第1章
私は白石詩織(しらいし しおり)。
恋人の高瀬景吾(たかせ けいご)と、マンションの内見に来ていた。
二人で5年間、少しずつ貯めてきたお金で買うつもりの部屋だ。
なぜかそこには、親友の水野柚希(みずの ゆずき)も一緒にいた。
「寝室にウォークインクローゼットを作りたいんだけど、この壁、抜ける?」
柚希は、私がこの半年、何度も見返してきた間取り図を指さし、景吾に尋ねた。
「明日、設計士に来てもらおう。柚希の好きなように変えていいよ」
その後も二人は、日当たりや方角から、タイルや掃き出し窓、浴槽のことまで、あれこれ話し合っていた。
私は部屋の隅に立ったまま、二人の会話に入る隙さえなかった。
契約書を前にして、景吾はようやく私のことを思い出したように口を開いた。
「この部屋は、とりあえず柚希の名義にする。こっちで一人暮らししてるし、会社の福利厚生ってことにすればいい。
今はまだ会社の資金にも余裕がない。詩織はあと2年くらい、今の部屋で我慢してくれ」
けれど5年前、私は故郷を離れてこの街へ来て、景吾がゼロから会社を立ち上げるのを、ずっとそばで支えてきた。
エアコンもない安アパートの、簡易な間仕切りで区切られた狭い一室で、二人肩を寄せ合って暮らしていた。
そんな頃、景吾は何度も私に約束した。
「会社が軌道に乗ったら、真っ先に詩織のために家を買うから」
会社はもう、とっくに軌道に乗っていた。
なのに、景吾が真っ先に家を用意した相手は、私ではなく柚希だった。
目の前の契約書には、景吾と柚希の名前が並んでいた。私の名前は、どこにもなかった。
景吾がとっくに私のいない未来を思い描いていたのなら、私ももう待つ必要はなかった。
私はその場でスマホから管理会社の解約フォームを開き、迷わず送信ボタンを押した。
第1話
内見を終えて外に出ると、送迎車にはあと2席しか空いていなかった。
景吾は当然のように柚希の手を取り、そのまま乗り込んだ。
「詩織は歩いてきてくれ。俺たちは先に引き渡しの手続きしてくるから。柚希はヒールだし、歩くの大変だろ」
柚希が履いているヒールは、3センチもない。
それでも柚希の足元は気遣うくせに、私が景吾の仕事を手伝って腰を痛め、長く立っているだけでもつらいことは、もう忘れているらしい。
もう何も期待せず、私はそのまま踵を返した。
「行かない」
景吾は引き止めることもなく、私の背中に向かって言った。
「じゃあ、ついでに不動産屋に寄って、今の部屋の更新手続きしてきたら?今日までだったろ」
もう更新するつもりはなかった。ちょうど管理会社から解約の書類も届いていたので、そのまま迷わず署名した。
家に戻ってSNSを開くと、柚希の投稿が目に入った。
写真には、リビングの大きな窓の前で指ハートを作る柚希が写っていた。
【やっとこの街で、自分の家を持てた】
あの部屋の間取り図は、半年以上、何度も何度も見返してきた。
内装のプランだって、何度も徹夜しながら時間をかけて仕上げた。
つい先週も、母に電話してこの家のことを話したばかりだった。
「お母さん、来月には新しい家を見せられるよ」
母は少し声を詰まらせた。
「そう……よかった。お父さんも楽しみにしてるわ。景吾くん、ちゃんと約束を守ってくれたのね」
なのに今、契約書の署名欄に書かれていたのは、私ではなく柚希の名前だった。
私は投稿に「いいね」を押し、コメントを残した。
【羨ましい。こんな部屋まで用意してくれるなんて、福利厚生が手厚い会社だね】
それから、荷造りを始めた。
30平米ほどの部屋を見回しても、持っていくものは驚くほど少なかった。
全部詰めても、スーツケース1つすらいっぱいにならなかった。
服はセールで買ったものばかりで、化粧品も手頃なものばかり。
そうやって少しずつ切り詰めて、浮いたお金は全部、家を買うための口座に貯めてきた。
5年かけて貯めたお金で手に入れた、川沿いの高級マンションを、景吾はそのまま柚希に渡した。
景吾が帰ってきた時、見るからに機嫌が悪かった。
「なんであんなこと書いたんだよ。会社の人間も、お前の親も見るんだぞ。あれ見たらみんなどう思うか、少しは考えなかったのか?」
思わず笑いそうになった。
「私たちが5年かけて貯めたお金を柚希のマンションに使った時は、周りの目なんて気にしなかったよね。会社の福利厚生ってことにして」
景吾は眉をひそめた。
「柚希はお前の親友だろ。会社だって手伝ってくれてるんだ。俺が少しくらい面倒見たっていいだろ。お前も柚希を見習って、もう少しこっちの事情をわかってくれよ」
その言葉を聞いた途端、ずっと飲み込んできた不満が一気に込み上げてきた。
景吾を追ってこの街へ来た頃のことが、ふいに頭に浮かんだ。
母は泣きながら私を引き止めた。
「あの人、まともな住まいもないんでしょう?そんな人についていったら、苦労するのはあなたなのよ」
父も、私と景吾のことを最後まで認めてくれなかった。
「今のあいつと結婚したって、苦労するだけだぞ」
それでも私は両親の反対を押し切った。
苦労して公務員試験に受かり、ようやく就いた仕事まで辞め、片道切符とスーツケース1つだけで景吾のいるこの街へ来た。
あの頃の景吾は、仕事を取るため朝から晩まで営業に駆け回っていた。接待で酒を飲むことも多く、胃出血を起こしたことさえあった。
そんな頃、景吾は何度も同じことを言っていた。
「会社が軌道に乗ったら、まず俺たちの家を買おう。それから、もう一度ご両親に挨拶に行く。今度こそ、きっと認めてもらえるよ」
あれから5年。会社は軌道に乗り、お金にも余裕ができて、家まで買った。それなのに、その家に住むのは私ではなかった。
「私に、柚希を見習えって言うの?」
自分でも驚くほど、淡々とした声が出た。
「何がそんなに気に入らないんだよ。マンション1室くらいだろ。それに、経理のことを考えても、そのほうが都合いいんだよ」
その言い方を聞いていたら、急に言い返す気も失せた。
「今は資金調達が大事な時期なんだ。帰ってきてまで、こんな話を聞かされるのは勘弁してくれよ」
「じゃあ、もういいよ」
景吾は一瞬言葉に詰まり、車のキーをつかんだ。
「これ以上言い合う気はない。お前も少し頭冷やせよ」
玄関のドアがバタンと閉まった。
柚希が会社に来るようになってから、景吾は私が何か言うたびに、くだらないことで騒いでいると決めつけるようになった。言い合いになれば、最後はこうして出ていってしまう。
残された私は、いつも言いたいことを飲み込み、最後は自分に「仕方ない」と言い聞かせてきた。
でも今回は、もうそうやって自分を納得させる気にはなれなかった。スマホで帰りの切符を予約した。
5年前、この街へ来た時も、買ったのは片道切符だった。
今帰るのも、片道でいい。
第2話
翌日も、私はいつもどおり会社に出た。半年以上担当してきたこの案件だけは、最後まで仕上げておきたかった。
何百枚も図面を引いてきたのだ。ここまでやって、途中で投げ出すわけにはいかなかった。
会議が始まると、景吾はまず柚希の名前を挙げた。
「前の案件を予定より早く仕上げられたのは、柚希が何晩も徹夜してくれたおかげだ。今回、一番頑張ってくれたのは柚希だな」
そのあと、景吾は私に目を向けた。
「ただ、メインを任されてるなら、もう少し進行も意識してくれ。新人にフォローさせるようじゃ困る」
図面もプランも、全部私が作ったものだった。昨夜も一つずつ整理して、チームに送ったばかりだ。
3晩続けて徹夜して仕上げたのは私なのに、会議では私がみんなの前で注意を受けた。
会議のあと、景吾はチーム全員を連れて、少し値の張る和食店へ行った。
「柚希、刺身好きだったよな。ボタンエビとウニも頼んどこう」
一通り注文すると、景吾はメニューの中で一番安いコースを指した。
「詩織はこれでいいだろ。家のために貯めてるんだし、節約できるところは節約しないとな」
柚希の好物はちゃんと覚えていたのに、私が魚介類を食べられないことはすっかり忘れていた。
それでも、私に節約させることだけは忘れなかった。
半年前、仕事を失って途方に暮れていた柚希を景吾に紹介したのは私だった。
「柚希、この仕事の経験もあるし、真面目な子だから。何とか力になってあげられない?」
柚希が入社してからは、私が少しでも不満を口にすると、景吾にはわがままにしか聞こえないらしかった。
同じように深夜まで残業していても、柚希にはタクシーで帰るように言い、料金も会社で精算していた。
一方、私がまだ席に残っているのを見ると、景吾は眉をひそめた。
「まだ帰らないのか?会社の電気代だってタダじゃないんだぞ」
柚希が「いちごのショートケーキが食べたい」と言えば、景吾は5キロ遠回りしてでも買って帰った。
なのに、私が熱を出して解熱剤を頼んだ時は、家にある風邪薬で済ませればいいと言われただけだった。
それでも景吾は、柚希のことをいつも気が利いて、物分かりもいいと褒めていた。
けれど、何度も徹夜して図面を仕上げ、生活を切り詰め、そのたびに我慢してきたのは私だった。
食事を終えると、景吾は当然のように私の手を取った。
「あのマンション、見に行こう。内装のことも相談したいし」
私はその手を振りほどいた。
「行かない」
すると柚希が笑いながら腕を絡めてきた。
「詩織も一緒に行こうよ。ね、ちょっと相談に乗って」
景吾は呆れたように言った。
「まだ怒ってるのか?マンション1室くらいで、いつまで引きずってるんだよ」
そう言いながら、景吾は助手席のドアを開けた。柚希がそこへ乗り込むのを、ごく自然に待っていた。
後部座席に乗り込んだ瞬間、ふと気づいた。
いつの間にか、助手席は柚希の席になっていた。
柚希が会社に来てから半年、私は景吾の車に乗ること自体なくなっていた。
柚希の家までは、バスなら20分ほどしかかからない。それでも景吾は「遠いから」と言って、毎日わざわざ迎えに行っていた。
私は街の南の外れに住んでいて、バスと電車を乗り継ぐと会社まで片道2時間近くかかった。それでも景吾は、一度も私の通勤を気にかけたことがなかった。
マンションに着くと、柚希は寝室もリビングも書斎も、間取りから全部やり直したいと言い出した。
景吾は少しも迷わず「いいよ」と答えた。
景吾はもう、私がこの家のために、分厚い束になるほど図面を描いたことすら覚えていないのだろう。
構造や方角、生活動線、採光まで、一つひとつ考えて仕上げたものだった。それなのに、柚希が変えたいと言っただけで、景吾はあっさり全部やり直すことにした。
でも、もう私には関係のない家だった。
そんなことを考えている間も、柚希は私の図面をめくっていた。
「詩織のこのプラン、すごくいいね。でも、ちょっとクールすぎるかな。私はもう少し温かみのある雰囲気が好き」
「じゃあ、柚希の好みに合わせて、もう1案作ってくれ」
景吾は当然のように続けた。
「プロなんだから、直すのも早いだろ。3日あればできるよな?」
私は柚希の手元から図面を取り返した。
「これは自分の家のために作ったプラン。あなたたちに使っていいなんて、一度も言ってないけど」
景吾は露骨に顔をしかめた。
「どうせもう使わないんだろ。持ってたって仕方ないじゃないか」
私は何も言わなかった。窓から差し込む陽射しがやけに白く、目に刺さった。
第3話
柚希が、少し言いにくそうに口を開いた。
「もういいよ、詩織。ほかの案も探してみるし、いいのがなかったら自分で考えるよ。詩織も忙しいんだし……」
柚希が言い終わらないうちに、景吾が口を挟んだ。
「柚希はまだこの仕事に慣れてないだろ。仕事だけでも大変なんだから、家の内装まで自分で考えなくていいよ」
柚希を気遣う景吾の口調は、あまりにも自然だった。
私だって半年以上かけて進めてきた案件を抱え、同じように忙しく、疲れていた。けれど景吾は、そんなことなどすっかり忘れているようだった。
そのうえ、自分の家のために作ったプランまで、柚希のために直させようとしていた。
「今やってる案件は、いったん後に回せ」
景吾は私に目を向けた。
「先に柚希の部屋のプランを仕上げてくれ」
「来週、先方に中間案を出すことになってるの。今止めるのは無理」
「お前なら3日で図面を上げられるだろ。あとは内装工事の現場を見ればいい。十分間に合う」
まるで、私にだけは時間がいくらでもあるみたいな言い方だった。
「後回しにはできない。半年以上、ずっと私が担当してきた案件なの」
景吾は呆れたように笑った。
「担当してるのはお前でも、ここまで進められたのは会社の実績や取引先とのつながりがあってこそだろ。お前が図面を描くだけで成り立つ仕事じゃない」
柚希が景吾の袖をそっと引いた。
「私のことで喧嘩しないで。もういいから、私のことは……」
「柚希は気にしなくていい」
景吾はそう言って、再び私を見た。
「詩織、今の案件がきついならそう言えよ。別のやつに引き継がせればいい。無理して一人で抱える必要ないだろ」
あまりにもあっさり言われて、胸の奥が冷えた。
半年以上、時間も手間もかけて進めてきた案件だった。それなのに景吾にとっては、誰かに引き継がせれば済む程度の仕事でしかなかった。
「景吾、ちゃんと言っておきたいことがある」
私はまっすぐ景吾を見た。
「私は会社の設計責任者で、この案件も最初からずっと担当してる。私に何も言わずに、勝手に担当から外さないで。
それから、もう一つ。私たち、もう別れよう。
この図面は、私が自分の家のために作ったもの。どうするかは私が決める。柚希の部屋に使うかどうかまで、あなたが決めることじゃない」
景吾は一瞬目を見開いたが、すぐに笑った。
「別れる?本気で言ってるのか?たかがマンション1室で?」
景吾は一歩こちらへ近づいた。
「昨日、部屋の更新してきたんだろ?それなりに金もかかったはずだ。手元にあといくら残ってる?その貯金だけでいつまで持つと思ってるんだよ」
「更新してない」
景吾はまるで信じていないようだった。
「意地張るのもいい加減にしろよ。本当に別れたら、今の家賃だって払えなくなるだろ。今なら謝って戻ってくれば、さっきの話は聞かなかったことにしてやる」
柚希はそばに立ったまま、何も言わなかった。
これ以上話すこともなく、私は背を向けた。
その時、知らない番号から電話がかかってきた。
「白石詩織さんでしょうか。一級建築士の登録申請時に提出された実務経歴について、虚偽記載の疑いがあるとの情報提供がありました。
現在、事実関係を確認しています。確認が終わるまで、設計や工事監理など、一級建築士の資格を前提とする業務は控えてください。
詳細は追って書面でご連絡します」
思わず振り返ると、景吾は静かな顔でこちらを見ていた。まるで私の反応を待っていたかのようだった。
「これ、あなたの仕業?」
自分でもわかるほど声が震えた。
景吾は否定するどころか、妙に落ち着いた声で言った。
「少し痛い目見れば、頭も冷えるだろ。次また別れるなんて言ったら、今度はこれじゃ済まないからな」
景吾は私の目の前まで来て、足を止めた。
「詩織、いい加減現実見ろよ。会社がここまで来たのは、お前一人の力じゃない。お前がどれだけ会社を大事にしてても、会社はお前がいなくても回るんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、周りの音が遠くなった。
「俺には何もない。詩織しかいない」
5年前、そう言っていた景吾の顔がふいに浮かんだ。
あの頃の私は、どんなに苦しくても2人で頑張っていけば、いつか全部報われると信じていた。
実際、会社は軌道に乗り、お金も家も手に入った。
けれど景吾は、その会社がどうやって一歩ずつここまで来たのかを、すっかり忘れてしまった。
第4話
景吾に半ば強引に会議室へ連れ戻されると、彼はみんなの前で勝手に話を決めた。
「この案件は今日から柚希に引き継いでもらう。詩織、手元の資料は全部柚希に渡してくれ」
誰も何も言わなかった。手元のノートに目を落とす人もいれば、スマホを見るふりをする人もいた。
少し前まで私を頼り、一緒に徹夜までしていたメンバーも、今は誰一人として口を開こうとしなかった。
そんな中、柚希が私のところへやってきた。
「詩織、あのモデルデータなんだけど……」
「あとで送る」
それだけ答えて席を立ち、会議室を出ると、すぐに景吾があとを追ってきた。
「柚希の部屋のプラン、できるだけ早くまとめてくれ。せっかく新居も決まったんだし、柚希だって早く住みたいだろ。お前も今は手が空いてるんだし……」
「手が空いたのは、あなたが私を通報したからでしょ?」
足を止めて景吾を見ると、一瞬だけ表情が曇った。
「それに、どうして柚希は賃貸じゃだめなの?私だって5年ずっと借りてたけど」
「お前とは違うだろ」
景吾は間髪入れずに返した。けれど、言い方がきつかったと思ったのか、すぐに声を和らげて私の肩に手を置いた。
「お前はもう契約も更新したんだろ?あと2年くらい今の部屋でいいじゃないか。その時はもっと広くて、条件のいいマンションを買ってやる。ご両親のことも……」
「詩織……」
その時、柚希も会議室から出てきた。
「詩織は私の一番の友達だし、できれば詩織にお願いしたいの。詩織にやってもらえたら、私も安心だから」
柚希は、まるで何も悪いことをしていないような顔で私を見ていた。
半年前、行き場をなくしていた柚希をこの会社に連れてきたのは私だった。SNSに嬉しそうに載せていたあの新居だって、私が5年かけて貯めたお金で買ったものだった。
それなのに今、柚希はその部屋の内装まで、当然のように私に頼もうとしていた。
私は何も言わず、肩に置かれた景吾の手を払いのけ、そのまま歩き出した。
「詩織……」
後ろから景吾の声がしたが、振り返らなかった。
「詩織、怒ってるのかな……?」
柚希の小さな声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
景吾は自信たっぷりに答えた。
「あいつはちょっと拗ねてるだけだ。2、3日もすれば収まる。部屋だって更新したんだし、行くところもないだろ」
その言葉に一瞬だけ足が止まったが、私はそのまま歩き続けた。
ほどなくして、柚希からメッセージが届いた。
【詩織、ごめんね。でも詩織には何でもあるじゃない。仕事もできるし、これから先だってきっと困らないでしょ。
だから、景吾のことは私に譲ってくれない?
詩織なら景吾と別れても、一人でちゃんとやっていける。でも私は違うの。私には何もない。景吾しかいないから】
画面を見つめているうちに、思わず笑いがこぼれた。
私が5年かけて貯めたお金で買った家に住んでおきながら、今度は景吾のことまで諦めてほしいと言ってきた。
その瞬間、ようやく分かった。
大学時代、手をつないで「ずっと親友でいようね」と笑っていた柚希も、あの狭い部屋で私を抱きしめ、「詩織がいるから頑張れる」と言っていた景吾も、もうあの頃の二人ではなかった。
私の中に残っていたのは、あの頃の思い出だけだった。
借りていた部屋に戻ると、荷造りを終えたスーツケースを手に取り、管理会社へメッセージを送った。
【準備は整いました。本日中に退去します】
飛行機が滑走路へ向けて動き始めると、スマホがひっきりなしに震えた。
景吾から何度も電話がかかってきたが、私は出なかった。しばらくすると、今度は次々にメッセージが届いた。
【どこにいる?】
【管理会社から、もう退去したって聞いた。どういうことだ?】
【詩織、連絡しろ】
少しして、またメッセージが届いた。
【もう意地張るのはやめろ。戻ってこい。ちゃんと話そう】
私はそのままスマホの電源を切り、窓に頭を預けて目を閉じた。
……
その頃、景吾は詩織が借りていた部屋の前に立っていた。
中から出てきた管理会社の担当者が、景吾に声をかけた。
「白石さんからは3日前に解約のお申し込みをいただいています。本日、退去されました。高瀬さんのお荷物もまだ残っておりますので、お早めにお引き取りをお願いいたします」
景吾は返事もできないまま、開いたドアの向こうに目をやった。そこで初めて、焦りが込み上げた。
部屋には、詩織がここで暮らしていた痕跡が何一つ残っていなかった。