声なき恋いは、届かぬままに

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声なき恋いは、届かぬままに

GoodNovel 完結

彼氏の江崎瑛人(えざき あきと)も私も耳は聞こえる。なのに、私たちは手話でしか会話をしない。 周りのみんなは言う。「瑛人って本当に優しいよね。聴覚障がい者の力になりたいから、自分から手話を覚えて、恋人まで付き合わせてるなんて」 でも、誰も知らない。彼がそこまでする理由は、たった一人のためだということを。 最初は、瑛人から徹底的に手話だけでやってみようって提案された。会話も、普段のやり取りも、できるかぎり声も文字も使わない。手話だけ。 ある日、大雨の中で足止めされ、私はスマホで【迎えに来て】とメッセージを送る。 返ってきたのは、【ビデオ通話で手話を使え】という一言だけ。 慣れない私は、ぎこちなく手を動かす。それを見て、あっさり通話を切られる。 結局びしょ濡れで家まで帰って、夜には熱が40度近くまで上がる。 苦しくて、「お願い、病院に連れて行って」と声を振り絞ると、瑛人は何も言わずに私を見つめる。 手話で――そう言いたげに視線だけを向けてくる。 熱で意識も朦朧として、腕すら持ち上がらない。彼は二秒だけ待つと、何事もなかったように背を向けて眠ってしまう。 そして私は、ようやく覚える。 昔の古傷が痛み出した日、冷や汗を流しながら、震える指で必死に伝える。 [お腹が痛い。病院へ連れて行って] 瑛人は満足そうに笑って、私の頬をつまむ。 [上手になったね。でも今日は実音と美術展に行く約束なんだ。少し我慢して] 花井実音(はない みお)――瑛人がボランティア活動で知り合った、聴覚障がいのある女の子だ。 痛みに耐えきれず、私は思わず声を漏らす。 それでも彼は眉ひとつ動かさない。 [わからない。手話で話せ] その瞬間、涙があふれた。 彼は私に手話を教えたかったわけじゃない。 ただ、私の声を聞きたくなかっただけなんだ。 でも、もういい。私は出ていく。 これからは、彼がどれだけ聞きたくても、私の声なんて二度と聞けないんだ。

チャプター (1)

第1章

彼氏の江崎瑛人(えざき あきと)も私も耳は聞こえる。なのに、私たちは手話でしか会話をしない。 周りのみんなは言う。「瑛人って本当に優しいよね。聴覚障がい者の力になりたいから、自分から手話を覚えて、恋人まで付き合わせてるなんて」 でも、誰も知らない。彼がそこまでする理由は、たった一人のためだということを。 最初は、瑛人から徹底的に手話だけでやってみようって提案された。会話も、普段のやり取りも、できるかぎり声も文字も使わない。手話だけ。 ある日、大雨の中で足止めされ、私はスマホで【迎えに来て】とメッセージを送る。 返ってきたのは、【ビデオ通話で手話を使え】という一言だけ。 慣れない私は、ぎこちなく手を動かす。それを見て、あっさり通話を切られる。 結局びしょ濡れで家まで帰って、夜には熱が40度近くまで上がる。 苦しくて、「お願い、病院に連れて行って」と声を振り絞ると、瑛人は何も言わずに私を見つめる。 手話で――そう言いたげに視線だけを向けてくる。 熱で意識も朦朧として、腕すら持ち上がらない。彼は二秒だけ待つと、何事もなかったように背を向けて眠ってしまう。 そして私は、ようやく覚える。 昔の古傷が痛み出した日、冷や汗を流しながら、震える指で必死に伝える。 [お腹が痛い。病院へ連れて行って] 瑛人は満足そうに笑って、私の頬をつまむ。 [上手になったね。でも今日は実音と美術展に行く約束なんだ。少し我慢して] 花井実音(はない みお)――瑛人がボランティア活動で知り合った、聴覚障がいのある女の子だ。 痛みに耐えきれず、私は思わず声を漏らす。 それでも彼は眉ひとつ動かさない。 [わからない。手話で話せ] その瞬間、涙があふれた。 彼は私に手話を教えたかったわけじゃない。 ただ、私の声を聞きたくなかっただけなんだ。 でも、もういい。私は出ていく。 これからは、彼がどれだけ聞きたくても、私の声なんて二度と聞けないんだ。 第1話 目を覚ますと、主治医がベッドの横でカルテを見つめながら、小さくため息をついていた。 「もともと胃潰瘍があったんですね。今回は潰瘍が悪化して急性胃穿孔を起こしています。どうしてもっと早く来なかったんですか?」 瑛人が出て行ったあと、私は彼に26回電話をかけた。 でも、一度もつながらなかった。 結局、自分で救急車を呼ぶしかなかった。 私はぼんやりとうなずく。 どれくらい時間が経っただろう。病室のドアが開き、瑛人が入ってくる。 彼はまた、私に向かって手話を始める。 胸の奥が苦しくなって、私は顔を背け、そのまま目を閉じた。 気づけば涙が頬を伝っている。 濡れた頬に、そっと手が触れた。 「なんで泣いてるの?」 そういえば、彼が私に声で話しかけたのは、いつ以来だろう。 実音と出会って、二か月ほど経った頃からだろうか。 彼は友人とも同僚とも、誰とでも普通に話している。それなのに、私とだけは手話しか使わない。 私が目を開けると、瑛人は優しく髪を撫でる。 まるで子どもをあやすような口調で言った。 「俺だって遥(はるか)を置いて行きたかったわけじゃない。でも今日は実音と美術館に行く約束をしてたんだ。約束は守らないといけないだろ?」 約束。 付き合って五年の記念日、私との約束を放り出して、実音の飼い犬の散歩を頼まれたからって、私を三時間も待たせた人が。 そのときは、約束なんて言葉、一度も口にしなかったくせに。 「私がどれだけ苦しんでるか分かってたよね。なのに聞こえないふりをして、分からないふりをして……私を置いて、あの子のところへ行った……」 そこまで言ったところで、喉が詰まり、言葉にならなくなる。 瑛人は眉をひそめ、私の頭から手を離した。 「実音と比べるのはやめろよ。あの子は耳が聞こえないんだ。だから俺が少し多く支えてあげるのは当たり前だろ。 もう無茶するな。これからは手話なんてやめればいい。 「私は、無茶なんて……」 その瞬間、実音専用に設定された着信音が鳴り響く。 瑛人はすぐに私へ「黙って」と手で合図すると、病室の隅へ移動し、ビデオ通話をかけた。 スマホを持つ手も落ち着かないまま、夢中で手話を繰り返す。 [泣かないで。実音が泣くと、俺までつらい] [お願いだから、無視しないで] [そっちへ行くから、一緒にちゃんと話そう] 何度も何度も繰り返されるその手の動きが、まるで鋭い氷の刃になって、私の胸へ突き刺さる。 あの頃、瑛人と一緒に浜市(はまし)に残るため、私は内定が決まっていた会社を辞退した。 毎日五社も面接を受けて仕事を探し、将来への不安で、夜も眠れなくなった。 ある日、とうとう耐えきれず、私は彼の前で泣いてしまった。 あのとき瑛人は、何と言っただろう。 「泣いたって何も解決しない。 もういい。言い訳なんて聞きたくない。被害者ぶるなよ。自分に実力がないだけだろ」 冷たい顔でそう言い放ち、私をその場に残して去っていった。 別に、長い時間話を聞いてほしかったわけじゃない。 新卒で大手企業に就職した優秀な彼に、私の苦しみを理解してほしいなんて望んでもいなかった。 ただ、大丈夫だよって、その一言だけでよかった。 瑛人は、いつだってそうだった。 私の痛みには目を向けず、私との会話を拒み続ける。 それなのに今は、実音が傷つかないようにと、必死になって手話を続けている。 ビデオ通話が終わると、瑛人は何も言わず、そのまま病室を出て行こうとする。 そのとき、窓の外が真っ白に光った。 一拍遅れて、激しい雷鳴が病院を震わせる。 幼い頃、雷雨の日になるたび、父は私を殴った。 だから私は今でも、雷が怖い。そのことを知っている瑛人は、昔は雷が鳴るたびに私の耳をそっと塞ぎ、何も言わず抱きしめてくれた。 「雷……」 震える声で、私は瑛人を見る。 すると彼は、くだらない冗談でも聞いたように笑った。 「それで?また俺にここへ残れって言うのか?遥。そんな言い訳、通用しない。 さっき一度わがままに付き合ったんだ。二度目はない」 彼にとって、急性胃穿孔で苦しむ私が病院へ連れて行ってほしいと頼んだことも、ただのわがままだった。 何か言おうとしても、唇は震えるばかりで、声にならない。 瑛人が病室のドアに手をかけた、その瞬間。 私は喉の奥から必死に声を絞り出す。 「あのとき、私がどうしてあんなケガをしたのか……もう忘れたの?」 その一言に、瑛人の動きが、ぴたりと止まった。 第2話 しばらくして、瑛人が振り返る。 「遥……俺、お前のことを見損なったな。 一年前に俺を助けたのだって、今日、俺を脅すためだったのか? 自分から助けたんだろ?俺がお前に無理やり助けさせたのか?」 一年前、瑛人が交通事故に遭いかけたとき、私は何も考えず、彼の前に飛び出していた。 そのせいで内臓をひどく傷め、後遺症として胃潰瘍を患うようになる。どれだけ治療しても、完全には治らない。 あの頃の瑛人は、病室のベッドで泣きながら、私に一生寄り添うと誓った。 私は体の芯まで冷え切った思いで、全身が震えて止まらない。 次々と落ちる雷鳴が、まるで私の体を直接打ちつけているように感じる。 瑛人は腕時計に目を落とす。 「病気のふりだけじゃ足りないのか?今度は雷が怖いふりまでして、俺を引き止めるつもり? 実音はお前のせいで不安定になってるんだ。俺と離れるのが怖くて、また症状が出てる」 私が、病気のふり? 実音が、瑛人と離れるのを怖がっている? 私は何か言おうとして、口を開きかける。 「チッ。俺は先に実音を落ち着かせてくる。そのあとで、実音にちゃんと謝れ。そうしたら今回のことは水に流す」 伸ばしかけた手が、途中で止まる。そして力なく、真っ白なシーツの上へ落ちる。 私は布団の中に体を埋め、震えながら目を閉じる。 やがて雷鳴が遠ざかる。 私はスマホを手に取り、叔母の田村麗子(たむら れいこ)にメッセージを送る。 【叔母さん。私、そっちに行く】 すぐに返信が届く。 【遥、やっと決心してくれたのね!三日後の飛行機を取っておくわ】 翌日、私は検査結果を待ちながら、病院の廊下に座っている。 すると突然、小さな女の子が私の膝に体を預けてくる。 「あのう、唇真っ白だよ。そんなに苦しいの?」 そう言って、その子は私の手に飴玉を一つ握らせる。 「これ食べて。甘いもの食べたら、痛くなくなるよ」 私はその子の頭をそっと撫でる。 胸の奥が、ひどく痛む。 たまたま出会っただけの小さな子でさえ、私が病気で苦しんでいることに気づく。 それなのに、八年付き合ってきた恋人は、私が病気のふりをしていると言い張る。 「ねえ、泣かないで……」 家に戻ると、私は荷物をまとめ始める。 これまで瑛人からもらったものを一つずつ整理していくのに二時間もかかった。 収納ケースが三つもいっぱいになる。 高校の卒業式の写真で、満面の笑みを浮かべた私の後ろで、瑛人がふざけた顔をして立っている。 わざと腕を上げ、手首につけた私の編んだミサンガまで見せている。 瑛人は、少女だった私にとっての救世主だった。 高校一年の頃、父の浮気が発覚した。長年、父からの暴力に苦しめられていた母は、心を病み、自ら命を絶った。 父は浮気相手の女と一緒に家を出ていった。私は、誰からも必要とされない子どもになった。 噂はあっという間に学校中へ広がる。 教室に足を踏み入れるだけで、ひそひそ話や嘲笑が次々と耳に飛び込んでくる。 「こいつの父親が母親を追い詰めて自殺させたんだって」 「母親もおかしかったらしいよ。だからこいつも誰にも引き取ってもらえないんだって」 誰も私を気にかけない。誰も私を愛してくれない。 ある日の放課後、私は何の迷いもなく、校舎の屋上へ向かう。 フェンスの向こうへ踏み出すその半歩手前、突然温かな腕が私の体を強く抱き寄せる。 瑛人だった。 成績が学年トップで、先生からも信頼されている優等生の瑛人だった。 彼が、私を笑いものにしていた男子を殴り、病院送りにする。 そして、こう言い放つ。「もう一度、遥のことを悪く言ってみろ。次は俺が相手になる」 それから瑛人は、ずっと私を守ってくれた。噂が消えるまで。私が笑えるようになるまで。 そして、私たちが大人になるまで。 写真を裏返すと、そこには、瑛人の整った字で一行だけ書かれている。 【瑛人は一生、遥を守る】 私は静かに目を閉じる。そして、その写真を箱の中へ戻す。 その時、スマホの着信音が鳴る。 瑛人からだ。開口一番、彼は当然のように命令する。 「遥、婚約用のドレスを持ってきてくれ。実音が生理になって、服を汚しちゃったんだ」 私はスマホを強く握りしめる。 「どうして?」 あの白いシルクのドレスは、瑛人がパリで私のためだけに仕立ててくれたものだ。 初めて袖を通して彼の前に立ったとき、瑛人は目を奪われたように私を見つめていた。 私たちは来月、婚約する予定だった。 「実音が欲しがってるから。 お前は何でも持ってるだろ。そんなに子どもじゃないんだから、ドレス一着くらいで実音と奪い合うなよ」 そうだ。 瑛人の言う通り。 私は、あのドレスを「奪い合う」べきじゃない。 だから、もう瑛人も奪わない。いらない。 「分かった」 持っていく。 ドレスを届ければ、これで私は瑛人に何も借りはなくなる。 それに、私には、まだ瑛人から取り戻さなければならないものがある。 第3話 個室では、瑛人の友人たちが酒を飲みながら、私のことを面白半分に話している。 「瑛人、どうやったら遥をあんなに言いなりにできるんだ?黙れと言えば黙るし、ドレスを持ってこいと言えば本当に持ってくるし」 すると、別の男がすぐに口を挟む。 「だって遥の両親、もうとっくに亡くなってるんだろ?瑛人に捨てられたら、あいつどこに行くんだよ」 誰も知らない。私には、海外で事業をしている叔母がいる。 昔、祖父から望まない結婚を押しつけられた叔母を、母が結婚式の前夜に逃がした。 叔母はそのまま海外へ渡り、二十年もの間、帰ってこなかった。 二年前、偶然再会したとき。 叔母は、母と八割方同じ顔をした私を見るなり、泣き崩れた。 何度も私を海外へ連れて行って、一緒に暮らそうと言ってくれた。 でも私は、瑛人のために断った。そのことを、瑛人には一度も話していない。 瑛人は実音を抱き寄せたまま、誰の言葉も否定しない。 それどころか、笑いながら言う。 「遥は昔からああいう性格なんだよ。好きになった相手には、とことん尽くす。 俺のところに来てよかったよ。じゃなきゃ、他の男にいいように扱われてたかもしれない」 私は頬の内側を強く噛みしめる。そして、ドアを開ける。 背中に突き刺さる視線を、必死に無視しながら、持ってきたドレスをテーブルの上に置く。 身をかがめたそのとき、実音が突然、私の首元に手を伸ばす。 そして、胸元のペンダントをつかんだ。 思いきり引っ張られ、紐が切れて、首に赤い跡が一瞬で浮かび上がる。 そこから血がにじみ、ぽたぽたと落ちる。 瑛人の表情が数秒だけ固まる。そして立ち上がり、私の様子を確認しようとする。 けれど実音は、すぐに彼の腕を抱き寄せる。 無邪気な顔で、ペンダントを見ながら手話をする。 [このペンダント、うちの犬がつけてるのとそっくり] 全身の血が、すっと冷えていく。 このペンダントは、もともと一対になっている。 祖母が亡くなる前、私に残してくれたものだ。 いつか一生を託せる人に出会ったら、その人と一つずつ持ちなさいって。 父は母に暴力を振るい、母は心を病み、祖父は私たちに無関心だった。 そんな家の中で、祖母だけが私に優しくしてくれた。 私は、大学入試の合格祝いとして、そのペンダントを瑛人に渡した。 「一生、身につけよう」そう約束した。 なのに、瑛人の首元は、何もない。 私の祖母が残してくれたペンダントは、実音の犬の首元にある。 怒りで、涙すら乾いていく。 私は腕を振り上げ、思いきり瑛人の頬を叩こうとする。 けれど、手首を空中でつかまれる。 私はついに感情が抑えきれず、泣きながら怒鳴る。 「あんた、それでも人間なの?祖母が遺してくれたペンダントを、あの人の犬につけたの?」 瑛人の目が、わずかに泳ぐ。 「そんな安物のペンダント一つで、いつまで昔のことを覚えてるんだよ」 つかまれていた手首が、ようやく解放される。 「殴れば?」 すると実音が突然立ち上がり、瑛人の前に立ちはだかる。 目を真っ赤にして、慌てたように手話をする。 [彼を責めないで。全部私が悪いの。殴るなら、私を殴って] [ごめんなさい] 声にならない声を漏らしながら、必死に手を動かしている。 私は手話で返す。できる限り、平静な顔を作って。 [ペンダントを返して、それから着替えて帰って。ここで起きたことは、あなたには関係ない] 実音は数秒、私を見つめる。けれど返事はしない。次の瞬間、「うわぁぁ……」と突然泣き出す。そして、瑛人の胸に飛び込み、何度も首を横に振る。 私はその場に立ち尽くす。伸ばした手だけが、行き場を失ったまま宙に残る。 何が起きたのか理解するより早く、瑛人は実音を強く抱きしめる。そして、彼女の手からペンダントを受け取る。 その目に浮かんでいた、ほんのわずかな罪悪感が一瞬で消えた。 「遥、お前はやりすぎだ。 わざとじゃないって言ってるだろ?それでも実音を許せないなら、俺に土下座でもしろって言うのか? たかがペンダント一つだろ。欲しいなら、同じものを百個でも買ってやる。 お前はいったい、どうしたいんだ?」 まただ。また瑛人は、他人のために私を誤解して、私を責める。 昔の約束なんて、とっくに忘れている。 もう説明する気にもなれない。 どうせ聞かない。どうせ信じない。 私は一言ずつ、はっきり告げる。 「どうしたいも何もない。 祖母のペンダントを返してほしいだけ」 瑛人が私を見下ろす。 「いいよ。ただし、その前にその高いプライドを捨てて、実音に謝れ」 「私は悪くない」 瑛人が鼻で笑う。そして、テーブルの上に置かれたウォッカの瓶を指差す。 「謝らなくてもいい。その代わり、その一本、全部飲め」 その場にいた男の一人が、さすがに見かねて口を挟む。 「瑛人、それ一本飲ませたら、遥、本当に病院送りになるぞ!」 「私、胃に穴が開いて、ついこの前退院したばかりなんだよ」 瑛人は私の顎をつかむ。骨が軋むほど強く。 「お前の体のことなら、俺が一番よく分かってる。お前の胃なんて、そこまで悪くないだろ。いつまで病気のふりを続けるつもりなんだ? 嘘ばっかりついて。 だからお前の父親はお前を殴ったんだ。母親にまで、死んでもお前なんかいらないと思われたんだろ!」 頭の中が、十秒間真っ白になる。 昔、私を救ってくれた人が、自分自身の手で癒やしたはずの傷口に、今度は刃物を突き立てる。 傷口が大きく裂ける。血が止まらない。 瑛人は待っている。私が頭を下げるのを。 昔のように、何度も何度も彼に折れてきたように、今回も私が謝って彼の機嫌を取るのを。 私はテーブルの上の酒瓶を手に取る。 「分かった。飲むよ。 全部飲んだら、ペンダントを返して。 これで、私とあなたは、もう二度と関わらない」 第4話 瑛人の表情に、初めて亀裂が走る。 「いい度胸だな。別れるって言えば、俺がお前に謝ると思ってるのか? そこまで言うなら……」 最後まで聞かず、私は酒瓶を持ち上げ、そのまま一気にあおる。 強い酒が喉を焼きながら、食道を通って胃へ流れ込んでいく。 次の瞬間、胃の奥が焼けるように痛む。 意識を失う直前、視界いっぱいに、瑛人の青ざめた顔が迫ってくる。 そして、次に目を覚ましたとき、二日が経っていた。 瑛人は目の下に隠しきれない隈を作り、病院のベッド脇で私の手を強く握っている。 「遥……やっと目を覚ました。 まさか、本当に酒を飲むなんて思わなかった。遥の病気、そんなにひどかったのか……ごめん、俺……」 かつて私に、数えきれないほどの幸せをくれた顔で、今度は私に数えきれないほどの苦しみを与えた。その頬を、涙がいくつも伝っている。 なのに、私の心は凪いだ海のように静かだ。何の波も立たない。 私はゆっくり手を上げ、彼の言葉を遮る。 その動きだけで腹筋が引きつり、鈍い痛みが走る。 瑛人が慌てて私の体を支える。 「医者も、しばらく安静にしてって言ってる」 私はちらりと彼を見る。 「約束したよね。ペンダント、返して」 瑛人は慌てて小さな箱を差し出す。中には、二つのペンダントが収められている。私はそれを手に取り、胸元にそっと押し当てる。 瑛人は医者を呼びに病室を出ていく。 飛行機の出発時刻が迫っている。私はスマホを手に取り、病院を出ようとする時、SNSの通知が一気に鳴り始める。 【弱者をいじめるなんて最低。人として終わってる!】 【表では寄付やボランティア活動をアピールして、裏では聴覚障がい者をいじめてたの?どこまで偽善者なんだよ。寄付の証拠だって他人の画像を盗用したんじゃない?】 【手話を教える動画まで投稿しておきながら、聴覚障がい者をいじめるなんて悪質すぎる。徹底的に調べるべき!】 通知は、あっという間に999件を超える。 二日前、あの個室に設置されていた監視カメラの映像が、悪意のある編集を加えられた状態でネットに流出しているんだ。 指先が止まらないほど震える。 身に覚えのない罪を、次から次へとなすりつけられている。 そして無数の悪意が、濁流のように私へ押し寄せてくる。 病室を出た瞬間、廊下にいる人たちの視線が、一斉に私へ向く。 私は瑛人の姿を見つけ、赤く腫れた目のまま、スマホの画面を彼の目の前に突きつける。 「これ、何?」 瑛人は眉をひそめる。そして次の瞬間、私の肩を強くつかむ。 「遥、話を聞いてくれ。実音と俺が一緒にいるところを誰かに撮られたんだ。実音が俺の浮気相手だって、ネットで騒がれてる。 だから、この動画を投稿した。実音への誹謗中傷をかき消すために。 実音はネットで叩かれることに耐えられないんだ。少しだけ我慢してくれ」 その手は熱い。まるで焼けた鉄の鎖みたいに、私の肩を締めつける。 「じゃあ、私はどうなるの?瑛人、私はどうすればいいの?」 「お前には俺がいる!」 瑛人の指にさらに力がこもる。骨まで砕かれそうなほど強く、肩をつかまれる。 「今お前が叩かれてるのなんて、一時的なものだ。そうだ。俺たち、結婚しよう。俺が一生、お前を守るから」 その言葉、どこかで聞いたことがある。 昔の私は、その言葉を信じた。 しばらくして、私は本当に抵抗する力を失い、瑛人の腕の中へ体を預ける。そして、かすかな声で尋ねる。 「じゃあ、実音とはもう二度と連絡を取らない?」 瑛人の手が、ぴたりと止まる。 「お前が望むことなら、何だって叶える。ただ、それだけは……」 その言葉を言い終えると、実音専用に設定された着信音が鳴った。 電話の向こうから、すすり泣く声が聞こえる。 瑛人の瞳に浮かんでいた迷いが一瞬で消えて、そして勢いよく立ち上がる。 何度か口を開きかけ、動揺を隠そうとする。そして最後に出てきたのは、たった一言。 「話は、俺が戻ってからにしよう」 私が返事をするより早く、瑛人は迷うことなく病室を出ていった。 その背中を見つめながら、胸の奥に残っていた、最後の期待が静かに消える。 私たちに、もう未来はない。 瑛人が去ったあと、私は痛む身体を引きずりながら、急いで空港へ向かう。 幸い、飛行機が遅延している。なんとか搭乗に間に合った。 飛行機に乗り込む直前、私はすべてのSNSアカウントを削除し、スマホからSIMカードを抜き取り、ゴミ箱へ捨てた。 …… 実音をなだめ終えた瑛人は、なぜか胸の奥に重苦しさを感じている。 理由は分からない。ただ、妙な胸騒ぎがする。 まるで、何か大切なものを失おうとしているような。 瑛人は、急いで病院へ戻る。 病室の前まで来たところで、足がぴたりと止まる。顔から、血の気が引いていく。

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