裏切りの夜を越えた彼女は、眩いダイヤとなる

プロモーションを読み込み中...

裏切りの夜を越えた彼女は、眩いダイヤとなる

GoodNovel 完結

柳沼杏美(やぎぬま あずみ)は、親友である東原真理奈(ひがしはら まりな)の兄、東原春彦(ひがしはら はるひこ)と結婚して3年になる。 昨夜、いつも禁欲的な夫と初めて身体を重ねた。 何気ない雑談のなかでそのことを打ち明けると、真理奈はサッと顔色を変えた。瞬く間に目元を赤くして、そのまま部屋を飛び出してしまった。 翌日。 杏美は信じられない光景を目にした。 夜会が開かれている庭園の片隅。 春彦が真理奈を壁に押し付けていた。 いつもは気高く自制心に満ちた男が、今は焦燥に顔を歪め、すがるような声を漏らしている。 「あの夜は、酔っていたんだ」 真理奈は目を赤くし、怒りを滲ませた声で言い放つ。 「汚い手で触らないで! それに、義妹の私に夫婦の事情なんて説明しないでよ!」 その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。 血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している……

チャプター (1)

第1章

柳沼杏美(やぎぬま あずみ)は、親友である東原真理奈(ひがしはら まりな)の兄、東原春彦(ひがしはら はるひこ)と結婚して3年になる。 昨夜、いつも禁欲的な夫と初めて身体を重ねた。 何気ない雑談のなかでそのことを打ち明けると、真理奈はサッと顔色を変えた。瞬く間に目元を赤くして、そのまま部屋を飛び出してしまった。 翌日。 杏美は信じられない光景を目にした。 夜会が開かれている庭園の片隅。 春彦が真理奈を壁に押し付けていた。 いつもは気高く自制心に満ちた男が、今は焦燥に顔を歪め、すがるような声を漏らしている。 「あの夜は、酔っていたんだ」 真理奈は目を赤くし、怒りを滲ませた声で言い放つ。 「汚い手で触らないで! それに、義妹の私に夫婦の事情なんて説明しないでよ!」 その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。 血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している…… 第1話 その言葉に春彦の顔から血の気が引き、顎を鋭く強張らせた。 「なら、どうして取り乱しているんだ。俺に結婚しろと言ったのはお前だろう。男が妻を抱くのは当然のことだ。こんな日が来るくらい、最初からわかっていたはずじゃないか」 不穏な空気に、物陰から様子を窺っていた杏美は眉をひそめた。 やがて、重苦しい沈黙を破るように、低く啜り泣く声が聞こえてきた。 「……わかった。もう泣かないでくれ。起きてしまったことだし、俺が悪かった。罰ならいくらでも受けるから」 春彦の口調が急に甘く優しいものに変わる。 その言葉を遮るように、真理奈が春彦の腕を掴み、思い切り噛みついた。 春彦は苦悶の呻きを漏らしたが、彼女を突き飛ばそうとはしない。 引き締まった腕には、瞬く間にくっきりとした歯型が浮かび上がった。 まるで牧場で、持ち主が「これは自分の所有物だ」と知らしめるために馬に押す焼き印のように。 真理奈の狂おしいほどの独占欲に当てられたのか、春彦はふっと息を呑み、堪えきれずに彼女の唇を塞いだ。 深く、溺れるような口づけ。やがて唇を離すと、春彦が荒い息を吐きながら囁く。 「わかってるくせに。あの夜、俺はお前と間違えたんだ……」 その瞬間、杏美は大きく目を見開いた。 それが何を意味するのかを理解した途端、顔からさあっと血の気が引き、全身の震えが止まらなくなる。 血の繋がりがないとはいえ、春彦は自分の義妹を愛している。 あろうことか、妻の親友を。 杏美は崩れ落ちそうになる身体を必死に支え、その場から逃げ出した。 見えない大きな手に心臓を鷲掴みにされたように苦しい。 涙が後から後から溢れてくる。 そうか。 あれが、突然プロポーズしてきた理由だった。 …… 杏美と真理奈は大学の同級生で、学生会の役員を共に務めていた。 いつも行動を共にし、学生会の飲み会にも揃って参加していた。 そんな飲み会の帰り。 店の外にはいつも、同じ黒のマイバッハが停まっていた。 車内には、パリッとしたスーツを着こなす冷たい顔立ちの男の姿があった。 彼の視線はいつも、杏美たちへ向けられていた。 後になって、その男が真理奈の兄、春彦だと知った。 妹を心配するあまり、飲み会のたびに車で迎えに来ては待っていたらしい。 最初は少し変わった人だと思っていた。 けれど顔を合わせるうちに、会釈をする関係から、ぽつりぽつりと短い言葉を交わす関係へと変わっていった。 いつしか杏美は、この極端に妹思いな男に惹かれるようになっていた。 飲み会のたびに、外の空気を吸いに行くふりをして彼と言葉を交わすのが楽しみだった。 誰にも言えない片想いを、5年も胸に秘め続けた。 二人の家柄が釣り合わないことは分かっていた。 身の程知らずな望みなど、抱いてはいけないと自分に言い聞かせてきた。 だが、春彦の政略結婚の噂が流れ始めたときのこと。 すべてを見透かしていた真理奈が、春彦への告白をけしかけてきた。 「お兄ちゃんがどこかのワガママなお嬢様と結婚するくらいなら、杏美が奥さんになってくれたほうがずっといい。杏美なら私の味方になってくれるし。あの竹内のお嬢様が家に入ってきたら、私、絶対に上手くやっていけないもん」 親友のそんな言葉に背中を押され、杏美は想いを伝える決意をした。 あの日、真理奈は気を利かせて皆を遠ざけてくれた。 良い雰囲気に後押しされたのか、杏美は俯いたまま、春彦への5年分の想いを堰を切ったように語り続けた。 しかし春彦は少しも動じず、まるで彼女の好意をとうに知っていたかのようだった。 彼は煙草をくわえ、細められた目は、遠ざかっていく真理奈や連中の背中だけをじっと追っていた。 その反応に脈はないと悟り、その場を取り繕うような言葉を口にしようとした矢先、春彦がふいに声を発した。 「いいだろう。家から急かされているんだ。明日、婚姻届を出しに行けるか」 あの時の杏美は、胸を埋め尽くすような歓喜と愛しさにすっかり思考を奪われ、ただ無我夢中で頷いていた。 今になって細かく思い返せば、不自然なことばかりだ。 東原家の掟は厳格で、彼と真理奈の禁断の恋など絶対に許すはずがない。 政略結婚で気位の高い令嬢を迎えるくらいなら、後ろ盾を持たず、言いなりにしやすい田舎娘を妻に据える。 そうすれば、彼は愛する義妹を一生守り抜くことができる。 春彦が本当に愛しているのは、真理奈だった。結婚して3年、真理奈のためにずっと禁欲を貫いていたというのか。 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が、容赦なく体を打ち付ける。 全身はずぶ濡れになったが、不思議と寒さは感じなかった。 すれ違う人々の怪訝な視線を浴びながらも、杏美はただ一歩、また一歩と家路を辿った。 夜。彼女は弁護士に連絡して離婚の細かな条件を相談し、協議書の作成を依頼した。 あらかじめ役所でもらっておいた離婚届を机に広げた直後、春彦が帰宅した。 彼はソファで魂が抜けたように座り込む杏美を一瞥したが、何も問いただすことはなく、そのまま自室へ向かった。 杏美は木偶の坊のように立ち上がった。離婚届の署名欄に付箋を貼り、他の契約書類の間に挟み込んでから、彼に向かって差し出す。 「悪いんだけど、この書類にサインをお願い」 春彦は取り合わず、シャツのボタンを外し始めた。引き締まった肉体があらわになる。 そこに無数につけられた生々しいキスマークを見て、杏美は無意識に目を逸らした。 「何を白々しい真似を。お前がつけたんだろうが」 春彦は気だるげに別の服を手に取り、着替え始める。 「俺が酔っている隙を突いて、既成事実を作る。それがミス帝大のやることか?行列を作って告白してくる男どもは知っているのか」 「あなたの方から……」 あの夜、求めてきたのは彼の方だったはずだ。しかし、今の杏美には反論する気力すら残っていなかった。 春彦は容赦なく言葉を続ける。 「そんなに俺が好きか?口の軽い女だな。俺に抱かれたってことを、周りに言いふらさないと気が済まないのか。お前が余計なことを言ったせいで、真理奈が誤解しそうになったじゃないか」 杏美はカッと目頭が熱くなるのを覚え、書類を持つ手にぎゅっと力を込めた。 ――私たちは夫婦なのに。夫婦の営みをして、妹である真理奈が一体何を誤解するというの? そう問い詰めたかった。 けれど彼女はただ書類を彼の目の前に突き出し、同じ言葉を繰り返す。 「ごめんなさい、もう二度とないから。この書類、急ぎなの」 春彦は忌々しそうにサインを書き殴ると、ペンを杏美の足元へ乱暴に投げつけた。 「次があったら、さっさと出て行け」 遠ざかる彼の背中を見つめ、杏美はポツリと呟く。 「……次は、ないわ」 手の中の、署名された離婚届を強く握りしめる。涙が、一滴また一滴とこぼれ落ちた。 半月後。ここでの用事をすべて片付けたら、彼の手の届かない場所へ永遠に去ろう。 第2話 それから数日間、春彦は家に帰ってこなかった。 真理奈もまた、姿を見せなかった。 その間、真理奈のインスタグラムのストーリーは頻繁に更新されていた。 雨の中、わざわざ買ってきてくれたという老舗の和菓子。50カラットのピンクダイヤモンド。遊園地の夜空を彩る花火。そして、彼女の足元に跪いて靴を履かせている男の姿。 添えられた文章にはこうある。 【何億円もの仕事を放り出して和菓子を買ってくれたから、今回だけは特別に許してあげる。次はないからね~!】 大学の友人たちは、真理奈の秘密の彼氏の羽振りの良さに沸き立ち、次々とコメントを寄せていた。 だが、写真の端に無造作に写り込んだ指先を見た瞬間、杏美にはわかってしまった。この「秘密の彼氏」が、春彦であるということを。 杏美の瞳からスッと光が失われた。 彼女は手のひらに爪が食い込むほど、強く拳を握りしめた。 3年前に結婚した際、春彦は式を挙げずに入籍だけで済ませたいと提案し、杏美もそれに同意した。 せめて近場でいいから、一泊二日の新婚旅行に行きたい。温泉に入ったり、自然の中を歩いたりするだけでいい。 それが杏美の唯一のささやかな願いだった。 しかし春彦は「仕事が忙しい」と、にべもなくそれをはねつけた。 今ならわかる。 仕事が忙しかったわけではない。 単に、価値のない人間のために時間を割く必要などなかっただけなのだ。 春彦から贈られたバッグやピアス、そして数少ないツーショット写真を、すべてゴミ袋へ放り込んだ。 何年もの時間をかけて少しずつ思い出で埋まってきた部屋が、すっかりがらんどうになっていく。 一抹の寂しさはあったが、それ以上に、重い枷が外れたような解放感が勝っていた。 最後の段ボール箱を片付け終えたとき、不意に春彦が部屋に姿を見せた。 ゴミ箱の中身に目を留め、彼はわずかに眉をひそめた。 「どうして捨てたんだ」 「古くなったから、新しいものに買い替えようと思って」 杏美が淡々と答えると、春彦はそれ以上追及しなかった。 ネクタイを緩め、ふうと息を吐いた。 「ドレスに着替えてくれ。今夜のチャリティーパーティーに付き合ってもらう」 「体調が優れないの。一人で行ってきて」 結婚して以来、杏美が彼の頼みを断ったのはこれが初めてだった。 春彦は特に気にする素振りも見せず頷くと、不意に手を伸ばし、杏美の額に触れた。 「……熱はないな。薬は飲んだか」 杏美が答えるより早く、ドアの向こうから甘ったるい声が響いた。 「杏美、メイク終わった?今日はどのドレス着るの?」 真理奈の声だ。 春彦は咄嗟に手を引っ込め、ドアのほうへと視線を向けた。 杏美は静かに目を伏せた。頭がガンガンと痛む。額には、まだ彼の掌の温度が残っている。 バタンとドアが開かれた。顔を向けた春彦の眼差しは、みるみるうちに熱を帯びていった。 彼の視線の先には、真理奈の姿があった。 ピンク色のベアトップのプリーツドレスを身に纏っている。アップに結い上げた髪が、雪のように白い肩のラインを際立たせていた。ぱっちりとした大きな瞳に、アプリコットのリップグロスで彩られた唇。 春彦は厳しい声で言い放った。 「なんて格好をしているんだ。着替えてきなさい」 真理奈は唇を尖らせ、小走りで春彦にすり寄った。 「お兄ちゃんってば、ほんと頭固いんだから。今はこういうのが流行ってるの。あざとかわいいって言うんだけど、似合ってるでしょ?」 彼女は無邪気な様子で、機嫌を取るように春彦の腕を揺さぶった。 「何があざとかわいい。そんな格好をしていたら、またろくでもないドラ息子どもが寄り付くだろうが」 春彦は厳しい声で叱りつけた。 「もう、何を心配してるの?私に極度のシスコンのお兄ちゃんがついてることなんて、この東都じゃ誰もが知ってるじゃない。お兄ちゃんがいるのに、誰が私に近づけるっていうの?」 真理奈はさらに甘えるように身を寄せた。 「今夜はずーっと、お兄ちゃんのそばから離れないって約束するから。ね?杏美からも何か言ってよ」 杏美は何も言わなかった。 真理奈のその調子のいい言葉だけで、春彦はすでに完全に手懐けられていたからだ。 春彦は人差し指で真理奈の額を軽く突いた。 「お前は本当に……杏美が味方だからって、好き勝手しやがって。今回だけだぞ。今夜は絶対に俺のそばから離れるな」 「了解!」 真理奈は茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。 杏美も、それとまったく同じデザインのドレスを持っていた。真理奈から「お揃いにしよう」と贈られたものだ。 数日前の結婚記念日。 杏美は胸を躍らせてそのドレスに袖を通したが、春彦はろくに目を向けようともしなかった。 ……そう。この人だって、嫉妬もすれば独占欲だって剥き出しにする。ただ、その相手が自分ではないだけ。 不意に、真理奈の視線が杏美へと向いた。 「あれ、杏美はどうしてまだ着替えてないの?」 「少し体調が悪くて。お留守番させてもらうわ」 杏美が辞退すると、真理奈はあからさまに残念そうな声を上げた。 「えー?杏美が行かないなら、女の子は私一人になっちゃうじゃない。お願い、一緒に来てよ。それに、お兄ちゃんと結婚して初めて出席するパーティーなんだから、各界の人たちに妻としてお披露目する絶好のチャンスだよ。ねえお兄ちゃん、そう思わない?」 春彦は頷き、杏美を一瞥すると冷たく言い放った。 「向こうで座っているだけでいい。来なさい」 一瞬で切り替わるその冷たい態度に、杏美は胸を針で刺されたような痛みを覚えた。 真理奈の頼みであれば、どんなことでも、彼は必ず無条件で聞き入れる。 杏美は密かにため息をつき、無言のままドレスに着替えるべく部屋へと戻っていった。 第3話 マイバッハがホテルのエントランスに滑り込むと、すかさず支配人が出迎えた。 案内されたのは会場で最も格式高い主賓席だった。 そこには父の東原宗次郎(ひがしはら そうじろう)と母の東原珠代(ひがしはら たまよ)をはじめ、東原家の面々がすでに顔を揃えていた。 宴が始まる前から、挨拶に訪れる人は後を絶たなかった。 親に連れられた御曹司たちも、東原家に取り入ろうと次々に群がってくる。 そんな中、見知らぬ青年が真理奈にダンスを申し込んだ。だが、本人が口を開くより早く、春彦がすげなく断りを入れた。 それを見ていた叔母が顔をしかめ、諭すように口を挟んだ。 「真理奈がもういくつになったと思っているの?少しは若い男の相手くらいさせなさいよ。ちょうど今日は年頃の優秀な青年たちが大勢来ているんだから、この機にふさわしい相手を見つけて、早く嫁に行かせたほうがいいわ。これ以上婚期が遅れたら、本当に嫁の貰い手がなくなってしまうわよ」 春彦は顔色を変えたが、あくまで冷静を装って言い返した。 「真理奈はまだ若い。あと数年待っても遅くはないでしょう。あいつの結婚相手は、俺が自分の目で見定めます」 しかし、意固地になる春彦を見て、周囲の親戚たちもこぞって口を出し始めた。 「春彦、昔から妹を可愛がっているのは知っている。だがな、男も女も年頃になれば結婚するものだ。兄がいつまでも妹を縛り付けておくなんて世間体が悪いだろう!」 「そうよ!真理奈ちゃんも今年で26、杏美さんと同じ年なんだから、もう子供じゃないわ。親友の杏美さんがあなたと夫婦仲良くしているのを見たら、自分だって早くお嫁に行って温かい家庭を築きたいと思うに決まっているじゃない!」 周囲からの追及が熱を帯び、真理奈が困惑し始めたその時。 春彦が勢いよく立ち上がった。 その声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。 「真理奈の婚約は俺が決めると言っているんだ。口出しは無用だ!」 普段は冷静沈着な春彦が、親族の重鎮たちの前で感情を爆発させたことに、誰もが息を呑んだ。 ちょうどその時、フロアに流れる曲が変わった。 宗次郎がそっと珠代に目配せをした。 意図を察した珠代は、春彦と杏美にダンスフロアへ向かうよう促した。 「春彦、杏美。夫婦で一曲踊っていらっしゃい。最近は仕事ばかりで、夫婦水入らずの時間もなかったでしょう?いい機会だから、若い子たちに理想の夫婦の姿を見せてあげなさいな」 二人が辞退しようとした瞬間、不意に眩いスポットライトが彼らを照らし出した。 フロアにいた人々がさっと道を譲った。 春彦が一礼してスッと手を差し出すと、杏美は無表情のままその手を取った。 「わあ、お似合いね!若きカリスマ社長に、クールな高嶺の花。これぞ上流階級の理想の夫婦だわ!」 「幸せそう……」 「まるで小説の世界ね!」 周囲から羨望の眼差しを向けられながら、二人は暗黙の了解のもと、他人が思い描く「完璧な夫婦」を演じ始めた。 照明が仄暗く落とされた中、春彦の視線が杏美を捉えた。 今日の杏美は美しかった。 真理奈のような愛らしさとは違う。 静かで、控えめで、成熟した大人の女の香りが漂っていた。 彼の瞳の色が深くなった。 ベッドの中で乱れていた彼女の姿が脳裏をよぎる。艶めかしく、泣き濡れるように喘ぐ彼女に、あの夜、自分は何度も理性を吹き飛ばされた。 無意識のうちに、春彦の唇が杏美の額に触れていた。 だが突然、春彦の足がピタリと止まった。 杏美はステップを合わせきれずに、彼の足を踏んでしまった。 次の瞬間、春彦は杏美の手を振り払い、怒りも露わに人混みを掻き分けて足早にフロアを後にした。 フロアの片隅で、大竹元祐(おおたけ げんすけ)という御曹司が真理奈の手首を掴んでいた。 真理奈は必死に身を反らして逃れようとしていたが、元祐は下心丸出しで顔を近づけ、大きな手で彼女の細い腕をしっかりと押さえつけていた。 怒り狂った春彦が元祐を乱暴に引き剥がし、問答無用で拳を振り下ろした。 鈍い音を立てて、元祐が床に崩れ落ちる。 「この手で触ったのか?」 春彦は近くにあったナイフとフォークを鷲掴みにすると、元祐の掌に突き立てようと腕を振り上げた。 周囲から悲鳴が上がった。 見かねた杏美がドレスの裾をつまみ上げて駆け寄り、春彦を引き留めようとした。 その時、恐怖に駆られた元祐が、春彦の攻撃を阻もうと傍らのテーブルを勢いよく蹴り倒した。 テーブルの上のシャンパンタワーが派手に崩れ落ち、大量のグラスが宙を舞って人々の頭上へ降り注いだ。 春彦は本能的に真理奈を庇うように抱きしめた。 しかし、傍らにいた杏美は逃げ遅れ、砕け散るグラスの破片をまともに浴びてしまった。 鋭利な破片が彼女の柔らかな腕を切り裂き、白い肌に瞬く間に生々しい血の筋が浮かび上がった。 痛みにくぐもった声を漏らし、床に倒れ込んだ拍子に、散乱していた破片が彼女の掌に深く突き刺さった。 焼け付くような激痛が、杏美の全身を容赦なく貫いた。 第4話 再び目を覚ました時、そこは病院のベッドの上だった。 そっとまぶたを開けると、傍らの丸椅子で真理奈がうとうとしていた。 その背後には春彦が立ち、ひどく熱を帯びた瞳で彼女を見つめている。 彼は着ていたスーツのジャケットを脱ぎ、真理奈の肩にそっと掛けた。 そのまま彼女の髪に触れようと手を伸ばしかけ――不意に、目を覚ました杏美と視線が交差した。 春彦は宙に浮いたままの手を、しばらくして力なく下ろした。 一切の言い訳を口にすることなく、きびすを返して医者を呼びに出て行った。 気配で真理奈も目を覚ました。 眠気を引きずった声でこちらを覗き込んだ。 「杏美、気がついた?大丈夫?」 杏美は小さく頷いた。 真理奈はほっと胸をなでおろした。 「もう、死ぬほどびっくりしたんだから。昨日、すごい血だったんだよ。傷口がパックリ開いて……私まで痛くなりそうだった。 もとはと言えば、あの大竹ってバカが馴れ馴れしく触ってくるからいけないのよ!パパがお見合いなんて急かさなければ、こんな事にはならなかったのに」 杏美が何か言おうとした矢先、春彦が医師を連れて戻ってきた。 医師がベッドに近づき、杏美の傷口を診察し始めた。 その時、真理奈のスマートフォンが鳴った。 画面に表示されたのは「パパ」の文字。 おそらく、また見合いの進捗を問い詰めてくるのだろう。 真理奈はサッと表情を強張らせ、助けを求めるように春彦を見上げた。 春彦は眉間に深い皺を寄せると、真理奈のスマートフォンをひったくり、足早に病室を出て行った。 その険しい表情に、何かマズいことが起きると思ったのか、真理奈も慌てて後を追った。 診察を終えた医師が検査票を差し出し、一階で再度全身検査を受けるようにと杏美に告げた。 階段の踊り場に足を踏み入れた瞬間、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。 「真理奈、よく聞け。父さんたちがどう思おうと、お前の結婚だけは絶対に認めない。俺は一生、お前を手放さない。この東原家の跡継ぎの座すら、どうなったって構わない!」 「じゃあ、杏美のことはどうなるの?杏美は今、お兄ちゃんの奥さんで、私の親友なんだよ。申し訳ないと思わないの?」 涙で顔をくしゃくしゃにした真理奈が、春彦を問い詰めていた。 春彦は真理奈の華奢な肩を痛いほど掴み、血走った目で吼えた。声はひどく掠れ、絶望に満ちていた。 「杏美に申し訳ないだと?なら、どうして俺にあの女と結婚しろなんて言った!俺が……お前だけを愛していると知っていながら。真理奈、お前は俺を狂わせる気か!」 身を切り裂くような、悲痛な叫びだった。 次の瞬間、飢えた獣のように、春彦は猛然と真理奈の唇を塞いだ。 激しく口づけに耐えきれず、真理奈は壁際まで追いやられ、やがて抗う力も失って甘く溺れていった。 ほどなくして、くぐもった吐息と艶めかしい声が響き始めた。 これ以上聞いていられず、杏美はその場から逃げるように引き返した。 …… 東都では3日間にわたって雨が降り続いた。 杏美の入院もまた、同じく3日間に及んだ。 退院の日、春彦が自ら車で迎えにやってきた。 彼は車から降りてエスコートしようともせず、杏美は自動で開かれたドアから一人で乗り込んだ。 真理奈の前で見せるあの優しく甘い兄の顔は、ここには微塵も存在しなかった。 春彦は杏美を一瞥し、淡々と尋ねた。 「まだ痛むか」 杏美は無言で小さくかぶりを振った。 エンジンが低く唸りを上げ、車が走り出した。道中、重苦しい沈黙が続いた後、やがて春彦のほうから口を開いた。 「俺たちも、夫婦になって3年になる。不満があるなら言え」 妻の機嫌を取ろうとするにしても、あまりに事務的で冷淡だ。 まるでビジネスの取引でも片付けるかのように、「要望があるなら提示しろ」と言わんばかりの態度だった。 とうに心は冷え切っていた。杏美は窓の外に顔を向けたまま答えた。 「何でもないわ。運転に集中して」 今更、何を話し合えばいいというのか。 彼が自分を微塵も愛していないという事実なら、もう痛いほど分かっている。 その夜、杏美は一睡もできなかった。 翌朝になってようやく浅い眠りに落ちた。 再び目を覚ました時、すっかり日は高く昇っていた。 ぼやける視界の中、ベッドの足元にあるドレッサーの前に、冷ややかで洗練された長身のシルエットが立っていた。 鏡には、春彦のシャープな横顔が映り込んでいた。 彼はコーヒーカップを片手に、ドレッサーの上に置かれた和歌集のページを真剣な眼差しで捲っていた。 第5話 しばらくして、春彦が鏡越しに杏美を見た。 「起きたか」 春彦は気楽な口調で言いながらも、視線は歌集に向けたままだ。 「お前が和歌を好むとはな」 それは大学時代に彼が誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだ。 日夜読み込んでいたため、ページにはすでにびっしりと書き込みが残っている。 彼は忘れてしまったのか、それとも秘書に適当に見繕わせたものをただ贈っただけだったのか。 杏美は話題を変えた。 「今日は会社、お休みなの?」 「ああ」 春彦は片手をポケットに突っ込み、ゆっくりと歩み寄ってきた。 「最近は忙しくて、構ってやれなかったからな。今日は前からお前が言っていた遊園地に行って、息抜きでもしよう」 杏美は眉をひそめた。彼の真意が読めない。 だが、気づけばもう遊園地のゲートの前に立っていた。 案内役のスタッフが付きっ切りで特別待遇でもてなし、すべてのアトラクションへ優先的に案内される。 春彦に手を引かれるまま、メリーゴーランドやジェットコースターに乗った。 フリーフォールが急降下する瞬間、杏美は思わずきつく目を閉じ、隣に座る春彦の手をギュッと握りしめてしまった。 ハッとしてすぐに手を離したが、春彦は複雑な色を帯びた瞳でこちらを見ていた。 最後に向かったのは観覧車だった。 ゴンドラが静かに上昇し、地面が遠ざかっていく。 眼下の建物も人影も、豆粒のように小さくなった。 空いっぱいに広がる夕焼けが、二人の体を赤く染め上げる。 ドンッ、と空で大輪の花火が弾け、ムードは最高潮に達した。 春彦は一枚の写真を撮ると、手元のスマートフォンに素早い指使いで文字を打ち込み始めた。 杏美の目に飛び込んできたのは、真理奈とのチャット画面。 観覧車から撮った夕日と花火の写真。 添えられたメッセージは「綺麗だ。お前に会いたい」。 杏美はこみ上げる胸を締め付けるような思いを押し殺し、窓の外へ顔を向けた。 幼い頃、観覧車には「幸福の観覧車」というジンクスがあると聞いたことがある。 好きな人と一緒に乗れば、それから先ずっと幸せになれるというものだ。 結婚してからの3年間はおろか、それ以前の長い間ずっと、春彦と一緒に観覧車に乗ることは杏美の執念のようなものだった。 まさか、空に一番近い頂点までやって来たというのに、これほどまでに幸せから遠ざかることになるとは思いもしなかった。 観覧車を降りる頃には、すっかり日が落ちていた。 春彦は予約していたミシュランの星付きレストランへと向かい、何食わぬ顔で口を開いた。 「真理奈が近くでネイルをしてるらしい。ついでに呼んで、一緒に飯にするか」 それが本当についでなのか、計算ずくなのか。杏美にはもう推測する気力すらなかった。 ただ短く相槌を打った。 ほどなくして、真理奈が姿を現した。 「杏美、今日のお兄ちゃんの点数はどう?」 杏美は作り笑いを浮かべ、低く答えた。 「まあまあね」 「やっぱり!気に入ってくれると思ってた」 真理奈は得意げに笑った。 「最近、杏美がずっと落ち込んでるみたいだったから、もっと構ってあげてってお兄ちゃんに言っておいたの。この人ったらツンデレで、女の子の気持ちなんて全然わかんないんだから。杏美、大目に見てあげてね」 杏美は息を呑んだ。 今日、春彦がこれほど甲斐甲斐しく動いてくれていたのは、すべて真理奈の指示だった。 わずかに残っていた期待すら、木っ端微塵に打ち砕かれた。 その後の食事は、まるで砂を噛むようだった。 やがて、メインフロアでシェフによる炎を使ったフランベのパフォーマンスが始まった。真理奈は目を輝かせ、春彦の腕を引いて見物に行った。 どっと疲れを感じた杏美は、化粧室へ行くと言い訳をして席を立った。 用を済ませて外へ出ると、様子がおかしかった。 人々がパニックを起こして出口へ殺到し、甲高い悲鳴が飛び交っている。 驚いていると、鼻を突く焦げ臭い匂いが漂ってきた。 「火事だ!助けて!」 杏美はさっと血の気が引き、背を向けて逃げようとした。 だが、真理奈と春彦がまだ個室にいることを思い出した。 危険も顧みず、逃げ惑う人波を逆行して奥へと進んだ。 個室にたどり着いた時、ちょうど春彦が真理奈を腕の中に庇うようにして出てくるところだった。 「お兄ちゃん、杏美がまだトイレにいるの!火事に気づいてないかも。先に助けに行ってよ、私は一人で逃げられるから!」 「駄目だ!お前は俺と一緒に来い」 春彦の声は焦燥に駆られ、断固としていた。しかし真理奈も食い下がった。 「私は平気だから、杏美を助けて!奥さんでしょ。もし今日何かあったら、ご両親にどう説明する気なの?」 「真理奈、よく聞け。あいつがどうなろうと、親がどう思おうと知ったことか!俺はお前さえ無事ならそれでいい!あいつなら、運が良けりゃ自力で逃げ切れるはずだ。逃げ遅れたって俺たちには関係ない!俺はお前だけが大事なんだ。他はどうでもいい」 一言一句が、鋭い刃となって杏美の胸をえぐった。 彼女は唇を噛み締め、両手をきつく握り、声が漏れないように必死に耐えた。 二人の姿が遠ざかった直後。 押し寄せてきた人の波に突き飛ばされ、杏美は床に倒れ込んだ。 逃げ惑う人々の足が、容赦なく彼女の体を踏みつけていった。 背中から身を裂くような激痛が走り、危うく気を失いそうになった。 火の手は徐々に大きくなり、杏美の目の前まで迫っていた。 痛む体を無理やり起こし、口と鼻を覆いながら、壁伝いに出口へと向かった。 這うようにしてどうにか外へ逃げ延びた時。 遠くの方で、春彦が片膝をつき、真理奈の脚を優しく揉みほぐしているのが見えた。 その光景を見た瞬間、鼻の奥がツンと熱くなり、涙がどっとあふれ出した。 あちこちに青痣ができた自分の腕に視線を落とし、杏美は自嘲するように、力なく笑った。 第6話 杏美は真理奈に無事を知らせる短いメッセージを送り、一人で東原家へと帰った。 死線を越えたあの火事は、彼らの関係性を大きく変えた。 春彦と真理奈は、互いの存在を確かめ合ったからか、公の場でも人目を憚らずに親密な空気を漂わせるようになった。 数年前から、東都の社交界ではこの血の繋がらない兄妹について様々な憶測が飛び交っていたが、春彦の結婚によってようやく落ち着きを見せていたところだった。 それが今、二人の異常な振る舞いによって、過去の忌まわしいゴシップが再び蒸し返されてしまった。 当然、その噂は杏美の耳にも届いていた。 だが、あの火災を経て、彼女の心は完全に冷え切っていた。 外の喧騒には一切耳を貸さず、毎日ひたすら荷物をまとめ、資金を移し、この家から去るための計画だけを進めていた。 日々はただ淡々と、整然と過ぎていった。 * そんなある日の夕暮れ時。 執事が血相を変えて部屋に飛び込んできた。その顔には明らかな恐怖が張り付いていた。 「杏美様、どうか春彦様をお助けください!このままでは旦那様に打ち殺されてしまいます!」 杏美はわずかに目を丸くしたが、手元の作業を止めることはなかった。 本家へ向かう車中、執事が涙ながらに事の顛末を語った。 春彦が誰かと喧嘩になり、相手を半殺しにしてしまったという。 相手の男は集中治療室で昏睡状態に陥り、その家族がメディアにまで話を持ち込んで騒ぎ立てているらしい。 本家に到着すると、春彦は血まみれになって床に這いつくばっていた。傍らでは真理奈が泣き叫んでいた。 空気を裂く音と鈍い打撃音が響き、宗次郎の振り下ろしたゴルフクラブが春彦の背中を容赦なく打ち据えた。 痛々しいミミズ腫れがまた一つ増えた。 執事に促され、杏美は呆然としたまま歩み寄った。 「お義父さん、もうやめてください。何かあるなら話し合いましょう」 杏美が庇いに入ったのを見て、激昂していた宗次郎も動きを止め、荒い息を吐いた。 「苦労をかけるな。この馬鹿息子を、しっかり叩き直してやってくれ」 そう吐き捨てるように言うと、再び春彦を指差して怒鳴り散らした。 「すでに家庭を持つ身でありながら、なんだその無思慮な振る舞いは!あんな言葉を吐いて、妹の顔に泥を塗るとは!」 そこで初めて、杏美は事の真相を知った。 相手の男は巷の噂を真に受け、春彦と真理奈の関係が事実なのかと問い詰めたらしい。 それに腹を立てた春彦は「そうだとしたらどうだ?違うとしたらどうだ?」と言い放った。 その無責任な発言がネット上に拡散され、さらに悪意のある憶測を呼んでしまった。 制裁を受けた後、真理奈は外出を禁じられ、春彦は高熱を出して意識を失った。 杏美が一人で彼の看病に当たった。 真夜中。 春彦の枕元に座る杏美は、猛烈な睡魔に襲われていた。 3時間おきに濡れタオルを取り替え、容態を確認した。 3日目の夜になって、ようやく春彦が目を覚ました。 顔面は蒼白で、唇はひどくひび割れていた。 頬杖をついていた杏美は、もう眠りに落ちる寸前だった。 春彦は長い沈黙の後、うつらうつらとしている彼女を揺り起こした。 「俺たち、やり直さないか」 寝ぼけ眼だった杏美は、眠気を吹き飛ばすほどの衝撃を受けた。 しかし、奥歯を噛み締めたまま何も答えなかった。 周囲の人々は皆、春彦が改心したのだと喜んだ。 その日を境に、春彦は定時で帰宅するようになり、バラの花束やダイヤモンドネックレスを贈るなど、杏美に対してひどく優しく、甲斐甲斐しく接するようになった。 東原家もここぞとばかりに、子作りを執拗に急かしてきた。 まるで子供を産ませることで、世間の喧しい口を塞ごうとしているかのようだった。 彼らは慌ただしく専門の栄養士を手配して妊活の準備を始め、杏美の普段の食事を制限して専用の栄養食に切り替えた。 さらにヨガのインストラクターまで雇い入れ、体力作りを強要してきた。 杏美はただ、無言を貫いていた。 * 夜。 ベッドに横になり、うとうとしていた杏美は、マットレスが沈み込むのを感じた。 直後、大きな体が彼女を背後から抱きしめた。 無意識に身をよじったが、逞しく力強い腕にきつく抱きすくめられ逃げられなかった。 「俺だ」 温かい息遣いとともに、低い声が耳元をくすぐった。 「杏美、俺を愛しているだろう?」 その声には、妙な甘さと絶対の自信が入り混じっていた。 なぜか、その問いかけに杏美の胸は重く沈んだ。 彼女は首を横に振って否定した。 暗闇の中、男が吹き出すように笑った。 「嘘つきめ」 次の瞬間、彼女は春彦に押し倒され、酒の匂いを帯びた執拗なキスを怒涛のように浴びせられた。 相手の熱い体温が冷え切った肌に触れた途端、杏美はハッと我に返った。 「離して!」 それでも執拗に絡みついてくる男に、杏美はさらに激しく抵抗した。 「やめて!あなたと真理奈のことは知ってるんだから……」 その名が出た瞬間、春彦の動きがピタリと止まり、彼女を押さえつける手にギリッと力がこもった。 声が地を這うように低くなった。 「俺と真理奈が、どうしたって?お前まで、外野の噂を信じたのか?」 第7話 杏美は奥歯を噛み締め、極限まで冷え切った瞳で虚空を睨みつけた。 外野の噂を信じたわけではない。 すべて、この目で真実を見てしまっただけだ。 「杏美」 春彦が荒々しく腰を打ち付けてきた。 「お前には本当に失望したよ」 春彦は彼女の細い首筋に顔を埋め、その動きをさらに激しく、容赦のないものにしていった。 下半身から引き裂かれるような激痛が走った。 杏美は歯を食いしばり、声一つ漏らしまいと耐え忍んだ。 乱暴に体を揺さぶられながら、ふと、彼と初めて出会った時の光景が脳裏をよぎった。 白いシャツに黒のスラックス。 紫煙の向こう、人混みの中で大笑いする真理奈を、どこか寂しげな瞳でじっと見つめていた男。 そして、自分へと向けられた視線。 思い上がりだった。 惹かれ合う二人の運命に、部外者の自分が無粋にも割って入ってしまっただけだった。 …… 30分後。 春彦は一言も発することなく部屋を出て行った。 杏美は頭の中が真っ白になるのを感じながら、どうにか体を支えて起き上がった。 屋敷の薬箱へ避妊薬と鎮痛剤を探しに行く途中、春彦の書斎の前を通りかかると、中から声が聞こえてきた。 「ああ、もう済ませた」 「一度だけだ。心配するな、これで妊娠できるはずだ。お前だって、一回でできただろう?」 「ああ。キスはしていない」 そこから、彼はさらに声を潜めた。 「出国手続きはすべて手配してある。向こうは環境も医療設備も万全だ。安心して胎教に専念しろ」 「真理奈、俺の計画通りだ。杏美が子供を産んだら、俺たちの子供とすり替えて、適当な理由をつけて離婚する。そうすれば、俺たちの子供が正真正銘の東原家の跡取りになり、俺たちもずっと一緒にいられる」 杏美は氷のように冷たい壁に背を預けた。 全身の震えが止まらなかった。 そういうことだったのか。 外聞を気にしたわけでも、心を入れ替えたわけでもなかった。 真理奈が妊娠したからだ。 最初から最後まで、自分は彼らの道ならぬ愛を隠すための隠れ蓑でしかなかった。 利用するだけ利用して、用済みになればあっさりと切り捨てる。 彼はそこまで周到に計画を練っていた。 …… そして、最後の日。 杏美は朝一番で荷物を詰めたスーツケースを空港へと発送した。 階段を降りて家を出ようとした矢先、真理奈と鉢合わせた。 彼女は相変わらず親しげに挨拶をしてきたが、杏美にそれに応じる気力など残っていなかった。 真理奈はサッと顔から血の気を引かせ、焦ったように口を開いた。 「杏美、まさかネットの噂を信じてるの?あんなの全部嘘だよ!私たちは親友だし、お兄ちゃんは私の家族だよ。そんなことするわけないじゃない」 「真理奈!」 杏美は怒りで声を震わせた。 「今日から、私たちはもう友達じゃないわ」 杏美が構わず前へ進み出ると、真理奈は弁解しようと慌てて後を追ってきた。だが、段差で足を滑らせて体勢を崩した。 「きゃあ!」 短い悲鳴。 階段から落ちかけた真理奈は、咄嗟に腕を伸ばして杏美の服を掴んだ。 引きずられるようにバランスを崩した杏美は、そのまま真理奈の上に覆い被さる形で階段を転げ落ちた。 激しい物音を聞きつけ、春彦が駆けつけてきた。 彼の目には、杏美が真理奈を突き落とし、上にのしかかっているように映ったらしい。 「真理奈!」 春彦が血相を変えて突進し、杏美を乱暴に引き剥がした。 気を失った真理奈を抱き起こし、血走った目で杏美を睨みつけた。 「よくも突き落としたな!」 「私じゃないわ……」 「まだ言い逃れをする気か!」 春彦が怒号を飛ばした。 「おい、誰か!こいつを地下へ連れて行け。閉じ込めておけ!」 …… そう吐き捨てると、春彦は真理奈を抱きかかえて去っていった。 残された杏美は、屈強なボディガードたちに冷酷に引き立てられた。 冷え切った地下の床に丸くなった。骨の髄まで染み渡るような冷気が衣服を通り抜けていった。 だが、もう寒さは感じなかった。 ただ、心を凍りつかせるような虚無感だけが全身を支配していた。 ボディガードが持ち場を離れた隙を突き、杏美は使用人が食事を運んできたタイミングを利用して屋敷から逃げ出した。 何時間も冷たい床にうずくまっていたせいで、全身の関節がひどく強張り、一歩踏み出すことすら困難だった。 それでも、その足取りに迷いはなかった。 飛行機の座席に深く腰を沈め、窓の外で小さくなっていく街並みを見下ろした時、杏美はせき止めていた息をようやく吐き出した。 そっと目を閉じ、心の中で静かに呟いた。 ――春彦。 私が出演するお芝居は、これでクランクアップよ。

More GoodNovel Novels