第1章
卒業アルバムの集合写真を撮る日。
私、白石澪菜(しらいし みおな)は、彼氏である橘秀平(たちばな しゅうへい)の指にそっと自分の指を絡めようとした。
すると彼は私を軽く突き放し、冷たく言った。「お前は一番後ろに立ってろ。
一番かわいい子が真ん中にいたほうが写真映えするだろ。お前がそこにいたら邪魔になる。円香、代わりに来い」
顔から血の気が引いた私に、親友の相沢円香(あいざわ まどか)は笑いながら言った。
「澪菜、秀平も澪菜のためを思って言ってるんだよ。
澪菜は気が弱いから、真ん中に立っても落ち着かないでしょ。一番後ろのほうが澪菜らしいよ」
クラスメイトたちはそれぞれ位置を決め終え、カメラマンは待ちきれない様子で撮影を急かしていた。
私は何も言わず、一番後ろへ下がった。
譲ることに慣れすぎて、悔しささえも声にならなかった。
撮影が終わると、クラスの代表がグループチャットに写真を送ってきた。
写真の中の私は、前に立つ背の高い男子生徒に隠れ、顔すら写っていなかった。
円香はさっきまで私が立っていた場所で秀平と指を絡め合っている。
秀平はわずかに顔を傾け、優しいまなざしで円香だけを見つめている。
秀平の視線が私に三秒以上向けられたことなど、今まで一度もなかった。
三年間、私たちは周囲に隠れて付き合ってきた。
秀平はいつもこう言っていた。「毎日お前のことばかり見てたら周りにバレるだろ。それに、お前なんか見て何になる?」
私はペアリングを買い、彼に関係を公表したいと伝えた。
けれど秀平は指輪を引き出しに放り込み、こう言った。「お前は気が弱い。公表したら周りにあれこれ言われて耐えられないだろ。俺はお前を守ってるんだよ」
翌日、その指輪は円香の指にはめられていた。
少し離れた場所で、二人は寄り添いながら何枚も写真を撮っている。
陽の光を受けて輝くおそろいの指輪が目に入り、目の奥が熱くなった。
公表しないなら、それでもいい。これから先、もう公表する必要はない。
第1話
専用に設定していた通知音が二度鳴った。
円香がSNSを更新したらしい。
開いてみると、九枚の写真が投稿されていた。添えられていたのは、「卒業おめでとう。私たちのツーショット写真も、もう百三十二枚になってたね」という言葉だった。
秀平が円香の卒業式用の服の襟元を整えている姿。
少し身をかがめ、円香の話に耳を傾ける姿。
円香の額を指先で軽く弾き、笑みを浮かべる姿。
私は改めて、自分のスマホのアルバムを開いた。
私と秀平は十四年来の幼なじみで、三年間、周囲に隠れて付き合っていた。それなのに、私たちにはまともなツーショット写真が一枚もない。
その事実に、喉の奥がきゅっと詰まった。
鉄棒にもたれながら水を飲む秀平の横で、円香はハンカチを手に、秀平の顎に浮かんだ汗を拭っている。
私は二人から少し離れたところで足を止めた。
秀平はゆっくりと顔を上げ、私を一瞥すると、声をかけてきた。「どうした?なんか元気ないな」
「……一緒に写真、撮ろう」
せめて、この十四年間を締めくくる記念にしたかった。
しかし、秀平は鼻で笑った。「仲がいいほど写真は少ないもんなんだよ。そのくらい分かんない?」
円香も笑って言った。「そうだよ、澪菜。秀平の言うとおり。本当に仲がいいなら、写真で証明する必要なんてないよ」
秀平はいつものように髪をかき上げた。その指にはめられた指輪が、また眩く光っている。
「それに、お前ってカメラ向けられるとすぐ逃げるだろ。ガチガチに固まるし。
撮ったって無駄だ」
私の顔色が悪いことに気づいたのか、円香は私の肩を抱き寄せ、場を取り繕うように笑った。
「澪菜、考えすぎだよ。秀平も澪菜のこと心配してるだけ。写真映りが悪かったら、澪菜が落ち込むんじゃないかって」
私はゆっくりとうつむき、スマホの画面を消した。
「……分かった」
もう、撮らない。
この十四年間も、思い出として残す必要はない。
第2話
円香の提案で、最後にもう一度キャンパスを歩くことになった。
円香は秀平の隣を歩き、肩が触れそうになるたび、わざと秀平の腕に触れていた。
私は二人の三歩ほど後ろを、影のようについて歩いた。
バスケットコートの前を通りかかると、円香が観客席を指さして笑った。
「秀平、二年生のときの決勝戦、覚えてる?ブザービーターでスリーポイントシュートを決めたとき、私、興奮して洸太の頭にジュースをこぼしちゃったんだよね」
秀平も笑った。「忘れるわけないだろ。あのあと、あいつがクリーニング代を請求してきて、結局、俺が払ったんだから」
二人にしか分からない思い出話に、私は入り込めなかった。
二年生のあの年、私も試合を見に行き、秀平に飲み物を渡そうとしたことがあった。けれど、秀平ははっきりと断った。
「お前、自分でも分かってるだろ。俺の友達の輪には馴染めないじゃん。知らない奴と話すだけで緊張するし。
だから無理に紹介しようとは思わない。余計なプレッシャーになるだろ」
秀平は私の存在を、誰にも知られない場所へ閉じ込めた。
その一方で、円香を自分の友達のグループへ紹介した。
講堂の前を通ると、卒業パーティーのステージがちょうど解体されていた。
円香は懐かしそうにため息をついた。「学園祭のダンスパーティー、懐かしいね。秀平、あのときダンスが下手すぎて、私の足を三回も踏んだよね」
秀平は苦笑しながら言い返した。「違う。二回だ」
指先の温もりが、少しずつ消えていく。
学園祭のダンスパーティーの日。私は借りたドレスを着て、舞台裏で一晩中、秀平を待っていた。
あとから来た秀平はこう言った。「脱げよ。お前は猫背だからこういう服は似合わない。笑われるだけだ。そんな格好で歩いて、人に見られたらお前のほうがつらいだろ」
私が秀平と一緒に過ごしたかった大学生活。
それらはすべて円香の青春を彩るものになった。
靴ひもがほどけ、私はしゃがんで結び直した。
顔を上げると、二人はもうはるか先を歩いていた。
手についた砂ぼこりを払うと、私はそのまま寮へ戻った。
卒業を迎え、荷物をまとめなければならなかった。
四年間で増えた荷物は想像以上に多かったが、ようやく大きな袋三つにまとめ終えた。
キャリーケースは車輪が壊れていて、手のひらが赤くなるほど力を込めても持ち上げられなかった。
私は秀平に電話をかけた。長い呼び出し音のあと、ようやく電話はつながった。
「荷物が多くて……少し運ぶの手伝ってもらえない?」
電話の向こうから、露骨な苛立ちを含んだ舌打ちが聞こえた。
「澪菜さ、さっきキャンパス歩いてる途中で急にいなくなっただろ。円香がお前のこと、ずっと心配してたんだぞ。それなのに今度は俺を頼ろうっていうのか?」
私はスマホを握る指に力を込めた。「頼るってより、ただ、一人じゃ運べないの」
「自分で考えろよ。何回かに分けて運べばいいだろ。もうすぐ社会人になるんだから、いつまでも人を頼るな。卒業前、最後の授業だと思え。
これから円香の荷物を車まで運ぶから、悪いけど時間ない。自分で何とかしろ」
電話は一方的に切られた。
そのとき、スマホの画面に一通のメールが表示された。
海凪大学医学研究科の合格通知だった。
以前、私は秀平から大学院進学を諦めるよう言われた。
「お前の性格じゃ、地方に行ったら絶対泣くだろ。うちの会社で事務でもやればいい。俺が養ってやるから」
秀平にすがって生きるくらいなら、いっそ、泣いてでも自分の足で立ちたい。
その時、円香が鼻歌を歌いながら部屋へ入ってきた。手にはアイスミルクティーが二つあった。
秀平は女子寮には入れないため、下で円香を待っているらしい。
円香は片方を私に差し出した。「荷物まとめるの大変だったでしょ。喉乾いた?秀平がわざわざ買ってくれたの」
冷たい飲み物だった。生理中で冷たいものを避けたかった私は、小さく首を横に振った。「大丈夫」
円香はアクセサリーボックスの引き出しを開け、片づけ始めた。
しばらくして、「カタン」と小さな音がした。
シンプルなシルバーのネックレスが一つ、引き出しから転がり落ちた。
星形の透かし彫りのチャーム。その裏側には、私がコンパスで刻んだ小さな傷が残っていた。秀平の名前の頭文字「S」。
それは、一年生の誕生日に、秀平が初めてくれたプレゼントだった。
二年生の後期、そのネックレスは突然なくなった。
私は目を腫らすほど泣きながら、必死に探した。
そのとき秀平は、私の頭を撫でながら言った。「ネックレスくらいで泣くなよ。どうせどっかに置き忘れたんだろ。また今度、金のやつ買ってやるよ」
けれど、その「今度」は来なかった。
円香はしゃがんでネックレスを拾い上げた。「このネックレスね、私がかわいいって言ったら、秀平がそのままくれたの。本当は澪菜に返そうと思ったんだけど、秀平が『一度あげたものを返してもらうなんておかしいだろ。そのまま持ってていい』って言うから、そのままもらっちゃった。
澪菜が欲しいなら、今返すよ」
私は首を横に振った。「いらない」
もう汚れてしまったものを返されても、結局捨てるだけだから。
第3話
結局、私は誰にも頼らずに荷物を運ぶことにした。
大きな袋を三つ。三回に分けて、一つずつ階段を下ろし、また一つずつ校門前の宅配便受付まで運んだ。
指には持ち手が食い込み、紫色の痣ができていた。
海凪行きの送り状を書き終えると、重くなった腕を軽く振り、そのまま今夜の卒業記念の打ち上げが開かれるカラオケ店へ向かった。
個室に入ると、秀平はソファの真ん中に座っていた。円香がぴったりと隣に寄り添っている。みかんを一房むき、自然な仕草で秀平の口元へ差し出すと、秀平は少し顔を傾け、そのまま口に含んだ。
口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
私はソファの端に腰を下ろした。
荷物の持ち手で擦れた手のひらの痣はまだ痛み、生理中の下腹部にも鈍い痛みがあった。
「澪菜、遅刻したんだから罰ゲームだぞ」
幹事役の学生が私に気づき、冷えたビールを一本、目の前に置いて言った。「ルール分かってるよな?一気飲み」
私は慌てて首を振った。「飲めないの」
個室の空気が一瞬静まり返った。
秀平は眉をひそめ、ビールへ手を伸ばした。「こいつ酒飲めないから。俺が代わりに飲む」
一瞬だけ、胸の奥が温かくなった。
一年生の歓迎会でも、秀平は同じように私の前へ立ってくれた。「俺の澪菜は、誰にも気を遣う必要なんてない」
あの言葉を、今でも覚えている。
すると円香が秀平の手首をそっと押さえて言った。「秀平、それはさすがにひいきじゃない?」
そう言って私のほうを振り向き、明るく笑った。「澪菜、今日は卒業記念の打ち上げなんだから、みんな同じルールでしょ?一人だけ特別扱いしたら白けちゃうよ」
竹林洸太(たけばやし こうた)も、すぐに囃し立てた。
「そうだぞ。秀平、なんでそんなに澪菜をかばうんだよ。知らない奴が見たら、付き合ってるって思うぞ」
秀平は円香をちらりと見てから、周りを見渡した。
皆から向けられる視線に、彼はゆっくりと手を引っ込めた。
「まあ、そうだな。遊ぶならルールは守らないと。
澪菜、少しくらい飲んでも死なないって。みんなの雰囲気を壊すなよ」
胃の中がひっくり返るようだった。
私はバッグからアレルギーの薬を取り出した。
ビールを一口飲んでは薬を一錠。
それを繰り返し、気づけば瓶は空になっていた。
秀平は眉をひそめた。
一瞬、何か言いたげに唇が動いた気がした。
そのとき円香が水を差し出して言った。「秀平、水飲みなよ。お酒たくさん飲んだでしょ」
秀平は視線をそらすと、そのまま水を受け取った。
その後、個室では、「真実か挑戦か」というゲームが始まった。
円香の番になると、彼女は「真実」を選んだ。
そして、円香と仲のいい女子が大きな声で尋ねた。「大学四年間で、一番心残りだったことって何?」
円香は下唇を軽く噛み、秀平をちらりと見てから口を開いた。
「一番心残りだったことかぁ……たぶん、いいタイミングで、ふさわしい人に出会えなかったことかな」
その途端、個室はさらに大きな歓声に包まれた。
「えっ、もう出会ってるじゃん!秀平なんて円香にベタ惚れだし!」
「ほんと、美男美女でお似合い!」
そのとき、誰かがぽつりと言った。「じゃあ、澪菜は?」
その一言をきっかけに、あちこちから声が上がり始めた。「略奪女ってことじゃない?」
「ほら、あんな顔してる。円香に秀平を取られて嫉妬してるんだよ」
「円香はあんなに澪菜のこと大事にしてるのにね。親友扱いしてるのに、澪菜はいつも秀平にベタベタしてさ」
円香は口元を押さえて笑うと、私を横目でちらりと見て言った。
「もう、みんな。そんなこと言わないで。澪菜、本当に顔色悪くなっちゃってるよ」
一言一言が、針のように耳に突き刺さった。
私は秀平を見つめた。
三年間隠し続けた恋。秀平はずっと、「お前を守るためだ」と言って、公表することを許さなかった。
今、私はみんなに踏みつけられている。一言でいいから、否定してほしかった。
けれど秀平は視線をそらし、気だるそうに言った。「友達同士の冗談だろ」
私はズボンの縫い目を握り締めていた指を、ゆっくりと離した。
すると円香が勢いよく立ち上がって言った。「だめだめ。真実なんてつまらない!やっぱり挑戦にする!」
幹事役の学生が口笛を吹いて言った。「じゃあ、この場にいる異性一人と二か月だけ恋人になること!」
円香は秀平の前まで歩いていき、少しかがんで微笑んだ。「秀平、受けて立てる?」
秀平は円香をまっすぐ見つめ返した。「何が怖いんだよ」
その一言で、個室は歓声に包まれた。
「キス!キス!」
円香は頬を赤く染めながら秀平に近づいていく。
秀平は避けなかった。彼は立ち上がると、そのまま円香の腰を抱き寄せた。
照明が交錯する中、二人はそのまま唇を重ねた。
私はその光景をじっと見つめていた。さっきまであれほど痛かったはずなのに、不思議と下腹部の痛みをまったく感じなくなっていた。
私は立ち上がり、静かに個室のドアを開けた。
背後から、同級生たちがひそひそと話す声が聞こえてきた。
「なんであんなに急いで出ていったの?本当に秀平のことが好きだったんじゃない?嫉妬したとか」
「澪菜が?秀平があいつを好きになるわけないだろ」
第4話
個室を出ると、スマホが震えた。
秀平からのメッセージだった。
【ゲームなんだから本気にするな。先に帰ってて】
私はスマホをポケットへしまい、路肩に停めてあったシェアサイクルを借りた。
翌日の昼。
私は蒸し暑い着ぐるみを着て、チラシを配っていた。
その時、スマホが立て続けに三回震えた。
私は重たい着ぐるみの頭を脱いだ。流れ落ちた汗が目にしみる。
画面を開くと、銀行から三件の引き落とし通知が届いていた。
合計百七十二万円の引き落とし。
この口座のカードは以前、私が秀平のスマホに登録したものだった。当時、秀平は家族と喧嘩して仕送りを止められていた。だから私は、自分のカードを秀平に半ば無理やり渡した。「これ、私の生活費、全部入ってるから」そう言って、自分の全財産を預けた。
その後、秀平は家族と仲直りした。それなのに、カードは一度も返ってこなかった。
あのお金は、休みなくアルバイトを掛け持ちし、胃炎になるまで働いて、ようやく貯めたお金だった。
そして、海凪大学へ進学するための準備金でもあった。
全身から力が抜け、私は壁にもたれかかった。震える手で連絡先を開こうとしたが、うまく画面を操作できない。
何度も深呼吸をして、ようやく秀平に電話をかけた。
電話口からは、空港のアナウンスが聞こえてきた。
「ほら、やっぱり連絡してきた。お前、一日も我慢できなかったな」
秀平の声は、どこか勝ち誇ったように弾んでいた。「今回は大目に見てやる。でも、次からそんな駆け引きはやめろよ」
私は深く息を吸い込み、声を絞り出した。「どうして私のカードで百七十二万円も使ったの?」
「ああ、それ?二人分の旅行を予約した」
「二人分の旅行?」
「そう。昨日、『真実か挑戦か』の挑戦で負けただろ?やるなら最後までやらないと。円香を海外旅行に連れて行くことにした。卒業旅行も兼ねてな」
自分でも分かるほど、声が震えていた。「あれは私のお金だよ!」
電話の向こうで、一瞬沈黙が流れた。
次の瞬間、小さく鼻で笑う声が聞こえた。
「たかが百万ちょっとだろ?そんなに大騒ぎすることか?
俺にあんな態度を取ったこと、まだ許してないからな。この金は、いい勉強代だったと思え」
その時、電話の向こうから円香の声が聞こえた。「秀平、搭乗始まるよ!」
「ああ、今行く」
秀平はそう返事をすると、早口で言った。
「じゃあな。円香とは『真実か挑戦か』の挑戦をやってるだけだ。最後まで付き合わないと、周りにいろいろ言われるだろ?帰ってきたら、また今までどおり付き合えばいい。
もう切るぞ」
電話は一方的に切られた。私は画面に表示された残高を見つめた。残っていたのは、六百九十円だけ。
私はゆっくりとスマホをポケットへしまうと、もう一度着ぐるみの頭をかぶり、チラシ配りへ戻った。
それからの二か月。
円香のSNSは、一日に三回のペースで更新されていた。
P国の有名な塔の下で、秀平が円香の肩にコートを掛ける姿。
S国の雪山で、秀平が冷え切った円香の両手を自分のコートのポケットに入れ、温めている姿。
しばらくの間、私はネットカフェで暮らしていた。
昼はコンビニで品出しをし、夜はバーで清掃の仕事をした。深夜になると海外向けの翻訳も引き受けた。
私はこつこつ働き、少しずつ海凪大学の学費を貯め直していった。
二か月後、秀平が帰国した。
【夜八時、中央広場で会おう。お土産もあるよ】
続けて、もう一件メッセージが届いた。
【会いたかった】
私は会いたくなかった。
でも、あのお金だけは返してもらわなければならない。
中央広場は人であふれていた。
私は人混みが苦手だ。
そんな場所が何より苦痛だと、秀平は知っている。
それでも秀平は、最も人が集まる場所を待ち合わせに選んだ。大勢の視線を浴びるのが好きだったからだ。
三時間待ったが、秀平は来なかった。代わりに一通のメッセージだけが届いた。
【円香が急に生理痛で動けなくなった。今日は円香のそばにいる。
今日はもう帰って。埋め合わせは今度するから】
その時、一台の空港リムジンバスが目の前に停まった。
私はスーツケースを持ち上げ、バスへ乗り込んだ。
十四年間、私を縛りつけていたあの孤独な場所を、私は振り返ることなく後にした。