お腹の子を奪った夫を捨てて、人生を取り戻した

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お腹の子を奪った夫を捨てて、人生を取り戻した

GoodNovel 完結

水瀬澪花(みなせ みおか)は、母子健康手帳の交付手続きをするため、市役所の窓口を訪れた。本人確認書類を取り出そうとした拍子に、同じファイルに挟んでいた婚姻届受理証明書が窓口のカウンターに滑り落ちた。 職員はそれを拾い上げ、記載内容に目を留めると、端末を確認した。 「こちらは今回のお手続きには必要ありませんが……念のため確認したところ、この証明書の内容は、こちらの記録と一致していないようです」 澪花は数秒、反応できなかった。我に返ると、思わず声を強めた。 「公印まで押してあるんです。偽物のはずがありません」 職員は困ったように眉を寄せた。 「公印が不鮮明で、何が押されているのか確認できません。念のため伺いますが、ご主人は久世晴臣(くぜ はるおみ)さんでお間違いないでしょうか。こちらの記録では、久世さんには別の方との婚姻記録があり、お子さんもいらっしゃいます」 一瞬、思考が止まった。澪花はその場に立ち尽くす。 周囲で順番を待っていた人たちが、苛立った声で「早くして」と急かしてくる。騒ぎに気づいた警備員が駆け寄り、澪花の腕をつかんでその場から引き離した。 警備員の手を振りほどくと、怒りに任せてスマホを取り出し、晴臣へ電話をかけた。 十数回かけても、晴臣は一度も出なかった。 そのとき、下腹部が重く痛み始めた。考える間もなく、慌てて救急外来へ向かった。 先生には、急に動揺したせいで、一時的にお腹が張っただけだと言われた。ようやく安心して、救急外来を出る。 病院の外へ出たところで、少し離れた場所に晴臣が立っているのが見えた。 名前を呼ぼうとしたそのとき、少し先から看護師の声がした。 「お子さんはもう大丈夫ですよ。この点滴が終わったら、一緒に帰れます」 澪花の足が止まった。その場から動けない。

チャプター (1)

第1章

水瀬澪花(みなせ みおか)は、母子健康手帳の交付手続きをするため、市役所の窓口を訪れた。本人確認書類を取り出そうとした拍子に、同じファイルに挟んでいた婚姻届受理証明書が窓口のカウンターに滑り落ちた。 職員はそれを拾い上げ、記載内容に目を留めると、端末を確認した。 「こちらは今回のお手続きには必要ありませんが……念のため確認したところ、この証明書の内容は、こちらの記録と一致していないようです」 澪花は数秒、反応できなかった。我に返ると、思わず声を強めた。 「公印まで押してあるんです。偽物のはずがありません」 職員は困ったように眉を寄せた。 「公印が不鮮明で、何が押されているのか確認できません。念のため伺いますが、ご主人は久世晴臣(くぜ はるおみ)さんでお間違いないでしょうか。こちらの記録では、久世さんには別の方との婚姻記録があり、お子さんもいらっしゃいます」 一瞬、思考が止まった。澪花はその場に立ち尽くす。 周囲で順番を待っていた人たちが、苛立った声で「早くして」と急かしてくる。騒ぎに気づいた警備員が駆け寄り、澪花の腕をつかんでその場から引き離した。 警備員の手を振りほどくと、怒りに任せてスマホを取り出し、晴臣へ電話をかけた。 十数回かけても、晴臣は一度も出なかった。 そのとき、下腹部が重く痛み始めた。考える間もなく、慌てて救急外来へ向かった。 先生には、急に動揺したせいで、一時的にお腹が張っただけだと言われた。ようやく安心して、救急外来を出る。 病院の外へ出たところで、少し離れた場所に晴臣が立っているのが見えた。 名前を呼ぼうとしたそのとき、少し先から看護師の声がした。 「お子さんはもう大丈夫ですよ。この点滴が終わったら、一緒に帰れます」 澪花の足が止まった。その場から動けない。 第1話 澪花が反応するより早く、どこか見覚えのある女性が診察室から出てきた。 その女性は親しげに晴臣の腕に絡みついた。目には涙が浮かんでいる。 「陽向が無事でよかった。もしものことがあったらって、怖くてたまらなかった」 そこでようやく、その女性が上司・篠宮香澄(しのみや かすみ)だと気づいた。 香澄は1年前に帰国し、澪花の勤める会社へ入社した。二人はすぐに打ち解け、何でも話せる友人になった。 陽向は、香澄の5歳になる息子だ。 初めて会った頃、香澄は、陽向の父親とはちょっとした誤解で別れたと話していた。 それから間もなく、香澄は嬉しそうに澪花を食事へ誘い、元夫とよりを戻して再婚したと報告した。 それ以降、香澄は家族3人で過ごした楽しい出来事や、夫との幸せな時間をよく話すようになった。 だから妊娠が分かったとき、晴臣との間に子どもができたら、今よりもっと幸せになれると思った。 以前、澪花は「今度は旦那さんも連れてきてよ」と冗談を言ったことがある。 香澄は笑い、いつか必ず会えると答えた。 まさか今日、本当に会うことになるとは思わなかった。香澄が話していた夫は、澪花が自分の夫だと信じていた晴臣だった。 次の瞬間、兄・水瀬智紀(みなせ ともき)と、何人かの友人まで姿を現した。 「陽向はどうなんだ?」 「大丈夫よ」香澄は一度言葉を切り、声を詰まらせた。「でも先生に、病気の進行が早いって言われたの」 友人の一人が口を開いた。 「澪花が羊水検査を受ければ、陽向は助かるかもしれない。父親が同じきょうだいなら、型が合う可能性も高いって先生が言ってた」 別の友人がちっと舌を鳴らした。 「澪花はまだ何も知らないんだろ。知ったら、絶対に同意しない」 香澄の目から、たちまち涙があふれた。 「じゃあ、陽向がこのまま死んでもいいっていうの?まだ5歳なのよ!」 そばにいる智紀が眉をひそめ、低い声で言う。 「澪花だって、事情を話せば理解する。それに、陽向のこともかわいがってる。きっと協力してくれる」 頭の中が、一瞬で真っ白になった。 背筋が凍りついた。腹をかばうように手を当て、後ずさる。 まさか、この人たちは、お腹の子を陽向の骨髄ドナーにするつもりなのか。 看護師が出てきて、香澄に声をかけた。 「陽向くんが目を覚ましました。会いたいって泣いていますよ」 香澄が病室へ向かうと、友人の一人が晴臣の肩をたたいた。 「いつ澪花に話すつもりだ?プロポーズしたときも、一度結婚していたことを隠してたよな。 澪花と婚姻届を出す直前、香澄から、陽向には骨髄移植が必要だと聞かされた。陽向を救うためにもう一人子どもが欲しいと頼まれて、罪悪感から香澄と再婚した。澪花には偽物の婚姻届受理証明書を渡して、結婚したと思わせた。 だが、香澄の子どもとは型が合わなかった。父親が同じきょうだいなら可能性があると先生に言われて、今度は澪花の羊水検査まで手配したんだろ」 「澪花には最後まで隠し通す」 晴臣は鋭い声で友人の言葉を遮った。その表情が険しくなる。 「澪花が子どもを産み、その子の骨髄で陽向が助かったら、香澄とは離婚する。その後は二度と関わらない。 そのあとは澪花と正式に結婚する。できることは全部して、澪花に償う」 澪花はよろめくように後ずさった。胸の奥に鋭い痛みが走り、息ができない。 5年前、兄とパーティーに行ったとき、帰国したばかりの晴臣と出会った。そのとき初めて、彼が智紀の親友だと知った。 晴臣は澪花に一目惚れし、それから積極的にアプローチしてきた。 付き合い始めてからは、澪花をお姫様のように大切にした。どんな願いも叶えようとしてくれた。 香澄と親しくなってからは、晴臣にも紹介した。自分の友人たちとの集まりにも、何度も香澄を誘った。 それでも晴臣は何ひとつ態度を変えなかった。ほかの友人たちも、いつもどおりに振る舞っていた。 みんな、最初から知っていた。兄である智紀まで、澪花にだけ隠していた。 スマホが突然震え、我に返った。届いたのは1通のメッセージだった。 【もう決めた?本当に留学を諦めるの?】 澪花は涙を拭い、短い返事を打った。 【諦めない。留学するって決めた】 そのまま先ほどの先生のところへ戻り、中絶手術を受けたいと伝えた。 数分前まで、あれほどお腹の子を心配していた。それなのに突然中絶を望んだ澪花を見て、先生は戸惑ったように尋ねた。 「本当に、中絶を希望されるんですか?」 澪花はうなずいた。 「はい。産みません」 そう答えた直後、背後から晴臣の声がした。 「今、何を産まないって言った?」 第2話 澪花は振り返り、静かに答えた。 「お腹の子」 晴臣の顔からさっと血の気が引いた。一歩近づき、澪花の手をつかむ。 「どういうことだ?」 胸の奥が鈍く痛んだ。澪花は冷たく笑った。 「私がこの子を中絶せずに産んだら、晴臣の大切な息子のドナーにするつもりだったの?」 その場にいた全員が、驚いた顔で澪花を見た。 晴臣の目に動揺が走った。 「全部、聞いたのか?」 「聞いた」 「澪花、誤解だ」 晴臣は焦ったように言葉を重ねる。 「ただ、陽向を救いたかっただけだ。俺は陽向に償わなきゃならないことがあるんだ。陽向を救えるかもしれないのは、俺たちの子だけなんだ。もし型が合えば、骨髄移植が終わったあと、香澄たちとは縁を切る」 澪花は鼻で笑い、その言葉を遮った。 「だからって、どうして私の子で埋め合わせるの?」 晴臣は言葉に詰まり、喉仏が大きく動いた。 「でも、陽向の命がかかってるんだ!」 陽向の命は大切で、澪花のお腹の子の命はどうでもいいのか。 もし型が合っても、生まれたばかりの赤ん坊が、骨髄を採られるのに耐えられるはずがない。 晴臣の手を振り払い、立ち去ろうとした。だが足に力が入らず、後ろへよろめいた。 そばにいた智紀がすぐに支え、困ったように言った。 「澪花ちゃん、本当に陽向が死んでもいいのか?」 周りの友人たちも、次々と口を挟んだ。 「そうだよ、澪花。晴臣が愛してるのは澪花だけだって、みんな知ってる。澪花のためなら、何だってするだろ」 「香澄と再婚したのだって、陽向を救うためだけだ」 友人たちの言葉を聞いているうちに、胸の奥が痛み、息ができなくなった。 晴臣は確かに、澪花を愛していた。澪花がバラ好きだと知ると、バラ園まで買い取った。 季節外れの果物が食べたいと言えば、翌日には空輸で取り寄せた。 澪花が望むものなら、晴臣は何でも用意してくれた。 晴臣の過去なら受け入れられる。だが、嘘は許せない。まして、ほかの女と結婚している男とは、一緒にいられない。 なら、澪花が晴臣から離れればいい。あの人たちの生活には、もう関わらない。 全身を震わせながら、頬の内側を強く噛み、どうにか冷静さを保った。 「私たちはもう終わり。今から、この子は晴臣と何の関係もない!」 そのまま立ち去ろうとしたが、晴臣に抱きすくめられた。声がかすれている。 「澪花、そんなふうに意地を張らないでくれ」 澪花の冷淡な態度に、智紀は失望したように眉を寄せた。 「羊水検査を受けるだけだ。みんなで付き添う」 胸に鋭い痛みが走り、涙がこぼれた。 「実の妹とお腹の子より、陽向のほうが大事なの?私たちが危ない目に遭ってもいいの?」 そのとき、香澄が久世陽向(くぜ ひなた)の手を引いて近づいてきた。澪花の言葉を聞くと、目の縁が赤くなった。 香澄は陽向の手をつかみ、その手を澪花へ伸ばした。 「陽向、早く澪花お姉ちゃんにお願いして!」 澪花は反射的に身を引いた。 まだ触れてもいないのに、香澄は悲鳴を上げて床へ倒れた。腹を押さえ、苦しそうに顔をゆがめる。 周りが一斉に慌てた。 「香澄は流産したばかりで、まだ体調も戻ってないんだぞ!澪花、何をするんだ!」 晴臣の顔色が変わった。駆け寄り、香澄を抱き起こした。 「大丈夫か?」 香澄が倒れるのを見た陽向は、澪花の前へ駆けてきた。両手で澪花の腹を力いっぱい押した。 澪花はもともと体が弱っていた。不意に押され、そのまま後ろへ倒れた。 「澪花お姉ちゃんは悪い人だ!パパを取って、ママまで押した!大嫌い!」 痛みで視界が暗くなった。澪花は呆然と陽向を見つめる。 ほんの数日前まで、陽向は澪花にくっつき、物語を読んでと甘えていた。かわいい声で「澪花お姉ちゃん」と呼んでいた。 今は、憎しみをむき出しにして睨んでいる。 どうにか体を起こした。少し先では、誰もが香澄を囲み、心配そうに声をかけている。 その光景を見た瞬間、胸の奥は痛みすぎて、もう何も感じなかった。 晴臣は視界の端に、倒れている澪花の姿を捉えた。香澄から手を離し、すぐに駆け寄ってくる。しゃがみ込んで澪花の体を抱き起こし、慌てた声で尋ねた。 「澪花、大丈夫か?お腹を打ってないか?」 澪花はその腕から逃れ、嫌悪を込めた目で晴臣を見た。 「触らないで!」 晴臣の目に怒りが浮かんだ。陽向を振り返り、声を荒らげた。 「陽向、どうして人を突き飛ばしたんだ?」 陽向は一瞬固まり、口をへの字にして泣き出した。 「だって、澪花お姉ちゃんが先にママを押したんだ。それに、僕を助けてくれないって!」 全員が言葉を失った。 香澄は慌てて陽向を抱きしめ、なだめる。 周りの目を盗み、陽向の胸を強くつねった。 次の瞬間、陽向は短くうめき、床に倒れた。 香澄はすぐにその場へひざまずき、震える声で陽向に呼びかけた。 「陽向、どうしたの?お願いだから、しっかりして!」 その場にいた全員が顔色を変えた。 晴臣は陽向を抱き上げ、診察室へ駆け込んだ。 香澄はよろめきながら澪花の前へ駆け寄ると、その場にひざまずいた。涙をぼろぼろこぼしている。 「澪花、お願い。羊水検査を受けて。陽向を助けてくれるなら、どんなことでもするから」 その姿を見て、澪花は一瞬だけ迷った。 そのとき、晴臣が診察室から出てきた。険しい顔をしている。 「澪花を連れていけ。羊水検査を受けさせろ」 第3話 晴臣が言い終えると、ボディーガードたちはすぐに澪花の両脇を抱え、処置台へ連れていった。 体を押さえつけられた。どれだけ泣き叫んでも、晴臣も智紀も止めようとはしなかった。 看護師が服をまくり上げ、冷たい消毒液を腹に塗った。長い針が腹に刺さり、そのまま子宮へ入っていく。 鈍い痛みが全身へ広がり、思わず息をのんだ。 澪花は抵抗するのをやめた。処置台に横たわったまま、声もなく涙を流す。 どれほど時間が過ぎたのか分からない。とうとう耐えきれず、視界が暗くなって意識を失った。 次に目を開けると、病室のベッドに寝かされていた。看護師が晴臣に注意事項を説明している。 「久世さん、検査の結果、型は適合しました。ただ、奥様は今、かなり体力が落ちています。しばらく無理をさせず、しっかり休ませてあげてください」 澪花はどうにか上半身を起こし、冷たい声で告げた。 「違います。私はこの人と結婚していません」 晴臣は小さく息をついた。澪花を抱き寄せ、額にそっと口づけた。 「澪花、もう少し待ってくれ。陽向の骨髄移植が無事に終わったら、香澄とはきっぱり離婚する。そのあと、澪花と正式に結婚して、盛大な式を挙げよう」 澪花は黙って聞いていた。その目に期待は残っていない。 「そのために、私たちの子の命と引き換えに、陽向を救うつもりなの?」 晴臣は一瞬黙ったあと、言い切った。 「そんなことにはならない。腕のいい医師たちをそろえてある。俺たちの子は絶対に大丈夫だ」 澪花は力なく笑い、それ以上は何も言わなかった。 翌日、晴臣は澪花を家へ連れ帰り、ずっとそばを離れようとしなかった。 澪花なら、本当に家を出ていく。晴臣はそれを分かっている。 玄関を入った途端、澪花は足を止めた。 リビングでは、香澄が陽向とおもちゃで遊んでいる。まるで自分の家のようにくつろいでいる。 「どうして二人がここにいるの?」 澪花の声を聞くと、香澄はすぐに立ち上がった。 「澪花、邪魔するつもりはなかったの。 陽向の手術が終わったら、私たちはもうここには来ないわ。それまでの間だけ、晴臣と3人で過ごして、家族の温かさを感じさせてあげたいの」 澪花は隣にいる晴臣へ目を向けた。 晴臣は不機嫌そうに眉を寄せている。澪花がわがままを言っているとでも思っているようだ。 「ただ、陽向の最後の願いをかなえてやりたいだけだ」 澪花は晴臣の目を見つめた。少し黙ったあと、静かに答えた。 「分かった」 もう、どうでもよかった。 そう言って階段へ向かったが、晴臣が行く手をふさいだ。少し間を置いてから、口を開いた。 「澪花、しばらく別の寝室を使ってくれないか。今の寝室は香澄と陽向に使わせたい。陽向はまだ小さいから」 澪花は勢いよく顔を上げた。重い睡眠障害があることは、晴臣が誰よりもよく知っている。 ベッドや部屋が変わるだけで、眠れなくなる。 寝室を整えたとき、マットレスも、壁の色も、照明も、すべて晴臣が専門家と相談して選んだ。澪花が少しでもよく眠れるように、特別に整えた部屋だった。 今は体も弱っている。退院の際も、十分な睡眠を取るよう先生に言われたばかりだった。 胸が締めつけられた。断ろうと口を開いたが、その言葉をのみ込んだ。 晴臣は相談しているのではない。決まったことを伝えているだけだ。香澄たちの荷物は、すでに主寝室へ運び込まれている。 澪花は小さく笑った。 「分かった」 晴臣の脇をすり抜け、別の寝室へ入った。案の定、自分の荷物はすでにそこへ移されている。 シャワーを浴び、ベッドに腰を下ろしたところで、突然ドアが開いた。 晴臣は足早に入ってきて、澪花を抱きしめた。声がかすれている。 「澪花、もう怒らないでくれ。そんなふうに冷たくされると、俺もつらい」 胃の奥から吐き気がこみ上げた。澪花は晴臣の胸に手を当て、押し返した。声は冷たい。 「晴臣の奥さんと子どもは隣の部屋にいるのに、こんなことをして、聞かれても平気なの?」 晴臣の動きが止まった。深くため息をつき、もう一度澪花を抱きしめた。 「澪花、頼むからそんな態度を取らないでくれ。殴っても、怒鳴ってもいい。俺を他人みたいに扱うのだけはやめてくれ。 ちゃんと婚姻届を出す。結婚式だって、必ず挙げる」 澪花は鼻で笑った。晴臣はまだ、正式に結婚していないことに腹を立て、意地を張っているだけだと思っている。 何も答えない澪花を見て、晴臣の腕にさらに力がこもった。無理やり腕の中へ閉じ込めた。 その夜、澪花は一睡もできなかった。 翌朝早く、朝食になるものを探しに1階へ下り、冷蔵庫を開けた。 ケーキを1切れ取り出すと、陽向が駆け寄ってきた。 澪花のスカートの裾を引っ張り、目をぱちぱちさせる。 「澪花お姉ちゃん、僕も食べたい」 無邪気な目を見ていると、どうしても突き放せなかった。 陽向の頭をなで、優しい声で言い聞かせた。 「少しだけね。食べすぎると虫歯になるよ」 「ありがとう、澪花お姉ちゃん!」 陽向はケーキを受け取ると、リビングへ駆けていった。 澪花はコップに水を注ぎ、キッチンを出た。すると、陽向が喉を押さえ、そのまま床へ倒れるのが見えた。 次の瞬間、香澄の悲鳴が家中に響き渡った。目を血走らせ、澪花を睨みつける。 「陽向に何を食べさせたの?」 第4話 香澄の叫び声を聞き、晴臣が部屋から出てきた。息苦しそうな陽向を見た途端、顔色を変えた。 香澄は取り乱し、床に倒れた陽向を抱き上げた。澪花に向かって声を張り上げた。 「澪花、陽向がヘーゼルナッツアレルギーだって知ってるのに、ヘーゼルナッツ入りのケーキを食べさせたのね。 型が合ったから、陽向を殺そうとしたんでしょう?」 その言葉に、晴臣の表情が険しくなった。怒りに満ちた目を澪花へ向け、冷たい声で言った。 「どれだけわがままを言っても、5歳の子を傷つけるなんて許されない!」 澪花は全身をこわばらせ、必死に首を横に振った。 「違う。私もヘーゼルナッツアレルギーなの。家にヘーゼルナッツ入りのケーキを置くはずがない。それで陽向を傷つけるなんて、絶対にしない」 澪花はわがままなところがあっても、子どもを傷つけるようなことは絶対にしない。 そう言いながら救急箱へ駆け寄り、アレルギーの薬を探した。 薬を見つけると、急いで陽向のそばへ戻った。飲ませようと手を伸ばす。 陽向に触れた瞬間、香澄が突然悲鳴を上げた。 「陽向に触らないで!また傷つけるつもりなの?」 香澄は澪花を突き飛ばした。澪花はバランスを崩し、そのまま後ろへ倒れた。 晴臣は陽向を抱き上げ、玄関へ向かいながら叫んだ。 「車を出せ!すぐ病院へ向かう!」 澪花は腰と腹をローテーブルに強く打ちつけた。鋭い痛みに、思わず悲鳴を上げた。 玄関まで来ていた晴臣の足が止まった。振り返ると、顔から血の気が引いた澪花が床に倒れていた。晴臣の目に動揺が走った。 反射的に戻ろうとしたが、香澄が涙を浮かべて袖をつかんだ。しゃくり上げながら訴えた。 「晴臣、早く陽向を病院へ連れていって。もう息ができなくなりそうなの!」 晴臣は我に返り、足早に家を出た。そばにいたボディーガードへ命じた。 「澪花も病院へ連れてこい」 澪花はボディーガードに車へ乗せられ、病院で検査を受けた。大事には至らなかった。 陽向も救急処置を受け、意識を取り戻した。顔から血の気が引いている。 晴臣が病室へ入ってくると、陽向は大声で泣き出した。 「パパ、澪花お姉ちゃんに無理やり食べさせられたの! 僕なんか早く死ねばいいって言われた。澪花お姉ちゃんの部屋を取ったせいだって。 でもパパは、僕のこと大好きだよね?」 晴臣のこめかみに青筋が浮かんだ。勢いよく振り返り、後ろにいる澪花を睨みつけた。 「どうしてそこまでひどいことができるんだ?」 澪花は陽向の様子を見に来ただけだった。家政婦が間違えてケーキを買ってきたのだと思っていた。 それなのに、陽向の口から出たのは、事実とは正反対の話だった。 澪花は目を見開き、ベッドの陽向を見つめた。 「陽向、自分から食べたいって言ったでしょう。私はそんなこと、一度も言ってない」 「もういい!」 晴臣が声を荒らげ、澪花の言葉を遮った。 「陽向はまだ5歳なんだぞ。こんな嘘をつくはずがないだろ?」 ネクタイを乱暴に緩めた。澪花を見る目には、失望が浮かんでいる。 ベッドのそばに立つ香澄は、ひどく傷ついた顔で泣き、全身を震わせている。 「晴臣と澪花の生活を壊すつもりなんて、一度もなかった。ただ、陽向に幸せな思い出を残してあげたかっただけ。 どうしてそこまで私たちを憎むのか分からない。陽向まで傷つけるなんて。 私なら殴っても、怒鳴ってもいい。それなのに、どうして私たちの子を殺そうとしたの?」 晴臣の額に青筋が浮かんだ。澪花をじっと見据え、低い声で言った。 「陽向に謝れ」 澪花はその目をまっすぐ見返したまま、答えた。 「悪いことはしてない。どうして謝らなきゃいけないの?陽向を傷つけようとしたことなんて、一度もない」 それでも謝ろうとせず、言い返す澪花に、晴臣は失望したような目を向けた。 「澪花、どうしていつも、俺の言うことを聞けないんだ」 晴臣は少し間を置いた。苛立ちを隠そうともせず、その目にももう優しさは残っていない。 「先生に、陽向はアレルギー症状が重いから、原因になりそうなものは家に置かないよう言われた。だから、モモはもうここでは飼えない。 今謝るなら、モモはしばらく動物病院に預ける。謝らないなら、もう二度とモモには会わせない」 第5話 その言葉を聞いた瞬間、澪花はその場に立ち尽くした。信じられない。晴臣を見つめたまま、動けない。 モモは澪花の愛猫で、晴臣と二人でわが子のようにかわいがってきた存在だ。 3年前、澪花は母・水瀬美佐子(みなせ みさこ)が交通事故で亡くなるところを目の当たりにした。その出来事をきっかけに、心的外傷後ストレス障害と診断された。 そんな澪花のために、晴臣が贈ってくれたのが1匹の子猫だった。 モモは、絶望しかなかった日々を乗り越えるまで、ずっと澪花に寄り添ってくれた。いつしか、かけがえのない心の支えになっていた。 まさか晴臣が、モモを使って無理やり謝らせようとするとは思わなかった。 全身の震えが止まらない。胸の奥が引き裂かれるように痛み、息が詰まった。 香澄は陽向を抱きしめ、すすり泣いた。 「晴臣、もういい。澪花が謝りたくないなら、無理に謝らせなくてもいいの。澪花は、陽向がどうなってもかまわないみたいだし」 その言葉を聞いた晴臣は、怒りをあらわにした。玄関に控えていたボディーガードへ、冷たく命じる。 「モモをここから連れ出せ」 「やめて!」 澪花は一瞬で取り乱した。晴臣へ駆け寄り、その腕をつかむ。 「謝る。 晴臣、お願い。モモを連れていかないで」 香澄と陽向へ目を向け、口の中に血の味が広がるほど唇を強く噛みしめた。震える声で謝る。 「ごめんなさい。私が悪かった。陽向を傷つけてしまって、本当にごめんなさい」 ようやく澪花が折れると、晴臣の表情が緩んだ。ボディーガードへ言った。 「モモは動物病院に預けろ」 「謝ったのに、どうしてモモを連れていくの?」 晴臣は澪花をなだめるように答えた。 「心配するな。きちんと世話をしてもらえる。陽向の手術が終わったら、俺たちで迎えに行こう」 澪花は力が抜けたように壁へもたれた。もう、期待する気持ちは残っていなかった。黙って背を向け、家を出た。 スマホの画面が光った。友人からのメッセージだ。 【必要な手続きは全部済んだ。2日後に迎えに行く】 頬に残る涙を拭った。あと2日。そうすれば、モモを連れて、ここを出ていける。 翌日、澪花は会社へ向かった。退職届を出し、私物を片づけるためだ。 ところがオフィスへ入ると、自分の荷物が床一面に散らばっていた。 同僚たちの悪意に満ちた声が、次々と耳へ飛び込んでくる。 「あんな不倫女と同じオフィスなんて、ほんと最悪。毎日あんなに篠宮部長に媚びてたのも、近づいて嫌がらせするためだったんだ」 「篠宮部長が再婚したあとまで、人の旦那さんにしつこく迫って、妊娠して妻の座まで奪おうとしたんでしょ。ほんと最低」 澪花は拳を強く握りしめ、人だかりに向かって叫んだ。 「不倫なんかしてない!人の家庭を壊したこともない!」 それでも、誰も澪花の話を聞こうとはしなかった。好き勝手なことを言い、スマホで動画を撮ってネットへ投稿する者までいた。 同僚たちは出ていけと騒ぎながら、澪花を何度も押した。澪花は床に散らばった荷物を拾い集め、段ボール箱へ詰めると、足早に会社を出た。 家に戻った頃には、もう夜だった。 シルクのネグリジェを着た香澄が階段の手すりにもたれ、澪花の行く手をふさいでいる。嘲るように澪花を見た。 「澪花って、本当にかわいそう。結婚もしてもらえないまま晴臣にすがって、お腹の子だって、生まれたら陽向を助けるために使われるだけなんだから」 澪花は、ついに本性を現した香澄を見つめた。 「最初から、私と晴臣の関係を知ってたのね」 香澄は勝ち誇ったように笑った。 「そうよ。晴臣の妻でいられるのは、私だけ。 私たちが離れていた間、晴臣に遊ばれていただけよ。私か陽向が呼べば、晴臣は何もかも投げ出して、すぐ私たちのところへ戻ってくるの」 胸の奥がわずかに痛んだ。澪花は深く息を吸い、淡々と告げる。 「そう。じゃあ、これからも3人で仲よくね」 それでも取り乱さない澪花を見て、香澄は冷たく笑い、ゆっくり告げた。 「長い間、タダで晴臣の世話をしてくれたんだから、いいものをあげる」 第6話 澪花は何も答えず、そのまま2階へ上がった。 翌日、眠っていた澪花は、突然ベッドから引き起こされた。目を開けると、険しい顔をした晴臣が腕を強くつかんでいる。晴臣は怒鳴った。 「陽向をどこへ連れていった?」 状況をのみ込めないまま、目の前にスマホの画面を突きつけられた。 動画の中では、香澄が床にひざまずき、大粒の涙をぽろぽろこぼしている。 「会社の人たちに話したのは私じゃない。澪花が不倫してるなんて言ってないし、動画を撮ってネットに載せるよう頼んだこともない。 私が憎いなら、私を責めればいい。お願いだから、陽向だけは傷つけないで。 プライベートな動画も、自分からネットに上げた。これで気が済んだなら、陽向を返して。お願い……」 晴臣は怒りに顔をゆがめ、歯を食いしばって怒鳴った。 「澪花、一体何がしたいんだ? 会社の同僚に少し何か言われたくらいで、香澄にこんな動画まで公開させて、陽向を隠したのか。よくそんなひどいことができるな!」 腕をつかむ手に力がこもり、痛みが走った。澪花は抵抗しながら、必死に首を横に振る。 「違う。何を言ってるのか分からない」 ドアが開き、入ってきた智紀が焦った声で尋ねた。 「どうだ?陽向は見つかったか?」 晴臣は首を横に振った。 智紀は失望と怒りをにじませ、澪花を見た。 「澪花ちゃん、いつからこんなことをするようになったんだ。どうして、ここまでひどいことができるんだ。 子どもを死なせようとするなんて!」 そこへ香澄がドアを押し開けて入ってきた。澪花の足元にひざまずき、今にも倒れそうなほど泣いている。 「澪花、言われたとおり、動画はもうネットに上げた。お願いだから、陽向がどこにいるのか教えて。あの子は今、少しの無理もできないの!」 晴臣は香澄を抱き寄せ、優しい声でなだめた。 「心配するな。俺がいる。陽向はきっと無事だ。澪花、言え。陽向はどこだ?」 澪花はかすれた声で答えた。 「知らない」 「まだ言わないつもりか」 晴臣はとうとうしびれを切らし、ドアの外にいるボディーガードを呼びつけた。 すぐに、ボディーガードがスマホを手にして入ってきた。画面の中で、モモがケージに閉じ込められ、怯えきって震えている。別のボディーガードが、注射器を手にモモへ近づいている。 晴臣は澪花を冷たく見据え、ゆっくりと言った。 「これが最後だ。陽向はどこにいる?」 恐怖に震えるモモを見た瞬間、澪花は完全に取り乱した。何も考えず、晴臣へすがりついた。 「やめて!本当に知らないの。お願いだから、もうやめて!」 それでも、晴臣は表情一つ変えない。澪花は智紀へ顔を向け、声を張り上げた。 「お兄ちゃん、信じて!私は何もしてない!」 智紀は眉を寄せ、冷たい一言を返した。 「澪花ちゃん、見損なった」 澪花は床に崩れ落ちた。いちばん身近で、誰よりも大切な二人が、どちらも澪花を信じてくれない。 「違う。本当に、何もしてない……」 画面の中で、ボディーガードが注射針をモモの首筋へ刺そうとした。その瞬間、ドアが開いた。 秘書が慌てた様子で声を上げる。 「陽向くんが見つかりました。ただ、意識を失った状態で、今は病院で救命処置を受けています」 第7話 全員がすぐに病院へ向かった。澪花は全身から力が抜け、その場で肩を上下させながら荒い息を吐いている。 残った力を振り絞って立ち上がった。よろめきながら家を飛び出し、無我夢中で動物病院へ向かった。 病院では、先生がため息をついて首を横に振った。 「陽向くんの状態は急速に悪化しています。今は胎児細胞を予定より早く採取して、病気の進行を一時的に抑えるしかありません」 晴臣は一瞬、ためらった。 「ほかに方法はないんですか?」 香澄の目が赤くなった。晴臣の手をつかむ。 「私たちの子を見殺しにするつもりなの?」 晴臣はベッドに横たわる陽向を見つめ、一度、目を閉じた。やがてうなずいた。 「分かった」 澪花が動物病院の前まで来たとき、突然数人のボディーガードが現れた。無理やり車へ押し込まれ、陽向のいる病院へ連れていかれた。 手術室へ押し込まれる直前、外から智紀と晴臣の声が聞こえた。 「晴臣、本当に澪花ちゃんとお腹の子は無事なんだな?」 「大丈夫だ。俺は誰よりも澪花とお腹の子を愛してる。絶対に二人を危険な目に遭わせない」 手術台に縛りつけられた。激しい痛みが全身へ広がり、腹の中を押し潰されるようだった。耐えきれず、意識を失った。 どれほど時間が過ぎたのか分からない。目を覚ますと、腹の中から何かがなくなったような感覚だけが残っていた。看護師たちの話し声が耳に入る。 「一度にあれだけ胎児細胞を採取したんだから、流産は避けられなかったのね」 澪花は虚ろな目をしたままベッドを降り、ふらつく足で病室を出た。 今の澪花には、もうモモしかいない。モモを連れて、今度こそここを離れる。 タクシーで動物病院へ向かった。道路の向こう側に、ケージの中で丸くなっているモモが見えた。 澪花の姿に気づくと、モモはすぐに立ち上がり、澪花のもとへ走り出した。 「モモ、止まって!」 澪花は目を見開き、声を振り絞った。 次の瞬間、激しい衝突音が響いた。走ってきた車にはねられ、モモの小さな体が宙を舞った。 数回けいれんしたあと、動かなくなった。モモの体から流れ出た血が、路面を赤く染めた。 激しい耳鳴りがして、周りの音が遠のいた。母の事故の光景が、一瞬でよみがえった。 全身を激しく震わせ、澪花は我を忘れて駆け寄った。血だまりの中にひざまずき、震える腕でモモを抱き上げた。そのまま動物病院へ飛び込んだ。 「モモ……お願い、しっかりして」 先生はモモを見ると、首を横に振った。 「すでに心臓が止まっています。残念ですが……」 澪花はその場に崩れ落ちた。冷たくなっていくモモを抱いたまま、視線はどこにも定まらない。 澪花はモモを抱いたまま、朝から夜までその場を動かなかった。 夜になってようやく、モモを火葬してもらった。骨壺を胸に抱え、一歩ずつ動物病院をあとにした。 外へ出たところで、スマホが鳴った。 【10分後に出発する】 澪花はそのまま歩き続けた。目の前に黒い車が止まり、後部座席へ乗り込んだ。 スマホからSIMカードを抜き取り、指にはめていた指輪と一緒に窓の外へ投げ捨てた。 開いた窓から、風が勢いよく吹き込んでくる。澪花は目尻に残る涙を拭った。 家族も、恋も、友情も、もう何もいらない。 もう二度と会わない。

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