第1章
結婚式が始まる直前、母が突然胸を押さえて倒れた。
私は式どころではなくなり、母を連れて病院へ向かった。
ところが、救急外来に着いてすぐ、家族のLINEグループにメッセージが届いた。
【結月は病院に連れ出したよ。もう式を始めて大丈夫】
その直後、父から返信が来た。
【心配ない。もう佳奈をエスコートして、バージンロードを歩いてる】
兄も続けてメッセージを送ってきた。
【佳奈は10年も待ったんだ。今日やっと、堂々と一ノ瀬智哉(いちのせ ともや)と結婚できる】
3通のメッセージは、すぐに取り消された。
けれど今度は、親友の朝倉澄香(あさくら すみか)が、結婚式の様子を撮った動画を間違えてグループに送ってきた。
動画の中で、妹の藤崎佳奈(ふじさき かな)は、私が自分で選んだウェディングドレスを着ていた。
バージンロードの先には智哉が立ち、本来なら私の指にはめられるはずだった指輪を、佳奈の左手の薬指にはめている。
昨日まで笑顔で「結婚おめでとう」と祝ってくれていた親戚や友人たちが、一斉にはやし立てていた。
「キスして!」
その瞬間、ベッドに横になっていた母が私のスマホをひったくった。
さっきまであれほど苦しそうにしていた顔からは、もう苦痛の色など消えていた。
残っていたのは、嘘がばれた焦りだけだった。
「結月、佳奈はずっと智哉を待ってたの。あの子はただ、自分の結婚式を挙げたかっただけなのよ。
あなたはもう7年も智哉と一緒にいられたでしょう?今回だけは佳奈に譲ってあげて。ね?」
私は、母の胸にまだ貼られたままの心電図の電極パッドを見て、ふっと笑った。
そうか。
みんなで口裏を合わせて、私にこの茶番を最後まで演じさせていたんだ。
何も知らされないまま、笑いものにされていたのは――私ひとりだけだった。
第1話
ホテルへ駆け戻ると、智哉が佳奈の手を取り、誓いの言葉を口にしていた。
「君に出会ったあの日から、これから先もずっと、帰る場所は君であってほしい」
一瞬、息が止まった。
その誓いの言葉は、私が自分で書いたものだった。
7年分の想いをたった一言に込めたくて、3晩かけて何度も書き直した。
昨夜、智哉は私を抱きしめながら、この言葉は結婚式で私にだけ伝えると言っていた。
それなのに今、彼は一文字も変えず、そのまま佳奈に向かって読み上げていた。
私の姿に気づいた瞬間、会場を満たしていた拍手がぴたりと止んだ。
智哉はすぐに佳奈の手を離し、反射的に私――藤崎結月(ふじさき ゆづき)のほうへ歩み寄ってきた。
「結月、今は病院に戻ってくれ。式が終わったら、ちゃんと説明する」
私は抑えきれず、智哉のもとへ駆け寄った。
「今、説明して!どうして佳奈が私のウェディングドレスを着て、私の指輪をつけて、私と結婚するはずだったあなたの隣にいるの?」
智哉は佳奈をかばうように前へ出た。その目に、かすかな苛立ちが浮かんだ。
「この結婚式は、最初から佳奈のために用意したものだからだ」
その一言で、私は凍りついた。
この結婚式のために、私は丸一年かけて準備してきた。
なのに智哉は、最初から私の結婚式ではなかったのだと言った。
智哉は佳奈の頭を飾るダイヤのベールに目をやり、淡々と続けた。
「このベールは、佳奈が前から気に入ってたんだ。海外にいて試着できなかったから、お前に代わりにサイズを確認してもらった」
私は智哉を睨みつけた。
「じゃあ、ウェディングドレスは?」
「あれも佳奈のだ。最初から佳奈のサイズに合わせてデザインされてる」
全身から血の気が引いていった。
だから智哉は、ウエストを直すのを許さず、ドレスに合わせて痩せろと私に言ったのだ。
私はあのドレスを着るために、半年もの間、まともに夕食さえ取らなかった。
けれど今になって、ようやく分かった。
最初から、本当の花嫁は私ではなかったのだ。
佳奈は智哉の腕に自分の腕を絡め、憐れむような目で私を見た。
「お姉ちゃん、智哉を責めないで。私が智哉に、お姉ちゃんのそばにいてって頼んだの。
あの頃、私は海外で治療を受けることになって、もう戻ってこられないかもしれなかった。お姉ちゃんもその頃、元彼に振られたばかりで、毎晩眠れないくらい落ち込んでたでしょう?」
佳奈の目に、計ったような痛ましさが浮かんだ。
「そんなお姉ちゃんを見ていられなくて、私が智哉に、しばらくそばにいてあげてって頼んだの。
毎朝、寮まで届けてた朝ごはんも、メニューを考えたのは私。初めてのデートで行った店も、私が選んだ。智哉がお姉ちゃんに告白したときの言葉だって、一つずつ私が教えたの」
喉を何かに塞がれたようで、声が出なかった。
智哉は99日間、私に想いを伝え続けた。
私は、その99日間の小さな出来事を一つ残らず日記に書き留めていた。
何度も私をときめかせた、あの一つ一つ。
そのどれ一つも、本当は私のためではなかった。
親友の澄香も、ブライズメイドドレスの裾をつまみながら近づいてきた。
「結月、みんなで隠してたのは悪かったと思ってる。でも、佳奈のほうがずっとつらかったんだよ。
好きな人が7年間も結月のそばにいるのを見てきたのに、一度だって二人の仲を壊そうとしなかった。もう十分優しかったでしょう。これ以上、佳奈を追い詰めないで」
私は、10年以上付き合ってきた親友を見つめた。
「じゃあ、澄香も最初から知ってたの?」
澄香はうなずいた。
「みんな、結月が受け入れられないと思ったから黙ってたの。結月って思い詰めると何をするか分からないところがあるでしょう?智哉が本当に好きなのは佳奈だって知ったら、何をするか分からなかったし」
全員が佳奈の側に立っていた。
そして、同じように警戒する目を私へ向けていた。
まるで、7年間も騙され続けた被害者が私ではなく、妹の幸せをいつ壊すか分からない危険人物が私であるかのように。
そのとき、バッグの中でスマホが震えた。
3か月前、私に声をかけてくれた海外プロジェクトの責任者からだった。
【藤崎さん、海外駐在枠の最終確認は今夜が締め切りです。フライトも、最後の1席をまだ確保してあります】
第2話
私はスマホを握りしめながら、智哉のために一度、この仕事の話を断ったことを思い出した。
あのとき、智哉は私を強く抱きしめ、耳元で何度も引き止めた。
「結月、海外に行ったら俺はどうすればいいんだ?もうすぐ結婚するんだろ?俺を一人置いていけるのか?」
私は長いこと迷った末、智哉と結婚するために、その絶好の仕事の機会を断った。
7年間の幸せだった日々を思い出し、私は声を詰まらせながら智哉を見た。
それでも、まだ諦めきれなかった。
「佳奈はもう戻ってきたんでしょう?だったら、どうして私と別れなかったの?この7年の間に……ほんの一瞬でも、私を愛したことはあったんでしょう?」
智哉は長い間、何も答えなかった。
佳奈は困ったように笑い、憐れむような口調で言った。
「智哉がお姉ちゃんと別れなかったのは、私が止めたから。お姉ちゃんはもう、智哉がすべてみたいになってたでしょう?もし智哉が離れたら、また立ち直れなくなるんじゃないかと思ったの」
まるで寛大な施しでもするように、佳奈はゆっくり私の前まで歩いてきた。
「お姉ちゃん、私は一番好きな人を7年間もお姉ちゃんのそばにいさせたの。誕生日を一緒に祝うのも、ウェディングフォトを撮るのも、結婚式の準備をするのも、ずっと見てた。私だって、ここまでずっと譲ってきたんだよ。
今はただ、本来私のものだった結婚式を返してほしいだけ。それなのに、どうしてそれすら叶えてくれないの?」
そう言って、佳奈はそっとお腹に手を添えた。
「私一人だけなら、まだ譲れた。でも、もう妊娠3か月なの。生まれてきた子に、実の父親のことを『伯父さん』なんて呼ばせられない」
智哉の表情が変わり、すぐに佳奈の腰を支えた。
「医者から、興奮しないように言われてるだろ。もう説明しなくていい」
智哉は顔を上げて私を見ると、声を冷たくした。
「結月、佳奈はお前のために7年も譲ってきたんだ。今は俺の子を身ごもってる。これ以上、お前に付き合ってこんな芝居を続けるつもりはない」
たった数言で、私たちが一緒に過ごした7年間は、あっさりなかったことにされた。
けれど昔の智哉は、確かに私を何よりも大切にしてくれた。
急性胃炎で入院したときは、会議をキャンセルして、2日間ずっと病室に付き添ってくれた。
一ノ瀬家に交際を反対されたときは、実家から渡されていたカードを返し、私が借りていた小さな部屋へ引っ越してきた。
一番苦しかった頃は、二人でカップ麺を分け合った。
智哉は一つしかない目玉焼きを私に譲り、笑って言った。
「結月、もう少しだけ待っててくれ。お前が俺を選んで間違ってなかったって、絶対みんなに分からせるから」
その後、智哉が起業に失敗し、多額の借金を抱えたときも、
私は昼は会社で働き、夜はデザインの仕事を請け負って、一番苦しい2年間を一緒に乗り越えた。
初めて出資を受けられた日、智哉は私を抱きしめ、長いこと泣いていた。
一生、私を裏切らないと言った。
あの抱擁は本物だった。
あの涙だって、本物だった。
それなのに今、智哉は妊娠した佳奈をかばいながら、あの7年間の愛情は、ただの芝居だったと言っている。
そのとき、背後の大きなスクリーンが再び明るくなった。
スタッフは式がすでに収拾のつかない状態になっていることに気づかず、予定どおり新郎新婦の記念ムービーを流し始めた。
画面中央に、金色の文字が浮かび上がる。
【智哉・佳奈 交際10周年】
写真が一枚ずつ、時系列に沿って映し出されていった。
私の24歳の誕生日。
智哉は飛行機が遅れていると言い、私は冷めたケーキを前に、一人で待っていた。
けれど写真の中の智哉は、雪山の麓で佳奈にマフラーを巻いてやり、寒さで赤くなった鼻先にそっとキスしていた。
半年前、私が流産した日。
智哉は急な出張が入ったと言って、病院には来なかった。
母は心臓の具合が悪いと言い、父と兄は、そろってスマホの電源を切っていた。
私は一人で手術台に横たわり、痛みで全身を震わせていた。
その頃、写真の中の彼らは、南の島で佳奈の誕生日を祝っていた。
母はプレゼントを手渡し、父はケーキを切り、兄は海辺で一晩中花火を上げていた。
澄香はカメラの向こうで、その家族団欒を撮り続けていた。
写真が一枚、また一枚と映し出されていく。
そこには、私の知らない7年間が詰まっていた。
同時に、彼らが積み重ねてきた嘘の綻びも、すべて映し出されていた。
第3話
披露宴会場の扉が、再び開いた。
母は足早に佳奈のもとへ駆け寄ると、心配そうに涙を拭ってやった。
そして私を見るなり、責めるように言った。
「佳奈はあなたのために、もう7年も我慢してきたのよ。ただ自分の結婚式を取り戻したかっただけなのに、どうしてわざわざ戻ってきて騒ぐの?」
声が震えた。
「お母さん……じゃあ、心臓が悪いっていうのは全部嘘だったの?3年前、私が智哉と婚姻届を出す約束をしてた日も、急に胸が苦しいって言って、私に病院まで付き添わせたよね。あのときも、私を遠ざけるためだったの?」
すると、佳奈がふっと笑った。
「お姉ちゃん、やっと思い出したんだ」
佳奈はブーケの下から、婚姻届受理証明書と、婚姻届を提出した日の記念写真を取り出した。
写真の中で、佳奈は智哉の肩に寄り添っていた。
二人とも、幸せそうに笑っている。
婚姻届が受理された日付は、3年前、私が母に付き添って病院にいた、まさにあの日だった。
父と兄は二人の結婚を見届け、澄香は写真を撮っていた。
智哉と佳奈は、みんなに祝福されながら正式な夫婦になっていた。
何も知らず、仮病を使っていた母のそばにいたのは、私だけだった。
私は馬鹿みたいに、智哉へ何十通もメッセージを送っていた。
約束した日に妻になれなくてごめんね、と。
母の具合がよくなったら、改めて日を決めて埋め合わせをするから、と。
ずいぶん経ってから、智哉から返信が届いた。
【気にしなくていい。これから先、時間はいくらでもある】
佳奈は婚姻届受理証明書をひらひらさせると、声を上げて笑った。
「お姉ちゃん、その返事も私が代わりに送ったの。あのとき智哉は私を抱いてて、お姉ちゃんのメッセージなんて見る暇なかったから」
大勢の招待客に囲まれたまま、私は全身の感覚がなくなるほど冷え切っていた。
唇を強く噛みしめ、そのまま背を向けて走り出した。
これ以上あの結婚式を見ていたら、胸が痛くて息もできなくなりそうだった。
会場の外に立つと、中から結婚行進曲が聞こえてきた。
震える手で、プロジェクトチームに「参加します」と返信した。
返事はすぐに届いた。
【藤崎さん、海外駐在の申請を正式に受理しました。航空券も発券済みです】
すべてを捨ててここを離れるまで、あと24時間。
本来なら式が終わったあと、私は智哉とそのまま空港へ向かい、新婚旅行へ出発するはずだった。
パスポートも荷物も、すでにブライズルームに置いてある。
私はパスポートをスーツケースにしまい、部屋を出ようとした。
その瞬間、扉が外から勢いよく開いた。
「結月!」
第4話
智哉は息を切らしながら部屋へ駆け込んできた。まるで、もう二度と私に会えなくなることを恐れているようだった。
青ざめた顔で自嘲気味に笑い、何か言おうとしたそのとき、智哉が一粒のミルクキャンディーを私の口に入れた。
7年間、何度も繰り返してきた、いつもの手つきだった。
「その顔色見ろよ。低血糖になるぞ」
濃いミルクの甘さが口いっぱいに広がった。
なのに今は、その甘ささえ苦く感じた。
私が何も言わないでいると、智哉はスーツの上着を脱ぎ、私の肩にかけた。
「運転手に送らせる。ホテルも取ってあるから、しばらくそこに泊まってろ。式が終わったら会いに行く。全部きちんと説明するから」
不意に鼻の奥がつんとした。
愛しているとも、離したくないとも言わなかった。
それでも、こうして無意識に世話を焼く姿を見ると、雨の中でも薬を届けに来て、私が食べ終わるまで帰ろうとしなかった昔の智哉を思い出してしまう。
7年間で染みついた習慣だけは、まだ残っている。
肩にかけられた上着には、智哉の体温がまだ残っていた。
昔は、このぬくもりは私だけのものだと思っていた。
けれど今、彼の妻はもう別の人だった。
そのとき、入口から佳奈の声が聞こえた。
後ろには澄香もいる。
「智哉、本当にここにいたんだね」
佳奈の視線が、まだ私の肩に触れていた智哉の手に落ちた。みるみるうちに、その目に涙がたまった。
「私って、ずっとお姉ちゃんの次なの?まだお姉ちゃんのことを放っておけないんでしょう?だったら私が身を引くよ……」
次の瞬間、智哉は目を赤くしながら佳奈を強く抱きしめた。彼女は涙を浮かべたまま背伸びをし、智哉にキスを求めた。
その瞬間、まるで私のほうが物語に出てくる意地悪な悪役になったようだった。
私は深く息を吸い、必死に涙をこらえた。
私は何も言わず、スーツケースを持って部屋を出ようとした。澄香の横を通り過ぎようとしたとき、彼女がわざと肩をぶつけてきた。
不意を突かれた私はバランスを崩し、背後のローテーブルに強くぶつかって、そのまま床へ倒れ込んだ。
その瞬間、下腹部に引き裂かれるような痛みが走った。
生温かい血が、たちまちスカートを濡らしていく。
床に広がる血を見た智哉の顔色が、一気に変わった。
ほとんど迷うことなくしゃがみ込み、私の身体を支えた。
「結月、どこが痛い?今すぐ病院に連れていく」
その瞬間、智哉の目に浮かんだ動揺だけは、嘘には見えなかった。
けれど私を抱き上げようとしたそのとき、佳奈が突然お腹を押さえて身をかがめた。
「智哉、お腹が痛い……赤ちゃんに何かあったのかな?」
その一言で、智哉の動きが止まった。
父と母はすぐに佳奈を取り囲んだ。
兄が佳奈を抱き上げ、澄香は慌ててエレベーターを呼びに走った。
智哉はほんの一瞬迷ったあと、背を向けて彼らの後を追った。
出ていく直前、智哉は一度だけ振り返った。
「先に佳奈を病院へ連れていく。お前はたぶん生理だろ。帰って休めば大丈夫だから」
すぐに扉が閉まった。
廊下には、彼らが慌ただしく走り去る足音だけが残った。
私は下腹部を押さえながら、どうにか起き上がって助けを呼ぼうとした。
けれど指先がスマホに触れた瞬間、目の前が真っ暗になった。
最後に私を見つけたのは、清掃に入ってきた女性スタッフだった。
血の中に倒れている私を見て、驚いてすぐに救急車を呼んでくれた。
検査結果が出ると、医師は険しい表情で告げた。
「妊娠6週です。切迫流産の兆候があります。まずは入院して、安静にしましょう」
私はぼんやりと天井を見つめた。
智哉のもとを離れようと決めたそのとき、私たちの二人目の子どもが、すでにお腹の中にいたのだ。
それから2日間、私は病室のベッドで過ごした。
毎日注射を受け、薬を飲み、寝返りを打つことさえ怖くて、できるだけ身体を動かさずにいた。
けれど3日目の朝、診察を終えた医師は、しばらく黙ったままだった。
「胎児の心拍が止まっています。残念ですが、今回は助けることができませんでした」
私は泣かなかった。ただ無意識に、そっと下腹部へ手を置いた。
お腹は相変わらず平らで、まるで、この子は最初から来ていなかったかのようだった。
手術前、看護師が同意書を持って病室に入ってきた。
誰もいない病室を見回してから、私に尋ねた。
「ご家族は?お子さんのお父さんも来ていないんですか?」
ちょうどそのとき、スマホにSNSの更新通知が表示された。
佳奈の投稿だった。
写真の中で、佳奈は智哉の腕の中に横たわっていた。
父と母は隣に座り、赤ちゃんの名前を一緒に考えていた。
兄はベビーベッドを買ってきていた。澄香からは、小さなベビーシューズが贈られていた。
投稿には、こう書かれていた。
【心配したけど、赤ちゃんは元気でした。私を愛してくれる家族みんなにありがとう】
彼らは別の病院で、佳奈に2日間ずっと付き添っていた。
それなのに、私のことを気にかける人は一人もいなかった。
看護師が静かに尋ねた。
「もう一度、ご家族に連絡してみますか?」
私は手術同意書の「家族署名欄」を見つめた。
しばらくしてから、看護師の手からペンを受け取った。
「いいえ。私には、家族はいません」
手術が終わると、医師からもう少し入院して休むよう勧められた。
私は首を横に振った。一人でスーツケースを引き、空港へ向かった。
一歩進むたびに、下腹部を鈍い刃物でえぐられるように痛んだ。
搭乗案内が流れたとき、私は家族のLINEグループを退会し、スマホの電源を切った。
24時間のカウントダウンは、その瞬間、ゼロになった。
飛行機が雲を抜ける頃、私を7年間縛りつけていたあの街は、視界の彼方へ消えていった。
10時間後、目的地に到着した。
スマホの電源を入れた途端、画面を埋め尽くすほどの不在着信が並んだ。