第1章
私・最上花凛(もがみ かりん)と義妹の最上葵衣(もがみ あおい)の意見が食い違うたびに、婚約者の清水京助(しみず けいすけ)と兄の最上奏人(もがみ かなと)は、決まって「多数決」で物事を決める。
新居を構える場所を選ぶときもそうだ。私は実家に近い南沖区を希望した。一方、葵衣は「北瀬区のほうが賑やかでいい」と譲らない。
互いに一歩も引かず、話し合いは平行線をたどる。結局、またしても多数決で決めることになった。京助が真っ先に手を挙げる。
「お前は考え方が堅苦しいんだよ。生活を楽しむってことを、ちっとも分かってない。ここは葵衣の意見に賛成だ」
兄は私の頭をそっと撫でながら、諭すように言う。
「花凛、そうわがまま言うな。北瀬区なら葵衣の会社にも近いし、休みの日には遊びに来て、そのまま泊まることだってできるだろ」
三対一。私はまたしても、妥協を強いられる。
南向きで一番広い部屋を主寝室にするつもりだった私に、葵衣が突然言い出す。
「ここ、ウォークインクローゼットにしたい」
すかさず京助が割って入る。
「多数決で決めよう。そうすれば、俺たちが葵衣ばかりひいきしてるなんて文句も言わないだろ」
案の定、結果はまたしても葵衣の意見が採用された。その結果、花嫁である私に与えられた寝室は、クローゼットの半分ほどしかない手狭な部屋となってしまった。
これまで何度も繰り返されてきた、多数決の記憶が蘇る。京助が私を支持した回数、ゼロ。兄が私を支持した回数、ゼロ。
目の前では、三人が楽しそうにウォークインクローゼットの内装について話し合っている。その姿を眺めながら、ふと気づく。
「多数決」なんて、ただの建前にすぎない。彼らは最初から、堂々と葵衣を特別扱いするつもりだったのだ。
だったら、もういい。どれだけ待っても、決して私のほうへ傾くことのない天秤、そんな茶番に、これ以上付き合う必要なんてない。
私は、自分からこのゲームを降りる。
第1話
「この浴室、ちょっと味気ないよね。もう少し大きなバスタブを入れたらいいのに。疲れたときにゆっくりお風呂に浸かれるし、あたし、お風呂に入るの大好きなんだ」
葵衣は浴室の入り口に立ち、いかにも不満そうな顔をしている。
いらいらして、何か言い返すより先に、京助が迷いもなく答える。
「もちろんいいよ。俺も大きなバスタブのほうが好きだし、ゆったり浸かれるからな」
そして、思い出したように私を見る。
「そうだよな、花凛?」
京助が先に答えを決めてから、私の意見を聞くのは、これで何度目だろうか。
意見が同じなら、みんな満足。意見が食い違えば、多数決。これまでの投票でも、いつだって負けるのは私だった。
……
3日前のことだ。猛烈な台風が吹き荒れる中、私は空港の出口で足止めされていた。一人では帰れそうになく、京助に電話をかけて迎えに来てほしいと頼んだ。
しかし、電話の向こうでは三人が何やら相談している。
「葵衣が今から夜食を食べに行きたいって。2日も前から予約して、やっと取れた店なんだ。悪いけど、タクシーで帰ってくれないか」
その直後、スマホに投票結果が送られてきた。【葵衣と夜食を食べに行く、3票で決定】
その夜、私は空港で一晩を明かすことになった。
……
手を強く握りしめながら言う。
「いいじゃない。葵衣の好きなようにして。でも、結婚はやめるわ」
リビングが、水を打ったように静まり返る。京助は眉をひそめ、不機嫌そうに私を睨みつける。
「こんなことで、結婚をやめるのか?
内装は多数決で決めてきたんだろ。自分の思い通りにならないからって、そんな嫌味を言うなよ」
兄の表情も冷たく強張る。
「葵衣は他人じゃないだろ。姉なんだから、妹のために少しくらい大きなバスタブを入れてやったっていいじゃないか」
部屋を見渡す。目の前に広がっているのは、私が思い描いていた新居とは似ても似つかないものだ。
葵衣が欲しがったウォークインクローゼット、葵衣が気に入った大きな窓、そして今度は、葵衣が欲しがるバスタブまで。誰も気づいていない。ここが、私のための新居だということに。
重苦しい空気を感じ取ったのか、葵衣が甘えるように私の腕をつかむ。
「お姉ちゃん、ごめんね。やっぱりこれだけは我慢するから、怒らないで……」
京助はすぐに葵衣を自分の後ろへかばうように引き寄せる。
「放っておけ。多数決の結果なんだ。負けた腹いせに駄々をこねるなんて、お門違いにも程がある」
兄も頷き、すぐさま内装デザイナーに、あのバスタブを設置するよう指示を出す。そのせいで、残ったスペースには私が注文していた鏡も棚も置けなくなった。
まるで三人が肩を寄せ合っているせいで、私の居場所だけが最初から用意されていなかったみたいだ。
でも、もう無理に入り込むつもりもない。スマホを取り出し、海外研修の案内を開く。参加者の一覧に、自分の名前があることを確認する。そして、上司へメッセージを送る。
【郷田社長、海外研修の件、お受けいたします】
第2話
一人で会社へ向かい、研修に必要な手続きを済ませてから家へ戻る。3時間が過ぎても、彼らは私の不在にすら気づいていないようだ。
夜10時を回った頃、京助が紙袋を提げてドアを開ける。
「何も言わずに出ていって、どこへ行ってたんだ?」
首を横に振る。「別に」
京助はそれ以上聞かず、持っていた紙袋を私に差し出す。「ほらよ」
紙袋に印字されたロゴは、私のお気に入りのスイーツの店のものだ。
付き合い始めた頃、京助は私を怒らせるたびに、わざわざこの店まで足を運んでケーキを買ってきてくれた。大行列ができる人気店で、毎回2時間以上並ぶのに、彼は文句一つ言わなかった。
あの頃のことを思い出すと、ふっと心が温かくなる。紙袋の中身を見る。けれど、次の瞬間、言葉を失ってしまう。
「これ……何?」
中に入っていたのは、ケーキではない。クリームがついた、何着かの汚れた衣服だ。呆然とする私を前にして、京助は少し気まずそうに視線を逸らす。
「葵衣がケーキを食べた時、うっかり服に付けちゃってさ。お前、洗濯上手いから、ついでに洗っといてやってくれよ。
それに、これってこの前の多数決の結果だろ……そんな顔するなよ」
この前の食事のとき、彼らは悪ふざけで【誰が一番、家政婦に向いているか】という多数決を始めた。そして、三人は揃って私を指名した。
そのとき京助は私の頭を撫でながら言った。「俺の嫁は本当に家庭的だよな。洗濯も料理も何でもできるし」
兄も笑って続けた。「そうだな。花凛は昔から家事が得意だったしな。これからは俺たちの服もまとめて洗ってくれよ」
ただの冗談だと思っていた。まさか、本当に私を家政婦扱いするつもりだったなんて。
私が洗うのが当然だとでも言うように、京助は私の頬を軽くつねる。
「お前がそんな心の狭いヤツじゃないって分かってるよ。葵衣は潔癖症だから、きれいに洗っといてくれよな。
それから、明日はウェディングドレスの試着だからな。早く寝ろよ」
汚れた服を紙袋に押し戻し、そのままゴミ箱へと放り捨てる。汚れてしまったものなら、もういらない。
翌日。仕事のせいで少し遅れて店に入ると、葵衣が私の予約していたウェディングドレスを着ている。店員も、京助も、兄も、その姿に目を奪われている。
けれど、葵衣は鏡の前で何度も自分の姿を見ながら、首を傾げて不満を漏らす。
「このデザイン、好きじゃないな。結婚式のテーマにも合ってないし、やっぱり別のドレスに変えようよ」
入り口の物音に気づくと、葵衣はドレスの裾を引きずりながらこちらへ歩み寄ってくる。
「お姉ちゃん、多数決で決めない?あたし、あっちのドレスのほうが好きなんだけど」
京助も相づちを打つ。「確かに、あっちのほうが似合いそうだな」
葵衣が指差したのは、私が以前、真っ先に候補から外したマーメイドラインのドレスだ。
私の結婚式なのに、ウェディングドレスまで勝手に着られ、デザインまで勝手に変えられる。ずっと溜め込んでいたものが、思わず口を突いて出る。
「ウェディングドレスまで、自分で決められないの?」
そこでようやく、店員は私が花嫁であることに気づく。気まずそうに視線を泳がせる。葵衣が居心地悪そうに立ち尽くしているのを見て、京助が慌てて取りなす。
「そんなにムキになるなよ。多数決で決めるって言ってるだけで、お前の意見をまったく無視するってわけじゃないんだから」
兄も苛立たしげに口を挟む。
「昔からずっとそうだっただろ。葵衣が着たいだけ着たら、あとでお前に譲るんだ。ウェディングドレスだからって、何が違うんだよ?
明日はもう式のリハーサルなんだ。こんなことで揉めてる暇はない」
私の顔色を見た葵衣は、ドレスを乱暴に脱ぎ捨てると、顔を覆って店を飛び出していく。二人の男は、迷うことなくその後を追っていく。
取り残された私は、ずっと夢見ていたウェディングドレスを見つめる。床に落ちたドレスは、何度も踏みつけられた。
胸が締め付けられる。店員でさえ、私に同情するような目を向けている。
「お客様、このドレス……どうなさいますか?」
口元をわずかに引きつらせ、キャンセル料とドレスを汚したことへの賠償金を支払う。そして、結婚式場の担当者へ電話をかける。
「結婚式は、キャンセルでお願いします。キャンセルにかかる費用は、こちらが払います」
第3話
翌朝早く、階下から聞こえてくる賑やかな笑い声で、私は目を覚ます。寝ぼけ眼をこすりながら階段を降りる。
するとそこには大勢の客が集まり、葵衣があのマーメイドラインのウェディングドレスを身にまとい、京助の腕に手を添えて立っている。
ボサボサの髪にパジャマ姿の私を見て、客たちはヒソヒソと品定めするように囁き合う。
「あの女、誰?なんで新郎新婦の家にいるの?」
「まさか、ストーカーとかじゃないわよね?」
「家政婦だったりして!あはは!」
京助が慌てて私のところへやって来ると、声を落として言う。
「自分の結婚式のリハーサルだっていうのに、こんな時間まで寝てるなんて。葵衣が代わってくれて助かったよ。
葵衣はお前のことを気遣って、式場を使わずにわざわざこの家でリハーサルをすることにしてくれたんだ。
とりあえず、今日は葵衣に花嫁気分を味わわせてやろう。どうせ本番の式には、お前にも出てもらうんだから」
一体どんな立場で出席させるというのか。愛人?それともストーカー?問い詰めるより早く、京助は続ける。
「さっきみんなで多数決をとって、全員が賛成したことだから」
京助や兄だけでなく、実の両親まで、葵衣に票を入れていた。葵衣は私に向かって、無邪気そうに何度か瞬きをしてみせる。
「あたし、花嫁さんの気分をちょっと味わってみたかっただけなの。お姉ちゃんの結婚式のリハーサルを取っちゃっても、怒ってないよね?」
自嘲気味に鼻で笑う。「怒ってないわ。なんなら、新郎ごと持っていってくれても構わないわ」
京助の表情が一瞬で険しくなる。「俺に当てつけたいなら、そう言えばいい。葵衣に八つ当たりするなよ」
兄が私の腕を掴み、まるで人目に触れさせたくないものでも隠すように、部屋の隅へ乱暴に引っ張っていく。
「父さんたちも来てるんだぞ。お前、いつからこんなに聞き分けのない人間になったんだ?
葵衣は身寄りのない子だ。ようやく、みんなに大切にされる喜びを味わえているんだぞ。葵衣の願いを叶えてやれば、父さんと母さんも喜ぶだろうが」
両親が葵衣を家に迎えたあの日。みんなが私に言った。葵衣が来ても、私への愛情が減ることはない、と。
それなのに今では、葵衣こそが家族の中心で、私は部外者なのだ。
本物の花嫁である私は部屋の隅に追いやられ、京助と葵衣が皆の前で結婚指輪を交換するのをただ見つめている。
かつて彼は私にこう言った。「この指輪をつけるのは一人だけだ。俺の花嫁も、花凛だけだ」
しかし今、私の指には何もなく、5年間の思いもまた、空っぽになっている。
耳元に、客たちの歓声が飛び込んでくる。
「まあ、なんてお似合いの二人なの!」
「昨日、葵衣がウェディングドレス姿の写真をSNSに載せてたのを見たけど、まさか本当に結婚するなんて思わなかった」
「婚約者に大事にされてるんだね。少し前に昔の同級生にしつこく付きまとわれてた時も、彼が堂々と交際を公表して、守ってくれたんだから!」
「そうそう、その男をボコボコにして、あわや警察沙汰になるところだったらしいわよ」
……
そういうことだったのか。「一時的に代わってもらう」などというのも真っ赤な嘘で、すべては最初から仕組まれていたことなのだ。
そのとき、郷田社長からメッセージが届く。
【今回の研修は外部との接触が制限される集中プログラムだ。向こう5年間は帰国できなくなるが、本当に覚悟はできているね?】
集まった人たちの間を回り、仲睦まじくグラスを合わせる京助と葵衣の姿は、誰もが羨むお似合いのカップルだ。その様子を眺めながら、私はようやく肩の力を抜いて笑う。
【はい、覚悟はできています】
続けて、航空券の予約情報が届く。今夜9時発だ。
スマホで仕事の引き継ぎを済ませ、部屋へ戻って荷物をまとめようとする。ドアを開けた瞬間、目の前の光景に、私はその場に釘付けになる。
第4話
寝室では、葵衣が露出の多いキャミソール姿で立っていて、京助も下半身にバスタオルを巻いただけの格好で、葵衣に手を伸ばしている。
あまりにも現実離れした光景に、頭が真っ白になる。「二人とも……何してるの?」
京助は弾かれたように手を引っ込め、明らかに動揺している。
「誤解するなよ。葵衣が着替えに来たんだ。ゴキブリが出たっていうから、手伝ってただけだ。
俺もちょうどシャワーを浴びてたところだったから、とりあえずバスタオルだけ巻いて飛び出してきたんだ」
そんな白々しい言い訳を聞いても、もう何の意味もない。京助の横を通り過ぎ、黙々と荷物をまとめ始める。
すると、京助が私の手首をつかむ。その目には、苛立ちが浮かんでいる。
「いちいち大げさなんだよ!お前、考え方が歪みすぎだろ!」
京助の怒鳴り声を聞きつけ、階下にいた客たちまで駆け上がってくる。その場の空気が一気に気まずくなる。
京助は慌てて葵衣の服を整え、彼女を自分の腕の中へかばうように抱き寄せる。そして私を指差した。
「ただの家政婦が勝手に入ってくるな。次にこんなことをしたら、クビにするぞ!」
全員の冷ややかな視線が私に突き刺さる。
「やっぱり家政婦だったのね」
「さっきはリハーサルを邪魔しただけじゃなくて、今度は雇い主の寝室にまで勝手に入るなんて……本当に気味が悪いわ」
私はその場に立ち尽くす。突き刺さる視線に、まるで自分のすべてをさらけ出されたような気がする。
兄は慌てて荷物をまとめ、私の腕を引いて階下へ連れていく。
「しばらく外で頭を冷やしてこい。この騒ぎが収まったら戻ってくればいい。
葵衣は気が弱いんだ。姉夫婦の寝室であんな格好をしていたなんて知られたら、きっと耐えられなくなる」
私は無様に床へ突き飛ばされ、投げ出されたスーツケースは、衝撃で無残に壊れてしまった。
……
5年前、京助がこの一軒家を購入した時のことだ。彼は私の両目を手で覆いながら、この家に連れてきてくれた。
「ジャーン!ここがこれから俺たちが暮らす家だ。どう?気に入った?」
嬉しくて涙がこぼれ、私は京助の胸に飛び込んだ。ここでずっと一緒に暮らそうと約束した。
まさか5年後の今日、この家から追い出されることになるなんて。
自嘲気味に笑い、立ち上がろうとする。そのとき、スマホに葵衣から動画が届く。画面の中では、葵衣がソファに座り、周りの人たちが慰めるように取り囲んでいる。
「さっきは本当に恥ずかしかった……そんな姿を、みんなに見られちゃって……」
京助が彼女の涙を拭い、優しく慰める。
「葵衣は知らないだろうけど、花凛なんて大学時代に教授からセクハラされて、服がはだけた姿を大勢に見られたことがあるんだぞ。それでも平気な顔をして生きてるじゃないか」
兄も慌てて調子を合わせる。
「そうだぞ。あいつは当時それで鬱病になったんだが、父さんたちは葵衣に心配をかけたくなくて話さなかったんだ。
大学の裏サイトを探せば、当時の動画が残ってるかもしれない。あいつがあんな目に遭っても平気なんだから、今回のことなんて大したことないさ」
それを聞いた客たちは野次馬根性を刺激され、こぞってスマホを取り出し、私がセクハラを受けた当時の動画を検索し始める。耳の奥で、激しい耳鳴りがする。
大学時代、成績優秀だった私は、教授に「ご褒美をやる」と呼び出され、そこでセクハラを受けた。
駆けつけた京助が教授を殴りつけ、パニックに陥った私を強く抱きしめてくれたのだ。
「花凛、あんなクズのせいで自分を責めるな。お前は何も悪くない」
そして兄が教授の言動を証拠として動画に収め、すぐさま私を連れて警察へ行き、被害届を出してくれた。
それなのに今、二人は葵衣の機嫌をとるためだけに、大勢の前で二度と思い出したくない過去をさらしている。
膝についたほこりを払い、壊れたスーツケースを引きずりながらタクシーを拾う。行き先は、空港。
もう二度と、この家には戻らない。
……
結婚式当日。タキシードに身を包んだ京助は、結婚式場の前で足止めされる。
「結婚式がキャンセルされているだと?何かの間違いだろ?」
苛立ちを隠せない京助は、すぐに花凛の上司へ電話をかけ、花凛の居場所を聞き出そうとする。
しかし、電話の向こうから告げられた言葉を聞いた瞬間、京助の顔からさっと血の気が引いた。