第1章
3日後に生まれたばかりの我が子を亡くしてから、私はジュリアンが嫌がるようなことを、一切しなくなった。
彼がどこへ行くのか、尋ねることもやめた。たとえ一晩中帰ってこなくても、私は何事もなかったように眠れるようになった。
街中で銃撃戦に巻き込まれ、流れ弾が手首をかすめたときも、医師から「ご家族に連絡してください」と言われた私は、ただこう答えた。
「私に家族はいません」
すると、一人の看護師が私のことに気づいた。
「マルケッティ夫人ですよね?ご主人のジュリアン様の車列が下に停まっています。お知らせしましょうか?」
私は目を伏せ、静かに首を横に振った。
「結構です。知らせなくていいです」
それから30分ほどして、ジュリアンは結局、自分から病室のドアを開けて入ってきた。
仕立ての良いスーツに身を包み、低い声で尋ねる。
「怪我をしたのに、どうして俺に連絡しなかった」
私は包帯の巻かれた手首に目を落とした。
「ただのかすり傷だよ。それに、ボスには、私なんかに構っている暇はないでしょう」
私の淡々とした口調が、かえって彼を苛立たせたようだった。
彼が何か言おうとした、そのとき。
廊下のほうから、部下たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「ミアのこと、聞いたか?ボスは本当にあの女にご執心らしいぞ。カジノで足を捻っただけなのに、防弾車を三台も出して周辺を封鎖したんだってさ......それだけじゃない。自分で抱きかかえて運び出したらしい。あの女の靴は、一度も地面につかなかったそうだぜ」
ジュリアンの顎がわずかに強張った。
そして、探るような視線を私に向けてくる。
まるで私が以前のように怒り狂って、問い詰めるのを待っているかのように。
けれど私は、何も言わなかった。
病院のベッドに寄りかかったまま、身じろぎひとつしない。
ジュリアンは、ようやく私が騒ぎを起こすのをやめたのだと思ったのだろう。
まさか私が、誰にも気づかれないように、彼の人生から永遠に姿を消す準備をしているとは知らずに。
第1話
病院を出て彼の車に乗り込んでから、ジュリアンはようやく低い声で弁解するように口を開いた。
「さっきの連中の戯言を気にするな。ミアは俺の店で踊り子の仕事をしてる。ちょっと厄介なことに巻き込まれたから、ボスとして俺が片をつけただけだ。これは仕事のうちだ」
私は小さく「そう」と返しただけで、それ以上は何も言わず、車窓に寄りかかった。
すると、突然ジュリアンが苛立ったように声を荒らげた。
「信用してくれないのか?セラフィーナ......この半年間、俺は毎晩欠かさず家に帰ってきただろ。それでも足りないというのか?」
流れていく街灯をぼんやり眺めながら、私は淡々と答えた。
「いいえ。こんな怪我、大したことないと思っただけだから。屋敷に帰りましょう」
完璧な答えだった。
けれど、そこには何の感情もなかった。
まるで、あらかじめ録音された返答を再生しているかのように。
ジュリアンは苛立ちを抑えきれず、ハンドルを拳で強く叩いた。
けたたましいクラクションが夜の街に響き渡り、向かいの店の裏口から出てきたばかりの踊り子たちが驚いて振り返る。
そのうちの一人が顔を上げ、こちらを見つめた。
街灯に照らされ、その顔がはっきりと浮かび上がった瞬間、車内の空気が凍りついた。
「ミア......どうしてここに......」
ジュリアンは反射的に私を見た。
以前の私なら、この女と鉢合わせるたび、その場で取り乱していたからだ。
けれど私は、一瞬だけ視線を向けると、まるで何もない空間を見ていたかのように、すぐに目を逸らした。
ジュリアンの指がハンドルの上で強張る。
それでも、彼の視線はミアへと吸い寄せられていった。
真夜中の凍えるような風の中、彼女が身につけているのは安っぽいスパンコールのワンピース一枚だけだった。
寒さに耐えるように両腕をぎゅっと抱きしめ、鼻先は赤くなっている。
ジュリアンはすでにドアノブに手をかけていた。
その目に浮かんだ剥き出しの心配を、見間違えるはずもなかった。
私は自分の立場をわきまえていた。
だから彼が気兼ねなく出ていけるよう、自分からドアを開けた。
「用事があるなら、私はタクシーで帰れるから」
言い終わるのも待たず、私はドアを閉め、そのまま横断歩道へ向かって歩き出した。
するとジュリアンが追いかけてきて、私の手首を掴んだ。
「俺とミアの関係はもう終わっている。こんな寒空の下にいるなんて思わなかっただけだ。何でも悪いほうに考えるのは、もうやめてくれないか?」
私は彼を見上げた。
「私は気にしないよ。若い女の子がこんな場所で一人で生きていくのは大変でしょうから......彼女、ジュリアンの店で働いているでしょう?気にかけてあげるのは当然じゃない」
ジュリアンは私の顔をじっと見つめた。
そこには、恨みも嫉妬も、ほんのわずかさえ見つからなかった。
何もかもが、彼にとってはおかしかった。
昔の私は、命そのものを彼に預けていた。
彼のスーツの袖口に、たった一本でも見慣れない巻き毛を見つければ、夜が明けるまで問い詰めずにはいられなかった。
だけど今の私は、彼が望んだ通りの人間になっていた。
静かで、品があって、何もかもをわきまえている。
なのに、ジュリアンの胸は締めつけられていた。
まるで濡れたスポンジを詰め込まれたかのように息苦しく、呼吸さえままならない。
私は掴まれた手を引き抜き、そのまま背を向けて歩き出した。
通りの角まで来たところで足を止め、振り返る。
すると車のそばでは、ジュリアンがすでに上着を脱ぎ、ミアの肩にかけていた。
そして彼女の頬を両手で包み、顔を寄せると、深く口づけていた。
私は少しも驚かなかった。
むしろ、こうなることくらい最初から分かっていた。
初めて彼の不倫現場を目にしたときのように、気が狂ったように駆け寄って、「ジュリアン・マルケッティ!あなた、良心ってものがないの?17の時からずっと一緒にいたじゃない!ボロアパートで身を寄せ合っていた頃から、こんな豪邸に住めるようになるまでずっと寄り添ってきたのに......それなのに、別の女を好きになったっていうの?」なんて喚き散らすつもりなど、もうなかった。
あのとき、ジュリアンは私が血を流した鼻を拭ってやりながら、冷たく鼻で笑った。
「良心だと?お前にそんなものがあるなら、どうして17の時に俺のベッドに潜り込んだりした。身寄りもないお前を孤児院から引き取って、10年も面倒を見てやったのは誰だと思ってるんだ。感謝して、俺の前で跪いて礼を言うのが筋だろ」
その言葉は、鋭いナイフのようだった。
私たちが路地裏で肩を寄せ合い、10年もの年月を生き抜いてきた日々を、血と苦しみだけが残るまで、容赦なく切り裂いた。
そのとき、スマホが震えた。
過去の記憶から引き戻され、私は画面を見た。
「セラフィーナ様。ご両親から受け継がれた信託財産と所有権関係の書類の手続きが完了いたしました。サン・セラーノにある本邸へお越しいただき、正式な引き渡しを行うには、いつ頃がご都合よろしいでしょうか?」
私は袖を引っ張り、手首に残る薄くなった傷跡を隠した。
「10日後でお願いします。急ぎで進めている離婚手続きも、10日後には成立する予定です」
電話の向こうで、相手が一瞬言葉を失った。
「これまで、ジュリアン様との間にもいろいろおありだったと思います。ですが、ご両親の遺したものを受け継ぐからといって、ポートヘイヴンとの縁をすべて断つ必要は......」
私は通りに並ぶ、地下クラブの色鮮やかな看板を眺めた。
そして、ひどく静かな声で答えた。
「もう、彼を愛していません」
少しだけ間を置いて、私は続けた。
「この街を出て、二度と振り返らずに生きていきたいので」
第2話
屋敷に戻ると、私は重厚なオーク材の扉を押し開けた。すると暖炉の上に飾られた、結婚式の写真が目に飛び込んできた。
写真の中のジュリアンは、無垢な笑みを浮かべ、鼻先を私のこめかみに寄せている。
私たちが一番幸せだった頃の姿だった。
ジュリアンと私は、二人とも孤児院で育った。
私が17歳のとき、借金のかたに、院長は私を凶悪な年老いたマフィアの男と結婚させようとした。
そのとき、私の手を掴み、高いレンガ塀を乗り越えて逃がしてくれたのがジュリアンだった。
私たちはそのまま一気に港の船着き場まで逃げた。
背後から院長は怒鳴り声を浴びせてきた。
「ジュリアン・マルケッティ!そこまで大口を叩くなら、一生かけてあの娘を守ってみな!」
ジュリアンは振り返った。
その目には、決意が宿っていた。
「だったら、俺の命に代えてでも守ってやるよ!」
彼は地下闘技場で稼いだわずかな金で地下室のアパートを借り、その後はファミリーのために街でみかじめ料を集めるようになった。
「一人前になったら、こんなところからお前を連れ出してやる。もう誰にもお前に手出しさせない」
街に出て最初の3年間、ジュリアンは縄張り争いのために命を懸けて戦い、何度も死にかけた。
銃を抜いて銃撃戦へ向かうたび、彼は必ず私の写真を服の胸ポケットに大切にしまっていた。
私はファミリーが経営するコインランドリーで帳簿をつけながら、一銭たりとも無駄にせず、少しずつ金を貯めていた。
一番苦しかったクリスマスには、二人ともポケットをひっくり返しても小銭しか出てこなかった。
結局、一枚の冷めたピザを二人で分けて、どうにかクリスマスをやり過ごした。
それからジュリアンは、容赦のなさだけを武器に、一歩ずつ組織の中で地位を上げていった。
その一方で、私は彼のために先を読み、裏方として段取りを整え、組織の実務を取り仕切るようになった。
カビ臭い地下室を出て高級ペントハウスへ移り、最後には絶対的な権力の象徴でもある丘の上の邸宅へと、私たちは住む場所を変えていった。
ジュリアンの権力が広がるにつれ、彼の周りに集まる「取引相手」たちも、次第に派手になっていった。
そしてある日、私は彼のシャツの襟の内側に、口紅の跡を見つけた。
私なら絶対に選ばないような、鮮やかで目立つ色だった。
「カジノに新しい踊り子が入ったんだ。そいつが転んだから、起こした時についたものだろう」
ジュリアンは苛立ったように蝶ネクタイを緩めた。
「セラフィーナ、お前だってこの仕事を理解してるだろ。いちいち疑って、嫉妬深い妻みたいに振る舞うのはやめられないのか?」
「私がジュリアンを信じていれば、ジュリアンは私に誠実でいてくれるの?」
私は彼をまっすぐ見つめた。
「私たち......永遠に一緒だって誓ったでしょう?どうしてそんなことをするの?」
その日を境に、私たちは終わりの見えない言い争いと冷戦を繰り返すようになった。
私は彼の通話履歴を調べ、行動予定まで把握した。
港の視察に行くと言っていた夜でさえ、私はこっそり車を走らせ、倉庫の前で彼が出てくるのを待った。
追い詰められたジュリアンは、とうとう取り繕うことすらやめた。
女は一人、また一人と入れ替わっていった。
一番ひどかった頃には、私にわざと見せつけるようにシャツのボタンを外し、背中に幾重にも残った引っかき傷を隠そうともしなかった。
「調べ終わったか?」
彼は嘲るように笑った。
「証拠が欲しかったんだろ?ほら、ここにある」
私は、自分でも手に負えないほど狂ってしまったような気がした。
理性では、もう手放せと何度も叫んでいる。
それでも、私はその場から一歩も動けなかった。
10年以上の年月を共にしてきた。
ジュリアンと私は、とっくに互いの骨にまで自分自身を織り込んでしまっていた。
引き裂こうとすれば、耐え難い苦痛が伴う。
けれど、このまま一緒にいれば、いずれ互いを壊してしまう。
1年前、ジュリアンは突然「落ち着いた」。
それまで周りにいた女たちをすべて切り捨て、ただ一人、ミアというカジノの踊り子だけを残した。
私は人を使って彼女の身元を調べさせた。
そして写真を見た瞬間、思わず笑いそうになった。
そこに写っていた顔は、17歳の頃の私と瓜二つだった。
あの頃の私は、彼と永遠に一緒にいられると、まだ信じていた。
その頃、私は妊娠8か月で、出産予定日も間近に迫っていた。
そんなある日、屋敷が襲撃された。
そこで私は、ジュリアンがミアを守るためだけに、自分の最も優秀な部下たちを別の場所へ回していたことを知った。
私はどうにか生き延びた。
けれど、その衝撃で早産になった。
生まれてきた我が子はあまりにも弱く、保育器の中で3日間、苦しみながら必死に生きようとした末に、息を引き取った。
そのとき、私はようやく理解した。
ジュリアンは本物の私より、安っぽい偽物のほうを愛することを選んだのだ。
葬儀を終えた夜、絶望のあまり、私は睡眠薬を一瓶丸ごと飲み込んだ。
ジュリアンが寝室のドアを蹴破って入ってきたとき、その身体は震えが止まらないほど動揺していた。
彼は私を抱き上げ、そのまま病院へ駆け込んだ。
血走った目で、彼は必死に叫んだ。
「セラフィーナ!死ぬな!もう一度やり直そう......!誓うよ。これからはお前だけだって。あの女には二度と会わないから!」
ストレッチャーに横たわった私は、ただ虚ろな気持ちで天井を見つめていた。
泣くことすらできないほど、疲れ果てていた。
そして、まさにその日。
サン・セラーノの古参コンシリエーレであるヴィットリオが、ある人物に一通の極秘の手紙と、黄ばんだ古い書類を持たせて私のもとへ送ってきた。
「セラフィーナ様。委員会が20年前の五大ファミリーによる血なまぐさい抗争について、記録を改めて調査いたしました。この書類に記されている二人が、セラフィーナ様の実のご両親です」
私は書類を強く握りしめた。
指の関節が白くなるほどに。
そのとき初めて知った。
私の父、エリアス・ヴィターレは、かつて裏社会で最も尊敬されていたコンシリエーレだった。
たった一人で五大ファミリーの抗争をまとめ上げ、20年にわたる休戦を成立させた男だった。
私は極秘の手紙を燃やした。
そして、軽い足取りで窓辺へ歩いていった。
庭を見下ろすと、ジュリアンがミアを腕の中に抱いていた。
「ごめんな、ミア。彼女は今、子供を亡くしたばかりで精神的に不安定なんだ。今はまだ置いていけない。もう少しだけ時間をくれ。あいつが落ち着いたら、必ずお前とのことを何とかするから」
二人は熱烈に口づけを交わし、離れようともしなかった。
まるで運命に引き裂かれた、悲劇の恋人たちのようだった。
その瞬間、胸の奥で繋がっていた最後の糸が、プツリと切れた。
あまりにも鋭い痛みに、私は声すら出せなかった。
病院のベッドで迎えた7日目。
私の中を、覚悟が満たしていった。
私はジュリアンのもとを去る。
この腐れ縁を、今度こそ自分の手で断ち切る。
第3話
7日間、ジュリアンは一度も屋敷に戻ってこなかった。
私も彼の行方を追おうとはしなかった。
ただ淡々と必要なことだけをこなし、離婚届を弁護士に渡し、自分の荷物を少しずつまとめ始めた。
ところが弁護士から、手続きを早めるには、何年も前にサウスサイドの小さな教会で交わしたある書類の原本を提出する必要があると言われた。
その書類は、かつて私たちが暮らしていた古いアパートに保管していた。
そこはもう何年も誰も住んでいない。
私は自分で取りに行くことにし、そのついでにアパートの売却手続きも進めることにした。
私は管理人を連れて部屋まで上がった。
けれど、玄関の前まで来たところで、ドアが少しだけ開いていることに気づいた。
中から、女のくぐもった声と、男の荒い息遣いが漏れてくる。
薄暗い室内に目を凝らすと、安っぽいレースのスリップが埃っぽい床に無造作に脱ぎ捨てられていた。
ジュリアンは剥がれかけた壁にミアを押しつけ、スラックスを膝まで下ろして彼女を抱いていた。
腰に回した手には、私たちの結婚指輪がまだ嵌まったままだった。
私は声が漏れそうになるのを必死に手で口を覆って押し殺し、そのまま踵を返して逃げるようにその場を離れた。
管理人を振り返り、私は平静を装って言った。
「今日はやめておきましょう。別の日にまた来ます」
管理人は若い女性だった。
中から聞こえてきた声も、当然耳にしていたのだろう。
彼女は言葉にできないほど痛ましそうな目で私を見た。
「マルケッティ夫人......この件について、記録を残しておきましょうか?」
私は小さく首を横に振った。
「気にしないでください。これは私たちの問題です」
あのドアを開けたところで、何が変わるというのだろう。
下品な女のように大騒ぎして喚き散らすのか。
それとも、路地裏で二人きりだった苦しい日々を持ち出して、必死に夫にすがりつく惨めな妻を演じるのか。
もう、そんなことに意味はなかった。
男の心が離れてしまったあとで、どれだけ必死に繋ぎ止めようとしても、手元に残るのは空っぽの抜け殻だけだ。
私は足早に階段を下りた。
すると、後を追ってきたジュリアンに腕を掴まれた。
まだ息が上がっている。
シャツの襟元ははだけ、鎖骨には鮮やかな赤い痕が残っていた。
「どうしてここにいる?さっきの......見たのか?」
私は彼の手を振りほどき、落ち着いた声で答えた。
「昔の荷物を取りに来ただけよ。でも鍵を持ってくるのを忘れたことに気づいたから、帰ろうとしてたの」
ジュリアンは、あからさまに安堵の息を吐いた。
私は本当に何も見なかったのだと思ったのだろう。
「今週は港の監視が厳しくて、どうにか抜け出してきたんだ。で、ミアの住んでる辺りに敵対勢力が張り込んでるっていうから、しばらく身を隠させるためにここへ連れてきただけだ。やましいことは何もない」
あまりにも見え透いた嘘だった。
けれど、それを問いただす気力すら、私には残っていなかった。
私は何も言わず、そのまま歩き続けた。
そのときだった。
アパートのほうから、耳をつんざくようなガラスの割れる音が響き渡った。
次の瞬間、窓枠から真っ赤な炎が噴き出した。
ジュリアンの顔から血の気が引いた。
彼は勢いよく振り返ると、私の顎を乱暴に掴んだ。
その目には、剥き出しの怒りが燃え上がっていた。
「お前が火をつけたのか!?ただ駄々をこねてるだけだと思ってたが......まさか敵対勢力と手を組んで、こんな殺しにも等しい真似をするとは思わなかったぞ!
いいか、ミアをここに置いたのは俺だ!あいつに何かあったら、お前には責任を取ってもらうからな!」
ジュリアンは私を激しく突き飛ばすと、振り返って炎の中へ駆け込んでいった。
私はそのまま立ち去ろうとした。
けれど、ふと我に返る。
離婚手続きに必要な書類の原本。
それに、両親の遺品。
そのすべてを寝室の金庫にしまっていたことを思い出した。
私は踵を返し、焼けつくような熱風に逆らって再び部屋の中へ駆け込んだ。
室内には濃い煙が立ち込めていた。
その中からジュリアンが、意識を失いかけたミアを抱えて駆け出してくる。
私を見ると、彼の目が一瞬で冷たくなった。
「何しに戻ってきた!?早く逃げろ!」
私は彼を無視し、そのまま寝室へ向かって走った。
炎はすでにカーテンへ燃え移っていた。
金庫は、今にも燃え落ちそうなクローゼットのすぐ足元にあった。
「セラフィーナ!頭がおかしくなったのか!?早く出てこい!」
入口からジュリアンの怒鳴り声が飛んでくる。
私は焼けるように熱い床へ身を伏せ、金庫のダイヤルを素早く回した。
そして重い金属製の扉を開けた、その瞬間。
天井に吊られていた古いシャンデリアが、轟音を立てて落下してきた。
ジュリアンは反射的にミアを自分の下へ庇い、転がるように後ろへ退いて落下を避けた。
私は凄まじい衝撃波に弾き飛ばされた。
鋭い木片と砕けたガラスが一瞬で背中に突き刺さり、コートがたちまち血に染まっていく。
私は歯を食いしばり、両親の遺品と書類の原本が入ったファイルを胸に強く抱きしめた。
濃い煙が肺へ流れ込み、視界が少しずつ暗くなっていく。
意識を失う直前、最後に耳にしたのは、ジュリアンがミアを抱えて安全な場所へ運んでいく足音と、遠くから近づいてくるサイレンの音だった。
第4話
再び目を覚ましたとき、私はファミリー専用病院のVIP病室に横たわっていた。
ジュリアンは、私が命懸けで持ち出したファイルをめくっていた。
そこから、縁が焼け焦げた書類が滑り落ちた。
「こんな紙切れのために、死にかけたのか?」
ジュリアンの声には、信じられないという響きが滲んでいた。
「お前は左のふくらはぎを骨折してるうえに、肺まで炎症を起こしてる。医者の話じゃ、あと10分遅れてたら助からなかったそうだぞ!」
私は手を伸ばし、ファイルを奪い返した。
この原本がなければ、弁護士に頼んで進めている離婚手続きを急ぐこともできない。
私が書類を庇うように抱え込むのを見て、ジュリアンは眉間に深い皺を寄せた。
「お前が素直に引いていれば、無事に逃げられたんだ。それなのに、わざとこんなことをして、俺に選ばせようとした。そこまでして、自分が俺の中でどれだけ大事なのか確かめたかったのか?
襲撃したのは敵対勢力だ。ミアは何も知らない一般人だから、俺はあいつを助けることを優先した。だがお前は違う。お前は誰よりも、街で生き残る術を知ってるだろ」
私は白い天井を見つめたまま、小さく答えた。
「そうね」
「セラフィーナ」
彼は声を和らげ、私のそばへ身を寄せてきた。
「前にも言っただろ。俺だってちゃんと落ち着くつもりなんだ。ミアのことは......あいつの家はギャンブルの借金で首が回らないうえに、母親は心臓が弱い。俺はただ、あいつを助けてやりたいだけだ。それくらいしてやってもいいだろ」
妻である私を大切にしているような口ぶりだった。
けれど、その行動は、彼がミアに夢中になっていることを何より雄弁に物語っていた。
私はようやく彼の目を見た。
私の瞳は、波ひとつ立たない淀んだ水面のようだった。
「分かってる。全部、分かってるわ」
私の冷めきった態度に耐えられなくなったのか、ジュリアンは突然立ち上がった。
そのとき、私の肩に残った火傷の赤く腫れ上がった跡が目に入った。
「セラフィーナ......子供を失っただけでも、俺にとっては十分苦しいんだぞ。今度は自分の身体まで傷つけて......お前は、俺にも同じ苦しみを味わわせたいのか?」
「考えすぎよ。もう二度と、こんな馬鹿なことはしないわ」
ジュリアンはさらに何か言おうと口を開いた。
しかし、そのときスマホが鳴った。
彼は病室の大きな窓の前まで歩いていき、電話に出た。
相手の声までははっきり聞き取れなかった。
けれど、ミアのか細く、途方に暮れた泣き声だけが、かすかに聞こえてきた。
ジュリアンは声を落とし、しばらく彼女をなだめるように話していた。
電話を切ると、こちらを振り返った。
「うちの仕事に裏切り者が紛れ込んでる。今すぐ片をつけないと。事務所に戻る。お前はここで大人しくして、しっかり身体を治せ」
そう言い残すと、ジュリアンは一度も振り返ることなく病室を出ていった。
それから数日間、私は静かに病院で過ごした。
ジュリアンは部下に高価な滋養食品や赤いバラの花束を届けさせた。
病室の電話も、毎日決まった時間になると鳴った。
私はいつも、その日の担当看護師に代わりに出てもらった。
「すみません、容体は安定していますが......面会はお断りしています」
退院の日。
私は激しい痛みに耐えながら、一人で薬局へ向かい、痛み止めを受け取りに行った。
処方箋を窓口へ差し出した、そのときだった。
一人の中年の女が私の前へ割り込み、私を押しのけた。
「うちの婿はこの辺りを仕切ってるんだよ!どうして私が順番を待たなきゃならないの!?」
私は眉をひそめた。
「順番を守ってください」
女は私を上から下までじろじろ眺め、露骨な軽蔑を顔に浮かべた。
「あんた、自分が何者だと思ってるの?うちの婿はあのジュリアンだよ!私の薬が遅れたら、あんた責任取れるのかい?」
まるでその言葉を待っていたかのように、廊下の向こうからジュリアンとミアが慌ただしく駆けてきた。
ジュリアンは私を壁際へ引き寄せ、声を潜めて言った。
「ミアの母親は心臓が弱くて、精神的な負担に耐えられないんだ。お前はボスの妻として、一般人を先にしてやるんだ」
ミアはすぐに息を切らしている母親を支えた。
その目は真っ赤になっていた。
「マルケッティ夫人、本当にごめんなさい......母は気が動転するとすぐ具合が悪くなるんです。高い薬だから、きっと受け取ってくれないと思って......だから、ボスが私の婚約者だって話してしまいました。
ボスのことは、どうか責めないでください。この人は義理や恩義を大切にする人だから、困っている人を見捨てられない質なんです」
私は目の前にいる三人を、ただ黙って見つめていた。
つまり、ミアの母親が具合が悪いと言っただけで、ジュリアンは自分の妻をあっさり置き去りにできるのだ。
骨折したうえにひどい火傷まで負って、病室で一人きりになっている私を、何のためらいもなく。
――まあ、もうどうでもいい。
もう何も意味などないのだから。
私は小さく頷き、エレベーターへ向かって歩き出した。
二歩ほど進んだところで、背後からミアのすすり泣くような声が聞こえた。
「ねえ、ジュリアン......彼女、怒ってるかな?また前みたいに騒ぎ出したらどうしよう......ジュリアンの立場まで悪くしてしまうのが、怖いよ......」
ジュリアンの声は低かった。
それでも、その言葉は一つ残らず私の耳に届いた。
「気にするな。あいつは孤児院育ちだからな。目の前で人が苦しんでいようと、人に寄り添う優しさなんて持ち合わせていないんだからな」
第5話
私はコートのポケットの中で、拳を強く握りしめた。指の関節が白くなるほど力を込めながら、足を引きずるように大理石の廊下を歩いていく。
背後から、ジュリアンの革靴が床を打つ音が近づいてきた。
「セラフィーナ。車を出させるから、屋敷まで送らせる」
私は振り返らず、そのまま歩く速度を上げた。
そのとき、床にあった何かに足を取られ、私は勢いよく転んだ。
巻いたばかりの火傷の傷口が、衝撃でたちまち開き、包帯が赤く染まっていく。
あまりにも酷い転倒だった。
胸の奥で何かが粉々に砕け散った。
それと一緒に、私が最後まで捨てきれなかった、馬鹿げたほどわずかな希望まで消えていった。
私は必死に歯を食いしばった。
それでも止められず、涙が次々と頬を伝っていく。
修道院が運営する孤児院で育った私にとって、何より怖かったのは、家族が集まる祝日の光景だった。
街灯に照らされた家々の窓から漏れる温かな明かり。
どこかの家から聞こえてくる、家族の笑い声。
それを目にするたび、胸の奥に生まれる羨望は鈍いナイフのように、私の心を少しずつ切り刻んでいった。
ジュリアンは、そのことを誰よりもよく知っていた。
それなのに今、彼は自分の陰で泣いている女を慰めるためだけに、私がずっと抱えてきた古い傷を、自分の手で何度も抉り返している。
ジュリアンが慌てて駆け寄り、私を起こそうとした。
声には苛立ちを滲ませている。
「セラフィーナ!そこまでにする必要があるのか!?」
言い終わるより早く、熱々のブラックコーヒーが私の顔めがけて飛んできた。
黒い液体が全身に飛び散り、続けざまに古びた革のバッグがこめかみに叩きつけられた。
こめかみが一瞬で腫れ上がる。
数歩離れたところで、ミアの母親が全身を震わせていた。
まるで正気を失っているかのような様子だった。
「この泥棒猫!よくもうちの婿に色目を使って......!人の家庭を壊すようなふしだらな真似をしたらどうなるか、思い知らせてやるわ!」
彼女は勢いよく飛びかかってきて、私の頬を力いっぱい平手打ちした。
衝撃で頭が横へ跳ね、私はそのまま床へ崩れ落ちた。
その直後、あの硬く古びた革のバッグが、今度は私の肩へ容赦なく振り下ろされた。
鈍く嫌な音が響き、その衝撃が骨の奥まで伝わってくる。
一瞬、視界が真っ暗になった。
三度目にバッグを振り下ろそうとしたところで、ジュリアンが彼女の腕を掴んだ。
「もうやめろ!落ち着いてくれ!これは誤解だ!」
「何が誤解だっていうのよ!」
女は金切り声を上げた。
「あんな色目を使ってたのに、私が何も分からないとでも思ってるの!?」
私はコーヒーで濡れたタイルに手をつき、ふらつきながら立ち上がった。
「娘をちゃんと躾けたらどう?誰が本当の愛人なのか、彼女だってよく分かってるはずよ!」
ジュリアンが勢いよく振り返った。
低い唸り声のような声を、私にだけ聞こえるように吐き出す。
「彼女の母親は重い心臓病を抱えてる。精神的な負担は絶対に避けなきゃならないんだ!セラフィーナ、頼むからこれ以上騒ぎを起こさないでくれ!」
そう言うと、ジュリアンはすぐに女のほうへ向き直った。
そして彼女を支える声は、瞬時に驚くほど優しいものへと変わった。
まるで別人だった。
「誤解なんだ。この女性は......ただの知り合いだ。最近、子供を亡くして、精神的にも参ってるだけで......」
さらにジュリアンは、私がさっき受け取った強い痛み止めの処方箋まで指差した。
女はそれをちらりと見ると、冷たく鼻で笑い、床に唾を吐いた。
「なんだ、そういうことだったのね。どうりで気味の悪い女だと思ったよ。まあいい。可哀想だから大目に見てやるわ」
ジュリアンは母親とミアを両脇から支えるようにして、廊下の向こうへ連れていった。
最後まで、一度も私を振り返ることはなかった。
私はコーヒーでびしょ濡れになった床に座り込んだまま、遠ざかっていくジュリアンの背中を見つめていた。
もう、涙を流すことさえできなかった。
第6話
震える看護師に付き添われ、私は診察室へ戻り、裂けた傷口を洗浄して、もう一度包帯を巻き直してもらった。
「マルケッティ夫人......」
看護師は電話の受話器に手を伸ばしかけたまま、私に尋ねた。
「やはり、ボスに連絡しましょうか?」
私は静かに手を伸ばし、受話器を押し戻した。
「必要ありません」
淡々と言ってから、私は続けた。
「自分で帰ります」
――
屋敷へ戻ると、私は2階の寝室へ向かい、クローゼットから簡単な服を何着か選んで、小さなスーツケースに詰めた。
そのとき、スマホの画面が明るくなった。
ミアがSNSを更新していた。
投稿された写真には、ジュリアンの濃いグレーのスーツの上着を羽織ったミアが写っていた。
彼の胸に頭を預け、幸せそうに微笑んでいる。
添えられた言葉は、【危険な世界だけど、私が心から安心できる場所は彼のそばだけ】だった。
私は表情一つ変えず、その目障りな写真をスワイプして通り過ぎる。
そして彼女のプロフィールを開き、「ブロック」をタップした。
正門の外には、あらかじめ手配しておいた車がすでに待っていた。
私はスーツケースを持って後部座席に乗り込み、運転手に行き先を告げた。
「中央駅まで。サン・セラーノ行きの夜行列車に乗ります」
エンジンが低く唸り、車はゆっくりと屋敷の鉄門を抜けていった。
大通りへ出ようとした、そのときだった。
向かい側から黒塗りのセダンが何台も連なって走ってきて、私たちの車のすぐ脇を通り過ぎていった。
先頭の車は後部座席の窓が半分ほど開いていた。
ジュリアンは隣に座る誰かのほうへ顔を向け、何かを優しく話しかけていた。
その肩にはミアが寄り添い、鳥のように愛らしい笑みを浮かべている。
二台の車列は、まるで示し合わせたかのように正反対の方向へ走り去っていった。
バックミラーの中で、私が6年間暮らした白い屋敷が少しずつ小さくなっていく。
やがて夜の闇に飲み込まれ、完全に見えなくなった。
17歳の私は、孤児院の鉄門を越えて、彼のあとを追った。
20歳の私は、バットを握って彼の隣に立ち、街で初めて自分たちの縄張りを手に入れるために戦った。
22歳の私たちは、サウスサイドの小さな教会で指輪を交換した。
28歳の私は、彼が何度も何度も帰ってくるたび、私のものではない香水の匂いを全身にまとっているのを見ていた。
それらすべての記憶が、窓の外を流れていく街灯のように、一つ、また一つと後ろへ置き去りになっていく。
私は手を持ち上げ、指にはめていた赤いルビーの指輪をゆっくりと抜いた。
窓を開け、手を外へ差し出す。
指輪はきらめく弧を描き、そのまま暗い側溝の水の中へ消えていった。
これで、本当に終わった。
窓の外では、ポートヘイヴンのネオンが相変わらず目を刺すほど眩しく輝いていた。
バーやカジノからは笑い声が流れてくる。
まるで、私とは無関係の華やかな賑わいが、今夜も続いているかのようだった。
私は座席に深く身を預け、目を閉じた。
これから私は、家へ帰る。
父の名が刻まれた、あの屋敷へ。
20年間、誰にも座られることなく私を待ち続けてきた、背もたれの高いマホガニーの椅子を受け継ぐために。
すべての始まりへ、戻るために。