桃アレルギーの私を忘れた彼

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桃アレルギーの私を忘れた彼

GoodNovel 完結

私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。 場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。 罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。 三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。 「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」 そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。 「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」 「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」 ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。 ただ、私の前だけが空いていた。 渉の手元には、もう何も残っていない。 その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。 「遥那さんの分は?」 渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。 「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」 すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。 「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」 周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。 でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。 みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。 けれど渉は、本当に忘れている。 付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。 私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。 四年も、ずっと見ないふりをしてきた。 もう、離れるべきだ。

チャプター (1)

第1章

私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。 場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。 罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。 三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。 「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」 そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。 「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」 「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」 ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。 ただ、私の前だけが空いていた。 渉の手元には、もう何も残っていない。 その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。 「遥那さんの分は?」 渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。 「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」 すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。 「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」 周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。 でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。 みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。 けれど渉は、本当に忘れている。 付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。 私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。 四年も、ずっと見ないふりをしてきた。 もう、離れるべきだ。 第1話 私、水原遥那(みずはら はるな)は、その日、恋人の藤宮渉(ふじみや わたる)に誘われて、共通の友人たちの集まりに顔を出していた。 場が盛り上がった流れで、罰ゲームつきの王様ゲームをすることになった。負けたのは渉だった。 罰ゲームの内容は、近くのカフェまで行って全員分のドリンクを買ってくること。 三十分ほどして、渉は紙袋をいくつも提げて戻ってきた。笑いながら、ひとつずつテーブルに並べていく。 「お前、二日連続で徹夜してるんだろ。アイスコーヒーにしといた」 そう言って友人の前にカップを置くと、渉は今度、夏川茉莉(なつかわ まり)のほうを向いた。 「茉莉はマンゴーラッシー好きだったよな。ナタデココ入りで合ってる?」 「これはお前の。レモンティー、氷なし。いつものやつ」 ひと通り配り終えると、テーブルの上には人数分のドリンクが並んでいた。 ただ、私の前だけが空いていた。 渉の手元には、もう何も残っていない。 その場にいた全員が、一瞬だけ目を瞬かせた。 「遥那さんの分は?」 渉は少しも慌てた様子を見せず、自分のピーチティーを私のほうへ寄せた。 「忘れた。でも、遥那は俺のを飲めばいいだろ」 すぐに友人の一人が、大げさに肩をすくめた。 「うわ、またそれかよ。集まりのたびに忘れるじゃん。仲いいアピールするなら、もうちょっと別のパターンにしてくれって」 周りは笑いながら、軽い調子で茶化していた。 でも、私はそのカップに手を伸ばせなかった。 みんなには、私たちが仲のいい恋人同士に見えているのだと思う。 けれど渉は、本当に忘れている。 付き合って四年目になっても、彼はまだ、私が桃アレルギーだということを覚えていない。 私はピーチティーを、そっとテーブルの中央へ押し戻した。 四年も、ずっと見ないふりをしてきた。 もう、離れるべきだ。 …… 茉莉はストローを挿すなり、ひと口飲んでぱっと顔を上げた。 「すごい。この前、私が何気なくナタデココ多めがいいって言ったの、覚えててくれたんだ」 渉は、さらりと言った。 「茉莉のこと、俺が忘れたことあった?」 同じテーブルにいた友人たちが、すぐに茶化し始めた。 「はいはい、記憶力いいのはもう分かったから」 「遥那さんが羨ましいよ。渉、その記憶力なら、記念日も誕生日も絶対忘れなさそうじゃん」 渉は笑って、こちらを振り向いた。 私はミネラルウォーターを口にしながら、目を伏せたまま何も言わなかった。 「飲まないのか?」 渉はそれだけで察した気になったらしい。 ピーチティーにストローを挿し、自分で先に口をつけてから、何事もなかったように私の手元へ寄せた。 「大丈夫。そんなに冷たくないから」 向かいの友人たちは、また始まったと言いたげに口元を緩めていた。 私は差し出されたカップに視線を落とした。 中には、氷がまだごろごろ残っている。 そこへ、茉莉がこちらに身を寄せてきた。 「渉、私それ飲んだことない。ちょっと味見してもいい?」 「いいよ」 答えたのは渉だった。 私が何か言う前に、ピーチティーは渉の手に移っていた。 茉莉は受け取ろうとせず、渉が持ったままのカップに顔を近づけた。 そのままストローに口をつけ、しばらく飲み続ける。 気づけば、中身は半分近くまで減っていた。 「やば、ちょっと飲みすぎたかも」 茉莉は悪びれもなく笑い、自分のマンゴーラッシーを私のほうへ滑らせた。 「遥那さん、ごめんね。けっこう飲んじゃった。よかったら、私の飲む?」 それは、茉莉がもう半分以上口をつけたものだった。 私は首を横に振った。 「いらない」 「飲んでよ。もしかして、間接キスとか気にしちゃうタイプ?女の子同士だし、大丈夫でしょ」 明るい声でそう言うと、茉莉はわざとらしく背筋を伸ばし、びしっと片手を上げてみせた。 その妙に真面目ぶった仕草がツボに入ったのか、周りの友人たちは顔を見合わせたあと、こらえきれないように吹き出した。 すぐに、部屋中に笑い声が広がる。 渉は笑いながら呆れたように首を振り、茉莉は自分でもおかしくなったのか、肩を震わせて笑っていた。 渉の幼なじみたちの集まりに、私はもう何度も顔を出してきた。 それでも、こういう身内だけで盛り上がる流れには、いつも置いていかれる。 笑い声がようやく落ち着いたころ、誰かが私をちらりと見て、すぐに視線をそらした。 渉の顔から、笑みが消えた。 「茉莉は謝っただろ。まだ何が気に入らないんだよ」 私は、かすかに眉を寄せた彼を見つめた。 別に、茉莉を責めたかったわけじゃない。 ただ、あの冗談と謝罪がどう結びつくのか、私には分からなかっただけだ。 けれど渉は、茉莉のマンゴーラッシーを取り上げると、私の前にあったピーチティーも一緒に彼女へ渡した。 「遥那が飲まないならいい。両方、茉莉が飲めば」 それから、苛立ちを隠そうともせずに私を見た。 「遥那、そんなくだらないことで空気悪くするなよ。 茉莉だって、わざとじゃないんだから」 隣で、茉莉がぽつりと言った。 「いいの。私が悪いんだし」 茉莉は二つのカップを抱えて席に戻った。 うつむいた横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。 さっきまでの笑い声が、嘘みたいに消える。 誰かが慌てて明るい声を出した。 「ほら、続きやろう。次、別のゲームにしない?」 けれど渉は、もうすっかり興が冷めたようだった。 ソファにもたれて、黙ってスマホをいじっている。 私たちが付き合い始めて、四年目になる。 渉は、茉莉のマンゴーラッシーにはナタデココを多めにすることも、友人が何日も徹夜続きだったことも覚えている。 それなのに、私が桃アレルギーだということだけは覚えてくれない。 さっきのピーチティーを本当に口にしていたら、今ごろ私は救急車で運ばれていたかもしれない。 第2話 それでも渉は、きっと私の運が悪かったか、体が弱かっただけだと思うのだろう。 渉は黙り込み、茉莉もうつむいたままだった。 さっきまで騒がしかった空気が、嘘みたいに重くなる。 そのとき、スマホが鳴った。 席を立ってトイレへ向かう途中、背後で誰かが小さく息をつくのが聞こえた。 扉を閉める。 その途端、向こう側から明るい声が上がった。 「ほらほら、続きやろう。茉莉も一枚引いて。まずチーム分けね」 茉莉が小さく鼻をすすった。 「渉はもう引いた?」 「とっくに引いたよ。ほら、茉莉も早く」 私は扉に背を預け、喉の奥にこみ上げるものを無理に飲み込んだ。 電話口で、人事部長が言った。 「本当に退職するの?来月から主任に昇格する予定だったでしょう?」 私は目を閉じた。 壁の向こうでは、渉と茉莉の組が勝ったらしい。歓声のあと、ぱん、と手を合わせる音が聞こえた。 「はい。もう決めました」 人事部長はしばらく黙ったあと、あきらめたように退職日までの手続きと引き継ぎについて話し始めた。 電話を切って席へ戻ると、さっきまでいた部屋は空になっていた。 店員が片づけをしていて、私に気づくと少し驚いた顔をした。 「あの、お客様。先ほどの皆さまのお連れ様ですか?藤宮様たちでしたら、海辺でバーベキューをするそうで、もうお会計を済ませて出られました」 握りしめていた拳から、ゆっくり力が抜けていく。 私は小さく息を吐いた。 また、忘れられた。 …… 遅い時間だったせいで、タクシーはなかなかつかまらなかった。 ようやく乗れたころには、もうすっかり夜が更けていた。 家に着き、玄関のドアを開けたところで、渉から電話がかかってきた。 出るなり、責めるような声が飛んできた。 「なんで車に乗らなかったんだよ。 茉莉がお前のピーチティーをちょっと飲んだくらいで、そこまで拗ねることか?こっちはずっと探してたんだぞ」 私はうつむいたまま靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。 「みんなが出るとき、私はトイレで電話してた」 電話の向こうで、渉が数秒黙った。 それでも、口調はきついままだった。 「そんなに長く話すような用だったのかよ」 つまり、私が悪いらしい。 一拍置いて、渉は言った。 「今夜はまだ長くなりそうだから。悪いけど、帰りは自分でなんとかしてくれ」 私が何か言う前に、電話は切れた。 通話が切れた画面に、大学の卒業式の日に撮った、渉と私の写真が映っていた。 あの頃の渉は、いつだって私を優先してくれた。 食事は私の好きな店を選び、服も私に似合いそうなものを探してくれた。 私の誕生日だって、二か月も前から準備してくれた。 渉は大学でも成績がよく、記憶力のよさでも知られていた。 朝、私がたまごサンドをおいしいと言えば、翌日には同じものを私のアパートまで届けてくれた。 何気なくカフェラテが飲みたいと言ったときも、私自身がそんなことを忘れかけたころに、渉は汗を拭いながらペットボトルを差し出してくれた。 「常温のにしといた」 そう言って、キャップまで開けてから私の手に渡してくれた。 卒業式の日、レンタルした袴を私がきれいだと言うと、渉は後日、同じ柄の一式を買い取ってくれた。 いつか前撮りをするときにも使おう、と言って。 けれど先月、渉はそれを返し忘れたレンタル品だと思い込んだらしい。 場所を取るからと、何の断りもなく処分してしまった。 代わりに、その棚には小さなアクセサリーボックスが置かれていた。 どれも品がよくて、いかにも茉莉が好きそうなものばかりだった。 茉莉の誕生日はまだ半年も先なのに、今から少しずつ用意しているのだと、渉は言った。 しばらくの間、私は何も言えず、その箱を見つめていた。 渉は、記憶力が悪いわけじゃない。 むしろ、いいほうだ。 箱の中身を見れば分かる。 茉莉の好きな色も、好みのデザインも、彼はちゃんと覚えている。 渉の中で、茉莉はずっと残しておきたい人なのだろう。 私はきっと、今だけそこにいる人間でしかない。 必要がなくなれば、静かに片づけられる。 翌日の昼過ぎ、渉は茉莉と笑い合いながら帰ってきた。 「覚えてる?高二のとき、授業サボって二人でバーベキュー行ったじゃん。渉、裏口のフェンスにズボン引っかけて破いてさ。先生に聞かれたとき、猫にやられたって言い張ってたやつ」 渉は茉莉を、肘で軽くつついた。 「よく言うよ。お前がどうしても行きたいって騒がなきゃ、俺だってそんなことしなかっただろ」 茉莉は舌を出してごまかすように笑い、そのまま自分で吹き出した。 ふと私に気づくと、笑顔のまま言った。 「遥那さんも来ればよかったのに。海辺で食べるバーベキュー、ほんと最高だったよ」 私は適当にうなずいて、渉に目を向けた。 「渉、話がある」 「あとでいいだろ。茉莉がわざわざドリンクスタンドで作り方を教わって、二杯作ってきてくれたんだ。こっちがお前の分」 渉は有無を言わせない調子で、カップを私の手元に押しつけた。 そのとき初めて、渉がもう片方の手にもカップを持っていることに気づいた。 マンゴーラッシーだった。 ナタデココが多めに入っていて、中身はもう半分ほど減っている。 「遥那さん、これ、私が作ったピーチティーなの。桃の味、ちょっと濃いめにしてみたから、早く飲んでみて」 第3話 私はカップをそのままテーブルに置いた。 「ありがとう。二人で飲んで」 茉莉は「え」と小さく声を漏らし、首をすくめた。 「遥那さん、そんな顔しなくても。私、口つけてないよ?」 渉は眉をひそめ、私の腕を引いてベランダへ出ると、声を低くした。 「お前、何してるんだよ。せっかく茉莉が作ってくれたのに、あんな断り方したら気まずくなるだろ」 私は渉の目を見返した。 「桃は、無理なの……」 「桃って……お前、ピーチティー好きだっただろ。茉莉が作ったから嫌なのか?」 あまりにも話がかみ合わなくて、急にばかばかしくなった。 出会ったばかりの頃、私は桃アレルギーだと伝えたはずだった。 桃のうぶ毛を少し吸い込むだけでも、息が苦しくなる。 まして、口にするなんて論外だった。 それなのに渉は、いつから私がピーチティーを好きだと思い込むようになったのだろう。 私が黙っていると、渉は深いため息をついた。 「あの日、お前のドリンクを買い忘れたからか?それとも、茉莉がお前の分を飲んだから? 最近のお前、ちょっと気にしすぎだろ。俺と茉莉は幼なじみだけだ。嫉妬するにしても、茉莉にぶつけるなよ」 ふと、渉はベランダに干してあった私の仕事用のスーツがなくなっていることに気づいた。 明日のために取り込んだのだと思ったのか、渉の声が少しだけやわらいだ。 そして、私の手首をそっと握った。 「もう怒るなって。もうすぐ主任になるんだろ?そんなことで拗ねてたら、部下に示しがつかないぞ。 今の仕事がひと段落したら、来月、夜景のきれいなレストラン連れてってやるから。二人でゆっくり飯食おう。な?」 私は何も言わず、手首を引いた。 渉は一瞬、戸惑ったように私を見た。 そのとき、茉莉が目を赤くしてベランダの入口に立っていた。 「ごめんね、遥那さん。私、もう余計なことしないから。私のせいで喧嘩しないで」 それだけ言うと、茉莉は逃げるようにリビングを横切り、玄関のほうへ走っていった。 渉の顔が、すっと強張った。 「これで満足か?」 渉は上着をつかみ、茉莉を追いかけようとした。 私は渉を呼び止めた。 「渉、私の誕生日、覚えてる?」 渉は玄関を出かけたところで足を止めた。 「いつだっけ。最近忙しくて、俺……」 「昨日」 本当は、渉の幼なじみたちの集まりになんて行きたくなかった。 ただ、その集まりも私の誕生日のためなのだと、どこかで期待していた。 渉の肩がわずかに強張った。 気まずそうな顔をしたのは、ほんの一瞬だけだった。 エレベーターの到着音が鳴ると、渉は振り切るように外へ出ていった。 「家で待ってろ。ケーキ買ってくる。帰ったらちゃんと祝うから」 ドアが閉まると、部屋はしんと静まり返った。 握りしめていた服の裾を離して初めて、手のひらが冷えきっていることに気づいた。 夜八時になっても、渉は帰ってこなかった。 不安になって電話をかけると、電話口の渉の声は弾んでいた。 「聞いてくれよ。茉莉が高校の先生に会いたいって言ってたら、その先生がたまたまこっちに来ててさ。みんなも呼んだから、これから集まることになった」 私は、すっかり冷めた料理を見つめた。 テーブルの真ん中に置いたアイスケーキは溶けて、皿の上に広がっていた。 「でも、渉。ケーキを買って帰るって……」 言い終わる前に、通話は切れた。 ほどなくして、渉からメッセージが届いた。 【こっち騒がしくて電話だと聞こえない。終わったら帰る。先に寝てて】 画面を見つめたまま、何も返せなかった。 しばらくして、茉莉のインスタを開いた。 一番上に出てきたのは、渉が茉莉の皿に料理を取り分けている動画だった。 「これ、私が好きだったの覚えててくれたんだ」 「忘れるわけないだろ。茉莉のことなんだから」 私は目を閉じた。 そのとき、スマホが震えた。 新しいメールが一通届いていた。 【水原遥那様。 このたびは採用内定、誠におめでとうございます。 つきましては、明後日午前八時までに入社手続きへお越しくださいますようお願いいたします】 私は立ち上がり、料理もケーキもまとめてゴミ箱に捨てた。 渉に任せたら、違うものを買ってきそうな気がしていた。 だからケーキは、自分で予約しておいた。 長く置きすぎたアイスケーキは、もう原形を留めていなかった。 「誕生日おめでとう」と書かれたチョコプレートも、溶けたクリームに沈みかけている。 私はしばらくそれを見下ろしてから、ゴミ箱のふたを閉めた。 もう、待たない。 渉が帰ってきたのは、日付が変わってからだった。 「まだ起きてたのか?悪い、ケーキ買うの忘れた。これ、茉莉がお前にって選んでくれた。昨日のお詫びだってさ」 振り返らなくても、それが桃のミルクレープだと分かった。 「あなたが食べて」 「遥那、いい加減にしろよ。いつまで拗ねてるんだ。茉莉はわざわざ……」 第4話 「桃アレルギーなの」 背後で、フォークの音が止まった。 「いつから?」 「生まれつき」 渉の声が、少し荒くなる。 「だったら先に言えよ。茉莉がわざわざ選んでくれたのに、無駄になっただろ」 私は振り返り、ケーキフォークを握ったまま不満そうにこちらを見る渉を見た。 私の顔色を見て、渉もようやく何かおかしいと気づいたらしい。 表情は少し和らいだ。 けれど、口を開けばやはり、面倒な相手をなだめるような言い方だった。 「分かった、分かった。これからは桃味のものは買わない。それでいいんだろ」 そう言って、渉は面倒くさそうに息を吐いた。 まるで、自分はもう十分譲ったのだから、私はそれで納得するべきだと言われているようだった。 最初から最後まで、渉は私がただ拗ねているだけだと思っている。 少し機嫌を取れば、それで済む話なのだと。 「うん」 私は短く返事をして、必要な書類をバッグに入れた。 渉はケーキを食べながら、ちらりとこちらを見た。 「出張?」 「実家に帰る」 渉は軽くうなずいた。 「そっか。しばらく帰ってなかったよな」 そこで何かを思い出したように、渉は続けた。 「あ、そうだ。前にお前が持ってきた飲むヨーグルト、茉莉がうまいって言ってた。辛味噌も気に入ってたし、帰るなら多めに買ってきてやって。 辛味噌は原材料見とけよ。茉莉、ピーナッツ入ってるの無理だから」 私は返事をしなかった。 渉はそれ以上確認もせず、引き出しを開けて透明な袋を取り出した。 「これも持ってけ。移動中に食べればいい」 中に入っていたのは、食べかけのポテトチップスと、半分だけ残ったチョコレートだった。 数日前に茉莉が遊びに来たとき、渉は彼女のために袋いっぱいのお菓子を買い込んでいた。 その残りが、これだった。 私は渉の横を通り過ぎ、バッグにポケットティッシュを入れた。 渉の声が低くなる。 「まだ怒ってるのか? だから、もう桃味のものは買わないって言っただろ。これ以上どうしろってんだよ。 まあいい。実家で少し頭冷やしてこい。戻ってきたら、昨日言ってたレストランでちゃんと話そう。 茉莉が、もう予約してくれてるから」 私は背を向けたまま、静かに首を横に振った。 「いい。高いところ、苦手だから」 次の瞬間、腕をつかまれた。 ぐっと引かれて、無理やり振り向かされる。 「高いところが苦手なんて、聞いてないぞ。 遥那、俺って何なんだよ。彼氏じゃないのか。 桃のことも、高いところのことも、黙ってたら分かるわけないだろ。こっちは知らなかっただけなのに、そんなに怒るなよ」 私は何も言わず、怒りをこらえた渉の顔を見返した。 付き合い始めた頃、渉はよく言っていた。 遥那は隠し事が下手だから、いいことがあっても、嫌なことがあっても、顔を見ればすぐ分かる、と。 けれど今の渉は、私の顔を見ても何も分からない。 覚えていたはずのことまで、全部忘れている。 テーブルの上でスマホが鳴った。 渉は私から手を離し、画面を見て電話に出た。 茉莉の声は、こちらにもはっきり聞こえた。 「どうだった?遥那さん、食べてくれた?もう仲直りしたよね?」 渉はうんざりしたように眉間を押さえた。 「いや。桃アレルギーだから食べられないって」 「え、そんな……ごめんね。私、遥那さんが桃だめなんて知らなかったから。また喧嘩になっちゃった?どうしよう、余計なことしちゃった……」 茉莉は慌てた様子で、何度も謝っていた。 私は渉の背中を見た。 渉は大きく息を吸ってから、低い声で言った。 「茉莉は悪くない。自分で言わなかった遥那が悪いんだろ」 そう。 全部、私が悪い。 私はしゃがんで靴に足を入れ、紐を結んだ。 「泣くなって。茉莉は悪くないだろ。気を遣って買ってきてくれただけじゃん。 俺だって、遥那が桃アレルギーだなんて知らなかったんだ。茉莉が分かるわけない」 玄関脇に置いていたスーツケースを引き寄せる。 渉が茉莉をなだめる声を背中で聞きながら、私は口を開いた。 「三年前、初めてあなたの幼なじみの集まりに連れていってくれたとき、私が桃アレルギーだから、桃の入ったものは頼まないでって、みんなに言ってたよね。 友人の誕生日にバンジージャンプへ行く話が出たときも、私が高いところは苦手だから行かないって、あなたが先に断った」 渉は何か言いかけた。 けれど、言葉にはならなかった。 私はドアを開け、スーツケースを引いてエレベーターに乗った。 「渉」 閉まりかけた扉の向こうで、渉はまだスマホを握ったまま立っていた。 距離が離れて、茉莉の声はもう聞こえなかった。 「もう、ここには戻らない。別れよう」

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