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私を殺した夫の遅すぎる涙
夫の沢田健斗(さわだ けんと)が株取引で背負った多額の借金を返済するため、私、星野結衣(ほしの ゆい)は彼の提案に従い、自分の腎臓を売る決断をした。 しかし手術の当日、6歳の娘、沢田咲希(さわだ さき)は一人で診療所へ駆けつけ、取り乱した様子で健斗に電話をかけて助けを求めた。 健斗は困り果てたような声で言った。「ママは腎臓を一つ取るだけだ。それでパパのこれからの人生が救われるんだよ。もしそうしてくれないと、パパの人生は本当に終わりなんだ」 咲希がそれでも反対し続けると、健斗は一方的に電話を切ってしまった。 そしてすぐさま心配そうな顔つきになり、隣の高級病室へと向かった。ベッドで青白い顔をしているかつての想い人、白石美月(しらいし みつき)を見つめ、低い声で慰める。 「安心して、ドナーは見つかったから。お前はすぐによくなるよ。自分を責める必要はない。彼女を騙すことは俺自身が選んだんだ。どうせ彼女はまだ若いし、腎臓が一つ減ったってどうってことないさ」 その後、美月の手術は無事に成功した。健斗はすっかり機嫌を良くし、珍しく私と咲希を家族旅行に連れて行くと言い出した。 だが、彼は知らない。私がすでに死んでいることを。 腎臓を摘出した手術当日、たった数百円の抗生物質代すら払えず、傷口から感染症を起こして死んでしまったのだ。 そして咲希も、そんな彼に完全に見切りをつけていた。
チャプター (1)
第1章
夫の沢田健斗(さわだ けんと)が株取引で背負った多額の借金を返済するため、私、星野結衣(ほしの ゆい)は彼の提案に従い、自分の腎臓を売る決断をした。
しかし手術の当日、6歳の娘、沢田咲希(さわだ さき)は一人で診療所へ駆けつけ、取り乱した様子で健斗に電話をかけて助けを求めた。
健斗は困り果てたような声で言った。「ママは腎臓を一つ取るだけだ。それでパパのこれからの人生が救われるんだよ。もしそうしてくれないと、パパの人生は本当に終わりなんだ」
咲希がそれでも反対し続けると、健斗は一方的に電話を切ってしまった。
そしてすぐさま心配そうな顔つきになり、隣の高級病室へと向かった。ベッドで青白い顔をしているかつての想い人、白石美月(しらいし みつき)を見つめ、低い声で慰める。
「安心して、ドナーは見つかったから。お前はすぐによくなるよ。自分を責める必要はない。彼女を騙すことは俺自身が選んだんだ。どうせ彼女はまだ若いし、腎臓が一つ減ったってどうってことないさ」
その後、美月の手術は無事に成功した。健斗はすっかり機嫌を良くし、珍しく私と咲希を家族旅行に連れて行くと言い出した。
だが、彼は知らない。私がすでに死んでいることを。
腎臓を摘出した手術当日、たった数百円の抗生物質代すら払えず、傷口から感染症を起こして死んでしまったのだ。
そして咲希も、そんな彼に完全に見切りをつけていた。
第1話
再び目を開けた時、ふっと体が軽くなり、全身の痛みが嘘のように消え去っていた。
てっきり手術を乗り越えられたのだと思ったが、耳元で咲希の泣き声が響いた。
「ママ、どうしたの?ねえ、早く起きてよ」
声のする方へ振り向くと、咲希が診療所のベッドの前にひざまずき、張り裂けんばかりの声を上げて泣いていた。彼女の目の前には、ベッドに横たわり、血の気を失って微動だにしない私の姿があった。
私はハッと悟った。
ああ、乗り越えられたわけじゃなかったのか。
私は死んだのだ。
それも無理はない。お金がないせいで、私はこんな小さな診療所で手術を受けたのだから。
術後は抗生物質も痛み止めも使われなかった。だから腎臓の摘出手術の後、麻酔が切れると同時に死ぬほどの痛みに襲われ、その時すでに自分がもう持ちこたえられないことをはっきりと感じていた。
それでも、私はすぐに現実を受け入れた。そこまで悲しくもなかった。
家は借金を抱えており、今はとにかくお金が急を要する。私の死と引き換えに、健斗と咲希がこれからの人生を平穏に暮らせるなら、それだけの価値はある。
そう考えていると、白衣を着た男が入り口から入ってきて、一枚のカードを咲希の前に投げ捨て、苛立たしげに言った。
「泣くのはやめろ、縁起でもない。ほら、これが1400万円だ。おまけで400万円多く入れておいたからな。これを持って、お前の母親の死体と一緒にさっさとここから消え失せな」
そう言うなり、男は振り返って、傍らの薬液に浸かっている摘出したばかりの新鮮な腎臓を取ろうとした。咲希は目を真っ赤にして足早に駆け寄った。「それはママのものよ!持っていかないで!」
咲希はそれを取り返そうとしたが、男は容赦なく咲希の胸元を蹴り飛ばした。咲希はドンッと激しく壁にぶつかり、痛みのあまり顔を真っ青にした。
私は胸が張り裂けそうだった。臆病で泣き虫な咲希のことだから、これできっと諦めるだろうと思っていた。
ところが、咲希は泣きながら、またしても取り乱したように突進していった。男が指を鳴らすと、外から一斉に三人の人間が入ってきて、有無を言わさず咲希を床に押さえつけた。咲希がどれだけ悲鳴を上げても、決して手を離そうとはしない。
男は言った。「何がママのものだ、こっちはもう金を出して買い取ったんだ。ごねるんじゃないぞ。金を持ってさっさと消えな。この腎臓は買主が大金を払って買うんだ。もし万が一のことがあって金が手に入らなくなったら、お前の母親も犬死にになるぞ」
咲希は床に押さえつけられたまま、無力に大泣きした。「お金なんていらない!ママがいい!お金は返すから、ママを返してよ……」
だが、誰も彼女の言葉には耳を貸さない。男は腎臓の入った容器を抱えると、足早に立ち去っていった。
第2話
建物の外で車のエンジン音が遠ざかっていくのを聞いてから、咲希はようやく解放された。
泣き疲れて力も残っていないのか、咲希はただ弱々しくしゃくり上げるだけだった。それでも彼女はスマホを握りしめ、何度も何度も健斗に電話をかけ続けていた。
相変わらず誰も出る気配はない。ついに絶望したように床のキャッシュカードを拾い上げると、彼女はその小さな肩に私の遺体を背負い上げた。
「ママ、一緒に帰ろうね……」
咲希のあの細く華奢な体で、一体どうやって私を連れて帰ったのかは分からない。その時、私の魂はあの男の車に引き寄せられるようについて行ってしまっていた。
道中、男は私の腎臓をひどく丁重に扱っていた。助手席に置いてご丁寧にシートベルトまで締め、時折気にするように横目で様子を窺っている。
車が豪華な私立病院のエントランスに停まると、男はホッと安堵の息をついた。そして腎臓の容器を抱え、ペコペコと頭を下げながら入り口で待っていた男にそれを手渡した。
その受け取った男の顔を見た瞬間、私は自分の目を疑った。見間違えるはずもない、私に借金返済のために腎臓を売るよう持ちかけてきた健斗だったのだから。
なぜあの男が私の腎臓を健斗に渡すのか――そう疑問を抱く暇すらなく、健斗はそれを慎重に受け取り、口を開いた。
「残りの1億円はすでに振り込んである」
そう言い残すと、私のことなど一言も気にかける様子もなく、慌ただしく病院の中へと戻っていった。
私はその場に釘付けになり、すぐには現実を飲み込めなかった。
少し前、健斗は投資に失敗して全財産を失い、さらに数千万円もの借金を背負い込んだはずだった。
彼の借金を返すため、私は家も車も売り払い、咲希でさえ大切にしていたピアノを手放したというのに、それでもまだ多額の返済が残っていた。
それなのに、今彼が払った1億円という大金は一体どこから湧いて出たというのか?
疑問の答えが見つからないまま、健斗は足早に病院の奥へと進み、焦った様子で腎臓を医師に引き渡した。
彼が口を開くより先に、看護師が慌てて駆け寄ってきた。
「健斗さん、彼女さんがどうしても手術をしないと言い張っていて……早く説得に行ってあげてください」
健斗の顔に明らかに一瞬、緊張が走った。だが彼は何も説明することなく、いつものように落ち着き払った態度で、医師にすぐ手術を手配するよう念を押すと、大股で上の階へと上がっていった。
私は茫然と彼の後を追いかけ、彼と一緒に高級病室の前で足を止めた。
ベッドに横たわる女性の顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
それは健斗が昔から想い続けていた女性――美月だった。
二人はかつてしばらく交際していたが、健斗の家族が美月のことを気に入らず、それに腹を立てた美月は海外へと渡り、数年間音信不通になっていた。
その後、沢田家が没落し、健斗はやむを得ず私と結婚した。そうして私たちは成り行きで家庭を持ち、子供をもうけた。
咲希が生まれた後、健斗が美月の写真を見つめて目を赤くしているのを見て、彼に忘れられない想い人がいることは知っていた。それでも、私は気にしなかった。結婚して何年も経ち、子供だっているのだから、いくら何でも彼が道を踏み外すような真似はしないだろうと信じていたのだ。
だが、まさか健斗が私に腎臓を売るよう持ちかけた本当の理由が、私の腎臓をこの女に移植するためだったなんて、夢にも思わなかった。
美月は血の気のない顔で彼を見つめて言った。
「健斗、やっぱりやめにしない?あなたはもう結婚しているし、私、これ以上生きていても意味がない気がするの」
健斗は足早にベッドへ近づき、美月の手をしっかりと握りしめた。
そして紡がれたその言葉は、私が知る彼とは思えないほど優しさに満ちていた。
「あの時の結婚も、仕方なくしただけなんだ。俺の心にはずっとお前しかいない。もしお前が死んだら、俺の方こそ生きていけない。
お願いだ、大人しく手術を受けてくれないか?お前の血液型は特殊だから、やっとの思いでこの腎臓を見つけ出したんだよ」
美月は弱々しく首を横に振った。
「これが結衣さんの腎臓だってことは分かってるわ。やっぱり彼女に返してあげて。私のせいで、あなたたちが揉めるのは見たくないのよ」
第3話
健斗はすがるように哀願した。「美月、余計なことは考えないで、今回だけは俺の言うことを聞いてくれ」
美月は意地を張って言い返した。「じゃあ、もし結衣さんが離婚するって騒ぎ出したらどうするの?私が二人の関係を壊してしまったら、私自身を絶対に許せなくなるわ」
健斗は首を横に振った。「そんなことにはならない。あいつは俺を深く愛しているからな」
二人はまるで、無理やり引き裂かれた悲運の恋人同士のようだった。
次から次へと耳に入ってくる情報で、隠されていた真相の大枠が見えてきた。
美月は帰国後、自分が末期の尿毒症であり、腎臓移植をしなければ生きられないことを知った。だが彼女の血液型は特殊で、ドナーを見つけるのは極めて困難だった。この間、健斗は彼女に適合する腎臓を必死に探し回っていたが、結局何も見つからなかった。
美月は日ごとにやつれていった。
そしてついに、健斗はこっそり私と美月の適合検査を行い、見事に一致すると分かるや否や、私の腎臓に狙いを定めたのである。
投資の失敗も、借金取りに追われているという話も、すべて真っ赤な嘘だったのだ。
私は自嘲気味に笑うしかなかった。
健斗の言う通りだ。私は彼を深く愛していた。
彼が自己破産したと聞いた時、私は真っ先に彼と共に困難を乗り越えようと決心した。売れるものはすべて売り払い、あちこちでお金を工面し、毎日五つものアルバイトを掛け持ちして、お金になることなら何でもやった。
健斗は私と咲希の生活費を出し渋るような真似はしなかった。私は彼が家庭に対して責任感を持っていると信じていたからこそ、彼と苦楽を共にするべきだと思っていた。
1週間前、健斗から片方の腎臓を売ってほしいと切り出された時、私は当初反対していた。だがその翌日、健斗は借金取りに連れ去られ、指を切り落とすと脅された。
私が彼を助け出した後、彼は深夜のベランダに立ち、もうこれ以上耐えられないから楽になりたいとこぼした。その姿を見て、私はついに折れて承諾してしまった。
まさか……すべてが嘘だったなんて。
普段は全く忍耐力のない健斗が30分近くも機嫌を取り続け、美月はようやく手術を承諾した。
手術室に入る直前まで、健斗の視線は片時も彼女から離れることはなかった。
彼がこれほどまでに心配そうな眼差しを向けるのを、私は一度も見たことがない。
私が腎臓の摘出手術を受ける前、彼は一緒に付き添ってくれるはずだった。それなのに一本の電話を受けた後、そそくさと立ち去ってしまった。私はたった一人であの薄暗い診療所へ入り、冷たい医療器具によって命を奪われた。
愛しているか、愛していないか。その違いはこんなにも明白だったのだ。
健斗が手術室の外で焦燥に駆られながら待っていると、彼のスマホが再び鳴った。
画面には私の名前、「結衣」が表示されていた。
今回、彼は通話を拒否することはなく、数秒ほどの沈黙ののち、応答ボタンを押した。
「パパ、ママが……」
繋がった途端、泣きじゃくる咲希の声が聞こえてきた。
しかし、咲希が言い終わるよりも早く、健斗は冷淡な声で遮った。
「咲希、パパだって本当にどうしようもないんだ。もう電話はかけてこないでくれ。ママが可哀想なのはわかってるが、パパだって一生懸命働いて、金を稼いで、家の借金をなんとか返そうとしてるんだ。また一からやり直して、お前に新しいピアノを買ってやるから」
健斗は顔色一つ変えずに、こんな見え透いた嘘を並べ立てた。
以前の私はそんな彼を哀れに思っていたが、今はただ自分が滑稽に思えてならない。
結婚して8年、ずっと寝食を共にしてきた夫の演技がここまで見事なものだったとは、思いもしなかった。
咲希は泣き叫んだ。「ピアノなんていらない、もう何もいらないよ!パパ、早く帰ってきて!」
健斗は少し苛立ちを露わにした。「咲希、お前はどうしてそんなに聞き分けのない子になったんだ?パパが借金を返せなくて、借金取りに殴り殺されてもいいって言うのか!?」
「そんなの嫌だ……」
「だったらもっと物分かり良くしてくれ。ママはあと数時間で目が覚めるはずだ。お前がしっかり看病してやるんだぞ。俺は今夜は帰れないから、ママにそう伝えておいてくれ」
第4話
言い終えるが早いか、手術室から医師が出てきた。
健斗は咲希が次に発する言葉を待たず、そそくさと電話を切り、足早に医師のもとへ駆け寄った。
手術が無事成功したと聞かされ、彼は安堵のため息を漏らした。
それからというもの、彼は美月の身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いた。
長く寝たきりになって筋肉が萎縮するのを恐れ、普段は気が短い彼が40分もかけて美月の脚をマッサージした。点滴の薬液が冷たすぎるのではと気遣い、自らの手で輸液チューブを包み込んで温め、美月が足の小指がつりそうだとこぼせば、潔癖症の彼が嫌な顔ひとつせず優しく揉みほぐしてやった。
私の記憶の中の彼は、人の世話などろくにできない大雑把な人間で、娘の面倒すらまともに見られず、あやうく粉ミルクと間違えて洗濯洗剤を飲ませそうになったことさえある。
彼がこれほどまでに細やかな気配りを見せるのを、私は初めて目にした。
愛情に包まれている者は回復も早いのか、2日と経たぬうちに、美月はベッドから降りて歩けるまでに回復した。
健斗は天気が良いからと、気晴らしに彼女を隣の公園へ連れ出した。
休憩中、健斗が数分ほど席を外し、戻ってきた時には両手を後ろに隠し、意味ありげな笑みを浮かべて言った。「勇敢に手術を乗り越えた美月に、俺からご褒美のプレゼントがあるんだ」
そう言うなり、彼はまるで宝物でも披露するかのように、背中に隠していたものを美月の前に差し出した。
それはウェディングドレスとタキシードのアルバムだった。
美月は驚きと喜びに目を丸くした。
健斗は得意げに眉を上げた。「わざわざ一番高いプランを選んでおいたんだ。今月末、お前がすっかり元気になったら、一緒にウェディングフォトを撮りに行こう。どうだ?」
美月は頷きかけたが、ふと何かを思い出したように目を伏せ、沈んだ声で言った。「結衣さんにこのことがバレても怖くないの?」
私の名前が出た途端、健斗の表情から笑みが消えた。「こういう時に他人の話をするのはやめようぜ。それに、俺はもうあいつと結婚してるんだ。ただウェディングフォトを撮るだけだろ。こんな些細なことで、あいつが大騒ぎするはずないさ」
美月の口元が綻んだ。「健斗、私のためにここまでしてくれて……すごく感動したわ」
彼女は立ち上がると、色っぽい流し目で健斗を見つめ、ゆっくりと体をすり寄せた。二人の間には、見ているこちらが赤面するような甘い熱が自然と漂い始める。
二人が次に何をしようとしているのか、私には痛いほど分かった。
心臓が刃物でえぐられるように痛んだ。
「パパ」
ちょうどその時、少し離れたところから咲希の声が聞こえてきた。
健斗はハッと我に返り、慌てて美月から距離を置くと、後ろめたそうに声のした方へ視線を向けた。
咲希の姿を目にした瞬間、私の心臓は鷲掴みにされたように締め付けられた。
いつも小綺麗にしていた娘の服はひどく汚れ、愛らしい両目は腫れ上がり、痛々しいほど赤く充血していた。
私の死は明らかに彼女へ計り知れないショックを与えていた。つい先ほどの健斗と美月の親密な空気など気にする余裕もない様子で、健斗を見るなりその胸に飛び込み、掠れた声で言った。
「パパ、やっと見つけた……ママが死んじゃったの……血をいっぱい流して、動かないし、私とお話もしてくれないの……」
泣きたくても涙はとっくに枯れ果ててしまっていたようだ。
その言葉を聞いて、健斗は一瞬呆然と立ち尽くした。
傍らにいた美月が笑みを浮かべて口を挟んだ。「咲希ちゃんだっけ?そんなに心配しなくて大丈夫よ。ママは手術で麻酔を打たれたから動けないだけだし、お話できないのも疲れちゃったからなの。死んだわけじゃないわ」
そう言い終えると、彼女は咲希の頭を撫でて言った。「子供って本当に無邪気で可愛いわね」
第5話
咲希はその手を避け、戸惑ったように美月を見つめた。
子供には分からないことも多いが、今ここで健斗と美月が二人きりでいることに、咲希も明らかに違和感を覚えていた。彼女は美月を指差し、怒ったように健斗を問い詰めた。「パパ、この人だれ?どうしてパパはこの人と一緒にいるの!?」
健斗は引きつった笑いを浮かべた。「パパの友達だよ」
咲希は食い下がった。「じゃあ、この何日かパパはずっとこの人と一緒にいたの?パパはお友達とそんなに長く一緒にいなきゃいけないの?」
健斗は痛いところを突かれ、言葉に詰まった。
美月は辛そうに数歩ほど歩くと、大きく息をついた。「健斗、やっぱり先にこの子と帰ってあげて。結衣さんだって、誰かの看病が必要でしょ」
咲希はまだ幼く、彼女の言葉の裏にある含みに気づかなかった。その言葉を聞くや否や、慌てて健斗の手を引っ張った。「パパ、早く一緒に帰ってママに会おうよ。ママが……」
咲希が言い終わるより早く、健斗はその手を振り払った。「だめだ、咲希。パパの友達もまだ看病が必要なんだ。お前は先に一人で帰りなさい。パパがお金をやるから、好きなりんご飴でもお菓子でも買っておいで。な?」
そう言いながら、健斗は以前のように娘を適当にあしらうつもりで、一枚のカードを取り出して彼女に差し出した。
咲希はハッとして動きを止めた。「パパ、うちにはもうお金がないんじゃなかったの?」
カードを差し出そうとした健斗の手が、空中でピタリと止まった。
咲希はまるで知らない人を見るような目で彼を見つめ、じりじりと後ずさりした。
おそらくこの時になってようやく、彼女は気づいたのだろう。ここ数ヶ月、質素な身なりをしていた健斗が、今は高価なスーツを身にまとい、別人のように華やかな格好をしていることに。そして健斗が美月を支え、二人の傍らには分厚いウェディングフォトのアルバムが置かれていることに。
「パパ、私とママのことは、もう好きじゃないの……?」しばらくして、咲希はようやく絞り出すような声で尋ねた。
健斗は一瞬沈黙し、何かを口にしようとした。
しかし咲希はすべてを悟ったかのように、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
そして最後には背を向け、一目散に走り去ってしまった。まるで、その恐ろしい答えを最後まで聞くのが怖いとでも言うように。
健斗は無意識に追いかけようとしたが、美月が彼の手首を掴んだ。「心配しないで、健斗。まだ子供なんだから、後でちゃんと説明してあげれば分かってくれるわ」
健斗は唇を噛み締め、足元のおぼつかない美月を見て、結局追いかけるのをやめてしまった。
咲希が私に告げ口するのを恐れたのか、病室に戻った後、健斗は隙を見て私に何度も電話をかけてきた。だが、何度かけてもタイムアウトで自動的に切れるだけだった。
彼は眉をひそめ、メッセージを打ち込んだ。【咲希から全部聞いたと思うけど、お前が考えてるようなことじゃないんだ。電話に出てくれ、ちゃんと話し合おう】
彼が私と何を話し合いたいのか、私にはさっぱり分からなかった。
おそらく彼自身も分かっていなかったのだろう。メッセージを打ち終えた後、彼はそれを一文字ずつ消去してしまった。
しばらくの沈黙ののち、彼は病室に戻り、美月に告げた。「明日、一回家に帰る。お前はここでゆっくり休んでてくれ」
美月は頷いた。「私も一緒に行くわ。この件ははっきりさせておきましょう」
健斗は断ろうとしたようだったが、美月がさらに言葉を継いだ。「この腎臓は、結衣さんが私にくれたものだよ。彼女は今知らないとはいえ、私から直接お礼を言いたいの」
数秒の間ののち、健斗は小さく頷いた。
その夜、健斗は落ち着かない様子で何度もスマホを確認し、私とのトーク履歴を開いていた。
彼が私からの連絡を待ちわびているのだと気づき、私は少し驚いた。
何年も一緒に過ごしてきたが、彼の性格はもともと素っ気なく、いつも私の方が彼に甘えてばかりだった。日常の些細な出来事をシェアしても、彼は返信すら寄こさないか、そっけなく【ああ】と一言返すだけだったのだから。
第6話
私たちの最後のやり取りは、私から送ったメッセージで終わっていた。
それは健斗が一番気に入っていた腕時計の写真だ。【一生懸命働いて、一日も早くまた買い戻すからね】と書き添えてある。
少し考えた後、健斗は今更になってようやく【ああ】と一言だけ返信した。
おそらく私がいつものようにすぐ返信してくると思っていたのだろう。翌朝、健斗は目を覚ますなりスマホに手を伸ばし、私とのトーク画面を開いた。
だが、そこには何のメッセージも届いていなかった。
健斗は苛立ちを覚えたようだ。美月と共に家へ向かう車中でも、彼女の話に上の空で生返事を繰り返していた。
美月は慰めるように彼の手をぎゅっと握った。「大丈夫よ」
健斗は眉間に皺を寄せ、さらに苛立ちを募らせて吐き捨てた。「俺は気にしてない。最悪、離婚すればいいだけの話だ。どうせ見合いで一緒になっただけで、大して愛し合っちゃいないんだからな」
美月が心にもないことを言わないでとたしなめたが、健斗は押し黙ったままだった。
車はやがて、私たちが今借りているアパートの前に停まった。かつて私が身を粉にして働いて買ったあの家は、健斗の借金返済のために売り払ってしまい、今は古びた安アパートに身を寄せているのだ。
エントランスに着くや否や、ゴミ置き場に捨てられている物を見た健斗の眉がピクリと動いた。
そこには、彼が愛用していた布団一式が放り出されていた。
彼の顔に明らかな怒りの色が浮かび上がり、険しい表情のまま階段を上っていった。
「結衣!いくらなんでもやりすぎだろ!」玄関のドアを開けるなり、彼は怒鳴り声を上げた。
すると、脇の寝室から咲希がふらりと出てきた。その小さな体はさらに一回り痩せ細ったように見え、両目は依然として赤く腫れ上がっていた。
咲希の姿を見て、健斗の怒気は少し削がれたようだった。「咲希、ママはどこだ?」
だが咲希は、冷ややかな目で健斗を一瞥しただけで何も答えず、手当たり次第に彼の服をゴミ袋へと突っ込み始めた。
健斗は眉を寄せ、その顔に微かな焦りを滲ませた。「咲希、聞いてるのか」
そこへ美月が歩み寄り、優しくなだめるように言った。「健斗、怒っちゃだめよ。私が話してみるわ。私もこういう反抗期があったから、どう接すればいいか分かるの」
健斗は普段から娘のことに無頓着なため、美月の言葉をあっさり信じ込み、頷いて身を引いた。
美月は咲希のそばに歩み寄ると、しゃがみ込んでにこやかに言った。「咲希ちゃん、怒ってるのは分かるけど、パパを信じてあげて。もう怒らないでくれる?咲希ちゃんなら、ちゃんと自分の気持ちを我慢できるお利口さんだって、私信じてるわ」
そう言って彼女は手を伸ばし、咲希の肩を優しく撫でた。
だがその瞬間、彼女の瞳の奥に冷酷な光が過ったのを私は見逃さなかった。美月は咲希の小さな肩を、容赦なく力任せにつねり上げた。
咲希は激痛に耐えかね、美月の体を思いきり突き放した。
バランスを崩した美月は床に倒れ込み、手術の傷跡を押さえながら、苦痛に顔を歪ませた。
「咲希!お前、何するんだ!」
激昂した健斗は、娘を怒鳴りつけただけでは飽き足らず、足早に歩み寄るなり、乱暴な手つきで咲希を突き飛ばした。
咲希の頭が傍らのテーブルの角に激しくぶつかり、ゴツンと鈍い音が響いた。だが健斗は気にかける素振りすら見せず、慌てふためいて美月を抱き起こした。
彼は、頭を打ち付けて焦点の合わない目でうずくまる娘の姿を完全に無視し、声を荒らげた。「誰がそんな乱暴なことを教えた!ママの差し金か!?あいつはどこにいる!今すぐ出てこさせろ!」
彼の怒鳴り声が響き渡ったその時、玄関のドアが開かれた。
黒いスーツに身を包んだ男が骨壷を抱えて入ってくると、室内を見回しながらこう尋ねた。「星野結衣さんのご家族はこちらですか?彼女のご遺骨をお持ちしました。受け取りのサインをお願いします」