第1章
結婚して3年。野崎葵(のざき あおい)は、これまでに108回も自ら命を絶とうとしていた。
そして108回目の自殺未遂のあと、葵が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。目を開けても、頭の中は真っ白だった。
何も思い出せない。自分が誰なのかさえ、分からなかった。
ベッドの脇には、中年の男女が2人並んで座っている。葵が目を覚ましたことに気づくと、2人は揃って眉をひそめた。
「葵、いつまでこんなことを繰り返すつもりなの?」
女性――川澄貴子(かわすみ たかこ)は、心配するどころか、苛立ちを隠そうともしなかった。「そもそも、裕介くんが好きなのは莉奈でしょう。あの時、酔った勢いで部屋を間違えたりしなければ、あなたと結婚することだってなかったのよ。
裕介くんがあなたを愛してないことくらい、分かってるでしょう?家に帰りたがらないのだって当たり前よ。それなのに、あなたは何度も『死ぬ』なんて言って、あの人を引き止めようとする。もう何年も同じことを繰り返してるじゃない」
一度息をついてから、冷たい声で続ける。「あなたが死のうとした時、裕介くんが一度でも駆けつけてくれた?」
「……そうだな」隣にいた男性――川澄健一(かわすみ けんいち)も、深いため息をついた。「お前が俺たちの本当の娘じゃなかったら、とっくに見放してるよ」
そして、葵を見つめたまま、ぽつりと言う。「本当に……お前は莉奈には遠く及ばないな」
葵は、ただ呆然と2人を見つめていた。
記憶はすべて失われている。自分が何者なのかも分からない。だからこそ、目の前にいる「両親」が自分に投げかける言葉を手がかりにするしかなかった。
夫には別に愛する女性がいること。そして、自分は何度も死のうとして、それでも誰にも振り向いてもらえなかったこと。
葵は、そんな言葉の断片から、失われた自分の人生を少しずつ拾い集めていくしかなかった。
自分は川澄家の一人娘だった。幼い頃に迷子になり、そのまま知らない人に連れて行かれてしまった。ようやく家族のもとへ戻された時には、すでに家には川澄莉奈(かわすみ りな)という養女がいた。
本来なら、自分を何よりも大切にしてくれるはずだった両親。けれど、2人の目に映るのは養女の莉奈ばかりだった。自分のためにあったはずの居場所も、いつの間にか莉奈に奪われていた。
やがて葵は、野崎グループの社長である野崎裕介(のざき ゆうすけ)に恋をした。けれど、その男の心にいたのも、やはり莉奈だった。
そして、あの夜の宴会。酔った裕介が部屋を間違え、葵を抱いた。
一夜の過ちの責任を取るように、裕介は葵と結婚した。けれど、その後も彼女に向けられるのは、冷たさと嫌悪ばかりだった。
両親からも、夫からも愛されていない。どれほど苦しくても、どうすることもできない。だから葵は、何度も自ら命を絶とうとしては、誰かに振り向いてもらおうとした。
第1話
「そろそろ帰るわ。莉奈にお弁当を作らないといけないから」そう言って、貴子と健一は立ち上がった。「あんたはここで、少し頭を冷やしなさい」
2人が病室を出て、扉が閉まった瞬間、葵の胸を鋭い痛みが突き抜けた。
何も覚えていないはずなのに、世界中から見捨てられたような絶望だけが、あまりにも生々しく胸に残っている。
どうして――
どうして世の中には、実の娘よりも養女を大切にする親がいるのだろう。
それに、裕介という男……
部屋を間違えたのは彼だ。人違いをしたのも彼だった。
それなのに、責任を取るために結婚してくれたのなら、どうしてもう少し優しくしてくれなかったのだろう。なぜ彼女を冷たく突き放し、追い詰めなければならないのだろう。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。聞かされたばかりの、見知らぬ過去。それだけで、心臓を鈍い刃物で切りつけられているように痛むのに、記憶を持っていた今までの自分――来る日も来る日も、父にも母にも愛されず、夫にも顧みられない日々を送っていた自分は、いったいどれほど絶望していたのだろう。
葵はゆっくりと上体を起こし、一人で退院の手続きを済ませた。
けれど、病院を出たところで、足が止まった。どこへ行けばいいのか分からない。
両親の家も、自分と裕介の家もどこにあるのかは分からない。
そのことより悲しいのは――どちらの家にも、自分の居場所がないことだ。
病院の入口で、突然ざわめきが起こった。
葵が顔を上げると、細身で背の高い男が、華奢な女性を抱きかかえたまま、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。
男は仕立ての良い黒いスーツを身にまとい、張りのある肩のラインがひときわ目を引く。整った顔立ちもさることながら、一歩一歩に人を圧倒するような存在感があった。
その腕の中には、か細い女性が大切そうに抱かれていた。
青白い頬を男の胸元に寄せ、女性はぐったりと身を預けている。男は何度も彼女の顔を覗き込み、その様子を確かめるように腕の力を微かに強めていた。
その仕草には、彼女を誰にも渡したくないという強い独占欲さえ滲んでいる。歩幅もいつの間にか小さくなっていた。少しでも揺らして、彼女に負担をかけることがないように。
「そこをどいてくれ」
彼の声は決して大きくなかった。それでも、その一言だけで周囲の人々は彼を避けるように道を開けた。
「ねぇねぇ、あの人って、野崎裕介じゃない?」
背後から、誰かが小声で囁く。
「そうそう!南山市であんな雰囲気を出せる人って、彼以外いないんだから!かっこよすぎて、腰が抜けちゃいそう……」
葵はその場に立ち尽くした。
――この人が自分の夫、野崎裕介。
そして、彼が抱いているのは……おそらく、自分の義妹である川澄莉奈なのだろう。
裕介が葵の横を通り過ぎる。その瞬間、彼の足がほんのわずかに止まった。
漆黒の瞳が葵を一瞥する。冷たい視線が、まるで氷の刃のように肌を撫でた。
けれど、それも一瞬のことだった。裕介はすぐに視線を逸らすと、腕の中の莉奈を抱えたまま、足早に救急外来へ向かっていった。
葵の細い身体が、わずかに震える。それでも、彼の後を追うことはしなかった。
自分はこれからどうすればいいのだろう。そう考えていた、その時だった。
背後から足音が聞こえてきた。
振り返ると――そこには、先ほど去っていったはずの裕介が立っていた。
裕介はいきなり葵の手首を掴んだ。あまりの強さに、葵は思わず眉をひそめる。「葵はRhマイナスの血液型だろ?」
返事を待つことさえせず、裕介はそのまま葵を採血室へ引っ張っていく。
「莉奈が事故に遭って大量に出血した。病院の血液も足りない。少し血を提供してくれ」
「え……?」
葵が何かを言おうとしたその瞬間、裕介の手が葵の後頭部を押さえた。そして、身を屈める。
唇が重なった。
冷たく、短いキスだった。触れたと思った次の瞬間には、もう離れている。
「これで、血を提供してくれるか?」低く落ち着いた声。その瞳には、温度がまるでなかった。
葵は何が起きたのか理解する暇もないまま、採血室へと押し込まれた。
扉の向こうから、看護師たちの話し声が聞こえてきた。
「ねえ、あの人が、108回も自殺未遂を繰り返した野崎さんの奥さんなんだって。最初は野崎さんにキスしてほしくて自殺しようとしたらしいよ。2回目はデートしてほしくて、3回目は一緒に夜を過ごしたくて……って。毎回断られてるのに、よくそこまでやるよね」
「そうなんだ……じゃあ、今日ようやく野崎さんにキスしてもらえたと思ったら、川澄さんに輸血するためだったってこと?」
「本人としては、複雑でしょうね。やっとキスしてもらえたのに、理由は他の女のためなんだから……」
採血用の椅子に横たわった葵は、ガラス窓の向こうをぼんやりと眺めていた。裕介は莉奈の病床のそばに付き添っている。長い指で莉奈の白い手をそっと包み込み、身を屈めると、その手の甲に軽く口づけた。
けれど、葵の胸には何も響かなかった。嬉しく、苦しくもない。
針が血管に刺さる痛みさえ、まるで夢のようで、現実味がなかった。かつてなら胸が引き裂かれるほど苦しんだはずの感情も、記憶を失った今は、すべてが淡く溶けていた。
何もかも忘れてしまったことは、もしかすると、神様が自分に与えてくれた慈悲なのかもしれない。
400ccの採血を終えると、葵は青ざめた顔で採血室を出た。目の前が何度も暗くなり、足元がふらつく。
それでも、しばらく迷った末、葵は裕介の前まで歩いていった。「裕介……私たちの家の住所、教えてくれる?その代わり、プレゼントを用意するよ」
裕介が眉をひそめる。「今度はなんの真似だ?自殺を繰り返すせいで、とうとう自分の家まで忘れたのか?」
「誤解しないで。私、記憶を……」
「運転手を外で待たせてある」裕介は葵の言葉を遮った。「送ってもらえ」
「わかった。ありがとう」葵は静かに答えた。「プレゼントは、ちゃんと用意するね」
「いらない」裕介の声は、どこまでも冷たかった。「君からのプレゼントなんて欲しくない。俺の機嫌を取ろうとする必要もない」
葵は目を伏せた。唇の端が、ごくかすかに上がる。
――果たしてそうだろうか。
今度のプレゼントは、きっと気に入ってくれる。
車に乗り込んだ葵は、スマホの連絡先から弁護士の番号を探し出し、メッセージを送った。
【いつもお世話になっております。野崎葵です。離婚と親子関係の解消を希望しています。離婚協議書と絶縁状を作成していただけますか?】
第2話
弁護士からすぐ返信が届いた。
【承知しました。早急に取り掛かります】
葵はスマホをしまい、車の窓を流れていく景色に目を向けた。
記憶を失ったのは、きっと神様がくれたチャンスなのだ。すべてを捨てて、ここから新しい人生を始めるためのチャンス。
「家に戻らなくていいわ」ふと思い立ち、運転手に告げる。「役所へ行って」
運転手は戸惑ったように一瞬固まり、ルームミラー越しに葵を見た。それでもすぐに気を取り直し、丁寧に答える。「承知しました、奥様」
役所で、葵は海外移住について問い合わせし、必要な手続きを進めた。職員からは、すべての手続きが完了するまで半月ほどかかると説明した。
申請書類をすべて提出し、車に乗り込もうとしたところで、葵はふと足を止めた。少し迷った末、運転手に声をかける。「運転手さん。今日のこと、裕介には言わないでください」
運転手は一瞬黙り、ハンドルを握る手にわずかに力を込めた。「奥様……旦那様からは以前より、私どもが奥様のことを話題にしないよう、言われております」
「……そうですか」
葵は小さく苦笑した。
――そこまで嫌われていたんだ。
自分の名前さえ、聞きたくないと思われるほどに。
……
家へ戻ると、葵は玄関に立ったまま、ゆっくりと辺りを見回した。どこか懐かしいのに、知らない空気を感じてしまう。
懐かしいと感じたのは、家具も、壁紙も、飾られた小物も、どれも自分の好みにぴたりと合っているからだ。きっとここを整えた頃の自分は、裕介との幸せな暮らしを心から夢見ていたのだろう。
けれど、今のこの家には、人の気配がほとんどなかった。
ソファに置かれた刺繍入りのクッションにそっと指を滑らせてから、葵は壁に掛けられた1枚の写真に目を向ける。
結婚式の写真だった。そこには、裕介を見つめる自分が写っている。瞳には隠しきれないほどの愛情が滲んでいた。対する裕介の端正な顔には、冷たさしかない。
葵は小さく首を振り、その場を離れて2階へ上がった。
寝室に入ると、何気なく引き出しを開ける。すると、奥から革張りの日記帳が滑り落ちた。
拾い上げて開く。
最初のページには、酔ったまま書いたような、頼りない文字が並んでいた。
【今日、裕介と結婚した。なのに、彼は何も言わず書斎へ行ってしまった。でも大丈夫。私は待てる】
ページをめくる。そこに綴られていた一日一日は、まるで刃物のように葵の胸へ突き刺さった。
【37回目。自殺しても、彼はやっぱり来てくれなかった。秘書から、莉奈が熱を出したと聞いた。彼は彼女の病室に一晩中付き添ったらしい。私は救急室のベッドで、点滴の音を聞きながら朝を迎えた】
【89回目。睡眠薬を大量に飲んだ。目を覚ましたら、廊下から彼が電話で「そんなに死にたければ、死なせろ」と言っているのが聞こえた。その瞬間、私は気づいた。死ぬより辛いのは、一番愛した人が、自分の死を願っていると知ることだ】
【108回目。諦めよう。今回も駄目だったら、きれいさっぱりに消えてしまおう。この世に私がいるかどうかなんて、誰も気にしていないのだから】
葵は、はっと息を呑んで日記を閉じた。心臓を素手で抉り出されたような痛みが走る。ふと目をやれば、手首に残る傷痕がひどく熱を持っているように感じられた。一つひとつの傷が、かつての自分が抱えていた絶望を、何も言わず訴えているようだった。
葵はその場にしゃがみ込み、両膝を抱えた。
――3年間。自分は、こんなにも惨めに生きていたのか。たった一度、裕介に振り向いてもらいたくて、捨てられた子犬のように必死に縋りついていた。
「大丈夫……」葵は涙を拭い、日記帳を引き出しの奥へ戻した。「野崎葵。誰にも愛されなくたって、いいじゃない」
窓から差し込む月明かりが、床に淡い光を落としている。葵はその光を見つめ、静かに続けた。
「自分が自分を大切にしてあげればいい。そうすれば、私は負けることはないわ」
それから数日、葵はがらんとした家で一人きりの時間を過ごした。裕介は一度も帰ってこなかった。
記憶がなければ、裕介への愛情も残っていない。
だから、一人で過ごすことを苦痛だとは思わなかった。むしろ、このまま静かに移住の手続きが終わるのを待つのも悪くないと思っていた。
そんな穏やかな日々を、母からの電話が突然打ち破った。
第3話
「明日は莉奈の誕生日よ。夜7時、ロイヤルホテルで」電話の向こうから、母の淡々とした声が聞こえた。「遅れないでね」
「私、行かな――」
「それじゃ」
言い終わるより先に、電話はあっさり切れた。断る暇すら与えてもらえなかった。
そして誕生日パーティー当日。葵は、手持ちの中でいちばんシンプルな黒のドレスを選んだ。
会場に足を踏み入れた途端、真っ先に目に入ったのは、招待客に囲まれた莉奈と、何日も姿を見せなかった裕介だった。
「莉奈さんって、本当に恵まれてるわよね」近くにいた女性客が、声を潜めて話している。「ご両親にも目に入れても痛くないほど可愛がられてるし、野崎社長まであんなに大切にしてるんだもの」
「本当よ。今回のパーティーも、野崎社長が自ら手配したって聞いたわ。ほら、あのシャンパン。わざわざ海外から取り寄せたものらしくて、1瓶で何十万円もするんですって。お花だって、今朝海外から届いたばかりのものだそうよ。会場も、莉奈さんが好きな画家の絵をイメージして作り込んでいて、総額は億単位だとか」
あちこちから聞こえてくる噂話に、葵は黙ってグラスに口をつけた。その視線の先にいるのは、裕介だった。
今日の彼は黒のスーツに身を包み、シャツの襟元を無造作に開けている。覗く鎖骨と気だるげな佇まいが、どこか余裕のある色気を漂わせていた。
そんな男が今は、莉奈の前にしゃがみ込み、ドレスの裾を丁寧に整えている。普段はあまり表情のないその顔に、柔らかな笑みまで浮かべていた。
「それでは、川澄ご夫妻から娘の莉奈さんへ、お祝いの言葉をいただきましょう!」
司会者の声が響く。
健一と貴子が莉奈の両脇に並び、3人でステージへ上がった。
健一は軽く咳払いをすると、会場を見渡した。「今日は皆さんに、ひとつ大切な報告があります」
一呼吸置いて、健一ははっきりと言った。
「川澄グループが保有する株式の60パーセントを、すべて莉奈に譲ることにしました」
その瞬間、会場が大きくざわめいた。葵は手にしたグラスを握る指に、思わず力を込める。
そのとき、裕介もステージへ上がった。ポケットから取り出したのは、ベルベットのジュエリーボックス。
蓋を開けると、中にはダイヤのアンティーク指輪が収められている。
「あれって、まさか野崎家の家宝なの?」会場から驚きの声が上がった。「あの指輪は、先代の奥様が長男の嫁に受け継がせるために残したものだって」
「嘘でしょう……それを妻の妹に贈るなんて。野崎社長、こんな大勢の前で葵さんに恥をかかせるつもりなのかしら」
ざわめきが広がる中、裕介は何も言わず、莉奈の左手を取った。そして、その薬指に指輪を通す。
まるで最初から彼女のために用意されていたかのように、寸分の狂いもなく収まった。
「お父さん、お母さん、裕介……プレゼント、本当にありがとう。でも、私が受け取ってもいいの?」莉奈はふと会場の隅にいる葵へ視線を向けた。そして躊躇いがちに言う。「だって……お姉ちゃんはお父さんたちの本当の娘で、野崎家の奥さんでしょう?こういうものは、本来お姉ちゃんが受け取るものじゃないの?」
その言葉を聞くと、健一と貴子はすぐに莉奈の手を取った。
「何を言ってるの。葵はもう野崎家に嫁いで、何不自由なく暮らしているじゃない。だったら、私たちがあんたのことを考えてあげるのは当然でしょう?」
貴子はそう言いながら、莉奈の手を優しく握る。「私たちの財産をあんたに残すのだって、当然のことよ」
健一も頷いた。その隣で、裕介が淡々と口を開く。「葵とは、あの事故がきっかけで結婚しただけだ。だから、その指輪は最初から君のものだ」
――その瞬間。
葵は、自分の存在そのものを否定されたような気がした。
両親の言葉は、頬を打たれたように痛かった。そして裕介の言葉は、それ以上に冷たく、鋭く胸に突き刺さった。
周囲から向けられる視線が、葵の逃げ場を少しずつ奪っていく。
同情するような目。面白がるような目。そして、隠しきれない嘲笑。
どの視線にも、「可哀想な人」と書かれているように感じられた。
そんな中、莉奈がこちらへ向けた視線だけは違っていた。そこには、まるで勝者が手に入れた戦利品を誇るかのような、かすかな得意げな色が浮かんでいた。
以前の自分なら、きっと耐えられなかっただろう。傷ついて、泣いて、消えてしまいたいと思ったかもしれない。
けれど今は、不思議なくらい何も感じなかった。
葵は静かにグラスをテーブルへ置いた。踵を返したとき、背後からひそひそと声が聞こえてくる。
「ほら、目が赤くなってる……」
「きっとトイレで泣くのよ」
「可哀想に。実の両親も旦那さんも、養女の莉奈さんのほうが大事なのね」
葵は足を止めなかった。そのまま真っ直ぐ化粧室へ向かう。
鏡に映った自分は、いつもと変わらず綺麗に化粧が施されていた。涙は一滴も流れていない。
もう何も覚えていないからだ。かつて自分がどれほど必死に両親の愛情を求めたのかも。裕介に愛してほしいと、どれほど願ったのかも。
何度も何度も自尊心を捨てて、ただ一度振り向いてもらうために縋ったことも。
かつて、手の届かない存在だと思って見上げていた人たちは、今の葵にとって、もう他人と何も変わらなかった。
あとは移住の手続きが終わるのを待つだけ。そして、これからは自分自身を大切にして生きていけばいい。
第4話
葵は口紅を塗り直し、化粧室を出ようとしたところで、廊下の角を曲がった先に人影を見つけ、足を止めた。
少し離れた場所で、裕介が莉奈を壁際に追い詰め、深く口づけている。
裕介の長い指が莉奈の髪に差し込まれ、もう片方の手は腰を強く抱き寄せていた。莉奈は顔を上向かせ、その白い首筋が緩やかな曲線を描いている。
どれほどそうしていたのか。ようやく裕介が唇を離すと、親指で莉奈の赤くなった唇をそっとなぞった。
「これで満足か?」
莉奈はその胸元に寄り添い、甘えるような声を出す。「裕介……私、やっぱり欲張りすぎるかな。もう家宝の指輪まで貰ったのに、それでもキスしてほしいなんて……お姉ちゃんが見たら、また傷ついちゃうよ。
でも……私だって寂しくて、辛いの。あの出来事さえなければ、私たちは一緒になっていたはずなのに……」
裕介の瞳に揺らぎはなかった。ただ莉奈をさらに強く抱き寄せる。「葵がどう思おうと、俺たちには関係ない。そもそも、俺はあいつが好きじゃない。これから先も、好きになることはない。俺が好きなのは、君だけだ。莉奈」
そう言って、裕介は再び莉奈に唇を重ねた。
その光景を、葵は物陰から見つめていた。心臓を、見えない手で力いっぱい握り潰されたようだった。息をするのも苦しい。
葵はそっと胸元を押さえる。
――これはきっと、昔の自分が彼を愛していた、その名残なのだ。
この痛みも、残っている熱も消えてしまえば、すべては終わりだ。
裕介と莉奈は、3分間近くキスをしてからようやく離れ、そのまま廊下の奥へと姿を消した。
2人が完全に見えなくなってから、葵はようやく物陰から出た。
深く息を吸い込み、乱れたドレスの裾を整える。
預けていたバッグを受け取って帰ろう。
そう思って宴会場へ戻った時、莉奈の声が聞こえた。
「お姉ちゃん!」
莉奈が駆け寄ってきて、葵の手首を掴む。「裕介が贈ってくれた指輪、どうして盗ったの?欲しいって言ってくれればあげたのに!」
「……盗った?」葵は一瞬、何を言われているのか分からなかった。「何の話?」
「まだシラを切るつもりなの?」莉奈の目が赤く潤んでいる。「私、さっき化粧室に行っただけなのに、戻ったら指輪がなくなってたの。スタッフの人も、お姉ちゃんが私のバッグの近くにいたって……」
その声を聞きつけ、健一と貴子も駆け寄ってくる。事情を聞くなり、健一は葵の頬を平手で打った。「葵、一日でも騒ぎを起こさないと気が済まないのか!」
頬に鋭い痛みが走る。何が起きたのか理解する暇もない。
貴子も甲高い声を上げた。「誰か、この子の身体を調べて!」
数人のスタッフがすぐに葵を取り囲み、乱暴にドレスを引っ張った。
「やめて!私、指輪を盗ってなんかないわ!」
必死に抵抗する葵。
だが次の瞬間――
ビリッ。
布が裂ける音が、宴会場に響いた。
ドレスの肩口が大きく裂け、白い肩が露わになる。周囲から驚きの声と、面白がるような笑い声が一斉に上がった。
「ありました!」スタッフの一人が葵のバッグから取り出したのは、あのダイヤの指輪だった。「やっぱり葵さんが盗んだんです!」
莉奈は指輪を受け取ると、ぽろぽろと涙をこぼした。「お姉ちゃん……もう証拠も出たのよ?まだ嘘をつくつもり?」
葵は全身を震わせながら、何か言おうと口を開いた。
そのとき、人垣がすっと割れた。重く落ち着いた足音が、こちらへ近づいてくる。
顔を上げると、裕介がこちらへ歩いてくるところだった。磨き上げられた革靴が大理石の床を踏むたび、その音が葵の胸を容赦なく打ちつける。
「なぜ指輪を盗んだ?」その声は決して大きくなかったが、たった一言で、ざわめいていた会場が一瞬にして静まり返った。「俺が一度でも、君を妻だと思ったことはない。自覚はないのか?」
葵は顔を上げ、冷えきった裕介の目を見つめた。
「葵、世の中には、君がどう足掻いても手に入らないものがある」薄い唇から紡がれる一言一言が、毒を塗った刃のように胸へ突き刺さる。「たとえ一生をかけても、無理だ」
葵はふっと笑った。
その笑顔に、裕介の眉がほんのわずかに動く。
葵が泣くところも、取り乱すところも、感情を爆発させるところも見てきた。けれど、こんなふうに笑う姿だけは知らなかった。
まるで何かから解放されたような、それでいてどこか彼を嘲るような笑みだった。
「私、盗んでなんかいない」
声は小さかった。けれど、その言葉は静まり返った会場の隅々まで、はっきりと届いた。
シャンデリアの光が葵の瞳に細かなきらめきを落としている。それは涙にも見えたし、星のようにも見えた。
「それに――」
葵はゆっくりと息を吸い込む。そして、もう迷うことなく、一語ずつ言葉を紡いだ。
「裕介、私はもう、あなたのことが好きじゃない」
第5話
その言葉が落ちた瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。
誰もが目を見開き、自分の耳を疑っている。
あれほど裕介を愛し、彼のためなら命さえ投げ出しかねなかった葵が――「もう好きじゃない」と言ったのだ。
一斉に注がれる視線の中、葵の前に立つ裕介だけは冷淡な表情を崩さなかった。瞳にも、わずかな揺らぎすらない。
「その手の駆け引き、今までで何回目だ?」低い声には、隠そうともしない嘲りが滲んでいた。「何をしたって無駄だと、何度も言っただろ」
裕介はわずかに身を屈めると、薄い唇を開いた。一語一語、葵の残された尊厳を踏みにじるように。
「俺は君が好きじゃない。何を言われても、好きになることはない」
その言葉を合図に、ようやく我に返った周囲から、ざわめきが押し寄せてくる。
「やっぱりね。葵さんが、急に野崎社長への気持ちを捨てられるわけないもの」
「そうよ。今まで、少しでも野崎社長に振り向いてもらおうとして、108回も自殺したって話じゃない」
「まったく……哀れというか、なんというか」
葵は指を強く握りしめた。爪が掌に食い込んでも、痛みなど感じなかった。
違う。駆け引きなんかじゃない。
本当に、もう好きじゃないのだ。
そう言い返そうと口を開きかけた、そのとき――
「皆さん、お騒がせして申し訳ありません」健一の厳しい声が響いた。「娘の教育が行き届いていなかったばかりに、盗みなどという恥ずべき真似をして、川澄家の名を汚してしまったようです」
そう言うと、健一は冷たく手を振った。「こいつをホテルの冷凍倉庫へ連れていけ。一晩頭を冷やさせろ」
葵の瞳が大きく見開かれる。「違う!だから、私は盗んでなんか――」
必死に訴える声は、誰の耳にも届かなかった。
2人の警備員が駆け寄り、葵の腕を乱暴につかむ。
彼らを振りほどこうともがいた瞬間、後頭部に激しい衝撃が走った。
「……っ!」
警棒で殴られ、葵の身体が大きくよろめき、視界が一気に暗くなった。
意識が途切れる寸前、葵の目に映ったのは裕介の姿だった。
彼はただそこに立ち、冷たい目で葵を見下ろしている。眉ひとつ動かすことなく。
しばらくして――
葵は、凍えるような寒さの中で目を覚ました。
睫毛には霜が張りつき、吐く息は白く煙っている。手足はすでに感覚がなくなるほど冷えきり、身体の中を流れる血まで凍ってしまったかのようだった。
冷凍倉庫の中は、人が長時間耐えられるような温度ではなかった。
薄いドレス一枚しか身につけていない葵の肌は、すでに青紫色に変わっている。
「……死ねない」震える身体を引きずりながら、葵は必死に扉のほうへ進んだ。「死んじゃ……駄目……」
海外移住の手続きは、もうすぐ終わる。
ここを出るんだ。
もうすぐ、新しい人生を始められる。
そう自分に言い聞かせながら、葵は残された力を振り絞り、少しずつ扉のほうへ移動する。そして、紫色に変わった指先で、分厚い金属扉を必死に叩いた。
「……助けて……」
声がうまく出ない。
それでも、何度も扉を叩く。
「お願い……誰か……助けて……」
掠れた声は、白い吐息とともに消えていく。けれど、扉の向こうから返事が聞こえることはなかった。
そのとき――
「もう、叩かないで」
扉の向こうから、笑いを含んだ甘い声が聞こえた。
葵の身体がぴたりと強張る。
莉奈だった。
「今、みんな私の誕生日を祝ってくれてるの。あなたのことなんて、誰も気にしてないわよ」くすりと笑う声には、隠しきれない得意げな響きがあった。「そういえばさ……」
少し間を置いて、莉奈が言う。
「今日って、あなたの誕生日でもあるんでしょう?残念ね。それを覚えてる人なんて、誰もいないけど」
葵は唇を強く噛みしめた。口の中に、鉄のような味が広がる。
「私は今、豪華なパーティー会場でみんなにちやほやされている。でもあなたは、こんなところで凍え死にかけてる……」莉奈の笑い声が、冷たい扉越しに響いた。「お姉ちゃん、あなたが本物の令嬢だからって、何になるの?結局、施設育ちの私に踏みつけられるだけじゃない?」
葵は目を閉じた。喉の奥から、血の混じったような苦いものが込み上げてくる。
そのとき、莉奈のスマホが鳴った。
わざとなのか、莉奈はスピーカーに切り替えたらしい。
冷凍倉庫の中まで、電話の向こうの声がはっきりと届いた。
「莉奈、どこにいる?」
裕介だった。
低く穏やかな声。そこには、葵が一度も聞いたことのない、甘やかな気遣いが滲んでいる。
「少しめまいがして……」莉奈はすぐに弱々しい声を作った。「今、休憩室にいるの……」
「そこで待ってろ。すぐ行く」
通話が切れる。冷凍倉庫には、再び静寂が戻った。
裕介が莉奈に向けた優しい声を聞きながら、葵はゆっくりと目を閉じた。
なぜだろう。ふいに、自分の日記に綴られていた長い夜を思い出した。
黄ばんだページに滲んだ文字。涙でぼやけた一文字一文字は、かつての自分が刻みつけた絶望そのものだった。
裕介が莉奈の誕生日を祝い、彼女に雪を見せるためだけに、回転レストランを一晩貸し切ったこと。
莉奈が熱を出したときには、一晩中その枕元に付き添い、自分の会社の上場セレモニーさえ欠席したこと。
莉奈を見つめるときの裕介の瞳には、春の雪を溶かすような暖かさが宿っているのに、自分へ向けられる視線には、凍てつくような冷たさしかなかったこと。
あれほど長い年月を、葵は哀れな配役のように、ただ暗がりに身を潜め、2人が愛し合う姿をただ見つめ続けるしかなかった。
幸いなことに――
自分はもう、裕介を愛してはいない。
そう思えたことだけが、今の葵にとって唯一の救いだった。
葵はほんの少しだけ口元を緩める。そして、そのまま意識を手放した。
第6話
次に目を覚ましたとき、葵は自宅のベッドに横たわっていた。
扉の向こうから、やけに大きな笑い声とアニメの台詞が聞こえてくる。音量が異様に大きく、壁まで震えているようだった。
葵は重い身体を起こし、扉を開ける。すると、リビングのラグに莉奈があぐらをかいて座り、両腕に抱えたお菓子を頬張りながら、テレビを見て大笑いしていた。
「あ、お姉ちゃん起きた?」莉奈が振り返る。まだ笑いの残る顔で、わざとらしく首を傾げた。「ごめんね。アニメの音、うるさかった?」
そう言いながら、ポテトチップスをわざと大きな音を立てて噛み砕く。「ここ数日、ちょっと胸が苦しくてね。こっちのほうは空気がいいから、裕介がしばらくここで療養したらって。少しの間、泊まらせてもらうね。お姉ちゃん、嫌じゃないよね?」
葵は無意識にソファへ目を向けた。
そこには裕介が座っている。細長い指で決算資料をめくり、金縁眼鏡の奥の目は冷静に書類へ向けられている。
これだけテレビの音が響いているというのに、眉ひとつ動かさない。
その瞬間、葵は日記に綴られていた言葉を思い出した。
【今日も彼が怒った。隣でリンゴを食べていただけなのに、咀嚼する音が仕事の邪魔だから、出ていけって言われた。
覚えておこう。これからは彼が書斎にいるとき、物音を立てないようにしなくちゃ】
それなのに、今は――
莉奈がポテトチップスの袋をくしゃくしゃと鳴らし、テレビでは大げさな戦闘音が響き渡っている。それでも裕介は、顔すら上げない。
愛しているか、いないか。その違いは、こんなにもはっきりしているのだ。
葵が何か言おうとした、そのとき。
「もし、あの事故がなかったら」裕介が突然、淡々と口を開いた。視線は書類から離れない。「ここは莉奈の家だった」
そして、冷ややかに続ける。「あいつは君の居場所を奪ったのに、わざわざ許可なんて取る必要はない」
「そうね。私の許可を取る必要なんてないわ」葵は静かに答えた。「好きなだけいればいいんじゃない?」
ページをめくろうとしていた裕介の指が、ほんのわずかに止まる。そして初めて顔を上げ、葵を見た。金縁眼鏡の奥で、目がわずかに細められる。
――葵らしくない。
これまでなら、取り乱して泣きわめくか、目を赤くしながら必死に涙を堪えるはずだった。こんなふうに、何事もなかったような顔で受け流すなんて、初めてだ。
だが、その違和感が裕介の中に留まったのは、ほんの一瞬だけだった。
すぐに視線を資料へ戻し、何事もなかったように仕事を続ける。
何せ、今まで葵のことを深く考えたことはないし、気に留める理由もなかった。
葵も、裕介が何を考えているかなど気にしなかった。そのまま寝室へ戻り、静かに扉を閉めた。
……
丸一日、葵は部屋に閉じこもったまま、扉の向こうから絶え間なく聞こえてくる騒々しい音に耐えていた。
莉奈はテレビの音量を最大まで上げてバラエティ番組を見ている。ハイヒールのまま無垢のフローリングを歩き回り、さらには裕介が大切に保管していたワインまで勝手に開け、フライドチキンに合わせて飲んでいた。
どれも、裕介が絶対に許さなかったことだ。
葵がうっかり本棚に触れただけで、冷たい目を向けられた。スリッパで足音を立てれば、眉をひそめて注意された。まして、彼が大切にしているワインに手をつけるなんて――
それなのに今、葵の耳には裕介の穏やかな声が聞こえてくる。「ゆっくり食べて。誰も取らないから」
夕食の時間になって、ようやく葵は部屋を出た。
ダイニングテーブルには、すでに料理が所狭しと並んでいる。莉奈は裕介の隣に座り、嬉しそうに目を細めていた。「ありがとう裕介、私の好物ばっかりだね!」
「もちろんだ」裕介の眼差しは柔らかかった。「君の好みは、忘れたことがないからな」
莉奈の頬がほんのり赤く染まる。そして、入口に立つ葵に気づくと、すぐに声をかけた。「お姉ちゃん、早くこっちに来て。一緒に食べよう」
葵は何も言わず、テーブルの反対側に腰を下ろした。
今の莉奈は、まるでこの家の女主人。対して自分は、たまたま訪ねた客のようだった。
目の前の料理を取り皿に移し、少しだけ食べたところで、突然喉がむず痒くなった。
葵は眉を寄せ、別の料理にも箸を伸ばしてみる。けれど、違和感は治まるどころか、みるみる強くなっていった。
「お姉ちゃん、どうしたの?」莉奈が突然、声を上げる。「手に赤いぶつぶつが出てる。もしかして、アレルギーじゃない?」
葵が腕を見ると、そこには赤い発疹がびっしりと浮かんでいた。
呼吸が次第に苦しくなっていく。声を出そうとしても、喉が塞がったように息しか漏れない。
必死に自分のバッグを指差す。中に薬が入っている。
莉奈は慌てて立ち上がり、バッグの中を確認しようとした。
その拍子に――
「あっ……!」
熱々のスープが入った茶碗に触れ、次の瞬間、中身が赤く腫れ上がっていた葵の腕にかかった。
「……っ!」
焼けるような痛みに、葵の目から涙が溢れ出す。
その向こうから、裕介が一気に駆け寄ってきた。けれど――
彼が抱き寄せたのは、莉奈だった。
「火傷してないか?」裕介は青ざめた顔で莉奈の手を確認しながら、ひどく優しい声で言う。「焦らなくてもいいのに。さぁ、病院に行こう」
葵の視界が、少しずつ暗くなっていく。意識を失う直前に見えたのは、莉奈を抱いたまま、その場を離れていく裕介の背中だった。
次に目を覚ましたとき、葵は病院のベッドに横たわっていた。
看護師が点滴を交換しながら、呆れたように言う。「かなりひどいアレルギー反応でしたよ。もう少し遅れていたら危なかったです。火傷も2度まで達していますし……ご家族の方は?病院に運ばれて、もう2日も経ちましたが……」
葵は何か答えようとした。けれど、その前に廊下から話し声が聞こえてきた。
「聞いた?野崎社長、病院のこのフロアを丸ごと貸し切ったらしいよ」
「うん、聞いた。莉奈さんの手が火傷したからだって」
「莉奈さん、本当に大事にされてるよね。あれぐらいの火傷、何もしなくても勝手に治るのに」
葵はゆっくりと目を閉じた。「……私には、家族がいません」
第7話
看護師は何か言いたげな様子を見せたものの、結局は何も言わずに病室を出ていった。
病室が静かになって間もなく、枕元のスマホが鳴った。
画面を覗くと、表示されているのは裕介の祖父、野崎茂雄(のざき しげお)の名前だった。
葵は思わず目を見開く。日記によれば、彼が野崎家で唯一自分のことを気にかけてくれた人物だった。
電話に出ると、受話器の向こうから、年老いてはいるものの、力強い声が聞こえてきた。
「葵、久しぶり。最近のことは全部聞いたよ、大変だったよな。でも心配するな、葵は裕介と結婚してるんだ、ちゃんと大切にしてもらわないと。じいちゃんが話をつけてやるよ」
記憶を失ってからというもの、周りの善意と愛を感じたのは初めてだった。
鼻の奥がつんと痛み、涙がこぼれそうになる。
「大丈夫です、おじいちゃん。私は平気だから」
「はぁ、葵は昔から、物分かりのいい子だった」茂雄は深いため息をついた。「本当は裕福な家のお嬢様なのに、幼い頃に連れ去られて、さんざん苦労したんだろう。それなのに実の両親はお前を気にかけるどころか、養女のほうばかり可愛がって……裕介もそうだ。
お前があいつのためにあれほど尽くしてきたのに……気難しくて扱いにくいあいつのために、葵は一からマッサージを覚えただろう。あいつが欲しがっていた数量限定のティーセットだって、何十店舗も探し回ってようやく見つけた。
裕介が胃出血して入院したときは、三日三晩ほとんど眠らずに付き添った。裕介の母親が亡くなったときだって、葬儀を一から取り仕切ったのはお前だった。それなのに、あいつときたら……お前の気持ちを少しも見ようとしない。いつか必ず後悔するぞ」
葵は白い天井をぼんやり見つめた。どれも自分には覚えのないことなのに、話を聞いているだけで胸の奥がずきずきと痛んだ。
「じいちゃんはこれから検査があるから、そろそろ切るね」最後に、茂雄は優しく言った。「何かあったら、遠慮せずにじいちゃんを頼りなさい。いつでも味方になってやるよ」
通話が切れてから、ほどなくして病室の扉が勢いよく開いた。
そこには裕介が立っていた。相変わらず隙のないスーツ姿に、冷え切った眼差し。
「さっきまでアレルギーを起こしてたのに、今度はじいさんに泣きついて庇ってもらうのか?」低く冷たい声が病室に響く。「自殺したり、じいさんを頼ったり、俺に看病してもらうために、君は本当に手段を選ばないな」
葵は何か言い返そうとした。けれど、裕介の目に浮かぶ侮蔑を見た瞬間、言葉を飲み込んだ。「……迷惑をかけるつもりはなかったの。自分がピーナッツアレルギーだって、忘れていただけ」
「ピーナッツアレルギーを忘れた?」裕介が鼻で笑う。「今度は、自分が誰なのかまで忘れた、とでも言うつもりか?」
葵は黙って彼を見つめた。
――そうだ。
自分が誰なのかさえ、忘れてしまったのだ。
愛に縋りつき、ひたすら尽くしていた自分も。何年もの間、胸の奥に刻みつけてきた絶望も。そして何より、かつて裕介を骨の髄まで愛していたことも。
けれど、それを葵は一言も口にしなかった。
おそらく茂雄に言われたからなのだろう。裕介は渋々、葵のそばに残って「看病」をすることになった。もっとも、裕介は看病らしいことを一つもしていない。
点滴の管に血液が逆流しても、裕介は見向きもしない。熱い湯が葵の手にかかっても、何の反応も示さない。息苦しさに耐えかねてナースコールを押しても、彼は葵を気にすることなく、ただ秘書に電話をかける。
「莉奈の火傷、もう薬は塗り替えたのか?……そうか。痕が残らないよう、一番いい塗り薬を届けておけ」
皮肉なことに、もう裕介を愛していないはずなのに、葵はそれでも、胸が締めつけられるような息苦しさを覚えた。
昔の自分は、この男をあれほど愛していた。その時の自分が、いったいどうやって、こんな日々を何年も耐え抜いてきたのだろう。
窓の外では、街路樹の葉がひらひらと舞い落ちている。それをぼんやり眺めているうち、葵はふと、日記の最後の1ページに残されていた言葉を思い出した。
【もし、あなたを愛さなくなった日が来たら――そのときは、きっと私の心も死んでいるはずだ】
今になって思えば、その言葉を書いた葵は、とっくの昔に死んでいたのかもしれない。
誰にも見向きもされなかった、数え切れない夜の中で、静かに息を引き取ったのだろう。
第8話
退院の日、病室には誰もいなかった。
葵には分かっていた。裕介はまた莉奈のところへ行ったのだと。
結婚して3年になるというのに、裕介が自分のそばにいた日は片手で数えられるほどだった。
もう慣れていた。葵は彼に連絡することなく、ただ海外移住の手続きが終わる日を待っていた。
その間も、莉奈のSNSには次々と写真が投稿されていた。
雪山でのスキー、異国の街での散策、南の島に沈む夕日――どの写真にも裕介が写り込み、その眼差しは目を背けたくなるほど優しかった。
最新の投稿は、雪山の麓で撮られた一枚だった。裕介の長い指が莉奈のマフラーを整え、きゅっと結び直している。その胸元に寄り添う莉奈は、満面の笑みを浮かべていた。
添えられていた言葉は、【彼は、世界を見せてくれるって】という一言だった。
葵は何の感情もなくスクロールをした。まるで、見知らぬ誰かの近況を眺めているように。
3日後。
ようやく役所から電話があり、手続きがすべて完了したと告げられた。葵は離婚届に名前を記入し、パスポートを手に取ると、法律事務所に向かって離婚協議書と絶縁状を受け取った。
これで準備は整った。ようやく、ここから離れられる。
葵は離婚届と離婚協議書、それから絶縁状を丁寧に折りたたみ、封筒に入れると、バッグの一番奥にある内ポケットへしまった。
ファスナーを閉じたその時、スマホの画面が突然明るくなった。
莉奈からのメッセージだった。
【お姉ちゃん、少し話さない?】
【何を?】
【裕介の奥さんになってもう3年だよね?そろそろ別れてくれない?】
葵は口元に薄い笑みを浮かべた。そして、短く打ち込む。
【言われなくてもそうするつもりよ】
送信すると、スマホをそのままバッグに放り込み、荷物をまとめるために家へ向かった。
玄関の扉を開けた時、いつもなら自動で灯るはずの照明がつかない。
葵は眉を寄せ、暗闇の中で壁に手を伸ばした。スイッチを探した、その瞬間――
後頭部に、激しい衝撃が走った。
視界がぐらりと揺れる。意識が遠のいていく中、葵の耳に届いたのは、莉奈と、もう一人の男が話す声だった。
……
次に目を覚ましたとき、刺すような冷たい風が葵の頬を吹きつけていた。
「……っ!」
葵が勢いよく目を開ける。自分がどこにいるのか分からず、視線を巡らせた瞬間――息を呑んだ。
自分は、崖の縁から宙吊りにされていた。
粗い縄が手首に食い込み、足元には底の見えない断崖が広がっている。
必死に首を動かすと、少し離れた場所にも人影が見えた。
莉奈だった。
彼女も同じように宙吊りにされており、顔面は蒼白で、身体を小刻みに震わせている。
「お目覚めかな?」近くに立っていた男が、煙草を咥えたまま薄ら笑いを浮かべた。「心配するな。お前らを助けてくれる人が、もうすぐ来る」
その言葉を合図にしたように、遠くからエンジン音が響いてきた。
何台もの黒いSUVが猛スピードで走ってきて、崖の手前で急停止する。
ドアが開き、裕介が大股で降りてきた。
黒いロングコートを身にまとい、険しい顔つきで崖を見据えている。周囲を圧するような空気をまとい、その場にいる誰もが息を呑んだ。
「金は渡す。人質を解放しろ」低く響く声には、有無を言わせぬ威圧感があった。
「さすがは野崎社長。話が早い」男はにやりと笑い、ボディーガードから受け取ったケースを開ける。中身を確認すると、満足そうに頷いた。「金は確かに受け取った。あとは社長ご自身でどうぞ」
そう言い残すと、男は仲間を引き連れて、その場からさっさと立ち去っていった。
葵の身体が、宙で大きく揺れる。支えている縄が、少しずつ緩み始めていた。崖の縁からは小石がぱらぱらと落ち、暗い谷底へ吸い込まれていく。
それでも、葵は歯を食いしばり、必死に冷静さを保とうとした。
「裕介!怖いよ!」莉奈が涙を流しながら叫ぶ。「助けて……!」
ボディーガードがすぐに縄の状態を確認した。険しい顔で裕介に告げる。「社長、このままでは縄がもちませんし、1人しか引き上げられません」
裕介は一秒たりとも迷わなかった。そのまま莉奈のほうへ向かっていく。
そのとき、健一たちの車も崖へ到着した。
車から降りた健一と貴子は、目の前の光景を見るなり悲鳴を上げる。「莉奈!」
「先に莉奈を助けて!早く!」貴子の声が裏返る。「あの子は身体が弱いのよ。こんなところに長くいたら耐えられない!」
健一もすぐに駆け寄り、救出に加わった。3人が力を合わせ、莉奈を崖の上へ引き上げる。
一方、葵を支えていた縄からは、とうとう限界を告げる音が響いた。
――バキッ!
身体が下へ落ちていき、崖の縁から崩れた小石が次々と谷底へ消えていく。
「奥様!」
裕介のボディーガードが咄嗟に駆け寄り、縄を両手で必死につかんだ。
粗い麻縄が彼の手のひらに食い込み、皮膚が裂ける。指の隙間から血が滴り落ちても、決して手を離さず、渾身の力で葵を引き上げた。
葵はその場にへたり込み、擦りむいた手首を見下ろした。皮膚は裂け、血で赤く滲んでいる。顔を上げると――
その目に映ったのは、莉奈を横抱きにする裕介の姿だった。彼は莉奈の頬を伝う涙を指先でそっと拭い、まるで別人のような優しい声で言う。「怖かったな。もう大丈夫だ。俺がついている」
健一は莉奈に自分の上着をかけ、貴子は莉奈の顔を両手で包み込むようにして、何度も無事を確かめている。「莉奈、大丈夫?母さん、本当に心配したのよ」
――なんて皮肉なのだろう。
夫や両親より、何の関係もない他人のほうが、自分の命を気にしていた。
皆が莉奈を取り囲み、車へ向かっていく。そこに、葵の姿を気に留める者は一人もいなかった。
「奥様……」ボディーガードがためらいがちに声をかける。「お怪我は大丈夫ですか?」
葵はゆっくりと立ち上がり、服についた埃を軽く払った。そして、ふっと笑う。「助けてくれて、ありがとう」
静かな声だった。
「……もう一つ、お願いしてもいい?」
葵はバッグから、あらかじめ用意していた離婚届と離婚協議書、そして絶縁状が入っている封筒を取り出し、ボディーガードに差し出した。
「これらの書類を、私からのプレゼントとして両親と裕介に渡して」
ボディーガードは書類を詳しく確認することも、質問をすることもしなかった。ただ頷き、受け取る。「分かりました。すぐに渡してきます」
葵はその場に残り、ボディーガードが裕介のもとへ向かうのを黙って見つめていた。
けれど、裕介は書類に目を向けることさえしなかった。「プレゼント?今はそんなものを確認している場合じゃない。グローブボックスにでも入れておけ」
健一と貴子も裕介と同じ、莉奈を慰めることに夢中で、葵からのプレゼントなど、気にも留めなかった。「怖かったでしょう。もう大丈夫、一緒に帰ろうね」
ボディーガードは困ったように2人を見ると、仕方なく書類を車の中へ入れた。
その光景を見つめていた葵は、ふっと笑った。
目の奥が熱くなる。
――大丈夫。いつかきっと、それを確認する日が来る。
葵は踵を返した。そして、一度も振り返ることなく道路へ向かって歩き出す。道端でタクシーを止め、後部座席へ乗り込んだ。
「空港までお願いします」
ドアが閉まり、車が走り出す。
バックミラーには、裕介が莉奈を抱えて車に乗り込む姿が映っていた。その後ろから健一と貴子も続いていく。
誰一人として、葵を振り返ることはなかった。
葵はそっと視線を外し、窓の外へ目を向けた。流れ去っていく景色を眺めながら、ゆっくりと目を閉じる。
――大丈夫。これから先、あの人たちが自分の人生に関わることはない。
タクシーは速度を上げ、葵を新しい人生へと運んでいった。