ディリアン公爵様、奥様が離婚を望んでいます!

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ディリアン公爵様、奥様が離婚を望んでいます!

GoodNovel 完結

真実を知った時、わたくしは最悪な死を選んだ。 これまで五度も流産したのは、わたくしの体が弱いからではなかった。 その原因は、夫が最初から、わたくしに自分の子どもを産ませるつもりなどなかったのだ。 二年前に生まれ変わったわたくしは誓った。この人生では、必ず彼から離れてみせると。 しかし、それでもなお、彼はわたくしにつきまとい続ける。なぜなら、わたくしの体の中には、すでに彼の子どもが宿っているのだから。

チャプター (1)

第1章

真実を知った時、わたくしは最悪な死を選んだ。 これまで五度も流産したのは、わたくしの体が弱いからではなかった。 その原因は、夫が最初から、わたくしに自分の子どもを産ませるつもりなどなかったのだ。 二年前に生まれ変わったわたくしは誓った。この人生では、必ず彼から離れてみせると。 しかし、それでもなお、彼はわたくしにつきまとい続ける。なぜなら、わたくしの体の中には、すでに彼の子どもが宿っているのだから。 第1話 「奥様!」「奥様ぁー!」 叫び声が下から響いた。 人々の視線が一斉に、城で最も高い塔へと向けられる。 そこには、血に染まった白いドレスを身にまとい、一人の女性の姿があった。 セレーネ・モロー・レヴェンティス。 レヴェンティス公爵夫人。 いつもは穏やかで従順な彼女が、今この城で最も危険な場所に立っている。 背後では近衛兵たちが息を殺し、一歩の誤りが彼女を本当に飛び降りてしまうことを恐れ、慎重に距離を保っていた。 嗚咽が、はっきりと、胸を裂くように夜気を震わせる。 セレーネは痛みに顔を歪め、腹部を強く押さえていた。 五度目の流産。 今回は、彼女は真実を知っていた。 それは病でも、身体の弱さでもない。 すべては、跡継ぎを望まなかった、夫自身の仕業だった。 「セレーネ!」 低く重い声が背後から響いた。 振り向かなくても分かる――ディリアン――彼女の夫であり、この国の公爵だ。 セレーネは声を聞いても、振り返らなかった。 失望は、もはや振り向くことすら許さないほど深かった。 「俺の注意を引くための、またくだらない芝居か?」 冷たい声。 彼は面倒ごとを嫌う男だった。 ここへ来たのも、妻が塔に立っているという噂に耐えられなかっただけ。 セレーネは、かすかに苦笑した。かすれた声で、静かに答える。 「……まず、謝罪なさるべきではございませんか?」 視線の先には、侍女たちに囲まれて立つ一人の美しい女性がいた。 整った身なり。乱れた自分とは正反対。 ディリアンに愛される女。 彼の目には、決して自分など映らない存在。 「狂ったのか?」 嘲るような声。 セレーネはゆっくりと振り返り、夫を見つめた。 彼の目は赤く染まっていたが、その奥は氷のように冷たい。 「はい、狂っておりますわ」 そう、はっきりと告げる。 「あなたを愛してしまったがゆえに。そして、自分の五人の子どもを、あなた自身が殺されたからです!」 夜気が凍りついた。 近衛兵たちが息を呑み、ディリアンも一瞬言葉を失う。 「セレーネ、馬鹿なことを言うな」 感情を抑えようとする声。 セレーネは、血に染まるドレスのまま、哀しげに笑った。 「一度でも、わたくしを愛してくださったことはございますか?」 縋るような視線。 沈黙。 そして、彼は視線を逸らした。 「やはり、一度もございませんね」 自分の口から出た言葉が、刃となって胸に突き刺さる。 セレーネは震える息を吸い込んだ。 「もういい。降りろ、休養が必要だ」 「そのような偽りのご配慮はおやめください!」 セレーネは叫び、涙を零す。 「いっそ、わたくしを殺してくださればよろしかったのです!なぜ、何の罪もない子どもたちを……!」 「セレーネ、やめろ! 今すぐ降りろ!」 命令の声。 しかし、セレーネは一歩、後ろへ下がった。 「わたくしは飛び降り、死んで参ります。そして、子どもたちに謝るのです。 守れなかった母として、父親に殺されたことを」 「やめろ、セレーネ! 死ぬな!」 珍しく焦りを滲ませた声。 だが、セレーネは微笑んだ。 「わたくしの子どもたちの魂に誓います。あなたは必ず報いを受けるでしょう。 一生、後悔と苦しみに苛まれ続けるのです」 そして―― 彼女は、身を投げた。 「セレーネ!」 ディリアンが叫び、兵たちと共に塔の縁へ駆け寄る。しかし、間に合わなかった。 骨が砕ける音。 血が地に広がる音。 セレーネの瞳は、まだ開いていた。 最後に映ったのは、塔の上から覗き込む、取り乱したディリアンの顔。 悲鳴が、夜を引き裂く。 星一つもない暗い空が、レヴェンティス公爵夫人の悲劇を静かに見下ろしていた。 …… 「……セレーネ!」 はっとして、セレーネは目を見開いた。 息が荒く、溺死から救われた人のようだった。 目の前に立っているのは、ディリアン・レヴェンティス。 冷静で、冷酷で、鋭い眼差し。 背後には医師と侍女たち。薬の匂いが部屋に満ちている。 すべてが現実のように感じられた。 まるで、かつて彼女の命が尽きたあの舞台と同じように。 視線を横に向け、小さな机の上の時計を見つめた。 この日は、彼女が死ぬ二年前だ。 夜風が、わずかに開いた窓から入り込み、塔から落ちたあの夜と同じ匂いを運んできた。 記憶が蘇る。 体は地面に激突し、凄まじい痛み、そして暗闇に包まれた。 腹部に手を伸ばす。 包帯に覆われ、温かく、血が滲んでいる。 死んだはずなのに、生きている。 「奥様、手から出血しております。すぐに点滴を」 医師の声に、セレーネは硬直したまま頷く。 「医者の邪魔をするな」 ディリアンの苛立った声。 セレーネは深く息を吸った。 脳裏に浮かぶのは、自分の亡骸、人々の悲鳴、そして―― 生まれることのなかった、五つの命。 ゆっくりと、夫を見上げる。 静かで、はっきりとした声。 「ディリアン様」 「何だ」 セレーネは、真っ直ぐ彼の目を見つめた。 「離婚しましょう」 第2話 セレーネの口からその言葉が出た瞬間、ディリアンの表情は一変した。 医師や侍女たちの前で、彼の威厳を踏みにじる、屈辱の言葉。 部屋は一瞬で静まり返る。 医師は包帯を巻く手を止め、侍女たちは息を呑み、時計の秒針さえも緊張に縛られたかのように感じられた。 ディリアンは妻を睨みつけた。 普段は冷え切ったその顔が、羞恥と怒りで赤く染まっている。 「お前、今、何を言った?」 一瞬、言葉に詰まり、次の瞬間には嘲りへと変わる。 セレーネは背筋を伸ばし、彼を正面から見据えた。 声は静かだが、揺るぎはない。 「離婚しましょう」 その言葉は、平手打ちのように場を打った。 その場にいた全員が息を呑む。 ディリアンはしばし黙り込み、信じられないものを見るように彼女を見た。 これまで自分を愛しているように見えた女が、ここまで冷酷な言葉を吐くなど、想像すらしていなかったのだ。 やがて、彼は鼻で笑った。 「冗談はよせ、セレーネ。面白くもない」 だが、セレーネは一歩も引かなかった。 胸の奥で燃える炎は、もはや一時の怒りではない。 二年間、彼女にとっては死と変わらぬ時間が紡いだ、解放の炎。 ディリアンの無関心な視線も、屋敷に広がる噂も、そして、家庭を壊す女の顔さえも。 すべてを過去の人生で経験していた。 今、彼女は黙っていないことを選んだ。 流産直後で身体はまだ弱い。 それでも、セレーネはしっかりと身体を起こした。 医師がためらいがちに口を開く。 「奥様、無理はなさらぬよう。まだ流産されたばかりです。それに奥様の子宮に……」 その視線を冷たく受け止める。 またそれか。「子宮に問題」という、いつもの言い訳。 「承知しております」 淡々と答え、ディリアンを見据える。 「後継を産めない妻に、あなたが執着なさる理由はございません。今すぐ、わたくしと離婚なさってください」 ディリアンの身体が強張る。 一瞬だけ、彼の目に何かがよぎった、罪悪感か、苛立ちか。 だが、それはすぐに嘲笑に塗り潰された。 「どうやら子宮に問題があるだけじゃないらしいな。脳みそまで壊れたか」 刃のような言葉。 侍女の何人かが思わず口を覆う。 セレーネにとって侮辱は珍しくない。 それでも、痛みは確かに胸を刺した。 「きちんと診察しろ」 ディリアンは冷たく医師に命じる。 「それから、彼女を閉じ込めておけ。流産で完全に気が触れたら困る」 セレーネは拳を握り締め、震えを抑える。 「ディリアン様、本気です!」 声を張り上げた。 「狂ってるのか、セレーネ?!」 怒号が部屋中に反響し、全員が凍りつく。 囁き声が広がる。 同情する者もいれば、驚愕する者もいる。そして、密かに他人の不幸を喜ぶ者もいた。 ディリアンは手振りで全員を追い出した。 「休め。お前には回復が必要だ」 そして、皮肉を込めて付け加える。 「悲しんでいるのはお前だけじゃない。俺もだ」 セレーネには、それがまた一つの嘘にしか聞こえなかった。 やがて部屋には、彼女一人。 忠実な二人の侍女も、自ら下がらせた。 窓の外を見ると、レヴェンティス家の馬車が屋敷を後にするところだった。 向かう先は分かっている。 ヴィヴィエンヌ・モロー。 胸を刺す名前。 結婚前に逃げ出し、そして戻ってきて、すべてを奪った従妹。 二年前の記憶が、鮮明によみがえる。 身体が弱りきっていた夜。 書斎から聞こえた、ディリアンの冷たい声。 「また彼女を流産させた」 壊れた物を報告するような、無感情な声。 そして、小さな笑い声。 ヴィヴィエンヌだ。 「本当に残酷ね、ディリアン。でも正しい選択よ。もしセレーネが子どもを産んだら、あなたは一生彼女に縛られるもの」 「俺は最初から、彼女を愛したことなどない」 ディリアンはため息混じりに言った。 「欲しかったのは、お前だけだ。セレーネは代用品だ。ただ、あの時お前が結婚から逃げたから、仕方なく彼女と結婚しただけだ」 心臓が、止まった。 「まだ怒っているの?戻ってきたじゃない」 ヴィヴィエンヌが甘く笑う。 「そうだな」 即答だった。 「お前が戻った。それで十分だ。セレーネに価値などない。俺のそばにいる限り、決して子どもは持たせない。俺の血に、彼女の痕跡など一つも残したくない」 その夜、涙は止まらなかった。 声を殺し、口を塞ぎ、ただ泣いた。 あの瞬間から、セレーネは知った。 苦しみは運命ではない。 すべて、ディリアンの意志だったのだ。 あの頃は、泣いて、崩れ落ちた。 だが今、涙はもう乾いている。 残っているのは、胸の奥で燃える冷たい炎。 復讐、決意、そして凍りつくような憎しみ。 セレーネは目を閉じ、静かに自分へ語りかける。 そして、低く、確かな声で― 「もうそうはいかない。もう、あんな愚かな自分には戻らない。壊される前に、この手で全てを壊す」 第3話 外では、馬の蹄の音が次第に遠ざかっていった。 一方、部屋の中では、セレーネが背筋を伸ばして立っていた。 まるで、自分の心の壁に決意を打ち付けたかのように。 今日から、この結婚は、もはや牢獄ではなく、戦場だ。 セレーネは冷たいベッドの上に身を投げ出した。 唇が震え、声はかすかな囁きになる。 「わたくし、何か悪いことをしたのでしょうか」 彼女は五年間、公爵レヴェンティスの妻として生きてきた。 五年間、完璧な公爵夫人であろうと努力し続けた。 怠けたことなど一度もない。 学び、管理、準備、すべてを尽くした。 夫の食事から領地の仕事まで、すべてを整えた。 ただ一つ、認めてもらいたかっただけなのに。 返ってきたのは、空虚な視線。冷たい言葉。 そして、最も残酷な仕打ち、彼女が宿した命は、すべて夫自身の手で奪われた。 ディリアンは、妻としての彼女を拒絶しただけではない。 セレーネが母になる可能性そのものを、踏みにじったのだ。 セレーネはシーツを強く握りしめる。 かつて柔らかかった心は、今や石のように硬くなっていた。 以前の彼女なら、自分を騙せた。 「愛があれば、すべてうまくいく」と。 だが、死を経験し、そして再び目を覚ました今なら分かる。 愛なんて、ただの幻想だ。 ディリアンの嘘はすべて暴かれ、その先にあった名前は一つ、ヴィヴィエンヌ。 従妹であり、義理の妹。 ディリアンとの婚約から逃げ出した女。 そして一年前に戻ってきて、セレーネの目の前ですべてを奪った女。 セレーネは目を閉じ、息を詰める。 母の墓から戻ったあの日の光景が、鮮明によみがえった。 ディリアンの執務室から出てきたヴィヴィエンヌ。 体には、夫のシャツ一枚だけ。 あの時のわたくしは、なんて愚かだったのでしょう。 「ドレスが汚れたから着替えただけ」 そんな馬鹿げた言い訳を、信じてしまったのですから。 今なら分かる。 彼らはただの「幼なじみ」なんかではない。 恋人同士だった。 そして、自分を裏切っていた者だった。 記憶が、次々と心を抉る。 そして、痛みの底で、セレーネは静かに息を吸った。 「……離婚しなければ」 彼女は引き出しを開け、母の遺産の書類を取り出した。 帝国領外にある、小さな土地。彼女の唯一の逃げ道。 今やもう伯爵家には戻れない。 父はヴィヴィエンヌの母と再婚し、セレーネはただの影になった。 財産も、地位も、そして本来ならわたくしのものであった婚約者さえも、すべてヴィヴィエンヌのものになった。 セレーネは書類を胸に抱きしめる。 出ていかなければ。 だが、その瞬間。 再び、外から馬車の音が聞こえた。 正門で止まる音。誰が来たのか、考えるまでもない。 扉が勢いよく開く。 冷たい空気をまとって、ディリアンが入ってきた。 そして、その隣には、ヴィヴィエンヌ。 セレーネの喉元に、苦い吐き気がこみ上げる。 「セレーネ」 柔らかな声。 ヴィヴィエンヌは同情を装った表情で歩み寄り、手を取ろうとする。 「流産したって聞いたわ、大丈夫?」 セレーネは即座に手を引き、鋭い視線で睨みつける。 「わたくしは平気です」 一瞬、ヴィヴィエンヌの表情が固まった。 「セレーネ、なぜ……」 「来る必要はありませんでしたでしょう」 セレーネは冷たく遮った。 「あなたの同情など、わたくしには不要です」 ディリアンが一歩前に出る。 その声は、命令のように重かった。 「セレーネ、ヴィヴィエンヌは親切で見舞いに来たのだ。そんな態度はなんだ?!」 セレーネは振り返り、夫を真正面から見据える。 「でしたら、わたくしと離婚してください」 空気が凍りつく。 忠実な侍女モナとデイジーは、さらに深く頭を下げた。 嵐の前触れを感じ取ったかのように。 「セレーネ」 ディリアンの声が鋭くなる。 「そのような戯言はやめろ」 セレーネは、皮肉げに微笑んだ。 「もう十分ですわ。ですから、お引き取りください」 「セレーネ!」 ディリアンが声を荒げた、その時。 「公爵様、どうかお怒りにならないでくださいませ……」 ヴィヴィエンヌが慌てて割って入る。 「すべては私の悪いですわ。お見舞いに来るべきではありませんでした。セレーネは、子供を失って気が立っているのよ……」 セレーネは振り返らない。 彼女にとって、それはただの三流芝居だった。 ディリアンは鼻で笑い、ヴィヴィエンヌを見る。 「彼女は、お前が気を遣う価値もない。行こう」 扉が閉まり、部屋は再び静寂に包まれた。 だが、廊下でディリアンの足が止まる。 ヴィヴィエンヌが彼の腕を掴んだのだ。 「さっきの、聞いたでしょう?」 彼女は目を輝かせて囁く。 「離婚したいって。ねえ、私たちにとって最高のチャンスじゃない?」 ディリアンは彼女を見下ろす。 表情は、相変わらず冷たいまま。 「流産したばかりだ。混乱しているだけだろう」 第4話 ――流産したばかり?混乱しているだけ? ヴィヴィエンヌは一瞬、言葉を失った。 不快感を押し殺すように表情が強張る。 ディリアンは彼女の手を無造作に振りほどき、そのまま振り返りもせずに歩き去る。 取り残されたヴィヴィエンヌは、その場で静かに目を細めた。 唇が歪み、怒りを噛み殺すが、やがてその端に、かすかな笑みが浮かぶ。 ――セレーネが本気で、離婚するつもりなら…… 胸の奥で、期待が膨らむ。 「レヴェンティス公爵夫人、ね?」 その称号を、舌の上で転がすように囁く。 ずるりとした笑みが広がり、低く喉を鳴らして笑った。 そして何事もなかったかのように、ディリアンの後を追う。 …… 夜明け。黄金色の光が城の窓を通して差し込むが、石の壁に染みついた秘密までは温められない。 セレーネは静かな回廊を歩いていた。 ドレスの裾がかすかに音を立てる。顔色は青白いが、その瞳は澄み切っている。 ふと足を止めた、その瞬間。 扉が開いた。 ディリアンの寝室。 そこから出てきたのは、満足げな笑みを浮かべたヴィヴィエンヌだった。 朝日に照らされ、金色の髪が眩しく輝く。 少し遅れて、ディリアンが無表情のまま姿を現す。 まるで、よくある日常の一部であるかのように。 「セレーネ!」 ヴィヴィエンヌがわざとらしく声を張り上げる。 セレーネは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。 唇に浮かぶのは、読み取れない薄笑い。 一瞬だけディリアンを見る。 それだけで、何も言わずに踵を返した。 「ま、待って!」 ヴィヴィエンヌの声が裏返る。 「わ、わたしはただ公爵様を起こしただけよ。昨夜は……その、ゲストルームに泊まっただけで―」 「どうでもいいわ」 セレーネの声は、刃のように冷たかった。 ディリアンは眉をひそめ、ヴィヴィエンヌは落ち着かなく視線を泳がせる。 だがセレーネは背筋を伸ばし、そのまま歩き続けた。 すれ違う使用人たちは、深く頭を下げる。 まるで、城の真の女主人は彼女だけだと言わんばかりに。 「どういうこと?」 ヴィヴィエンヌが震える声で囁く。 「まさか、気づいた?」 「気づいていたら、どうだというのだ」 ディリアンは淡々と答える。 「だ、だって……」 ヴィヴィエンヌは唇を噛む。 「彼女はまだあなたの妻よ。もし口に出されたら、皆は彼女の味方をする。 わたしは、姉の夫を奪った女になるわ」 「ヴィヴィ」 ディリアンは金色の髪を撫で、薄く笑った。 「何があろうと、愛しているのはお前だけだ」 その言葉に、ヴィヴィエンヌは安堵の息を漏らし、強く抱きついた。 護衛たちは、見なかったふりで視線を逸らす。 誰もがこの関係を知っている。ただ一人、セレーネを除いて。 だが、今朝の彼女はどこか違っていた。 食堂には、焼き立てのパンと温かなスープの香りが満ちていた。 セレーネは優雅に席につき、皿を見つめたまま動かない。 そこへ、今最も顔を合わせたくない二人が、連れ立って入ってきた。 「セレーネ」 甘すぎる声でヴィヴィエンヌが言う。 「私も……一緒に朝食をとってもいいかしら?」 「食事をなさるなら、どうぞ」 セレーネは顔も上げずに答える。 「セレーネ!」 ディリアンが鋭く叱責した。 「彼女は客人ですわ。わたくしの管轄ではありません」 空気が凍りつく。 「なぜ、そこまでヴィヴィエンヌを敵視する?」 ディリアンが責めるように言う。 「わたくしが?」 セレーネはゆっくりと顔を上げ、その視線は鋭かった。 「問題を起こす権利すら、わたくしにはございません。そもそも、わたくしは何者なのでしょうか?」 食堂が静まり返る。 使用人たちは、さらに深く頭を下げた。 もう、従順で優しい公爵夫人はいない。 そこにいるのは、冷たく、読めない女。 「身の程を分かっているなら結構だ」 ディリアンが嘲る。 セレーネは答えなかった。 「公爵様……」 ヴィヴィエンヌが控えめに口を開く。 「わたし、帰ったほうがよさそうですね。セレーネは、明らかにわたしを快く思っていらっしゃらないし」 セレーネは沈黙を保つ。 引き止めもしない。 懇願もしない。 「セレーネ、ヴィヴィエンヌに謝れ」 ディリアンが命じる。 「わたくしは、彼女に何もしておりません」 「……」 ヴィヴィエンヌが慌てて首を振る。 「いえ、大丈夫です。お気になさらないで」 「セレーネ、いい加減にしろ!」 ディリアンが怒鳴った。 その瞬間、セレーネの唇に薄い笑みが浮かぶ。 「わかりました。泊まりたいのであれば、どうぞ。わざわざ理由を探す必要はございませんわ」 ヴィヴィエンヌが息を呑む。 ディリアンの顔が強張った。 「まだ体調が優れませんの、医師からも静養を命じられております。ですから、しばらく休暇をいただきますわ」 その一言に、ディリアンの顎がきしむ。 肉料理が運ばれてくる。 「それは、鳥料理?」 ヴィヴィエンヌが小さく尋ねた。 「奥様のための特別料理でございます」 執事長イラルドが答える。 「ヴィヴィエンヌは家禽にアレルギーがある!」 ディリアンが声を荒げた。 「彼女が宿泊しているとは存じませんでした」セレーネは冷たく言う。 「この献立は、わたくしのためのものです」 ディリアンは怒りを飲み込む。 セレーネはヴィヴィエンヌを見つめ、かすかに微笑んだ。 「鳥料理は、旦那様のお好みでしょう。客人である以上、主人の用意したものを召し上がるのが礼儀では?」 「セレーネ!」 「はい?」 セレーネは静かに返す。 「皆は、わたくしの体調を気遣ってくださる。 ですが、わたくしの夫は、客人の好みのほうが大切なのですね」 ヴィヴィエンヌの顔色が失せる。 「わ、わたしは別のものを……」 「イラルド、モローお嬢様に、別の料理を」 セレーネが命じる。 ディリアンが近づき、低く囁く。 「面倒を起こして楽しいか?」 「わたくしは、まだ公爵夫人。そして、あなたの妻です。ご不満でしたら、離婚なさってください」 その言葉は、確かにディリアンを打ち据えた。 「セレーネ……」 ヴィヴィエンヌが柔らかく口を挟む。 「このようなことは私的な問題ですわ。公爵様と、お二人でお話しになったほうが……」 「構いませんわ」 セレーネは振り向く。 「それより、いっそこちらにお住まいになっては?ヴィヴィエンヌ。すでに、何度も泊まっていらっしゃるでしょう?」 「わ、わたしは――」 「ヴィヴィがここに住むわけがない!」 ディリアンが強く遮った。 ヴィヴィエンヌの胸が跳ね――その否定は、あまりにも露骨だったから。 「何が問題なのですか?」 セレーネは畳みかける。 「お二人は、かつて愛し合っていた。再び想いが芽生えたのなら、なぜ、結婚なさらないのです?」 「セレーネ!」 ディリアンが激昂する。 「義理の妹と結婚など、あり得ない!」 「なぜ?」 セレーネは背もたれに身を預け、泰然と告げた。 「あなたには権力も地位もございます。公爵であれば、複数の女性を持つことも可能でしょう」 そして、静かに微笑む。 「では、ヴィヴィエンヌと結婚なさって。わたくしと、離婚すればよろしいのですわ」 第5話 食堂の空気が凍りついた。 セレーネの言葉は氷のように落ち、ヴィヴィエンヌの顔色を奪い、ディリアンを立ち尽くさせる。 まるで、初めて彼女を知ったかのように。 「これは、お前らしくないな」 ディリアンが低く呟く。 セレーネは薄く微笑んだ。 「わたくしのほうこそ、驚いておりますわ。ようやく、あなたがわたくしを見てくださったのですから」 「その言い方、恥ずかしくないの?」 ヴィヴィエンヌが堪えきれずに割り込む。 セレーネの視線は平坦だった。 「お二人に合わせているだけですわ。それで動揺なさるのは、なぜでしょう?」 ヴィヴィエンヌは顔を引きつらせ、勢いよく立ち上がる。 そのまま足早に去っていった。 ディリアンもまた、何も言わずに後を追う。 残されたのは、セレーネ一人。 彼女はゆっくりと息を吐き、冷えた微笑を浮かべた。 ――ようやく、あの二人のいない食卓で、初めて落ち着いて食事ができる。 最後の一口を終え、桃の果実を静かに噛みしめながら、セレーネは声をかけた。 「イラルド」 「はい、奥様」 イラルドは深く一礼する。 「人を、密かに移動させる手段をご存じでしょうか?」 唐突な問いに、イラルドの動きが止まった。 喉が小さく鳴る。 「それは、どのようなご意図でしょうか」 セレーネの瞳は、静かで、深かった。 「わたくしの部屋で話しましょう」 返答を待たず、彼女は立ち上がる。 イラルドは使用人たちに合図を出し、食卓の片付けを命じてから、セレーネの後に続いた。 執務室。 「イラルド」 セレーネは背を向けたまま、はっきりと告げる。 「わたくしは、ここを去ります」 「奥様」 イラルドは言葉を選ぶように沈黙する。 「ですが、それは――」 「誰にも話さないでください、この件を知るのは、あなただけです」 セレーネは振り返り、鋭く見据えた。 イラルドは息を深く吸った。セレーネは人を信じることは少ない。しかし、今回は彼の心が動かされた。彼はセレーネに本当の幸せを見つけてほしいと願った。 「イラルド。あなたはご存じなのでしょう。わたくしの子供たちが、すべてディリアンによって失われたことを」 イラルドは顔を伏せ、唇を強く結ぶ。 「否定なさらなくて結構です」 セレーネの声は低く、しかし柔らかかった。 「今度だけは、助けていただけませんか?」 イラルドは一度、目を閉じる。 そして、静かに問いかけた。 「どちらへ向かわれるおつもりでございますか、奥様」 セレーネは淡く微笑み、書類を差し出す。 中には、地図。 イラルドがそれを開いた瞬間、目を見開いた。 「これは、非常に遠方でございます」 「ええ」 セレーネは迷いなく答える。 「わたくしは、できる限り遠くへ行く必要があります」 イラルドは深く頭を下げた。 「承知いたしました」 「安心なさったようですね」 セレーネが眉を上げる。 イラルドは小さく、しかし確かに微笑んだ。 その瞳は潤んでいる。 「わたしはただ、奥様がいつか本当の幸せを手にされることを願っております」 その言葉に、セレーネの胸がわずかに温まった。 「何か、準備すべきことはありますか?」 イラルドが慎重に尋ねる。 「いいえ、必要ありません」 セレーネは首を横に振る。 「ですが、奥様の財産のほうが…」 「一銭も持って行きません」 即答だった。 「奥様……」 イラルドは、この城で行われてきた不公平を思い出す。 浪費するヴィヴィエンヌ。 一方で、権利にほとんど触れなかった正妻。 「わたくしは自分の持っている株を、弟さんに売りたいですが、よろしいでしょうか?」 セレーネは静かに言う。 イラルドは驚き、すぐに深く頷いた。 「もちろんでございます。すぐに手配いたします」 「ありがとうございます」 セレーネは柔らかく微笑んだ。 「あなたも、どうか幸せでいてください」 イラルドは一瞬、言葉を失い、深く頭を下げた。 「いつ、ご出立なさいますか」 「五日後です」 「そんなに急いでよろしいのでしょうか?」 「ええ。ちょうど良い頃合いですわ」 三日後、西の国境で戦が始まる。 二日後、ディリアンは出征する。 城の警備が最も手薄になる、その瞬間。 イラルドは拳を握りしめた。 「必ず、すべて整えてみせます」 セレーネは静かに頷いた。 イラルドは深く一礼し、部屋を辞した。 残されたセレーネは、一人、思考の海に沈む。 ほどなくして、控えめなノック。 「どうぞ」 入ってきたのは、モナとデイジーだった。 二人は顔色を変え、突然その場に跪き、額を床につける。 「何事ですか?」 「奥様、どうか、私たちを置いて行かないでください……」 デイジーの声が震える。 セレーネは驚き、すぐに駆け寄った。 「聞いていたのですね」 その問いは、責めではなかった。 二人は涙を流しながら、頷く。 セレーネは彼女たちを座らせ、自らも床に腰を下ろした。 それが、かえって二人を慌てさせる。 「わたくしは根拠もなく人を責めたりしませんわ」 セレーネは穏やかに言った。 「なぜ、わたくしが行くことを、そこまで嫌がるのですか?」 「奥様が行かれるなら、私も一緒に行きます!」 デイジーが泣きながら叫ぶ。 「わたしもです」 モナが震える声で続ける。 「わたくしはあなたたちを雇うお金はありませんよ」 セレーネは正直に告げた。 「構いません!」 デイジーは即答した。 「ご一緒できるなら、それだけで……!」 「伯爵家に残るご家族は?」 セレーネが問う。 モナは唇を噛みしめる。 「皆、伯爵に従う者です、私たちを助けてはくれません」 守る者のいない二人。 セレーネは理解した。 「分かりました」 彼女は二人の頭に、そっと手を置く。 「五日後に出発します。持って行ける物だけ、準備なさい」 瞬間、二人の顔が輝いた。 涙と笑顔が入り混じる。 「ありがとうございます、奥様!」 セレーネは口元をわずかに上げ、しかし声を低く落とす。 「忘れないでください。もし失敗し、わたくしが捕まれば、あなたたちは、死罪ですよ」 現実的な言葉。 だが二人は、一歩も退かなかった。 「両親の名にかけて誓います、奥様」 デイジーが答える。 セレーネは長く二人を見つめ、やがて小さく微笑んだ。 胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。 「それでは……計画を、練り始めましょう」 第6話 その朝、空気は凍えるほど冷たかった。 いつも通り、セレーネはディリアンの姿を見なかった。 もはや慣れきっている。 夫が屋敷に戻らないことなど、今に始まった話ではない。 かつては、城の執務が忙しいのだと自分に言い聞かせていた。 だが真実を知ってしまった今、胸に残るのは嫌悪だけだった。 心の傷はまだ癒えていない。 それでもセレーネは、時間が自分を強くしてくれると、必死に信じようとしていた。 しかし、その朝は違った。 突然、公爵邸に父、モロー伯爵が現れたのだ。 「ヴィヴィエンヌに、いったい何を言った?」 低く、重たい声。 逃げ場のない問いかけだった。 「何を?あの娘が、何か言いつけたのですか?」 セレーネは冷たく返す。 興味すらなさそうに。 伯爵は一瞬言葉を失い、深く息を吐いた。 「セレーネ、ヴィヴィエンヌと公爵は幼なじみだ。昔、婚約していたこともある。親しいのは当然だろう。少しは、譲ることを覚えられないのか?」 その言葉に、セレーネは小さく鼻で笑った。 「モロー伯爵」 氷のように冷えた呼び方。 伯爵の目が見開かれる。 実娘である娘が、父を「伯爵」と呼んだのだ。 「わたくしは、公爵にヴィヴィエンヌと結婚するよう勧めました。それ以上、何を譲れと?」 まっすぐな視線が、伯爵の胸を貫く。 「セレーネ、そういう意味じゃ――」 「今さら『幼馴染』だと?同じ寝台を使う幼馴染、あるのですか?」 遮るように、セレーネは笑みを浮かべた。 冷ややかな笑みを。 言葉が、容赦なく叩きつけられる。 伯爵は喉を鳴らし、唇を閉ざした。 反論できる言葉など、どこにもなかった。 「わたくしが何も知らないとでも?」 セレーネは続ける。 「そして今日は、実娘を追い詰めるために来たのですね。継娘を庇うために」 「セレーネ……」 「気になるのですが」 視線が鋭く細まる。 「本当に、あの人は本当に『義理娘』なのですか?それともあなたの実の娘ですか?」 「セレーネ!言い過ぎだ!」 声を荒げる伯爵に、セレーネは長く息を吐いた。 瞳は疲れているのに、決して怯んではいない。 「母が生きている間、あなたが愛を裏切らなかったことは認めます。 でも、あなたは、母の『娘』を裏切った」 その言葉に、伯爵の表情が崩れた。 怒りは消え、そこに残ったのは、ただの悲しみだった。 娘が、初めて真正面から自分を責めている。 「一度でも、実娘であるわたくしの気持ちを考えたことがありますか、お父様?」 叫びよりも、その低い声のほうが深く刺さった。 伯爵は、何も言えず俯く。 「本来、わたくしのものだったすべてを、あの人に与えましたね。それでも足りませんでした?今更、夫まで与えますか?」 声が、わずかに震える。 「違う、そんなつもりじゃ……それに、最初に譲ったのは、お前だろう」 「ええ」 セレーネは乾いた笑みを浮かべた。 「譲らなければ、屋根裏に閉じ込められ、床で眠り、ネズミと食事を分け合うことになっていた。お忘れですか?」 「セレーネ……」 「お帰りください、お父様」 冷え切った声で言い放ち、立ち上がる。 「継娘を庇うためだけに来たのなら、二度と、わたくしの前に現れないでください」 伯爵は、何も言えなかった。 セレーネは背を向け、部屋を出る。 その場には、伯爵だけが取り残された。 扉の向こうで、ディリアンはすべてを聞いていた。 胸が、詰まる。 ――セレーネは、全部知っていた。不貞のことも、裏切りも。 だから、あれほど冷たく、毅然としていたのだ。 誰が告げたのか。 どうやって知ったのか。 だが、それ以上に―― 彼女の傷が、自分の想像よりも遥かに深いことを、ディリアンは理解してしまった。 昼過ぎ。 セレーネは書類を抱え、ディリアンの執務室を訪れた。 机に向かう彼は、虚ろな目をしている。 「こちらに、署名をお願いいたします」 静かに、書類を差し出す。 「急ぎなのか」 平静を装った声が、かすかに揺れた。 「重要でなければ、署名は不要ですわ」 そう言って、セレーネは書類を引き寄せ、立ち去ろうとする。 「明日だ」 突然、ディリアンが口を開いた。 「明日の夜、お祖母さんが来る」 引き留めるような声。 「わたくしはまだ回復しておりません。わざわざ偽る必要はありません。祖母様にはそのまま伝えればいいです」 ディリアンは立ち上がり、歩み寄る。 「署名する」 その一言で、すべてが決まった。 鼓動を抑えながら、セレーネは再び書類を差し出す。 ディリアンは目を通すことなく、次々と署名していった。 最後の一枚。 離縁状。 息を詰めたまま、彼は名を記す。 「セレーネ……」 去ろうとする彼女を、呼び止めた。 「何でしょうか」 振り返らずに答える。 「お前、大丈夫なのか?」 その問いに、セレーネの胸が締め付けられた。 命を落としかけた時でさえ、彼がそんなことを聞いたことはなかった。 涙が滲む。 だが、決して零さない。 「大丈夫です。ご心配なく」 小さく言い残し、部屋を後にした。 それ以来、ディリアンの心は落ち着かなかった。 かつて優しかったセレーネは、今は冷たく、強くなった。 窓辺に立ち、庭を見下ろす。 夕陽の中、セレーネは二人の従者と歩いていた。 光に照らされた横顔は、息を呑むほど美しい。 正直に言えば。 セレーネは、ヴィヴィエンヌよりも遥かに魅力的で、気品に満ちている。 夜の務めも義務ではなく、快楽だった。 それでも、心が向くのはヴィヴィエンヌ。 それは愛ではなく、恩だった。 幼い頃、すべてを失いかけた自分を、彼女は救った。 だから、与えた。すべてを。 たとえ、セレーネこそが自分の本当の妻であったとしても。 「旦那様」 スヴェンが入室する。 「何だ」 「モローお嬢様よりお手紙です。いつ合流なさるのかと」 ディリアンは息を吐いた。 「今日は無理だ。明日も、お祖母さんが来る。そう伝えろ」 「承知しました、旦那様」 去ろうとするスヴェンを、呼び止める。 「スヴェン」 「はい、旦那様」 「医師を呼べ。奥様を診せろ」 第7話 その朝、セレーネは違和感を覚えていた。 朝食の席に、ディリアンがいる。 しかも、同じ卓に腰を下ろしている。 それは、ほとんどあり得ない光景だった。 彼が屋敷にいる日でさえ、朝は執務室か自室に籠もるのが常だった。 セレーネも、もう近づこうとはしない。 どんな言葉も、どんな気遣いも。 彼にとっては「邪魔」でしかないと、知ってしまったから。 心の傷が、彼女の足を止めていた。 「お祖母さんと母上が、後で来る」 食器を置き、ディリアンが言う。 セレーネは一瞬だけ彼を見た。 「わたくしが、まだ療養中だとお伝えしましたか?」 「だからこそ、見舞いに来る」 淡々とした答え。 セレーネは小さく息を吐き、頷いた。 「承知しました」 ――沈黙。 しばらくして、ディリアンが再び口を開く。 「今夜は、お前の部屋で眠る」 セレーネの心臓が、わずかに強く打った。しかし彼女の声は冷たい。 「その必要はありません。祖母様や義母様の意向に、無理に従う必要はありません。ご自身の部屋でお休みください」 「これは俺の意思だ」 迷いのない声。 セレーネは彼を見つめ、皮肉げに微笑んだ。 「それでしたら、あなたの部屋で眠りましょう」 ディリアンの視線が鋭くなる。 「お前がそうしたいのか??」 「はい、わたくし、自分の部屋を独り占めする資格なんてないと思ってますので」 セレーネは淡々と答え、脳裏にヴィヴィエンヌが自分の部屋に入ることを許された光景がよぎった。 ディリアンは一拍置き、頷いた。 「分かった。今夜は、俺の部屋だ」 言葉を失うのは、セレーネのほうだった。 あの部屋は、彼にとって聖域だった。 扉の前に立つだけで、怒りを買ったこともある。 それが、こんなにも簡単に。 「では、少し外出する。夕食までに戻る。一緒に食べよう」 そう言い残し、ディリアンは席を立った。 セレーネは、彼の背中が消えるまで見送る。 彼の皿は、いつも通り綺麗だった。 自分の料理を残さない、それだけは、変わらない。 昼、セレーネは執務室にいた。 呼ばれた医師が、丁寧に頭を下げる。 「奥様、お体の具合を確認させていただきたく――」 「わたくしの体は大丈夫です」 きっぱりと言い切る。 「薬も飲んでいますし、指示通りに過ごしています」 「ですが、流産後の――」 「不要です」 冷たく遮る。 「回復したと、そうお伝えください」 身体が、拒絶していた。 これ以上、失ったものを突きつけられることを。 医師はそれ以上何も言わず、再び頭を下げて退室した。 扉が閉まると同時に、イラルドが茶色の書類鞄を抱えて入ってくる。 「こちらが、すべての書類です」 机に置きながら言う。 「身分証、渡航券。列車移動になりますので、手配は完了しています」 セレーネは鞄を開いた。 そこにあったのは、新しい身分証。 記されている名前は、母の名――イスラ・アルンデル。 アルンデル家。 かつて男爵位を持ち、彼女が生まれる前に断絶した小さな家系。 本来なら、彼女にも権利があったはずのもの。 だが、父、モロー伯爵は、すべてを奪った。 記憶することさえなく。 ふと、見覚えのある紋章が刻まれたカードに目が止まる。 「これは?」 「護衛や緊急時の支援が必要な場合、その住所を訪ねてください」 イラルドは静かに答える。 「大陸全域に展開するギルドです」 セレーネは目を見開いた。 「どうして、あなたが……」 「昔の知り合いです。このカードがあれば、優先対応されます」 セレーネは、かすかに苦笑した。 「大げさすぎます……」 「いいえ」 イラルドは首を横に振る。 「ただ、奥様が無事でいてほしいです。特に、国外では」 続いて、銀行カードを差し出す。 「資産はすべてこちらに。株の半分を売却しましたので、不自由はありません。利益も毎月入ります」 「多すぎます」 「本来、あなたのものです」 まっすぐな言葉。 セレーネはカードを強く握りしめた。 「あなたが、ディリアンの人間でなければ……」 「実は、奥様について行きたいです」 イラルドは低く囁いた。 「でも、契約であなたは公爵に忠誠を誓わなければなりませんよね」とセレーネは言った。 イラルドは深く一礼した。 「奥様が幸せであるなら、それで。また、いずれ」 セレーネも頷く。 「ところで、奥様はその土地へ?」 イラルドは少し躊躇いながら尋ねた。 「母の遺産ですので」 静かな声。 「なぜ、お母様が持っていたのか、確かめたいのです」 「ご出身、だったのでしょうか」 セレーネは首を横に振った。 その書類は、追い出される直前に母の侍女から渡されたもの。 その侍女は、一か月後に亡くなった。 もう、何も聞けなくなった。。 「購入したのかもしれませんね」 イラルドが言う。 「はい」 セレーネは視線を上げる。 「確かめます。もし違えば、別の場所を探すだけです」 揺るぎない声だった。 「承知しました、奥様」 イラルドは一礼する。 「では、失礼いたします。まだ片付けるべき仕事が残っていますので」 第8話 イラルドが去ったあと、セレーネは書類を一つひとつ丁寧に確認した。 城を出る日、迷わないために――すべてを理解しておく必要があった。 気づけば、外は夕暮れ色に染まっている。 控えめなノック音。 「奥様。エレアノーラ様と、オデット様が到着されました」 イラルドの声に、セレーネはすぐ立ち上がった。 「わかりました」 玄関へ向かい、丁寧に二人を迎える。 応接室へ案内しながら、セレーネはいつも通り背筋を伸ばしていた。 義母のオデットは、部屋に入るなり視線を巡らせる。 調度品、床、カーテンの皺。 ほんの些細な乱れも見逃さない人だ。 だからこそ、セレーネは城を常に完璧に保ってきた。 一方、祖母のエレアノーラはいつも通り穏やかに微笑み、セレーネを見つめていた。 その優しさの裏に、レヴェンティス家で最も恐れられる厳しさがあることを、皆が知っている。 「お部屋は、すでにご用意しております」 セレーネがそう言うと、祖母は「相変わらず気が利くねぇ」と微笑みながら、彼女の髪を優しく撫でた。 「それに、つらかったね。子どもを失うなんて」 セレーネは静かに目を伏せる。 「次に身ごもったら、もっと気をつけなきゃ」 オデットが続けた。 「ディリアンにも、ちゃんと見張らせるから」 セレーネはかすかに微笑んだ。 胸の奥が、ひどく苦い。 ――守る?父親が自ら、その命を奪う状況で? 「はい、お義母様。気をつけます」 落ち着いた声で答える。 だが、オデットは視線を細めた。 「それより、あの噂、うちにも届いているよ」 空気が張り詰める。 「まだ、あの女と一緒なんでしょう?」 「オデット」 祖母がやんわりと制した。 「お義母さん、ただ彼女に教えてるんです」 オデットは語気を強める。「公爵夫人として学んだのは、踏みつけられること?黙って耐えることじゃないでしょう!」 セレーネは何も言わず、小さく微笑んだ。 ――この人は、わたくしよりもヴィヴィエンヌを嫌っている。それでいいわ、この壁にぶつかるのは彼女。わたくしではないし。 「申し訳ありません。注意いたします」 口ではそう言いながら、心の中では叫んでいた。 ――もう、何もかもどうでもいい。 わたくしもうすぐここから去る。 「お母さんの言うことは気にしなくていいよ」 祖母が優しく言う。 「今は、身体を治すことだけ考えなさい」 セレーネは深く頭を下げた。 オデットが小さく舌打ちする。 「あの娼婦がここにいる限り、幸せになれるわけないわ」 セレーネは、笑いそうになるのを必死でこらえた。 その不幸は、いずれヴィヴィエンヌのものになる。 その時だった。 扉が開く音。 ディリアンが戻ってきた。 しかも、その隣にはヴィヴィエンヌが立っている。 空気が、一気に凍りつく。 「ご、ご挨拶申し上げます。エレアノーラ様、オデット様……」 ヴィヴィエンヌは深く頭を下げ、声を震わせた。 「これはなんなの?」 オデットが立ち上がる。 祖母も、明らかに失望した表情を向けた。 「ディリアン、どういうつもりだい?」 ヴィヴィエンヌの顔が青ざめた。 「ただ、挨拶を――」 ディリアンは低く言った。 「母上とお祖母さんに、顔を見せたかっただけだ」 「何ですって?!」 オデットが声を張り上げる。 「今すぐ、その女を連れて出なさい!」 「母さん、落ち着いて――」 「あなた、頭がおかしいのか?!」 オデットは怒鳴った。 「妻が流産した直後の家に、別の女を連れてくるなんて!」 ヴィヴィエンヌは一歩後ずさり、セレーネを見る。 瞳には、確かな傷があった。 「彼女は、セレーネの妹だ」 ディリアンは言い切る。 「姉に会いたいと思うのは、自然で――」 「もう黙りなさい!」 オデットは一蹴する。 「連れて出なさい!」 「オデット様……」 ヴィヴィエンヌの声が震える。 「誰のことを呼んでるの!」 オデットが鋭く遮った。 ヴィヴィエンヌは硬直し、やがてセレーネを見つめる。 セレーネは、そっと手を差し出した。 「行きましょう」 小さく、穏やかに。 ヴィヴィエンヌは迷いながらも、その手を取る。 涙をこらえながら、二人は部屋を出た。 セレーネの背筋は、最後まで真っ直ぐだった。 ディリアンは動かなかった。 母と祖母の前で、ただ立ち尽くしていた。 扉が閉まり、沈黙が落ちる。 「母上」 ディリアンが静かに呼ぶ。 「もう一度あの女をここに連れてきたら、私はあなたを息子だと思わない!」 オデットは吐き捨てた。 ディリアンは息を整えた。 「母上、誤解だ。彼女はただ、セレーネに会いに来ただけで……」 「理由は関係ないよ」 祖母が静かに言った。 「やっていいことと、悪いことがある」 ディリアンは唇を噛みしめる。 「セレーネも、妹が来ることを嫌がっていない」 「それを、セレーネが言ったのかい?」 祖母の視線が鋭くなる。 ディリアンは黙った。 「一度でも考えたことがある?」 オデットが睨みつける。 「お前が、妻の気持ちを」 胸が締めつけられる。 答えは、ずっと同じだった。 「よく聞きなさい」 オデットは断言する。 「公爵家の嫁は、セレーネだけ。あの女が代われると思うなら、一生後悔するわよ」 言葉は、重く、深く突き刺さった。 第9話 オデットの怒声が、部屋に重く残ったまま、ディリアンは動けずにいた。 あの声には逆らえない。 幼い頃から、ずっとそうだった。 「どうして、こんな馬鹿息子を産んでしまったのかしら!」 そう吐き捨てると、オデットは背を向けて去っていった。 残されたのは、ディリアンと祖母だけ。 祖母は小さく息をつく。 「この件に関してはね、わたしも、あなたの母と同じ意見だ」 その声は穏やかで、芯が強かった。 「あなたは、やってはいけないことをした」 「お祖母さん」 祖母はディリアンをじっと見つめた。ディリアンは低い声で言った。 「人の気持ちは、無理に縛れるものじゃない」 祖母は、ふっと微笑んだ。 「いつかわかる日が来るよ。間違った相手を愛するより、心から愛してくれる人に愛されるほうが、ずっと幸せだって」 その言葉は、刃のように胸を刺した。 セレーネとヴィヴィエンヌ。 その違いに、彼はずっと目を背けてきた。 祖母はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出ていった。 残されたディリアンは、ひとり立ち尽くしたままだった。 …… 城の外。 夕暮れの空は黄金色に染まりながらも、二人の間の空気は冷え切っていた。 護衛たちは距離を取り、セレーネとヴィヴィエンヌだけが向かい合う。 「お義母様は、厳しい方ですね」 セレーネは淡々と言った。 「慣れるまで、大変でしたわ」 ヴィヴィエンヌは唇を噛み、鋭い視線を向けた。 「それって、警告?」 「ただ、伝えただけです」 セレーネは視線を逸らさない。 「心の準備は、できたほうがいいですから」 ヴィヴィエンヌは目を細めた。 「まるで、自分なら対処できるみたいな言い方ね」 セレーネは短く笑った。 「わたくしは、ご子息の心すら、手に入れられませんでした」 その笑みは、苦く歪んでいた。 「お義母様の心など、尚更でしょう」 ヴィヴィエンヌは顎を上げ、冷たい笑みを浮かべる。 「つまり、身の程はわきまえているってことね」 セレーネは否定も肯定もしなかった。 ただ一人、全身全霊でディリアンを愛したのは、わたくしだった。 けれど彼は、一度も振り向かなかった。 「もう、分かっているでしょう?」 ヴィヴィエンヌの声が低くなる。 「今の、わたしとディリアンの関係」 セレーネは微笑み、沈黙で答えた。 その眼差しだけで、すべてを理解していることが伝わる。 「隠す必要なんてないわ」 ヴィヴィエンヌは一歩近づく。 「ディリアンは、いつだってわたしのものよ」 セレーネは静かに言った。 「わたくしは、まだ彼の妻です。そして、この城の奥様」 その声は揺れない。 「皆の前では、わたくしがレヴェンティスを統べています。ですから、皆さんはわたくしが引き続き彼のそばに留まると思ってるのでしょう」 ヴィヴィエンヌは冷笑した。 「そうだとしても、今のあなたに何が残っているの?お父様も、財産も、ディリアンも、全部、わたしが奪ったわ」 セレーネは、哀れむように微笑んだ。 「ええ。よかったですね」 その一言が、静かに突き刺さる。 「それほどまでに、あなたには必要だったのでしょうから」 ヴィヴィエンヌの笑みが消えた。 「最初から、その顔をしていればよかったのよ!正体を隠しやがって!」 「わたくしは、何も隠していません」 セレーネの声は穏やかだが、冷たい。 「あなたとは違って」 ヴィヴィエンヌの肩が強張る。 「どういう意味?」 セレーネは少し身を屈め、囁いた。 「わたくしに、優しくしておいたほうがいいですよ」 ヴィヴィエンヌの血の気が引く。 「わたしたちの『秘密』を、暴かれる前に」 セレーネは一歩近づいた。 「父も、財産も、ディリアンも、差し出しました」 その声は、あまりにも静かだった。 「感謝されるべきでは?」 ヴィヴィエンヌの唇が震える。 セレーネは、耳元で囁いた。 「ディリアンを救った人は、わたくしです」 時間が止まる。 「わたくしのふりをしたあなたではありませわ」 ヴィヴィエンヌは完全に凍りついた。 セレーネは、くすりと笑う。 「知りたいですわ、彼が真実を知ったら、どうするのか」 一歩下がり、背筋を伸ばす。 「偽物さん」 その一言だけを残し、セレーネは城の中へ戻っていった。 残されたヴィヴィエンヌは、蒼白なまま動けなかった。 …… 夜。 城は静まり返っていた。 祖母とオデットはそれぞれの部屋で食事を取り、ディリアンは執務室に籠もったまま。 セレーネは、ディリアンがヴィヴィエンヌを送っていくと思っていた。 だが彼女は、ひとりで城を去った。 湯を浴び、寝衣に着替えた頃。 控えめなノック。 モナが扉を開くと、イラルドが立っていた。 「奥様。旦那様のお部屋へご案内いたします。お仕事が終わり次第、旦那様も戻られます」 セレーネは小さく頷き、薄いガウンを羽織って廊下へ進む。 ディリアンの部屋の前で、イラルドは立ち止まった。 「中でお待ちください」 扉が閉まる。 中に足を踏み入れた瞬間、ディリアン特有の気配が漂っている。 重厚で、冷たく、それでいて、どこか懐かしい。 ヴィヴィエンヌの痕跡は、どこにもない。 セレーネはベッドの端に腰掛け、静かに息を整えた。 扉が開く。 ディリアンが入ってくる。 少し乱れた髪、赤みを帯びた瞳。 「先に、風呂に入る」 短く告げる。 セレーネは頷いた。 ディリアンは一度立ち止まり、彼女を見る。 「一緒に来るか?」 その声は、落ち着いていた。 セレーネは、薄く微笑む。 それが、二人にとって特別な提案ではないことを知っている。 ディリアンはワインのボトルと、グラスを二つ手に取った。 「行こう」 淡々と。 「一緒に、入ろう」 夜は、静かに更けていった。

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