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過去に戻ってあなたと縁を切る
御影槙人(みかげ まきと)の浮気現場を押さえたあの日、彼とベッドにいた女は、自らの顔を傷つけた。 槙人はその女を腕の中へきつく抱き寄せた。私が取り乱して叫んでも、槙人は決して女の顔を見せようとはしなかった。 私を見据える彼の目は、何かをこらえるように赤く血走っていた。 「全部、俺が悪い。残りの人生すべてをかけて、必ず償う。 依織(いおり)、頼むから……彼女を追い詰めないでくれ」 その日から、槙人は私にすべてをさらし、何ひとつ隠さなくなった。 毎日スマートフォンを差し出し、自分から車内の至るところに小型カメラを取りつけた。 女性患者からメッセージが届いただけでも、私に何度も説明を求められた。 槙人は文句ひとつ言わず、私の要求にすべて応じた。もう一度、自分を受け入れてもらうためだけに…… すべてが崩れたのは、挙式を3日後に控え、私がウェディングドレスを受け取りに行った日のことだった。 店員は戸惑いを隠せない顔をした。 「神代(かみしろ)様、ドレスなら今朝もうお受け取りになりましたよ。ついさっきも、SNSで神代様のお式の動画をお見かけしたばかりです」 彼女が開いた動画に映っていたのは―― 昨日まで私を槙人の婚約者として扱っていた新郎側の友人たちが、新郎新婦に指輪を差し出していた。その傍らには、私たち共通の友人までいた。 槙人は笑みを浮かべて身をかがめ、花嫁にだけ届くような優しい声で、「夏菜」と呼んだ。 花嫁の名は、白石夏菜(しらいし かな)。しかも、その顔は私と瓜二つだった。 私は、その場に凍りついた。
チャプター (1)
第1章
御影槙人(みかげ まきと)の浮気現場を押さえたあの日、彼とベッドにいた女は、自らの顔を傷つけた。
槙人はその女を腕の中へきつく抱き寄せた。私が取り乱して叫んでも、槙人は決して女の顔を見せようとはしなかった。
私を見据える彼の目は、何かをこらえるように赤く血走っていた。
「全部、俺が悪い。残りの人生すべてをかけて、必ず償う。
依織(いおり)、頼むから……彼女を追い詰めないでくれ」
その日から、槙人は私にすべてをさらし、何ひとつ隠さなくなった。
毎日スマートフォンを差し出し、自分から車内の至るところに小型カメラを取りつけた。
女性患者からメッセージが届いただけでも、私に何度も説明を求められた。
槙人は文句ひとつ言わず、私の要求にすべて応じた。もう一度、自分を受け入れてもらうためだけに……
すべてが崩れたのは、挙式を3日後に控え、私がウェディングドレスを受け取りに行った日のことだった。
店員は戸惑いを隠せない顔をした。
「神代(かみしろ)様、ドレスなら今朝もうお受け取りになりましたよ。ついさっきも、SNSで神代様のお式の動画をお見かけしたばかりです」
彼女が開いた動画に映っていたのは――
昨日まで私を槙人の婚約者として扱っていた新郎側の友人たちが、新郎新婦に指輪を差し出していた。その傍らには、私たち共通の友人までいた。
槙人は笑みを浮かべて身をかがめ、花嫁にだけ届くような優しい声で、「夏菜」と呼んだ。
花嫁の名は、白石夏菜(しらいし かな)。しかも、その顔は私と瓜二つだった。
私は、その場に凍りついた。
第1話
耳の奥で、激しい耳鳴りがはじけ、顔から一気に血の気が引いた。
花嫁の肩に刻まれた、見覚えのあるムクゲの花のタトゥーから、目を離せなかった。
あれは、親友の夏菜が恋に傷ついていた頃、私がいくら止めても聞かず、左肩に入れたものだ。
どれほど尋ねても、夏菜は自分の心をかき乱していた男の名を明かそうとしなかった。
覚えているのは、あのとき泣きながらこう言ったことだけだ。
「何か1つでも、つかんでいたかったの。
依織には何もかもある。手に入らない人を愛する痛みなんて、わからないよ」
そして今、ようやく意味を知った。
夏菜が手に入れられずにいた相手は、槙人だったのだ。
足元がぐらりと揺れた。全身から力が抜け、私は膝から崩れ落ちかけた。
この3年、私の心が崩れるたび、夏菜はすぐにメッセージを返して慰めてくれた。
それでも、会おうとはしなかった。
遠方への長期出張で忙しく、身動きが取れないのだとばかり思っていた。
まさか、彼女こそが3年前、私と向き合うくらいなら、自ら顔を傷つけることを選んだ女だったなんて。
心配そうな店員の視線を振り切り、私はよろめきながら式場へ駆けた。
車を降りた途端、槙人の友人、青木圭吾(あおき けいご)の声が聞こえた。
「依織にバレてもいいのか?」
槙人は少し黙ってから、低く答えた。
「夏菜の顔は依織のせいで傷ついた。だから俺が夏菜と結婚して償う。それが一番いい。
依織のほうは……これからも、みんなでうまく隠してくれ」
圭吾は槙人の肩を軽く叩いた。
「もちろんだ。あのとき依織があそこまで追い詰めなければ、夏菜だって依織をこれ以上刺激しないために、自分の顔まで傷つける必要はなかったんだ。
結局、やりすぎたのは依織のほうだよ」
私が生活を支援してきた学生、小野寺梨乃(おのでら りの)も、迷いなく口を挟んだ。
「ご安心ください、御影先生。私たちがちゃんと話を合わせます。しばらくは奥様と、心置きなく新婚旅行を楽しんできてください」
そう言うなり、梨乃は慣れた手つきでスマートフォンを取り出し、私にメッセージを送った。
【依織さん、御影先生は数日間、研修医の臨床指導で病院に泊まり込むそうです。
安心してください。先生のことは私が見ています。よそ見1つさせず、まっすぐ帰っていただきますから】
こらえきれなくなった涙が、画面に次々と落ちた。
トーク画面を遡ると、槙人の行動を報告してきたメッセージが500件も並んでいる。
その一つ一つが、今は私をあざ笑っている。
いちばん信じていた人たちが、私を愚か者扱いし、3年もの間欺き続けていた事実を突きつけてくる。
そのとき、圭吾が何かに気づいたように顔色を変えた。
「さっきは招待客が大勢いた。誰かが上げた動画を依織がSNSで見たらまずい。俺が削除するよう頼んでくる」
立ち上がりかけた圭吾を、夏菜が引き止めた。
「心配しなくていいよ」
夏菜は静かに言った。「前にも、依織が私と槙人の残した痕跡に気づいたことがあったの。
でも、監視カメラの映像を確かめても、そこに映っているのは依織と同じ顔をした私だけ。
それを繰り返すうちに、依織は自分がおかしくなったんだと思い込むようになった」
こともなげに放たれたその言葉に、頭の中が真っ白になった。
あの年、ホテルで槙人の浮気現場を押さえた。
私たちが付き合い始めて10年目のことだった。
床に散った避妊具と、ベッドの上で重なった2人の姿。あの光景に、私の世界は根元から壊された。
それ以来、私は槙人の行動を、取り憑かれたように監視するようになった。
帰宅が1分遅れただけで、心が崩れてしまうほどに。
槙人はいつも目を赤くし、疲れた顔のまま、それでも私が服を脱がせて確かめるのを受け入れた。
そのうえスマートフォンまで差し出し、好きなだけ確認させた。
私を抱きしめながら、ほかに女などいない、疑いはすべて私の思い込みだと何度も誓った。
不安に蝕まれ、眠れない夜を重ねた私は、本当に自分の心が壊れたのだと思ったことさえある。
けれど今、真実は目の前にあった。
私と同じ顔こそが、彼らの3年にわたる嘘を守っていたのだ。
胃の底から、激しい吐き気がせり上がった。
もう耐えられず、私は勢いよく身をかがめ、その場で吐いた。
そんな私の耳に、また梨乃の声が届いた。
第2話
梨乃は夏菜を気遣うように抱きしめると、槙人に向かって訴えた。
「夏菜さんは先生のために、あれほど犠牲を払ったんです。依織さんに本当のことを話して、夏菜さんと二人でどこか遠くへ行くことはできないんですか」
槙人は一瞬、言葉を失った。その顔に浮かんだものが悲しみなのか、それ以外なのか、私にはわからなかった。
彼は固く目を閉じた。
「依織は……俺の命を救ってくれた。だから一生、俺が背負うべき責任なんだ」
苦しげな表情を見つめていると、遠いあの日の記憶が、ぼんやりとよみがえった。
槙人は、私が家へ連れ帰った少年だった。
北部の町の冬は、骨まで冷える。
両親がそれぞれ別の家庭を持ち、帰る場所を失った少年は、我が家の軒下にうずくまって寒風をしのぐしかなかった。
幼くして見捨てられた彼は、人の情の温かさも冷たさも、あまりにも早く知ってしまった。
私が差し出したかけうどんの丼を抱え、長く黙ったあと、何をすれば恩返しになるのか、と聞いてきた。
私の家は広かった。けれど、ひどく空っぽだった。
お返しなどいらない。ただ、遊び相手が欲しかった。
その日から、私のそばには片時も離れない影が1つ増えた。
8歳から18歳になるまで、槙人は成長するにつれ、ますます無口で物静かになっていった。
告白するときでさえ、首まで真っ赤にして、ようやく「好きだ」と一言絞り出したほどだ。
そんな彼は、偏食の私のためなら、あれこれ工夫して違う料理を作ってくれた。
夜中に私の胃が痛めば、反射的に飛び起き、湯を沸かして薬を探した。
ところが当初、親友の夏菜は彼を気に入らなかった。槙人は私に釣り合わない、取り柄といえば、そんな安っぽい優しさくらいしかないと言った。
夏菜にそう突っかかられるたび、槙人も負けじと言い返した。二人の言い争いは、いつも手がつけられないほど激しかった。
何度取りなしても無駄で、二人とも私を大切に思いすぎているのだと、そう考えるしかなかった。
一人は、幼い頃からずっと私を守ってくれた親友。
もう一人は、何よりも私を優先してくれる恋人だったから。
それが変わったのは、夏菜がある連中の恨みを買い、路地で柄の悪い男たちに囲まれたときだった。
いつも冷静な槙人が、焦るあまり椅子を倒し、振り返りもせず飛び出していった。
私が駆けつけたとき、普段は人と争うことさえほとんどない槙人が、男たちと我を忘れてもみ合い、口元にも体にも傷を負っていた。
その異様さを考える余裕もなく、私は彼をかばおうと飛び込んだ。
その代償に、もみ合いの最中、私は車道へ押し出されて事故に遭った。
両脚に、障害が残るほどの重傷を負った。
槙人は、あまりの衝撃に憔悴しきった私の両親の前にひざまずき、もし私を裏切ることがあれば、どんな報いも受けると誓った。
夏菜も目が腫れるほど泣きながら私を抱き、もう一度立てるようになるまで必ずそばにいると言った。
義足を初めて身につけた日、二人は同時に目を赤くした。
あのときは、私の痛みを思ってくれたのだと信じていた。
今になって思えば、表に出せなくなった二人の恋を、惜しんでいたのだろう。
夏菜の声が、私を記憶から引き戻した。
「槙人……私たち、依織にひどいことをしてるよね?」
だが周囲の者たちは、彼女を取り囲んで慰め始めた。
「夏菜は悪くない。おまえたちの足を引っ張っているのは依織だ。
あいつがあんなに脆くなければ、刺激しないよう、こんなに苦労して隠し続ける必要なんてなかった」
槙人は何も言わず、ただ夏菜を胸に抱き寄せた。
胸をわしづかみにされたように痛み、私は苦しさに息を吸っても吸っても足りなかった。
震える手でスマートフォンを取り出し、1通のメッセージを送る。
【もしあなたが私を裏切ったら、大きな贈り物をくれるって言ったよね。あの約束、まだ守ってくれる?】
返事は、すぐに届いた。
【守る】
その短い返事を見つめ、私は目尻の涙をゆっくり拭った。そして彼らの前へ歩み出し、かすれた声を絞り出した。
「なら、教えて。いったい誰が悪いの?」
第3話
私だと気づいた瞬間、槙人の顔色が変わった。反射的にこちらへ1歩踏み出し、唇をわずかに動かした。
けれど、最後まで言葉にはならなかった。
私は唇をかすかに歪め、夏菜へ目を向けた。
「夏菜も、悪いのは私だと思ってる?」
夏菜は青ざめ、ウェディングドレスの裾を強く握った。
私は、夏菜が着ているウェディングドレスを見つめた。それは、私もデザインに携わったものだった。
自分が式でそれをまとう姿を、数えきれないほど思い描いてきた。
夏菜に祝われ、見守られながら、槙人の花嫁になる自分を。
けれど今、そのドレスを着ているのは私ではない。槙人の花嫁になったのも、私ではなかった。
「依織、ごめん。私、ただ……」
夏菜は目に涙を浮かべ、どうしていいかわからない様子で弁解しようとした。
「ただ、何?親友の婚約者を奪わずにはいられなかったって?
恥知らずにもほどがある!」
押し込めていた怒りも、悔しさも、一気に噴き出した。我に返ったときには、私の手が彼女の頬を打っていた。
夏菜の体がびくりと震え、顔にわずかに残っていた血の気まで引いた。
槙人は即座に駆け寄り、彼女を背にかばって怒鳴った。
「依織!何を言ってるんだ!」
だが夏菜は槙人を勢いよく押しのけた。「依織を怒鳴らないで!」
震えながら私の手を取ろうとする。その声は、こらえきれない涙に震えている。
「私が悪いの、依織。叩きたいなら叩いて。絶対にやり返さないから」
その指が触れた瞬間、吐き気がまた込み上げた。私は反射的に、もう一度手を振り上げた。
「触らないで!」
夏菜は、私が手を振り払った勢いで体勢を崩し、数歩よろめいた末、その場に尻もちをついた。
とっさに腹部を押さえ、苦痛に顔をゆがめた。
私が反応する間もなく、強い力で押しのけられた。
「依織!正気か!?自分が母親になれないからって、夏菜にまで同じ苦しみを味わわせるつもりか!
おまえを刺激しないために、夏菜は自分の顔を傷つけてまで3年も耐えた。おまえに夏菜を責める資格なんてない!」
槙人は理性を失ったように怒鳴った。その目には、むき出しの嫌悪しかなかった。そして夏菜を抱き上げると、一度も振り返らず足早に去っていった。
圭吾も、怒りを隠そうとしなかった。
「夏菜は妊娠してるんだぞ!もし腹の子に何かあったら、槙人は一生おまえを許さない!」
梨乃が向ける視線にも、あからさまな失望がにじんでいた。
「依織さん、いくら何でもひどすぎます」
私はその場に座り込み、槙人を追って去っていく彼らの背中を呆然と見送った。
体中から、何もかも抜き取られたようだった。
彼らは、忘れているらしい。私も5年前、槙人の子を身ごもっていたことを。
立ち上げたばかりの夏菜の事業を軌道に乗せるため、私は展示会のモデル役を引き受け、彼女と医療機器会社を何社も回った。
行く先々の接待で、冷えた酒を1杯、また1杯と飲み続けた。
その頃、私の中には、まだ誰にも気づかれていない命が宿っていた。
自分でもまだ存在に気づいていなかったその子を、私はそこで失った。
あのときの槙人は、苦しみのあまり我を失った。
夏菜を壁際へ追い詰め、わざとだったのかと声を荒らげた。
流産したばかりの弱った体で、それでも私は槙人を引き離した。夏菜に当たらないでと、必死に頼んだ。
最後には私をきつく抱きしめ、私たちにはまた子どもができると、槙人は涙声で何度も繰り返した。
首筋に落ちた彼の涙は、焼けつくほど熱かった。
それなのに今、彼は一度も振り返らない。
体の芯まで冷え、震えが止まらなかった。もう持ちこたえられず、私はその場に崩れ落ちた。
目を覚ますと、槙人がベッドのそばにいた。私の虚ろな目に気づき、彼は一瞬ためらった。
「担当医から、しばらく安静にするよう言われた」
白湯と薬を差し出し、私に飲ませようとした。
私は彼を見つめたまま、そっと手を上げた。熱い湯がすべて彼の手の甲へこぼれ、たちまち赤みが広がった。
槙人は眉を寄せたが、声も上げずに耐えた。だが私が起き上がって出ていこうとすると、手首をつかんだ。
「依織、怒りは全部俺にぶつければいい。でも今は、ここから出るな」
その手は、私の手首をきつくつかんだまま離そうとしなかった。
何かを知られるのを恐れているような、張りつめた顔だった。
そのとき、階下のリビングから陶器の砕ける音が響いた。
直後、聞き覚えのある怒号が上がった。
胸の奥がきゅっと縮んだ。私は槙人の手を振りほどき、階下へ駆けた。
そして、リビングの光景を目にした瞬間、全身から血の気が引いた。
第4話
夏菜は薄いネグリジェ姿で、床一面に散った陶器の破片の中に立っていた。
その向かいにいたのは、父と母だった。
槙人は夏菜のもとへ駆け寄ると、腕をつかみ、けががないか確かめるように全身を見回した。
「夏菜、けがは?」
「夏菜……?」
父と母は顔を見合わせた。なぜ彼女が私と同じ顔をしているのか、問いただす間もなく、次の瞬間、固く握り合った2人の手を目にして、両親の顔色が怒りに染まった。
「槙人、これはどういうことだ」
槙人はしばらく黙り込み、やがて夏菜の手をさらに強く握った。
「見て、聞いたとおりです」
父の胸が激しく上下した。今にも意識を失いそうだった。
「正気か!?こんなことをして、依織に顔向けできるのか!」
母は父の身体を支えながら、2人を怒りに満ちた目で見据えた。
ところが夏菜は突然、父と母の前に膝をついた。
「おじさま、おばさま、全部私が悪いんです……依織を裏切りました。
どうか、私たちのことを認めてください」
槙人は慌てて夏菜を立たせると、父と母へ冷ややかに告げた。
「依織を裏切ったことは分かっています。改めておわびに伺います。
ですが、夏菜は妊娠初期で安静が必要です。今はお引き取りください」
かつて槙人は、私の両親の前に膝をついて誓った――一生私を大切にする。だから安心して、自分に任せてほしい、と。
父は心臓に持病があった。余計な心配をかけたくなくて、槙人が以前にも裏切ったことは一度も話していなかった。
それだけに、何の前触れもなく知らされた真実は、あまりにも残酷だった。
幼いころから見守り、実の娘のようにかわいがってきた夏菜が、槙人と関係を持っていた。
そればかりか、私と同じ顔に変えてまで、私の居場所を奪おうとしていたのだ。
「おまえたちは……よくも依織を!」
父は目を大きく見開いた。次の瞬間、身体から力が抜け、床へ崩れ落ちた。
「お父さん!」
私は父へ駆け寄り、前をふさぐ夏菜を押しのけた。
「どいて!」
夏菜の身体がこわばり、足元がふらついた。槙人は表情を凍らせ、すぐさま彼女を背後へかばった。
「依織!こんなときまで、そこまで冷酷になれるのか?」
けれど、そのときの私には、槙人の言葉など耳に入らなかった。
父を救急搬送したものの、緊急手術に対応できる医療チームはすべて処置中で、受け入れ先の調整にも時間がかかると告げられた。
刻一刻と時間だけが過ぎ、父の顔から血の気が失われていく。
焦りで頭がいっぱいになる中、槙人なら救急担当と連携し、応急処置の継続や転院先の確保に力を貸せるかもしれないと思い出した。
だが、槙人の居場所を尋ねた私に、看護師は冷ややかに言った。
「御影先生は、奥様だと伺っている夏菜さんが妊娠中に体調を崩されたため、隣の病室で付き添っていらっしゃいます。
お父様は救急担当が処置を続けながら転院先を調整しています。ここでお待ちください」
私はその場に立ち尽くした。
父の呼吸は次第に浅くなり、苦しさのあまり声さえ出せなくなっていた。
母は泣き崩れ、何とかしてと私にすがった。
もう何も構ってはいられなかった。私は槙人のいる病室へ駆け込んだ。
父への処置と転院調整に力を貸してほしい、と切り出した途端、夏菜が先に涙をこぼし、傷ついたような声を上げた。
「依織、私を憎んでいるのは分かってる。でも、この子まで失いかけているの。それでも罰として足りないの?
私が死ななければ、許してくれないの?」
その言葉を聞いた途端、槙人の目から迷いが消えた。
彼は夏菜の手をいたわるように握りしめた。
「戻ってくれ。夏菜が落ち着いたら、お義父さんのところへ行く」
信じられずに顔を上げた。目の前にいるのが、まるで見知らぬ男に思えた。
私の視線を受け、槙人は眉をひそめた。
「そんな目で俺を見るな。そもそも、さっきおまえたちが夏菜を追い詰めなければ、体調を崩すことも……」
その声が、不意に途切れた。
次の瞬間、私は床に膝をついていた。唇をかみしめ、声を絞り出す。
「これでいい?お願い、父への処置と転院調整に力を貸して」
私は床に額を打ちつけるように、何度も深く頭を下げた。鈍い音が病室に重なった。やがて温かなものが額から流れ、目に入って視界が赤くにじんだ。
そのとき、スマートフォンの画面が光った。
看護師から届いた緊急連絡だった。
【患者様は蘇生処置を続けましたが、心拍の回復が確認できませんでした。付き添われていた奥様が知らせを受け、病棟の窓から転落しました。至急、救急フロアへお戻りください】
頭の中で、何かがぷつりと切れた。
その瞬間、私の心も死んだ。
顔の傷を拭う余裕もなく、階段を駆け下りた。途中で何度転んだのかさえ覚えていない。
覚えているのは、母がすでに息をしていないことを、この目で確かめたことだけだ。
私の魂まで、跡形もなく引き裂かれた。
「お母さん、目を開けて……」
呆然としたまま、冷えた手を握って揺らした。けれど、腕の中で目を閉じた母が、もう私の頬をなでることはない。
やさしく「依織」と呼んでくれることも、二度とない。
私は感覚を失ったように立ち上がった。痛みが深すぎて、涙さえ出なかった。
やがて、ふらつく足で前へ進んだ。
「お父さん、お母さん……帰ろう」
知らせを聞いた槙人が病院を飛び出し、目の前の光景を認めた瞬間、その顔が恐怖にゆがみ、喉を裂くような声が響いた。
「依織!」