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あなたの愛は、いつも遅すぎた
桐本雪奈(きりもと ゆきな)が刑期を終えて出所してからというもの、桐本謙人(きりもと けんと)は自分を愛そうと努力するようになっていた。 結婚して5年目にしてようやく、彼が書斎に籠もり、柏尾侑香(かしお ゆうか)の写真を見つめながら夜を明かすことはなくなった。代わりに、優しく雪奈を抱き寄せて一緒に眠りについてくれる。 そしてスマホでピン留めしている連絡先も雪奈へと変わり、彼が目で追う相手も、ようやく雪奈になったのだ。 それなのに今度は逆に、雪奈のほうが彼を避けるようになっていた。 抱き寄せようとしても身をかわし、贈り物にも手をつけない。彼が心を込めて開いた誕生日パーティーでさえ、雪奈は主役として用意された席に無表情で座ったきり。最後まで表情ひとつ変えず、口元を綻ばせることすらなかった。 帰り道、車内は息が詰まるほど静まり返っていた。とうとう耐えかねた謙人が、乱暴にブレーキを踏み込んだ。車は急激に速度を落とし、路肩に停まった。 「雪奈、いったいどうしたんだ」 謙人が振り返る。いつもは冷静沈着で誇り高い瞳の奥に、抑えきれない感情が渦巻いていた。 「不満があるなら、はっきり言ってほしい。こんな回りくどいやり方で、俺を苦しめないでくれ」 雪奈はゆっくりと顔を向けた。かつて人目を引くほど華やかだったその面差しに、今は少しの感情も浮かんでいない。 「不満なんてないわ。3年も刑務所で過ごしたのよ。今さら何を望めというの?」
チャプター (1)
第1章
桐本雪奈(きりもと ゆきな)が刑期を終えて出所してからというもの、桐本謙人(きりもと けんと)は自分を愛そうと努力するようになっていた。
結婚して5年目にしてようやく、彼が書斎に籠もり、柏尾侑香(かしお ゆうか)の写真を見つめながら夜を明かすことはなくなった。代わりに、優しく雪奈を抱き寄せて一緒に眠りについてくれる。
そしてスマホでピン留めしている連絡先も雪奈へと変わり、彼が目で追う相手も、ようやく雪奈になったのだ。
それなのに今度は逆に、雪奈のほうが彼を避けるようになっていた。
抱き寄せようとしても身をかわし、贈り物にも手をつけない。彼が心を込めて開いた誕生日パーティーでさえ、雪奈は主役として用意された席に無表情で座ったきり。最後まで表情ひとつ変えず、口元を綻ばせることすらなかった。
帰り道、車内は息が詰まるほど静まり返っていた。とうとう耐えかねた謙人が、乱暴にブレーキを踏み込んだ。車は急激に速度を落とし、路肩に停まった。
「雪奈、いったいどうしたんだ」
謙人が振り返る。いつもは冷静沈着で誇り高い瞳の奥に、抑えきれない感情が渦巻いていた。
「不満があるなら、はっきり言ってほしい。こんな回りくどいやり方で、俺を苦しめないでくれ」
雪奈はゆっくりと顔を向けた。かつて人目を引くほど華やかだったその面差しに、今は少しの感情も浮かんでいない。
「不満なんてないわ。3年も刑務所で過ごしたのよ。今さら何を望めというの?」
第1話
謙人は、胸を強く締め付けられるような苦しさを覚えた。
凍りつくような車内の沈黙のあと、彼はようやく、絞り出すように口を開いた。
「あの一件を、君がまだ許せずにいるのはわかっている。だが、償うと約束したはずだ。これからの人生はすべて君に捧げる。俺も、必ず君を愛してみせる。君の言うことなら何でも聞く。だからどうか、少しは笑ってくれないか」
雪奈は無表情のまま、冷ややかな視線を彼に返した。
「何でも言うことを聞いてくれるの?なら、昔私が贈った結婚指輪、返してくれる?」
謙人の顔色がさっと変わり、ハンドルを握る手に力がこもった。
「どうして今さらそれを?」
「どうせつけてもいないじゃない。取り戻したいと思うのは当然でしょ」
「それ以外なら何だってする!」
謙人の声が低く沈み、有無を言わせぬ響きを帯びた。
雪奈はそれ以上何も言わず、ただ静かに彼を見つめ返した。
そんな彼女の様子に、謙人は胸が締め付けられるようだった。駄々をこねる子供を宥めるように、声を和らげた。
「雪奈、この数年で君がどれほど辛い思いをしてきたかはわかってる。これからは、侑香とは連絡を取らないようにする。だからもう、機嫌を直してくれないか」
言い終わらないうちに、スマホが鳴った。
秘書からだった。声がひどく切羽詰まっている。
「社長、大変です!柏尾さんが飛び降りました!今、病院に搬送されて緊急手術中です!」
「なんだと?すぐ行く!」
謙人の顔色が一変し、荒々しくアクセルを踏み込んだ。タイヤが路面を擦り、耳をつんざくような甲高い音を立てた。
車は矢のように飛び出した。急発進の反動でシートに背中を打ちつけられた雪奈は、声ひとつ上げず、ただ窓の外を眺めて自嘲気味に笑った。
連絡を取らないようにする、か。調子のいいことを言うのね。
病院に着くと、手術室のランプが赤く点灯していた。看護師が慌ただしく行き交い、誰の顔にも焦りの色が浮かんでいる。
秘書が額に汗をにじませて駆け寄ってきた。
「社長、柏尾さんは三階から転落し、全身を強く打ったうえ、複数箇所を骨折しています。医師の話では大量出血していて、RH陰性の血液が必要だと。市内中の血液センターに問い合わせていますが、まだ見つからず……」
謙人が弾かれたように振り返り、雪奈を見た。
雪奈は廊下の端で壁に背を預け、静かな表情で立っていた。
「RH陰性」という言葉を耳にした瞬間、彼が何を言おうとしているか、雪奈にはすぐに察しがついた。
案の定、謙人が歩み寄ってくる。その目の奥に、一筋の希望の光が宿っていた。
「雪奈、君もRH陰性だったよな?」
「そうよ」
雪奈は静かに彼を見返した。
「でも、侑香のために献血するつもりはないわ。あの人がどうなろうと、私には関係のないことだから」
言い終えて背を向けようとした瞬間、腕を強く摑まれた。
謙人が手首を握りしめている。血走った目で雪奈を見据え、懇願するような低い声で言った。
「雪奈、人の命がかかってるんだ。君が彼女を、そして俺を恨んでいるのはわかってる。でも、命には代えられない。頼むから」
雪奈の心が大きく揺れた。
謙人はこの北山市で誰よりも誇り高い男だ。これまで他人から頭を下げられることはあっても、自分から誰かに頼み込むことなど一度たりともなかった。それなのに、侑香のためなら彼は何でもする。
ふと、彼が哀れに思えた。そして、自分自身も。
大きく息を吸い込み、雪奈は言った。
「献血してもいいわ。その代わり、指輪を返して」
謙人の顔がみるみる険しくなる。
「どうしてそこまで、その指輪にこだわるんだ」
「なら、どうしてそこまで頑なに返さないの」
雪奈が問い返す。
謙人の呼吸が荒くなり、胸が大きく上下する。一度目を閉じ、再び見開いたときには、その目の縁がわずかに赤らんでいた。
「……あのとき、君は言ったんだ。もし俺と一緒にいたくなくなったら、自分からこの指輪を取り返しに来ると」
雪奈は黙ったまま、ただ静かに彼を見つめ返した。
謙人は必死に自分を落ち着かせ、声を抑えて語りかけた。
「雪奈、君が何年も俺を想い続けてくれていたのは知っている。指輪を取り戻したいなんて、本気で言ってるわけじゃないだろう。ただ俺を試して、気を引きたいだけなんだろう。
でも言ったはずだ。俺はもう、君を愛そうと必死に努力してるんだ。そんなに急かさないでくれ。一体、どうしろと言うんだ」
雪奈はやはり彼を見つめたまま、何も答えなかった。
手術室からまた看護師が飛び出してきて、苛立たしげに声を上げる。
「ご家族の方!まだ血液は届かないんですか、このままでは患者さんがもちません!」
雪奈は視線を外し、冬の木枯らしのように冷ややかな声で言った。
「もう一度だけ言うわ。指輪を返すなら、私が献血する。返さないなら、私は帰る。あなたは侑香が死ぬのを、黙って見届ければいいわ。さあ、どちらか選んで」
そして、冷然と数え始めた。
「三」
謙人の拳が固く握りしめられ、骨の節が白く浮き上がる。
「二」
その手がかすかに震えている。
「一」
「持っていけ!」
謙人がコートの内ポケットから指輪を取り出し、震える手で放り投げた。指輪は床に落ちて二、三度跳ね、雪奈の足元まで転がった。
掠れきった声で、彼は言った。
「持っていけ。侑香はもうもたないんだ。早く献血してくれ」
雪奈は身を屈めて指輪を拾い上げると、それを手のひらに固く握りしめたまま、何も言わずに採血室へと入っていった。
太い針が血管に刺さる瞬間、彼女はすっと顔を背けた。
謙人は彼女のそばに立ち、その青ざめた横顔を見つめながら、落ち着きを取り戻したかのように優しく囁いた。
「雪奈、君がこういう形で拗ねているだけなのはわかってる。俺はそれでも、君のそういうところも許すつもりだ。本当に、精一杯君を愛そうとしているんだ。だから、そんなに疑わないでくれ」
雪奈はただ窓の外を見つめていた。空はもうすっかり暮れかけていた。
「侑香の容態が気になる。ちょっと様子を見てくる」
謙人は身を翻し、去っていく。慌ただしい足音が遠ざかるにつれ、廊下には再び冷たい静寂が戻った。
雪奈はゆっくりと顔を向け、開け放たれたままの窓を見つめた。
手のひらには、二つの結婚指輪がある。彼のものと、彼女のもの。どちらも、かつて雪奈自身がデザインした特注品だった。
二つを一緒に握りしめると、雪奈は躊躇うことなく手を振り上げ、窓の外へと放り投げた。
指輪は眼下の人工湖へ落ち、水しぶきを立てて、あっという間に暗い水底へと消えていった。
謙人。あなたは私を愛そうとしているんじゃない。ただの罪悪感から、償おうとしているだけ。
そして私は、罪悪感からくる優しさなんていらない。償いも、いらない。
あなたのことも、もう、いらない。
第2話
採血はまだ続いていた。意識が霞み始めると、記憶の奥底に封じ込めていたはずの過去が、怒濤のように押し寄せてきた。
5年前。雪奈は北山市で最も華やかで、気高く咲き誇る紅い薔薇のようだった。
藤原家の令嬢であり、容姿端麗で家柄も申し分ない。華やかで自己主張の強い性格で、どこへ行っても人々の視線を一身に集めていた。
あの夜会で初めて謙人の姿を目にするまでは。
黒いスーツに身を包んだ彼は人混みの中心に立ち、片手にシャンパングラスを持っていた。傍らの相手と静かに言葉を交わす横顔にシャンデリアの灯りが落ち、涼やかな目鼻立ちと、どこか浮世離れした冷ややかな雰囲気を際立たせている。
その姿はまるで、雪原にそびえる氷の彫刻のように冷たく、近寄りがたかった。
雪奈の胸が大きく高鳴った。一目惚れなど信じたこともなかったのに、あの瞬間だけは信じてしまったのだ。
好きになったら、まっすぐに想いをぶつける。それが雪奈の流儀だった。だから彼女は、迷うことなく謙人にアプローチし始めた。
花を贈り、プレゼントを届け、偶然を装って会いに行き、彼の会社の前で仕事が終わるのを待った。
想いを隠すつもりなど毛頭なかった。堂々と、周囲が呆れるほど情熱的に、彼を追いかけた。藤原家の令嬢が謙人に恋い焦がれていることは、北山市中の誰もが知っていた。
けれど謙人は、いつまで経っても心を動かされなかった。彼女を見る瞳に嫌悪はないが、心を動かされた様子もない。ただ、どこか冷たい距離があった。まるで雪奈のしていることなど、幼い子供のままごとにすぎず、真面目に取り合う価値もないとでも言いたげに。
そして、あのパーティーの夜。雪奈が人前で再び想いを告げたとき、謙人はついに耐えかねた。
彼女をバルコニーへ連れ出すと、はっきりと告げたのだ。自分にはすでに愛する人がいる、と。ただ、その相手とは家柄が釣り合わず、家族も認めていない。今はどうにか穏便に済ませる方法を探っている最中なのだと。
雪奈は言葉を失った。
身を切られるようにつらかったが、もともと思い切りのいい性分だった。涙で目を真っ赤に腫らしながらも、潔く諦めると告げ、二人の幸せを願うと伝えた。
それで、すべて終わりだと思っていた。まさか桐本家の両親が、この縁談にひどく乗り気になってしまうとは想像もしていなかったのだ。
一か月後、桐本家の両親が二人のための食事の席を強引に設け、そこであろうことか、二人の飲み物に薬を混ぜたのだ。
翌朝目を覚ますと、雪奈は謙人の隣に横たわっていた。全身が軋むように痛む。口を開く間もなく扉が乱暴に開かれ、記者の群れがなだれ込んできた。フラッシュの白い光が瞬き、シャッター音が機関銃のように鳴り響く。
責任を取るため、そして両家の体面を守るため、謙人はこの望まぬ縁談を受け入れざるを得なかった。
結婚の準備が進む間、彼はずっと深く塞ぎ込んでいた。まるで厚い暗雲の下で燻る炎のように、いつ爆発してもおかしくない危うさがあった。
雪奈にはそれが見えていた。ある日の午後、彼女は書斎の扉を叩き、彼にこう言ったのだ。
「謙人。私は、望まれない結婚に泣きすがって責任を取らせるような女じゃないわ。まだ侑香のことが好きなら、一緒に抗いましょう。この縁談、白紙に戻せばいい」
彼はデスクの前に座っていた。目の前には書類の山があるが、その瞳はひどく虚ろだった。
「この結婚をしなければ、親たちは侑香に危害を加える」
謙人は言った。
「彼女はもう、俺のせいで十分すぎるほど苦しんできた」
ゆっくりと顔を上げ、雪奈を見つめる。その目には、複雑な感情が暗く渦巻いていた。
「雪奈、この結婚は避けられない。だが安心してくれ。彼女のことは、忘れる」
それが、彼が初めて雪奈と交わした約束だった。そして彼女は、その言葉を信じたのだ。
以来、彼は侑香と一度も会うことはなかった。
結婚式の当夜、侑香から着信があった。謙人は押し黙ったまま、通話終了ボタンの上で指を迷わせていた。
そのとき雪奈は、胸の痛みを堪えながらも冷静にこう言ったのだ。
「出れば、家族に知られてしまうわ。あなたがまだ彼女と繋がっているって。それじゃあ、彼女を守ろうとした意味がなくなってしまう」
謙人はちらりと彼女へ視線を向け、静かに電話を切った。
だが、まさにその夜。侑香は何者かに暴行されたのだ。
雪奈が後になって知ったことだが、あの着信は、侑香が謙人に助けを求めるためのものだった。
一人で一晩中酒を飲み、帰り道で暗い路地に引きずり込まれた。あの着信が、彼女が必死の思いでかけた唯一の電話だったのだ。
それ以来、侑香は重いうつ病を患うようになった。
何度も自殺を図った。手首を切り、睡眠薬を大量に飲み、ガス栓を開けたままにした。そのたびに謙人が駆けつけ、彼女を死の淵から引き戻した。
雪奈に、何が言えただろうか。何も言えなかった。
侑香は、謙人が心の底から愛した人だ。彼が生涯でただ一人、深く愛した女だったのだから。
我慢すればいつか終わる、そう信じていた。だがその先に、もっと底知れない奈落が待っているとは思いもしなかった。
ある日、侑香は車を運転中に事故を起こし、歩行者をはねて死亡させてしまった。防犯カメラには、彼女が信号を無視して交差点に進入する様子が、はっきりと残されていた。どう見ても、事故の責任は侑香にあった。
遺族は頑として示談に応じなかった。金も謝罪も要らない。ただ法的な責任を取らせると言って聞かなかった。
深夜、謙人は雪奈のもとを訪れた。
「雪奈。侑香のうつはもう限界だ。刑務所になんて入れたら、間違いなく中で死んでしまう。3年でいい。彼女の身代わりになってくれないか」
雪奈は拒絶した。どうして自分が、他人の代わりに刑務所へ行かなければならないのか。
だが謙人は、彼女に選ぶ余地さえ与えなかった。
雪奈を気絶させたのだ。次に目を覚ましたとき、彼女はすでに留置所の硬い寝台の上に横たわっており、傍らには偽造された自白調書が置かれていた。
檻の中で泣き叫び、暴れもした。しまいには誇りも尊厳もかなぐり捨てて、一度だけ電話をさせてほしいと留置担当官に懇願した。電話は長いこと鳴り続けたが、誰も出なかった。
もう一度かけ直してみても、やはり同じだった。
三度目。ようやく繋がったが、電話口に出たのは彼の秘書だった。
「社長は侑香様に付き添っておられまして、お電話に出られる状況にはありません。雪奈様、どうか役目を果たしてください。刑期を終えれば済むことですから」
刑期を終えれば済む――なんと軽々しい言葉だろう。
その夜、全身を血まみれにした雪奈は、静かに電話を切った。それ以来、二度と彼に電話をかけることはなかった。
そして謙人への愛情も、地獄のような3年のうちに跡形もなく消え去った。
刑期を終えて真っ先にしたのは、離婚届を突きつけることだった。
現在、離婚の手続きはすでに進んでいる。指輪を取り戻そうとしたのも、彼との最後の繋がりを完全に断ち切りたい、ただそれだけの理由だった。
採血はまだ続いていた。雪奈は体がどんどん冷え、意識が薄れていくのを感じていた。
看護師が針を抜き、脱脂綿を押し当てる。立ち上がった瞬間、ふっと膝から力が抜け、目の前が急激に暗転した。そのまま、彼女は深い闇へと沈んでいった。
再び意識が戻ったとき、雪奈は病室のベッドに横たわっていた。謙人は入り口に立ち、医師と深刻そうに話し込んでいる。
「少し採血しただけで、どうして急に倒れたんだ」
医師は検査報告書をめくりながら、重苦しい口調で答えた。
「桐本さん。雪奈さんの体には、以前に負ったと思われる傷の痕がいくつも確認されています。中には、かなり重いけがだったと考えられるものもあります。
もともと体力がひどく低下していたところに、今回の採血が重なり、容体が悪化した可能性があります。
それから、過去に流産された形跡もありますが、その際にも十分に回復しきらないまま、今日まで過ごされていたのではないかと……」
第3話
パリンッ――!
雪奈の体が激しく震え、ほとんど本能のままに伸ばした手で、ベッド脇の棚に置かれていたガラスのコップを払い落とした。
コップは硬い床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。とっくに死に絶え、もう痛むはずなどないと思っていた心が、その瞬間、不意打ちを受けたように鋭く抉られた。
そう。彼女は流産していたのだ。
3年前。妊娠検査薬に浮かんだ二本の線を見つめた、その日のうちに、謙人に事実を伝えることさえできないまま、彼女はあの生き地獄のような監獄へと、他ならぬ彼自身の手で送り込まれた。
刑務所での日々は、まさに地獄そのものだった。
髪を掴まれて壁に叩きつけられ、薄暗く湿った階段から突き落とされ、凍りつくように冷たいコンクリートの上に、意識を失うまで跪かされた。
ある日、前触れもなく激しい暴行を受けた。その最中、下腹部を鈍い刃物で容赦なく掻き回されるような激痛が襲ってきた。
狭い監房の隅にうずくまり、体の下に広がっていく赤黒い血だまりを見つめながら、あまりの激痛に叫び声すら上がらなかった。ただ唇を強く噛みしめ続けた。口の中いっぱいに、生ぬるい鉄錆の味が広がるまで。
誰も助けてはくれなかった。
冷たい床の上で、たった一人、自分の体をきつく抱きしめながら、まだ形をなさない小さな命が、少しずつ自分の体から剥がれ落ちていくのを感じていた。
大量の血が流れた。今日の採血など、到底比べものにならないほどに。
あの絶望的な痛みは骨の髄まで刻まれており、今でも思い出すたびに、手足の先まで冷たく震える。
けれど、彼が知る由もなかったのなら。あのとき彼の心も瞳も、すべて侑香だけに向けられていたというのなら……
今さら、知る必要もないことだ。
謙人はこちらの物音に気を取られ、医師が最後に告げた言葉をきちんと聞いていなかったらしい。彼は足早に歩み寄ると、腰をかがめて様子を確かめた。
「どうした?手に力が入らないのか?水を飲ませようか?」
雪奈は無言で首を振り、伸びてきた彼の手を避けた。医師は空気を読み、そっと席を外した。
謙人は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。長い沈黙のあと、掠れた声で口を開く。
「……あんなに傷を負っていたのに、どうして俺に言わなかったんだ」
雪奈は彼を見つめ、その問いがひどく滑稽に思えた。実際、ふっと笑いがこぼれた。口の端はわずかに上がっていたが、その目はまったく笑っていなかった。
「言ってどうなるというの?何度も看守に頼んで電話をかけたわ。でも、一度でも出たかしら?」
謙人の顔からさっと血の気が引いた。口を開きかけては閉じ、ようやく絞り出したのは短い弁明だった。
「……すまない。あの頃、侑香の容態が悪くて、俺はずっと付き添っていたんだ。刑務所には話を通して、君の面倒を見てもらうよう頼んでいたはずなのに、まさか……」
まさか、ね。雪奈は冷ややかに思った。この男の言い訳は、いつも「まさか」だ。
「もう終わったことよ。どうでもいいわ」雪奈は淡々と言った。「侑香のところに行けばいいじゃない」
謙人は首を振った。
「彼女はもう大丈夫だ。ここ数日は君に付き添う。どこにも行かない。雪奈、君を愛するよう努力すると言っただろう。今度だけは特別だ。もう二度と君を傷つけさせない。どちらか選ぶときは、必ず君を選ぶ」
雪奈はただ静かに彼を見つめ、何も言わなかった。
それから数日、謙人は言葉通りに行動した。
毎日病院へ通い、お粥を運び、果物の皮を剥き、検査に付き添い、散歩では歩調を合わせた。
スマホが鳴るたびに画面を一瞥し、すぐに切る。また鳴っても、また切る。彼は一度も電話に出なかった。
以前の雪奈であったなら、これほど心を尽くして寄り添われれば、夜も眠れないほど喜んだかもしれない。けれど今、彼の背中を眺めながら感じるのは、出来のいい芝居を見せられているような虚しさだけだった。
確かに演技はうまい。ただ、雪奈はもう熱心な観客ではなかった。
その日の午後、謙人は町の西側にある店へ、雪奈が昔好きだった栗菓子を買いに出かけていた。雪奈は一人で検査を受けに行き、廊下の角で偶然、侑香と出くわした。
すっかり痩せ細り、病衣を着たその体は、まるでハンガーに掛けられた布のように頼りなかった。それでも、あの潤んだ瞳だけは、清らかな泉を湛えたように美しいままだった。
雪奈は気づかないふりをして、脇をすり抜けようとした。
「雪奈さん」侑香が呼び止める。
雪奈は足を止めたが、振り返ることはしなかった。
侑香は彼女の正面へと歩み寄り、深く頭を下げた。顔を上げたときには、その目の縁がすでに赤く染まっていた。
「雪奈さん。私に血を提供してくださったのは、あなただと聞きました。命を救ってくださって、本当にありがとうございます」
「お礼はいらないわ。条件つきの献血だもの」
雪奈の声はひどく平坦だった。
「あなたは望み通りになった。私も望み通りになった。それでお互い貸し借りなしよ。あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわ」
そう言って立ち去ろうとしたとき、背後から再び声がかかった。
「あなたが私を嫌っているのは知っています」
侑香の声はかすかに震えていた。
「私自身、自分のことを軽蔑しています。でも、これだけは伝えたくて。私は、そんなに悪い人間じゃない。もし私が本当に何の取り柄もない女なら、謙人が何年も私を愛し続けるはずがないでしょう。
あのとき暴行されて、苦しくて、何度も絶望したけれど……それでも、あなたを恨んだことは一度もありません」
侑香は言葉を切り、涙をぽろぽろとこぼした。
「私があなたに一番申し訳なく思っているのは、あなたを身代わりにして、刑務所へ行かせてしまったことです。誓って言います。本当は、私自身が行くつもりでした。
でも……怖かったのです。私がいない間に、彼があなたを好きになってしまうのではないかと。あなたは私より、何もかも優れていらっしゃいます。家柄も、容姿も、お人柄も。だから……怖くなってしまったのです。私が臆病でした。
申し訳ありません。本当に、申し訳ありません。ただ、彼を愛しすぎていただけなのです。彼もまた、狂おしいほど私を愛してくれました。
それなのに……運命は残酷ですね。私たちは、どうしても一緒にはなれなかったのです」
第4話
侑香は話すほどに苦しげに顔を歪め、両手で顔を覆った。華奢な肩が小さく震え、指の隙間からとめどなく涙がこぼれ落ちる。
雪奈はただ静かに、その様子を見つめていた。
もし自分がただの傍観者であったなら、哀れんでハンカチも差し出したかもしれない。
けれど、雪奈は被害を受けた当事者だ。
あの3年の獄中生活は、彼女の誇りも輝きも、すべて塵芥のように踏みにじった。全身の骨を一本ずつ砕かれるような苦痛を受け、尊厳を幾度となく蹂躙されたのだ。とても許せるはずがなかった。
だから雪奈は、静かに彼女を見つめたまま言った。
「話は終わり?終わったなら、私は行くわ」
そのとき、廊下の奥で突然大きな騒ぎが起こった。誰かが悲鳴混じりに叫んでいる。
「止めろ!あいつ、刃物を持ってるぞ!」
病衣を着た男が駆け出してきた。手には鋭い果物ナイフが握られている。口の中でぶつぶつと何かを呟いており、「殺してやる」とでも言っているようだった。
周囲の人々が悲鳴を上げて四方に逃げ散る中、雪奈と侑香はちょうど男の進路上にいて、逃げる間もなかった。
男は狂ったように突進してくると、ナイフを深々と雪奈の腹に突き立てた。雪奈はくぐもった声を漏らし、よろめいて床に崩れ落ちる。
同時に、男は刃を翻し、もう一撃を侑香の下腹に突き刺した。
視界が白むほどの激痛の中、倒れる最後の瞬間に、雪奈は侑香もまた、血の噴き出す腹を押さえてうずくまるのを見た。
……
再び意識が戻ったのは、ひどく冷たい振動の中だった。
雪奈はストレッチャーの上に横たわり、猛スピードで運ばれていた。耳には無数の慌ただしい足音が響き、謙人が張り詰めた低い声で医師と激しく言葉を交わしているのが聞こえた。
「あの患者はHIV陽性者だ!刃物にはあいつの血がべったり付着していた!」
医師の声には、これまでにないほど切迫した響きがあった。
「雪奈さんと侑香さん、お二人ともすぐにHIV曝露後予防薬を投与しなければ!」
「今、病院ですぐに使える薬は一人分しかありません!残りは急いで調達中ですが、間に合うかどうかは分かりません。投与開始が遅れるほど、感染リスクは高まります!」
「桐本社長。この一人分は……どちらに先に投与しますか?」
雪奈は鉛のように重いまぶたを、ようやく開いた。霞んだ視界の中に、謙人の姿がある。あの涼やかで気高い顔が、激しい葛藤に歪んでいるのが見えた。
雪奈は全身の力を振り絞り、自由の利くほうの腕を伸ばして、謙人の指を強く握りしめた。
氷のように冷たい指先が彼の皮膚に食い込む。彼女は、途切れ途切れながらも揺るぎない声で、一言一言を絞り出した。
「謙人……あなた、言ったわよね。次はどちらかを選ぶとき、必ず私を選ぶって……っ」
声は涙で崩れかけていたが、そこに宿る切実な決意は微塵も揺るがなかった。
「私はもう、彼女の代わりに3年間も刑務所にいたわ……これ以上、彼女のせいで、取り返しのつかないことになるわけにはいかないの……!」
謙人の体が大きく震えた。青白く、それでも強い意志を宿した彼女の顔を見つめる。それは、彼が今まで一度も見たことのない雪奈の姿だった。
彼が知っている雪奈は、いつも自信に満ちて笑っていた。気高く、華やかで、どこまでも誇り高かった。
だというのに今、ストレッチャーの上で血まみれになり、紙のように白い顔をして、その瞳には怯えと必死の懇願だけが満ちている。
すぐにでも薬を投与してやりたかった。あまりにも大きな借りがある妻を、安心させてやりたかった。
だが次の瞬間、侑香のことが頭をよぎったのだ。ぼろぼろに壊された体、これまで幾度となく繰り返された痛ましい自殺未遂、泣きながら「もう耐えられない」と訴えた彼女の脆い姿。もしここでHIVに感染してしまったら――彼女はきっと、完全に正気を失ってしまう。
そして、それほどまでに侑香を深く愛している自分自身もまた、正気ではいられなくなる。
葛藤の末、彼は心を鬼にして、自分にすがる雪奈の指を一本ずつ、冷酷に引き剥がした。
「雪奈、怖いのはわかってる」
ようやく口を開いたその声は、ひどく掠れていた。
「でも侑香は……彼女は君より、精神的に脆いんだ。彼女のほうが、薬を必要としているんだ!」
「駄目」雪奈は必死に首を振った。涙が頬を伝い落ちる。「駄目よ……」
「雪奈……」
「お願い……」彼女の声は涙に濡れ、哀れなほど惨めに響いた。「お願いだから……ね?」
謙人は胸を強く押し潰されるような苦しさに襲われ、息が詰まった。
初めて出会ったあの日、誇り高く笑っていた紅い薔薇を思い出す。彼の車を追いかけながら「謙人、好きよ」と明るく叫んだ、あの眩しい姿を。
なのに今、彼女は血の海の中に横たわり、顔を青ざめさせ、全身を震わせながら、たった一度の選択を懇願している。
それでも彼は、非情にもその指を完全に振りほどいた。
「……できるだけ早く、次の薬を用意させる」
彼は雪奈の視線を避けながら、医師に告げた。
「たとえ君が本当に感染してしまったとしても……俺は絶対に君を見捨てたりしない。一生かけて君を愛すると誓う」
その言葉は、まるで死刑宣告のように、雪奈の魂を粉々に打ち砕いた。
「早く!侑香に投与してくれ!」
第5話
謙人の手から、雪奈の手がするりと滑り落ち、ストレッチャーの上に力なく落ちた。
雪奈は天井を見つめながら、音もなく涙を流した。
笑おうとしたのに、唇からこぼれたのは鉄錆の匂いがする赤黒い血だけだった。
――雪奈。あなたって、本当に愚かな女ね。
再び目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
若い看護師が包帯を交換しており、雪奈が目を覚ましたのに気づくと、ほっとしたような笑顔で言った。
「雪奈さん、やっと目が覚めましたね!本当に幸運でしたね。あんなに奥様を大切にしている旦那様がいて。
ご主人がヘリによる緊急輸送を手配して、たった二時間で予防薬を届けてもらったんですよ」
看護師は手際よく処置をしながら、心底羨ましそうに続けた。
「昨日から丸一日、ずっとあなたに付き添ってたんです。ついさっき、院長先生に休むようにと強く説得されて、ようやくお帰りになりましたけど」
雪奈は口の端をわずかに歪めた。その目の奥は、すべてが枯れ果てた荒野のように虚ろだった。
いい旦那様?
自分を刑務所という地獄へ送り込んだのも彼で、命を繋ぐはずだった一人分しかない薬を他人に優先したのも、すべて彼なのだ。
看護師は雪奈が黙り込んでいるのを見て、疲れているのだろうと察し、道具を片付けると病室を後にした。
雪奈は力の入らない体を無理やり起こし、水を飲もうとベッドを抜け出した。
廊下を通りかかると、侑香の病室の扉が半開きになっており、中の声がはっきりと聞こえてきた。
見るべきではなかった。
なのに、足が鉛のように重く、床に縫い付けられたように動かなかった。
扉の隙間から、侑香が背後から謙人にすがりつき、その広い背中に顔を埋めて、声を殺して泣きじゃくっているのが見えた。
「謙人……私、何でも我慢できるわ。でも、あなたが彼女との間に子供をもうけるのだけは、絶対に耐えられない。彼女との子供は作らないで。愛してるの。これ以上苦しめられたら、私、どうにかなってしまいそう……」
謙人は振り返り、両手で侑香の細い頬を包み込むと、親指で優しく涙を拭った。
「侑香、俺も愛してる。だが今回は、俺が雪奈に取り返しのつかないことをしてしまったんだ。君を助けようとして、彼女を感染させかけたし、あの3年の刑務所のこともある。
その償いとして、彼女の望む子供をもうけるしかない。でも俺の心は、ずっと君のところにあるんだ。いい子だから、わかってくれ」
侑香はいっそう激しく泣き崩れながら、背伸びをして謙人の唇に口づけようとした。
「どうして?どうして私たち、こんなに愛し合っているのに、結ばれないの!?」
謙人は最初こそ躊躇して拒もうとしたが、侑香はさらに強く抱きつき、口づけを深めながら、蔦が大樹に絡みつくように離れようとしなかった。
彼は目を閉じ、やがて抗うことをやめて、その切実な口づけに応えるように深く抱き寄せた。
雪奈は戸口に立ち、二人が抱き合い、深く口づけを交わす姿をただじっと見つめていた。
声を上げて泣き崩れるかと思ったのに、目はひどく乾いたままで、一滴の涙も浮かばなかった。
彼女は踵を返し、静かにその場を離れた。足音は軽く、誰の耳にも届かなかった。
数日間の入院中、謙人は毎日見舞いに来た。花束や手料理、細々とした贈り物を持ってきた。
不器用ながらも、慣れない優しい言葉を口にするようになった。ぎこちなくはあったが、以前よりはずっとましだった。
雪奈は何を言われても淡々と受け流し、顔色ひとつ変えなかった。
退院の日、謙人がわざわざ迎えに訪れ、家まで送り届けてくれた。
それからの日々、彼はずっとそばにいた。会社にも行かず、接待も断り、スマホは常に電源を切るかマナーモードにしていた。
手料理を振る舞おうとしては味付けに失敗し、髪を乾かそうとしては手つきがぎこちなく、眠れない夜に読み聞かせる本は退屈極まりなかった。
雪奈はそんな彼の涙ぐましい努力を見つめながらも、心にはさざ波ひとつ立たなかった。
むしろ、少し滑稽にすら思えた。まるで悪いことをした子供が、必死に埋め合わせをしようとしているのに、自分が犯した罪の重さすら理解していないような。
その夜。雪奈は風呂から上がり、髪も乾かさないままベッドへ向かった。横になった途端、謙人が背後から寄り添ってくる。
彼女を抱きしめ、顎を肩に載せると、耳元に唇を寄せて静かに口づけを始めた。
雪奈は一瞬固まり、きっぱりと彼を押しのけた。
「やめて」
謙人は虚をつかれたように動きを止めた。
以前なら、彼が少しでも積極的になれば、雪奈は歓喜していたはずなのだ。今、こうして冷たく押しのけられたことに、彼はまだ慣れていなかった。
「久しぶりだろう」謙人が再び身を寄せ、低い声で囁く。「嫌なのか?」
「嫌よ」
謙人はわずかに眉をひそめたが、すぐに不満を飲み込んだ。
彼はやり方を変え、声をさらに甘く和らげた。
「君、ずっと不安だったんだろう?子供ができれば、少しは気持ちも楽になるんじゃないか」
そう言って、また口づけようとする。
雪奈は再び彼を押しのけると、身を起こし、彼の目をまっすぐに見据えて、一語一語、はっきりと告げた。
「子供はいらないわ」
謙人は言葉を失った。
「以前は確かに、あなたとの子供を心から望んでいたわ」
雪奈の声はひどく落ち着いていた。
「でもその子は――死んだの」
第6話
次の瞬間、スマホが鳴った。
謙人は雪奈の告白を最後まで聞くことなく、スマホの画面に目を奪われた。一目見るなり、さっと顔色を変える。
「侑香が浴室で転んだらしい。ちょっと様子を見てくる」
彼は慌てて身を翻してベッドを下り、コートに袖を通し始めたが、途中で手を止め、振り返って雪奈を見た。
「君も一緒に来てくれ」
「行かないわ」
雪奈は再び横になり、彼に背を向けた。
「雪奈……」
「一人で行けばいいじゃない」
謙人はわずかに躊躇した。
「浴室で転んだんだ。服を着ていないかもしれない。俺が行くのはまずい。君は女なんだから、様子を見に行ってやってくれ。それに、君がいれば、俺と彼女の間に何もないことも、君にわかってもらえるだろう」
雪奈は目を閉じたまま、平坦な声で答えた。
「あなたたちの間に何があろうと、興味ないわ」
謙人の動きが止まった。彼女の背中を見つめる声には、信じられないという響きがあった。
「今、何て言った?興味ないってどういうことだ?」
雪奈は答えなかった。
「雪奈、俺を見ろ!」
彼女は動かない。
謙人はベッドの反対側に回り込み、しゃがみ込んで彼女の肩を強引に摑み、無理やり自分のほうを向かせた。
その目には困惑と傷ついた色、そしてわずかな屈辱と怒りが入り混じっていた。
「昔の君はこうじゃなかった。俺が侑香と一言二言話しただけで、何日も落ち込んでいたじゃないか。それが今は、興味ないだと?」
「人の心は変わるのよ」
雪奈は淡々と言った。
謙人はしばらく彼女を睨みつけていたが、結局何も言わず、立ち上がると彼女をベッドから引き起こした。
「一緒に来てくれ」
雪奈は半ば強引に引きずり出され、車に押し込まれた。道中、二人とも一言も口を利かなかった。
侑香のマンションに着くと、浴室の扉は閉ざされ、中から途切れ途切れに苦しげな呻き声が漏れていた。
「中を見てきてくれ」
謙人が雪奈の背を押した。
雪奈が扉を開けると、侑香は床に座り込んでいた。服はずぶ濡れで、髪は乱れ、目は泣き腫らしていた。
雪奈を見ると一瞬固まり、すぐにその後ろへ視線を向けた。
「謙人は……?」
「外よ。自分で立てる?立てないなら彼を呼んでくるけど」
雪奈が背を向けようとすると、侑香が突然、その手首を強く摑んだ。
「あの電話をかけたとき、あなたたち、していたの?」
侑香の声は涙にくぐもっていた。
「妊活していたの?謙人の子供を産むつもりなの?」
雪奈は答えなかった。
「ごめんなさい、二人の邪魔をするつもりは……」
侑香は涙をこぼしながら、それでいてひどく刺のある声で続けた。
「でも、本当に我慢できないの!お願い、彼との子供だけは作らないで!自分なら耐えられると思ってたのに……無理、おかしくなりそう!」
雪奈は取り乱す侑香を冷ややかに見つめながら、静かに言った。
「子供はできてないわ。これからもできない」
侑香は信じず、手首を摑む力をさらに強めた。
「嘘よ!あなたたち、ここ数日ずっと一緒にいたじゃない。絶対に体を重ねたはずよ……!」
「侑香、手を放して」
「信じない……!」
侑香が強く引っ張ったせいで、雪奈の手首に鋭い痛みが走った。とっさに手を振り払う。
侑香が悲鳴を上げ、体が後ろに大きく倒れ込んだ。後頭部を浴槽の縁に激しく打ちつけ、ゴツンという鈍い音が響く。
扉が開き、謙人が飛び込んできた。倒れている侑香の姿が、真っ先に目に入る。
「侑香!」
駆け寄って抱き起こし、後頭部の傷を必死に確かめる。
「どうしたんだ!?」
雪奈が説明しようと口を開きかけたとき、侑香が先に、息も絶え絶えの声で途切れ途切れに言った。
「謙人……雪奈さんが、私の裸の写真を撮って、あなたと別れないとネットにばらまくって脅したの。スマホに何枚も撮ってあるって……どうしよう、どうしよう……」
「でたらめよ!」
雪奈の声に、初めて激しい怒りが滲んだ。信じられないとでもいうように、侑香を睨みつける。
「侑香、いい加減なことを言わないで」
「雪奈さん、あなたが私を恨んでいるのはわかってます。でも、こんな屈辱を与えなくてもいいでしょう……」
侑香はますます涙を溢れさせ、怯えたように謙人を見上げる。
「謙人、怖いよ……」
「侑香!」
雪奈は怒りに体を震わせながら、彼女を指差した。
「よくもそんな嘘をでっち上げられるものね!あなたの狙いなんてお見通しよ!言っておくけど、私は謙人との子供なんて作らない。だからそんな手を使う必要はないわ!
人を貶めるにしても、もう少しましな言い訳を考えたらどうなの?今すぐ謙人に私のスマホを見せてあげる。あなたの裸の写真なんて、一体どこにあるっていうのよ!」
「黙れ!」
謙人が怒鳴り声で二人の争いを断ち切った。
大股で歩み寄ると、雪奈の手からスマホをひったくり、画面も確かめずに硬い床へ叩きつけた。
パリンッ――!
スマホは粉々に砕け散り、破片が周囲に無惨に飛び散った。
謙人は雪奈を睨みつける。その目には、激しい嫌悪と怒りだけが渦巻いていた。
「雪奈。君を愛そうと努めると言ったが、侑香に手を出すことだけは、絶対に許さない!」
雪奈は床に散らばったスマホの破片を見つめ、次いで怒りに歪んだ謙人の顔を見上げた。心が底の底まで冷たく沈んでいく。掠れた声で問う。
「……つまり、私よりも、彼女を信じるのね?」
これほど見え透いた嘘なのに。確かめもせず、迷わず侑香を信じるというのか!
「侑香は純粋で優しい。嘘をつくような女じゃない!当然、俺は彼女を信じる!」
謙人は冷たく吐き捨てた。
「俺が世界で唯一信じるのは侑香だけだ!」
言い終えると、床に座り込んだ侑香をいたわるように抱き上げ、雪奈には冷ややかな一瞥を向けただけで、そのまま部屋を出ていこうとした。
まだ怒りが収まらなかったのだろうか。雪奈のそばを通り過ぎるとき、彼の肩が強くぶつかってきた。
明らかに、わざとぶつかったのだ。
先ほどの揉み合いでまだ体勢が崩れていた雪奈は、その勢いに耐えきれず、後ろへと倒れ込んだ。
ガシャァァン!
背後には、装飾用の大きなガラスパネルがあったのだ。
巨大なガラスパネルが轟音を立てて砕け散り、無数の鋭い破片が凶器となって降り注いだ。剥き出しの肌が容赦なく切り裂かれ、とめどなく噴き出す鮮血が薄い衣服と床を無惨な赤に染め上げていく。
第7話
雪奈は血の海の中でうずくまり、痛みに身悶えしていた。謙人もまさかここまでの事態になるとは思っていなかったのか、はっとして足を止め、振り返ろうとした――
「ひっ……!血……血がいっぱい……私、駄目……っ!」
腕の中の侑香がか細い悲鳴を上げ、力なく体を崩して、顔を謙人の胸に深く埋めた。
その、あまりに絶妙なタイミングの悲鳴が、謙人の中にわずかに芽生えかけていた迷いを、一瞬にして断ち切った。
彼は一度だけ、ガラスの破片の中に血まみれで倒れ、息も絶え絶えの雪奈に目をやった。その瞳に浮かんだ動揺は、すぐさま冷たい光に覆い隠された。
「自業自得だ」
彼は床の雪奈に、温度のかけらもない声で言い放った。
「自分で救急車を呼べ。二度とくだらない小細工はするな」
言い終えると、彼は二度と雪奈を振り返ることなく、侑香を抱いたまま、大股で立ち去っていった。
雪奈は激痛に打ちひしがれていた。だが、全身を苛む痛みでさえ、胸の痛みには遠く及ばなかった。
固く閉ざされた扉を見つめながら、彼女はゆっくりと目を閉じた。
……
再び目を覚ましたとき、雪奈は見慣れた自宅のベッドの上にいた。
傷はすでにきちんと手当てされている。意識を失う直前、最後の力を振り絞って、かかりつけ医を呼んでいたのだ。
ノックの音がして、謙人の秘書が入ってきた。その顔には、どこか気まずそうな、複雑な表情が浮かんでいる。
「雪奈様」
秘書は静かに言った。
「侑香様の心の傷が深いようで、社長はしばらく付き添うことになりました。今回のショックが大きかったため、数日だけお待ちいただければ、その後は侑香様との連絡を完全に絶つとのことです」
雪奈は天井を見つめたまま、静かに横たわっていた。声は弱々しくも、はっきりとしていた。
「……いいのよ。ずっとあの子のそばにいればいいわ。悲劇の恋人同士、せいぜい幸せになってもらいましょう」
秘書はため息をつき、なだめようとした。
「どうか、意地を張らないでください」
雪奈は目を閉じ、それ以上何も言わなかった。
秘書はもう一度深くため息をつくと、サイドテーブルに宅配便の袋を置いた。
「これはあなたがお休みになっている間に届いたものです。弁護士事務所からのようです。ゆっくりお休みください。私はこれで」
足音が遠ざかり、扉が閉まった。
部屋には再び静寂が戻った。
しばらくして、雪奈は体を支えながら起き上がり、その袋を手に取った。
開けると、中には薄い書類ファイルが入っている。
中を確認すると、案の定、すでに手続きの済んだ離婚届受理証明書が入っていた。
【離婚届受理証明書】という無機質な活字を、彼女は長い間見つめていた。
やがて笑った。ほんの一瞬だけ。そのあとに、涙がこぼれ落ちた。
涙を拭うと、証明書をしまい、ベッドを下りてクローゼットを開け、荷造りを始めた。
荷物は多くなかった。着替えが数着、本が何冊か、そして一枚の古い写真。
写真の中には、18歳の彼女が写っていた。大学の正門前に立ち、赤いワンピースを着て、華やかに、屈託なく笑っている。まるで、咲き誇る一輪の真紅の薔薇のように。
その写真をカバンに入れ、ファスナーを閉めた。
夜風が吹き込み、肌寒かった。雪奈はスーツケースを引いて階段を下り、タクシーを拾った。
「どちらまで?」
運転手が尋ねた。
「空港まで」
車は高架道路を走り出し、街の灯りが背後へと遠ざかっていく。
雪奈は予備のスマホを取り出すと、SIMカードを抜き取って真っ二つに折り、開けた車窓から放り投げた。
これで、謙人という男は、もう私の人生から完全に消え去った。
第8話
謙人は侑香のマンションに三日間泊まり込んだ。
三日目の夕方。侑香の傷はすでに処置され、後頭部は三針縫われていた。医師は大事には至らないが、安静が必要だと言った。
侑香はベッドに横たわっていた。顔は青白く、目は泣き腫らしており、謙人のシャツの裾を固く握りしめて離そうとしなかった。爪が彼の肌に食い込み、いくつものくっきりとした跡を残している。
「謙人、行かないで」
その声はひどく掠れ、涙混じりだった。
「一人だと、怖いの……っ」
謙人はベッドの端に腰かけ、その様子を見つめながら、胸が詰まるような思いだった。
手を振りほどこうとしても、あまりにも強く握られている。少しでも動かすと、侑香はさらに激しく体を震わせ、涙をぽろぽろとこぼして枕に小さな染みを作った。
「侑香、もう休んだほうがいい」
彼の声は静かで、深い疲労と優しさが滲んでいた。
三日間、彼はまともに眠っていなかった。目の下には濃い隈ができ、顎には無精髭が目立ち始めている。シャツは皺だらけで、開いた襟元からは鎖骨の下にある浅い傷跡がのぞいていた。子供の頃についた傷で、侑香は昔からよく、その跡を指でなぞりたがった。
「彼女のところへ、戻るの?」
侑香の涙がまた溢れ、頬を伝って枕に染み込んでいく。
「約束したじゃない……心はずっと私のそばにあるって。嘘だったの?」
「嘘じゃない」
謙人は深くため息をつき、手を伸ばして彼女の頬を伝う涙を拭った。
指の腹が細い頬をなぞる。生温かく湿った感触だった。
この仕草を、彼は数え切れないほど繰り返してきた。侑香が十七歳だった頃から、彼女が泣くたびに、こうして優しく涙を拭い続けてきたのだ。
「侑香、俺は戻らなきゃならない。彼女は君の代わりに3年間、刑務所にいたんだ。償わないといけない」
侑香が弾かれたように体を起こした。急な動きで後頭部の傷が引きつり、痛みに息を呑む。一瞬顔が青ざめたが、それでも彼女は謙人を睨みつけたまま、目を逸らさなかった。目は血走り、真っ赤だった。
「償う?どう償うつもりなの?本当に、彼女との間に子供をもうけるつもりなの!?」
謙人は答えなかった。
「嫌……!」
侑香の声が悲鳴のように裏返り、涙がとめどなく布団にこぼれ落ちて、濃い染みを広げていく。
「謙人、私、何でも我慢できるわ。でも、これだけは無理!彼女の子供ができるなんて、私、おかしくなってしまう!本当に耐えられないの!
この数年、私がどんな思いで過ごしてきたか知ってる?毎晩眠れなくて、目を閉じるたびにあの夜のことがよみがえるの。あの男たちの顔が……私が生きていられるのは、あなたがいるからよ。
もし彼女との間に子供ができたら、私には何も残らない……!」
「侑香」
謙人は彼女の肩を押さえ、横にならせようとした。声には色濃い疲労と、どうしようもない諦めが滲んでいた。
「落ち着け」
だが侑香は暴れて言うことを聞かず、両手で彼の手を摑み、指を絡ませて力いっぱい握りしめた。爪が手の甲に食い込み、何本もの赤い筋を残す。
「お金で解決すればいいじゃない。お金でも、家でも、何でもあげればいい。謙人、彼女と離婚してよ。私たち一緒になろう?
ここを離れて、誰も私たちを知らない場所へ行きましょう。籍なんて入れなくていい、お金もいらない。あなたさえいれば、私はそれで十分なの」
謙人は彼女をじっと見つめた。
すっかり痩せ細っていた。以前はふっくらしていた頬はこけ、頬骨が浮き出ている。目の下は落ち窪み、鎖骨も痛々しいほど骨張っていた。
だぶだぶの病衣をまとった体は、まるでハンガーに掛けられた布のように頼りなかった。
それでも、あの目だけは変わらない。清らかな水を湛えた泉のように美しい目。
彼はふと、何年も前の彼女を思い出した。ポニーテールを揺らし、目を三日月のように細めて笑う可憐な少女。校庭に立ち、彼に向かって手を振りながら「謙人、こっち来て」と明るく呼んだ姿を。
陽射しが彼女の顔を照らし、風が髪をなびかせ、スカートの裾が軽やかに翻っていた。
あの頃、彼はこの人と一生を共にしようと決めていた。
それなのに今。彼女は紙のように薄く痩せ細り、瞳の輝きはとうに消え失せ、残っているのは執着と恐怖だけだった。
残酷な時間が彼女を壊したのか、それとも自分が彼女をこうしてしまったのか、彼にはわからなかった。
たぶん、両方だ。あるいは、どちらでもないのかもしれない。
「侑香、聞いてくれ」
彼は彼女の手を握り返し、声をできるだけ低く抑え、なだめるように言った。
「彼女とは離婚できない。少なくとも今は無理だ。親たちが俺たちを監視している。もし離婚したら、真っ先に君へ矛先が向く。君はもう、十分すぎるほど苦しんできただろう」
侑香の涙はさらに激しくなり、顎を伝って彼の手の甲にぽたぽたと落ちた。ひどく熱かった。
「それに……」
謙人は言葉を止めた。喉に何かがつかえたようで、口を開いても言葉が出てこない。
「彼女は君の代わりに3年間刑務所にいて、中でひどい目にも遭って、君を助けようとしてHIVに感染しかけたんだ。俺が彼女に負っている借りは、一生かけても返しきれない」
侑香は長い間、押し黙った。
窓の外の空が橙色から深い藍へと沈み、廊下のセンサーライトが灯った。謙人が「もう眠ったのだろうか」と思うほど、長い沈黙だった。
「……あなた、本当は彼女のことが好きになったんじゃないの?」
不意に、侑香が口を開いた。声はとても小さく、静寂に吸い込まれそうなほどか細かった。