プロモーションを読み込み中...
クズ夫を捨てた天才妻は、新たな時代を創り出す
結城朱音(ゆうき あかね)が足を引きずりながら店から戻ると、家の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。 「東さん、足がくすぐったいわ」 「少し我慢しろ。もう少しで終わるから」 二人のじゃれ合う声は、やがて荒い息遣いへと変わっていった。 朱音は青ざめた唇を引き結び、わずかに開いたドアの隙間から声のする方を見た。 夫の笹川東(ささがわ あずま)は床にしゃがみ込み、厚手の防寒着の懐に、妹の結城麗奈(ゆうき れいな)の両足を包み込んでいた。 洗面器から引き抜かれた足は、何度もさすられて赤くなっていた。 東はさらにしばらく足を揉んでから、麗奈に声をかけた。 「よし、もう温まっただろう。麗奈、少し休んでいろ。夕飯ができたら呼ぶからな」 そう言って立ち上がり、しゃがみ続けて痺れた体をほぐしたところで、ようやく朱音に気づいた。 東は慌てて弁解したが、朱音は微笑むだけで、彼を責めることはなかった。 なぜなら、人生をやり直した彼女は、とうにここから離れる覚悟を決めていたからだ。
チャプター (1)
第1章
結城朱音(ゆうき あかね)が足を引きずりながら店から戻ると、家の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「東さん、足がくすぐったいわ」
「少し我慢しろ。もう少しで終わるから」
二人のじゃれ合う声は、やがて荒い息遣いへと変わっていった。
朱音は青ざめた唇を引き結び、わずかに開いたドアの隙間から声のする方を見た。
夫の笹川東(ささがわ あずま)は床にしゃがみ込み、厚手の防寒着の懐に、妹の結城麗奈(ゆうき れいな)の両足を包み込んでいた。
洗面器から引き抜かれた足は、何度もさすられて赤くなっていた。
東はさらにしばらく足を揉んでから、麗奈に声をかけた。
「よし、もう温まっただろう。麗奈、少し休んでいろ。夕飯ができたら呼ぶからな」
そう言って立ち上がり、しゃがみ続けて痺れた体をほぐしたところで、ようやく朱音に気づいた。
東は慌てて弁解したが、朱音は微笑むだけで、彼を責めることはなかった。
なぜなら、人生をやり直した彼女は、とうにここから離れる覚悟を決めていたからだ。
第1話
東は気まずそうに表情をこわばらせ、咄嗟に弁解した。
「麗奈は長旅を終えて帰ってきたばかりで疲れているんだ。足を洗ってやっただけだから、勘違いするなよ」
朱音は頷き、量り売りの塩が入った袋を提げてキッチンへ向かった。
勘違いなどしていない。
二人が不倫関係にあることなど、誰の目にも明らかだった。
それなのに前世の朱音は自分を欺き、何十年もの歳月を虚しく過ごしてしまったのだ。
死の間際、麗奈は心にもない見舞いにやって来た。
朱音が何十年も育てた息子は、麗奈の前に土下座をした。
「麗奈おばさん、父さんから聞いたよ。本当の母さんはあなただって。父さんとは何十年も一緒になれなかったけど、もう邪魔する人はいない。これからは三人で幸せに暮らそう」
その手に握られていたのは、朱音の年金が入った預金通帳だった。
東は病床の朱音を冷ややかに見下ろし、悪びれる様子もなく言い放った。
「朱音、あの時、お前と麗奈は同じ日に子供を産んだ。俺が病院から連れ帰ったのは麗奈の子だったが、俺も何十年もお前に付き合ってやったんだ。これで十分義理は果たしただろう」
これほど恥知らずな人間がいるのかと、朱音は耳を疑った。
だが、今はそんなことに構っている場合ではない。
東が連れ帰ったのが妹の子なら、自分の子はどこへ行ったのか。今も生きているのか。どんな暮らしをしているのか。
朱音は声を振り絞って問い詰めたかった。
しかし、あまりにも衰弱していて、目を開けることさえできなかった。
東がどうしても離婚に応じなかったのは、心のどこかで自分を愛しているからだ――ずっとそう信じてきた。もう、そんなふうに自分を欺くことはできなかった。
真実は鋭い刃となって、朱音の心をずたずたに切り裂いた。
かろうじて胸に残っていた最後の息が途切れ、朱音は無念を抱いたまま息を引き取った。
だから、人生をやり直した朱音が真っ先にしたのは、国の研究機関の責任者として復帰した恩師へ手紙を書くことだった。
そこには、最先端の科学研究に関するいくつかの展望を記した。
前世の朱音は、それらの分野に何十年も打ち込んでいた。東に足を引っ張られ、研究者としての黄金期を逃したものの、最後には一定の成果を残している。
この時代の誰よりも先を見通せる自分なら、必ず第一人者になれる。
手紙を投函したのは数日前だった。
先ほど母の結城桂子(ゆうき けいこ)に塩を買ってくるよう言いつけられ、そのついでに郵便局へ寄ったところ、早くも返事が届いていたのだ。
ポケットの中にある封書の重みを感じ、どうやら望みは叶いそうだと悟った朱音は、思わず笑みを浮かべた。
その瞬間、ピシャリと甲高い音が響いた。
「何をニヤニヤ笑ってるんだい?
東に何か不満でもあるってのかい。妹を気遣ってやって何が悪いっていうんだ。
それより、この疫病神!塩を買うだけでいつまで油を売ってるんだい。外でくたばったのかと思ったよ!」
桂子からの容赦ない平手打ちだった。彼女は朱音の頬を打っただけでは飽き足らず、口汚く罵り続けた。
もともと足を怪我している朱音は、うまく踏ん張れない。長年の農作業で鍛え上げられた桂子の腕力は強く、朱音はたちまち床へ倒れ込んだ。
手にしていた袋から塩がこぼれ、その一部がまだ塞がっていない足の傷口にパラパラと降りかかった。
焼け付くような痛みに襲われ、朱音は堪えきれず低く呻いた。
塩がこぼれたのを見てますます逆上した桂子は、近くの木の棒を掴み、朱音に振り下ろそうとした。
そこへ、足を洗った後のお湯が入った洗面器を持って出てきた東が、ようやく口を挟んだ。
「結城のおばさん、朱音は俺を庇って怪我をしたんだ。足が不自由なうえ、外は寒い。もともと体も弱いんだから、本人だってつらいはずだ」
東が珍しく庇ってくれたことに、朱音はわずかに驚いた。
婿の言葉を聞き、桂子の表情が和らいだ。東はすでに組織の要職に就いている大物で、桂子にとっては何よりの自慢だった。
それでも不満は収まらず、桂子はぶつぶつと悪態をついた。
「東、あんたは人が良すぎるんだよ。こんな金食い虫の疫病神なんか捨てて、麗奈を嫁にもらえばいいじゃないか。あの子はれっきとしたエリートなんだから」
第2話
東は顔色を変え、後ろめたそうに朱音をちらりと見た。
朱音はうつむいたままで、その表情は読み取れなかった。
ふくらはぎの傷からは赤黒い血が滲み続けていた。塩が傷口に染みる焼け付くような痛みに、唇はさらに青ざめている。
それでも、口元には冷ややかな嘲りの笑みが浮かんでいた。
麗奈が大学へ進学できたのは、朱音の進学枠を奪ったからだ。この辺りでその事実を知らない者はいない。
しかも、朱音に無理やりそれを譲るよう強要したのは、東と桂子だった。
その埋め合わせとして、東は朱音を妻に迎え、一生大切にすると固く誓ったのだ。
だが、前世の経験から、東が全く信用に足らない男であることを、朱音は嫌というほど思い知らされていた。今は自分の力で、ここから逃れる道を切り開くしかない。
その時が来るまでは耐え忍ぶのだ。
朱音が何も言わないのを見て、東は安堵したように息をついた。そして、悪びれもせず言った。
「結城のおばさん、何を言ってるんだ。俺が嫁にするのは、この先も朱音だけだ!」
桂子は呆れたようにため息をつき、よろけながらも立ち上がった朱音を睨みつけた。
「いつまでぼさっと突っ立ってるんだい。さっさとそのお湯を捨ててきな!」
朱音は無表情のまま、東が持っていたホーローの洗面器を受け取った。
その時、麗奈が部屋から出てきて、わざとらしく声をかけた。
「お母さん、東さん、お姉ちゃんを困らせないで。自分の足を洗ったお湯くらい、私が捨てるわ」
そう言って、朱音の持つ洗面器を受け取ろうと手を伸ばした。
妹の顔に浮かんだ嘲笑を見て、朱音は嫌な予感を覚え、断ろうとした。
だが、言葉を発するより早く、麗奈は両手に力を込めて洗面器を下から勢いよく跳ね上げた。中のお湯が朱音に降りかかり、彼女はたちまち全身ずぶ濡れになった。
麗奈はズボンの裾が少し濡れただけだった。それなのに、まるで自分が被害者であるかのように悲鳴を上げた。
「お姉ちゃんが私のこと嫌いなのは分かるけど、こんな真冬にお湯を浴びせるなんて……風邪を引いて病気になったらどうするの?」
案の定、桂子の怒鳴り声が飛んだ。
「この罰当たりが!なんて疫病神を産んじまったんだか!さっさと顔から失せな、今日は飯抜きだ!」
桂子は朱音を家の外へ突き飛ばした。
冷たい地面に倒れた朱音には目もくれず、ピシャリとドアを閉め、鍵までかけた。
閉じられる直前、朱音は東を見た。
だが、東は外に突き飛ばされた朱音など気にも留めていなかった。麗奈の前にしゃがみ込み、濡れたズボンの裾を払いながら、ひどく心配そうに言った。
「麗奈、早くズボンを穿き替えろ。風邪を引くぞ」
桂子も慌てて同調した。
「東の言うとおりにしな。今度から、あんなに親切にしてやるんじゃないよ。お前の姉さんは腹の底から性根が腐ってるんだから」
麗奈はわざとらしく心配してみせた。
「お姉ちゃん、大丈夫かな?」
中から東が声を荒らげるのが聞こえた。
「何かあっても自業自得だ。少し痛い目を見て、根性を叩き直した方がいい。そうすれば余計な考えも起こさなくなるだろう」
家の外にいる朱音の耳にも、3人の会話ははっきり届いていた。
地面の雪や氷の欠片が服の中へ入り込み、全身の震えが止まらない。
朱音は涙を堪え、必死に起き上がると、壁際に身を縮めた。
しばらくすると、家の中からまた笑い声が聞こえ、食事の匂いが漂ってきた。空腹でキリキリと痛む胃をさすると、痛みがわずかに和らいだ気がした。
朱音は傍らにあった乾いた藁に両手を何度もこすりつけ、泥汚れを落とした。
息を吹きかけて凍える手を温めると、服の内ポケットから先ほどの返事を取り出した。
封を切り、夕暮れの残光を頼りに、手紙に記された文字を追った。
【朱音くん、手紙は確かに受け取ったよ】
【君の事情と希望は承知した。こちらから迎えの者を手配しておいたので、月末にはそちらに到着する予定だ。当施設で待っているよ……】
封筒には任命書も入っていた。
読み終えると、朱音の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
今日は22日。
あと8日で、ここから離れられる。
第3話
朱音は壁際で手紙と任命書を封筒に戻し、服の内側へ大切にしまった。
夜の冷たい風が襟元から吹き込み、濡れた服が容赦なく体温を奪っていく。それでも、この手紙があるだけで、心の中には温もりが灯っていた。
夜更けには、朱音は壁際にうずくまったまま意識を失っていた。全身が冷え切っているのに、顔だけが不自然なほど赤く火照っていた。
朦朧とする意識の中で、誰かが自分を呼ぶ声を聞いた。
「朱音……朱音……」
重い瞼を開けると、東がいた。
東は朱音の額に手を当て、異常な熱さに気づき、その目に動揺と心配の色を浮かべた。そのまま朱音を抱きかかえ、部屋へ運んだ。
ベッドへ下ろすなり、濡れた服に手をかけた。
「着替えろ。このままじゃ駄目だ」
朱音は残った力を振り絞り、東を押し返した。
「自分で着替えるわ」
東は頷いてドアへ向かったが、途中で振り返った。
「何か食べるものを持ってくる」
朱音は答えなかった。
気力を奮い起こして乾いた服に着替え、手紙と任命書をタンスの奥底へ隠した。横になろうとしたところで、東が柔らかく煮たさつまいもの入った椀を手に戻ってきた。
「腹が減っただろう。少し食べろ」
朱音は呆然と東を見つめた。
東がさじですくって口元へ運んでくると、朱音はようやく口を開けて食べた。
すべて食べ終えると、東は砂糖と塩を溶かした水も飲ませてくれた。
彼はもう一度朱音の額に触れ、先ほどより熱が下がっていることを確かめると、ようやく安堵の息をついた。
それから袖で朱音の口元についた食べかすを丁寧に拭い、消毒液と綿棒を取り出した。ズボンの裾をまくり上げ、ふくらはぎの傷を手当てし始めた。
優しく世話をする東を見ながら、朱音はどこか現実離れした感覚に陥っていた。
東の目に宿る愛情は、偽りには見えなかった。それなのに、どうして自分にあれほど残酷になれるのだろうか。
それとも、この男は2人の女を同時に愛しているのだろうか。
次の瞬間、東の声が朱音の意識を現実へ引き戻した。
「麗奈は卒業したばかりだが、就職先がなかなか決まらなくてな。お前は足を怪我していて通勤も大変だろう。しばらく麗奈に、縫製工場の班長を代わってもらったらどうだ?」
朱音は一瞬呆気にとられ、やがて小さく自嘲するように笑った。
やはり、この世に理由もなく注がれる愛情などないのだ。
東が突然優しくなったのは、妹のために縫製工場の班長という職を手に入れるためだった。
この男の偽善を、朱音は心の底から思い知った。
それでも胸は、それほど痛まなかった。
とうに感覚が麻痺していたからだ。
その時、足に鋭い痛みが走り、朱音は咄嗟に足を引っ込めた。
東はたちまち顔色を変えた。朱音が職を譲りたくないのだと思い込み、大声で責め立てた。
「何だ、その態度は!今日、お前が麗奈に足を洗ったお湯を浴びせたことだって、俺はまだ責めていないんだぞ!足が治るまで家で休ませてやろうというのに、俺の親切心が分からないのか!」
朱音は首を横に振り、ふくらはぎを指さして、力なく呟いた。
「痛い……」
そこで東はようやく、自分が他のことに気を取られ、綿棒を傷口へ強く押し当てていたことに気づいた。
せっかくできたかさぶたが剥がれ、傷口からまた赤黒い血が滲み出していた。
東は何か言い訳をしようとした。
だが、朱音が先に口を開いた。
「明日、工場へ行って工場長に話すわ。班長の仕事は麗奈に譲る」
その言葉を聞くなり、東は勢いよく顔を上げ、目を見開いた。
「朱音、本気なのか?」
信じられないという顔だった。
朱音は静かに頷き、それ以上は説明しなかった。
あと8日で、ここを離れる。班長の仕事など、もう何の意味もない。それどころか、譲らなければまた何を仕掛けられるか分からなかった。
ところが、朱音が承諾したというのに、東は思ったほど喜んではいなかった。
穏やかな朱音の顔を見ていると、何かが自分の手からすり抜けていこうとしているような気がして、妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
東は急いで朱音の傷口から流れた血を拭い、布団をかけた。
埋め合わせでもするように、再び口を開いた。
「朱音、お前の服もずいぶん古くなったな。明日、町で新しい服を2着買ってきてやる」
朱音には、もう答える力が残っていなかった。
枕に頭をつけると、高熱がもたらす強い眠気に引き込まれ、瞬く間に深い眠りに落ちていった。
第4話
翌朝目を覚ましても、朱音の頭はまだぼんやりとしていた。
ベッドから起き上がると、東たちの姿はなく、1枚の書き置きだけが残されていた。
【結城のおばさんと麗奈を連れて買い物に行ってくる】
朱音は怪我をした足を引きずりながらキッチンへ向かった。
台所には洗っていない食器しかなく、朝食はひとかけらも残されていなかった。
だが、朱音は気にしなかった。
さつまいもをいくつか茹でて空腹を満たすと、縫製工場へ向かった。
朱音が懸命に頼み込み、工場長は問題を起こさないことを条件に、麗奈を班長として試用することを承諾してくれた。
朱音はほっと胸を撫で下ろした。
工場長が引き受けてくれず、話をまとめられないまま帰れば、どれほど罵られるか分かったものではない。
それに、縫製工場の班長は、それほど高度な技術を求められる仕事でもなかった。
麗奈も大学へ通っていたのだから、これくらいの仕事はこなせるだろう。働きに出てくれれば、朱音に降りかかる厄介事も少しは減るはずだ。
家に戻っても、東たちはまだ帰っていなかった。
朱音は汚れた服を洗って干し、一通りの家事を済ませた。
昼時になって、ようやく3人が満面の笑みを浮かべて帰ってきた。東は麗奈の手を引き、その後ろから桂子がついてきている。
ところが朱音を見るなり、桂子の顔から笑みが消えた。
腰に手を当てて怒鳴りつける。
「本当に気の利かない子だね!よその家はどこも昼飯の支度をしてるってのに!ボケっと突っ立ってないで、さっさと飯を作りな!」
麗奈が笑いながら口を挟んだ。
「お母さん、お姉ちゃんは日向ぼっこでもして、のんびり暮らしたいのよ」
「こいつにそんな資格があるもんか!お前みたいな役立たずは、一生人に仕えていればいいんだよ!」
桂子はますます腹を立てた。
朱音はうつむいたまま、キッチンへ向かった。
数歩進んだところで昨夜の話を思い出し、振り返った。
「東、縫製工場へ行ってきたわ。工場長は麗奈を班長として受け入れてくれるそうよ。ただし……」
最後まで聞かないうちに、麗奈は喜びの声を上げた。
東に抱きつき、その頬に口づける。
「東さん、ありがとう!」
東は慌てて朱音を盗み見た。
朱音がこちらを見ていないと分かると、急に真面目な顔を作って見せた。
「麗奈、もうこんなことはするな。俺はお前の未来の義兄なんだ。きちんと一線を引かないといけない」
麗奈は不満そうに口を尖らせた。
「分かったわ」
だが、東の目に一瞬浮かんだ喜びを、いったい誰が見逃すというのか。
朱音は胸の内で冷笑した。
麗奈は今度は朱音の行く手を塞ぎ、耳元で得意げに囁いた。
「お姉ちゃん、班長になるためにずいぶん苦労したんですって?でも私は、東さんに少し甘えただけで、お姉ちゃんを辞めさせてもらえたわ。やっぱり、東さんはお姉ちゃんを愛してないのね」
「それは、おめでとう」
朱音は平然と答えた。
麗奈は続けようとしていた言葉を呑み込むしかなかった。
歯を食いしばり、甲高い声で吐き捨てる。
「いつまで平気な顔ができるか、見ものね!」
やがて朱音が食事を作り終えると、3人はすでに食卓についていた。
麗奈は買ったばかりの服に着替え、すっかり垢抜けたように見えた。わざと朱音へ問いかける。
「お姉ちゃん、この服、似合ってる?」
「似合ってるわ」
朱音はそれだけ答え、黙々と食べ続けた。
「どこが似合ってるの?」
「全部よ」
いくら挑発しても朱音が大人しく受け流すので、麗奈は悔しくてたまらなかった。
だが、東がいる前でこれ以上騒ぎを起こすわけにもいかない。
朱音がおかずを取ろうとするたび、わざと箸で払い落とすのが精一杯だった。
それでも朱音は意に介さず、砂の混じった黄ばんだ古米を淡々と口へ運んだ。
食事が終わると、麗奈は自分の部屋へ休みに戻った。
一方、何か思い悩んでいる様子の東は、朱音のもとへやって来た。
第5話
東は朱音に言いにくそうに切り出した。
「朱音、麗奈が服を何着か欲しがって、金を全部使ってしまったんだ。来月、給料が入ったらお前に新しい服を買う。それでいいだろう?」
「ええ」
朱音は小さく答えた。
その時、部屋から麗奈の悲鳴が上がった。
「東さん、部屋にネズミがいるの!怖い!」
東は朱音を慰めるどころではなく、慌てて部屋へ駆け込んだ。
ところが間もなく、部屋から妙な物音が聞こえ始めた。机や椅子が軋む音に、男女の押し殺したような喘ぎ声が重なる。
朱音にはすべて聞こえていたが、邪魔をする気にもなれなかった。
顔に手をやると、いつの間にか涙で濡れていた。
唇に触れた雫は塩辛かった。
もう泣かないと自分に言い聞かせたのに、どうして堪えられないのだろう。
自分が望んだものは、決して多くはなかった。
新しい服を買うと約束したのは東自身だ。それなのに、どうしてあんなにも簡単に約束を破れるのか。
麗奈が大学へ行きたいと言えば、朱音は大学進学の機会を譲った。
母に家計を支えるため給料をすべて差し出せと言われれば、それにも従った。服さえ、妹のお下がりしか着せてもらえなかった。
自分の持つものを、求められるまま何もかも差し出してきた。
その見返りは、終わりのない罵声と暴力だけだった。
朱音だって、一度くらい新しい服を着てみたかったのだ。
「来月になったら買うって……
でも来月には、私はもうここにいないのよね」
朱音は虚ろな目で独り言を漏らした。
突然、背後から東の緊張した声がして、朱音は驚いて肩を震わせた。
「いないって、どういうことだ?朱音、どこかへ行くつもりなのか?」
「違うわ。午前中に工場長を訪ねた時、工場を辞めた人が何人かいるって聞いただけ」
朱音は何気ない口調でごまかした。
東はほっと息をつき、朱音を抱き寄せた。
「驚かせるなよ。お前が俺のもとから離れるのかと思ったじゃないか。朱音、安心しろ。俺は約束したことを必ず守る。知り合いに聞いたら、月末は縁起のいい日らしい。その日に式を挙げよう。身内だけで食事をして、浮いた金はこれからの暮らしに回せばいい」
朱音は不意に言葉を失った。
月末といえば、まさに自分がここを去る日じゃないか。
朱音は微かに笑った。
「分かったわ」
その時、朱音の目が東の襟元で止まった。
そこには、くっきりと口紅の跡が残っている。
辺りには香水の匂いも漂っていた。それは麗奈だけが使っている香りだった。町では手に入らない高級品だと自慢し、朱音のような田舎者には一生使えないと嘲っていたものだ。
だが、麗奈が買い物に使う金は、朱音が朝から晩まで働いて得た給料だった。
一刻も早く時が過ぎてほしいと、朱音は心の底から願った。
一方、朱音の返事を聞いた東は、肩の荷が下りたようだった。
朱音から腕を離し、真剣な顔で弁解する。
「朱音、俺と麗奈の間には何もない。家族として気にかけているだけだ。お前ももう少し広い心を持って、何でもあいつに譲ってやってくれ」
「分かってるわ」
朱音はさらに小さな声で付け加えた。
「あなたのことだって、譲ってあげるわ……」
その最後の言葉は、東の耳には届かなかった。
東は朱音を見つめた。以前とはどこか違う気がするのに、何が変わったのかは分からない。
ただの気のせいかもしれない。
それからの2日間、班長の仕事を麗奈に譲ったことで、桂子も朱音が少しは物分かりよくなったと思ったのだろう。口を開くたびに疫病神と罵ることは減った。
もっとも、押しつけられる家事は少しも減らなかった。
2日後。
朱音が洗濯をしていると、麗奈と東が汗だくになって帰ってきた。
東によれば、縫製工場の班長は楽な仕事ではないので、麗奈が早く慣れるよう体力作りを手伝っていたのだという。
それが本当かどうかなど、朱音にはどうでもよかった。
心の中で残りの日数だけを数える。
あと5日。
その時、真っ二つに切り裂かれた服が洗面器へ放り込まれた。
朱音が顔を上げると、麗奈が楽しそうに笑っている。
「お姉ちゃん、この2枚の雑巾も洗っておいて」
朱音は洗面器の中を見下ろし、凍りついた。
第6話
その服は、父が生きていた頃に買ってくれたものだった。
朱音が持つ服の中で、唯一人前に着て出られる1着だった。
それが今は真っ二つに切り裂かれ、いくつもの泥だらけの足跡をつけられ、鼻を突く悪臭まで放っていた。
朱音は目を真っ赤にして問い詰めた。
「麗奈、何をしたの!」
悲痛な叫びを聞き、家の中にいた2人が慌てて飛び出してきた。
2人の姿を見るなり、麗奈は地面へへたり込み、東に向かって泣きじゃくった。
「東さん、お姉ちゃんがこの服をそんなに大事にしてたなんて知らなかったの。家事を手伝おうと思って、雑巾だと勘違いして……」
桂子は泣いている麗奈を急いで抱き起こし、心配そうに宥めた。
「よしよし、もう泣かなくていいよ。お母さんが味方だからね」
東は表情を冷たくした。
「朱音、たかが服1着で、そこまで騒ぐことか!」
朱音には東の声など届いていないようだった。
ひたすら同じことを呟いている。
「この服は、お父さんが買ってくれたの。新しい服を着たら、ずっと幸せでいられるって……」
「だから何だ。俺だってお前に買ってやったことくらい――」
東の言葉が途中で止まった。
朱音は表情を失ったまま、東を見つめた。涙は流れているのに、声だけは静かだった。
「東、あなたは一度も私に新しい服を買ってくれたことなんてないわ。一度もよ」
東は呆然とした。
信じられなかった。
朱音に新しい服を買うと、何度も約束した記憶は確かにある。
だが、よく思い返してみれば、そのたびに何かしら理由をつけ、結局一度も買っていなかった。
東は責める言葉を失った。
朱音はもう言い返さなかった。
水仕事で白くふやけた手で涙を拭い、低い椅子へ腰を下ろす。切り裂かれた服を並べて元の形に戻し、洗剤をつけて何度もこすった。
そうすれば汚れが落ち、服も元どおり1枚に戻ると信じているかのように。
感情を失い、ただ機械のように手を動かす朱音の姿に、東の不安はますます募った。
その時、麗奈が腰を押さえて甘えた声を出した。
「東さん、ここが痛いの。ひねったみたい。少し揉んでくれない?」
東がまだ呆然としているうちに、麗奈はその手を取り、自分の腰へ引き寄せた。
掌に伝わる温かく滑らかな感触に、東の喉が動いた。
「麗奈もわざとやったんじゃない。許してやってくれ。今度こそ、新しい服を買ってやるから」
今度など、もうない。
東と麗奈は家の中へ入り、桂子も悪態をつきながら2人に続いた。ドアが閉まる。
外には、朱音が服をこする音だけが虚しく響いていた。
翌日の午前。
家にはまた朱音一人だけが残っていた。
縫製工場の班長になり、麗奈にも一応は仕事ができた。見栄っ張りの麗奈は、桂子にアクセサリーを買って裕福な暮らしを味わわせてやると言い、朝早くから母を連れて出かけていた。
東は組織の会議に出席するため、夜まで戻らない。
朱音はようやく、一人で過ごす時間を得た。
自分の持ち物をまとめて手縫いの小さな布袋へ詰め、ふくらはぎの傷の周りに薬を塗った。
その時、家の外から大勢の騒ぐ声が聞こえてきた。
縫製工場の責任者である松本重信(まつもと しげのぶ)が、大勢の職員を連れて押しかけてきたのだ。
朱音が外へ出ると、重信は怒りを露わにした。
「朱音、お前が気の毒だから、妹を班長として試用してやった。それなのに、お前たち家族はこんな形で恩を返すのか?仲間と組んで、工場の防寒着を横流しするとは!」
重信が合図すると、柄の悪い若い男が引きずり出された。
男は朱音を見るなり、慌てて指を差した。
「松本工場長、こいつです!何着かこっそり売るくらいなら問題ないって言ったんです。自分はもうすぐ辞めるから、発覚しても次の班長に全部押しつければいいとも言ってました!」
朱音の顔から血の気が引いた。
「松本工場長、違います、何かの間違いです!」
「間違いだと?一番の間違いは、私がお前を見誤り、言葉を信じたことだ!この女を捕まえて、調査室へ連れていけ!」
重信の指示を受け、職員たちが朱音を押さえつけた。
ちょうどその時、人だかりの後ろに麗奈と桂子が現れた。
麗奈の首には、買ったばかりの金のネックレスが輝いている。桂子の手首にも新しい金の腕輪があった。
家の前に大勢集まっているのを見て、桂子は驚いた。
「いったい何の騒ぎだい?」
重信の姿を見た麗奈は、途端に落ち着きを失った。
桂子の腕から金の腕輪を外そうとしながら、もっともらしい口実をつける。
「お母さん、こんなに人がいるところで高価な物を見せるのはよくないわ。ひとまず外しておきましょう」
だが、桂子は聞き入れようともせず、誇らしげに胸を張って言った。
「東は組織の幹部なんだよ。誰がこの腕輪を狙うっていうんだい」
麗奈が止めるより早く、桂子は人々を押しのけ、大声を張り上げた。
「あんたたち、ここで何をしてるんだい!私の婿は笹川東だよ!」
第7話
桂子の言葉を聞き、集まった人々がざわめき始めた。
重信も東の立場を思い出し、慌てて職員たちに朱音を放すよう合図し、口調まで大きく和らぐ。
「お母さん、実は縫製工場で、あなたの娘さんが防寒着を横流ししていたことが分かりまして。ご存じのとおり、あれは工場の大切な物資ですから……」
重信が言い終えるより早く、桂子は朱音の頬を力いっぱい平手で打った。
続いて壁に立てかけてあった、赤ん坊の腕ほどもある太い木の棒を掴み、朱音の足へ叩きつけた。
乾いた音を立てて、木の棒が折れた。
同時に朱音の足からも骨の折れるボキッという生々しい音が響き、彼女はその場に崩れ落ちた。
それでも桂子は構わなかった。
同行者の1人が持っていた鉄の棒に目を留めると、それを奪い取り、朱音の頭へ振り下ろそうとした。
重信は顔色を変え、慌てて前に出て止めた。
「お母さん、落ち着いてください!これ以上殴ったら、本当に死んでしまいますよ!」
取り押さえられても、桂子は泣きながら大声で罵り続けた。
「ああ、なんて情けない!どうしてこんな疫病神を産んじまったんだか。工場の物を勝手に売り飛ばすなんて!私たちまで牢屋にぶち込まなきゃ気が済まないのかい!これから私は、どんな顔をして世間様を歩けばいいんだよ!」
朱音は地面に倒れ伏していた。
痛みは感じなかった。足全体の感覚が完全になくなっていたからだ。
片方の頬はひどく腫れ上がり、口の端から血が流れている。頭の中では耳鳴りが続き、周囲の騒ぎも遠くに聞こえた。
その時、桂子の手首で揺れる金色の光が目を射て、朱音はようやく我に返った。
朱音はわずかに意識を取り戻し、金の腕輪を見つめた。
「お母さん、その金の腕輪、どこで手に入れたの?」
掠れた声で尋ねると、罵り続けていた桂子が急に黙り込んだ。
周囲の人々も一斉に腕輪へ目を向ける。
大ぶりの金の腕輪は、一目で高価な品だと分かった。
桂子はしどろもどろになり、人混みの後ろへ隠れようとしている麗奈を見つけると、慌てて呼び止めた。
「麗奈、腕輪やネックレスを買った金は、どこから出したんだい?」
桂子もようやく、おかしいと気づいたのだ。
麗奈は見るからに動揺していた。
重信が連れてきた職員たちも、皆険しい顔をしている。
追いつめられた麗奈は叫んだ。
「そのお金は東さんにもらったのよ!」
重信たちは顔を見合わせた。
それでも疑いは消えない。
東の給料だけで、これほど高そうな金の腕輪を買えるものだろうか。
しばらく考え、重信が口を開いた。
「笹川さんは組織の幹部で、公正な方だ。すぐに人を向かわせて、本人に確認しよう」
しばらくして、東が急いで戻ってきた。
事情を聞くなり、迷わず答えた。
「麗奈が腕輪とネックレスを買った金は、俺が渡した。俺はもうすぐ朱音と式を挙げるだろう。だから麗奈に、婚礼用の品を買ってきてもらったんだ。少しでも体裁を整えようと思ってな」
人々はすぐに納得した。
そして東が暗に、麗奈は潔白だと訴えていることも理解した。
ならば、防寒着を横流ししたのは朱音ということになる。
重信は朱音を怒りのこもった目で睨み、それから東へ向き直った。態度を和らげて頼む。
「笹川さん、ご家族に関わることですが、どうか公平に対処してください。縫製工場は、大勢の暮らしを支えているのです」
東は威厳に満ちた顔で答えた。
「安心してください。賠償であろうと法的な処分であろうと、身内だからと手心を加えるつもりはありません」
朱音は顔を上げ、最後の力を振り絞って訴えた。
「東、私はそんなことしてないわ」
東は暗い目で朱音を見下ろし、冷たく言い捨てた。
「そのまま跪いていろ」
麗奈と桂子を連れ、東は家の中へ入っていった。
集まっていた人々も、やがて散っていった。
夕暮れになって、ようやく東が外へ出てきた。
意識を失いかけている朱音を引き起こし、片足が力なく垂れ下がっていることに初めて気づいた。
東の目に不安が走った。
その足に触れて尋ねる。
「朱音、その足はどうした?」
「折れたわ」
朱音は淡々と答えた。
東は胸を突かれたが、朱音が腹立ち紛れに嘘をついているだけだと思い込んだ。
朱音を支えて家の中へ入れ、椅子に座らせる。
桂子と麗奈は四角いテーブルのそばに座っていた。2人とも落ち着かず、表情を暗くしている。
その重苦しい空気に、朱音はますます不安を募らせた。
第8話
4人は重苦しい空気の中で長いあいだ黙り込んでいたが、やがて東が口を開いた。
「朱音、事情は分かった。麗奈がうっかり過ちを犯して、防寒着を横流ししたんだ。あいつのことは、もう厳しく叱っておいた」
朱音の目頭が微かに熱くなった。
今さら真実を明かして、何になるというのか。自分が工場の物資を横流ししたという噂は、すでに町中へ広まっているはずだ。それに、東が言う「厳しく叱った」など、どれほどのものか知れたものではない。
東は少し間を置いてから、話を続けた。
「俺はこう考えている。麗奈は大学を出たばかりで、まだ先のある身だ。ここで処分歴をつけるわけにはいかない。ひとまず、お前が罪を被ってくれ。賠償金は俺が用意するし、上の人間にも頼んでみる。数日拘束されるだけで、大したことにはならない。戻ってきたら、すぐに式を挙げよう。朱音、この話を受け入れてくれないか?」
朱音は胸の痛みを堪え、静かに首を横に振って言った。
「東、嫌よ。私に身代わりになれと言うけど、その後、私がどうなるか考えたことはあるの?私の一生だって、台無しになるのよ」
その言葉に、東の目に一瞬だけ痛ましそうな色が浮かび、心が揺らいだようにも見えた。
だがその時、麗奈が朱音の前へ勢いよく跪き、泣きながら縋りついてきた。
「お姉ちゃん、今回だけ助けて!私はまだ若いの。こんなことで一生を台無しにできないわ。これからは、ちゃんとお姉ちゃんを大切にするから!」
桂子も横から口を挟んだ。
「朱音、あんただって私の娘なんだ。この件は私が決める!姉なら妹の面倒を見るのが当たり前だろう!たった数日閉じ込められるだけで、命を取られるわけじゃない。大したことじゃないよ!」
3人に迫られても、朱音はきっぱりと首を横に振った。
あと3日で、恩師が手配した迎えの者が到着する。ここから離れる機会を、絶対に逃すわけにはいかないのだ。
「絶対に嫌よ!」
朱音がはっきりと言い切ると、3人の顔色が一斉に変わった。
東はテーブルを力いっぱい叩き、朱音を怒鳴りつけた。
「これはお前が決められることじゃない!俺がお前の考えに気づいていないとでも思ったか。ここを出ていくつもりなんだろう!」
そう言うなり、東は隠してあった手紙を投げつけた。封筒はすでに破られ、中の便箋と任命書が露わになっていた。
それを見た朱音は顔色を変え、我を忘れて叫んだ。
「返して!」
東が手紙を引き裂こうとするのを見て、朱音は泣きながら声を張り上げた。
「破らないで!お願い、破らないで!身代わりになるから、手紙を返して……お願いだから返して……返してよ……」
だが、ビリッと紙の裂ける音が無情に響き、朱音の懇願に返ってきたのは、真っ二つにされた手紙だった。東はさらにマッチで火をつけ、手紙も任命書も一握りの灰にしてしまった。
炎が消えるのと同時に、朱音の心も完全に死んだ。
桂子に殴られた左足はとうに感覚を失っており、歩くことさえできないのに、ここから離れられるはずがなかった。
朱音は激しく泣きじゃくり、やがて狂ったように突然笑い声を漏らしたかと思うと、次の瞬間、大量の血を吐いてテーブルを赤く染めた。
完全に意識を失う直前、慌てふためく東の叫びが耳に届いた気がした。
「朱音!朱音、目を覚ませ!」
第9話
朱音は激しく体を揺さぶられ、薄れゆく意識を取り戻した。
冷たい手錠をはめられた両手を見つめる彼女の瞳には、悲しみも喜びも浮かんでいなかった。
部屋では数人の取調官が東と話し込んでおり、麗奈と桂子は部屋の隅に身を縮め、いつものように威張ることもできずにおとなしくしていた。
話が終わると、担当者たちは外へ出て待機した。
東は朱音に歩み寄り、その体を抱きしめて耳元で囁いた。
「朱音、先方とは話をつけた。お前が素直に罪を認め、追加の賠償金も支払ったから、松本工場長たちも厳しい処分は求めないと言ってくれたよ。反省室で3日過ごすだけでいい。
出てくる日は、ちょうど俺たちが式を挙げる日だ。その時は新しい服を着て、家族みんなで仲よく暮らそう。怪我も診てもらった。3日くらいなら問題ないし、反省室にいれば安静にできるさ」
その言葉を聞いても、朱音の瞳は少しも動かなかった。
目の前にいる男の恥知らずな本性は、初めからこうだったのだ。それを見抜けなかった自分を、朱音はただ深く憎んだ。かつて本気で東を愛していたことさえ、今の彼女には許しがたい事実だった。
取調官に引かれて庭を出ようとした時、朱音は不意に立ち止まり、振り返って東に問いかけた。
「東、私と結婚すると約束した日、あなたが誓ったことを覚えてる?」
その言葉に、東は息を呑んで言葉に詰まった。
あの日、朱音に大学進学の機会を麗奈へ譲らせるため、東は彼女と結婚すると約束し、一生守り続けるとも誓ったのだ。あの時は、確かに本心だった。だが、今は……
東が何か言い訳をしようとした時には、朱音はすでに連れていかれた後だった。
誰もいなくなった庭には、継ぎ当てだらけの古い服が数着、寂しげに風に揺れている。中でも、真っ二つに切り裂かれたあの服はきれいに洗われていたが、切れたものが元に戻ることはない。いくら縫い合わせても、醜い縫い目が残るだけだった。
調査室で記録を読み終えた担当者は、朱音を見て深くため息をついた。
「松本工場長の証言によると、君は班長を務めていた頃、技術も管理能力も非常に優れていたそうじゃないか。それなのに、どうして目先の金に目がくらんで、防寒着を横流しするような真似をしたんだ?」
朱音は反論しなかった。
唇が微かに震え、心臓が異常な速さで脈打っており、声を出すことさえできなかった。額には細かな冷や汗が浮かんでいる。
薄暗い照明の下で、担当者は朱音のそんな異変に気づくこともなく、そのまま彼女を反省室へ入れた。
重い鉄の扉が閉まり、深い闇が朱音を包み込んだ。
突然、心臓を引き裂かれるような激痛が走り、朱音は口から何度も大量の血を吐き出した。だが、冷たい密室でそれに気づく者は誰もいなかった。
3日後。
妙な胸騒ぎを抑えきれないまま、東は朱音が拘束されている施設へ向かった。
この日のために、流行の新しい服を何着も買い、真新しいツル印の高級自転車も用意した。これだけ贈れば、きっと朱音も許してくれるはずだ。東は心の中で何度もそう言い聞かせ、ようやく落ち着きを取り戻した。
東は麗奈がすり寄ってくる手を振りほどき、自分の服装を整えた。拒絶された麗奈は嫉妬を滲ませ、拳を強く握りしめながら、胸の内で朱音を口汚く罵り続けた。
2人の後ろを歩く桂子も、不満そうにぶつぶつと文句を言っている。
「ずいぶん大層なお迎えだね。反省室から出てくるだけなのに、私たち3人を揃って迎えに来させるなんてさ」
東が苛立たしげに一喝すると、桂子は渋々口を閉ざした。
やがて、施設の奥から職員が出てきた。
東は急いで歩み寄り、声をかけた。
「結城朱音を迎えに来ました」
職員たちは顔を見合わせると、重く沈んだ口調で告げた。
「笹川さん、残念ですが……結城朱音さんは鈍器で激しく殴られたにもかかわらず、適切な治療を受けていませんでした。そのため容体が急変し、係の者が気づいてすぐ病院へ搬送しましたが、死亡が確認されました」