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過去を払って、四月の風と歩む
浅野寧々(あさの ねね)が解雇された日、外は土砂降りの雨だった。 彼女は私物が詰め込まれたダンボール箱を抱え、オフィスビルの入り口に立っていた。雨のしぶきがズボンの裾を濡らしている。 一向に捕まらない配車アプリの画面を見つめながら、寧々は無意識に夫の藤堂朔(とうどう さく)に電話をかけていた。 長い呼び出し音の末にようやく繋がった電話の向こうから、会議を終えたばかりの掠れた声が聞こえてきた。 「何か用か」 寧々は口を開きかけた。 自分が3ヶ月間担当してきたプロジェクトが、コネ持ちの社員に奪われたことを言いたかった。 上司に抗議しに行ったら、逆に「使えないなら辞めろ」と罵られたことを言いたかった。 今日は二人が交際を始めてから7周年の記念日で、一緒に家に帰ってご飯を食べられないかと言いたかった。 だが、電話の背景音から、次の会議が始まることを知らせる声が聞こえてくると、すべての悔しさが喉の奥でつかえてしまった。 結局、彼女はただ伏し目がちに言った。 「ううん、なんでもない。仕事、頑張って」 かつて狭いアパートで、一晩中彼にこぼしていたような些細な愚痴は、もう打ち明ける資格すら失っていたのだ。
チャプター (1)
第1章
浅野寧々(あさの ねね)が解雇された日、外は土砂降りの雨だった。
彼女は私物が詰め込まれたダンボール箱を抱え、オフィスビルの入り口に立っていた。雨のしぶきがズボンの裾を濡らしている。
一向に捕まらない配車アプリの画面を見つめながら、寧々は無意識に夫の藤堂朔(とうどう さく)に電話をかけていた。
長い呼び出し音の末にようやく繋がった電話の向こうから、会議を終えたばかりの掠れた声が聞こえてきた。
「何か用か」
寧々は口を開きかけた。
自分が3ヶ月間担当してきたプロジェクトが、コネ持ちの社員に奪われたことを言いたかった。
上司に抗議しに行ったら、逆に「使えないなら辞めろ」と罵られたことを言いたかった。
今日は二人が交際を始めてから7周年の記念日で、一緒に家に帰ってご飯を食べられないかと言いたかった。
だが、電話の背景音から、次の会議が始まることを知らせる声が聞こえてくると、すべての悔しさが喉の奥でつかえてしまった。
結局、彼女はただ伏し目がちに言った。
「ううん、なんでもない。仕事、頑張って」
かつて狭いアパートで、一晩中彼にこぼしていたような些細な愚痴は、もう打ち明ける資格すら失っていたのだ。
第1話
雨はさらに激しさを増していた。
彼はもう昔のように、雨に降られて立ち往生している彼女を迎えに行くためだけに、傘を差して急いで街の半分を横断してくるようなことは二度とないのだ。
彼女が雨の中に飛び出そうとしたその時、一台の黒い高級車が音もなく目の前に滑り込んできた。
車の窓が下がり、結城凛(ゆうき りん)の整った顔が覗いた。彼女が身に纏う仕立ての良いハイブランドのジャケットには、塵一つついていなかった。
「朔は会議で手が離せないから、私が迎えに来たのよ。
次から何かあれば直接私に連絡して。朔のチーフアシスタントとして、どうでもいい事で彼の仕事を邪魔させないようにするのが私の役目だから。
知ってるでしょ、彼はとても忙しいの」
寧々は言葉を失った。わかっている。4年前に藤堂家に戻ってからというもの、彼はすっかり忙しくなってしまったのだ。
7年前、寧々が山でスケッチをしていた時、血まみれになって倒れている朔を偶然見つけた。
当時の朔は記憶を失い、口もきけなかった。警察もお手上げの状態で、彼はすべての人を拒絶したが、寧々にだけは心を許した。
彼女はほだされ、彼を家に連れて帰った。
助け合いながら過ごした3年間。彼女は彼に世界を再認識させ、彼もまた彼女の平凡な生活を温かいものにしてくれた。
藤堂家の人間が探し当ててくるまで、彼女は拾ってきたこの言葉を話せない青年が、名門・藤堂グループの行方不明になっていた御曹司だとは知らなかった。
朔の母親、藤堂真知子(とうどう まちこ)は、小切手一枚で寧々を追い払おうとした。
「浅野さん、朔の将来の妻が、あなたのような普通の女の子であってはならないの。彼から離れてちょうだい」
朔はそれを知ると、夜通し車を走らせ、彼女を連れてかつて住んでいた小さな町へと舞い戻った。
その時、朔の名目上の婚約者であり、真知子が格好の嫁だと見込んでいた凛が申し出たのだ。
「おば様、私と朔はただの政略結婚で、愛情はありません。朔が本当に彼女を愛しているのなら、私も二人のために身を引きます」
この言葉で、まだ記憶が戻っていなかった朔は初めて凛をまともに見た。寧々もまた、彼女に対して深い感謝の念を抱いた。
あの頃、寧々は身分の壁を乗り越えた自分たちの未来は明るいと信じていた。
一体いつから変わってしまったのだろう。
彼女は目を閉じ、深く考えることを拒んだ。
手のひらに温かい感触が伝わってきた。凛が上品なスイーツの箱とベルベット生地の小箱を寧々の手に渡していた。
「これは朔から頼まれて用意した記念日のプレゼントよ。気に入ってくれるといいけど」
寧々は礼を言ったが、箱を開ける気すら起きなかった。
まったく同じ包装。モデルルームのように美しく整えられた家には、これと同じものが山のように積まれている。それらはすべて凛が選んだものだった。高価で上品で、藤堂グループの社長という朔の身分には相応しいが、寧々の心に響いたことは一度もない。
彼女はただ、朔が記憶を失っていたあの3年間を思い出す。記念日になれば、彼は豪華とは言えないまでも温かい手料理をテーブルいっぱいに並べてくれた。彼女が何気なく口にした好みを密かに覚えていて、サプライズにしてくれた。
今となっては、すべての特別な行事が、秘書の業務リストの一部へと変わってしまった。
車はすぐに藤堂グループ本社のビルに到着した。
凛は寧々を案内し、最上階の社長室へ直行した。エレベーターを降りた途端、会議を終えたばかりの朔と鉢合わせた。
身体にフィットしたオーダーメイドのスーツが、彼の長身をより一層引き立てている。
眉間には冷ややかな空気が漂っていたが、凛の濡れた肩を見た瞬間、彼は眉をひそめた。
「どうして濡れているんだ。休憩室で着替えてこい、風邪を引くぞ」
その後ようやく、彼は凛の後ろに立っている、同じように雨で濡れた寧々の姿に気がついた。
「どうしてここに来たんだ」
寧々が口を開く前に、そばにいたスタッフが声をかけた。
「藤堂社長、井上社長たちがまだ会議室でお待ちです」
朔は頷いた。
「凛、一緒に来てくれ」
彼は寧々の返事を聞く暇すらなく、凛を連れて慌ただしく再び会議室へと向かっていった。
寧々は社長室に入り、部屋の隅に視線を這わせたところで、ふと動きを止めた。
色褪せた赤い組紐が、ゴミ箱のそばに無造作に捨てられ、ほこりを被っていた。
それは4年前、藤堂家の人間が朔を連れ戻しに来た日、彼が無事でいることを祈って、彼女が涙を流しながら彼の手首に結んだものだった。
あの時、朔は彼女の手のひらに一文字ずつこう書いた。
宝物みたいに大切にする。絶対に外さない。
だが今、デスクの真ん中に置かれた職人手作りのペン立ては、まるで新品のようにピカピカに磨き上げられている。
それは去年、凛が彼に贈った誕生日プレゼントだった。
デスクの上がガランとしているから、ペン立てを置くのにちょうどいいと、その時彼は言っていた。
彼女が深く考えまいとしていた疑問に対する最も直感的な答えが、今ここにあった。
いつからか、朔の口から凛の名前が出る回数が増えていたのだ。
「会社のあの3年の危機は、凛が全体をまとめてくれたおかげで助かった」
「両親のことは、ずっと凛が上手く立ち回ってなだめてくれているんだ」
罪悪感、称賛……様々な感情が朔の心の中で目に見えない網を織り成し、凛を「不可欠な存在」という位置にしっかりと縛り付けていた。
寧々はしゃがみ込み、震える指先で赤い組み紐のほこりを払い、それを手のひらに強く握りしめた。
社長室のドアが再び押し開けられた。
疲れながらもリラックスしたような朔の声が聞こえてきた。
「凛、このところ苦労をかけたな。君がいてくれて助かった……」
その言葉は、寧々の姿を見た瞬間に途切れた。
「まだ帰ってなかったのか」
昔なら、彼女がオフィスに来れば、彼はいつも手を止めて笑顔で迎えに来た。帰る時も名残惜しそうにして、彼女をずっとそばに置いておきたいとでもいうように接していた。
今の態度とはまるで違っていた。
朔は少し赤くなっている彼女の目元を見ると、眉間を揉み、口調を和らげた。
「ごめん、そういう意味じゃない。最近やることが多すぎて、少し疲れているだけだ。
凛から、君が今日機嫌が悪くて下で雨に濡れていたと聞いた。どうしたんだ?何かあったのか」
寧々は鼻の奥がツンとするのを抑え、静かに口を開いた。
「3ヶ月担当していたプロジェクトを、今日の署名の時に突然担当から外されたの。このプロジェクトが終われば昇進できるはずだったのに……」
朔はネクタイを少し緩めた。
「桜ヶ丘のプロジェクトのことか」
寧々はハッとした。
「どうして知っているの」
「あそこにはうちが投資している」
朔は視線を上げた。
「凛の妹が帰国したばかりで、見栄えの良い経歴が必要だったんだ。凛から頼まれたから、彼女に譲った」
彼はまるで何でもないことのように、ただのプレゼントを渡すような口ぶりで言った。彼女が数ヶ月間奔走して築き上げた苦労を打ち砕いたことなど、微塵も感じていないようだった。
そういうことだったのか。
ただ、凛が口を開いたから。
それだけで、朔は寧々の3ヶ月の奔走を無視し、彼女にとって極めて重要なキャリアを犠牲にできるのだ。
彼女は黙って立ち上がり、ポケットの中の冷たい赤い組紐を握りしめた。もう彼を見ることはなく、まっすぐドアへと向かった。
「寧々」
朔が背後で彼女を呼んだ。
「君の能力なら、次のプロジェクトを成功させるのは時間の問題だ。こんなことで俺と揉めないでくれ。
俺もすごく疲れているんだ」
寧々は目を閉じた。
「疲れている」という言葉を聞くのは、これで何度目だろうか。
だけど、朔。あなたの疲れは、私が原因ではない。
彼女はドアを開けて外に出ると、馴染みのある番号に電話をかけた。
電話はすぐにつながった。
「お母さん」
電話の向こうの心配そうな声を聞くと、目頭が熱くなった。
「今年の年末は、そっちに帰るね」
電話の向こうで両親は興奮のあまり口々に捲し立てるように喜んだ。
「ああ、よかった!もう何年も帰ってきていないじゃないか。あんたが好きなものをたくさん準備して待ってるからね。朔くんは?彼も一緒に帰ってくるのかい?」
寧々は窓の外を猛スピードで流れていく街のネオンを見つめ、静かに目を閉じた。涙が頬を伝って落ちた。彼女は消え入るような、しかし決然とした声で言った。
「……私、一人だけだよ」
第2話
朔が家に着いた時、スマホの通知を見て彼は少しハッとした――付き合い7周年。
彼は眉間を揉み、ドアを開けた。寧々はソファに座って本を読んでいた。
「寧々」
彼の声には少しばかり申し訳なさが滲んでいた。
「ここ最近忙しすぎて、記念日のことをすっかり忘れていた。明日は君がずっと行きたがっていた花火大会に行こう。いいだろう?」
寧々は本を閉じた。
「明日はダメ。両親へのお年賀を買いに行かないといけないから」
朔は数歩近づき、彼女の隣に座って口調を和らげた。
「まだプロジェクトのことで怒っているのか」
彼女の顔に触れようと手を伸ばしたが、彼女は顔を背けてそれを避けた。
「怒ってないわ」
彼女の声はとても小さかった。
朔は少し沈黙してから言った。
「藤堂グループに来い。君に相応しいポストを用意するから」
寧々は視線を上げて彼を見た。彼の目には施しを与えるような温かさがあった。それは藤堂グループの社長だけのものであり、彼女の知る「朔」のものではなかった。彼女から最後の反論の気力すらも奪い去るものだった。
彼女は頷いた。
「わかったわ」
翌日の夜、花火大会の会場は人々の熱気で溢れていた。
色とりどりの屋台から食欲をそそる匂いが漂い、若い男女が笑い合いながらすれ違っていく。
寧々は朔に手を引かれて人混みの中を歩いていた。滅多に見せない彼のリラックスした横顔を見つめ、彼が話す言葉を聞いていると、何年も前に戻ったかのような錯覚に陥った。
彼は彼女にりんご飴を買い、不格好なウサギのぬいぐるみを射的で取ってくれ、通行人にぶつかりそうになった時は彼女の肩を強く抱き寄せてくれた。
心の底に意図的に押し込めていたわだかまりが、この賑やかな祭りの空気の中で、一時的に薄らいでいくのを感じた。
「少し前の方へ行ってみないか。メッセージボードがあるらしい」
朔が前方を指さした。
寧々が頷こうとした瞬間、聞き覚えのある声が割って入った。
「朔」
凛が落ち着いた足取りで近づいてきた。その声には計算されたような適度な申し訳なさが含まれていた。
「お二人の邪魔をしてごめんなさい。でも、買収の件で緊急事態が起きてしまって。先方の代表が、どうしても朔と直接話したいと言い張っているの」
朔は眉をひそめ、無意識に寧々の方を見た。
「仕事が大事よ、行って」
寧々は静かに言った。
凛がすかさず口を挟む。
「朔、安心して仕事に行ってきて。寧々さんのことは私がフォローするから」
朔はそこでようやく振り返り、立ち去る前に寧々に約束した。
「来年の花火大会には、必ず君が満足するまで一緒に回るからな」
寧々は彼が立ち去る背中を見つめていた。手に持ったりんご飴の表面に、少しずつ細かいヒビが入っていく。
凛が彼女の横に歩み寄った。その視線は彼女の手にあるりんご飴をかすめ、穏やかな口調で言った。
「ここのりんご飴、いつも人を楽しい気分にさせてくれるわよね。朔は本当にあなたのことを気にしているの。あなたが一人で落ち込まないか心配していたわ」
寧々は視線を上げた。
「そう?」
凛は微かに微笑み、遠くの賑わう人混みに目を向けた。
「私と彼は付き合いが長いから、どうしても意見が合わない時もあるわ。
彼は口下手でしょ。だから一番よくやるのは、私をこういう賑やかな場所に連れ出すことだった。口には出さないけど、その気持ちはちゃんと伝わってくるの」
寧々はしばらく沈黙し、静かに尋ねた。
「じゃあ、ここは以前に二人で来たことがあるのね?」
凛は答えず、ただ微笑んで言った。
「寧々さん、もう少し前へ行ってみましょうか。あの先にあるメッセージボードはとても意味のある場所で、たくさんの人があそこに願い事を残していくの」
彼女は寧々を先導して歩き、その巨大なメッセージボードの前で立ち止まった。
ボードには数え切れないほどの写真とメモが貼られており、無数の人々の青春と願いが記録されていた。
寧々の視線が無意識にボードを這い、やがて一枚の色褪せた古い写真で止まった。
上質な制服を着た少年時代の朔と凛が肩を並べて立っており、背景には夜空を彩る絢爛な花火が写っていた。
写真の横には、少し青っぽさの残る文字が書かれていた。少年だった朔の文字は、大胆で力強かった。
【君が笑ってくれるなら、授業をサボった甲斐があった】
そのすぐ隣には、凛の当時の、より清楚で整った文字が並んでいた。
【花火の光がずっと消えませんように。人の心がいつまでも青春の頃のまま、変わりませんように】
寧々は、ごくかすかに息をのんだ。
それらの文字が、写真に写る朔の見たこともないほど生き生きとした笑顔とともに、彼女の目の前で静止した。
まるで、彼女が一度も見たことのない朔の姿が目に浮かぶようだった。
あんなにプライドの高い彼が、凛と一緒に花火を見るためだけに授業をサボり、人混みの中でこんなにも幼く、しかし真剣な言葉を書き残したのだ。
アパートの部屋で彼女のために不器用に手料理を作り、彼女が何気なく口にした好みを密かに覚えていてくれた朔と、目の前の写真で得意げに笑う少年は、まるで別人のように切り離されていた。
凛は寧々の視線を追い、懐かしそうな口調で言った。
「まさかこの写真がまだ残っていたなんて。あの頃は、みんな若かったわね」
寧々は、すでに溶け始めているりんご飴をきつく握りしめた。ベタベタとしたシロップが指の間に滲み込んでいく。
自分が唯一無二の存在だと思い込んでいたものは、運命が弾き間違えたたった一つの音符に過ぎなかったのだ。
彼は結局、本来の軌道に戻っていく。そして彼女は、最初から最後まで、迷い込んだだけの挿話でしかなかった。
「結城さん」
寧々は視線を戻した。
「少し疲れたので、先に帰るわ」
第3話
朔の手配により、寧々は藤堂グループに入社した。
入社初日、凛が彼女を配属先の部署へ案内した。
「皆様、ご紹介します。こちらは浅野寧々さんです」
凛は少し間を置いて付け加えた。
「藤堂社長の奥様でもいらっしゃいます。今後ともよろしくお願いしますね」
一瞬、場の空気が凍りつき、すぐに周囲から様々な思惑の籠もった視線が向けられた。
その日から、目に見えない壁が寧々の周りを取り囲むようになった。
同僚たちの会話は彼女が近づくと自然に途切れ、全体での集まりの連絡からは意図せず漏れ、彼女に割り当てられる仕事は、誰も引き受けたがらない厄介な案件ばかりだった。
これが「特別扱い」の結果であることはわかっていたが、彼女はただ黙々と、自分の職務をこなしていた。
リゾート開発プロジェクトの進行を任された時のことだった。事前の交渉は順調だったが、立ち退き要請が出された途端、地元住民の感情が急激に悪化し、立ち退きに同意せず、対立がエスカレートしていった。
ある日の午後、寧々が報告書をまとめていると、オフィスの外から突然騒ぎ声が聞こえてきた。
部署のアシスタントがパニック状態で駆け込んできた。
「浅野さん、大変です!住民の人が本社の屋上に登って、飛び降りると叫んでいます!」
寧々は心が沈むのを感じながら、急いで屋上へ駆け上がった。朔と凛も同時に到着していた。
屋上には強い風が吹き荒れていた。感情を昂らせた中年男性が屋上の縁に立ち、腕を振り回しながら、藤堂グループが強引に家を奪い、人々の生活を台無しにしていると声枯らして叫んでいた。
ビルの下では、パトカーのサイレン、メディアの報道の声、野次馬の悲鳴が入り混じっていた。
交渉人が説得を試みていたが効果はなく、男はさらに激昂し、片足をすでに空中に投げ出していた。
その場にいる全員が固唾を飲んだ。
寧々は深呼吸をして、前の人たちを掻き分け、その絶望した男を見据えて冷たい声で言った。
「飛び降りれば、問題が解決すると思っていますか?
藤堂グループが、たった一つの命のためにこのプロジェクトを諦めると思います?あり得ません。彼らはあなたの死を『住民の暴動』として片付けるだけです。あなたの家族も補償金なんて一銭も受け取れませんよ。
あなたが死んだら、誰が奥さんと子供を養いますか?誰が両親の面倒を見ますか?あなたの命と引き換えに、家族が世間から後ろ指を指され、一生苦しみの中で生きることになります。それがあなたの望みなのですか?」
その一言一言が男の最も痛いところを突いた。男は呆然とし、顔に浮かんでいた狂気は巨大な悲しみへと変わった。
最終的に、その隙を突いて近づいた警察官によって彼は救出された。
寧々の張り詰めていた神経が急に緩み、背中にはびっしょりと冷や汗をかいていた。
ただ、彼女はこの危機が、序の口に過ぎないとは思いもよらなかった。
誰かが動画をネットに投稿したのだ。それは彼女が屋上で説得していた言葉を悪意を持って切り取り編集したもので、センセーショナルな見出しがつけられていた。
【藤堂グループ社長夫人、権利主張者を冷酷に追い詰める。人の命は無価値だと断言】
動画は瞬く間にネット上で炎上した。
同時に、藤堂グループの社員を名乗る匿名の告発があり、寧々がコネで特別入社し、傲慢な性格で有能な古参社員を排除していると書き込まれた。
世論は一瞬にして沸騰し、彼女の個人情報は特定され、無数の罵詈雑言と殺害予告が彼女の個人アカウントに殺到した。
朔を困らせたくない一心で、寧々はすべてを黙って耐え忍んだ。
しかし、車で帰宅する途中、悪質なあおり運転に遭い、危うく大事故になりかけたことで状況は変わった。
このまま黙っていれば、次はただの脅かしでは済まないと彼女は悟った。
だが、調査の結果は彼女を驚かせた。動画の提供者は、凛の妹である結城瑠奈(ゆうき るな)であり、今回のネットリンチを煽ったのも彼女だったのだ。
警察に通報しようとした矢先、朔が彼女を訪ねてきた。
「寧々、瑠奈はまだ若くて分別がないんだ。警察に通報すれば、彼女の一生を台無しにしてしまう。
彼女には君に謝らせる。動画も削除するように手配するし、世間の騒ぎもすぐに収まる」
寧々は怒りのあまり笑ってしまった。
「彼女は記者よ。あの編集された動画が何を引き起こすか、誰よりもよくわかっているはずよ。
それでも彼女はやったの。分別がないんじゃない、これは悪意に満ちた罠よ!」
「でも、君は実際に傷ついたわけじゃない」
朔は彼女を見て言った。
「取り越し苦労だったんだ。君の身辺警護は強化する」
その言葉に、寧々の首筋から冷たいものが這い上がってきた。
悪意に満ちた罵声も、道を歩けば後ろ指を指されることも、危うく死にかけた車の事故も、彼の目には驚くほど軽く、取るに足らないこととして映っているのだ。
ただ、それをやったのが凛の妹だという理由だけで。
彼女は警察に電話をかけた。
「もしもし、殺人未遂の告発をしたいのですが」
しかし、電話の向こうの相手は寧々の身分を聞き取ると、証拠不十分などの理由で彼女の被害届を拒否した。
朔は予想していたかのように、彼女に一枚の書類を差し出した。
「俺がいる限り、この蒼葉市(あおばし)で君の通報を受け付ける警察はない。
これにサインしてくれ。示談書だ。瑠奈も反省しているし、凛もこの件はこれで終わりにしてほしいと望んでいる」
午後の日差しは少し眩しかったが、寧々には少しの温もりも感じられなかった。
彼女は妥協を象徴するその示談書を見つめ、そして目の前にいる、かつて一生守ると誓ってくれた男を見た。
結局、彼女はただ俯き、署名欄に自分の名前をサインした。
ペン先が紙を滑るサラサラという微かな音は、何かが完全に断ち切られる音のようだった。
第4話
あの日以来、寧々と朔は冷戦状態に陥った。
しかし折悪く、プロジェクトの視察で二人が一緒に行かなければならない出張が入った。同行者の中には凛もいた。
視察先は辺鄙な土地で、唯一の交通手段は旧式のローカル列車だった。
列車は険しい山道をリズミカルな音を立てて進んでいた。途中で空がどんよりと陰り始め、朔は車両の連結部分へ電話に出に行った。
突然、極めて激しい揺れが伝わり、耳を劈くような金属の摩擦音とともに、車両全体が激しく傾き、制御を失った。
パニックに陥った悲鳴が車内に響き渡った。
寧々は天地がひっくり返るのを感じた。強大な力によって体が激しく放り出され、そして重く叩きつけられる。彼女は座席の手すりを死に物狂いで掴み、爪が革に食い込むほどだった。
彼らの乗っていた車両は、恐ろしい断裂音と共にレールを脱線し、慣性によって隣の急斜面へと突っ込んでいった。
混乱の中、彼女は凛の体の半分が窓の外に投げ出され、今にも落ちそうになっているのを見た。
寧々は何の思考も挟まず、意識よりも先に体が動いた。彼女は激痛に耐えながら近づき、凛の手首を死に物狂いで掴んだ。
「しっかり捕まって!」
彼女は歯を食いしばり、全身の力を振り絞って凛を引き戻そうとした。
寧々は腕の筋肉が引き裂かれそうになるのを感じた。力を入れるための支点を探そうと下を向いた時、凛の目と合った。
いつも上品な笑みを浮かべているその目には、今は微塵のパニックもなく、ただ氷のような冷酷さだけがあった。
次の瞬間、寧々の腕の内側に鋭い激痛が走った。
彼女はうめき声を上げ、無意識に手が緩んだ。
凛が砕けたガラスの破片を寧々の腕に深く突き刺し、無理やり手を離させたのだ。
鮮血が瞬時に吹き出した。
慌てて駆けつけた朔が目にしたのは、寧々が手を離し、凛が悲鳴を上げながら落ちていく最後の瞬間だった。
「凛!」
朔は目を血走らせて飛びついたが、辛うじて引き裂かれた服の切れ端を掴むことしかできなかった。
寧々は絶え間なく血が流れる腕の傷口を押さえ、痛みで顔を真っ白にしながら釈明しようとした。
「彼女が……」
「手を離すなんてどういうつもりだ!」
朔が振り返り、怒鳴りつけた。
彼女の言葉はすべて喉の奥に詰まり、どんな言い訳も空々しく思えた。
数時間後、救助隊が谷底の岩場の中で意識不明の凛を発見した。
一命は取り留めたものの、頭部に重傷を負い、視力を失っていた。
凛の母親が病院に駆け込んできて、寧々を指差しながら、性悪な女だと罵倒した。瑠奈の一件を根に持って、故意に凛を陥れたのだと喚き散らし、絶対に代償を払わせてやると叫んだ。
朔は結城家からの重圧に晒されていた。凛は藤堂グループのプロジェクトのために事故に遭ったのだ。公私ともに、彼は結城家に落とし前をつけなければならなかった。
彼は寧々を見つけ、一枚の書類を差し出して低い声で言った。
「これにサインしろ」
寧々が下を向いて書類の文字を見ると、そこには「角膜提供同意書」と書かれていた。
彼女は勢いよく顔を上げ、信じられないという目で彼を見た。
「凛の目には、角膜移植が必要だ。もし適合するなら、君の角膜を彼女に提供しろ」
朔の声には何の抑揚もなく、まるでただの物を持ち去るかのような口ぶりだった。
「サインなんてしない!」
寧々の声は怒りで震えていた。
「私は彼女を陥れようとなんてしていない。彼女が自分で手を離したのよ。それに、砕けたガラスで私を刺したの!」
彼女は袖をまくり上げ、痛々しい傷口を見せた。
「彼女はわざとやったのよ!」
朔は傷だらけの腕を見て、一瞬複雑な色を浮かべたが、それはすぐに消え去った。
「寧々、証拠はどこにある?凛が君を陥れるためだけに、自分の命を危険に晒すなんて、一体誰が信じるんだ」
「朔。あなたの心の中で、私は自分の利益のために人の命を遊びに扱うような人間なの?」
寧々は悔しさを滲ませて、最後に一つだけ尋ねた。
朔は何も答えず、ただ同意書をさらに前に差し出した。
寧々は静かに口を開いた。
「もし私が本当にそんな人間だったら、最初からあなたを助けたりしなかった」
朔の体が強張り、何か言おうとしたが、駆けつけてきた医師に遮られた。
「浅野さんの角膜は適合しませんでした」
しかし、この結果は結城家をさらに不満にさせた。
凛の母親は泣き崩れながら訴えた。
あの年、朔が藤堂グループを立て直すのを助けるために、凛は自分の輝かしい前途を諦めたのだ。それなのに今、寧々のせいでこんなに傷つき、未来は真っ暗闇になってしまった。朔は必ず責任をとるべきだ、と。
凛のベッドの前に立ち、朔は約束した。
「凛、君と結婚する。俺が一生君の面倒を見る」
ベッドの上の凛は顔を背けた。
「朔、罪悪感からそんな決断をしてほしくないわ。この数年間、私がやってきたことはすべて私自身の選択であって、あなたには関係ないの」
彼女の光を失った瞳は窓の外に向けられた。そして言葉を続けた。
「寧々さんこそが、あなたが本当に大切にしている人よ。一時的な責任感で、本当に重要な人を裏切らないで」
「罪悪感じゃない」
朔は彼女の冷たい手を握った。
「この数年間、君が俺のためにしてくれたことはすべて覚えている。俺たちの関係は、とうにビジネスパートナーという枠を超えているんだ」
凛はゆっくりと目を閉じ、長い沈黙の後、静かに言った。
「あなたが本当に考え抜いた末の決断なら、その思いを尊重するわ」
寧々は病室の外に立ち、その光景を静かに見つめていた。
凛がとうとうそれを受け入れたのを見た時、胸の奥が激しく締め付けられるように痛んだ。
思い出した。4年前、朔もこれと同じように緊張した様子で、自分に一緒について来てくれるかと尋ねたのだ。
自分の肯定的な返事を聞いてから、彼は目を赤くして彼女を抱きしめ、一生世話をすると約束してくれたのだった。
第5話
凛の目にはすぐに適合する角膜が見つかり、手術は成功した。
退院の日、朔は自ら彼女を迎えに行った。
出入り口で待ち構えていた記者や群衆の中から、心ないひそひそ話がいくつか聞こえてきた。
「あの浅野さんと藤堂社長、まだ離婚してないんだろ?じゃあ、結城凛ってどういう立ち位置なんだ?」
「愛人じゃないの。顔立ちは綺麗だけど」
これらのひそひそ話が朔の耳に入り、彼は眉をひそめた。
だが凛は彼の腕を軽く押さえ、首を横に振った。
「気にしないで。部外者は内情を知らないんだから、誤解されるのも仕方ないわ。
寧々さんはもう十分に可哀想よ。もし彼女が私を傷つけたことが世間に知れたら、彼女はさらに非難されてしまう」
「彼女は大人だ。自分のやったことには責任を持たなければならない」
朔はアシスタントに指示を出した。
「夜の快気祝いのパーティーには、必ず寧々を迎えに行け」
パーティー会場は着飾った人々で溢れ、華やかな空気に包まれていた。
寧々は隅の席に座り、周囲の賑わいとは完全に浮いていた。
皆の中心で囲まれている朔と凛を見つめた。一人は長身でクール、もう一人は優雅で上品であり、ひどくお似合いに見えた。
真知子が凛の手を引き、満面の笑みで発表した。
「この機会に、皆様に良いご報告があります。朔と凛さんの結婚式を、1ヶ月後に執り行います」
その言葉が終わるや否や、全員の視線が寧々に向けられた。
「彼女が、藤堂社長のあの場違いな元妻?」
「まだ離婚してないらしいけど、時間の問題よね……」
「すごく意地の悪い女なんでしょ。結城さんの目も彼女がやったらしいわよ。よくここへ来れたものね」
次々と湧き上がる陰口が、彼女を完全に飲み込もうとしていた。
彼女は立ち上がり、この息の詰まるような宴会場から逃げ出した。
朔は彼女を追いかけようとしたが、母親に引き止められ、新しい取引先を紹介された。
凛がすかさず口を挟んだ。
「朔は忙しいでしょうから、私が寧々さんの様子を見てくるわ」
化粧室で、寧々は洗面台に手をつき、抑えきれない吐き気に襲われていた。
「妊娠したの?」
背後から聞こえてきた凛の声に、寧々は一瞬硬直した。
水がじゃあじゃあと流れる中、寧々の指が微かに震えた。今月の生理は確かに遅れていた。最近の理由のない吐き気の答えが、今この瞬間に出た。
「あなたには関係ないわ」
彼女は体を起こし、ペーパータオルを取って手を拭いた。
だが凛は横に回り込み、彼女の行く手を塞いだ。
「もし本当に子供ができたなら、それは朔の初めての子供ね」
凛は彼女を見据え、穏やかな口調で言った。
「私がすべて上手く『手配』してあげるから、安心して」
妊娠の可能性に心を乱されていた寧々には、その言葉の裏にある深い意味を考える余裕はなかった。彼女は凛を押しのけ、化粧室を後にした。
寧々はそのまま真っ直ぐ病院へ行き検査を受けた。結果は、妊娠していた。
平らな下腹部に触れながら、彼女は複雑な気持ちになった。
この子供がやって来たタイミングは最悪だったが、朔との関係がどうであれ、これは間違いなく一つの命だ。
最終的に、彼女はやはり朔に告げることを決めた。
しかし家に帰った彼女を待ち受けていたのは、さながら裁判のような光景だった。
朔がソファの真ん中に座り、真知子は冷酷な顔つきをして、凛までもが静かに横に寄り添っていた。
彼女は朔を見て、深呼吸をした。
「朔、相談したいことがあるの」
朔が口を開く前に、真知子が冷ややかに言った。
「自分が妊娠したとでも言いたいのかしら?」
寧々はハッとし、無意識に凛の方を見た。
凛の口調には微かな哀れみが混じっていた。
「寧々さん、その子供が本当に朔の子だと確信できるの?」
「どういう意味?」
寧々の瞳がわずかに震えた。
真知子が一枚の書類をローテーブルに叩きつけた。
「4年前に朔が戻ってきた時、精密検査を受けたのよ。医者ははっきり言ったわ。彼は昔の怪我のせいで、自分の子供を作ることは不可能だとね」
寧々はその報告書を食い入るように見つめ、指先が氷のように冷たくなった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、自分が7年間愛し続けた男を見つめ、乾いた声で言った。
「朔、あなたもそう思っているの?」
朔は黙って座り、唇を固く結んでいた。
「結婚していながら不倫をし、どこの馬の骨ともわからない子供を身籠るなんて。藤堂家はあなたのような恥知らずな女を許さない!」
真知子は語気を荒げた。
「すぐに離婚しなさい。慰謝料など一銭も払わないから、身一つで出て行きなさい!」
「おば様、どうか落ち着いてください。まだ事情がはっきりしたわけではありませんから」
凛が優しい声でなだめた。
疑いの眼差しが、刃物のように寧々の心を切り刻んでいた。
しかし、彼女を最も絶望させたのは、朔の最初から最後までの沈黙だった。
「ええ、サインします」
彼女は自分自身の、異常なほど落ち着いた声を聞いた。
彼女はペンを取り、離婚協議書に一文字ずつ、自分の名前をサインした。
寧々はペンを置き、もう誰の顔を見ることもなく、背筋を伸ばして振り返り、かつて「家」と呼んでいたその場所を後にした。
年の瀬が近づき、街はイルミネーションで彩られ、大変な賑わいを見せていた。
どこを見てもペアになった人々の姿があり、笑い声が街の隅々にまで溢れていた。
寧々は一人きりで冷たい街を歩きながら、ショーウィンドウに映る自分の孤独な影を見て、何年も前のことを思い出した。
同じように冷え込んだ年末、彼女と朔は小さなアパートに身を寄せ合い、小さな電気鍋を囲んで、最もシンプルな白菜の鍋を食べていた。
彼は鍋に入っていたたった一枚の肉を彼女のお椀に入れ、彼女の手を握って言ったものだ。
「これからの毎年、俺たちは一緒にお正月を過ごそう」
あの温かい過去が、今となってはまるで前世の出来事のように遠く感じられた。
彼女は無意識に下腹部に手を当てた。そして、ついに堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちた。
第6話
年末まであと1ヶ月。寧々は、両親に心配をかけまいと、まだ実家には帰らないことにした。
仮住まいとして小さなアパートを借りた。隣に住むおばあさんはとても温和な人で、実家への手土産ならあの老舗の和菓子が良いと笑顔で教えてくれた。
街に明かりが灯る頃、通り沿いのショーウィンドウのホリデー飾りが、温かな光を放っていた。
寧々は一人で和菓子屋から出てきた。手には両親のために吟味したお年賀の袋を提げている。袋はずっしりと重く、食い込んだ指先が白くなっていた。
角を曲がろうとしたその時、正面から歩いてきた朔と凛に鉢合わせた。
彼は、かつて寧々が一緒に選んだチャコールグレーのコートを羽織り、背筋を伸ばして歩いていた。凛は彼の腕に手を添え、白のカシミヤワンピース姿で優雅に微笑んでいる。
二人はそばの高級ジュエリーショップから出てきたばかりのようで、凛の顔にはまだ嬉しそうな笑みが残っていた。
寧々は朔を見つめた。かつて期待に胸を膨らませては、結局打ち砕かれてきた過去の光景が、止めどなく脳裏にフラッシュバックする――
「朔、週末にお年賀を買いに行くの、付き合ってくれない?両親に持って帰りたいの」
「忙しくて時間が取れない。一人で行くか、アシスタントに付き添わせろ」
似たようなやり取りを、この数年で何度繰り返した。
時間がなかったわけではない。相手が違えば、彼には時間があったのだ。
急に鼻の奥がツンとしたが、彼女は無理やりその感情を押し殺した。
朔の視線が、寧々の手にある少し重そうな紙袋に落ちる。ほんのわずかに眉をひそめた。
凛が真っ先に沈黙を破り、相変わらずの優しい口調で言った。
「寧々さん、一人なの?そんなにたくさんの荷物、持ち歩くの、大変でしょ」
彼女は寧々の返事を待たずに、背後にいるボディガードに軽く顎で示した。
「寧々さんの荷物を持って差し上げて。家までお送りしてね」
ボディガードが一歩前に出ると、その大きな影がすっぽりと寧々を覆った。
寧々は紙袋の持ち手をきつく握りしめた。
朔は複雑な表情を浮かべ、何かを言おうとしているようだった。
「朔」
凛が彼の手首を軽く引いた。
「緒方社長がお待ちよ。そろそろ時間だわ」
「お気遣いなくよ」
寧々の声は乾き、自分でも気づかないほど微かに震えていた。
彼女はきびすを返し、逃げるように人混みへと紛れ込んだ。
ポケットの中でスマホが震えた。母親からのメッセージだった。
【寧々、いつ帰ってくるの?お父さんがあなたの好きな海老をわざわざ買ってきて待ってるのよ】
その文字を見つめていると、目頭がカッと熱くなり、スマホを取り落としそうになった。
【あと数日で帰るよ、お母さん】
そう返信を打ち込み、溢れ出そうになった涙を必死に引っ込めた。
仮住まいの小さなアパートに戻ると、廊下は静まり返っていた。
鍵を取り出した途端、隣のドアがギイッと開いた。
隣のおばあさんが顔を出し、湯気の立つ小さなお椀を手にしていた。
「浅野さん、おかえりなさい。ちょうどおぜんざいを煮たところなの。さあ、冷めないうちに食べて、体を温めて」
その温かい言葉が、寧々の冷え切った心にじんわりと染み渡った。
「ありがとうございます」
彼女はお椀を受け取った。指先に器の温かさが伝わってきた。
ドアを閉めると、狭いアパートの部屋には彼女一人だけになった。
明かりはつけず、窓から差し込む街灯の光を頼りに窓辺へ歩み寄った。
眼下の通りでは、車のライトが光の川のように流れている。
思考は自然と遠くへ飛んでいく。ここからそう遠くない高級レストランで、朔はきっと凛と一緒に、緒方社長とかいう人物を交えて談笑しているのだろう。
付き合い始めたばかりのあの冬を思い出す。あの時も寧々はたくさんの荷物を抱えていて、道で足を捻挫してしまった。
電話を受けた彼は、進行中のゼミを放り出して飛んできた。その顔は焦りでいっぱいだった。
雪の舞う夜、彼は寧々を背負い、一歩一歩家に向かって歩きながら小言を言った。
「どうして俺を待ってなかったんだ?重いものがあるなら俺を呼べっていつも言ってるだろ」
あの頃、彼の世界において「浅野寧々のこと」は常に最優先事項であり、何者にも邪魔される余地などなかった。
思い出が甘ければ甘いほど、現実は骨身に沁みるほど冷酷だ。
スマホが再び震えた。画面には見知らぬ番号からのメッセージが表示されていた。
【浅野様、藤堂社長のアシスタントです。
結城様より、お持ちの和菓子をご実家に配送する必要があれば、こちらで手配するよう申し付かっております。また、以前翠明(すいめい)ヴィラに残されていた私物につきましても、すでに梱包を済ませております。どちらへお届けすればよろしいでしょうか】
その事務的な文面が、寧々と朔の間に残っていた最後の繋がりを無情にも断ち切った。
鼻の奥がツンとする。込み上げる感情を抑え込み、白く曇る息を静かに吐き出しながら、彼女は返信した。
【自分で取りに行きます】
そして、かつて常に画面のトップに固定されていたトークルームを開いた。
そこにある最後のメッセージは、彼女が送った【朔、お年賀の買い物終わったよ】という言葉のままだ。返信は一切ない。
指先を画面の上でしばらく止めた後、彼女は力を込めて「削除」を押した。
続けて、新幹線のチケット予約アプリを開いた。
蒼葉市の夜景は相変わらず美しいが、この街も、この街にいるあの人も、もう彼女には関係のない存在になったのだ。
今はただ、両親が待つあの家へ、1日も早く帰りたかった。
第7話
週末。共通の友人である橘蒼太(たちばな そうた)の結婚式があった。
招待状を握りしめ、寧々は長く躊躇した。朔には会いたくなかったが、共通の友人としての長年の付き合いもある。顔だけ出してすぐに帰るつもりだった。
だが、座席表を見た瞬間、思わずため息をついた。恐れていた通りの配置だった。
彼女の席は主賓テーブルのすぐ隣で、朔と凛のすぐそばだったのだ。
寧々が近づいた時、朔はわずかに首を傾けて凛の話に耳を傾けていたが、一人でやって来た彼女の姿が視界に入った瞬間、その動きをピタリと止めた。
彼女は静かに席に着いた。
壇上の司会者は、新郎新婦の8年という長い交際期間について、学生時代から共に歩み、今日ウェディングドレス姿を披露するに至るまでの物語を言っていた。
背後のスクリーンには、初々しい学生時代のツーショットからロマンチックなウェディングフォトまで、甘い写真が次々と映し出され、その一枚一枚が無言のうちに二人の愛の深さと努力を物語っていた。
寧々はぼんやりと思い出した。自分と朔が付き合ってからも、もう7年になる。
自分たちにも、あんな風に輝いていた瞬間があった。
大学を卒業した年の冬、二人は借りた小さなアパートで肩を寄せ合い、毛布にくるまりながら1つのカップラーメンを分け合った。
朔はあの時、彼女の手を握り、窓の外に見えるまばらな花火を指差して言った。
「いつか必ず、君に一番盛大な結婚式を挙げてやる。誰のよりも綺麗な式にするからな」
付き合って3年目。寧々が急性の胃腸炎を起こし、痛みで床にうずくまったことがあった。
朔は彼女を背負い、誰もいない深夜の通りを無我夢中で走り、タクシーを探した。病院に着いた時、彼は汗だくで、どこで傷つけたのか足は痛々しく血みどろになっていた。
震える手で寧々の手を強く握りしめ、掠れた声で何度も医者に懇願した。
「助けてくれ、とにかく彼女を先に診てくれ」
……
司会者はまだ壇上で感情豊かに、新郎新婦がいかに困難を乗り越えて結ばれたかを語り続けている。
だが寧々には、その一言一言が針のように、穴だらけになった自分の心に突き刺さってくるように感じられた。
無意識に視線を上げ、斜め前の背中を見た。
彼は少し身を乗り出し、手慣れた様子で凛の皿に料理を取り分けている。
その光景はあまりにも自然で、ひどく目を刺した。
寧々は静かに視線を外し、喉がぎゅっと締まるのを感じた。
挨拶回りの時間になり、少し酔いの回った新郎の蒼太が、朔の肩をバシッと叩いて朗らかに笑った。
「朔!次はいよいよお前たちの番だな!急げよ!」
会場中が温かい笑い声と拍手に包まれた。
寧々はひっそりと席を立った。
角を曲がり、完全に姿を消すその瞬間まで、視線が影のようにずっと自分につきまとっているのを、彼女は感じていた。
……
翌日、寧々は翠明ヴィラの邸宅へ戻った。
ここに足を踏み入れるのはこれが最後だ。残っていた細々とした私物を引き取るためだけに来たのだ。
玄関に立ち、寧々の視線が広々としたリビングを巡る。
あの冬、二人がここに引っ越してきて、汗だくになりながら一緒にソファを組み立てた光景が目に浮かぶようだった。あの時彼は「ここが俺たちの家だ」と言ったのだ。
キッチンのアイランドカウンターを見る。
彼が残業から帰ってくるたび、彼女はここで簡単なうどんを作った。彼はいつも後ろから彼女を抱きしめ、「やっぱり家が一番落ち着く」と低い声で囁いた。
空気の中には、あの夜の温もりや食べ物の香りがまだ残っているかのような錯覚を覚えたが、指先が触れたのは、冷たくて硬い大理石のカウンターだけだった。
彼女は深呼吸をし、私物をまとめた箱を抱えて管理センターへ向かった。だが、そこで思いがけず凛に遭遇した。
「これからのここに関する手続きは、直接私に連絡して」
凛は管理マネージャーにそう指示を出し、それから穏やかな口調で寧々に向き直った。
「寧々さんは精算の手続きに来たのね。これからはもう、あなたに手間はかけさせないわ」
寧々は、管理画面上にある自分の情報が一件ずつ削除され、上書きされていくのを見ていた。まるで、彼女がここで過ごした時間そのものが、いとも簡単に消し去られていくようだった。
その時、管理マネージャーが一歩前に出た。
「浅野様、藤堂社長から申し付かっております。浅野様名義の駐車場の専用区画はそのままご利用いただけますし、関連する費用もすでに前払い済みとなっております」
それを聞いた凛は、表情からすっと笑みを消した。綺麗に整えられた爪でカウンターを軽く叩いたが、何も言わなかった。
寧々は一瞬呆然としたが、すぐに心の中に嘲笑が湧き上がった。
「結構です」
彼女は断った。
「私に関するすべての権限は、まとめて消去してください。よろしくお願いします」
彼女はもう凛の顔を見ることはなく、ダンボールを抱え、振り返って外へ出た。
ドアの外は日差しが眩しかった。彼女は、「家」に関する自分のすべての幻想が詰まっていたこの豪邸から一歩一歩遠ざかり、二度と振り返ることはなかった。