記憶を捨てた私は元婚約者の親友に溺愛される

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記憶を捨てた私は元婚約者の親友に溺愛される

GoodNovel 完結

「桜井様、こちらは記憶置換センターでご予約いただいたサービスの同意書です。実行日は2週間後の結婚式当日、方法は記憶催眠、対象者はご本人様でお間違いありません。こちらにご署名ください」 桜井梨花(さくらい りか)は頷き、書類の最後のページに迷いなく署名した。 繁華街を歩きながら、梨花は一人で家へ向かっていた。大通りの向かいにある巨大ビジョンでは、経済チャンネルが氷室凌真(ひむろ りょうま)のインタビューを流していた。 映像の中の彼は、仕立ての良い黒いスーツに身を包み、誰もが息をのむほど洗練されていた。 北央の名士たちの頂点に立つ彼は、「ストイックな男」として知られる一方で、3か月連続で「世界中の女性が抱かれたい男ランキング」の1位に君臨していた。 梨花と7年にわたって人知れず交際してきた彼が、まさかカメラの前で突然、結婚を発表するとは誰も思っていなかった。 たちまちスタジオ中から息をのむ声が上がり、プロ意識の高い女性司会者でさえ、驚きに目を丸くして尋ねた。 「3年前に芸能界を引退した、あのトップ女優の桜井さんですか?」 凌真は笑顔で頷き、カメラに向かって愛情たっぷりに語りかけた。 「梨花、俺が一番苦しかった時期に、そばで支えてくれたのはお前だった。成功を手にしたら、必ずお前に最高の結婚式を贈ると約束したよな」 映像の中の愛情あふれる場面に、通りすがりの若い女性二人が興奮して抱き合い、羨ましそうに声を上げた。 「きゃあっ!氷室社長、桜井さんのことが好きすぎる!」 「氷室社長と桜井さんって、幼なじみでしょ。18歳で待ちきれずに告白して、20歳の時には貯金を全部はたいてルビーのティアラを買い、『お前は永遠に俺のお姫様だ』って言ったんだって。22歳で北央の一等地に邸宅を買って、絶対に裏切らないって誓ったらしいよ。 23歳の時、桜井さんが撮影中にけがをしたら、氷室社長は自分が血液凝固障害を抱えているのに、彼女に輸血するため無理をして命を落しかけたんだって。見事に返り咲いた今も、一刻も早く桜井さんを妻にしたいなんて。この世に、こんな一途な男の人がいるなんて信じられないわ!」

チャプター (1)

第1章

「桜井様、こちらは記憶置換センターでご予約いただいたサービスの同意書です。実行日は2週間後の結婚式当日、方法は記憶催眠、対象者はご本人様でお間違いありません。こちらにご署名ください」 桜井梨花(さくらい りか)は頷き、書類の最後のページに迷いなく署名した。 繁華街を歩きながら、梨花は一人で家へ向かっていた。大通りの向かいにある巨大ビジョンでは、経済チャンネルが氷室凌真(ひむろ りょうま)のインタビューを流していた。 映像の中の彼は、仕立ての良い黒いスーツに身を包み、誰もが息をのむほど洗練されていた。 北央の名士たちの頂点に立つ彼は、「ストイックな男」として知られる一方で、3か月連続で「世界中の女性が抱かれたい男ランキング」の1位に君臨していた。 梨花と7年にわたって人知れず交際してきた彼が、まさかカメラの前で突然、結婚を発表するとは誰も思っていなかった。 たちまちスタジオ中から息をのむ声が上がり、プロ意識の高い女性司会者でさえ、驚きに目を丸くして尋ねた。 「3年前に芸能界を引退した、あのトップ女優の桜井さんですか?」 凌真は笑顔で頷き、カメラに向かって愛情たっぷりに語りかけた。 「梨花、俺が一番苦しかった時期に、そばで支えてくれたのはお前だった。成功を手にしたら、必ずお前に最高の結婚式を贈ると約束したよな」 映像の中の愛情あふれる場面に、通りすがりの若い女性二人が興奮して抱き合い、羨ましそうに声を上げた。 「きゃあっ!氷室社長、桜井さんのことが好きすぎる!」 「氷室社長と桜井さんって、幼なじみでしょ。18歳で待ちきれずに告白して、20歳の時には貯金を全部はたいてルビーのティアラを買い、『お前は永遠に俺のお姫様だ』って言ったんだって。22歳で北央の一等地に邸宅を買って、絶対に裏切らないって誓ったらしいよ。 23歳の時、桜井さんが撮影中にけがをしたら、氷室社長は自分が血液凝固障害を抱えているのに、彼女に輸血するため無理をして命を落しかけたんだって。見事に返り咲いた今も、一刻も早く桜井さんを妻にしたいなんて。この世に、こんな一途な男の人がいるなんて信じられないわ!」 第1話 その言葉を聞き、梨花は皮肉な笑みを浮かべた。 誰もが、学生時代から結婚まで続く二人の恋に羨望の眼差しを向け、凌真が彼女を心から愛していると信じて疑わなかった。 だからこそ、そんな男が血の繋がらない姪の涼宮瑠奈を愛し、梨花に隠れて5年間も秘密の関係を続けていたなど、誰一人として想像すらできないだろう。 彼が「会社の用事だ」と言って出ていった無数の夜が、実は瑠奈と身体を重ねていたと知った時、梨花の心は鋭い刃物で切り裂かれ、血まみれになったように痛んだ。息もできないほどの苦しみだった。 真実を知ったあの夜、梨花は胸が張り裂けるほど傷つき、涙が枯れるまで泣いた。 ふと、7歳の頃、初めて冷ややかな雰囲気をまとった凌真に出会い、恋に落ちた日のことを思い出した。 15歳になると、梨花はどこまでも彼の後をついて回ったが、彼の態度はいつも冷たかった。 18歳の時、凌真の実家が破産し、両親は借金を苦にビルから飛び降りた。薄暗く湿ったアパートの一室で、少年は手首にナイフを押し当てていた。 その瞬間、梨花が部屋のドアを押し開けたのだ。 それから彼女は彼の莫大な借金をすべて返済し、女優として絶頂期にあったにもかかわらず芸能界を引退してまで、彼の再起を支えた。 彼が不安そうに「どうして俺を好きになったんだ」と何度尋ねてきても、梨花の脳裏に浮かぶのは、彼が身を挺して自分を守ってくれた記憶ばかりだった。 中学生の頃、不良たちに路地裏で囲まれた時、彼は梨花を助けるために片腕を骨折し、大好きだったフェンシング部を辞めることになった。高校3年の冬合宿では、スキー場を雪崩が襲い、彼は梨花をかばって肋骨を2本折る大けがを負い、3か月もの間、病院のベッドから起き上がれなかった。 交際を始めた日、彼は先祖代々伝わるブレスレットを梨花の腕に通し、「これから先の人生はお前だけと一緒にいたい。絶対に裏切らない」と誓った。そして、「あと3、4年だけ待ってくれ。必ず幸せにするから。頼むから、絶対に俺から離れないでくれ。お前がいなくなったら、俺はおかしくなってしまう」と懇願した。 苦楽を共にした7年間、梨花は凌真を世界のすべてだと思い、全身全霊で愛を注いだ。 彼も自分を命がけで愛していると信じていたのに、まさかこんな残酷な裏切りが待っているとは思いもしなかった。 自分から愛を告げ、絶対に離れないでくれと言ったのは彼なのに、先に裏切ったのも彼だった。 それなら、過去を断ち切り、彼の記憶を自分の中から完全に消し去って、新しい身分で生き直すしかない。彼が二度と自分を見つけられないように。 梨花が手を伸ばして頬の涙を拭い、その場を離れようとした時、1台の黒いマイバッハが突然、彼女のそばに停まった。 ドアが開き、新品の濃紺のスーツを身にまとった凌真が降りてきた。袖口のカフリンクスが、陽の光を浴びて冷たい輝きを放っていた。 梨花に気づくと、彼は穏やかな笑みを浮かべ、足早に近づいてきた。 「梨花、テレビ局で待っていてくれって言ったじゃないか。インタビューが終わったら、婚約指輪を選びに行く約束だっただろ?どうして一人でこんなところまで来たんだ?」 凌真はそう言いながら彼女の手を取り、その体がすっかり冷え切っていることに気づくと、慌ててスーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩に掛けた。 「指先がこんなに冷たいのに、上着も着ないで。風邪でも引いたら、心配で俺がどうにかなりそうだ」 梨花は答えず、ただ静かに彼を見つめた。彼の目に浮かぶ不安と深い愛情は、決して演技には見えなかった。だからこそ、命がけで自分を愛してくれたはずのこの男が、なぜ自分を裏切ったのか、梨花にはどうしても理解できなかった。 梨花は一言も発しないまま、凌真に有無を言わせず抱き寄せられ、車へと連れていかれた。 宝石店の前に着き、梨花が車から降りると、待ち構えていた店長が恭しく出迎えた。その目には、隠しきれない羨望の色が浮かんでいた。 「桜井様、氷室様が特注された3万7000個のダイヤモンドをご用意しております。婚約指輪にはどのデザインがお好みか、どうぞご覧ください。残りのダイヤモンドは、一枚の絵画に仕立ててご自宅へお届けいたします」 20歳の頃、凌真の宿敵が37個のダイヤモンドで梨花を買収しようとしたことがあった。彼女はためらうことなく、それを拒絶した。 凌真に理由を尋ねられると、梨花は微笑んで答えた。 「あの人はあなたの宿敵でしょ。私を買収しようとしているのは、あなたを陥れるために決まってる。あなたを傷つけるようなことをするはずがないわ」 凌真は低く笑った。 「37個なんて、俺じゃお前には贈らないよ」 「あなたに出会えただけで、もう十分幸せだと言ったでしょ」 梨花は無邪気に笑った。 「だから、たとえ目の前に3700個のダイヤモンドを積まれても、私は絶対にあなたを裏切らないわ」 凌真は梨花をまっすぐ見つめた。夜のように深い瞳は、何もかも呑み込んでしまいそうだった。 梨花が言葉を失っているのを見て、店長が笑顔で言葉を添えた。 「桜井様、あまりの喜びに呆然としてしまわれたのですね!」 梨花は答えず、ただ背後にいる凌真へ視線を向けた。彼はスマホを手に何かを見つめており、その目には隠しきれない温もりが満ちていた。 そんな眼差しは、瑠奈に向ける時にしか見せないものだった。 梨花の視線に気づくと、凌真は慌ててスマホをしまい、少し申し訳なさそうな顔で歩み寄ってきた。 「梨花、ごめん。会社で急な用事ができて、今すぐ戻らなきゃならない。運転手はここで待たせておくから、指輪を選び終えたら家まで送ってもらってくれ」 そう言うと、彼は梨花の額にそっとキスを落とし、振り返ることもなく別の車に乗り込んで慌ただしく去っていった。 その場には、梨花一人だけが取り残された。 店長は大きなピンクダイヤモンドをうやうやしく差し出し、梨花の前へ進み出た。 「桜井様、こちらはいかがでしょうか。氷室様が幾度も海を越え、熱意をもって競り落とされた逸品でございます。世界にただ一つ、永遠に色褪せることのない一途な愛の象徴でございます」 この指輪が二人にとってどれほど皮肉な意味を持つのか、知っているのは梨花だけだった。 梨花は視線を戻し、静かに首を横に振った。 「どれも要りません」 どうせ2週間後の結婚式で、彼を待っているのは「死んだ」桜井梨花なのだから。 第2話 帰りの車に乗り込むと、ほどなく梨花のスマホが鳴った。画面には、頻繁に凌真と瑠奈の親密な写真を送りつけてくるアカウントが表示されていた。梨花は深く息を吸い込み、数秒ためらった後、通話ボタンを押した。 電話の向こうからは騒々しい音が聞こえ、続いて凌真の友人たちのふざけた声が響いた。 「一途さじゃ、やっぱり氷室の右に出るやつはいないよな!あのトップ女優の桜井を放っておいて、自分の姪っ子を10年間、変わらず愛し続けてるんだから」 「桜井は北央一の美人だし、言い寄る男なんて掃いて捨てるほどいるだろうに。何年もお前の後を追いかけてきたのに、少しも心が動かなかったのか?」 「全くだよな。でも、二人の女を同時に手に入れて楽しめるのは氷室くらいだ。好きにすりゃいいが、隠し事はいつかばれるぞ。火遊びが過ぎて、自分が火傷しないようにな」 凌真の口調には、明らかな自信と傲慢さがにじんでいた。 「安心しろ。そんな日は永遠に来ない!」 「いやあ、氷室って冷たそうに見えて、実はすげえ一途な男だよな。一生、瑠奈ちゃんだけを愛するんだってさ。ほら、さっきだって瑠奈ちゃんが腹が痛いって言っただけで、抱きかかえてスイートルームに連れて行ったし……」 梨花はスマホを強く握りしめ、目を閉じた。胸の奥に広がる無数の刺すような痛みを、必死に押さえ込んだ。 これだけの裏切りを目の当たりにしてきたのだから、痛みにはもうすっかり慣れてしまったはずだった。 しかし彼の言葉は一本の棘のように、梨花の心の最も柔らかな場所へ深く突き刺さり、息もできないほど痛んだ。 梨花は車を降りて一人で外を歩き回り、一晩中、冷たい風にさらされた。夜が明けると、弁護士に連絡し、財産寄付契約書の作成を依頼した。 凌真が起業した時の初期資金は、梨花が提供したものだった。北央一の資産家である桜井家が資金面で後ろ盾になったからこそ、彼は北央で急速に地盤を固め、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長できたのだ。 凌真は何度も、「お前が望むなら、俺のものはすべて持っていっていい」と言っていた。 今、梨花が望んでいるのは、本来自分のものだった分を取り戻すことだけだった。 その使い道についても、すでに児童基金の担当者と話をつけてあった。金は直接、基金の口座へ振り込まれるよう手配していた。 署名を終えた直後、邸宅の玄関から物音がし、凌真が帰宅した。 梨花が財産寄付契約書を差し出して署名を求めようとした矢先、凌真が一歩先に彼女の手首を強くつかんだ。普段は冷静沈着な彼の顔には、これまで見たこともないような動揺と焦りが浮かんでいた。 「梨花、瑠奈が昨夜から体調を崩して、病院で診てもらったら白血病だと分かった。すぐに骨髄移植が必要なんだ。骨髄バンクで適合したのはお前だけだった。瑠奈を助けるために、骨髄を提供してくれないか」 一睡もしていなかった梨花は、思考が少し鈍っていた。 凌真は、彼女が承諾しないのだと思ったのだろう。凍てつく星空のような瞳に、懇願の色を浮かべた。 「俺の型が合わなかったからだ。もし俺が適合していれば、お前にこんな苦しい思いはさせない。 瑠奈は幼い頃に両親を亡くして、身内は俺しかいない。見捨てるわけにはいかないんだ。お前たちはずっと仲がよかっただろう?見殺しにはできないはずだ。瑠奈を助けてくれるなら、お前が望むものは何だってやる」 梨花は急に光を失った目を伏せ、胸の奥から込み上げる苦しさを押し殺し、掠れた声で尋ねた。 「本当に何でもしてくれるの?あなたのすべてでも?」 凌真は迷いなく答えた。 「ああ!」 すべてを手放し、ここを去り、彼を過去の記憶として消し去る決心はついていた。 それでも、凌真が瑠奈のためにここまでするのだと自分の耳で聞いた瞬間、梨花の胸には鋭い痛みが走った。 どうやら彼は、本当に瑠奈を骨の髄まで愛しているらしい。 彼女のためなら、すべてを投げ出す覚悟があるのだ。 梨花が何かを言おうとしたその時、病院から再び電話が入り、瑠奈が激しい痛みに苦しんでいると告げられた。 その瞬間、凌真の顔色が一気に青ざめ、目を赤くして懇願するような視線を梨花に向けた。緊張のあまり、声まで震えていた。 「梨花、瑠奈に骨髄を提供してくれるなら、俺の命だって差し出す」 そう言うが早いか、凌真は拒む暇も与えず、梨花を無理やり車に乗せて手術台へ送り込んだ。 意識がはっきりしたまま、冷たいメスが皮膚を切り裂くのを感じた。痛みは皮膚から骨髄へと染み渡り、胸は鋭い刃でえぐられたように息が詰まるほど痛んだ。それでも梨花は唇を噛みしめ、痛みに耐えるしかなかった。やがて意識が少しずつ遠のいていった…… 再び目を覚ますと、そこは冷え切った病室で、周囲には誰一人いなかった。 梨花はベッドに横たわっていたが、胸の傷口が焼けつくように痛んだ。 ドアの外から、看護師たちのひそひそ話が聞こえてきた。 「あの男の人、すごくかっこいいし、彼女にもすごく優しいよね……」 「そうそう、もう容体は落ち着いてるのに、あんなに心配してさ。三日三晩、ベッドのそばで一睡もしていないらしいよ。それに比べて304号室の人なんて、骨髄を提供したばかりで麻酔も切れていないのに、誰も来ないなんて……」 梨花は点滴の針を引き抜き、壁づたいに一歩ずつ廊下へ進んだ。 案の定、VIP病室の入り口には凌真の姿があった。 凌真は薬を少し冷まし、一口ずつ瑠奈に飲ませていた。 瑠奈が薬の苦さを嫌がると、凌真は甘い声でなだめ、ドライフルーツを口に含ませてから、彼女の口元にキスをした。 その姿からは、隠そうともしない彼女への溺愛が浮かんでいた。 梨花はゆっくりと壁に寄りかかり、目元を濡らした。 自分でも理解できなかった。彼にはもう完全に見切りをつけたはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか。まるで誰かが鈍い刃物で、少しずつ自分の肉をえぐっているかのようだった。 梨花はそれ以上見ていられず、逃げるようによろめきながら、その場を離れた。 第3話 3日間の療養を経て、梨花は一人で退院手続きを済ませた。 家に戻ると、リビングのローテーブルに置かれたままの財産寄付契約書が目に入った。そこには氷室グループの株式50%が含まれている。かつて凌真が彼女に約束したものだった。 背後のドアが開き、入ってきた凌真は梨花を見て驚き、わずかに目を見開いた。 「梨花、退院したならどうして知らせてくれなかった?迎えに行ったのに」 その言葉を聞き、梨花は自嘲気味に唇の端をつり上げたが、淡々と答えた。 「忙しいのは分かっていたから、こんな些細なことで邪魔したくなかったの」 凌真は、彼女の様子がどこかおかしいと感じたが、それが何なのかは分からなかった。 彼はネクタイを緩め、梨花の腰を抱き寄せてキスをしようと身をかがめた。だが、梨花は顔色一つ変えず、さりげなく身をかわした。 凌真は眉をひそめた。入院中の数日間、彼女に付き添えなかったことを思い出し、少し罪悪感のにじんだ声で言った。 「悪かった。この数日、会社で急なトラブルがあって、すぐにお前を気にかける余裕がなかった。怒って殴っても罵ってもいい。だから、無視だけはしないでくれ」 彼は有無を言わせず梨花を抱き寄せた。その体からは、かすかな香水の匂いが漂っていた。 この香りは、瑠奈からしか嗅いだことがないものだった。 梨花の胸を無数の針がちくちくと刺した。彼女は、深い愛情を浮かべた凌真の顔をじっと見つめ、今までこの男の本当の姿を少しも理解していなかったのだと思い知らされた。 凌真が再び身をかがめてキスをしようとした瞬間、梨花は嫌悪感を隠さず彼を押しのけ、2階へ向かいながら力のない声で言った。 「疲れたの。少し休ませて」 凌真は、去っていく梨花の背中を見つめ、眉をひそめた。 梨花の態度の変化に気づいた凌真は、言い知れぬ不安に駆られ、彼女のそばを片時も離れず見守ることにした。 梨花が目を覚ますと、思いがけず凌真が彼女の手を握っているのが見えた。 彼女がまだ眠たそうにしているのを見て、凌真は甘やかすようにその頭を撫で、唇の端に笑みを浮かべた。 「半日も寝てたんだから、起きて少し体を動かした方がいい。これ以上寝ると頭が痛くなるぞ」 凌真は腕の中の梨花に口づけ、優しい声で言った。 「梨花、瑠奈に骨髄を提供してくれた礼に、氷室グループ傘下のデパートに連れて行ってやる。欲しいものは何でも買ってやるから、どうだ?」 「いらない。欲しいものなんて何もないわ」 梨花は財産寄付契約書を取り出し、最後のページを開いて凌真の前に差し出した。 「お礼をしてくれるなら、ここにサインして。今、私が欲しいのはこれだけよ」 梨花が自分から何かを求めるのはこれが初めてだったため、凌真の瞳に驚きの色が走った。 凌真は書類をめくりながら尋ねた。 「お前がこんなに興味を持つなんて、一体何なんだ?まあ、何だって構わないさ。お前の欲しいものなら、全部買ってやるよ!」 凌真が書類に目を通そうとしたその時、ローテーブルに置かれたスマホが鳴った。 【おじさま、まだ来ないの?デパートで待ってて、足が痺れちゃったよ】 甘ったるい瑠奈のメッセージを目にして、梨花は悟った。凌真は今日、瑠奈をデパートに連れて行くつもりだったのだ。先ほどのわざとらしい誘いは、ただ愛情深い恋人という体裁を保つためだけのものにすぎなかった。 【今すぐ行く!】 凌真はそう返信すると、書類の中身もろくに見ず、素早く署名した。立ち去り際、彼は梨花の頬に優しくキスを落とし、なだめるように言った。 「大人しく家で待っていてくれ。瑠奈の買い物が終わったら、すぐに帰ってきてお前のそばにいるから。あいつはまだ若くて大病の療養中なんだ、少し譲ってやってくれ」 梨花が口を挟む隙もなく、凌真は待ちきれない様子で車を走らせ、出ていった。 梨花は目を閉じ、ありったけの自制心を振り絞って、胸に込み上げる痛みを押し殺した。 ええ、譲ってあげるわ。あなたごと、すべて瑠奈に譲ってあげる。 案の定、凌真はその夜、朝まで帰ってこなかった。 ただ形式的に、短いメッセージが送られてきただけだった。 【梨花、今夜は会社で会議があるから帰れない。先に休んでくれ】 深夜3時、あの番号から再び写真が送られてきた。瑠奈が凌真の胸に顔を埋め、すやすやと眠っている写真だった。 梨花は唇を噛みしめ、その写真を何度も何度も見返した。 翌朝、帰宅した凌真は、目を真っ赤に腫らし、スマホを握る手の関節が白くなるほど力を込めている梨花の姿を見た。 凌真の心臓が大きく跳ね、彼は慌てて歩み寄り、梨花を抱きしめた。その声には、明らかな緊張がにじんでいた。 「梨花、どうして泣いてるんだ?」 泣いている? 梨花ははっとして凌真を見上げ、遅れて自分の頬に湿り気があることに気づいた。 しばらくして、梨花は静かに笑ったが、その笑顔は瞳の奥の深い悲しみを隠しきれていなかった。 「何でもないわ。ただ、胸を打つ写真を見ていただけ」 凌真は親指の腹で梨花の目元の涙を拭い、甘やかすように言った。 「どんな写真を見たら、こんなに泣くんだよ。俺が心配でどうにかなりそうじゃないか?」 彼は心を痛めたように梨花の額へキスをし、抱きしめる腕に力を込めた。かけがえのない宝物を抱くように、いっそ自分の血肉に溶かしてしまいたいとでもいうように。 彼のキスは強引で性急だった。梨花が息も絶え絶えになるまでキスを続け、ようやく唇を離した。 梨花は息を乱しながら慌ててうつむき、衣服を整えた。最後には手の甲で口元を強く拭った。まるでひどく汚れたものにでも触れられたかのような拒絶の態度だった。 凌真はそれを見て眉をひそめた。彼が口を開こうとした瞬間、執事が開け放たれたドアをノックし、恭しく告げた。 「旦那様、お車のご用意が整いました」 凌真は短く返事をすると、再び梨花を腕の中へ引き寄せ、唇の端に信じられないほど優しくキスをした。 「昨夜は悪かった。お前を一人で家に置いてしまって。今からオークションに連れて行く。欲しいものは何でも俺が買ってやるから、機嫌を直してくれ」 梨花が何も答えないのを見て、凌真はそれを同意だと受け取った。自ら彼女の服やアクセサリーを選び、最後には膝をついて、イタリアの職人が手作りしたクリスタルのハイヒールを履かせた。 第4話 オークション会場は、市の中心部にある最高級ホテルに設けられていた。 クリスタルのシャンデリアがホールを昼間のように明るく照らし出し、着飾った名士や権力者たちが談笑していた。 梨花が会場に足を踏み入れるとすぐに、ホールの中央で人々に囲まれ、ちやほやされている瑠奈の姿が目に入った。瑠奈は白いプリンセスドレスを着て、栗色の長い髪を頭の高い位置でまとめ、数人の令嬢たちと楽しそうに笑い合っていた。いかにも純真無垢な様子だった。 瑠奈を見た瞬間、凌真の目の色がさっと変わった。 凌真はまだ梨花の隣に立っていたが、その意識のすべてが瑠奈に向いていることを、梨花ははっきりと感じ取った。 「おじさま!」 瑠奈はお二人に気づくと、すぐに小走りで近づき、親しげに凌真の腕へ絡みついた。 「おじさま、どうしてこんなに遅かったの?もうすぐオークションが始まっちゃうよ!」 凌真は眉をひそめて腕を引き抜き、無意識に梨花の反応を窺った。 梨花がまったく動じていないのを見て、凌真の心に一瞬、焦りが走った。 彼が何か言おうとした矢先、瑠奈はまるで今初めて梨花に気づいたかのように大げさに喜び、梨花の手を握った。 「梨花さん、私に骨髄を提供してくださって、本当にありがとうございました。手術のあと、拒絶反応でこの数日どれだけ苦しかったか、ご存じないでしょう!頭がふらふらして、夜は悪夢ばかり見て…… でも、おじさまがずっとそばにいてくださったから助かりました。この間、おじさまが私にかかりきりで梨花さんを放っておいたからって、どうか怒らないでくださいね!」 瑠奈の言葉の端々に隠された挑発に気づきながらも、梨花は淡く微笑んだ。 「まさか、怒るわけないでしょう?お二人は叔父と姪なのですから。身寄りのないあなたの面倒を見るのは、当然でしょう」 手応えのない返事に、瑠奈の表情は一瞬こわばったが、すぐに元へ戻った。 「梨花さんなら絶対に怒らないって分かってました!これ、おじさまが私にくださったティアラなんですけど、可愛いでしょう? 私が何気なく『欲しい』と言っただけなのに、おじさまはわざわざ海外まで飛んで、高値で競り落としてくださったんです。昔、梨花さんに贈ったものと同じで、ある国王が王妃に贈った愛の証なんですって!」 その王は二人の王妃にティアラを贈った。一人は王宮を追われた元王妃で、もう一人は新たに寵愛された王妃だった。 瑠奈が暗に何を言おうとしているのか、梨花にははっきり分かっていた。それでも、まるで聞こえなかったかのように、冷たく手を引き抜いた。 瑠奈はたちまち目を赤くし、凌真の袖を引っ張って涙声で訴えた。 「おじさま、私、何か悪いことを言いましたか?未来の叔母様と仲良くなりたかっただけなのに、まさかこんな……」 凌真は眉をひそめ、梨花に向ける視線にわずかな冷たさをにじませた。 ちょうどその時、オークショニアが開始を告げ、会場の気まずい空気はなんとか断ち切られた。 梨花は二人に一瞥もくれず、まっすぐ席についた。今日のオークションには、母が彼女に遺した最高級の沈香で作られた数珠が出品されていた。かつて凌真の事業を支えるため、梨花はやむを得ずそれを財力のある収集家に売却していた。 その後、凌真が兆単位の資産を築くと、彼は何度も梨花のために母の遺品を買い戻そうとした。30倍もの高値を提示しても、その収集家は首を縦に振らなかった。 それが今、ようやく公開オークションにかけられ、梨花にも買い戻す機会が巡ってきたのだった。 梨花を喜ばせようと、凌真は彼女がまったく興味を示さない宝石や骨董品でさえ、次々と高値で競り落としていった。 愛する女のために一切金に糸目をつけないその豪快な振る舞いは、瞬く間に会場中の注目を集め、多くの人が梨花に羨望や嫉妬の目を向けた。 瑠奈の眼差しも、最初の見下したようなものから、戸惑いと探るような色へ変わっていった。 凌真は、これだけの品物を競り落とせば梨花も喜ぶだろうと思っていた。だが、予想に反して彼女の表情は平然としたままだった。莫大な価値のある品々も、彼女の目にはただの石ころにしか見えないようだった。 微笑み一つ見せない梨花に、凌真は戸惑い、気遣う言葉をかけようとした。その時、梨花の瞳がふいに輝いた。 彼女の視線を追い、凌真はステージへ運ばれてきた出品物を見た。 沈香の数珠。開始価格は2億円。 凌真の目が動き、パドルを上げようとした瞬間、瑠奈が突然、感嘆の声を上げた。 「あっ!あれは、伝説の高僧が生涯の修行のすべてを込めたと噂される数珠ではありませんか?身につければ仏の加護を受け、厄災を免れるそうですよ」 そう言って、瑠奈はすがるような目で凌真を見つめ、彼の腕を揺さぶった。 「おじさま、もし私があれを持っていたら、毎晩悪夢にうなされずに済むかもしれません!」 瑠奈が数珠を欲しがっているのを見て、凌真はほんの一瞬だけためらった。だがすぐに、甘やかすような表情で言った。 「君が喜ぶなら、欲しいものは何でも買ってやるよ!」 第5話 梨花は2人の会話を耳にして、怒りのあまり指の関節が白くなるほど強く拳を握りしめ、体の震えを止めることができなかった。 この最低な2人は、どこまで厚顔無恥なのだろうか。 財力で凌真に敵わないことは百も承知だったが、それでも彼女は迷うことなくパドルを挙げた。 「3億円」 「6億円」 瑠奈が気怠げな態度ですぐさま続いた。 彼女は赤い唇の端を吊り上げ、まるで勝利を確信しているかのように振る舞った。 瑠奈は梨花に視線を向け、微笑みかけた。 「梨花さん、私もこれが気に入っちゃって。私に譲ってくれても構いませんよね?だって、この界隈で、おじさまよりお金持ちな人なんていないんですから」 梨花は冷笑した。当然、彼女の財力では凌真には及ばない。 しかし彼女は賭けたかった。凌真が瑠奈のために理性を失うことはないと賭けたかったのだ。 「10億円」梨花は再びパドルを挙げた。 「20億円!」 「30億円!」 …… 最終的に、凌真は直接手で合図を送った。 オークショニアは興奮してハンマーを叩き、激昂した声で叫んだ。 「青天井です、氷室社長から金額無制限の提示が出ました!氷室様、本品の落札おめでとうございます!」 会場はどよめきに包まれた。 「氷室社長、今日の出品物は全部桜井さんのものにするって豪語してたよな?どうして突然彼女と競り合いを始めたんだ?もうすぐ結婚するんじゃないのか?」 「なんでも、彼が小さい頃から育ててきた姪っ子のためらしいよ。社長はその姪を溺愛してて、目に入れても痛くないほど大事にしてるんだって。社長の心の中じゃ、婚約者だって彼女には敵わないらしいぜ」 「姪っ子なんてただの建前で、もしかしたらとっくに……」 「どうやら涼宮さんも、もうすぐ玉の輿に乗るみたいね」 周囲の噂話を聞きながら、瑠奈の驚いたような顔は、やがて露骨な優越感へと変わっていった。完全に勝ち誇ったその視線は、梨花をまるで汚物か何かのように見下していた。 凌真は立ち上がり、まず瑠奈を一瞥してから梨花に向き直り、諭すように言った。 「梨花、ここにある他の出品物は全部お前のものにすると約束する。誰も横取りはしない。ただ……これだけは別だ。瑠奈の体が弱くて、悪夢にうなされているのは知っているだろう。この数珠はあいつに譲ってやってくれないか?」 梨花は両手をギリギリと強く握りしめた。瞳に薄く涙の膜が張り、彼を真っ直ぐに見つめるその目には、果てしない失望が滲んでいた。 彼女は目を赤くし、悲しみと怒りで声を震わせた。 「分かってるの?これは私の母の……」 凌真は彼女のその姿を見て思わず眉をひそめ、スーツのポケットからブラックカードを取り出すと、苛立たしげに言った。 「お前はもうすぐ瑠奈の叔母になるんだぞ。たかが数珠の1つくらい、譲ってやったっていいだろ。 カードはやる。欲しいものは何でも買えばいい。だが、瑠奈が気に入ったものは瑠奈のものだ!」 そう言うと、彼は怒りに任せてブラックカードを梨花の足元に投げ捨て、振り返ることもなくその場を立ち去った。 続いて傍らにいた瑠奈も立ち上がり、勝ち誇ったような冷笑を浮かべて梨花を見下ろした。 「ねえ、梨花さん。これで身の程が分かったかしら?あんたが私に勝てる見込みなんて、最初から一ミリもないのよ」 梨花はその言葉に全身が凍りつくのを感じ、ただじっと背筋を強張らせていた。 「自分が何をしてるか分かってるの?あなたたちは叔父と姪なのよ!」 瑠奈は冷笑した。 「私とおじさまには血の繋がりなんて少しもないわ。一緒にいちゃいけない理由なんてある? 本当のことを教えてあげる。おじさまが私を氷室家に連れてきた時から、私の心にはおじさましかいないの。この気持ちが薄れたことなんて一度もないわ。 結局のところ、私たちの間に割り込んだ邪魔者はあんたなのよ。身の程をわきまえてるなら、さっさと身を引きなさい!」 そう言い残し、瑠奈はハイヒールを鳴らして得意げに立ち去っていった。 すべての人が去った後、梨花はようやく強く握りしめていた手を緩めた。爪が深く肉に食い込み、手のひらには血が滲んでいた。 しかし彼女は痛みなど感じていないかのように立ち上がり、外へと歩き出した。 ホテルのエントランスに出ると、焼けつくような日差しが細い針のように体に降り注ぎ、ひりひりとした痛みを伴った。 少し歩いたところで、梨花は胸元に鋭い痛みを感じた。そこで初めて、胸の傷口が開いて血が滲み出ていることに気づいた。 眩しい日差しに目がくらみ、痛みのせいで額には大粒の汗が浮かんでいた。 その時、見慣れた人影が現れた。遠くからこちらを一瞥すると、足早に近づいてきて、倒れそうになる梨花の体を支えた。 「桜井さん?」 男は彼女の顔色が真っ青なのを見ると、身をかがめて彼女を抱き上げ、涼やかな声に少しの焦りを滲ませた。 「少し我慢してください。今すぐ病院へお連れします」 梨花はその聞き覚えのある声を聞いて顔を上げ、やって来たのが凌真の親友である九条朔空(くじょう さくあ)だと気づいた。 彼女は途端に安堵の息を漏らした。 朔空が彼女を慎重に後部座席に寝かせ、運転席に回り込もうとした時、1台の黒いマイバッハが突然彼らの前に停まり、狂ったようにクラクションを鳴らした。 梨花は首を巡らせて視線を向けた。 車内の凌真は恐ろしいほど顔を曇らせており、彼女に向ける視線は氷のように冷え切っていた。 第6話 凌真は一言も発することなく車を降り、梨花を抱き寄せようとした。朔空が無意識に腕を伸ばして制止しようとしたが、凌真に力強く突き飛ばされ、車のドアに背中を打ち付けた。 朔空は低い呻き声を漏らしたが、何も言わず、漆黒の瞳で顔面蒼白の梨花を緊張した面持ちで見つめた。 凌真は梨花を自分の車に抱き入れ、乗り込む前に朔空を鋭く睨みつけて警告することを忘れなかった。彼特有の低い声には、ぞっとするような冷気が満ちていた。 「いいか、これ以上俺の女に近づくな。もし妙な気を起こすようなら、お前との20年の付き合いもここまでだ」 凌真は梨花を腕の中にきつく抱きしめ、冷ややかな声で運転手に車を出すよう命じた。 助手席に座っていた瑠奈は、その光景を目の当たりにしてさっと顔から血の気を失い、表情を醜く歪ませた。瞳の奥には深い嫉妬と憎悪が渦巻き、爪を手のひらに深く食い込ませた。血が滲むほどの痛みを感じて、ようやく彼女は手を離した。 どれほどの時間が経ったのか、聞き慣れた声が梨花を昏睡から呼び覚ました。 ぼんやりと目を覚ますと、目の前に広がる光景が、まだ覚醒しきれていない脳に再び強烈な打撃を与えた。 瑠奈が凌真の腕の中にすっぽりと収まり、彼と熱烈にキスを交わしていた。 「おじさま、私が梨花さんの数珠を奪っちゃったからいけないの。彼女、悲しみのあまり他の男の人と……とにかく全部私のせいだから、絶対に梨花さんを怒らないでね」 凌真は息を乱しながら、なだめるように瑠奈の肩を叩き、信じられないほど優しい声で言った。 「お前は何も悪くない。梨花はすべてを手に入れているのに、まだ満足できないんだ。たかが数珠の1つさえお前に譲ろうとしないなんて、俺が甘やかしすぎたせいだ」 凌真の口調には、ひどい失望がにじんでいた。彼にとっては取るに足らないただの数珠だろう。それが彼女の母の遺品であることも、「お前のために買い戻す」と何度も繰り返したかつての約束も、彼の記憶からは完全に消え失せていた。 彼が与えてくれた山のような贈り物の数々。だが、彼女が本当に欲しかったものは、その中には何一つ存在しなかったのだ。 梨花が目を覚ましたことに気づくと、瑠奈は弾かれたように凌真の腕の中から飛び退いた。 梨花は淡々とした視線で2人を一瞥した。衣服は乱れ、瑠奈の唇は赤く腫れて端が切れていた。凌真の首筋にはうっすらと赤いキスマークが残っており、先ほどの狂態を如実に物語っていた。 梨花は胃の奥からこみ上げてくる吐き気を覚えた。 どこまでも浅ましい、吐き気のするクズどもだわ。 その時、瑠奈がベッドの前に飛びつき、心配そうな表情を取り繕った。 彼女の瞳に一瞬だけ浮かんだ得意げな光を見たのは、梨花だけだった。 「梨花さん、今回は私が悪かったわ。ぶっても罰してもいいから許して」 瑠奈は涙ぐみながら口を開いた。まるで骨髄を提供したのも、母の遺品を奪われたのも自分であるかのような顔をしている。 梨花は手を振り払い、彼女をじっと見つめて冷たく笑った。 「そんなに演技がお上手なら、芸能界に入らないのは宝の持ち腐れね」 瑠奈はたちまち涙をこぼし、ひどく理不尽な仕打ちを受けたかのような顔で凌真を見上げた。 「ごめんなさい、おじさま。私、最初から来るべきじゃなかったのね」 そう言うと、彼女は最後に凌真を一瞥し、唇を噛みしめ、悲しみに打ちひしがれた様子で背を向けて走り去っていった。 凌真は無意識に後を追おうと足を踏み出したが、無理やりその場に留まった。 彼は梨花の顔色の変化に気づくことなく、彼女の手を握り、少し申し訳なさそうに言った。 「梨花、あの数珠には少し傷があって、お前にはふさわしくないんだ。今度もっといいものを買ってやるから、機嫌を直してくれ」 その言葉を聞いて、梨花は声もなく笑った。 昔は、彼女が望むものなら何であれすべてを与えてくれたのに。今では別の女のために彼女の望みをことごとく拒絶し、彼女の母の遺品を使ってその女の歓心を買おうとしている。 体だけでなく、どうやら彼の心まで完全に別の女のものになってしまったらしい。 あるいは、最初から凌真の真心など得ておらず、過去のすべては彼の芝居に過ぎなかったのかもしれない。 梨花は顔を背けて窓の外を見やり、少し疲労の滲む声で言った。 「もういい、いらないわ」 凌真の表情が一瞬こわばった。 それはどういう意味だ? まさか、俺と瑠奈の関係をすべて知ってしまったのか? あり得ない。俺は完璧に隠し通している! 彼は心の内の焦りを無理やりねじ伏せ、低い声で言った。 「梨花、ここ数日は瑠奈が手術を終えたばかりで体が弱っていたから、少し多めに世話を焼いただけだ。気にしないでくれ。 あと1週間で俺たちの結婚式だ。お前を必ず……」 梨花は何も答えず、ただ顔を背けたまま、窓の外に視線を落としていた。 これ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。 7日後の結婚式に現れるのが、「死んだ」花嫁だけだということを知っているのは、彼女ただ一人だった。 第7話 丸3日間、凌真は片時も離れずに梨花のそばに付き添っていた。 退院の日、彼が車で彼女を自宅まで送り届けると、何やら理由をつけて慌ただしく出かけていった。 間もなくしてスマホが鳴った。梨花が画面を見ると、相変わらずあの見知らぬ番号からで、今度は長い動画が送られてきていた。 騒がしいクラブのVIPルーム。瑠奈が服を半分はだけさせたまま凌真の膝の上に座り、色っぽい声で甘えていた。 「おじさま、だめ……そんなに激しくされたら、私、壊れちゃうわ……」 凌真は瞳の色を暗くし、荒い息遣いで低く言い放った。 「これがお前の望みだったんだろう?どんなに激しくても我慢しろ」 そう言うと彼は低く呻き、ふいに彼女の腰を強く抱き寄せた。 その夜、凌真は帰ってこなかった。「会社で急なトラブルの対応がある」という言い訳だけが残された。 梨花は彼が嘘をついていることを知っていたが、問い詰めることも騒ぐこともなく、黙々と自分の荷物を片付け始めた。 この身分を捨て、偽装死という形で永遠に凌真の元から去るのなら、「桜井梨花」に関するすべての痕跡を消し去らなければならない。 彼女は丸1日かけて、自分の荷物を完全に整理し終えた。 その後、書斎から大きな箱を1つ見つけ出した。中には、凌真がこの7年間で彼女に贈ってくれた誕生日プレゼントが詰まっていた。 18歳の時に、彼から初めてのラブレターを贈られた。初々しい筆跡には、彼の深い愛情が隠されていた。 19歳の時には、人生で初めてのガラスの靴をもらった。「これからの人生を共に歩もう」と言ってくれた。 20歳でアンティークのティアラを贈られ、「お前は永遠に俺の特別なお姫様だ」と言われた。 22歳で、彼自身がデザインして作ったダイヤモンドの指輪を贈られ、「ようやく結婚できる年齢になったな。お前が俺に嫁いでくれるまで、これから毎年プロポーズするよ」と約束してくれた。 …… 彼女は一つも残すことなく、すべてをゴミ箱に捨てた。 少しずつ手を加えて作り上げてきた家が、次第に空っぽになっていくのを見て、彼女の心に少しの寂しさがよぎったが、それ以上に解放感を感じていた。 最後の箱を捨て終え、振り返った時、凌真が帰ってくるのが見えた。 ゴミ箱の中身を見た彼の目は大きく見開かれた。 「梨花、どうしてこんなものを全部捨てたんだ?」 梨花が何かを言おうとした瞬間、凌真が彼女を力強く抱きしめ、声を震わせて言った。 「梨花、どういう意味だ。俺が贈ったものを全部捨てるなんて。俺のこともいらなくなったのか?まさか、俺から離れようとしてるのか? 俺が悪かった、梨花。行かないでくれ。俺の何が不満だったのか言ってくれ、全部直すから。頼む、俺を見捨てないでくれ。お前の言うことは何でも聞く。俺にはお前が必要なんだ……」 言い終える頃には、彼の瞳には涙が浮かび、緊張のあまり体の震えが止まらなくなっていた。 しかし彼女はただ平然とした顔で彼を見つめていた。心の中には波風一つ立たず、瞳には自嘲の色が満ちていた。 私が去るのをこれほどまでに恐れているくせに、なぜあの姪と背徳の情事に溺れたりしたのだろう。 自分の手腕に自惚れて、一生隠し通せるとでも思い込んでいたのだろうか。 それとも、私が愚かにも、二人の関係に永遠に気づかないとでも思ったのか。 梨花はゆっくりと彼を押し返し、低い声で言った。 「もう必要なくなったから、全部片付けただけよ。それに……もうすぐ私たちの結婚式なのに、理由もなくあなたから離れるわけないじゃない?」 彼女は言葉を切り、顔を上げて彼の瞳を真っ直ぐに見据えて続けた。 「もしかして、私に何か後ろめたいことでもしたの?」 前半の言葉を聞いて、凌真はようやく胸をなで下ろしたが、後半の言葉を聞いた瞬間、たちまち顔色を変えた。 彼は梨花の手を強く握りしめ、真剣な面持ちで言った。 「そんなことない、梨花。俺は絶対に、お前を裏切るような真似はしない。お前も俺がどれだけ愛してるか知ってるだろう。俺は何よりもお前を愛しているんだ」 梨花の心は、すでに光の届かない深い闇の底へと沈んでいた。彼女はどうにか微笑みを作った。 「なら、何を心配してるの。もう遅いから、休ませてもらうわ」 そう言って、彼女は背を向けて2階へと上がっていった。 凌真は彼女が去っていく後ろ姿を見つめ、ひどく胸騒ぎを覚えた。 彼は拳を何度も握っては開き、最後に「大丈夫だ、俺たちはもうすぐ結婚するんだ。もうすぐ、梨花は永遠に俺だけのものになる」と何度も自分に言い聞かせた。 そのことだけは、決して変わらない。 それに、彼から見れば梨花は黙って耐え忍ぶ性格ではない。もし何かに気づいたなら、とっくに彼を問い詰めて大騒ぎしているはずだ。ここまで大人しく黙っているはずがない。 第8話 胸の内に不安を抱えていたため、凌真はその夜、家に留まった。 翌日の早朝、彼は一通のメッセージを受け取った後、隣で眠る彼女にキスをして、こっそりとベッドを抜け出し出かけていった。 次の瞬間、梨花は目を開けた。スマホを見ると、そこには瑠奈から送られてきた、瑠奈と凌真のチャットの履歴と、数枚の生々しいベッド写真があった。 瑠奈からのメッセージにはこう書かれていた。 【エンジェルロードに来てね。サプライズがあるよ】 彼女は瑠奈からの挑発的なメッセージと、送られてきた画像や動画をすべて1つにまとめ、宅配業者に連絡して、そのUSBメモリを凌真の会社宛てに送った。 それらをすべて終えた後、彼女はエンジェルロードには行かず、記憶置換センターへ向かった。 センターの責任者は、すでに彼女の人生を入れ替えるのに適した人物を見つけたと話し、詳細な手続きについて打ち合わせを行う必要があると言った。 北央市郊外にある古い洋館のVIPルーム。巨大なスクリーンには、彼女によく似た顔を持つ若い女性の情報が映し出されていた。 白鳥グループの令嬢。幼い頃から海外で育ったが、1ヶ月前に暴動に巻き込まれて命を落としたという。 現在、責任者が彼女のために計画した偽装死の方法は交通事故であり、その後で記憶置換を行うという手はずだった。 帰る前、責任者は彼女に尋ねた。 「偽装死の実行は本日でよろしいですか?」 梨花は頷いた。 洋館を出た後、彼女は重い足取りで帰途についた。 少し歩いたところで、遠くの芝生に温かくロマンチックな飾りが施されているのが見えた。どうやらプロポーズの会場のようだった。 しかし、何気なくそちらへ視線を向けた瞬間、梨花は雷に打たれたように立ち尽くした。 仕立ての良い白いスーツに身を包んだ凌真が、瑠奈の前に片膝をついてピンクダイヤモンドを掲げ、愛情たっぷりにプロポーズの言葉を告げていた。 現場には凌真と瑠奈の他に、彼の取り巻きの友人たちが勢揃いしており、さらには氷室家の年長者たちまで姿を見せていた。 理性が彼女に、ここから離れるべきだと告げていた。これから起こるであろう光景には絶対に耐えられないと分かっていたのに、足はまるで鉛のように重く、一歩たりとも動かすことができなかった。 彼女はそのまま立ち尽くし、凌真が瑠奈の指に婚約指輪をはめ、周囲の冷やかしと祝福の声の中で2人が熱くキスを交わすのを、その目でしかと見届けた。 そばにいた友人たちが冷やかした。 「氷室の未来の奥さん、今日は一段と綺麗だぜ!」 それを聞いて、凌真は彼らを冷ややかに一瞥した。 「勝手にそう呼ぶな。俺の妻になる女は1人だけだ」 友人たちはすぐに口にチャックをするような仕草を見せた。 「氷室、安心しろよ!俺たちも内輪でそう呼んでるだけだし、お前の大事な彼女の耳には絶対に入れないからさ」 氷室家の年長者も前へ進み出て、代々伝わるエメラルドのブレスレットを瑠奈の腕にはめ、心底安堵したような顔で言った。 「お前はずっと日陰の身だったが、氷室家の跡継ぎを産んでくれるというなら、この家もお前を決して冷遇はしないよ」 その時、梨花のスマホの画面が光り、瑠奈からのメッセージがポップアップした。 それは妊娠検査の結果が記された書類の画像と、一文のメッセージだった。 【私、妊娠したの。ちょうど3ヶ月目。子供の父親もすごく喜んでるわ。そうそう、今夜その彼からプロポーズされちゃった。身の程をわきまえてるなら、さっさと身を引いて、氷室夫人の座を私に譲りなさいよ!】 瑠奈が凌真の子供を妊娠した? あの2人に、子供ができた? 梨花は全身から血の気が引き、蒼白な顔のままその場に凍りついた。 世界が彼女の目の前で、少しずつ崩れ落ちていくようだった。 彼女は初めて瑠奈に返信を送った。たった一言だけ。 【いいわ。あなたの望み通りにしてあげる!】 彼女はもう、氷室凌真を捨てたのだ。 そのメッセージを送信し終えると、梨花は崩れ落ちるように地面に膝をつき、顔を覆って胸が張り裂けるほど号泣した。 ガチャン、と誰かがワイングラスを地面に落とす音が響き、彼女の方向を見つめて狼狽しながらつぶやいた。 「梨花が、どうしてここに!」 目が合った瞬間、梨花は弾かれたように身を翻し、何かに追われるように夢中でその場を走り去った。 梨花の名前を聞いた瞬間、凌真はさっと顔から血の気を失った。信じられない様子で振り返ると、夜道の向こうへ、見慣れた細い背中が逃げるように走り去っていくのが見えた。 「梨花!」彼は血相を変えて後を追い、喉が裂けるほどの声で叫んだ。 だが、その声は梨花には届かなかった。 いや、背後から猛スピードで迫り来るトラックが、自分の体を容赦なく跳ね飛ばしたことすら、彼女はもう知る由もなかった。 第9話 梨花の華奢な体は、車輪の下でまるで脆い人形のように無残に轢き潰された。鮮血が地面に瞬く間に広がり、その赤さは目を刺すほどだった。 「やめろ!」 凌真は血走った目を見開き、檻に閉じ込められた獣のように咆哮した。 温かくロマンチックだったはずのプロポーズ会場は、一瞬にして静まり返った。 極度の恐怖と絶望の中で、凌真は目の前が真っ暗になり、重く意識を失って倒れ込んだ。 瑠奈は慌てて彼を抱きとめながらも、視線は遠くの誰とも判別がつかない血肉の塊に釘付けになっていた。 現場の誰も前に進み出ようとしない中、朔空だけが目を赤くして歩み寄り、震える声で叫んだ。 「梨花!」 この瞬間に至って初めて、瑠奈は死んだのが梨花であると確信した。 彼女の胸の内に、思いがけず一抹の快感が湧き上がった。 梨花が死んだ。ああ、なんて清々しいのかしら。あいつさえ死ねば、もう私の凌真を奪う邪魔者は誰もいない。 これでようやく、私が名実ともに『氷室夫人』になれるのだ。 そう思うと、瑠奈の口元には隠しきれない歪んだ笑みが浮かんでいた。 邸宅に戻った後、凌真は半日以上昏睡し、ようやくゆっくりと目を覚ました。 大扉がドスンと力強く押し開かれ、喪服を着た数人のスタッフが白い棺を担いで彼に向かって歩いてきた。 凌真はそのままその場に立ち尽くしていたが、彼らが棺を下ろした瞬間、ついに我に返ったように怒鳴り声を上げた。 「お前らは誰だ?ここがどこだか分かっているのか?今すぐ出て行け!」 しかしリーダー格のスタッフは聞こえなかったかのように、彼の前に進み出て深々と頭を下げた。 「氷室様、お悔やみ申し上げます」 激怒した彼は、相手の襟首を乱暴に掴み上げた。 「何をでたらめを言っている?出て行けと言ってるんだ!」 スタッフは彼に投げ飛ばされながらも、職務に忠実に言った。 「桜井梨花さんは7日の午後、不慮の交通事故に遭い、その場で亡くなられました。死亡手続きの書類にご署名をお願いいたします」 凌真は目の前が真っ暗になり、心臓が目に見えない巨大な手に強く握り潰されたかのように、呼吸もできないほどの痛みを覚えた。 彼は激昂した獣のように、怒りに震えながら咆哮した。 「梨花が……梨花が死ぬわけない!」 彼の声には泣き声が混じり、絶望と無念に満ちていた。 彼は棺の中の人を食い入るように見つめ、呆然自失となった。今朝出かける前には確かに梨花は元気だった。ほんの数時間顔を合わせなかっただけで、冷たい遺体に変わってしまったなどと。 どうやっても、これが自分の梨花であると信じることができなかった。 彼は震える手で乱暴に棺の蓋を跳ね除け、遺体をよく確認して、それが梨花ではないという証拠を探し出そうとした。 しかし、長い間見つめ続けた末に、棺の中の人物が本当に梨花だという残酷な事実を思い知らされた。 彼は震える手で梨花の顔を撫でた。血塗れで見る影もない彼女の顔は、鋭い剣のように彼の胸を容赦なく貫き、死ぬほどの苦痛を与えた。 「梨花、起きてくれ。もうふざけるのはやめてくれ、こんな悪ふざけはちっとも面白くない。早く起きてくれ、頼むから!」 凌真は棺の前にひざまずき、声もなくむせび泣いた。熱い涙が手のひらに零れ落ち、その熱さが彼の魂までをも震え上がらせた。 しかし彼がどれほど泣き叫ぼうとも、棺の中の人物は微動だにしなかった。 傍らにいたスタッフがようやく見ていられなくなり、歩み寄って彼をなだめた。 「氷室様、お悔やみ申し上げます。今はまず、桜井様が安らかに眠れるよう、死亡手続きの書類に早くご署名をいただくことが急務でございます」 「失せろ!」 凌真はスタッフを突き飛ばし、激しい怒りを露わにして叫んだ。 「梨花が死んだなんて嘘だ!あいつはただ眠っているだけだ!」 あり得ない。絶対にあり得ない! 梨花はあれほど俺を愛していた。俺を見捨てるなんてできるはずがない! 凌真は未だにそう思っている。 発狂した彼を見て、スタッフたちは皆首を振り、ため息をついて背を向けて立ち去った。 その時、助手が慌ててUSBメモリを差し出し、恐る恐る言った。 「社長、これは桜井様が生前にあなた宛てに郵送されたものです。まずは、こちらをご覧ください」 凌真はハッとしてUSBメモリを受け取り、パソコンに挿し込んだ。すると、見るに堪えないベッド写真やチャットの履歴が、そのまま彼の視界に飛び込んできた。 画面いっぱいに、彼と瑠奈がベッドを共にしている写真や動画が広がっていた! 彼の目は大きく見開かれた。 梨花はすべてを知っていたのだ! 一体いつから知っていたんだ? 彼は狂ったように画面をスクロールし、ようやく一番上まで遡った。 時間は3ヶ月前。瑠奈から送られてきた1枚のベッド写真だった。 【おじさまったら、昨日の夜、私を壊れるくらい何度も抱いたのよ。ねえ、桜井さんのベッドでも、おじさまってこんなに激しいのかしら?】 そして最後のメッセージは、今日の、梨花が事故に遭う10分前のものだった。 瑠奈が彼女を挑発していたのだ。 【私、妊娠したの。ちょうど3ヶ月目。子供の父親もすごく喜んでるわ。そうそう、今夜その彼からプロポーズされちゃった。身の程をわきまえてるなら、さっさと身を引いて、氷室夫人の座を私に譲りなさいよ!】 瑠奈から身を引くよう幾度となく挑発されてきても、梨花は今まで一度も相手にすることはなかった。 彼女が瑠奈に返信したのはこれが最初で、最後の出来事だった。 【分かったわ。あなたの望み通りにしてあげる】 そのたった一文を目にした瞬間、凌真の頭の中は真っ白になった。心臓を鷲掴みにされ、グシャリと握り潰されたような激痛が走り、呼吸の仕方すら分からなくなった。 限界を超えた後悔と痛みに、彼はついに獣のような悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。底知れぬ絶望が、冷たい闇となって彼を完全に呑み込んでいった。 「あぁぁぁーーっ!」 凌真は死亡手続きの書類をくしゃくしゃになるほど強く握りしめ、全身をガタガタと震わせた。 大粒の涙がとめどなく溢れ出し、冷たく硬い大理石の床に次々と打ち付けられた。やがて彼は耐えきれずに両手で顔を覆い、喉の奥から絞り出すような声で、まるで子供のように慟哭し始めた。

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