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詐欺婚約を捨てた日、幼なじみが結婚してくれた
三ツ森洋隆(みつもり ひろたか)と婚姻届を出したその日、私はお祝いのつもりで、朝からたくさん料理を作って待っていた。 帰りは何時ごろかと聞こうと電話をかけた。 ところが、通話をつなぐと、聞こえてきたのは洋隆の友人の声だった。 「早乙女沙耶華(さおとめ さやか)ってまじでチョロくね?偽の受理証明書、なんの疑いもなく信じ込んだんだぜ。洋隆と田原優衣奈(たばる ゆいな)が本物を出してなかったら、俺ら区役所の職員役なんてやる羽目にならなかったのに」 続いて、洋隆の気の抜けた笑い声。 「あんな都合のいい女、こっちはタダで使えるだけで十分なんだよ。優衣奈とはガキの頃からずっと一緒だし、俺にとっちゃ最初からあいつだけが本命だ」 手にしていた受理証明書を握りしめたまま、涙が止まらなかった。 5年間愛した男は、私のことを一度も愛していなかった。ただ利用できるだけの存在として、そばに置いていただけだ。 そういうことなら、もういい。 私は自分の幼なじみ、氷室慎治(ひむろ しんじ)に電話をかけた。 「もしもし、今時間ある?結婚しよっか」
チャプター (1)
第1章
三ツ森洋隆(みつもり ひろたか)と婚姻届を出したその日、私はお祝いのつもりで、朝からたくさん料理を作って待っていた。
帰りは何時ごろかと聞こうと電話をかけた。
ところが、通話をつなぐと、聞こえてきたのは洋隆の友人の声だった。
「早乙女沙耶華(さおとめ さやか)ってまじでチョロくね?偽の受理証明書、なんの疑いもなく信じ込んだんだぜ。洋隆と田原優衣奈(たばる ゆいな)が本物を出してなかったら、俺ら区役所の職員役なんてやる羽目にならなかったのに」
続いて、洋隆の気の抜けた笑い声。
「あんな都合のいい女、こっちはタダで使えるだけで十分なんだよ。優衣奈とはガキの頃からずっと一緒だし、俺にとっちゃ最初からあいつだけが本命だ」
手にしていた受理証明書を握りしめたまま、涙が止まらなかった。
5年間愛した男は、私のことを一度も愛していなかった。ただ利用できるだけの存在として、そばに置いていただけだ。
そういうことなら、もういい。
私は自分の幼なじみ、氷室慎治(ひむろ しんじ)に電話をかけた。
「もしもし、今時間ある?結婚しよっか」
第1話
本物の婚姻届受理証明書を手にした。そこには区役所の受理印がきちんと押されている。洋隆から受け取ったほうには、それがひとつもなかった。そのとき初めてわかった――あの男の欺き方は、こんなにも雑だったのか。
「さっさと、あの家から荷物を出せ。俺はこれから、ちょっと片をつけることがある。二、三日待っていろ。車は手配してある」
慎治は受理証明書を胸ポケットに押し込むと、ぶっきらぼうにそれだけ言い残して、自分の車に乗り込んだ。
手にした受理証明書をもう一度、ぎゅっと握る。私が慎治の手配してくれた車に乗り込むと、外は土砂降りの雨になった。
ちょうどそのとき、洋隆から着信が入る。
「今どこにいる。なんでこんな時間に家にいねえんだ」
昔の私なら、甘えて迎えに来てとねだっていた。でも、洋隆がくれた恋も結婚も、すべて偽物だ。あのとき、私の中で何かが終わったのだと思う。
返事を待たず、電話越しの声は苛立ちを募らせる。
「どこにいようが、さっさと戻れ。こっちはまだメシも食ってねえんだ。優衣奈も待ってる」
一方的に通話を切られた。最後の一言で確信する――やっぱりあの女も一緒にいるのだ。私は短く鼻で笑い、スマホをバッグにしまい込む。5年前から住み続けた、あの家へと足を向けた。
リビングのソファに優衣奈がふんぞり返り、果物を頬張っている。その隣には、キャラクターシールでべたべたに飾られたスーツケースが置いてあった。
「遅かったな。さっさとメシ作れ。優衣奈と帰りに買い出しは済ませてあるから、手間も省けるだろ。そうだ、こいつのマンション、契約が切れたから今日からここに住む。お前、飯を作り終わったら急いでゲストルームを片付けろ」
洋隆は、優衣奈や仲間の前だと決まってこんな調子だった。私をあごで使う姿を見せつけて、自分の方が上だと誇示するのだ。
付き合い始めた頃は「人前だと強がっちまうだけなんだ」と下手に出て弁解したこともあった。けれど今では、私の献身も我慢も、すべて当たり前のものとして享受している。
思わず笑いがこみ上げてくる。そう口を開こうとした、その時だった。
私が折れたと思ったのか、優衣奈がバッグから一枚の協議書だか何だかを取り出し、勝ち誇った顔で差し出してくる。
「沙耶華さん、今日から一緒に暮らすんだから、どうか仲良くしてくださいね。これ、一応目を通しておいてもらえる?洋隆だって、これ以上もめたくないだろうし」
ちらりと紙面に目を走らせ、最初の一文で言葉を失った。
【乙(早乙女沙耶華)は、本住居内における甲(三ツ森洋隆)の就寝に関する態様(場所および相手方を含む)について、一切の決定権が甲に帰属することを承認し、これに対する拒否権を行使しないものとする】
一切の決定権が甲に帰属するって?これが、洋隆の家なの?
洋隆のマンションはその職場からひどく遠く、私は新しく家を買ったばかりだった。だから彼のほうから引っ越してきて、一緒に暮らし始めた。そんな当たり前のことを、私は今さら思い出していた。
「結婚したら俺の広いマンションに住もう。お前の家にはお前の両親を呼び寄せて、二人で老後を看よう」
口ではそう言っていた。だが、私にしてくれたことなど、たったのひとつもない。
私が書面を受け取らないのを見て、洋隆が苛立たしげに急かす。
第2話
「優衣奈だって俺たちのことを思って言ってくれてるんだ。そうムキになるなよ。せっかくだし、友達でも呼んで、入籍祝いでもやるか」
洋隆が仲間を呼ぶたびに、キッチンに立ちっぱなしになるのはいつも私だった。食事を作るだけじゃない。そいつらの世話まで押しつけられる。それが5年も続いている。
「結構よ。書類にはサインしない。ここは私の家、出てって」
私が言い放つと、洋隆はせせら笑った。
「沙耶華、お前と入籍したくらいで調子に乗ってんじゃねえぞ。優衣奈はガキの頃からずっと一緒にやってきた仲だ。俺が結婚したからって、放り出すわけがねえだろ」
よくもまあ、そんな台詞を当然の顔で吐けるものだ。この人の本性が見えるたびに、吐き気が込み上げてくる。
私は冷えきった声で返した。
「そんなに大切なら、優衣奈と結婚すればよかったんじゃない?それとも――もう籍、入れてるのかしら」
洋隆から笑みが消える。
言葉に詰まった彼の代わりに、優衣奈が口を挟んだ。
「まだご飯できないの?洋隆、お腹すいちゃったんだけど」
逃げ道を見つけたように、洋隆はひきつった笑みを浮かべて便乗する。
「適当なこと言ってんじゃねえよ。つまんねえ理屈こねてねえで、さっさとサインしろ。まあいいや、優衣奈も腹減ってるし、とにかくメシ作れ」
ふたりの茶番をこれ以上見ている気にもなれず、足を寝室へ向ける。メインベッドルームに置いてあった私の荷物は、すべて床に放り出されていた。
「沙耶華さん、洋隆がここは私に使わせてくれるって。いいよね?」
優衣奈が後ろからついてきて、荒らされた部屋を見渡しながら勝ち誇った笑みを浮かべる。
入れ替わるように洋隆も入ってくる。悪びれる様子はまったくない。
「優衣奈は体が弱ぇからな。この部屋が一番日当たりいいし、ここで寝かせろ。お前のガラクタはゲストルームに運んどけ。優衣奈の荷物が置けねぇだろうが」
ドレッサーに目をやると、そこはすでに彼女の化粧品で埋め尽くされていた。私のものは床に叩きつけられて、粉々に割れている。
洋隆とふたりで写った写真立てさえ、ガラスが無残に砕け散っていた。
目の前の光景に、抑え込んでいたものが一気に噴き上がる。気づけば、優衣奈の化粧品を全部、床にぶちまけていた。
洋隆が思いきり私を突き飛ばす。倒れ込んだ床には、さっき割れたガラスの破片が散らばっていた。手のひらと膝に鋭い痛みが走る。
でも、体の痛みよりも、胸の奥のほうがもっとつらかった。
「優衣奈のものを勝手にめちゃくちゃにしやがって。お前、頭おかしくなったのか。さっさと謝れ」
手のひらと膝から血が滲んでいる。洋隆の目にも見えているはずだ。それでもこの男は、優衣奈の私物に手を出したというだけで、私に謝罪を迫る。
歯を食いしばりながら、ゆっくりと立ち上がる。
「私のものは、めちゃくちゃにしてもいいって言うの。洋隆、もう一度言うわ。ここは私の家。今すぐ、出ていって」
感情が昂ぶったせいだろう。ポケットから四つ折りにしている受理証明書が落ちた。
洋隆は床に落ちた書類を見て口元を歪める。見下すような笑みを浮かべ、屈み込んでそれを拾い上げた。そして無造作に広げかけた、そのときだ。
「沙耶華さんが出ていけって言うなら、私、やっぱり帰るね。あの人、すごく怖いもん。洋隆、送って」
優衣奈が洋隆の腕にすがりつき、涙をこぼす。
それを見た洋隆は、開きかけた証明書を放り投げると、優しく優衣奈の涙を指で拭った。
第3話
「泣くな」
洋隆は私をぎろりと睨みつけると、優衣奈の肩をより強く抱き寄せ、慰めながら彼女を連れて外へ向かう。
「出ていくなら一緒に出ていく。沙耶華、後悔するなよ」
後悔なら、すでにしている。
もっと早く洋隆の本性を見抜けなかったこと、何もかも失い、傷だらけになるまで走り続けてしまったこと。そのすべてを。
ただ、ひとつだけ残念だったのは――婚姻届受理証明書に書かれた名前が自分のものではないことに、洋隆は最後まで気づかなかったことだ。
――私がほかの男と結婚していたと知ったら、洋隆はどんな顔をするんだろう。
正直、ちょっとだけ楽しみだ。
……
タクシーで病院へ行き、傷の手当てを終える。家に帰る途中、優衣奈からメッセージが届いた。数枚の画像と、挑発的な言葉だけ。
【その証明書、本当に有効だと思ってる?洋隆と本当に繋がったのはこの私。本妻って言葉、使っていいのは私の方じゃない?】
送られてきたのは、彼女と洋隆の婚姻届の記念写真。そしてゴミ箱に捨てられた、中身の入ったコンドームの画像だった。
なんだか笑えてきた。包帯の巻かれた自分の手を見下ろす。
返信はしない。そのまま優衣奈をブロックし、削除した。気に留める価値すらない人間と出来事だ。ふたりのことは、もう放っておこう。
ベッドに横になったものの、ほとんど眠れぬまま朝を迎えた。翌日は早くから清掃業者を呼び、家中を片付け始める。
まだ洋隆の荷物を処分しきらないうちに、玄関のドアが開いた。洋隆が優衣奈と仲間たちを引き連れて、談笑しながらずかずかと入ってくる。
「おい、今日はシーフードの気分だ。ちょっと市場行って、買い込んできてくんない?ロブスターはオマールじゃなきゃ嫌だぜ。魚も活きのいいやつじゃなきゃ食わねえから」
「まあ気前いいしな、俺らが来るたび、いつだって一番いいもん出してくれるし」
「そりゃそうだろ。洋隆のこと、べた惚れなんだから。俺らもそのおこぼれに与ってるだけだって」
洋隆は、隣で黙ってそれを聞いているだけだ。むしろ当然だという顔で、ソファにふんぞり返っている。
一方で優衣奈が何か言えば、「無理すんなよ」「座ってていいから」と甲斐甲斐しく世話を焼く。洋隆の仲間たちも彼女には気を遣い、ソファの一番いい場所を空け、飲み物を勧め、絶えず笑いかける。
今ならはっきりとわかる。洋隆の仲間たちにとって私は、洋隆の「彼女」ですらなかった。ただの召使い――それ以下だ。そして彼らが認める本当の「洋隆の嫁」は、最初から優衣奈だけだったのだ。
「指図しないで。食べたいものがあるなら、自分たちで買ってきて。それと、ここは私の家よ。出ていって」
私の言葉に、その場にいた全員が固まった。
洋隆はみるみる顔色を変え、わざと怒鳴りつけてきた。
「お前、俺の友達になんて口の利き方してんだ。さっさと謝れ。それからシーフード買い足してくるんだ。それができねえなら、やる気のかけらもねえってことだぞ」
謝れ、謝れ、謝れ。この男はそれ以外の言葉を知らないのか。
でも――かつては、私こそが洋隆に守られる側だったはずだ。
付き合いたての頃、仲間のひとりが「沙耶華は金目当てだろ」と冗談を言った。洋隆は本気で怒り、絶交すると息巻いて、きちんと私に謝罪させた上でなければ許さなかった。
付き合って一年の記念日。レストランが誤って魚介の入ったスープを出したときもそうだ。甲殻類アレルギーの私のために、洋隆は店長とスタッフ全員を呼びつけ、私に謝るよう求めた。
あれから、私は今もアレルギーを持っている。でも、洋隆はまだ、そのことを覚えているんだろうか。
そのとき、優衣奈が今にも泣き出しそうに口元を歪め、洋隆の腕にすがりついた。
「洋隆、沙耶華さん、私たちのこと嫌ってるのかな。ふたりが入籍したお祝いをしようって、わざわざ来ただけなのに……」
優衣奈は「入籍」と「お祝い」という言葉に、わざとらしく力を込めた。洋隆の仲間たちもそれに便乗し、歓声を上げ始める。
「ねえ、沙耶華さん、あの受理証明書、見せてくれない?」
優衣奈が言うなり、部屋の中を物色し始めた。
昨日は帰ってから、受理証明書をしまう暇もなかった。優衣奈は目ざとくテレビ台の上からそれを取り上げる。
「みんなも見たいでしょ?洋隆と沙耶華さんの受理証明書」
第4話
私は表情を消し、包帯の巻かれた手のひらを彼女に向けて広げた。
「返して」
だが優衣奈は、わざとみんなの目に触れさせようとするかのように、それを洋隆の友人のひとりに放り投げた。
慌てて取り返そうとする私を、洋隆の仲間たちは面白がって弄ぶ。大事な書類を皺くちゃにしながら、笑い声をあげてそれを投げ合う。
受理証明書は、もう原型を留めないほどに丸められ、洋隆の胸元へと転がり落ちた。
「こんな見え見えの場所に置いてあったんだろ。見せびらかしたかったんだろうが」
洋隆はしたり顔で、無造作に中身を開く。
「せっかくだし、みんなで拝ませてもらおうぜ」
開かれた証明書の表面を、私の目の前に突きつけてきた。
そこに記された名前――「氷室慎治」――が、やけに目を引いた。
じっくり見せてやるような場面じゃない。私は証明書をひったくり、ポケットに押し込む。あの男たちを、とにかく追い出さなければ。
「言ったはずよ。ここは私の家だ、出ていって。これ以上居座るなら、警察を呼ぶ」
そう言い放ち、作りたてのラーメンを食べようと席に着く。ふと思い出して、洋隆のほうを向いた。
「ついでに、あなたの荷物は全部玄関の外に出してあるから、持って帰って。その人たちもまとめて、二度と私の前に現れないで」
洋隆も優衣奈も、驚いた顔をしている。
「沙耶華さん、洋隆と別れるつもりなの?私のことが嫌いだから、そんな怒ってるだけだよね?だとしたら、私が出ていくから……」
そう言うなり彼女は玄関へ駆け出そうとしたが、通りすがりに、わざとらしくスープの入った丼を私のほうへと払いのけた。
できたての熱いスープが全身にかかる。とっさに飛びのこうとして椅子に足を取られ、私はそのまま床に倒れ込んだ。
優衣奈は手を振り払い、悲鳴を上げて涙をこぼした。「熱っ……」
駆け寄ってきた洋隆が、優衣奈を抱き寄せる。その瞬間、矛先はすべて私へと向けられる。
「沙耶華、お前わざとやったな。入籍したからって、やりたい放題やっていいと思うなよ」
私は痛みをこらえながら、床から立ち上がった。
体の痛みより、目の前にいる、五年間も愛した男のほうが、ずっと私を苦しめる。
愛が冷めただけなら、まだよかった。それなのに、なぜ騙したのか。
――私がすべてを許してきたから、踏みつけにされても当然だと?それとも、友人たちの前でいい顔をしたいがために、都合よく使われていただけなのか。
私は冷ややかに笑い、ゆっくりと問い詰めた。
「私たち、本当に入籍したの?私、本当にあなたの法律上の妻なの?」
洋隆の顔から血の気が引いた。彼はうつむき、私の目から逃れるように視線をそらす。図星であることは、その顔にあまりにもはっきりと書いてある。
「なに訳のわかんねえこと言ってんだ。あの日、お前も一緒に区役所に行ったんだぞ。自分で手続きしたこと、忘れたのかよ」
よくもまあ、そこまで言えるものだ。
私はスマホを取り出し、優衣奈から送られてきた吐き気のする画像を洋隆に突きつけた。
「これを見てから言ったら?私がでたらめを言ってるのか、それともあなたの『本命』のほうがでたらめを言ってるのか」
証拠を目の前に突きつけられて、これ以上言い逃れをすれば、余計にみっともなくなるだけだ。
ただ洋隆は、優衣奈がこのことを私にバラしたとは思ってもみなかったらしい。苛立たしげに眉をひそめ、優衣奈を睨みつける。そして、私に言い放った。
「お前が結婚しろってしつこく迫るからだろ。被害者ぶってんじゃねえよ。そんなに言うなら、後で本物の役所に行って正式な書類を取ってきてやる」
面白いね。今さら結婚すると思っているのか。自信過剰にもほどがある。
そのとき、玄関のドアが再び外から開いた。次の瞬間、悪ぶった、からかうような笑いを含んだ声が響く。
「ずいぶん大勢いるじゃねえか。俺と沙耶華の結婚祝いでもやってくれてんの?」