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危篤の祖母より、後輩女医を選ぶ夫
私の夫、鷹司勝己(たかつかさ かつみ)は、私の祖母の明松一美(あけまつ かずみ)に女手ひとつで育てられた。 その祖母が心臓発作で倒れたとき、私、鷹司理和(たかつかさ りわ)は真っ先に夫へ電話をかけた。市内随一の心臓外科医は、ほかならぬ勝己だったからだ。 けれど勝己は、病院に赴任したばかりの後輩、空知亜実(そらち あみ)といちゃつくことに夢中で、一本の電話にすら気づきもしなかった。 祖母は、一向に現れない勝己を待ち続けた。そして最期まで、自分を死の淵へ追いやったのが、手塩にかけて育てた勝己だとは信じられないというように目を見開いていた。 息を引き取る間際、祖母は全財産を私に遺し、ただひとこと「あの人とは別れて、これからは自分の人生を生きなさい」と言い残して、静かに目を閉じた。 私は、祖母の遺言どおりに勝己と離婚した。 そして真実を知った勝己は、まるで人が変わったように、狂気の淵へと堕ちていった……
チャプター (1)
第1章
私の夫、鷹司勝己(たかつかさ かつみ)は、私の祖母の明松一美(あけまつ かずみ)に女手ひとつで育てられた。
その祖母が心臓発作で倒れたとき、私、鷹司理和(たかつかさ りわ)は真っ先に夫へ電話をかけた。市内随一の心臓外科医は、ほかならぬ勝己だったからだ。
けれど勝己は、病院に赴任したばかりの後輩、空知亜実(そらち あみ)といちゃつくことに夢中で、一本の電話にすら気づきもしなかった。
祖母は、一向に現れない勝己を待ち続けた。そして最期まで、自分を死の淵へ追いやったのが、手塩にかけて育てた勝己だとは信じられないというように目を見開いていた。
息を引き取る間際、祖母は全財産を私に遺し、ただひとこと「あの人とは別れて、これからは自分の人生を生きなさい」と言い残して、静かに目を閉じた。
私は、祖母の遺言どおりに勝己と離婚した。
そして真実を知った勝己は、まるで人が変わったように、狂気の淵へと堕ちていった……
第1話
祖母が突然の心臓発作で病院に運び込まれた。しかも、執刀できるのは市内随一の心臓外科医である私の夫、勝己しかいなかった。
私は気が急くあまり、勝己の勤める病院へと駆けつけ、そのまま医局へ飛び込んだ。
手術をお願いしようと思ったのに、目に飛び込んできたのは、病院に赴任したばかりの後輩である亜実と、親しげに顔を寄せ合って話す勝己の姿だった。
割って入った私に、勝己は露骨に苛立ちを見せた。
「理和、俺と亜実は同じ医局のただの先輩後輩だって何度も言っただろ。いい加減、大人になれよ。それを、わざわざ病院まで押しかけて、おばあちゃんが死にかけてるなんて嘘をつくとはな」
隣に立つ、同じく白衣姿の亜実も、いかにも無垢な顔で私を見つめてきた。
「そうですよ、理和さん。おばあ様に本当に何かあったなら、この病院には先生方がたくさんいらっしゃるじゃないですか。わざわざ忙しい先輩を呼び出さなくても……私と先輩が親しくしてるのが妬ましいのは分かりますけど、こんな嘘までついて先輩を騙そうとするのはさすがにどうかと思います」
その言葉に、勝己の顔つきはますます険しくなった。
私は慌てて言葉を継いだ。
「違うの、本当に容体が急変して……このオペができるのは、この病院であなただけだって……」
「なら、死なせておけばいい」
耳を疑った。だが勝己の顔には、微塵の躊躇いもなかった。
「理和、いい加減その卑しい嫉妬と心の狭さをどうにかしろ。もう俺に構うな」
そう言い放つと、勝己はくるりと身を翻し、亜実に向けては打って変わって甘い声を出した。
「行こうか。今日は君の初めての執刀だ。俺がついていてやる」
あまりの温度差に、心が凍りつくようだった。だが今はそれどころではない。屈辱を呑み込んで、私は必死に勝己の前に立ちはだかった。
「勝己、本当なのよ!おばあちゃんの容体は本当に危ないの。あなたが行かなかったら、絶対に後悔するわ!」
勝己は苛立たしげに私の腕を振り払い、冷たく吐き捨てた。
「お前のおばあちゃんだろ。俺のじゃない。何かあったとしても、毎日縁起でもないことばかり言っているお前のせいだろ」
勝己はもっともらしい口調で続けた。
「それに俺は医者だ。俺にとって患者はみんな平等なんだよ。お前のおばあちゃんが手術が必要だからといって、ほかの患者は後回しにしていいのか?」
その拍子に私は床に倒れ込んだ。尾てい骨に鈍い痛みが走る。並んで去っていくふたりの背中を見つめながら、悔しさのあまり涙が溢れた。
「勝己!おばあちゃんは、あなたをずっと育ててくれた人なんだよ!」
心臓の手術と、ただの虫垂炎の手術が、同じであるはずがないのに。
勝己は足を止め、刃物のように鋭い視線だけをよこした。
「次にそんな嘘をついたら、夫婦の縁を完全に切るからな」
言い捨てて、振り返りもせず去っていく。傍らの亜実だけが、勝ち誇ったような笑みを私に向けてきた。
激痛を堪えて立ち上がり、まだ最後の望みを捨てきれずにいたとき、祖母の主治医から電話が入った。
「理和さん、鷹司先生とは連絡が取れましたか?おばあ様の容体が急変し、危篤状態に陥っています。今すぐ戻って、必要な書類にサインをお願いします」
第2話
「危篤」……その二文字に、頭の中が真っ白になった。勝己の姿はもう見えない。
私はただ、来た道を全力で引き返した。
「す、すぐに戻ります!」
痛みを堪えて手術室の前まで駆け戻ると、看護師たちが慌ただしく出入りしていて、事態の切迫ぶりがひと目で分かった。
私は震える手で、次々と運ばれてくる手術の同意書や延命措置の確認書などにサインをした。焦燥で胸が張り裂けそうだった。
そばにいた若い看護師たちが、思わずというように小声を交わしている。
「鷹司先生、どうしたんだろう。自分を育ててくれたおばあ様の手術なのに来ないなんて」
「決まってるでしょ、また空知先生に引き留められてるのよ。奥さんのことなんて眼中にないんだから」
「毎日毎日、先輩だ後輩だってイチャイチャして。見てて気持ち悪い」
聞いていて、背筋が冷たくなった。
勝己と亜実の間に何かあるのは、とっくに気づいていた。それで何度も言い争いにもなった。けれど勝己はいつも不機嫌そうに否定するばかりか、私の考え方が汚いとまで言った。ここ数ヶ月は電話にも出ず、家にも帰ってこない。
今日、祖母が突然倒れなければ、私はもう勝己に会うことすらできなかったかもしれない。
深く息を吸って時計を見ると、もう1時間近くが経っていた。盲腸の手術なら、そろそろ終わっているはずだ。
私は再び、勝己と亜実が使っていた手術室の前まで行ってみたが、ふたりの姿はどこにもなかった。
すぐさま電話をかける。3回目でようやく繋がった。
「勝己、手術終わったの?もうおばあちゃんの方に来てくれる?」
「あら理和さん、ごめんなさいね。初めての執刀の成功祝いで、先輩がフレンチをご馳走してくれているんです」
受話器の向こうから、亜実の挑発するような笑い声が響いてくる。
「ふふふ。よかったら、またあとでかけ直してもらえます?」
「あなた!」
歯を食いしばる。今すぐ怒鳴りつけてやりたかった。
「あなたと勝己がどういう関係だろうと、今はどうでもいい。でも今、危篤なのは……勝己を育ててくれたおばあちゃんなの!すぐに代わって!」
「スピーカーにしてますよ。理和さんの大声、こっちまで丸聞こえですよ」
そして、うんざりしたような勝己の声が聞こえてきた。
「理和、いい加減にしろよ。おばあちゃんが病気だなんて嘘までついて俺を呼び戻そうとするなんて、縁起でもないと思わないのか」
言葉を失いそうになった。まだ私が嘘をついていると思っているのか。
怒りを堪え、深く息を吐く。
「勝己、今すぐ戻ってこないと、二度とおばあちゃんに会えなくなる。あなたを、ずっと育ててくれたおばあちゃんに」
勝己は幼い頃、両親を交通事故で亡くしている。その勝己を育て上げたのが、私の祖母だった。学生時代から私たちの結婚に至るまで、祖母は勝己に何の惜しみもなく尽くしてきた。実の孫である私と同じように、勝己にも惜しみない愛情を注いでくれた人だ。
だから、祖母が倒れたと聞いたとき、彼ならきっと助けに来てくれると思っていた。
そう伝えれば、事の重大さに気づいてくれるはずだと思っていた。だが勝己は数秒黙り込んだあと、突然、嘲るように笑い出した。
「はっ、いい加減にしろって。俺を戻らせるためなら、本当にどんな嘘でもつけるんだな。
おばあちゃんは今年の初めからスイスで療養してるんだぞ。帰国してたら俺に連絡がないわけがないだろ。
それを危篤だなんて……そんな縁起でもないこと、よくもぬけぬけと言えるな。あんなに可愛がってもらってたくせに」
絶望に近い思いで、私は続けた。
「おばあちゃんは、私たちの夫婦仲がうまくいってないって聞いて……」
だからこそ、こっそりスイスから帰ってきて、私たちに仲直りしてほしくて……
その言葉を最後まで言い終える前に、電話は一方的に切られた。
かけ直しても、呼び出し音すら鳴らず、すぐに切れてしまうだけだった。
もう、着信拒否にされたのだと分かった。
第3話
真っ暗になった画面を見つめ、私は焦りでじっとしていられなかった。ほかにできることもなく、再び祖母の手術室の前へと戻った。
そこへ戻ると、ちょうど重い表情の医師が出てきたところだった。私を見ると、ため息をつきながら首を横に振った。
「申し訳ありません、理和さん。できる限りのことはしたのですが……
鷹司先生が間に合わず、ほかの医師では限界がありました……今のうちに、お別れをなさってください」
「そんな……そんなはずないっ!」
その場に立ち尽くしていた私は、看護師に支えられるようにして病室へと入った。
ベッドの上、無数の管に繋がれた祖母の姿を見た瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。
「おばあちゃん……ごめんね、私が不甲斐ないばっかりに……」
祖母はもう限界まで衰弱していて、掠れた声はどんどん小さくなっていった。
「理和……泣かないで……先生たちの話は、もう聞いたよ……あの馬鹿な子が、手術をしてくれなかったんだね……
おばあちゃんはいつお迎えが来てもおかしくないから……でも理和はまだ若い……勝己があんたを大事にしないなら、あんな男のために人生を無駄にすることなんてないんだよ……離婚して、自分の人生を歩みなさい……
おばあちゃんはもう……理和のこと、守ってあげられない……これからは、自分で自分を守るんだよ……あんたが幸せに生きてくれたら、おばあちゃん、天国できっと喜ぶから……」
最後の言葉を言い終えると、祖母は私の手をぎゅっと握りしめた。そして、力が抜けるように、そのまま息を引き取った。
「おばあちゃん……っ!」
深い悲しみに襲われ、私は祖母の最期をただ見つめることしかできなかった。
涙が止めどなく溢れ出す。祖母の体に取りすがって、私は声を上げて泣いた。
「お願い、おばあちゃん……行かないで……私を置いていかないでよ……っ!うぅあああ!」
私の実家は、昔から男尊女卑の考えが根強い家だった。両親は長年、私にろくに目を向けてくれたことがない。家庭の温もりというものを、私は祖母からしか知らなかった。
そのたったひとつの温もりさえも、今、完全に失われてしまった。
底なしの絶望に呑まれ、悲しみで目の前が徐々に暗くなっていく。立ち上がろうとした瞬間、体は言うことを聞かず、私はそのまま床に崩れ落ち、意識を失った。
再び目を覚ましたのは、その日の夜だった。祖母の手術を担当した医師の鈴木健一(すずき けんいち)が、傍らで付き添ってくれていた。
私が目を覚ましたのを見て、同情の色を浮かべながら口を開いた。
「鷹司先生にはメッセージを送っておきましたので、じきに来られるかと」
その言葉を聞きながら、私はゆっくりと体を起こし、小さく頷いた。
正直なところ、もう勝己には何の期待も抱いていなかった。ただ、祖母の葬儀だけは、勝己にも協力してもらって、少しでも安らかに見送ってあげたい。それだけだった。
葬儀の手配をしようと携帯電話を取り出し、SNSを開くと、亜実の最新の投稿が目に飛び込んできた。
【大人の男の余裕ってこういうこと。いつだって女の子をお姫様みたいに甘やかしてくれる!】
添えられた写真は、亜実が男性の肩にもたれかかって撮った自撮り。背景には、賑やかなディズニーランドの様子が写り込んでいた。
顔は写っていない。それでも、その男が勝己だということは、ひと目で分かった。
携帯電話を握る手が、勝手に震え出した。
祖母が病院で、手術を待ちながら絶望の中で死んでいったというのに、幼い頃から祖母に育ててもらった勝己は、女を喜ばせるためだけにディズニーランドへ遊びに行っていたのだ!
人でなし……!
あのふたりは、揃いも揃って人でなしだわ!
隣にいた健一も、そのSNSの内容を見てしまったようで、気まずそうな表情を浮かべた。
「ええと……もしかしたら、まだ鷹司先生は私のメッセージを見ていらっしゃらないのかもしれません……」
「あの人は、見たくないものはいつまで経っても見ようとしないんです」
私は深く息を吸い、荒れる感情を無理やり押し込めると、健一に向かって手を差し出した。
「すみません、少しだけ、携帯を貸していただけますか」
「あ、はい、どうぞ」
健一は慌てて携帯電話を差し出した。
第4話
健一から携帯電話を受け取ると、私はすぐに勝己へとかけ直した。数回のコール音のあと、ようやく応答があった。
「もしもし、鈴木か?」
「勝己……」
「亜実、花火のところには近づくなよ。危ないから、こっちに来て!」
私が言葉を発するより早く、勝己の甘い声が受話器から流れてきた。
全身がびくりと震え、同時に猛烈な吐き気がこみ上げてきて、私はその場で胃の中のものを吐き出してしまった。
電話の向こうで、こちらの異変にいち早く気づいた亜実の声がした。
「あら、理和さんですか?鈴木先生の携帯からかけてきてるなんて。先輩、まさかあのふたり、デキてるんじゃない……?」
その含みのある言葉を受けて、勝己の声が一気に低くなった。
「理和、お前……俺に隠れてほかの男とよろしくやってたのか。よくも俺を裏切ったな」
もう、無駄な言葉を重ねる気力すら残っていなかった。
「勝己。明日の朝9時、おばあちゃんの葬儀があるの。最後のお別れができるのは、その時だけだから」
「いい加減にしろよ!」
勝己の声には、はっきりと苛立ちが滲んでいた。
「おばあちゃんはスイスで元気にしてるはずだろ。誰の葬儀だって言うんだよ!
それより、お前と鈴木はどういう関係なんだ。まさかもうヤッてるんじゃ……」
「鷹司先生!」
隣で聞いていた健一が、ついに堪えきれなくなったように携帯を奪い取り、鋭く言い放った。
「理和さんは嘘なんてついていません!おばあ様は本当に亡くなられたんです!死亡診断書は、もう先生宛てにメッセージアプリで送ってあります!うちの病院の正式な書類です。読めばお分かりになるはずです」
受話器の向こうで、十数秒もの沈黙が続いた。やがて勝己の呼吸が、次第に荒くなっていくのが聞こえた。
「そ、そんな……そんなはずない……」