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私の次は、誰を愛するつもり?
娘が心臓発作を起こし、命を落としかけたそのとき。 24時間いつでも連絡がつくはずの黒川慎吾(くろかわ しんご)の電話は、何度かけてもずっと話し中だった。 危篤を告げられること三度。 ようやく娘の容体が安定し、ICUで経過観察となったあと、宮本奈月(みやもと なつき)は慎吾の秘書・川口穂香(かわぐち ほのか)が投稿したばかりのSNSで、ようやく彼の居場所を知った。 32歳になった慎吾は、以前にも増して端整な顔立ちをしていた。 年齢を重ねたことで、落ち着きと頼もしさまで身につけている。 カメラを見つめる表情は穏やかで、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。 その大きな手に包まれていたのは、ハイヒールを履いたまま、わずかに赤く腫れた女性の足だった。 【卒業してすぐ黒川社長の秘書になったことが、人生で一番正しい選択だった!ちょっと足をひねっただけなのに、社長はずっと電話で様子を聞いてくれて、最後にはわざわざ家まで来て薬まで塗ってくれた!】 そのときようやく、慎吾から電話がかかってきた。 男は淡々とした声で言った。 「どうした?」 「ずっと電話が話し中だった」 「忙しかった」 奈月の感情は、もう崩れる寸前だった。 「少し、私の話を聞く時間もないくらい忙しかったの!?」 「奈月」 慎吾は疲れたようにため息をついた。 「喧嘩する気はない。会社のことで忙しいんだ。俺にも余裕がないし、いちいちお前の感情に付き合ってられない。用がないなら切るぞ。今、忙しいんだ」 「娘が心臓発作を起こして、もう少しで――」 「お前が決めてくれ」 奈月が言い終えるより早く、慎吾は電話を切った。
チャプター (1)
第1章
娘が心臓発作を起こし、命を落としかけたそのとき。
24時間いつでも連絡がつくはずの黒川慎吾(くろかわ しんご)の電話は、何度かけてもずっと話し中だった。
危篤を告げられること三度。
ようやく娘の容体が安定し、ICUで経過観察となったあと、宮本奈月(みやもと なつき)は慎吾の秘書・川口穂香(かわぐち ほのか)が投稿したばかりのSNSで、ようやく彼の居場所を知った。
32歳になった慎吾は、以前にも増して端整な顔立ちをしていた。
年齢を重ねたことで、落ち着きと頼もしさまで身につけている。
カメラを見つめる表情は穏やかで、目元にはかすかな笑みさえ浮かんでいた。
その大きな手に包まれていたのは、ハイヒールを履いたまま、わずかに赤く腫れた女性の足だった。
【卒業してすぐ黒川社長の秘書になったことが、人生で一番正しい選択だった!ちょっと足をひねっただけなのに、社長はずっと電話で様子を聞いてくれて、最後にはわざわざ家まで来て薬まで塗ってくれた!】
そのときようやく、慎吾から電話がかかってきた。
男は淡々とした声で言った。
「どうした?」
「ずっと電話が話し中だった」
「忙しかった」
奈月の感情は、もう崩れる寸前だった。
「少し、私の話を聞く時間もないくらい忙しかったの!?」
「奈月」
慎吾は疲れたようにため息をついた。
「喧嘩する気はない。会社のことで忙しいんだ。俺にも余裕がないし、いちいちお前の感情に付き合ってられない。用がないなら切るぞ。今、忙しいんだ」
「娘が心臓発作を起こして、もう少しで――」
「お前が決めてくれ」
奈月が言い終えるより早く、慎吾は電話を切った。
第1話
穂香を秘書としてそばに置くようになってから、慎吾はいつもそうだった。
忙しくて家に帰る時間もない。奈月の話を聞く時間もない。家庭のことに気を配る余裕もない。
家具を買い替えるような些細なことから、引っ越し、娘の進学先まで、奈月が相談しても返ってくる言葉はいつも同じだった。
「好きに決めてくれ」
スマホの画面をもう一度、さっきのSNSの投稿に戻した。
そこに書かれている慎吾は、まるで奈月の知らない人のようだった。穏やかで、辛抱強くて、そこにはかすかな愛情さえ感じられた。
奈月はその文章を見つめ、それから顔を上げた。
ICUの病室を隔てるガラスには、自分の姿が映っていた。
ひどくやつれ、目は真っ赤に腫れ、今にも息絶えそうなほど憔悴している。
奈月はその場にずるずると座り込み、冷たい壁に後頭部を預けた。スマホを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。
母が慌ただしく駆けつけ、奈月が一人きりなのを見るなり、真っ先に尋ねた。
「慎吾は?」
奈月は首を横に振り、小さな声で言った。
「お母さん、私、離婚したい」
「どうして?」
母は理解できないという顔をした。
「あなたたち、大学を卒業してすぐ結婚したでしょう。二人で会社を始めた頃は、隙間風の入るような古いアパートに住んで、前の日の残り物で食いつないでたじゃない。あんなに苦しい時期を二人で乗り越えてきたのに、今は何もかも手に入ったでしょう。それなのに、どうして離婚なんて……」
そうだった。
あの頃は、わずかな食べ物さえ相手に残そうとするほど貧しくて、水を飲んで空腹をごまかしながら、それでも二人で馬鹿みたいに笑っていた。
何ひとつ持っていなかった。
あったのは、何の足しにもならない愛だけだった。
けれど今は、何もかも手に入った。
住む家はどんどん広くなり、車も増え、暮らしは豊かになっていった。
それなのに、二人の心だけは少しずつ離れていった。
奈月は静かに言った。
「慎吾の秘書ね、きれいで頭もよくて、人混みにいても目を引くような人なの」
「それがどうしたの?」
「お母さん、私はどこにでもいる普通の女だよ」
奈月は口元を歪めた。笑おうとしているうちに、唇に苦くしょっぱい味が滲んだ。
「何年も家のことばかりしてるうちに、平凡で、面白みもなくて……今じゃ、何の価値もないような普通の女になった」
母の声が厳しくなった。
「慎吾、浮気したの?」
奈月はゆっくりと首を横に振った。
慎吾が実際に浮気をしたわけではない。
少なくとも、奈月の知る限りでは。
けれど、裏切りは浮気だけではない。
心がほかの誰かに向くことだって、同じだった。
慎吾と一緒に会社を立ち上げた頃、奈月は彼の一番頼りになる右腕だった。慎吾が安心して背中を預けられる、かけがえのない仕事のパートナーだった。
事業が軌道に乗ってからは家庭に入り、慎吾を支える妻になった。
彼の成功を陰で支える、なくてはならない存在だった。
そして付き合い始めて10年目の今、奈月はただ、彼と日々の生活を回していく相手でしかなかった。
波風ひとつ立たない毎日の中で、慎吾の心を動かすこともない、ただそこにいるだけの存在。
奈月が慎吾にとって、もう特別な意味を持つ存在ではなくなった頃、穂香が現れた。
奈月と慎吾は夫婦なのに、いつからか互いが何を喜び、何に腹を立て、何を悲しんでいるのかさえ分からなくなっていた。
相手が毎日何をしているのかも知らない。
たまに顔を合わせても、黙っているか、穂香のことで言い争うかのどちらかだった。
やがて慎吾は、喧嘩をすることすら嫌がるようになった。
険しい顔のままドアを閉めて出ていき、奈月と顔を合わせようともせず、その声さえ聞きたがらなくなった。
夫はいるのに、夫がいないのと変わらない暮らしだった。
母はやはり娘が心配だった。
「だったら離婚しなさい。あなたもあの人と一緒に何年も頑張ってきたんだから、それなりに財産だってあるでしょう。離婚したって、これからちゃんと暮らしていけるわ」
奈月は娘の看病をしながら、離婚協議書の準備を始めた。
奈月も会社の創業者の一人だった。保有している株式は、慎吾より1%多いはずだった。
かつて株式を分けたとき、慎吾は真剣な顔で奈月に約束していた。
「奈月、俺たちのことを最後に決める権利は、ずっとお前に持っていてほしい。もし俺がいつか間違ったことをしたら、俺が築いたものを全部壊せるくらいの権利を、お前に渡しておく」
そう言ったあと、慎吾は笑って冗談めかして続けた。
「妻を大事にできない男なんて、失敗して当然だからな」
奈月は慎吾を破滅させたいわけではなかった。
ただ、自分のものを取り戻したかっただけだ。
ところが財産を整理している最中、弁護士から電話がかかってきた。
相手は戸惑った様子で確認してきた。
「宮本さん、現在、会社に宮本さん名義の株式はありません。こちらで確認したところ、宮本さんがお持ちだった株式は3年前に、ご主人によって川口穂香さん名義へ移されています。この件は、ご存じなかったのでしょうか。それとも、お忘れになっていたのでしょうか」
奈月はスマホを握る手に力を込めた。頭の中が真っ白になった。
第2話
奈月の背筋を、ぞくりと冷たいものが走った。
すっかり心が離れてしまったこの結婚生活の中で、慎吾は一体、奈月に隠れてどれだけのことをしてきたのだろう。
奈月はすぐに慎吾へ電話をかけた。
だが、何度かけても出ない。
それ以上はかけ直さず、そのまま車で会社へ向かった。
警備員や慎吾の秘書に止められても構わず、強引に社長室まで押しかけた。
ドアをわずかに開けた瞬間、奈月はその場で立ち尽くした。
室内では、慎吾が両手を脇に下ろしたまま立っていた。
その胸に、穂香が強く抱きついている。
慎吾の胸元に頬を寄せた穂香の顔は、涙で濡れていた。
穂香は奈月に気づくと、涙を湛えた瞳に一瞬だけ挑発的な色を浮かべた。
だがすぐに目を伏せ、涙声で言った。
「私のこと、好きなんでしょう?それなのに、どうして受け入れてくれないの?」
慎吾は答えなかった。ただ、指先だけが感情を押し殺すように、ゆっくりと握りしめられた。
その反応を見て、穂香はさらに感情を昂らせた。
何かを証明するように、慎吾がこれまで自分のためにしてきたことを、一つずつはっきりと口にした。
「5年前、奥様が羊水塞栓で生死の境をさまよっていたとき、あなたは私の家にいて、料理中に切った私の傷を手当てしてくれた。
そのあと、奥様が私をあなたのそばに置いておくことに耐えられなくなって、泣いて私を替えてほしいって訴えたときも、私が傷つけられるのを恐れて、奥様を精神科の医療施設に入れた。産後うつだって嘘までついて、私を守ってくれた。
それに、奥様が娘さんを連れて海外旅行に行って、犯罪者に誘拐されて金を奪われたとき。助けを求められて、二人が無事に戻れないかもしれないって分かっていたのに、それでもあなたは、私が仕事で出した損失を埋めるために会社の資金を全部回してくれた」
穂香の声は激しく震えていた。
「慎吾。これでも、私のことなんて何とも思ってないって言える?」
長い沈黙のあと、慎吾は掠れた声で言った。
「俺がお前をどう思っていようと、奈月を裏切るようなことはできない」
よくもそんな綺麗事が言えたものだ。
奈月は無意識に唇を噛み切っていた。口の中に血の味が広がり、心は一気に底まで突き落とされた。
娘と一緒に誘拐された、あのとき。
いくら待っても助けが来ず、犯人たちはついに痺れを切らした。奈月と娘を縛り合わせ、そのまま沖合の海へ投げ捨てた。
海水が肺に入り、あと少しで奈月は死ぬところだった。
娘もそのときの恐怖が原因で、心臓を患うようになった。
あの頃、慎吾は7日間、二人の病室の前から離れなかった。
あれほど意地の強い男が、奈月の前で初めて涙を流した。
何度も謝り、全部自分のせいだと言った。
確認もせず、いたずら電話だと思い込んだから、危うく二人を死なせるところだったのだと。
奈月は馬鹿みたいに慎吾を許した。それどころか、逆に彼を慰めさえした。
慎吾は知らなかっただけなのだと思っていた。
けれど、本当は何もかも分かっていた。
奈月が死と向き合っていたあの瞬間、慎吾は奈月を心配していたのだろうか。
それとも――奈月が死ねば、それでいいとでも思っていたのだろうか。
奈月さえいなくなれば、何の後ろめたさもなく穂香と一緒にいられると。
もう聞いていられなかった。
奈月は勢いよくドアを押し開けた。
慎吾は真っ先に穂香の顔を自分の胸元へ押しつけ、それからようやく入口へ目を向けた。
奈月の顔を確認すると、その表情にわずかな苛立ちが滲んだ。
「用もないのに会社へ来るなって言っただろ」
「用ならある」
奈月は爪を掌に食い込ませ、その痛みで無理やり冷静さを保った。
「私の株が、どうして穂香のものになってるの?」
慎吾はジャケットを脱いで穂香の肩にかけ、彼女に外へ出るよう合図した。
それから淡々と尋ねた。
「いつ知った?」
「さっき」
「なるほどな」
慎吾は社長室の椅子にゆったりともたれ、少し自嘲するような、からかうような口調で言った。
「もっと前に知ってたら、大騒ぎしてただろうし、今まで黙っていられるはずもないか」
「説明して」
慎吾は書類を手に取り、ページをめくりながら何でもないことのように言った。
「穂香をいつまでも俺の秘書のままにしておくつもりはない。副社長に上げる予定だ。お前が家にいて株を持ってても、使い道なんてないだろ。金が必要なら俺が渡す。でも穂香は若いのに上の立場に就く。実権がなければ、周りも納得しない」
奈月は思わず笑った。
笑うほど、目の奥が痛くなる。
一語ずつ噛みしめるように言った。
「忘れたの?それ、私のものなんだけど」
「夫婦なんだから、そこまできっちり分ける必要あるか?」
慎吾は不満そうに眉を寄せた。
「いつからそんな細かいことを気にするようになったんだ」
そのとき、穂香がドアを軽くノックした。
おずおずとした声で言う。
「社長、もうすぐ会議のお時間です」
慎吾は入口へ向かい、奈月の横を通り過ぎるところで一度足を止めた。
「そもそも、お前があのとき会社まで乗り込んできて、穂香が周りにあれこれ言われるようにならなければ、俺だってお前の株を渡して埋め合わせる必要なんてなかった」
そして、念を押すように言った。
「奈月。全部、お前が招いたことだ」
第3話
奈月の耳の奥で、ずっと耳鳴りがしていた。
一瞬、慎吾が何を言っているのか理解できなかった。
慎吾が知っているのは、奈月が会社まで押しかけて騒いだということだけだった。
産後まだ身体も戻りきらない中、命がけで子どもを産んでいたそのとき、夫が別の女のそばにいたと知った奈月が、どれほど傷ついたのか。慎吾は考えようともしなかった。
あの日のことは、今でも覚えている。
慎吾は人だかりから少し離れた場所に冷たい目をして立ち、心底理解できないという顔で尋ねた。
「俺が浮気してないことは、お前だって分かってるだろ。それなのに、何をそんなに騒いでるんだ?」
もう愛情がなくなったからこそ、慎吾には奈月の絶望が分からなくなった。
奈月が取り乱すことも、責め立てることも、すべて面倒な言いがかりや感情論にしか見えなくなった。
挙げ句の果てには、本来奈月のものであるはずの株まで、穂香への埋め合わせに使われた。
大きな窓から差し込む斜めの陽射しが、奈月の目を眩ませた。
ふと、このビルに会社を移したばかりの頃を思い出した。
慎吾は奈月の手を取り、目を閉じるよう言った。
何を見せるのかも教えず、意味ありげに少しずつ前へ連れていき、街を一望できる窓の前まで来て、ようやく目を開けさせた。
奈月が目を開いた、その瞬間、慎吾は目の前で片膝をついていた。
手には、貯金をすべてつぎ込んで作らせたダイヤの指輪。
会議では誰を相手にしても堂々と話すようになった社長が、あのときばかりは言葉につまり、何度も噛んだ。
それでも、「一生、奈月を愛して、大切にする」と、迷いなくはっきりと言った。
窓の向こうの景色は、あの頃と何も変わっていない。
変わってしまったのは、人のほうだった。
奈月は自嘲するように口元を歪めた。
振り返ると、穂香が面白いものでも見るような目で奈月を見ていた。
さっきまでのか弱そうな態度は跡形もなく、口を開けば露骨な挑発が滲んでいた。
「奥様、もう惨めだと思いません?慎吾はとっくにあなたのことなんて好きじゃないのに、いつまでしがみついてるつもりですか。そこまでして離れたくないんですか?」
穂香は薄く笑った。
「ここまで聞いても、まだ分からないんですか?慎吾にとっては、あなたの命より私のほうが大事なんですよ。私が一言言えば、あの人は何度だってあなたを置いて、私のところに来ます」
奈月は黙って穂香を見つめた。
穂香はますます調子に乗り、奈月の耳元へ顔を寄せて、軽い調子で笑った。
「一緒に会社を立ち上げたから何?娘まで産んだから何?あなたがどれだけ尽くしたって、慎吾の心までは繋ぎ止められなかったでしょう。私は何もしなくても、慎吾の中からあなたの存在をきれいに消せるんです」
「そう」
奈月はふいに笑った。
「じゃあ、どうして慎吾は私と離婚しないの?」
穂香の顔色が変わった。
奈月はわずかに眉を上げた。
「分かった?惨めなのは、あなたのほうよ」
奈月は穂香の横を通り過ぎ、そのまま会社を出た。
まず法律事務所へ戻り、弁護士と残りの財産状況を確認した。
そして、離婚協議書の草案を作った。
どうすれば慎吾に署名させられるか考えながら病院へ向かっていると、黒いベントレーが突然、奈月のすぐ横に急停車した。
ドアが開き、険しい空気をまとった慎吾が降りてくる。
そのまま奈月の腕を強く掴んだ。
「穂香に何を言った?今日、午後ずっと泣いてたぞ」
奈月は静かに目の前の男を見た。
これが、自分があれほど長い間愛してきた夫だった。
妻と娘の命にはろくに関心を向けないくせに、秘書が泣くことには耐えられない男。
奈月はふっと笑った。
口調は鋭かった。
「惨めな女だって言った。人の夫に手を出す女だって言った。何か間違ってる?」
慎吾の目に怒りが燃え上がった。
「いつまで騒げば気が済むんだ?俺は穂香に手を出してない。家庭に入り込ませたこともない。ここまでしてるのに、まだ足りないのか?
俺くらいの立場になれば、そばに親しい女がいるくらい珍しくもない。それでも俺は一線を越えたことなんて一度もないだろ。どうしてお前は、そんな些細なことばかり気にするんだ?」
慎吾は声を強めた。
「奈月、お前はずっと俺の妻だ。それは変わらない。結婚している限り、俺はお前を裏切るようなことはしない。それは約束する」
そこで一度言葉を切った。
それから低い声で言った。
「でも、俺がお前を愛してないことくらいは、認めてくれ」
奈月は口を開いた。けれど、反論の言葉は喉につかえたまま出てこなかった。
長い間痛みに晒され続けた胸は、もう麻痺していた。
かつて何度も、永遠に愛すると言った男は、とっくにどこか遠くへ行ってしまった。
泣くつもりなどなかった。
それでも慎吾のわずかに揺れた瞳の中に、涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔が映っていた。
「もういい」
奈月には、これ以上言い争う力も残っていなかった。
「好きにすれば」
その場を離れようとすると、慎吾が再び奈月の腕を掴んだ。
慎吾の表情がわずかに変わった。
それでも結局、こう言った。
「穂香に謝れ。お前が言ったあんな酷い言葉を、俺の大事な人に謝ってくれ」
第4話
慎吾にはもう何も期待していないはずなのに、「俺の大事な人」という言葉を聞いた瞬間、奈月の胸は鋭く痛んだ。
慎吾が自分を庇ってくれた姿など、もう思い出せない。
彼はとっくに、奈月ではない誰かの側に立っていた。
奈月は手の甲で涙を拭い、深く息を吸って気持ちを落ち着かせた。
そしてバッグから、離婚協議書と離婚届を含む手続き書類を取り出し、慎吾へ差し出した。
掠れた、それでも静かな声で言った。
「謝ってもいい。その代わり、これにサインして」
慎吾は中身に目を通そうともしなかった。
奈月のことなど気にかけていないのだから、そこに何が書かれているかにも興味はないのだろう。
そのまま署名が必要な最後のページまでめくり、ろくに確認もせず名前を書いた。
「これで満足か?」
奈月は頷いた。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ軽くなった。
あとは必要な手続きが済むのを待つだけだ。
そうすれば、この馬鹿げた、奈月一人だけが夫婦でいようとしていた結婚生活も終わる。
奈月は約束どおり、慎吾に促されるまでもなく自分から車に乗り込み、後部座席に座った。
あまりにも素直なその態度に、慎吾はなぜか胸の奥がざわついた。
二人が付き合い始めてから、助手席はずっと奈月の指定席だった。
以前、穂香がたまたま助手席に座っているところを奈月に見られたことがある。
そのとき奈月はハイヒールを脱ぎ、その車を叩いて傷だらけにした挙げ句、「次にやったら、車じゃなくてあなたを殴るから」と穂香に言い放った。
それが今日はどうしたというのだ。本当に大人しくなったのか?
慎吾は運転席に乗り込み、車を走らせた。
バックミラーに映る無表情の奈月を見て、結局我慢できずに尋ねた。
「なんで助手席に座らない?」
「どこでも同じだから」
慎吾は言葉に詰まった。すぐに視線を前へ戻し、ぶっきらぼうに言った。
「そう思えるようになったなら、それでいい。どうせ同じ毎日を過ごすなら、いちいち揉めないほうが、お前だって楽だろ」
奈月は皮肉げに口元を歪めた。もう慎吾と言い争う気にもなれなかった。
会社に着くと、奈月はためらうことなく穂香の前に立ち、深く頭を下げた。
「川口さん、失礼なことを言って申し訳ありませんでした。私が悪かったです。どうか気にしないでください」
穂香はおずおずと慎吾の袖を掴んだ。
目は赤く潤み、いかにも庇ってやりたくなるような顔をしていた。
「私は最初から奥様を責めていません。独身の女性が職場にいれば、いろいろ誤解されることもありますし。私は気にしてませんから」
慎吾は気の毒そうに穂香を見て、静かに慰めた。
「もう二度とこんなことにはさせない」
穂香は嬉しそうに頷いた。
だがすぐに困ったような表情を浮かべ、しばらく迷った末に、ようやく口を開いた。
「私が泣いていたのは……大事な書類をなくしてしまったからなんです。なくなる前後に社長室へ入ったのは、私と奥様だけでした。でも奥様が盗むはずなんてありません。だから、きっと私の管理ミスです」
まるで大きな勇気を振り絞ったかのように、穂香は奈月を庇った。
「仕事で失敗してしまって、焦って悲しくなっていただけです。奥様とは何の関係もありません」
「お前の仕事ぶりは俺が一番よく分かってる。そんな初歩的なミスをするはずがない」
慎吾の視線が奈月へ向いた。
声が一段低くなる。
「奈月。出せ」
奈月はあまりの理不尽さに呆れた。
「何の証拠もないのに、どうして私だと決めつけるの?」
「私情を仕事に持ち込むな」
慎吾の目に警告の色が浮かんだ。
「どれだけ俺に腹を立てていても、会社を巻き込むのは許さない。早く出せ」
奈月は慎吾をまっすぐ見た。
「だから、取ってないって言ってるでしょう」
慎吾の視線が鋭くなる。
「奈月。いい加減にしろ」
奈月は冷たく笑い、その場を離れようとした。
その背後から、慎吾の感情のない声が飛んできた。
「聞く気がないなら、身体を調べろ。見落としがないよう徹底的に」
奈月が抵抗する間もなく、ボディガードたちが素早く腕を取り、彼女を壁に押さえつけた。
穂香が近づいてきた。
困ったような顔をして言う。
「奥様、申し訳ありません」
「触らないで!」
それ以上言う前に、ボディガードの手で乱暴に口を塞がれた。
穂香はすぐに奈月の服を開き、まるで窃盗犯を扱うように、上から下まで念入りに調べ始めた。
肌に直接触れる衣類まで確認された。
奈月の目には、屈辱の涙が溜まっていった。
少し離れた場所に立つ慎吾を見る。
その顔には何の感情もない。みじめな姿になった奈月を、まるで汚いものでも見るような目で見ていた。
10年も一緒にいたのに、慎吾は、奈月に最低限の尊厳さえ残してやろうとはしなかった。
結局、穂香は何も見つけられなかった。
奈月がようやくこの屈辱も終わると思った、そのときだった。
突然、二人の警察官が社長室へ入ってきた。
慎吾は奈月を見た。有無を言わせない口調だった。
「この人には、会社の機密情報を持ち出した疑いがあります。きちんと調べてください」
第5話
奈月はそのまま連れていかれ、半月もの間、身柄を拘束された。
母は奈月を出してもらうために奔走し、ついには慎吾の前で膝をついてまで頼み込んだ。
それでも、慎吾が態度を変えることはなかった。
会社の機密情報を盗んだと認定されれば、拘束だけでは済まず、刑事責任を問われる可能性もある。
慎吾が、書類を持ち出したのは奈月だと言い張る以上、奈月は何度も何度も事情聴取を受けるしかなかった。
「私は取っていません」
そう何度繰り返しても、誰も信じてくれなかった。
唯一、奈月の潔白を証明できるはずだった防犯カメラの映像まで、なぜか壊れていて確認できなかった。
日に日に白髪の増えていく母を見ながら、奈月の慎吾に対する憎しみは頂点に達した。
同時に、自分自身のことも憎かった。
気が弱く、何をするにも先のことばかり考えて決断できなかった自分。
何が大切なのかも分からないまま、ここまで来てしまった自分。
慎吾から離れる決心をするまで、あまりにも時間がかかりすぎた。
その間に、一度だけ穂香が面会に来た。
彼女は見せつけるように、なくなったはずの書類を奈月の前に差し出した。
「知ってます?」
穂香は楽しそうに笑った。
「この書類、本当は次の日には見つかってたんです。それでもあなたがここから出られなかったのは、私が慎吾に『怖い』って言ったから。あなたに仕返しされるのが怖いって」
穂香は口元を緩めた。
「慎吾が何て言ったと思います?精神的に追い詰められていると、現実と自分の思い込みの区別がつかなくなることがあるんですって。
周りのみんなから『あなたが盗んだ』って言われ続けたら、いつか自分でも、本当に自分がやったんだって思うようになるって。
だから怖がらなくていいって言ってくれました。あなたには私を傷つけさせないって」
穂香の声には、隠しきれない優越感が滲んでいた。
「あなたが自分の非を認めない限り、ここから出られる可能性はないって。奈月さん。ここまで私の味方をしてくれる慎吾を相手に、あなたに何ができるんですか?」
穂香は立ち上がった。
そして、ふと思い出したように「あ」と小さく声を上げた。
「そうだ。言い忘れてました。昨日、娘さん、また心臓の発作を起こしたそうですよ。危うく助からないところだったとか。あなた、生きてる娘さんにもう一度会えるんでしょうかね?」
それまで一定だった奈月の呼吸が、一気に乱れた。
憎しみを込めて穂香を睨み、掠れた声で言った。
「慎吾の妻になりたいんでしょう?慎吾を説得して、私をここから出して。そうしたら、その立場はあなたに譲る」
穂香は眉を上げ、くすりと笑った。
「最初からそうしてればよかったのに」
奈月の目の前で、穂香は慎吾に電話をかけた。
呼び出し音が鳴ると、すぐにつながった。
仕事柄、慎吾は普段から電話に出るのが早い。
奈月は知っていた。
例外なのは、自分からの電話だけだった。
この世にこれだけ人がいるのに、慎吾が苛立ちを隠そうともしない相手は、奈月だけだった。
奈月は目を伏せた。
電話の向こうから、慎吾の穏やかな声が聞こえてきた。
「穂香、どうした?」
穂香は少し甘えるような口調で言った。
「考えたんだけど、奥さんをいつまでもここに置いておくのは、さすがにやりすぎじゃない?もう出してあげてもいいんじゃない?」
慎吾は少し黙った。
「怖いんじゃなかったのか?」
「だって、慎吾がいるでしょう?」
慎吾が小さく笑ったような気がした。
その声には、奈月がもう長いこと聞いていなかった優しさと甘さがあった。
「ああ。俺が守る」
その言葉を聞いた瞬間、奈月の胃の奥から、言いようのない吐き気が込み上げてきた。
そしてようやく分かった。
慎吾が奈月を前にしたとき、どんな気持ちだったのか。
夫婦がお互いにここまで嫌悪するようになったのなら、もう続ける意味などなかった。
幸い、あと半月。それですべて終わる。
その日の夜、奈月は釈放された。
一刻も無駄にせず、そのまま病院へ向かった。
ICUのガラス越しに、静かに眠る娘の顔を見て、ようやく激しく脈打っていた心臓が少し落ち着いた。
奈月は病室の前で夜中まで付き添っていた。
うとうとしかけた、そのとき。
鋭いアラーム音に叩き起こされた。
娘の容体が急変していた。
医師や看護師たちが慌ただしく病室へ入り、すぐに処置を始める。
奈月は外に止められ、何もできないまま、ただ娘が助かることを祈り続けた。
やがて一人の看護師が、焦った様子で病室から飛び出してきた。
「意識がありません!すぐ酸素吸入を!」
別のスタッフが答えた。
「ありません。最後の1台も、さっき別の患者さんのところへ回されました。恋人が風邪で息苦しいとかで……」
看護師が厳しい声で遮った。
「そんな理由で使ってる場合じゃないでしょう!今すぐ戻してもらって!」
相手はためらった。
「でも……持っていかせたの、黒川社長なんです」
奈月の胸が大きく跳ねた。
その瞬間、病室の中から、耳をつんざくような心電図モニターの警報音が鳴り響いた。