私だけの光が、オーロラの下で輝く

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私だけの光が、オーロラの下で輝く

GoodNovel 完結

A国行きの航空券のキャンセルを申し出ると、カスタマーセンターの担当者は少し意外そうに尋ねてきた。 「こちらの便は残り2席となっておりますが、本当にキャンセルされてよろしいでしょうか?」 私は「はい」とだけ答えた。 付き合って4年。彼は毎年2月になると決まってA国へ飛んでいた。 「撮影の仕事だ」と言い、インスタには氷河やオーロラの写真ばかりをアップしていた。 私も一緒にオーロラが見たいと言うたび、彼はいつも「寒すぎるから、お前には耐えられないよ」と言ってはぐらかした。 昨日、彼の古いハードディスクを整理していて、パスワードのかかった「2月」という名のフォルダを見つけるまでは、私もずっとそう信じていた。 ロックを解除して開いてみると、そこは同じオーロラの下に立つ、たった一人の女性の写真で埋め尽くされていた。 光と影が優しく交じり合い、彼女の髪の毛の一本一本までが鮮明に、そして美しく切り取られていた。 彼が私を撮ってくれた唯一の写真は、マンションのエントランスで撮られたものだけだ。 逆光でピントも甘く、私は眩しそうに目を細めていて、顔すらまともに写っていなかった。 あの時、彼は笑いながらこう言った。 「まあ、お前だってわかればいいだろ」 彼の写真の腕が悪かったわけではない。ただ、私を綺麗に撮る気がなかっただけなのだ。 この4年間、オーロラを追いかけ続けた彼の隣には、いつもあの女性がいたのだ。 そして、私がこれまでに見た最も遠い光は、彼が何気なくSNSに投稿したA国の写真でしかなかった。 荷物をまとめていると、彼から電話がかかってきた。ひどく焦ったような声だった。 「ずっとオーロラが見たいって言ってただろ。なんで航空券なんかキャンセルしたんだよ?」 私は何も答えず、そのまま電話を切った。 A国は遠すぎるし、オーロラは冷たすぎる。 彼が私の方を向いてくれないのなら、私自身で光の差す場所へ歩き出すまでだ。

チャプター (1)

第1章

A国行きの航空券のキャンセルを申し出ると、カスタマーセンターの担当者は少し意外そうに尋ねてきた。 「こちらの便は残り2席となっておりますが、本当にキャンセルされてよろしいでしょうか?」 私は「はい」とだけ答えた。 付き合って4年。彼は毎年2月になると決まってA国へ飛んでいた。 「撮影の仕事だ」と言い、インスタには氷河やオーロラの写真ばかりをアップしていた。 私も一緒にオーロラが見たいと言うたび、彼はいつも「寒すぎるから、お前には耐えられないよ」と言ってはぐらかした。 昨日、彼の古いハードディスクを整理していて、パスワードのかかった「2月」という名のフォルダを見つけるまでは、私もずっとそう信じていた。 ロックを解除して開いてみると、そこは同じオーロラの下に立つ、たった一人の女性の写真で埋め尽くされていた。 光と影が優しく交じり合い、彼女の髪の毛の一本一本までが鮮明に、そして美しく切り取られていた。 彼が私を撮ってくれた唯一の写真は、マンションのエントランスで撮られたものだけだ。 逆光でピントも甘く、私は眩しそうに目を細めていて、顔すらまともに写っていなかった。 あの時、彼は笑いながらこう言った。 「まあ、お前だってわかればいいだろ」 彼の写真の腕が悪かったわけではない。ただ、私を綺麗に撮る気がなかっただけなのだ。 この4年間、オーロラを追いかけ続けた彼の隣には、いつもあの女性がいたのだ。 そして、私がこれまでに見た最も遠い光は、彼が何気なくSNSに投稿したA国の写真でしかなかった。 荷物をまとめていると、彼から電話がかかってきた。ひどく焦ったような声だった。 「ずっとオーロラが見たいって言ってただろ。なんで航空券なんかキャンセルしたんだよ?」 私は何も答えず、そのまま電話を切った。 A国は遠すぎるし、オーロラは冷たすぎる。 彼が私の方を向いてくれないのなら、私自身で光の差す場所へ歩き出すまでだ。 第1話 30分後、久我津人(くが かつひと)が帰宅した。 「星奈、航空券をキャンセルしたなら買い直せばいい。もういい加減にしろ」 私、望月星奈(もちづき せいな)は古いハードディスクを机の端に押しやった。「もう買わないわ」 「4年間の2月、あなたはA国で3200枚の写真を撮った。彼女は24着も服を着替えていたわ」 津人の動きが少し止まった。「神木夏帆(かみき かほ)は構図を理解しているから、モデルとして一番手間がかからないんだよ」 「髪の毛の光や影まで修正してあげるほど、手間がかからないの?」 「仕事なんだから当然だろ」 彼は上着を脱ぎ、ソファに歩み寄って座った。「どうしても仕事のことで文句を言いたいのか?」 私は何も答えず、玄関へ向かい、左側の引き出しを開けた。ウサギのキャラクターのキーホルダーがついた鍵が、静かに横たわっていた。「この鍵、誰の?」 津人はちらりと視線を向けた。「夏帆のやつだ。あいつの家のスマートロック、すぐ電池が切れるから、予備として預かってるんだ」 「彼女の家のスマートロックの電池が切れるからって、どうして予備の鍵を私たちの家に置くの?」 「ついでだから預かっただけだ、考えすぎるな」 先月のある深夜、激しい雨が降っていた。仕事帰りにタクシーが捕まらず、彼に迎えに来てほしいと頼んだ。すると彼は「遅すぎる。明日の朝早くから撮影があるから、自分でハイヤーでも呼べ」と言ったのだ。 あの日、私はオフィスビルの前で2時間も待った。しかし、夏帆のインスタにはある写真が投稿されていた。彼女の頭上に傾けられた黒い傘。キャプションには【こんな土砂降りでももう安心。私だけのヒーローが駆けつけてくれたから】と書かれていた。その傘は、津人の車にいつも積んであるものだった。 「私、行かないから」私はパスポートを引き出しに戻した。「A国は寒すぎるから、私には本当に耐えられないわ」 津人はため息をつき、眉間を揉んだ。「またかよ。A国を新婚旅行の行き先にするって約束しただろ。これ以上、俺にどうしろって言うんだ?」 私は彼をまっすぐに見つめた。「今年、私を連れて行く気になったのは、彼女がP国に研修に行っていて予定が合わないからでしょ?」 津人は押し黙った。その沈黙が何よりの答えだった。彼のレンズの前の特等席が空いたから、ようやく私の番が回ってきたというだけのことなのだ。 スマホが鳴った。彼の母親からだった。津人は通話ボタンを押した。 「津人、新居の家具はもう決まったの?」 「まだだよ。明日見に行く予定だ」 「行かなくていいわよ。夏帆さんが数日前に、リビングのソファとローテーブルを選んでくれたから。イタリアンモダンなデザインで、すごく素敵なのよ」 コップを握る私の手が宙で止まった。私はたまらず口を挟んだ。「あそこは私たち2人の新居です」 電話の向こうで一瞬の間が空いた。「星奈さんもいたのね。でもね、家具に関しては夏帆さんの方があなたよりずっとセンスがいいのよ。あなたが普段選ぶような布張りの家具って、なんだか安っぽく見えるのよね」 私は津人を見た。彼はうつむいたままLINEの返信をしていて、私をかばう素振りは微塵も見せなかった。私はそのまま彼のスマホに手を伸ばし、通話を切った。 津人が不快そうに眉をひそめた。「おい、何勝手に切ってんだよ。母さんの話はまだ終わってないだろ。夏帆はセンスがいいんだから、手伝ってもらって何が悪い」 「わかったわ。じゃあ、彼女に全部選ばせればいいじゃない」 私は彼に背を向けて寝室へ入った。津人は後を追ってくると、私の背中越しに言った。「明日は結婚指輪を選びに行くぞ。時間を空けておけよ」 「そんな時間ないわ」 「星奈、いい加減にしろよ。こっちは平穏に結婚生活を始めようとしてるのに、なんでそうやっていちいち騒ぎ立てるんだ?」 その時、彼のスマホの画面が明るくなった。LINEの通知だ。夏帆からだった。 【P国は今日雪が降ったよ。すごく寒いわ】 津人はスマホを手に取り、音声メッセージを吹き込んだ。「もっと厚着しろよ。俺が買ってやった防寒アウターはどうした?」 優しく、どこか甘やかすように咎める口調だった。 去年の冬、私がロングダウンコートが欲しいと言った時、彼は「お前は毎日電車で通勤してるのに、そんなに厚着してどうするんだ。適当なやつで済ませとけよ」と言ったのだ。 私は振り返り、彼を見つめた。「津人、あなたはどうして私と結婚しようと思ったの?」 彼はスマホから顔も上げずに答えた。「お前は大人しくて手がかからないから、結婚に向いてるんだ」 第2話 翌日、私は結婚指輪を選びに行かなかった。アシスタントの松岡健洋(まつおか たけひろ)からLINEが届いた。 【星奈さん、社長が指輪を受け取りに行きました。ウェディングドレスの試着は来週に延期してほしいそうです】 【彼、何か急用でも入ったの?】 【はい、空港へ友人を迎えに行くと言っていました】 夏帆以外に、彼がわざわざ空港まで迎えに行くような「友人」などいない。 午後になって、津人が帰宅した。彼はベルベットの小さな箱をローテーブルに置いた。「指輪、取ってきたぞ。サイズが合うか試してみてくれ」 私は箱を開けた。小さなダイヤ一粒すらついていない、何の装飾もないシンプルなリングだった。「どこのお店で買ったの?」 「ネットだ」彼はコップに水を注ぎながら言った。「実店舗はブランド代が乗ってて高すぎる。無駄金を使う必要はないだろ。それに、普段家事をする時なんか、ダイヤがついてたら邪魔になるだけだしな」 私は、彼が持ち帰ったもう一つの紙袋を開けた。中には高級ブランドのカシミヤのマフラーが入っていた。ダークグレーで、驚くほど滑らかな肌触りだった。「これもネットで買ったの?」と尋ねた。 彼は歩み寄ってくると、私の手からマフラーを奪い取り、袋の中に押し込んだ。「それは夏帆にやるやつだ。あいつ、P国から帰国したばかりで寒がってたから、空港のショップでついでに買ってやったんだよ」 「マフラー1枚に、46万円……」私は袋に同封されていたレシートの金額を口にした。 津人はバツが悪そうに眉をひそめ、あからさまにいら立ちを見せた。 私はそれ以上何も言わず、そのシンプルな指輪を指にはめた。一回り大きかった。薬指の根元で緩く回っている。「大きすぎるわ」 彼がちらりと私の手元を見た。「大きい方がいい。これから妊娠して指が太くなった時にちょうどよくなるだろ。今は少し我慢してつけとけ」 この4年間、私はずっと、我慢ばかりさせられてきた。 夜、津人の大学時代のグループLINEに通知が鳴った。 【今夜は夏帆の歓迎会だ。いつもの店でやるから、みんな集まれ!】 津人はクローゼットの前でシャツを選びながら言った。「夜は一緒に行くぞ。みんなに顔を出しておけ」 「行かない」 「お前は俺の婚約者なんだ。行かないと体裁が悪いだろ」 私は着替えを済ませ、彼について家を出た。個室にはすでにメンバーが揃っていた。夏帆は一番奥の上座に座り、首にはあの46万円のカシミヤのマフラーを巻いていた。 「津人くん、星奈さん、来たんだね」夏帆は笑顔で手を振った。津人は当然のように彼女の隣へ歩いていき、腰を下ろした。私は彼を挟んで、もう一方の反対側に座った。 店員がメニューを持ってきた。津人はそれを受け取ると、すぐに注文を始めた。「白身魚の甘酢あんかけ、砂糖は少なめで。キャベツのピリ辛炒めはニンニク抜き。それから白身魚の酒蒸しを追加で、ネギは抜いてくれ」 夏帆は頬杖をつき、嬉しそうに彼を見つめた。「津人くん、私がネギとニンニク苦手なこと、まだ覚えててくれたんだね」 「知り合ってもう10年近くになるんだ。忘れるわけないだろ」 周りの友人たちが茶化した。「お前の脳のメモリ、全部夏帆で使ってんな」 店員が尋ねた。「他にご注文はよろしいですか?本日のおすすめは、こちらのピーナッツ豆腐ですが」 「それも一つ頼む。星奈が好きだからな」津人はメニューを閉じた。 私は彼を冷ややかに見つめた。「私、ピーナッツアレルギーなんだけど」 個室の中が一瞬で静まり返った。津人の笑顔が引きつる。「いつからアレルギーになったんだ?」 「4年前よ。一度食べて全身に発疹が出た時、あなたは写真のレタッチに夢中で、自分で病院に行って薬をもらってこいって言ったわよね」 彼がコップを握る手にぎゅっと力が入った。「ずっと昔のことだから、うっかり忘れてたんだぞ」 夏帆は慌てて温かいお茶を注ぎ、私の前に差し出した。「星奈さん、津人くんを責めないであげて。彼の頭の中は仕事のことでいっぱいで、日常の些細なことまで覚えていられないんだよ」 「覚えていられないのか、それとも最初から覚えようとしていないだけなのかしら?」 津人はコップをテーブルにドンと強く置いた。「星奈、どうしてもみんなの前で俺に恥をかかせたいのか?」彼は不機嫌そうに振り返り、店員を呼んだ。「さっきのピーナッツ豆腐はやめだ。代わりに、彼女が食べられるやつに変えてくれ」 夏帆は軽くため息をついた。「星奈さん、もしかしてまだA国の写真のことで怒ってるの?もうすぐ結婚するんだから、私のことで喧嘩しないで」 隣にいた友人が見かねて口を出した。「星奈さん、久我は仕事で行っただけだろ。ちょっと束縛が激しすぎるんじゃないか?」 「そうだよ。これから結婚生活も長いっていうのに、いちいち監視して嫉妬ばかりじゃ、男は息が詰まるぞ」 津人はそこに座ったまま一言も発さず、私に向けられる非難の言葉を黙認していた。彼は私をかばおうとは一切しない。私が責められて当然だとでも思っているのだ。 私は立ち上がった。「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」 第3話 私は冷たい水で顔を洗い、洗面所を出た。廊下の突き当たりで、津人がちょうど会計を済ませていた。夏帆は彼の隣に立ち、ごく自然に彼のコートのポケットに手を入れて車の鍵を取り出した。 「津人くん、先にエンジンかけて暖房つけとくね。外、すっごく寒いから」 「ああ、助手席のシートヒーターも入れといてくれ」津人は顔も上げず、レシートを確認しながら言った。 2人の間にある阿吽の呼吸は、まるで水が平らな地面を流れるように、少しの滞りもなかった。私が近づくと、津人は私をちらりと見た。「行くぞ。帰るから」 地下駐車場に着くと、夏帆はすでに助手席に座っていた。彼女はハイヒールを脱ぎ捨て、ボア付きのフラットシューズに履き替えていた。 私が近づいてくるのを見て、夏帆は少し申し訳なさそうに微笑んだ。 「星奈さん、私、足首に古傷があって長時間ハイヒールを履いていられないの。助手席の方が足元のスペースが広いから、ちょっと足を伸ばしたくて。ここに座っても気にしないよね?」 私が口を開く前に、津人が後部座席のドアを開けた。 「星奈、お前は後ろに座れ。夏帆は腰が悪くてな、助手席の背もたれはあいつの腰のカーブに合わせて俺が特別に調節してあるんだ。いちいち直すのは面倒だから。 どうせ30分くらいの道のりなんだし、我慢してくれ」 彼は「面倒」と「我慢」という言葉で、私が何かを言う隙をすべて塞いだ。私は黙って後部座席に乗り込んだ。 車が駐車場を出た。夏帆のスマホの画面が光ると、車載のBluetoothが自動で接続され、スピーカーから静かなジャズが流れ出した。 「あら」夏帆は振り返って津人を見た。「この車、まだ私のスマホが優先的に繋がるようになってるんだ?」 津人は前方の道を見つめたまま、気のない様子で答えた。「前回お前が繋いだままで、設定を変えてないだけだ。お前のプレイリストでいいだろ、俺のセンスがダサいっていつも文句言うしな」 彼はBluetoothを切断することもなく、切り替えもしなかった。彼女の好みが、私と彼の空間を埋め尽くすのをただそのままにしていた。 赤信号で車が停まった。夏帆は慣れた手つきでセンターコンソールを開け、ハンドクリームのチューブを取り出した。 彼女は少量を手のひらに出してなじませると、そのままハンドルの上にある津人の右手を取り、彼にも塗ってあげた。「冬は風が強くて、手の甲がカサカサになってるよ」 津人は避けもせず、彼女が自分の手に触れるがままにさせていた。「もうすぐ結婚するんだから、少しぐらい肌が荒れてたっていいだろ。こんなベタベタしたもん塗ってどうするんだよ」口では文句を言いながらも、その声はすっかり気を許した、くつろいだ響きだった。 塗り終わると、夏帆はハンドクリームを後部座席に差し出した。「星奈さんも使う?このブランド、すごく潤うんだよ」 私はチューブに書かれた見覚えのあるロゴを見た。 先月、私の手の甲がひび割れた時、津人に仕事帰りにデパートへ寄って一本買ってきてほしいと頼んだことがあった。彼はわざわざデパートに寄り道するのは面倒だと言い、マンションの近くのドラッグストアで400円ほどのワセリンを買ってきたのだった。 今、私が買ってもらえなかったそのハンドクリームが、ごく自然に津人の車の中に常備され、夏帆の私物になっている。 「いらないわ」私は視線を外し、窓の外に顔を向けた。 車が夏帆のマンションの前に停まった。 「津人くん、あの新しく買ったお掃除ロボット、やっぱりBluetoothの繋ぎ方がわかんないの。説明書も難しくて。ちょっとだけ上がって設定してくれない?」夏帆はシートベルトを外した。 津人はエンジンを切った。彼は私を振り返って言った。「ここで10分待っててくれ。すぐ降りてくるから」そう言って、彼は無意識に車の鍵を抜いた。エンジンが止まり、車内の暖房が瞬時に切れた。 「鍵は置いていって」私は彼を見た。「エアコンをつけておきたいの」 津人は眉をひそめた。「たった10分だろ。車内はまだ暖かいし、エンジンかけっぱなしにして無駄にガソリン消費してどうするんだ。これから結婚するんだから、家計のこともちゃんと考えろよ。甘ったれるのもいい加減にしろ」彼はまた家計を口実にして、私を説教してきた。 そう言って彼はドアを閉め、夏帆と肩を並べてマンションの中へ消えていった。私は後部座席に座り続けた。10分、20分、30分。車内の余熱は完全に冷め切り、窓の隙間から入り込む冷気が、針のように肌を刺した。 私は車のドアを開け、道端でタクシーを拾って家に帰った。寝室へ向かい、ベッドの下からスーツケースを引き出し、クローゼットを開けた。服を一枚一枚たたみ、ケースに詰め始めた。 洗面台には、私のスキンケア用品が隅の方にわずかに置かれているだけだった。スペースの大部分には、津人の香水や男性用ヘアワックスが並んでいる。 歯ブラシ立てには、津人の青い電動歯ブラシが挿してある。その隣にはピンク色のものもあった。夏帆が一度泊まりに来た時に置いていったものだ。津人は「次に来た時も使うから」と言って、私に捨てさせなかったのだ。 30分で、2つのスーツケースに私の4年間の青春がすべて収まった。 夜の12時半、津人からLINEが届いた。 【ロボットのマザーボードが壊れてたから、分解して修理に出しといた。タクシーで帰ったのか?なんで一言も言わないんだよ。タクシー代の領収書は取っとけ、俺が払うから。これから一緒に暮らすなら、もっと節約することを覚えろ】 私は画面を開き、一言だけ返信した。 【わかった】 そしてトーク画面を長押しし、削除をタップした。4年分のチャット履歴が、一瞬で消え去った。 第4話 土曜日の朝。私はキッチンでトーストと目玉焼きを用意した。津人は寝室から出てくると、あくびをしながら言った。「今日はずいぶん早起きだな」 「津人」私は彼を見つめた。「今日はどこにも出かけないで、1日一緒にいてくれない?」 彼は椅子を引いて座り、朝食に手をつけながら言った。「ああ、いいよ。ちょうど今日は撮影もないし、家で一緒に式場の候補でも探すか」彼はスマホを取り出し、調べ物をし始めた。 突然、スマホの画面が明るくなり、夏帆専用に設定された着信音が鳴った。彼はすぐに応答した。「もしもし、夏帆?」 電話の向こうから、夏帆のひどく焦ったような泣き声が聞こえてきた。「津人くん、私の猫が家から逃げ出しちゃったの!窓伝いに屋上へ登ったのかもしれない。外はこんなに寒いのに、凍え死んじゃうよ!」 津人はガタッと勢いよく立ち上がった。「落ち着け、今すぐ行って探してやるから!」彼は玄関へ向かいながら、コートを手にした。 「津人」私はダイニングテーブルに座り、彼に背を向けたまま言った。「今日は出かけないって約束したわよね」 彼の足が止まった。「夏帆の猫は喘息持ちなんだよ。見つからなかったら命に関わる。今は猫を探すのが先だ。式場探しなんて後でいくらでもできるだろ」 「もし今日、そのドアを開けて出て行くなら、もう式場を探す必要はないわ」私の声はひどく静かで、感情の起伏は一切なかった。 津人は振り返り、苛立たしげな目で私を見た。「お前、いつからそんな冷酷な人間になったんだ?命がかかってることなんだぞ!こんな時にまで意地を張るなよ。いい加減にしろ!」 いい加減にしろ。また、その言葉だった。 「行って」私は静かにうなずいた。 彼はほっとしたように息を吐いた。「長くても2時間だ。昼には帰ってきて一緒にメシを食おう」そして、ドアが閉まった。 私は寝室からあの2つのスーツケースを引き出した。ローテーブルの上には、結婚式のキャンセル手続きのリストが置いてある。 4万円で買われたあのシンプルな指輪が、ペーパーウェイト代わりにその紙の上に乗っていた。私は最後にもう一度、この部屋を見回した。未練はもう、少しも残っていなかった。 私はH国行きの片道航空券を買ってあった。飛行機が着陸した瞬間、機内モードを解除した。スマホの画面には、狂ったように通知が滝のように流れ込んできた。津人からのメッセージだった。 【どこにいるんだ?冗談はよせ。今すぐ航空券を買って、A国に連れてってやる。それで満足だろ?】 その文字を見つめた。脳裏に浮かんだのは、他人のために撮られたあの3200枚のオーロラの写真ばかりだった。私の心の底には、もうさざ波一つ立たなかった。ただ静かに画面をタップした。 【寒すぎるから、行かない】 送信ボタンを押し、彼をブロックして連絡先を削除すると、完全にスマホの電源を切った。 空港の自動ドアを抜けると、温かい海風が吹きつけてきた。私はついに、4年遅れのその「2月」を、あの冷たい雪原に永遠に置き去りにしてきたのだ。

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