく、お腹の赤ちゃんのことまで大事にしてくれて、本当に幸せです】
コメント欄には、羨ましがる声や、2人を祝福するコメントが並んでいた。
静まり返った部屋を見回すと、さすがに笑うしかなかった。
同じように妊娠していたのに、美咲は悠人に付き添ってもらい、食べたいものまで用意してもらっていた。それに比べて私は、1人で病院へ行き、中絶手術を受けた。
悠人は、私が妊娠していたことさえ知らなかった。
以前の私なら、この投稿を見ただけで悔しくなり、泣き崩れていたはずだ。
けれど今は、その投稿を見ても涙ひとつ出なかった。私は静かに「いいね」を押し、そのままコメントを残した。
【末永くお幸せに】
コメントを送ると、すぐに遼介へ電話をかけた。
「お兄ちゃん、私、実家に戻りたい」
「今から迎えに行く」
「うん。待ってる」
電話を切った直後、背後から悠人の低い声が聞こえた。
「誰が来るんだ?その荷物はどうした?」
振り返ると、悠人がすぐ後ろに立っていた。いつ帰ってきたのか、まったく気づかなかった。
それにしても、今日はずいぶん帰りが早かった。前に美咲が足をくじいたときは、それだけで一晩中付き添っていたのに。
私が黙っていると、悠人は眉をひそめた。
「なんで黙ってるんだ?」
「悠人には関係ない」
私はそのままスーツケースを引いて玄関へ向かったが、すぐに悠人に腕をつかまれた。
「美咲へのプロポーズは、ただの芝居だって言っただろ。それなのに、どうしてわざわざインスタに、あんな当てつけみたいなコメントをしたんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
なるほど。こんなに早く帰ってきたのは、私が美咲に残したコメントが気に入らなかったからか。
このあと、またいつものように物に当たり、怒りをぶつけてくるのだろうと思った。
ところが悠人は、ふっと笑うと、私の頭を撫でた。
「もう機嫌直せよ。ほんと、やきもち焼きだな。
俺への当てつけで、荷物までまとめたのか?ずいぶん手が込んでるな。
今日のあれは本気じゃない。本当は柚希にプロポーズするつもりだったんだ。美咲に急に頼み込まれて、断りきれなかった。それで予定を変えただけだ。
まだ信じられないなら、指輪を見てみろ。内側に柚希のイニシャルが入ってるんだ」
悠人はポケットから、昼間、美咲の指にはめたダイヤの指輪を取り出すと、私の前で片膝をつき、こちらを見上げた。
「柚希、俺と結婚してくれないか?」
以前の私なら、その場で泣いて喜び、すぐにうなずいていただろう。
けれど、その指輪は、昼間まで美咲の指にあったものだ。そう思うと、吐き気がした。
私は思わず鼻で笑い、悠人の手から指輪を取ると、そのままゴミ箱へ放り込んだ。
すると、悠人は立ち上がり、険しい顔で私を睨んだ。
「何のつもりだ?」
「一度でも人に渡したものなんていらない。それに、もう悠人のこともいらない。
だから、もう別れよう」
私の言葉に、悠人は顔をこわばらせた。
「別れる?いい加減にしろ。いつまでそんな意地を張ってるんだ」
私は返事もせず、再びスーツケースを引いて玄関へ向かった。けれど、ドアに手をかける前に悠人が回り込み、目の前に立った。
「おい、本当に出ていくつもりか?さすがにやりすぎだろ」
私は冷めた目で悠人を見返した。
「ここを出ていくって、もう決めたの。何を言っても無駄よ」
私が本気だと気づいた悠人は、スーツケースの取っ手をつかみ、手を離そうとしなかった。
「美咲に頼まれて、少し協力しただけだろ。それだけで、本当に家を出ていくのか?
柚希、いつからそんなに心が狭くなったんだ?」
私は悠人を無視し、取っ手をつかんでスーツケースを引き寄せた。その拍子に、ポケットに入れていた診療明細書が床に落ちた。
拾おうと手を伸ばしたが、悠人のほうが早かった。
悠人は拾い上げた診療明細書に目を落とし、表情をこわばらせた。
第5話
「柚希……妊娠してたのか?」
中絶したことを心配してくれるかと思った。
ところが悠人は、診療明細書にろくに目も通さず、破って私の顔に投げつけた。
「美咲が妊娠したと知って、自分も妊娠したなんて嘘までついたのか?そんなに俺の気を引きたいのかよ。
5年も付き合ってきたのに、俺のことがそんなに信じられないのか?」
呆れて、言葉も出なかった。
私との約束を破ったのは悠人なのに、事情を聞こうともせず、妊娠まで嘘だと決めつけた。
私のことは信じようともしないくせに、自分だけ信じてもらおうなんて、あまりにも勝手だった。
これ以上、話す気にはなれなかった。
「……もう、勝手にそう思ってれば」
ちょうどそのとき、遼介からマンションの前に着いたと電話が入った。
私は悠人を押しのけ、スーツケースを引いて部屋を出た。
背後から、悠人が吐き捨てるように言った。
「そこまで言うなら勝手にしろ。出ていったら、もう戻ってくるな!」
私は返事もせず、さらに足を速めた。
……
実家に着くと、遼介は私を元気づけようと、たくさんの料理を作って待っていてくれた。
お腹いっぱい食べたあとは、ゆっくり湯船につかった。さっぱりしてベッドに入ろうとしたとき、悠人からメッセージが届いた。
【美咲、たい焼き食べたいって言ってたよな。つぶあんとカスタード、どっちがいい?両方買っていく?】
美咲に送るはずのメッセージを、間違えて私に送ったらしい。
以前なら、こんなものを見ただけですぐに嫉妬し、悠人へ電話をかけて問い詰めていたはずだ。
けれど、そのメッセージがわざとなのか、ただの送り間違いなのかを考える気にもならず、悠人を問い詰めようとも思わなかった。
私はそのメッセージを、そのまま美咲に転送した。
すると、ほとんど間を置かずに返信が来た。
【これでわかったでしょ?悠人が本当に好きなのは私よ。これ以上恥をかきたくなければ、さっさと諦めなさい】
美咲を相手にする気はなく、あくびをひとつしてスマホを伏せた。
ところがその直後、悠人からの着信が10回以上も続いた。ようやく途切れたかと思うと、今度はメッセージが立て続けに届き、未読表示はあっという間に「99+」になった。
【お前正気か?なんで美咲に転送したんだよ】
【今、遼介のところにいるんだろ。いい加減、気は済んだか?】
【いつまで子供みたいに拗ねてるんだ。何かあるたびに実家へ帰るのはやめろ】
以前の悠人は、私の子供っぽいところが無邪気でかわいいと、何度も言ってくれた。
けれど今では、その子供っぽさをわがままだと責めるようになっていた。
かつてかわいいと思っていた私の性格も、今の悠人にはただ煩わしいだけだった。
私はこう返した。
【もともとあの人に送るつもりだったんでしょ?本人に転送しただけだけど、何か問題ある?】
それきり、悠人からは何も返ってこなかった。
ようやく静かになり、私はスマホを伏せてそのまま眠った。
その後、悠人のインスタには、美咲と頬を寄せ合った写真や、手をつないだ写真、美咲のために作ったという料理の写真ばかりが上がるようになった。
どう見ても、私に見せつけるためだった。
目に入るだけで鬱陶しかったので、悠人のアカウントをブロックし、連絡先も削除した。
すると悠人は、今度は遼介の前で美咲との仲のよさを見せつけるようになった。遼介はその様子を見るたび、家に帰ってきては私にぼやいた。
「今日も悠人のやつ、美咲にべったりだったぞ。美咲がネギを嫌がったら、料理に入ってた分をわざわざ全部よけてやってた。そこまでするか、普通?」
その話を聞いて、思わず鼻で笑った。
悠人は以前、これから先も私だけを大切にすると、何度も約束してくれた。
それなのに、別れて間もないうちから、悠人は美咲にも以前の私と同じように優しくしていた。
あれほどの約束も、結局は口先だけだった。
それから数日後、遼介から、悠人が食事会を開くという話を聞いた。
失恋を吹っ切れるようにと、私に合いそうな男性まで招いていたらしい。
別れたあとまで私の恋愛に口を出すなんて、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだろう。
もちろん、行くつもりはなかった。けれど遼介に押し切られ、結局、会場までついていくことになった。
会場に着くと、遼介は私の肩を軽く叩いた。
第6話
「車を停めてくるから、先に上がってて」
個室を探しながら廊下を歩いていると、曲がり角の先に美咲の姿が見えた。
美咲は見知らぬ男と腕を絡ませ、声を潜めて話していた。
「あなた、心配しなくていいの。悠人とは本当に何もなかったんだから。
あの人、お腹の子が自分の子じゃないなんて夢にも思ってないでしょうね。私の言うことなら何でも信じるんだから。
父親になりたいと思い込んでるんだから、そのままにしておけばいいのよ。この子にかかるお金も全部出してもらえるし、うまくいけば財産だって手に入るわ。
取れるだけ取ったら、あとは私たち3人で、どこか遠くへ行けばいいのよ」
男はすっかり機嫌を直し、満足そうに笑いながら、美咲はやはり頭がいいと褒めた。
まさか、こんなところで美咲の秘密を知ることになるとは思わなかった。
あの男は美咲の夫で、2人は初めから悠人を騙し、利用するつもりだったのだ。
私はとっさにスマホを取り出し、証拠を残すため、2人の会話を動画に収めた。
これが、悠人が私よりも選んだ美咲の本当の姿だった。あれほど忘れられず、大切に思い続けてきた相手が、陰では夫と一緒になって悠人を騙していたのだ。
しかも悠人は、自分とは血のつながらない美咲の子のために、実の子を失った。すべてを知ったとき、悠人はどんな顔をするのだろう。
録画を終えて辺りを見回すと、悠人たちの個室がすぐ近くにあることに気づいた。
扉に手をかけたところで、中から悠人の友人たちが楽しそうにからかう声が聞こえてきた。
「さすがだな、悠人。遼介の妹にまで手を出すなんて……
でも、本当に柚希ちゃんと結婚する気か?美咲さんはどうするんだよ。やっとよりを戻したばかりなのに」
その問いに、悠人は鼻で笑った。
「柚希とはただの遊びだよ。最近ずっと拗ねてるから、結婚するって言って、ひとまず引き留めてるだけだ。あいつはちょっと優しくすれば、すぐ信じるからな」
私との5年は、悠人にとってただの遊びだったの?
その場を動けずにいると、駐車場から戻ってきた遼介に声をかけられた。
「柚希、どうした?入らないのか?」
遼介はそう言うと、私の手を取って扉を開けた。
扉が開いた瞬間、さっきまでの笑い声がぴたりと止んだ。
悠人は一瞬表情をこわばらせたが、すぐに何事もなかったように笑い、私を強く抱き寄せた。
「ちょうどいい。みんなに報告がある。俺が5年付き合ってきた相手は、柚希なんだ。俺たち、3日後に入籍することにした」
遼介は目を見開いたまま固まったが、ほかの友人たちは予想していたようで、すぐに祝いの声を上げた。
私は悠人の腕を振りほどいた。
「結婚なんてしない。私たちはもう別れたでしょ」
すると悠人は、薄く笑いながら再び近づいてきた。
「子供までいるのに、まだそんなこと言ってるのか?結婚しないで、この子を父親のいない子にするつもりか?」
私は顔を上げ、悠人と目を合わせた。
「どうして知ってるの?」
悠人は勝ち誇ったように笑った。
「お前が出ていったあと、病院に勤めてる友達から連絡があったんだ。産婦人科でお前を見かけたってな。前に落とした書類も妊婦健診のものだったし、それで妊娠してるってわかった。
柚希、いくら腹が立ってても、子供のことで嘘をつくのはよくないだろ?」
子供のことを持ち出せば、私が結婚を受け入れるとでも思っているのだろうか。
けれど、その子はもう私のお腹にはいなかった。
あのとき書類を最後まで確認していれば、それが妊婦健診のものではなく、中絶手術の診療明細書だったと気づいたはずだ。
遼介は驚きのあまり、何も言えずにいた。
悠人はもう私が断れないと思ったのか、再び抱きしめようと腕を伸ばしてきた。
私はその手を払いのけ、スマホを取り出した。保存していた中絶手術の診療明細書を画面に出し、悠人に見せた。
「知らなかったの?私はもう中絶したの。いい加減諦めて。結婚するつもりなんてないから」