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研究より弟子を選んだ夫と離婚
川崎賢斗(かわさき けんと)と、子どもを持たない結婚生活を始めて5年目。思いがけず、私のお腹に小さな命が宿った。 勇気を振り絞って妊娠を告げた私に、賢斗は驚くほど平坦な声で答えた。 「俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」 そう言って、迷いもなく中絶を勧めた。 私はお腹の子への未練も悲しみも胸の奥に押し込め、彼の言うとおりにした。 ところが心まで冷え切るような療養生活を送る中、彼は教え子と人目も憚らず抱き合っていた。 やがて、その教え子が大きなお腹を抱え、家にやってきた。
チャプター (1)
第1章
川崎賢斗(かわさき けんと)と、子どもを持たない結婚生活を始めて5年目。思いがけず、私のお腹に小さな命が宿った。
勇気を振り絞って妊娠を告げた私に、賢斗は驚くほど平坦な声で答えた。
「俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」
そう言って、迷いもなく中絶を勧めた。
私はお腹の子への未練も悲しみも胸の奥に押し込め、彼の言うとおりにした。
ところが心まで冷え切るような療養生活を送る中、彼は教え子と人目も憚らず抱き合っていた。
やがて、その教え子が大きなお腹を抱え、家にやってきた。
第1話
前日に陽性を確認した妊娠検査薬を差し出した時、川崎賢斗(かわさき けんと)は鏡の前でネクタイを締めているところだった。
最近の賢斗は「研究が忙しい」と何日も家に帰らず、広い家には、ほとんど私、川崎なつめ(かわさき なつめ)ひとりしかいなかった。昨夜も帰宅は深夜で、話す間もなく眠り込んでしまった。
「妊娠したの。1ヶ月だって」
口にした途端、胸の奥で小さな波紋が広がった。
賢斗の手が止まる。鏡越しに視線がぶつかった。
「……どうして妊娠なんてしたんだ」
私も不思議だった。子どもを望まない彼に合わせ、毎回欠かさず避妊していた。だからこそ、すべての確率をすり抜けて宿ったこの子は、授かるべくして授かった奇跡ではないかと思ったのだ。
「私、この子を産みたい」
彼は検査薬を一瞥しただけで、軽くため息を吐いた。
「なつめ、困らせるな」
胸の奥が、すっと冷えた。彼はいつも、聞き分けのない子どもをあやすような口調で私の願いを退ける。
唇を動かしたが、言葉は出なかった。
彼はネクタイの結び目を整えると、手を伸ばして私の髪を撫で、額に軽く口づけを落とした。
「まだ早いうちに堕ろしてくれ。俺の研究計画に、子育てを組み込む余裕はない」
声はすぐ耳元から聞こえているのに、まるで水中にいるように思考が遠のいていった。
分かっていたはずだった。
結婚する時、賢斗はこう言ったのだ。
「なつめ、俺はこれからの人生を研究に捧げる。あそこには、生涯追い続けたいものがある。お前と過ごす時間は少なくなる。それでも、一緒にいてくれるか?」
恋に浮かれていた私は、彼を一途な人だと思っていた。けれど結婚5年目の今、あの熱はいつの間にか静かに冷めきっていた。そんな孤独な日々の中で授かったこの子に、私はかすかな光を見たのだ。
その希望の光を、彼は何のためらいもなく消そうとしている。
子どもは研究の邪魔になる。彼にとっては、それだけだった。
今、目の前に立つ、相変わらず大人びて落ち着いた彼を見て、私の心は初めて揺らいだ。
「ひとりで行けるだろう?」
中絶に、ひとりで行けということだろうか。
無理に笑い、せめて一緒に来てほしいと言いかけた。
「悪い、研究室でまだやることがある。先に行くよ」
私は何も言い返せず、何度も頭の中で練った言葉を飲み込んだ。
彼は足早に去っていった。引き止める間さえ与えてくれないほど、あっという間だった。
あとに残された私は、その場に立ち尽くしたまま、そっとお腹を撫でた。
……
第2話
手術の日、私はひとりで病院へ行った。
待合室で名前を呼ばれるのを聞きながら、爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。
冷たい手術台に横たわり、麻酔で意識が遠のいていく。次に目を開けた時には、すべてが終わっていた。
回復室へ運ばれた頃には、外はもう暗かった。
麻酔が切れてくると、私は震える手で賢斗に電話をかけた。
呼び出し音が2度鳴り、切られた。
かけ直しても同じだった。
外ではいつの間にか雲が低く垂れ込め、黒い雲に覆われていた。細い雨がしとしとと降り続き、湿った空気が重くまとわりつく。
胸の奥まで、その息苦しい夜の闇に押し潰されそうだった。
すると、スマホが短く震えた。賢斗からだった。
【今忙しい】
画面に浮かんだのは、たったひとこと。それだけで、私の電話を迷惑そうに眉をひそめて見つめる彼の顔まで浮かんだ。こんな遅くに妻が病院から電話をした理由さえ、気にならないらしい。
スマホを置き、窓を伝う雨粒を見つめた。
また通知が鳴った。今度こそと思い、期待しながら画面を開いた。
だが、送り主は賢斗ではなく、卒業以来ずっと彼についている教え子の三輪玲那(みわ れな)だった。
【奥さん、ご安心ください。今日も私が先生を引き止めて、ちゃんとご飯を食べてもらいましたよ。
食べ終わったら、ちゃんと帰るように言っておきますね。体を壊さないよう、私が見張り役になりますから!】
最後には、愛嬌たっぷりに甘える猫のスタンプがついていた。
仕事の報告のようでいて、どこか親密さを匂わせる文面だった。
彼女から届いたメッセージを呆然と見つめ、私はしばらく戸惑いを隠せなかった。
初めて玲那に会った日のことを思い出した。
当時の賢斗はよく残業をしており、研究室にこもったきり、なかなか家へ帰ってこなかった。
彼の身体が心配でたまらなかった私は、描きかけの絵をそのままにして、差し入れの弁当を届けに行ったことがある。
その時、玲那はまだ研究室に入ったばかりの新人で、賢斗のすぐそばで細い身体を縮こまらせながら手伝いをしていた。
私が入っていくのを目にすると、彼女は賢斗の背中へそっと隠れ、まるで怯えた小動物のような小さな声で「奥さん」と呼んだ。
ひたむきで物静か、そして従順そうな印象の女性だった。誰かと視線が合えば、森の鹿のように潤んだ瞳でこちらを見つめ返し、すぐに賢斗の背後に隠れてしまう、そんな愛らしい子だったはずだ。
けれど、あれから3年という月日が流れた今、玲那はまるで別人のように変貌を遂げていた。
彼女のSNSを開くと、20分ほど前に投稿されたばかりの写真があった。
高級そうなレストランで、ふたりきりで食事を楽しんでいる1枚。
添えられた文章には【出会って3年目の記念日。大好きな彼に感謝】と記されている。
薄暗い照明の中、テーブルにはキャンドルが静かに灯り、ロマンチックな雰囲気がたっぷりと切り取られていた。
向かいの席に座る人物の顔こそ写っていなかったものの、袖口から覗く程よく筋肉のついた腕がはっきりと写り込んでいた。見るからに洗練された、男性の引き締まった綺麗な腕だった。
しかし、私の視線を釘付けにしたのは、その男の手首に光る腕時計だった。それはまさしく、私たちの結婚記念日に、私が賢斗のために贈った腕時計だった。
胸の奥底から苦いものがせり上がってきて、私は自嘲するように笑った。
とっくの昔に気づくべきだったのだ。
私と賢斗の結婚生活は、とうの昔にすり減り、ただの冷たく淀んだ水たまりと化していた。
今、目の前の画面に広がっている光景も、本当はもっとずっと前から容易に予見できたはずだった。
彼はいつも、「研究に夢中なんだ」と私に語っていた。
彼が本当に夢中になっていたのは、研究ではなく、研究室にいる彼女の方だったというわけだ。
病院のベッドで膝を抱える私のお腹は、まだ鈍く引きつるような痛みを絶え間なく放っていた。それがまるで、私の愚かさを嘲笑っているかのように思えた。
窓の外で降り続く冷たい雨音に耳を澄ませながら、ゆっくりと目を閉じる。奥歯をどれほど強く噛みしめても止められないまま、熱い涙が頬を伝い落ちていった。
彼が私の中絶手術に付き添う時間すら作れなかったのも、当然の話だった。何よりも大切な、可愛い弟子のそばにいてやらなければならなかったのだから。
……
第3話
あの雨の夜以降、私はすべてを知らないふりを貫き、ただ自分の傷ついた身体を回復させることだけに専念した。
自宅療養を始めて5日目、ようやく賢斗が帰ってきた。
彼が玄関の扉を開けた時、私はちょうど料理をしている最中だった。
彼は台所に入るなり、背後から私の腰にそっと腕を回し、甘えるように私の背中へぴったりと身体を寄せてきた。
その唐突な行動に驚いて背筋が強張り、思わず振り返って彼を見上げたが、賢斗はすっと視線を逸らした。
「なつめ、俺を呼び戻したのは、何か用でもあったのか?」
彼の大きな手が、私のお腹に触れる。
「子どもは、ちゃんと堕ろしてきたのか?」
私は居心地の悪さを覚え、身をよじって彼の腕から抜け出すと、正面からその目を見つめた。
彼の瞳は深く沈み、底まで静かに凪いでいた。
私が何も言わずにいると、彼はかすかに眉をひそめた。その顔をよぎった苛立ちにさえ、自分では気づいていないようだった。
しばらくの間、彼を見つめ続けた後、私は視線を手元に落とした。
「ええ、堕ろしたわ。先に出ていって。ご飯を作り終えたらゆっくり話すから」
反論の隙など一切与えない落ち着いた声で、私は彼を台所からリビングへと押し出した。
今日、彼がこうして帰ってきたのは、私が何十通ものメッセージを執拗に送り続けた末に、ようやく重い腰を上げた結果にすぎない。
スマホでメッセージを打っていた時の、凍りつきそうに震えていた自分の手の感覚を、今でもはっきりと覚えている。
我に返ると、手のひらにはまだ、さっき賢斗に触れられた時の温もりがかすかに残っていた。
けれど、さっきあまりにも距離が近かったせいで、彼の衣類から漂う、決して彼のものではない甘ったるい香水の匂いに、気づいてしまった。
コンロの火を止め、料理を皿へと盛り付ける。
皿を持ってリビングに出た時、そこには賢斗だけでなく、もうひとりの女性の姿があった。
ふんわりとしたピンク色のワンピースに身を包み、緩やかに巻いた艶やかな髪を肩に垂らした彼女は、白い肌をより一層際立たせ、とても健康的な血色の良さを見せていた。
ソファに腰かけたその女性の姿を見て、私は一瞬、息を呑んで固まった。
賢斗の可愛い弟子、玲那だった。
私を見た彼女は、これ以上ないほど華やかで愛らしい笑みを浮かべた。立ち上がる素振りすら見せず、ソファに座ったままの姿勢で甘ったるい声を出す。
「奥さん、お久しぶりです」
かつての怯えたような弱々しい様子は、もうどこにも残っていなかった。
言葉を返せないまま、私は無理やり笑みを作り、視線を彼女のそばに立つ賢斗へと移した。
「ああ、玲那が久しぶりになつめに会いたいって言うからさ。一緒に連れてきたんだ」
その言葉を聞きながら、私は皿を持つ手に、関節が白くなるほど力がこもるのを感じた。
今日、賢斗を呼び戻したのは、彼と玲那の関係を面と向かって問い質すためだったのだ。
けれど、堂々と目の前に広がるこの光景を見てしまえば、胸がえぐられるように痛むと同時に、心の奥底が麻痺していくのを感じた。
もう、わざわざ口に出して確かめる必要など、どこにもなかったのだ。
私は料理を食卓に並べる。
玲那は嬉しそうな声を上げて、ダイニングの椅子に腰かけた。
私は彼女の向かいの席に座り、自分の箸を手に取ると、ただ黙って彼女の仕草を見つめ続けた。
「わあ、これ全部奥さんが作ったんですか?」
そう言いながら、彼女は遠慮なく豚キムチを箸でつまみ、口に運んだ。
「美味しい!」とぱっと目を輝かせたのも束の間、彼女はすぐに眉をひそめてみせた。「でも、辛すぎますね。賢斗さんは辛い料理、苦手なのに」
……
第4話
賢斗が辛いものを苦手なことくらい、私が一番よく知っている。
彼に嫁いだあの日から5年間、私はずっと彼の舌に合わせて、かつて自分が好きだった刺激的な料理を封印し、あっさりとした優しい味付けに変えてきたのだから。
けれど今日はどういうわけか、まるで自分の中の何かに導かれるかのように、食卓を辛い料理ばかりで埋め尽くしてしまっていた。
賢斗が冷ややかな一瞥をこちらへ向けると、玲那のすぐ隣の椅子に腰を下ろした。
口いっぱいに頬張る彼女を見て、彼はテーブルの上のティッシュを1枚手に取り、いかにも慣れた手つきで汚れた口元を優しく拭ってやった。
「そんなに慌てないで、ゆっくり食べろ。お腹……」
そこまで言ってから無意識の失言に気づいたのか、賢斗はふと私の方に目をやり、慌てて残りの言葉を飲み込んだ。
玲那はその言葉を聞くと、まるで条件反射のように、お腹を庇うようにそっと手を添えた。そして賢斗に向かって舌をぺろりと出し、小さく甘えるように呟く。
「先生が言ってくれないと、つい忘れちゃうところでした。さすが先生、とっても優しいんだから」
ふたりは声を潜めて話していたが、その内容はしっかりと私の耳に届いていた。
玲那がお腹に添えたその手に視線を移した時、私は初めてある事実に気がついた。
ピンクのワンピースの下、彼女の腹部はわずかに妊婦特有の膨らみを見せていた。それは明らかに、妊娠して数ヶ月が経っていると分かる膨らみだった。
思わず、息を呑む。
玲那が、妊娠していた?
「奥さん」
私の思考を遮るように、玲那が口を開いた。箸を置き、いかにも申し訳なさそうな顔をする。
「私が悪いんです。せっかく妊娠してるのに、こんなに辛いものなんて食べちゃって。赤ちゃんに良くないですよね」
頭の中で、張り詰めていた糸がぷつりと音を立てて切れた。ありえないと思いながらも、すべての辻褄が合う考えが、脳裏に浮かび上がった。
玲那は口元に微かな笑みを浮かべ、得意げな光を宿した瞳で、私を見つめていた。
箸を握る手に力を込め、まっすぐに彼女の瞳を見据える。
「……そのお腹の子は、賢斗の子なの?」
込み上げる感情を無理やり抑え込み、できる限り平坦な声でそう尋ねた。
彼女の肩が明らかに強張った。まるで不意打ちで突きつけられたかのように、言葉を失っていた。
椅子に座っていた賢斗が、勢いよく立ち上がった。激しい怒りに満ちた険しい表情で、こちらを睨みつけてきた。
「なつめ、それはどういう意味だ!」
茶碗のご飯を箸でつつきながら、私は何でもないふりをしていた。けれど胸の奥では、激しい憎しみが渦巻いていた。
その瞬間、はっきりと悟ったのだ。賢斗もしょせん、こんなものだったのだと。表面は輝いていても、中身は腐りきっていた。根っこの部分は、いつからかとうに腐り果てていたのだ。
長年連れ添った夫婦なのだ、彼のこんな下手な演技くらい見抜けないはずがなかった。
きっと本人すら気づいていないのだろうが、嘘をつく時、彼の視線はいつも必ず不自然に泳ぐのだ。今のように、どれほど怒りを装ってみせたとしても。
「そんな。奥さん、考えすぎですよ。私と賢斗さんの間には、本当に何もありませんから!」
そう言いながら、彼女は困り顔を作り、目元をほんのりと赤く染めて、声を細かく震わせ始めた。
「全部私が悪いんですよね……私が今日お邪魔しなければ、奥さんがこんな誤解をすることもなかったのに」
玲那は今にも泣き出しそうな顔で、賢斗の袖をつかんだ。
「賢斗さん、お願い……先に送ってくださいっ。私が悪かったですから」
賢斗はなかなか動こうとしなかった。激しい呼吸で胸を上下させながら、その鋭い視線だけは確かに私に注がれていた。
私は静かに微笑み、手元の箸を置いた。
私は後悔の色など一片も見せず、まっすぐに彼を見つめる。
「ねえ賢斗。賭けをしない?」