第1章
付き合って4周年の記念日、佐伯蓮(さえき れん)は私・木下柚羽(きのした ゆずは)と親友の浅倉遥(あさくら はるか)を連れて、行きつけの焼肉屋へ向かった。
店員は二人を見るなり、親しげな笑顔で尋ねた。
「いつも通りのご注文でよろしいですか」
蓮は無言で頷いた。
窓際の二人掛けの特等席。当然のように遥が蓮と対面で座る。
豚バラ肉はよく焼き、タレはネギ抜き。
最初の一枚も、最後の一枚も、蓮は遥の口へと運んでやる。
通路側に置かれた予備の丸椅子に押し込まれ、目の前にはタレの小皿すら用意されていなかった。
会計の際、店員が会員カードの利用履歴をめくりながら笑顔で告げた。
「佐伯様、浅倉様、今夜でなんとご来店百回目となります!特典として、お二人の専用プレートをお持ち帰りいただけますよ」
手渡されたプレートの裏面には、手彫りの文字が深く刻まれていた。
【蓮と遥、永遠に離れない二人】
添えられた日付は、3年前のものだった。
私はそこでようやく思い出した。あの日、蓮は病院で私の誕生日を祝ってくれていたはずだった。
彼が途中で抜け出したあの2時間は、会社で緊急会議があったからではなかったのだ。
遥はその刻印を愛おしそうになぞりながら、蓮に甘えるように尋ねた。
「ねえ、将来ゆずと結婚しても、私たちの毎月のデートは続けてくれるの?」
蓮は遥の首にマフラーを優しく巻き直してやりながら、私の方を冷淡に振り返った。
「当然だ。あいつもそこまで物分かりの悪い女じゃない。
それに、俺たちの付き合いはもう10年になるんだ。
あいつがどうしても気にするって言うなら、あいつの方から俺たちに歩み寄るべきだろ」
帰りの車内、私は当然のように後部座席に押し込まれた。
遥は助手席のシートを自分の好みの角度へ手慣れた様子で倒し、カーナビは自動的に音声を流した。
【目的地、遥の自宅へ向かいます】
窓ガラスに映る自分の疲れ果てた横顔を見つめながら、私は突如として、言いようのない疲労感に襲われた。
私は静かにうつむき、スマホを開いて、7日後のロンドン行きの片道航空券を購入した。
あなたたちの「10年」にはこれから先も未来があるだろう。
けれど、私たちの「4年」は、ここで終わりにする。
第1話
遥の住むマンションの駐車場は、外部の車の夜間駐車が禁止されている。
だが、蓮はそのまま車を乗り入れた。事前に登録を済ませてあったのは明らかだった。
「蓮、うちのリビングの電気が切れちゃったみたい」
遥は車から降りようとせず、例のプレートを抱えながら、甘えた声でこぼした。
「管理会社には明日じゃないと修理に行けないって言われちゃって。一人だと、ちょっと怖くて」
蓮はシートベルトを外した。
「少し見てくる」
ドアノブに手をかけた瞬間、蓮はバックミラー越しにようやく私に気づいたようだった。
「柚羽。ここで待っていてくれ。10分で戻る」
車内は十分に暖房が効いていた。
それでも、蓮は車を降りる際、マフラーを私の膝の上に放り投げた。
「窓は開けるなよ。お前、冷たい風に当たるとすぐ頭痛がするだろ」
蓮はいつもそうだった。
私の細かな習慣をすべて覚えているくせに、私を車内に置き去りにして、平気で他の女の世話を焼きに行く。
自分は愛されている――そう思いかけるたびに、遥の存在が現実を突きつけてくる。
彼のあの細やかな優しさは、私だけの特別なものではないのだと。
10分が過ぎても、見上げた部屋の窓に明かりは灯らず、蓮も戻ってこなかった。
うつむいてロンドン行きのフライト情報を確認していると、運転席のドアが開いた。
蓮は遅くなった理由を説明することなく、温かいカフェラテを私の手に握らせてきた。
「そこの店で買ってきた。砂糖は入れてない」
すでに飲み口のフタまで開けられていて、温度も私の好みにぴったりな、少しぬるめの絶妙な温かさだった。
私はスマホのチケット購入画面を見つめたまま、私はそのカフェラテに手を伸ばそうとはしなかった。
蓮は数秒待ち、不思議そうにこちらを振り返った。
「何をそんなに熱心に見ているんだ」
私ははっと我に返り、慌てて画面を消してカップを受け取った。
「何でもない。仕事のメール」
蓮はわずかに目を細め、スマホを握りしめている私の右手に視線を落とした。
「嘘だな」
静かに紡がれたその二言が、車内の空気を一瞬で凍りつかせる。
蓮は後部座席に向けて手を伸ばし、手のひらを上に向けた。
「スマホを見せてくれ」
彼は誰よりも私のことを知っている。
緊張すると、私の右手は無意識にスマホの縁をさすってしまうのだ。
動かない私に引きずられるようにして、彼が身を乗り出そうとしたその瞬間、助手席のドアが勢いよく開いた。
遥が再び乗り込んできて、寒さで鼻の頭を赤く染めて言った。
「蓮、うちのブレーカーが落ちちゃって。冷蔵庫にある薬、冷やしておかないとだめなのに」
そこまで一気にまくしたてると、遥はようやく私の方を振り返った。
「ゆず、今夜そっちの家に泊まらせてもらってもいい?」
遥は私の小指にそっと指を絡めてきた。
大学時代、彼女が私の家に泊まりたがるときは、いつもこうして私の手を揺らしながら、頷くのを待っていた。
けれど今回は、私が口を開くより早く、蓮が助手席のシートヒーターのスイッチを入れた。
「部屋はいくらでもある。あいつの許可なんて必要ないだろ」
私はカフェラテを握りしめた。カップの側面がみしりと音を立てて歪む。
二人で暮らすあの家において、決定権のない余所者は私の方だったのだ。
蓮はようやく私に目を向けた。
「主寝室の隣のゲストルームを遥に使わせてやってくれ。遥は眠りが浅いから、今夜はドライヤーを使うなよ」
「あそこはだめ」
新居に引っ越したとき、ゲストルームの鍵を自ら交換したのは蓮だった。
亡き父の遺品がすべてそこに保管されている。
あのとき、私にたった一つの鍵を手渡し、ここには誰も入れないと言ってくれたはずだった。
しかし今、蓮の眉根が不機嫌そうに歪み、その表情は冷たく静まり返っていた。
その様子を察した遥は、目を潤ませてうつむき、蚊の鳴くような声で言った。
「……やっぱりいい。ホテルに泊まるわ。ゆずがおじ様の遺品を誰にも触られたくない気持ち、よく分かるから」
遥が物分かりの良さを示すほど、私が薄情で、心の狭い人間に見えていく。
蓮は冷徹な顔でエンジンをかけた。
「遥は身内も同然だ」
ふっと短い沈黙を挟み、彼はバックミラー越しに私を鋭く射すくめた。
「柚羽。記念日に、これ以上俺の我慢を試すな」
第2話
深夜2時、ガラスが砕け散る激しい音で私は目を覚ました。
慌ててゲストルームへ駆け込むと、遥が裸足のまま、散らばる破片の真ん中に立ち尽くしていた。
その手には、父が遺した機械式の懐中時計が握られている。
文字盤のカバーガラスは割れ、秒針は完全に静止していた。
「ゆず、ごめんなさい」
遥は顔面を蒼白にしながら、私の手を掴もうとした。
「毛布を探そうと思って……クローゼットを開けたら、これが落ちてきちゃって」
私は遥の手から懐中時計をひったくった。
父が亡くなる前、この時計をしっかりと握りしめ、丸一日私を待ち続けていた。
しかし、蓮が突然の高熱で倒れたため、父の最期を、この目で看取ることすらできなかった。
それ以来、この懐中時計は、私が何人にも触れさせないと誓った唯一の宝物だった。
「ここは入っちゃだめって……あれほど言ったじゃない!」
叫んだ自分の声が、激しく震えていることに気づいた。
遥の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「わざとじゃないの……」
「出ていって」
「ゆず……」
「出ていってと言っているの!」
ドアを指さした私に怯えるように、遥は不意に後ずさりした。
遥は足の裏でガラスの破片を踏み抜き、痛みに顔を歪めてその場にへたり込んだ。
物音を聞きつけた蓮が、慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
血を目にした瞬間、蓮の顔色が変わり、私を素通りして遥を抱き上げた。
「どこを怪我した」
遥は彼の首にしがみつき、泣きながら首を振った。
「全部、私のせいにしてください……ゆずは何も悪くないの」
蓮は眉根を深く寄せ、遥の足を確認した。
かつて、私が料理中に手を切ったときも、蓮は同じように険しい顔をして私を病院へ連れて行ってくれた。
痛みに泣きじゃくる私に、彼は優しく涙を拭いながら囁いたものだ。
――いい子だから泣かないで。俺がいる。もう痛い思いはさせないから。
あのときと同じ、温かく、包み込むような声。
けれど今、蓮がなだめているのは、別の女だった。
「傷口を見るな。今すぐ病院へ連れて行く」
私を通り過ぎようとした瞬間、蓮はようやく私の手のひらに流れる血に目を留めた。
壊れた懐中時計の尖った金属片が、私の皮膚を切り裂いていた。
蓮の足が一瞬、止まった。
「救急箱がベッドサイドの引き出しにある。先に手当てをしておけ」
私は、蓮の腕に抱えている遥を見つめた。
「お父さんの時計が壊れた。もう、直らない」
遥を抱える蓮の腕が、一瞬だけ硬直した。
しかし、遥が痛みに小さく喘ぎ声を上げると、蓮の瞳に宿ったわずかな迷いは一瞬で消え去った。
「ただの時計だろ。同じものを手配させる」
「世界に同じものなんてない」
「なら、どうしろと言うんだ」
蓮の声が、急激に冷たく尖った。
「遥の足から血が出ているんだ。今すぐ彼女を放り出して、そんな、たかが壊れた時計一つのために、俺にここで一緒に泣けとでも言うのか!」
たかが壊れた時計。
私はうつむいた。手のひらから溢れた血が、生命線を伝って、静止した文字盤へとぽつりと滴り落ちる。
遥は蓮の胸に顔を埋め、消え入りそうな声で言った。
「蓮、ゆずのそばにいてあげて。病院には一人で行くから」
蓮は遥をしっかりと抱き直したまま、歩き出した。
「あいつはそこまでヤワじゃない」
バタンと、重苦しい音を立ててドアが閉まった。
ガラスの破片が散らばる部屋で、私はかつて父の時計を修理してくれた老職人に電話をかけた。
送った写真を見た老人は、長い沈黙のあと、重い口を開いた。
「天真が折れていますな。当時の純正部品はとっくに生産終了しており、もう直すことはできません。
柚羽お嬢ちゃん、お辛いでしょうが……時計が壊れても、お父様との絆まで消えるわけではありませんよ」
私はゆっくりと腰を落とし、破片を1つずつ箱に拾い集めた。
そのとき、スマホの画面が静かに灯った。
王立デザインカレッジからの、最終合格通知だった。
青白い液晶の光が、足元の惨状を冷ややかに照らし出す。
今度は、一瞬の迷いもなかった。
私は「承諾」のボタンをタップした。
第3話
翌日、蓮の秘書がアンティークの懐中時計を届けてきた。
父のものと同じブランド、同じ年代のもので、オークション価格は優に1000万円を超える代物だ。
秘書がベルベットの箱を私の前に差し出した。
「佐伯社長はこの時計を探し出すために、午前中の会議を2つもキャンセルなさいました。
それから、遥様も深く反省しておられますので、これ以上責めないでほしいとのことです」
私は箱を開けようともしなかった。
蓮はいつだって、惜しみなく補償をしてくれる。けれど、私がなぜ傷つき、痛んでいるのか、蓮は決して見ようとはしない。
午後、私はカレッジから提出を求められていたコンペティションの出展作品を抱え、展示会場へと向かった。
この一連の作品は、奨学金の獲得がかかった極めて重要なものであり、私が海外へ渡る前に済ませておくべき最後の大仕事でもあった。
車が市街地を抜けた頃、蓮から電話がかかってきた。
「出かけたのか」
「ええ、審査会に向かっているところ」
電話の向こうで、数秒の静寂が流れた。
「何時に終わる? 迎えに行く」
私はスマホを握りしめ、すぐには答えられなかった。
昨夜、遥を抱きかかえて出て行ったとき、彼は一度も振り返らなかった。
それなのに、今日の私の審査会のことは覚えているのだ。
「午後4時」
「わかった」
蓮の声が、少し柔らかくなった。
「終わったらどこにも行かずに待っていてくれ。お前の好きなモンブランを予約してある。遥も、直接謝罪したいと言っている」
二度と元には戻らないと分かっていながら、彼はこうして私の機嫌を取ろうとする。
以前の私なら、彼が少し折れるだけで、すぐに心を許してしまっていただろう。
けれど、もう二度と、そんな過ちは犯さない。
「大事な審査があるの。終わってからにして」
電話の向こうが再び静まり返った。
「何時に終わるんだ。迎えに行くと言っているだろ」
その一言だけで、築き上げた心の壁が、脆くも崩れ去りそうになる。
冷めきっていたはずの心が、情けなくも揺らいでしまう。
言葉を返そうとしたその瞬間、凄まじい衝撃とともに、車体が大きく揺れた。
背後から、鼓膜を突き刺すような激しい衝突音が響き渡る。
運転手が急ブレーキを踏み、固定台に置いてあった作品用のガラスケースが床に激突した。
頭をぶつけた痛みを気にする余裕もなく、私はドアを押し開けてトランクへと駆け寄った。
作品のメインフレームが、無残にも3つにへし折れている。
私はその場に立ち尽くし、息をすることさえ忘れてしまった。
2年という歳月、千枚を超えるスケッチ。そのすべてが、目の前で一瞬にして無に帰したのだ。
後ろに停まった白い車の運転席から、遥が真っ青な顔をして走り寄ってきた。
「ゆず、ごめんなさい!」
「蓮から、あなたが私に会いたがらないって聞いて……
本当に見捨てられちゃうんじゃないかって怖くなって、車で後を追ってきたの」
遥は私の手を掴み、全身をガタガタと震わせながら泣き叫んだ。
「さっき、スマホを落としちゃって……
下に落ちたのを拾おうと下を向いた一瞬で、ブレーキを踏んだのに気づかなくて……」
私はその手を振り払い、警察を呼ぶためにスマホを取り出した。
遥は慌ててそれを阻止しようとする。
「警察だけは呼ばないで!
スマホのながら運転で事故を起こしたなんてバレたら、一発で免許取り消しになっちゃう!」
私が手を止めないと察すると、彼女は今度は壊れたガラスケースを奪い取ろうとした。
「弁償するから! 今すぐ私が修理に持っていくから!」
「触らないで!」
すべてが遅すぎた。
砕けたガラスの鋭い断面が、彼女の手首を切り裂いた。
鮮血が勢いよく噴き出す。
駆けつけた蓮が真っ先に目にしたのは、私の額から流れる血だった。
彼は大股で私の前に歩み寄り、両手で私の顔を包み込んだ。
「どこを打った。頭痛やめまいはしないか」
彼の眼差しに、鼻の奥がツンと熱くなる。
しかし、答えるよりも早く、背後から遥の声が響いた。
「蓮……」
蓮が振り返る。
血まみれになった彼女の手首を見るやいなや、彼は即座にジャケットを脱ぎ捨てて傷口を強く圧迫した。
「なぜ割れたガラスに触ったりしたんだ」
「ゆずの作品を……私が直してあげたくて……」
遥は泣きながら私を見上げた。
「全部、私のせいなの……でも、わざとぶつけようとしたわけじゃないの、本当に!」
そこへ警察官が近づき、事故の処理方針について尋ねてきた。
蓮は彼女の傷口を抑えたまま、一切の迷いなく告げた。
「単なる前方不注意による追突です。示談にします」
私は弾かれたように顔を上げた。
「同意しない!」
「遥が怪我をしているんだぞ」
「私の作品が壊されたのよ」
「世界最高の修復師を手配する」
「審査会まであと40分よ。今からじゃ誰にも直せない」
蓮は口を閉ざした。
私は壊れた作品を腕に抱え、通りかかったタクシーを止めた。
結末がどうあれ、最後の最後まで抗うことだけは諦めたくなかった。
しかし、蓮が容赦なくタクシーのドアを押さえた。
「そんなガラクタを持っていったところで、審査の対象にすらならない」
ガラクタ。
なぜ私が命がけで大切にしてきたものが、彼にとっては容易に値踏みできる程度のものに成り下がるのだろう。
私は彼をじっと睨み据えた。
「どうなろうと、あなたには関係のないことよ」
そのとき、遥が突然胸を押さえ、その場に屈み込んで激しく嘔吐し始めた。
急ぎ電話で確認した医師は、衝突の衝撃による脳震盪の疑いがあるとし、直ちに搬送するよう指示した。
蓮は彼女を助手席に抱き入れた。
ドアを閉める直前、彼は私を冷淡に見下ろした。
「お前はここに残って、事故の後片付けを頼む。
遥の様子が落ち着いたら、俺からカレッジへ説明してやるから」
私は、粉々になったガラスの中に立ち尽くし、ただ作品を抱きしめた。
「佐伯蓮。カレッジは、私を待ってはくれないのよ……」
彼は私を見つめ、固く唇を結んだ。
だが、車内から遥の苦しげな呻き声が響くと、彼はすぐに向き直り、無情にもドアを閉めた。
40分後、カレッジから通知が届いた。
【期日までに作品が提出されなかったため、奨学金候補の資格を取り消します】
その短い一行を、私は長い時間見つめていた。
涙が溢れるかと思ったが、私はただ静かに立ち尽くしているだけだった。
心臓が何かにじわじわと握り潰されていくようで、痛みが極限に達した先には、ただ冷徹な麻痺だけが残されていた。
第4話
夜七時、蓮は遥を伴って私たちの新居に戻ってきた。
私が最後の服をスーツケースに詰め終えたとき、リビングから私を呼ぶ彼の声が聞こえた。
「柚羽、出てきてこれにサインしろ」
ローテーブルの上には、示談書のほかに、被害者としての「嘆願書」が置かれていた。
そこには、私の急かす声に焦った運転手が急な車線変更を行ったため、後続車が避けきれなかったと記されていた。
私がこの2つの書類にサインすれば、遥は刑事責任を問われないばかりか、行政処分による免許取り消しも免れることができるのだ。
「事故は、遥がスマホを拾おうとして前方不注意になったからよ」
私はその書類を押し戻した。
「防犯カメラ映像も、ドライブレコーダーの記録もある」
遥の目頭がみるみるうちに赤くなった。
「ゆず、私のせいで本当にごめんなさい。
でも、私、来月若手育成枠のレーシングチーム選考会があるの。
もし人身事故の過失運転で免許取り消しにでもなったら、ライセンスが剥奪されて、二度とサーキットに立てなくなっちゃう……」
遥は大学時代からカーレースに憧れていた。
ライセンスの取得費用を出したのは私で、最初のレーシングスーツを贈ったのも私だった。
遥が初めて表彰台に上った夜、私を抱きしめて一晩中泣きながら、「いつか世界一の表彰台に立ったら、このトロフィーをゆずにあげるね」と誓ってくれた。
それなのに今、彼女は私の未来を踏み台にして、自分の表彰台を手に入れようとしている。
蓮は私の手元に万年筆を置いた。
「お前の審査はもう終わったことだ。今さら遥を責め立てても何も戻らない。
サインしろ。お前のための個人アトリエを建ててやる」
またこれだ。
父の遺品も、私の心血も、私の夢も、蓮の目にはすべて値札が貼られているように見えるらしい。
十分な対価さえ支払えば、私が黙って理不尽を飲み込むとでも思っているのだろうか。
「サインはしないわ」
蓮は私を数秒間冷ややかに見つめた後、おもむろにスマホを取り出して電話をかけた。
「木下先生の旧アトリエの、賃貸契約の更新手続きを保留にしろ」
私は勢いよく顔を上げた。
父が他界した後、そのアトリエは佐伯グループが委託管理していた。
そこには父が遺した膨大なデザイン原稿が眠っており、今回の私の出展作品のインスピレーションの源でもあったのだ。
「あそこは父が遺してくれた大切な場所よ!」
「だからこそ、お前次第だ」
蓮はスマホをテーブルの上に置いた。
「柚羽、お前がこれにサインしさえすれば、アトリエには誰も手を触れさせない。結婚式も予定通り執り行う」
遥は慌てて彼の腕を掴んだ。
「蓮、ゆずを責めないで」
遥は私の前に膝をつき、泣きながら私の手を握りしめた。
「私があなたの作品を壊したの、どんな方法でも償うわ。
でも、あの選考会は私にとって最後のチャンスなの。
ゆず、昔みたいに私を応援してよ。もう一度だけ、助けてくれないの?」
10年にわたる友情と、四年紡いだ愛情。
片や床に跪いて泣きすがり、片やソファーに傲然と腰掛けたまま、私を奈落へと追い詰めていく。
だが、私が失ったものもまた、一生に一度きりの掛け替えのない機会だったのだと、誰一人として気にも留めない。
蓮は腕時計に目を落とした。
「1分だけ待ってやる」
そのとき、私のスマホがけたたましく鳴り響いた。
アトリエの管理人である老人が、焦りを含んだ声をあげた。
「柚羽お嬢ちゃん、佐伯グループの連中がやってきて、契約満了だから今夜中に明け渡せと、強引に荷物を運び出し始めたんです!
木下先生のデザイン原稿が多すぎて、奴らはそれを外へ運び出しています。外は雨なのに、このままでは台無しになってしまいます!」
私は通話状態のスマホを握ったまま、玄関へ走ろうとした。
しかし、蓮がその行く手を阻んだ。
私の前に立ちはだかる彼の背筋は、相変わらず凛と伸びている。
かつて、その背中は私をあらゆる嵐から守ってくれる盾だった。
しかし今、それは私を奈落の底へ突き落とす容赦のない壁と化していた。
「サインしろ」
「あのアトリエだけは守るって、私と約束したじゃない!」
「俺は遥にも、選考会に出場させると約束した」
蓮の眼差しには、微塵の揺らぎもなかった。
「柚羽、俺を困らせるな」
彼を困らせるな、か。
つまり、最初から捨てられる役割は私に決まっていたのだ。
窓の外で、遠く雷鳴が轟いた。
管理人から送られてきた動画。そこには、強引にこじ開けられたアトリエの扉が映し出されていた。
防水加工すら施されていない段ボールに詰められた父の遺稿が、激しい雨の中、トラックの脇にうずたかく積み上げられていく。
一番上の束から紙片が風に舞い散り、濡れたインクが雨水ににじんでいく。
「……やめさせて」
蓮は万年筆を私の手元にそっと滑らせた。
「サインしろ」
私は、二度と元には戻らない、雨に打たれる原稿の山を画面越しに見つめ、涙をぽつぽつと書類の上に零した。
震える指先は力が入らず、何度もペン先が紙面を滑る。
だが動画の中で、また1枚、大切なスケッチが雨の夜空へ吸い込まれていくのが見えた。
私はついに、ペンを走らせた。
その一筆一筆が、自分の心臓を鋭利な刃で切り刻むかのような痛みを伴っていた。
最後の文字を書き終えると同時に、蓮は素早く書類を奪い取り、すぐさまアトリエの明け渡しを中断するよう電話で指示した。
「最初からこうしていれば、何事もなかっただろう」
蓮が私の涙を拭おうと手を伸ばしてきたが、私は顔を背けてそれを拒絶した。
遥は依然として床に伏せたまま、小さく鼻をすすり上げていた。
「ゆず、本当にごめんなさい……」
私は左手の薬指から婚約指輪を外し、跪く遥の掌へと、ぽつりと落とした。心はとうに灰のようになっていた。
「もう謝らなくていいわ。
あなたが欲しいものは、全部あげるから」
私の親友も、4年間愛し続けた男も、そしていつか手にするはずだった私たちの温かい家庭も、すべて。
蓮の表情が険しく強張った。
「柚羽、何の真似だ。その指輪を元に戻せ」
私は玄関脇に置いてあったスーツケースのハンドルを握り締めた。
彼はそこで初めてその大きな荷物に気づき、眉根を深く寄せた。
「荷物をまとめてどうするつもりだ」
「お父さんの遺したデザイン原稿の様子を見に行くの」
「今夜は戻らないつもりか」
私は答えなかった。
蓮は、私が単にへそを曲げているだけだと思い込み、遥の体を床から引き起こした。
「アトリエは守られたんだ。これ以上、無茶な真似はするな」
彼は私の外した指輪を自らのポケットにねじ込み、断固とした口調で命じた。
「明日の朝、迎えに行く」
スーツケースをしっかりと握り直し、私は最後に彼を見つめた。
「……その必要はないわ」
蓮が不快そうに顔をしかめた。
だが、背後から遥が痛みに顔を歪めて彼の名を呼ぶと、蓮は躊躇なく遥の方へ向き直った。
過去に何度も繰り返されてきた、いつもの光景。
遥が口を開きさえすれば、私は決まって置き去りにされる。
ドアが閉まる直前、蓮の冷淡な声が響いた。
「勝手にしろ。気が済んだら戻ってこい」
私は何も答えず、二度と振り返らなかった。
12時間後、私はロンドン行きの飛行機に乗り込んだ。
今度は、もう戻ることはない。